2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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久留米城の建造物は、明治時代初頭の廃城令で撤去され、本丸跡に有馬記念館と篠山神社が建てられました。二の丸・三ノ丸はブリヂストン久留米工場の敷地となり、外郭は市街地となりました。
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『久留米城二ノ丸跡』の文字が刻まれた石標の光景です。道路の向かい側に見えるブリジストン久留米工場は、久留米城跡の二の丸と三の丸跡に建っています。『二の丸』は、本丸の南に位置し、周囲を堀に囲まれた曲輪で、藩主の御殿などが置かれていました。(ウィキペディア)
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『久留米城二ノ丸跡』から眺めた、本丸方面の光景です。『ブリジストン通り』で紹介した『久留米城三ノ丸跡』は、二の丸の南に位置する、周囲を堀に囲まれた方型の曲輪で、御蔵屋敷、御蔵番屋敷、久留米藩の5名の家老の屋敷が置かれていました。(同上)
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左側が『周辺案内』のタイトルがあった地図、右が主要な場所への道案内表示です。出発したJR久留米駅からは丁度1キロ、目的地の久留米城跡までは70メートルの場所でした。久留米城跡には、有馬記念館と篠山神社が併記してありました。(同上)
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イチオシ
前方に見えてきた、久留米城跡の高石垣光景です。久留米城沿革の紹介です。
永正年間(1504~1521年)、地元の土豪が城砦を築いたのが始まりとされます。
近世城郭の始まりは、豊臣秀吉の九州平定後の1587年、毛利元就の子である秀包(ひでかね)が入ってからです。秀包は中世城郭を改築し、秀吉から貰った大坂城の一室をここに移し『大阪書院』と号しました。(同上) -
久留米城沿革紹介の続きです。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで毛利秀包は西軍に属したため改易となりました。翌年、石田三成捕縛で功績を挙げた岡崎城主の田中吉政(1548~1609年)が柳川城に入り、当時支城だった久留米城には、次男の田中吉信(1587~1606年)が3万石で入り、城郭を改修しました。元和6年(1620年)柳川城主・田中忠政が病死、嗣子がいないため田中家は断絶となりました。(同上)
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『有馬記念館』のタイトルがあった案内看板の光景です。久留米藩21万石の大名家だった有馬家に関する展示館です。『有馬記念』の呼び名は、日本中央競馬会(JRA)が中山競馬場で実施する中央競馬の重賞競走として今も有名です。始まりは、華やかな日本ダービーへの対抗心があったようです。(同上)
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こちらの案内看板には、『ほとめきの街・久留米・管区案内マップ』のタイトルがありました。久留米市広域の観光案内でした。久留米城沿革紹介に戻ります。断絶となった田中家に代わり、柳川城には『立花宗茂(1567~1643年)』が入り、久留米城には丹波福知山城から『有馬豊氏(とようじ:1569~1642年)』が入りました。以後、久留米城は有馬氏11代の居城となりました。(同上)
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古い台座の上に置かれたカラフルな案内表示の光景です。『篠山城内ご案内』のタイトルで、篠山神社と有馬記念館が案内されていました。メインは、有馬記念館内の喫茶とレストランの案内のようでした。(同上)
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城跡の清掃で生じた落葉焚きの煙の光景です。久留米城沿革紹介の続きです。有馬豊氏は、知行高に応じた新家臣団の構成と、領内の古城の石材を再利用して石垣を築いたり、堀を構築したり、順次城郭の拡張を行ないました。また、城下町の建設に着手しました。廃城となったのは明治維新後です。(同上)
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落葉焚きの煙は、上から下に向けても漂っていました。その煙越しに眺めた高石垣と堀跡の光景です。縄張図を参照しますと、『冠木門跡』付近からの光景になるようでした。(同上)
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筋肉隆々の狛犬の光景です。口に玉を咥えた、阿形の雄獅子です。久留米城址を守り続けているようでした。元和6年(1620年)12月の有馬豊氏の筑後久留米への加増転封からは400年近く経っていますが、そこまで遡る獅子像ではないようです。(同上)
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同じく、筋肉隆々の狛犬の光景です。こちらは吽形の雌獅子です。雄獅子よりも貫禄がありそうな顔付きの雌獅子でした。明治期に廃城令が出され、城跡に篠山神社が創建されましたので、その頃の獅子像のようです。それでも百年以上は経過しています。(同上)
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吽形の雌獅子の台座には『風隠』の文字が刻まれていました。右から読むのか、左から読むのか迷うところですが、百年以上は経過したらしい、狛犬の風雪から判断して、右から読むようです。(同上)
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阿形の雄獅子の台座も紹介しておきます。こちらには、『波平』の文字が刻まれていました。夏目漱石の七言絶句にも『風穏波平』を詠み込んだ興津の景色を湛えた、『風穏波平七月天 韶光入夏自悠然 出雲帆影白千點 總在水天髣髴邊』があります。(同上)
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2基が並んだ石標の光景です。文字は読み取れませんでしたが、左の石標には寄進者の名前と金額などが刻まれているようでした。その中間にあった小さい石標には、『現祭』、『當社』などの文字が部分的に読み取れましたので、これらの石標は、『篠山神社』に関するものかも知れません。(同上)
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イチオシ
『久留米城本丸址』の文字が刻まれた石標の光景です。本丸の規模は東西約96メートル、南北約156メートル、石垣の高さは約14メートルから15メートル、本丸は中央に本丸御殿、それを取り囲むように巽櫓、艮櫓、乾櫓、坤櫓、西下櫓、太鼓櫓、月見櫓の7棟の櫓が上げられ、ほぼすべてが多門櫓で連結されていました。(同上)
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『久留米城跡』のタイトルがあった説明看板の光景です。戦国時代を経て、元和7年(1621年)、有馬豊氏(とようじ)が丹波福知山から転封・入城し、明治維新まで有馬氏藩主の11代が続いたお城と紹介されていました。(同上)
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『久留米城本丸址』の文字が刻まれた石標が建った付近の石垣のズームアップ光景です。大きさが揃った石材が使われた打込み接ぎの石垣でした。領内の古城の石材も再利用されたようです。(同上)
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文字や図面がかすれてしまっていましたが、左の説明文には『久留米城跡内めぐり』のタイトルが、右側の図面には『久留米城跡案内マップ』のタイトルがありました。城跡の15箇所の見どころが、番号入りで記されていました。(同上)
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布積と乱積が混在したような、打込み接ぎの石垣の光景です。先程の案内図を参照しますと、撮影している場所が『太鼓櫓跡』、前方に見える高石垣が『坤(ひつじさる)櫓跡』になるようです。(同上)
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篠山神社の石畳の桟道と、その先に見えた広い石段の光景です。石段の前には、石灯篭や石標などの光景がありました。石段の上には篠山神社の鳥居と、その先の拝殿の姿が見えました。(同上)
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イチオシ
篠山神社の鳥居と拝殿のズームアップ光景です。ご祭神は、久留米藩の歴代藩主だった五柱です。十五代当主の有馬頼寧(よりやす)公は、農林大臣を務め、中央競馬会第二代理事長でした。頼寧公は様々な政治・社会活動の他、スポーツに対する造詣が深かったことでも有名です。『有馬記念』の競馬レースにも名前を残しました。(同上)
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『太鼓櫓跡』の文字が刻まれた、磨き上げられた黒い御影石の石標の光景です。本丸南に上げられていた三重櫓で、冠木御門の西にありました。現在は櫓台石垣が残っています。(同上)
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『西海忠志之碑』のタイトルがあった銅板プレートです。この後紹介する石碑の経緯などが記されていました。明治維新で亡くなった地元の活動家の慰霊碑でした。真木和泉、水野正名、小河真史、古松簡二などを始めとする数十名と記されていました。明治25年3月、初代久留米市長名での建立でした。(同上)
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銅板プレートの解説文で紹介されていた、『西海忠志之碑』の光景です。正面からは逆光になってしまいました、『西海忠志』の呼び名は、有栖川親王による命名と紹介されていました。有栖川家は江戸時代の四親王家の一つで、後陽成天皇の皇子好仁親王が寛永2年(1625年)高松宮を創立したのに始まります。寛文12年(1672年)に有栖川宮と改称、大正2年(1913)、威仁(たけひと)親王死去により廃絶となりました。(同上)
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石標の裏側からのズームアップ光景です。逆光で文字が詠み辛くなっていましたが、大きな文字で『西海忠志之碑』の文字が刻まれているようでした。有栖川宮 熾仁親王(1835~1895年)による命名と揮毫のようでした。(同上)
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逆光にならない、背面から眺めた『西海忠志之碑』の光景です。平成17年(2005年)3月に起きた、福岡西方沖地震で斃れ、その後有志により再建されたと、先程の銅板プレートの末尾に追記されていました。(同上)
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『有馬記念館』の建物光景です。時間の都合で、入場はしませんでした。『有馬記念館』は、昭和34年(1959年)の久留米市制70周年を記念して、昭和35年に、郷土資料の調査・研究を目的に、当時の株式会社ブリヂストン社長・石橋正二郎氏より寄贈されたものです。市制120周年にあたる平成21年度に改修されました。(同上)
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本丸跡から眺めた、内堀址と、高石垣の光景です。撮影している場所近くに建っていたのが、『太鼓櫓』のようです。戦国時代なら、守りの定石となる、横矢が通せるような石垣構造でした。(同上)
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久留米城跡の城内光景です。久留米城は、江戸時代(1603~1868年)のほとんどとなる、約250年間を治めた有馬氏の居城跡でした。古くは『笹原城』とも呼ばれていたようです。(同上)
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