2018/12/19 - 2018/12/21
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旅人のくまさんさん
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大分と福岡の名城巡りです。小倉城見学の後に昼食にしました。その後で小倉城内にある松本清張記念館を見学しました。私がもっとも愛読した作家です。次に向かったのは、大宰府の守りの一つとして築かれた水城跡です。
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イチオシ
昼食で立ち寄った、小倉城に隣接する建物内にあったレストラン内の窓際席からの光景です。小倉城天守が眺められる場所でした。小倉城天守を眺めながら、つい、二杯の赤ワインを飲んでしまいました。
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レストラン内の窓際席からズームアップした、小倉城天守の光景です。意識して、お店や石を選んだわけではありませんでしたが、運よくお城が正面に見える場所でした。
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建物の名前も知らず、昼食のお店探しをしましたが、『リバーウォーク北九州』に入居していたお店のようでした。食事を終えた後、1階から見上げたビル光景です。2003年(平成15年)4月にオープンした、複合商業施設でした。
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同じく、『リバーウォーク北九州』のビル光景です。ダイナミックな幾何学模様を駆使したデザインでした。『リバーウォーク北九州』の一連の建物設計は、アメリカの複数の建築家によるものです。
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少し離れた場所から眺めた、『リバーウォーク北九州』のビル光景です。昼食に入ったお店は、このガラス窓の眺望が効いたレストランだったようです。場所までは特定できませんが、再訪すれば確認できそうです。
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昼食を終えた後で、もう一度小倉城内に戻りました。今度は、城内にある『松本清張記念館』を見学するためです。お堀に姿を映した建物群の光景です。江戸時代の建物は、すべて焼失しましたので、再建された建物群です。(ウィキペディア)
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こちらは、お堀に姿を映した城内の樹木の光景です。広いお堀のためか、あるいは高く成長した樹木によるものか、石垣が低く見えてしまいました。右半分ほどが野面積で、左側が打込み接ぎの石垣でした。(同上)
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再び紹介する、小倉城の模擬天守の光景です。現在、工事実施中でしたから、入場しての観光は出来ませんでした。内装工事とエレベーター工事が計画されているようでした。(同上)
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工事現場の壁に張られたパネルを個別に紹介した、おもてなしステーションの『しろテラス』の工事現場の光景です。平成31年春オープンと紹介されていましたから、平成の内に完工できるかもしれません。(同上)
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小倉城のの石垣のズームアップ光景です。長辺と短辺を交互に組み合わせた算木積以前の角の部分の石積光景です。角には、巨石が使われていました。『大手門』の外側には、更に『大手口門』がありました。(同上)
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『大手門』から入り、坂を上る途中の光景です。松本清張記念館に向かう経路として選びました。松本清張(1909~1992年)は、私が最も好きな作家でした。写真の右端に『大手門跡』の石標が見えていました。(同上)
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小口の光景です。右端近くに見える石標には、『槻門(けやきもん)跡』の文字がありました。槻門は、城主や家老などの身分の高い武士や主な寺の住職のみが通行を許された門とされます。『鉄(くろがね)門』と同様に、『槻門』は松の丸と本丸とをつなぐ門でした。(同上)
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正面から眺めた、『槻門(けやきもん)跡』の光景です。随分と幅広い通路ですが、大量の兵員を移動するためか、あるいは、威信を見せつけるための造りかも知れません。特定の高貴な人だけの通行目的だけではなさそうです。(同上)
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先程の『槻門(けやきもん)』よりは、幅が狭くなった門跡の光景です。写真の右端に「鉄(くろがね)門跡」の石標がありました。右の石垣は新しく、左の石垣は古く変色しています。これは、明治維新に向けた幕末の動乱の中、小倉城が落城した際に火熱を受け、赤く焼け焦げた跡だと言われています。この鉄門は、中老以下の一般武士が登城するときに利用した門とされます。(同上)
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『松本清張記念館』の正面玄関前にあった、展示案内の施設です。右側のポスターは、『砂の器』の展示案内です。開館10周年にあたる2008年(平成20年)には、第56回菊池寛賞を受賞しました。受賞の理由は、『地方財政が厳しい折、水準の高い研究誌を刊行しつつ、多彩な企画展を催すなど、健闘しながら開館10周年を迎えた』ことによります。(同上)
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イチオシ
『松本清張記念館』の建物光景です。小倉城址域の南西端の一角に1998年(平成10年)8月に開館しました。 作家・松本清張の生涯と業績にかかわる展示を行う文学館です。東京都杉並区高井戸の自宅の外観をはじめ、遺族から寄贈を受け、書斎や書庫・応接間を、清張が亡くなった当時の状態で忠実に再現した展示室は感慨深いものがありました。(同上)
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『松本清張記念館』の玄関前の光景が続きます。小倉城跡に北九州市が設立した、小倉に縁が深い松本清張の文学記念館です。その城跡に相応しいデザインの『北九州市立・松本清張記念館』の文字が刻まれた石製の表札です。(同上)
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ここからは、小倉城と松本清張記念館の見学を終え、次の見学地の『水城(みずき)』に向かう途中の光景です。まだ小倉城の脇ですが、現在位置に『清張通り』の展示がありました。(同上)
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先程の観光案内地図の横に、『清張通り』のタイトルがあった説明看板がありました。右側の写真に赤い線施記された、北側の西小倉駅から、南側の木町交番前の交差点までのほぼ直線の区間でした。延長約1800メートルと紹介されていました。(同上)
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『清張通り』に面した小倉城のお堀の光景です。2009年(平成21年)、北九州市などが清張の生誕100年を記念した各種イベントを展開したこともあり、記念館の入館者が増え、まさに『100歳の誕生日』の2日前となった12月19日に、累計入館者が100万人に達しました。(同上)
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JR西小倉駅に向かって、ほぼ真直ぐに北に伸びる『清張通り』の光景です。松本清張記念館は、文藝春秋で長年清張の担当編集者だった藤井康栄さん(1934~)が館長を務めています。福岡県北九州市に松本清張記念館誘致の動きが起こり、文藝春秋公認のもと北九州市の誘致委員会に参加された方です。1995年に文藝春秋を退社、1998年から館長を務められました。(同上)
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『清張通り』から眺めた、小倉城のお堀と石垣光景が続きます。北側になる左手が八坂神社、右手が小倉城のエリアになるようです。八坂神社の背後には、昼食に立寄った、『リバーウォーク北九州』方面の建物も見えていました。(同上)
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同じく、『清張通り』から振り返って眺めた、小倉城のお堀と石垣光景です。右手前方に見える、お堀を埋め立てたらしい場所を渡って清張記念館からここまでやって来ました。(同上)
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お堀に面した『清張通り』はまだ続きますが、撮影はここまでです。邪馬台国論争に火をつけたのは、宮崎康平(1917~1980年)さんの『幻の邪馬台国』でしたが、松本清張さんも邪馬台国論争に一家言を持った方でした。『古代史疑』などの著作のほか、小説の『火の路』等も読み漁りました。この小説は、斉明天皇や天智天皇の時代を背景にした、『水城』などの時代と重なります。(同上)
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『清張通り』を歩いて、西小倉駅に到着しました。西小倉駅からは、博多駅経由で水城(みずき)までの電車での移動です。水城まで直通の電車もあるようでしたが、この時間帯では乗継の快速電車を選択しました。切符は予め、大分から博多経由で水城までと、水城から博多までの継続乗車で購入しておきました。(同上)
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『ふるさと水城跡公園』の表札があった休憩所の光景です。『水城(みずき)』は、7世紀中頃に現在の大野城市から太宰府市にかけて、国防の施設として造られた水城の跡地で、現在は国の特別史跡です。その広さは約15万平方メートルとされます。(同上)
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留まっている車は1台もありませんでしたが、『ふるさと水城跡公園』の駐車場のようでした。駐車の線引きがしてありませんでしたから、駐車場ではなく、団体見学のための集合広場かも知れません。周りに、売店などの光景はありませんでした。(同上)
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『特別史跡・水城城』のタイトルがあった説明パネルの光景です。航空写真の上に、水城跡の国指定のエリアが赤い線で囲ってありました。その広さが約15万平方メートルのようです。天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江の戦いに敗れた倭国には、唐・新羅軍侵攻の脅威があり、防衛体制の整備が急務とされ、そのために築かれた城の一つが水城です。(同上)
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こちらのパネルには、『大野城市文化財めぐり』のタイトルがありました。大野城跡や、水城跡などです。天智天皇3年(664年)の唐使来朝は、倭国の警戒を強めさせました。この年、倭国は辺境防衛の防人、情報伝達システムの烽(とぶひ)を対馬島・壱岐島・筑紫国などに配備し、敗戦の翌年に筑紫国に水城を築き、その翌年に大野城が築かれました。(同上)
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こちらが水城跡見学のメインとなる場所です。この後紹介する、版築で築かれた土塁の断面展示や、工法についての説明がありました。水城や大野城、基肄城が築かれたのは、すべて大宰府の防衛のためでした。また、天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整えました。(同上)
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