久留米旅行記(ブログ) 一覧に戻る
かつての久留米城の本丸には、七つの櫓がありました。南面には坤櫓(ひつじさるやぐら)、太鼓櫓(たいこやぐら)と巽櫓(たつみやぐら)、東面には月見櫓(つきみやぐら)と艮櫓(うしとらやぐら)、西面が乾櫓(いぬいやぐら)と西下櫓(にししたやぐら)でした。

2018暮、大分の日本百名城(27/31):12月21日(3):久留米城(3):篠山神社、筑後川

24いいね!

2018/12/19 - 2018/12/21

38位(同エリア255件中)

旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

かつての久留米城の本丸には、七つの櫓がありました。南面には坤櫓(ひつじさるやぐら)、太鼓櫓(たいこやぐら)と巽櫓(たつみやぐら)、東面には月見櫓(つきみやぐら)と艮櫓(うしとらやぐら)、西面が乾櫓(いぬいやぐら)と西下櫓(にししたやぐら)でした。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル

PR

  • 『有馬記念館』の前付近から眺めた、本丸の松の木の光景です。『有馬記念館』の北側に隣接した場所に篠山(ささやま)神社の社務所があり、その受付に続百名城スタンプが置いてありました。今回は日本百名城巡りの総仕上げですが、次の続日本百名城巡りも開始しました。(ウィキペディア)

    『有馬記念館』の前付近から眺めた、本丸の松の木の光景です。『有馬記念館』の北側に隣接した場所に篠山(ささやま)神社の社務所があり、その受付に続百名城スタンプが置いてありました。今回は日本百名城巡りの総仕上げですが、次の続日本百名城巡りも開始しました。(ウィキペディア)

  • 『有馬記念館』の近くから見下ろした、東南方面の光景になるようです。眼下に、石段の下の灯籠などが見えていました。左手に見える石垣は、本丸の大手虎口にあった桝形門の『冠木御門(かぶきごもん)』の内側になるようです。(同上)

    『有馬記念館』の近くから見下ろした、東南方面の光景になるようです。眼下に、石段の下の灯籠などが見えていました。左手に見える石垣は、本丸の大手虎口にあった桝形門の『冠木御門(かぶきごもん)』の内側になるようです。(同上)

  • 黒く変色してしまった、『篠山神社』の扁額が架かった石の鳥居の光景です。鳥居から続く石畳の参道の先に、篠山神社の拝殿が見えていました。明治の廃城令後、久留米の有志達は、城郭になる以前から神聖な場所とされていた本丸址のこの丘に神社の設立に動きました。明治10年(1877年)、250年の藩政の中でもとりわけ名君の声高い初代豊氏公、十代頼永公を御祭神として御霊社が建立されました。(同上)

    イチオシ

    黒く変色してしまった、『篠山神社』の扁額が架かった石の鳥居の光景です。鳥居から続く石畳の参道の先に、篠山神社の拝殿が見えていました。明治の廃城令後、久留米の有志達は、城郭になる以前から神聖な場所とされていた本丸址のこの丘に神社の設立に動きました。明治10年(1877年)、250年の藩政の中でもとりわけ名君の声高い初代豊氏公、十代頼永公を御祭神として御霊社が建立されました。(同上)

  • 神社は、2年後の明治12年(1879年)、県社に列せられ、その後、7代頼徸公、11代頼咸公、14代頼寧公が祀られ、御祭神は五柱となり現在に至ります。写真は、右後ろが『東郷元帥旧書斎由来記』、左後ろが「芭蕉塚」の石碑の光景です。その前の立札には、『芭蕉塚』の説明がありました。(同上)

    神社は、2年後の明治12年(1879年)、県社に列せられ、その後、7代頼徸公、11代頼咸公、14代頼寧公が祀られ、御祭神は五柱となり現在に至ります。写真は、右後ろが『東郷元帥旧書斎由来記』、左後ろが「芭蕉塚」の石碑の光景です。その前の立札には、『芭蕉塚』の説明がありました。(同上)

  • 『東郷元帥旧書斎由来記』のタイトルがあった石造の由緒記の光景です。『東郷平八郎(1848~1934年)は、幕末から昭和時代初めの武士(薩摩藩士)、海軍軍人です。東郷元帥が大差の時代に使用していた書斎の由緒が紹介されていました。日本海海戦の完勝で、世界三大提督(ジョン・ポール・ジョーンズ、ホレーショ・ネルソン、東郷平八郎)の一人に称されています。(同上)

    『東郷元帥旧書斎由来記』のタイトルがあった石造の由緒記の光景です。『東郷平八郎(1848~1934年)は、幕末から昭和時代初めの武士(薩摩藩士)、海軍軍人です。東郷元帥が大差の時代に使用していた書斎の由緒が紹介されていました。日本海海戦の完勝で、世界三大提督(ジョン・ポール・ジョーンズ、ホレーショ・ネルソン、東郷平八郎)の一人に称されています。(同上)

  • 一見、禅問答を形にしたようなモニュメント風の石碑でしたが、先に紹介した立札には、『芭蕉塚』として紹介されていました。その内容は、『まづ頼む椎の木も在り夏木立・芭蕉』と解読されていました。(同上)

    一見、禅問答を形にしたようなモニュメント風の石碑でしたが、先に紹介した立札には、『芭蕉塚』として紹介されていました。その内容は、『まづ頼む椎の木も在り夏木立・芭蕉』と解読されていました。(同上)

  • 砲弾のような記念碑が垣間見えた、東郷元帥所縁の建物です。移築された旧書斎でした。立入り禁止になっていましたが、かつて撮影された写真には、『東郷元帥旧書斎』の文字が刻まれていました。城内案内図には、『東郷記念館』と記されていました。(同上)

    イチオシ

    砲弾のような記念碑が垣間見えた、東郷元帥所縁の建物です。移築された旧書斎でした。立入り禁止になっていましたが、かつて撮影された写真には、『東郷元帥旧書斎』の文字が刻まれていました。城内案内図には、『東郷記念館』と記されていました。(同上)

  • 道案内標識の光景です。左面に左向きの矢印で『乾櫓跡・井戸』が、右向きの矢印で『有馬記念館』が、右面に手前向きの矢印で『東郷記念館』が表示されていました。上部に記された家紋は、竜胆紋の一つで、『竜胆車(りんどうぐるま)』です。村上源氏(中院流)の総本家の久我山竜胆に類似しています。久我家(こがけ)の支流に有馬氏の名があります。(同上)

    道案内標識の光景です。左面に左向きの矢印で『乾櫓跡・井戸』が、右向きの矢印で『有馬記念館』が、右面に手前向きの矢印で『東郷記念館』が表示されていました。上部に記された家紋は、竜胆紋の一つで、『竜胆車(りんどうぐるま)』です。村上源氏(中院流)の総本家の久我山竜胆に類似しています。久我家(こがけ)の支流に有馬氏の名があります。(同上)

  • 『正一位・大乗院稲荷神社』の文字の扁額が架かった赤い鳥居の光景です。稲荷社の正一位は、京都・伏見稲荷大社の祭神の『宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)』に朝廷から授与された神階が始まりです。この神階が全国に勧請、分祀された稲荷社に広まりました。天慶5年(942年)に朱雀天皇より最高位の『正一位』の神階を授か利ました。(同上)

    『正一位・大乗院稲荷神社』の文字の扁額が架かった赤い鳥居の光景です。稲荷社の正一位は、京都・伏見稲荷大社の祭神の『宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)』に朝廷から授与された神階が始まりです。この神階が全国に勧請、分祀された稲荷社に広まりました。天慶5年(942年)に朱雀天皇より最高位の『正一位』の神階を授か利ました。(同上)

  • 木々の間から見えていた、篠山神社の社殿の光景です。最も古い神社建築様式とされる、伊勢神宮に代表される神明造のようです。神社の屋根に交差して伸びている2本の板木を千木(ちぎ)と呼び、水平に並べて置かれた丸太状の木を鰹木(かつおぎ)と呼んでいます。(同上)<br />

    木々の間から見えていた、篠山神社の社殿の光景です。最も古い神社建築様式とされる、伊勢神宮に代表される神明造のようです。神社の屋根に交差して伸びている2本の板木を千木(ちぎ)と呼び、水平に並べて置かれた丸太状の木を鰹木(かつおぎ)と呼んでいます。(同上)

  • 小倉城跡に建つ、篠山神社の境内光景です。参道の側面は石柱で区画され、入口には石柱が建っていました。左端に見える石碑には、『石人首級碑』の文字が刻まれていました。『これは、筑後上妻郡吉田村(現八女市吉田)の石人山にある、筑後国造磐井が生存中につくった墳墓にかざられていた石人の首の残片である』と碑文が解説されていました。(同上)

    小倉城跡に建つ、篠山神社の境内光景です。参道の側面は石柱で区画され、入口には石柱が建っていました。左端に見える石碑には、『石人首級碑』の文字が刻まれていました。『これは、筑後上妻郡吉田村(現八女市吉田)の石人山にある、筑後国造磐井が生存中につくった墳墓にかざられていた石人の首の残片である』と碑文が解説されていました。(同上)

  • 本丸の北側から眺めた、筑後川の光景です。筑後川は、阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に流れ、有明海に注ぐ1級河川です。流路延長143.0キロ、流域面積約2,860平方キロの河川で、規模としては九州地方最大の河川です。(同上)

    本丸の北側から眺めた、筑後川の光景です。筑後川は、阿蘇山を水源として九州地方北部を東から西に流れ、有明海に注ぐ1級河川です。流路延長143.0キロ、流域面積約2,860平方キロの河川で、規模としては九州地方最大の河川です。(同上)

  • 同じく、今日は穏やかな流れの筑後川の光景です。坂東太郎の呼び名をもつ利根川、四国三郎の呼び名を持つ吉野川とともに、日本三大暴れ川の一つです。筑紫次(二)郎(つくしじろう)の別名で呼ばれることもあります。(同上)

    同じく、今日は穏やかな流れの筑後川の光景です。坂東太郎の呼び名をもつ利根川、四国三郎の呼び名を持つ吉野川とともに、日本三大暴れ川の一つです。筑紫次(二)郎(つくしじろう)の別名で呼ばれることもあります。(同上)

  • 武田巌雄の歌碑『西山暮雪』です。『ねぐらとふ鳥こそ迷へくれなゐに 入日の山の雪の夕暮れ』の1首です。武田巌雄(1833~1893年)は、江戸時代の久留米藩の藩士で、神職だった人です。藩の国事方周旋役として京都で活動し、維新後に三潴郡青木村で家塾泡来舎を開き、明治5年学制発布とともに小学校を創設、のち高良神社禰宜を経て篠山神社祠官となりました。(同上) 

    武田巌雄の歌碑『西山暮雪』です。『ねぐらとふ鳥こそ迷へくれなゐに 入日の山の雪の夕暮れ』の1首です。武田巌雄(1833~1893年)は、江戸時代の久留米藩の藩士で、神職だった人です。藩の国事方周旋役として京都で活動し、維新後に三潴郡青木村で家塾泡来舎を開き、明治5年学制発布とともに小学校を創設、のち高良神社禰宜を経て篠山神社祠官となりました。(同上) 

  • 現在は篠山神社の神社のように見えた、久留米城跡の本丸光景です。本丸西面には、水手御門(みずのてごもん)、乾櫓(いぬいやぐら)、西下櫓(にししたやぐら)等がありました。(同上)

    現在は篠山神社の神社のように見えた、久留米城跡の本丸光景です。本丸西面には、水手御門(みずのてごもん)、乾櫓(いぬいやぐら)、西下櫓(にししたやぐら)等がありました。(同上)

  • 『三木一雄文学碑』の光景です。代表作の『ロバと黄昏』の一節が紹介されていました。新潮社が主催する同人雑誌文学賞の第10回(昭和37年/1962年度)の候補作となった作品です。第2回(昭和30年/1955年)には『農婢』が候補作になっています。 『三木一雄(1920~?年)』は、久留米市篠山で生まれた作家です。(同上)

    『三木一雄文学碑』の光景です。代表作の『ロバと黄昏』の一節が紹介されていました。新潮社が主催する同人雑誌文学賞の第10回(昭和37年/1962年度)の候補作となった作品です。第2回(昭和30年/1955年)には『農婢』が候補作になっています。 『三木一雄(1920~?年)』は、久留米市篠山で生まれた作家です。(同上)

  • 白い『サザンカ(山茶花)』の花の光景です。ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹で、冬を彩る花木の代表の一つです。サザンカは、サザンカ群、カンツバキ群とハルサザンカ群とに分類され、サザンカ群以外はツバキとの交雑種です。(同上)

    白い『サザンカ(山茶花)』の花の光景です。ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹で、冬を彩る花木の代表の一つです。サザンカは、サザンカ群、カンツバキ群とハルサザンカ群とに分類され、サザンカ群以外はツバキとの交雑種です。(同上)

  • 白い八重咲の『サザンカ(山茶花)』の花のズームアップ光景です。鋭角的な感じがする花弁でした。原種のサザンカは特に寒さに強いわけではありませんが、品種改良された園芸種には寒さに強く、真冬でも花を咲かせる品種が多くあります。(同上)

    白い八重咲の『サザンカ(山茶花)』の花のズームアップ光景です。鋭角的な感じがする花弁でした。原種のサザンカは特に寒さに強いわけではありませんが、品種改良された園芸種には寒さに強く、真冬でも花を咲かせる品種が多くあります。(同上)

  • 本丸跡から眺めた、筑後川の光景です。川下方面になるようです。阿蘇山に源を発し、福岡県と佐賀県との県境で、有明海に北側から注ぎます。筑後川は、流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートル、規模としては九州地方最大の河川です。(同上)

    イチオシ

    本丸跡から眺めた、筑後川の光景です。川下方面になるようです。阿蘇山に源を発し、福岡県と佐賀県との県境で、有明海に北側から注ぎます。筑後川は、流路延長143.0キロメートル、流域面積約2,860平方キロメートル、規模としては九州地方最大の河川です。(同上)

  • 『乾櫓跡』の文字が刻まれた黒御影石らしい石標の光景です。本丸北西(戌亥の方角)に上げられていた三重櫓跡です。北側の多聞櫓跡とともに櫓台石垣は現存しません。かつての七つの櫓の内の一つであることが紹介されていました。(同上)

    『乾櫓跡』の文字が刻まれた黒御影石らしい石標の光景です。本丸北西(戌亥の方角)に上げられていた三重櫓跡です。北側の多聞櫓跡とともに櫓台石垣は現存しません。かつての七つの櫓の内の一つであることが紹介されていました。(同上)

  • 夥しい瓦が散乱したままになっていた本丸跡の光景です。久留米城内の発掘調査状況の紹介です。昭和34年(1959年)に本丸の石組み溝が調査されましたが、その後は調査が行われず、本格的に発掘調査が開始されたのは、外堀の一部が調査された平成2年(1990年)以後のこととなります。平成元年(1989年)から平成17年度(2005年)までの50回の調査結果がネット公表されていました。(同上)

    夥しい瓦が散乱したままになっていた本丸跡の光景です。久留米城内の発掘調査状況の紹介です。昭和34年(1959年)に本丸の石組み溝が調査されましたが、その後は調査が行われず、本格的に発掘調査が開始されたのは、外堀の一部が調査された平成2年(1990年)以後のこととなります。平成元年(1989年)から平成17年度(2005年)までの50回の調査結果がネット公表されていました。(同上)

  • 久留米城内の発掘調査状況の紹介の続きです。城内では、藩の上・中級武士の屋敷があった外郭で11地点の調査が行われ、屋敷境の溝や井戸、地下蔵などが見つかっています。先に紹介した、15次ほどの50回の調査の一覧にざっと目を通しましたが、本丸区域の発掘調査は含まれていないようでした。主に侍屋敷と城下町などでした。(同上)

    久留米城内の発掘調査状況の紹介の続きです。城内では、藩の上・中級武士の屋敷があった外郭で11地点の調査が行われ、屋敷境の溝や井戸、地下蔵などが見つかっています。先に紹介した、15次ほどの50回の調査の一覧にざっと目を通しましたが、本丸区域の発掘調査は含まれていないようでした。主に侍屋敷と城下町などでした。(同上)

  • 古い石標のズームアップ光景です。『福岡県』と『79』の数字だけが読み取れませんでした。道標だったかも知れません。後方に見えているのは、稲荷神社の赤い社殿のようです。(同上)

    古い石標のズームアップ光景です。『福岡県』と『79』の数字だけが読み取れませんでした。道標だったかも知れません。後方に見えているのは、稲荷神社の赤い社殿のようです。(同上)

  • 本丸の北西端付近から眺めた、南側方面の光景です。幕末から、明治の初めの頃の久留米城の年表の紹介です。『○文久3年(1863年):江戸定住の士・足軽とその家族約300名が久留米ヘ帰国。翌年十二軒屋に新屋敷を建て移住させる。(江戸屋敷と呼ばれる)、○明治5年(1872年):I久留米城の解体始まる。御殿・家老屋敷・大手門はじめ諸門が解体され、跡地は払い下げられる。』(同上)

    本丸の北西端付近から眺めた、南側方面の光景です。幕末から、明治の初めの頃の久留米城の年表の紹介です。『○文久3年(1863年):江戸定住の士・足軽とその家族約300名が久留米ヘ帰国。翌年十二軒屋に新屋敷を建て移住させる。(江戸屋敷と呼ばれる)、○明治5年(1872年):I久留米城の解体始まる。御殿・家老屋敷・大手門はじめ諸門が解体され、跡地は払い下げられる。』(同上)

  • 久留米城の年表の紹介の続きです。『○明治7年(1874年):久留米城廃城、○明治8年(1875年):久留米城の土居を壊し、堀の大部分が埋め立てられる』、以上が発掘調査資料の一部として紹介されていた出来事です。写真は、本丸北端の土塁らしい場所の光景です。夥しい瓦の散乱が続いていました。(同上)

    久留米城の年表の紹介の続きです。『○明治7年(1874年):久留米城廃城、○明治8年(1875年):久留米城の土居を壊し、堀の大部分が埋め立てられる』、以上が発掘調査資料の一部として紹介されていた出来事です。写真は、本丸北端の土塁らしい場所の光景です。夥しい瓦の散乱が続いていました。(同上)

  • 次は、江戸時代から今日まで、久留米城の主な工事と、その周辺で起きた大きな災害など、発掘調査に残る可能性がある出来事の紹介です。『○元和7年(1621年):有馬豊氏が久留米藩主となる。本格的な久留米城の大改造、寺町など城下町の整備がはじまる。○寛永8年(1631年):加藤氏・黒田氏の協力を得て、久留米城の堀が完成。○正保元年(1644年):本丸を修築。』(同上)

    次は、江戸時代から今日まで、久留米城の主な工事と、その周辺で起きた大きな災害など、発掘調査に残る可能性がある出来事の紹介です。『○元和7年(1621年):有馬豊氏が久留米藩主となる。本格的な久留米城の大改造、寺町など城下町の整備がはじまる。○寛永8年(1631年):加藤氏・黒田氏の協力を得て、久留米城の堀が完成。○正保元年(1644年):本丸を修築。』(同上)

  • 『○慶安5年(1651年):三本松より櫛原鷹匠小路までの堀(外堀)できる。○明暦元年(1655年):久留米城京隈口付近の土橋や堀、土居ができる。○元禄9年(1696年):城下町大火(白石火事)、城下町の大半が焼失。』等です。また、江戸時代の初めから、今日に至るまで、内陸の久留米方面を襲った地震や津波被害は記録されていないようです。(同上)

    『○慶安5年(1651年):三本松より櫛原鷹匠小路までの堀(外堀)できる。○明暦元年(1655年):久留米城京隈口付近の土橋や堀、土居ができる。○元禄9年(1696年):城下町大火(白石火事)、城下町の大半が焼失。』等です。また、江戸時代の初めから、今日に至るまで、内陸の久留米方面を襲った地震や津波被害は記録されていないようです。(同上)

  • 次は、平成元年(1989年)から平成17年度(2005年)までの50回の調査結果から、主なものの紹介です。『櫛原侍屋敷跡』では、城の東側に所在する100~300石取りの中級武士の屋敷があり、8地点の調査が行われ、第3次調査では、古文書に記録がある『人が立って歩ける程の大きな湿抜きの溝Jと考えられる深い溝と、当時の最高級品の鍋島焼の皿が出土しました。(同上)

    次は、平成元年(1989年)から平成17年度(2005年)までの50回の調査結果から、主なものの紹介です。『櫛原侍屋敷跡』では、城の東側に所在する100~300石取りの中級武士の屋敷があり、8地点の調査が行われ、第3次調査では、古文書に記録がある『人が立って歩ける程の大きな湿抜きの溝Jと考えられる深い溝と、当時の最高級品の鍋島焼の皿が出土しました。(同上)

  • 『京隈侍屋敷』では、城の西側に所在する上・中級の侍屋敷で、5地点の調査が行われました。第3次調査では武家屋敷と町屋の境と考えられる溝が見つかり、それぞれ石の組み方が違うことがわかりました。『庄島侍屋敷』は、中・下級武士の屋敷や職人の長屋が建ち並んでいた場所で、6地点が調査されました。穴蔵やごみ穴などが多数見つかり、第6次調査では金箔皿が見つかりました。(同上)

    『京隈侍屋敷』では、城の西側に所在する上・中級の侍屋敷で、5地点の調査が行われました。第3次調査では武家屋敷と町屋の境と考えられる溝が見つかり、それぞれ石の組み方が違うことがわかりました。『庄島侍屋敷』は、中・下級武士の屋敷や職人の長屋が建ち並んでいた場所で、6地点が調査されました。穴蔵やごみ穴などが多数見つかり、第6次調査では金箔皿が見つかりました。(同上)

  • 『十問屋敷侍屋敷』は、100~300石の中級武士の屋敷や上級武士の中屋敷など<br />があった場所です。発掘調査は1地点の調査が行われたのみで、詳しいことはまだ不明です。『久留米城下町遺跡の調査』は、平成元年に行われた三本松町遺跡の調査を始めとして、現在15地点の調査が行われています。(同上)

    『十問屋敷侍屋敷』は、100~300石の中級武士の屋敷や上級武士の中屋敷など
    があった場所です。発掘調査は1地点の調査が行われたのみで、詳しいことはまだ不明です。『久留米城下町遺跡の調査』は、平成元年に行われた三本松町遺跡の調査を始めとして、現在15地点の調査が行われています。(同上)

24いいね!

利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。 問題のある投稿を連絡する

コメントを投稿する前に

十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?

サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)

報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。

旅の計画・記録

マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?

フォートラベル公式LINE@

おすすめの旅行記や旬な旅行情報、お得なキャンペーン情報をお届けします!
QRコードが読み取れない場合はID「@4travel」で検索してください。

\その他の公式SNSはこちら/

タグから国内旅行記(ブログ)を探す

PAGE TOP