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かつての小倉城は、本丸を中心に、南に松丸、北に北の丸、それらを囲い込むように二の丸、三の丸、外郭が配された梯郭式平城でした。建物は、野面積みの石垣の上に大天守と小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271を配していました。江戸時代初期の大名、細川忠興(ただおき)が大改修した城です。

2018暮、大分の日本百名城(20/31):12月20日(10):小倉城(1):堀と石垣、八坂神社

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

かつての小倉城は、本丸を中心に、南に松丸、北に北の丸、それらを囲い込むように二の丸、三の丸、外郭が配された梯郭式平城でした。建物は、野面積みの石垣の上に大天守と小天守1基、平櫓117、二重櫓16、櫓門12、狭間3271を配していました。江戸時代初期の大名、細川忠興(ただおき)が大改修した城です。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル
  • 内堀か外堀か判断できませんでしたが、小倉城のお堀と石垣の光景です。西小倉駅から歩いて、10分ほどの距離でした。静かな水面に、その石垣と城内の樹木が写り込んでいました。(ウィキペディア)

    イチオシ

    内堀か外堀か判断できませんでしたが、小倉城のお堀と石垣の光景です。西小倉駅から歩いて、10分ほどの距離でした。静かな水面に、その石垣と城内の樹木が写り込んでいました。(ウィキペディア)

  • 同じく、小倉城のお堀と石垣の光景です。右側に見る道路の街路樹もお堀の水面に移り込んでいました。道路側は低い石垣ですが、お城の石垣と同じように古い石垣のように見えました。(同上)

    同じく、小倉城のお堀と石垣の光景です。右側に見る道路の街路樹もお堀の水面に移り込んでいました。道路側は低い石垣ですが、お城の石垣と同じように古い石垣のように見えました。(同上)

  • 小倉城のお堀と石垣の光景が続きます。小倉城の創建は13世紀中頃とされます。紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれ、近世の江戸時代前後に毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興が南蛮造の天守などを建てました。江戸期以前の建物は、第二次長州征討で小倉藩自らによる焼却で全て失われたました。(同上)

    小倉城のお堀と石垣の光景が続きます。小倉城の創建は13世紀中頃とされます。紫川河口西岸にあった丘に築かれたといわれ、近世の江戸時代前後に毛利勝信が現在見られるような縄張で総石垣造の城郭を築き、細川忠興が南蛮造の天守などを建てました。江戸期以前の建物は、第二次長州征討で小倉藩自らによる焼却で全て失われたました。(同上)

  • 1866年(慶応2年)、第二次長州征討で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決めました。同年8月1日、小倉藩の付火により小倉城を焼却し、幼少の藩主は熊本藩に退避、家老以下の藩首脳は香春で指揮を執りました。1867年(慶応3年)、長州藩と小倉藩で和平が成立しました。戦いの後に残ったのは、一部の石垣と堀だけでした。(同上)

    1866年(慶応2年)、第二次長州征討で小倉藩と長州藩の戦闘の際、小倉藩は長州藩の攻勢の前に小倉城撤退を決めました。同年8月1日、小倉藩の付火により小倉城を焼却し、幼少の藩主は熊本藩に退避、家老以下の藩首脳は香春で指揮を執りました。1867年(慶応3年)、長州藩と小倉藩で和平が成立しました。戦いの後に残ったのは、一部の石垣と堀だけでした。(同上)

  • 長州藩と小倉藩の和平が成立したものの、小倉城を含む企救郡は長州藩の預りとされ、引き続き占領されたままとなりました。以後も小倉藩庁は香春に置かれ、1870年(明治2年)に京都郡豊津(現在のみやこ町)に藩庁を新設し移転しました。天守、櫓、庭園と大名屋敷が再建されたのは、第二次大戦後です。(同上)

    長州藩と小倉藩の和平が成立したものの、小倉城を含む企救郡は長州藩の預りとされ、引き続き占領されたままとなりました。以後も小倉藩庁は香春に置かれ、1870年(明治2年)に京都郡豊津(現在のみやこ町)に藩庁を新設し移転しました。天守、櫓、庭園と大名屋敷が再建されたのは、第二次大戦後です。(同上)

  • 小倉城の敷地の一角に建つ、『八坂神社』の入口になる楼門光景です。社伝には、『鷹狩りに出かけた細川忠興公が小さな祇園社の祠の中のご神体を見ようと杖でこじ開けようとしたところ、中から一羽の鷹が飛び出し、忠興公の目を蹴りました。忠興公は、神様に対して非礼を働いた神罰だと深く反省し、荘厳な社殿を建立し、これにより忠興公の目も快癒した』と伝えられています。(同上)

    小倉城の敷地の一角に建つ、『八坂神社』の入口になる楼門光景です。社伝には、『鷹狩りに出かけた細川忠興公が小さな祇園社の祠の中のご神体を見ようと杖でこじ開けようとしたところ、中から一羽の鷹が飛び出し、忠興公の目を蹴りました。忠興公は、神様に対して非礼を働いた神罰だと深く反省し、荘厳な社殿を建立し、これにより忠興公の目も快癒した』と伝えられています。(同上)

  • 完全な逆光での撮影になってしまいましたが、『八坂神社』の扁額が架かった鳥居の光景です。この八坂神社は、870年(貞観12年)に祇園社として創建され、1617年(元和3年)に小倉藩の総鎮守とされました。(同上)<br />

    完全な逆光での撮影になってしまいましたが、『八坂神社』の扁額が架かった鳥居の光景です。この八坂神社は、870年(貞観12年)に祇園社として創建され、1617年(元和3年)に小倉藩の総鎮守とされました。(同上)

  • 『八坂神社』の拝殿光景です。京都市東山区祇園町北側にある八坂神社は、全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社、約2,300社の総本社とされます。通称は、『祇園さん』です。(同上)

    イチオシ

    『八坂神社』の拝殿光景です。京都市東山区祇園町北側にある八坂神社は、全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社、約2,300社の総本社とされます。通称は、『祇園さん』です。(同上)

  • 『八坂神社』の『受付授与所』の光景です。八坂神社は、小倉藩主・細川忠興が元和3年(1617年)に、小倉藩の総鎮守として祇園社を鋳物師町(いもじまち)に創建したことに由来します。明治時代には祇園社から八坂神社へと名称が変わり、昭和初期に小倉城内の現在の場所に移設されました。(同上)

    『八坂神社』の『受付授与所』の光景です。八坂神社は、小倉藩主・細川忠興が元和3年(1617年)に、小倉藩の総鎮守として祇園社を鋳物師町(いもじまち)に創建したことに由来します。明治時代には祇園社から八坂神社へと名称が変わり、昭和初期に小倉城内の現在の場所に移設されました。(同上)

  • 『八坂神社』の『手水舎』の光景です。映画『無法松の一生』で有名になった小倉祇園祭は、この八坂神社の夏の例大祭です。約400年の歴史を持ち、祭りで披露される小倉祇園太鼓は、福岡県の指定無形民俗文化財に指定されています。 (同上)

    『八坂神社』の『手水舎』の光景です。映画『無法松の一生』で有名になった小倉祇園祭は、この八坂神社の夏の例大祭です。約400年の歴史を持ち、祭りで披露される小倉祇園太鼓は、福岡県の指定無形民俗文化財に指定されています。 (同上)

  • 『月仰ぐ一途に生きし来し方よ』の文字が刻まれた丸橋静子の句碑の光景です。『月』が秋の季語になります。丸橋静子は杉田久女(1890~1946年)の門下生の一人で、高浜虚子(1874~1959年)が小倉に来たときは、久女と一緒に接待に努めていたと伝わります。(同上)<br />

    『月仰ぐ一途に生きし来し方よ』の文字が刻まれた丸橋静子の句碑の光景です。『月』が秋の季語になります。丸橋静子は杉田久女(1890~1946年)の門下生の一人で、高浜虚子(1874~1959年)が小倉に来たときは、久女と一緒に接待に努めていたと伝わります。(同上)

  • 左側の石標には、『百度石』の文字が刻まれ、その上に回数の勘定用の算盤のようなものが施設されていました。二段の算盤は、1の位と、10の位を数えるもののようでした。右側の石標の銅板の文字は、滲んで読み取れませんでした。(同上)

    左側の石標には、『百度石』の文字が刻まれ、その上に回数の勘定用の算盤のようなものが施設されていました。二段の算盤は、1の位と、10の位を数えるもののようでした。右側の石標の銅板の文字は、滲んで読み取れませんでした。(同上)

  • ブロンズ製の胸像と、その傍らの真新しい説明書きの光景です。説明書きのタイトルは『丸橋清平胸像』、近江商人としての業績などが記されていました。小倉商工会議所の会頭などや、八坂神社の早大を務めた人と紹介されていました。胸像は、その功績に対し、昭和15年(1940年)に贈られたものです。(同上)

    ブロンズ製の胸像と、その傍らの真新しい説明書きの光景です。説明書きのタイトルは『丸橋清平胸像』、近江商人としての業績などが記されていました。小倉商工会議所の会頭などや、八坂神社の早大を務めた人と紹介されていました。胸像は、その功績に対し、昭和15年(1940年)に贈られたものです。(同上)

  • 柱が相対的に細く、大きな笠が特徴的な石灯篭の光景です。台座が六角形、柱が四角形で、その途中の火袋の下の台座飾りも四角形、大きな飾りが付いた笠が六角形でした。二方向に穴があけられたように見えた火袋でした。(同上)

    柱が相対的に細く、大きな笠が特徴的な石灯篭の光景です。台座が六角形、柱が四角形で、その途中の火袋の下の台座飾りも四角形、大きな飾りが付いた笠が六角形でした。二方向に穴があけられたように見えた火袋でした。(同上)

  • 小倉城のお堀と石垣の遺構の光景です。石垣の上には、白い壁の長塀が続いていました。石垣の角の算木積の部分だけは、切り揃えられた白っぽい石材が使われていました。天守台の石垣ではありません。(同上)<br />

    小倉城のお堀と石垣の遺構の光景です。石垣の上には、白い壁の長塀が続いていました。石垣の角の算木積の部分だけは、切り揃えられた白っぽい石材が使われていました。天守台の石垣ではありません。(同上)

  • 石灯篭の脇にあった仰木実の歌碑の光景です。自筆の歌碑とされます、『風おちてゆふくも(夕雲)をひく街の空 しつ(ず)かに城はそひえ(聳え)たちたり』の文字が刻まれていました。仰木実は、昭和28年(1953年)に八幡で歌誌『群炎』を創刊、編集発行人となりました。歌集には『風紋の章』などがあります。(同上)

    石灯篭の脇にあった仰木実の歌碑の光景です。自筆の歌碑とされます、『風おちてゆふくも(夕雲)をひく街の空 しつ(ず)かに城はそひえ(聳え)たちたり』の文字が刻まれていました。仰木実は、昭和28年(1953年)に八幡で歌誌『群炎』を創刊、編集発行人となりました。歌集には『風紋の章』などがあります。(同上)

  • 銅葺屋根の山門光景です。神社ですから、神門と呼ぶのかも知れません。右手奥に小倉城の模擬天守が見えていました。かつての小倉城の『北口門』があった場所付近かも知れません。(同上)

    銅葺屋根の山門光景です。神社ですから、神門と呼ぶのかも知れません。右手奥に小倉城の模擬天守が見えていました。かつての小倉城の『北口門』があった場所付近かも知れません。(同上)

  • 境内側から眺めた山門の光景です。山門の先にも、石畳の参道が続いていました。地図には、この方角に『小倉城庭園』が記されていました。かつての小倉城の『北口門』は、下屋敷(現在の小倉城庭園)から『北の丸』へ行く途中の門でした。(同上)

    境内側から眺めた山門の光景です。山門の先にも、石畳の参道が続いていました。地図には、この方角に『小倉城庭園』が記されていました。かつての小倉城の『北口門』は、下屋敷(現在の小倉城庭園)から『北の丸』へ行く途中の門でした。(同上)

  • 注連縄が張られた山門の光景です。その上の表札には、右から読んで『豊前総鎮守』の5文字が記されていました。八坂神社は、元和3年(1617年)、細川忠興公により創建され、『豊前総鎮守小倉祇園八坂神社』と称されました。平成29年(2017年)、創建四百年を迎えています。(同上)

    イチオシ

    注連縄が張られた山門の光景です。その上の表札には、右から読んで『豊前総鎮守』の5文字が記されていました。八坂神社は、元和3年(1617年)、細川忠興公により創建され、『豊前総鎮守小倉祇園八坂神社』と称されました。平成29年(2017年)、創建四百年を迎えています。(同上)

  • 境内の木k木の間から見えていた、小倉城天守の光景です。現在見られる天守は、『豊前小倉御天守記』、『小倉城絵巻』、『延享三年巡見上使御答書』等をもとに藤岡通夫の設計考証により鉄筋コンクリート構造によって復興されたものです。6千万円の費用を掛けて昭和34年(1959年)に完成しました。地元要望を容れて、外観は史実と大きく異なります。(同上)

    境内の木k木の間から見えていた、小倉城天守の光景です。現在見られる天守は、『豊前小倉御天守記』、『小倉城絵巻』、『延享三年巡見上使御答書』等をもとに藤岡通夫の設計考証により鉄筋コンクリート構造によって復興されたものです。6千万円の費用を掛けて昭和34年(1959年)に完成しました。地元要望を容れて、外観は史実と大きく異なります。(同上)

  • 『利休七哲・三斎の井』の文字が記された説明立札の光景です。利休七哲は、蒲生氏郷(筆頭)、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部)とされます。織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて、『十哲』と呼称される場合もあります。この井戸は、細川忠興に因みます。(同上)

    『利休七哲・三斎の井』の文字が記された説明立札の光景です。利休七哲は、蒲生氏郷(筆頭)、細川忠興(三斎)、古田重然(織部)、芝山宗綱(監物)、瀬田正忠(掃部)、高山長房(右近/南坊)、牧村利貞(兵部)とされます。織田長益(有楽斎)、千道安(利休の実子)、荒木村重(道薫)を加えて、『十哲』と呼称される場合もあります。この井戸は、細川忠興に因みます。(同上)

  • 境内社でしょうか、八坂神社の境内にあった立派な社殿の光景です。拝殿の脇には、白い石造の狛犬も置かれていました。横から眺めた屋根の造りは、神社でよく見かける流造りでした。(同上)

    境内社でしょうか、八坂神社の境内にあった立派な社殿の光景です。拝殿の脇には、白い石造の狛犬も置かれていました。横から眺めた屋根の造りは、神社でよく見かける流造りでした。(同上)

  • 『御祈祷殿・神楽殿』の建物光景です。八坂神社の境内社は、恵比須社、稲荷社、祖霊殿、神明社、猿田彦社と水神社と紹介されていました。この建物は、八坂神社の本社部分の社殿のようです。(同上)<br />

    『御祈祷殿・神楽殿』の建物光景です。八坂神社の境内社は、恵比須社、稲荷社、祖霊殿、神明社、猿田彦社と水神社と紹介されていました。この建物は、八坂神社の本社部分の社殿のようです。(同上)

  • 『御祈祷殿・神楽殿』の表札が懸かっていた建物のズームアップ光景です。八坂神社の社殿の一部のようでした。入口の階段前には賽銭箱が置かれ、注連縄が張られていました。(同上)

    『御祈祷殿・神楽殿』の表札が懸かっていた建物のズームアップ光景です。八坂神社の社殿の一部のようでした。入口の階段前には賽銭箱が置かれ、注連縄が張られていました。(同上)

  • 石畳の参道と、少し小振りな鳥居の光景です。参道に面して、いくつかの境内摂社が祀られていました。八坂神社の主祭神は、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の伝説で有名な、須佐之男命(スサノオノミコト)です。須佐之男命を含めて、計12柱の神様が祀られています。(同上)

    石畳の参道と、少し小振りな鳥居の光景です。参道に面して、いくつかの境内摂社が祀られていました。八坂神社の主祭神は、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の伝説で有名な、須佐之男命(スサノオノミコト)です。須佐之男命を含めて、計12柱の神様が祀られています。(同上)

  • 『水之御祖社(みずのみおやしゃ)』の石の社の光景です。祭神は、御井神、鳴雷神、水速比女神で、祭礼日は10月21日です。祭礼日の謂れは、次に紹介する由緒書きに記されていました。(同上)

    『水之御祖社(みずのみおやしゃ)』の石の社の光景です。祭神は、御井神、鳴雷神、水速比女神で、祭礼日は10月21日です。祭礼日の謂れは、次に紹介する由緒書きに記されていました。(同上)

  • 『水之御祖社(みずのみおやしゃ)』のタイトルがあった由緒書の光景です。『社務所奥の床下に古井戸があり、その底に祀られていた御井神を、また出雲の大原郡にそびえる八雲山より鳴雷神を、日向の高千穂峡のくしふる神社近くの「天の真名井」より水速比女神の御神霊を奉戴し、合わせて水之御祖社として建立する。これを記念して祭礼日とする』と記されていました。(同上)

    『水之御祖社(みずのみおやしゃ)』のタイトルがあった由緒書の光景です。『社務所奥の床下に古井戸があり、その底に祀られていた御井神を、また出雲の大原郡にそびえる八雲山より鳴雷神を、日向の高千穂峡のくしふる神社近くの「天の真名井」より水速比女神の御神霊を奉戴し、合わせて水之御祖社として建立する。これを記念して祭礼日とする』と記されていました。(同上)

  • 『三本松高倉稲荷神社』のタイトルがあった説明立札の光景です。祭神は、宇迦之御霊神(うがのみたまのかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)または保食社(うけもちのかみ)です。五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、火難防止、ならびに鍛治職、細工師の守護神です。(同上)

    『三本松高倉稲荷神社』のタイトルがあった説明立札の光景です。祭神は、宇迦之御霊神(うがのみたまのかみ)、豊受大神(とようけのおおかみ)または保食社(うけもちのかみ)です。五穀豊穣、商売繁昌、家内安全、火難防止、ならびに鍛治職、細工師の守護神です。(同上)

  • 小さな社の『三本松高倉稲荷神社』の拝殿光景です。白い狐さんが拝殿の左右に並び、その後ろに小さな狛犬が控えていました。神社紀によれば、永録4年(1561年)の創建とありますが、もっと古く延歴年間(782年頃)、旧小倉城三の丸に祀られていたようです。旧藩時代から明治、大正、昭和と受継がれ人々からは三本松の御稲荷さんと崇敬されているようです。(同上)

    小さな社の『三本松高倉稲荷神社』の拝殿光景です。白い狐さんが拝殿の左右に並び、その後ろに小さな狛犬が控えていました。神社紀によれば、永録4年(1561年)の創建とありますが、もっと古く延歴年間(782年頃)、旧小倉城三の丸に祀られていたようです。旧藩時代から明治、大正、昭和と受継がれ人々からは三本松の御稲荷さんと崇敬されているようです。(同上)

  • 現在、天守閣の工事中のためでしょうか、見学時間などの注意事項を記した『お知らせ』看板の光景です。18:30から翌朝6:00までは閉鎖と記されていました。期間が記されていませんので、恒久的な制約かも知れません。(同上)

    現在、天守閣の工事中のためでしょうか、見学時間などの注意事項を記した『お知らせ』看板の光景です。18:30から翌朝6:00までは閉鎖と記されていました。期間が記されていませんので、恒久的な制約かも知れません。(同上)

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