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大分と福岡の日本百名城と続日本百名城巡りです。大雑把な計画は立てましたが、2泊3日の個人旅行で、8箇所を巡ることが出来ました。一番の目的は、日本百名城の最後に残った岡城と大分府内城でしたから、こちらは最優先で計画を入れました。平成29年(2017年)3月30日の福岡城と名護屋城をスタートに、平成30年(2018年)12月19日の岡城と大分府内城が締め括りとなりました。要した日時は1年8か月と21日間でした。2019年からは、続日本百名城巡りを始める予定です。

2018暮、大分の日本百名城(31/31):12月21日(7):歩いて吉野ケ里駅へ、鳥栖経由博多へ

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

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大分と福岡の日本百名城と続日本百名城巡りです。大雑把な計画は立てましたが、2泊3日の個人旅行で、8箇所を巡ることが出来ました。一番の目的は、日本百名城の最後に残った岡城と大分府内城でしたから、こちらは最優先で計画を入れました。平成29年(2017年)3月30日の福岡城と名護屋城をスタートに、平成30年(2018年)12月19日の岡城と大分府内城が締め括りとなりました。要した日時は1年8か月と21日間でした。2019年からは、続日本百名城巡りを始める予定です。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル

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  • 190年頃、ヤマトに祭祀で平和をもたらしたモモソ姫が第1のヒミコでした。次は九州に戻った物部氏のリベンジと『第2のヒミコ』の紹介です。『宇佐神宮には、大きな力があるようです。記紀よりはるか昔、ヒミコの時代には、宇佐神宮の勢力は強く、東九州から西中国にかけての地域が豊王国と呼ばれていました。『第2のヒミコ』は、ここにいました』(『モモ』さんが記した『世界と日本』)

    190年頃、ヤマトに祭祀で平和をもたらしたモモソ姫が第1のヒミコでした。次は九州に戻った物部氏のリベンジと『第2のヒミコ』の紹介です。『宇佐神宮には、大きな力があるようです。記紀よりはるか昔、ヒミコの時代には、宇佐神宮の勢力は強く、東九州から西中国にかけての地域が豊王国と呼ばれていました。『第2のヒミコ』は、ここにいました』(『モモ』さんが記した『世界と日本』)

  • 名前:『ミカン(蜜柑)』<br />分類:ミカン科ミカン属<br />分布:温州ミカンですと、日本の不知火海沿岸が原産と推定されています。<br />その他:『ウンシュウミカン(温州蜜柑)』か、それに近い種類のように見えました。

    名前:『ミカン(蜜柑)』
    分類:ミカン科ミカン属
    分布:温州ミカンですと、日本の不知火海沿岸が原産と推定されています。
    その他:『ウンシュウミカン(温州蜜柑)』か、それに近い種類のように見えました。

  • 遠くから眺めて時には、『オタフクナンテン(御多福南天)』の紅葉かと思いましたが、近寄って眺めますと、紅葉ではなく、紅い花でした。名前は、まだ調べていません。イメージでは、春に咲く、アカバナトキワマンサクに似ていました。吉野ヶ里遺跡は、平成29年3月に見学した時の日本百名城のスタンプ押しが目的でしたので、早々に帰路につきました。

    遠くから眺めて時には、『オタフクナンテン(御多福南天)』の紅葉かと思いましたが、近寄って眺めますと、紅葉ではなく、紅い花でした。名前は、まだ調べていません。イメージでは、春に咲く、アカバナトキワマンサクに似ていました。吉野ヶ里遺跡は、平成29年3月に見学した時の日本百名城のスタンプ押しが目的でしたので、早々に帰路につきました。

  • 『物部の本家(徐福の子孫)は筑後平野(吉野ヶ里遺跡)にいました。232年頃、物部王国の御真木入彦(ミマキイリヒコ)王は、第2次物部東征を決断しました。そのため、まず、東九州へ向かい、兵力を蓄えることにしました。御真木入彦王とは、イニエ王のことで、天皇系図では第10代崇神天皇とされています。ヤマトの大王ではなく、物部王国の「地方の王」でした』(同上)

    『物部の本家(徐福の子孫)は筑後平野(吉野ヶ里遺跡)にいました。232年頃、物部王国の御真木入彦(ミマキイリヒコ)王は、第2次物部東征を決断しました。そのため、まず、東九州へ向かい、兵力を蓄えることにしました。御真木入彦王とは、イニエ王のことで、天皇系図では第10代崇神天皇とされています。ヤマトの大王ではなく、物部王国の「地方の王」でした』(同上)

  • 『イニエ王は、南へ向かい、薩摩半島の笠沙(かささ)で美しい乙女に会いました。アタの豪族の娘で、アタツ姫と呼ばれました。イニエ王は、アタツ姫を后に迎えました。この史実を、記紀は神話で伝えます。アタツ姫は、神話では「木ノ花咲クヤ姫(コノハナサクヤヒメ)」と呼ばれています』(同上)、因みに、記紀で出てくる神は、大部分が実在の人物です。

    『イニエ王は、南へ向かい、薩摩半島の笠沙(かささ)で美しい乙女に会いました。アタの豪族の娘で、アタツ姫と呼ばれました。イニエ王は、アタツ姫を后に迎えました。この史実を、記紀は神話で伝えます。アタツ姫は、神話では「木ノ花咲クヤ姫(コノハナサクヤヒメ)」と呼ばれています』(同上)、因みに、記紀で出てくる神は、大部分が実在の人物です。

  • 名前:『キク(菊)』<br />分類:キク科キク属<br />分布:世界ではおよそ950属2万種が分布<br />その他:最も進化し、最も分化している植物とされます。

    名前:『キク(菊)』
    分類:キク科キク属
    分布:世界ではおよそ950属2万種が分布
    その他:最も進化し、最も分化している植物とされます。

  • 『イニエ王は鹿児島の南を船で回り、宮崎県西都市にあった都万(つま)国の大淀川河口に上陸しました。魏志倭人伝にヤマタイ国への経路が書かれているうちで、ヤマタイ国の1つ前にあたる投馬(つま)国が、都万国に当たります。イニエ王は、都万国に都を造りました。これは、現在、西都原(さいとばる)遺跡として確認されています』(同上)

    『イニエ王は鹿児島の南を船で回り、宮崎県西都市にあった都万(つま)国の大淀川河口に上陸しました。魏志倭人伝にヤマタイ国への経路が書かれているうちで、ヤマタイ国の1つ前にあたる投馬(つま)国が、都万国に当たります。イニエ王は、都万国に都を造りました。これは、現在、西都原(さいとばる)遺跡として確認されています』(同上)

  • 『第1次物部東征が失敗した理由は、巫女のいない物部勢力が、磯城王朝の三輪山の姫巫女の権威に太刀打ちできなかったことです。当時は、武力で人を支配することができず、巫女の祈りこそが、人をまとめることができたのです。九州では、宇佐の月神の信仰が人気があり、それを基として、豊王国が形成されました。イニエ王は、そこに目を付け、豊王国と連合する計画を立てました』(同上)

    『第1次物部東征が失敗した理由は、巫女のいない物部勢力が、磯城王朝の三輪山の姫巫女の権威に太刀打ちできなかったことです。当時は、武力で人を支配することができず、巫女の祈りこそが、人をまとめることができたのです。九州では、宇佐の月神の信仰が人気があり、それを基として、豊王国が形成されました。イニエ王は、そこに目を付け、豊王国と連合する計画を立てました』(同上)

  • 『都万国でイニエ王の后であるアタツ姫がイクメ王子を産みました。神話で書かれているとおり、出産後まもなく、アタツ姫(コノハナサクヤ姫)は亡くなりました。そして、イニエ王は、宇佐から豊玉姫を后として迎えました。この豊玉姫こそが、第2のヒミコです。豊玉姫は、王子と王女を生みました。名を豊彦と豊姫といいます』(同上)<br />

    『都万国でイニエ王の后であるアタツ姫がイクメ王子を産みました。神話で書かれているとおり、出産後まもなく、アタツ姫(コノハナサクヤ姫)は亡くなりました。そして、イニエ王は、宇佐から豊玉姫を后として迎えました。この豊玉姫こそが、第2のヒミコです。豊玉姫は、王子と王女を生みました。名を豊彦と豊姫といいます』(同上)

  • 『記紀の製作者は、魏志倭人伝を嫌いました。万世一系が否定されるからです。そこで、史実が神話に変えられました。海幸彦と山幸彦のお話です。豊玉姫は、竜宮の乙姫・豊玉姫です。イニエ王は山幸彦です。豊彦はウガヤフキアエズ。山幸彦と海幸彦が戦って山幸彦が勝つので、山幸彦が物部氏、海幸彦が海(あま)家(初代大王である海村雲の子孫)です』(同上)

    『記紀の製作者は、魏志倭人伝を嫌いました。万世一系が否定されるからです。そこで、史実が神話に変えられました。海幸彦と山幸彦のお話です。豊玉姫は、竜宮の乙姫・豊玉姫です。イニエ王は山幸彦です。豊彦はウガヤフキアエズ。山幸彦と海幸彦が戦って山幸彦が勝つので、山幸彦が物部氏、海幸彦が海(あま)家(初代大王である海村雲の子孫)です』(同上)

  • 『さらに記紀は、都万国と薩摩半島の中間点の高千穂を物部氏の祖が天下りした場所に想定しました。さて、都万王国と豊王国は結合して、都万・豊連合王国となりました。ヤマトの戦乱を嫌い、西日本の豪族が都万(つま)へ移住してきました。ヤマトに住んでいた物部関係者も都万へ移住してきました。各地の有力者を続々と都万へ集め、都万は、ヤマトに次ぐ第2位の人口密集地になりました』(同上)

    イチオシ

    『さらに記紀は、都万国と薩摩半島の中間点の高千穂を物部氏の祖が天下りした場所に想定しました。さて、都万王国と豊王国は結合して、都万・豊連合王国となりました。ヤマトの戦乱を嫌い、西日本の豪族が都万(つま)へ移住してきました。ヤマトに住んでいた物部関係者も都万へ移住してきました。各地の有力者を続々と都万へ集め、都万は、ヤマトに次ぐ第2位の人口密集地になりました』(同上)

  • 2人のヒミコの次は、『ヤマタイ国』の紹介です。『第2次物部東征に向けて、物部イニエ大王と宇佐家の豊玉姫(第2のヒミコ)が結婚し、都万王国と豊王国が連合しました。魏志倭人伝によると、239年にヒミコ(卑弥呼)が魏へ使いを送っていますので、その数年前のことです。東征の準備中、イニエ王が亡くなり、息子のイクメが王となりました』(同上)

    2人のヒミコの次は、『ヤマタイ国』の紹介です。『第2次物部東征に向けて、物部イニエ大王と宇佐家の豊玉姫(第2のヒミコ)が結婚し、都万王国と豊王国が連合しました。魏志倭人伝によると、239年にヒミコ(卑弥呼)が魏へ使いを送っていますので、その数年前のことです。東征の準備中、イニエ王が亡くなり、息子のイクメが王となりました』(同上)

  • 『イクメ王はまだ若すぎるので、豊玉姫が女王として東征を実行することとなりました。第2のヒミコは、中国で三国時代への突入した頃です。呉の銅鏡作り職人が、和国へ亡命し、ヤマトへ向かい、磯城王朝のもとで銅鏡を作りました。ヒミコ(豊玉姫)が魏からもらったものよりも、古い銅鏡です。豊玉姫は、魏に朝貢して印綬を受けたいと望みました。それは、魏の属国となることを意味します』(同上)

    『イクメ王はまだ若すぎるので、豊玉姫が女王として東征を実行することとなりました。第2のヒミコは、中国で三国時代への突入した頃です。呉の銅鏡作り職人が、和国へ亡命し、ヤマトへ向かい、磯城王朝のもとで銅鏡を作りました。ヒミコ(豊玉姫)が魏からもらったものよりも、古い銅鏡です。豊玉姫は、魏に朝貢して印綬を受けたいと望みました。それは、魏の属国となることを意味します』(同上)

  • 『韓国を通過するので、韓国語と中国語ができる人物を探し、ヒボコ勢を味方に付け、ヒボコの子孫のタジマモリを使者に選びました。磯城王朝を圧倒するために、ヤマトより先に魏と国交を開くことを、豊玉姫は決意しました。物部・豊王国の女王が和国全体の王であると魏に錯覚させようと、使者を女王の住む都万国へは入れず、伊都国に留め、都万国がヤマトにあるように使者に説明させました』(同上)

    『韓国を通過するので、韓国語と中国語ができる人物を探し、ヒボコ勢を味方に付け、ヒボコの子孫のタジマモリを使者に選びました。磯城王朝を圧倒するために、ヤマトより先に魏と国交を開くことを、豊玉姫は決意しました。物部・豊王国の女王が和国全体の王であると魏に錯覚させようと、使者を女王の住む都万国へは入れず、伊都国に留め、都万国がヤマトにあるように使者に説明させました』(同上)

  • 魏の使者を欺いたことで、『女王(第2のヒミコ)の都がヤマタイ国であるとするなら、都万国であり、九州の宮崎から大分にかけて、ということになります。豊玉姫の都万・豊王国の敵は、吉備王国、出雲王国、ヤマトです。しかし、魏から敵国の名前を聞かれたとき、ヤマトとは言えず、物部勢と不仲であったクヌ国の名前を答えました。そして、そのように魏志倭人伝に書かれました』(同上)

    魏の使者を欺いたことで、『女王(第2のヒミコ)の都がヤマタイ国であるとするなら、都万国であり、九州の宮崎から大分にかけて、ということになります。豊玉姫の都万・豊王国の敵は、吉備王国、出雲王国、ヤマトです。しかし、魏から敵国の名前を聞かれたとき、ヤマトとは言えず、物部勢と不仲であったクヌ国の名前を答えました。そして、そのように魏志倭人伝に書かれました』(同上)

  • 『豊玉姫が魏へ使いを出したのが239年で、魏からの返書には、ヒミコを親魏倭王として金印・印綬を授けるとありました。魏志倭人伝に使者として難升米(なしめ)の名が記録されていますが、タジマモリのことです。ヒミコが使わした使節団で、日本で議論になっているのは魏から貰った100枚の銅鏡です。実は、廃棄され融解処分待ちの神獣鏡が100枚ほどが、和国へ払い下げられました』(同上)

    『豊玉姫が魏へ使いを出したのが239年で、魏からの返書には、ヒミコを親魏倭王として金印・印綬を授けるとありました。魏志倭人伝に使者として難升米(なしめ)の名が記録されていますが、タジマモリのことです。ヒミコが使わした使節団で、日本で議論になっているのは魏から貰った100枚の銅鏡です。実は、廃棄され融解処分待ちの神獣鏡が100枚ほどが、和国へ払い下げられました』(同上)

  • 『ヤマトで、都万・豊王国に対抗して国産鏡をつくるとき、和人好みの大きな鏡を作ろうとしましたが、銅が少なくて丈夫にするために試行錯誤しできあがったのが三角縁です。ヤマト側では大きな三角縁神獣鏡を400枚以上作って豪族に配りました』(同上)、大きな三角縁神獣鏡は、すべて国産です。中国では道教が邪教とされ、銅鏡を作ることも、持つことも法度とされました。<br />

    『ヤマトで、都万・豊王国に対抗して国産鏡をつくるとき、和人好みの大きな鏡を作ろうとしましたが、銅が少なくて丈夫にするために試行錯誤しできあがったのが三角縁です。ヤマト側では大きな三角縁神獣鏡を400枚以上作って豪族に配りました』(同上)、大きな三角縁神獣鏡は、すべて国産です。中国では道教が邪教とされ、銅鏡を作ることも、持つことも法度とされました。

  • 最後に紹介するのは、『第2次物部東征』です。これにより、出雲王国と吉備王国が滅亡し、ヤマトでは物部王朝が成立しました。物部イクメが大王として、『第11代垂仁天皇』となりました。『243年、豊玉姫は再び魏へ使節を派遣しました。さらに、245年に、再度、魏へ使節を派遣しました。このとき、タジマモリは伊都国長官の立場で、外務大臣役でもありました』(同上)

    イチオシ

    最後に紹介するのは、『第2次物部東征』です。これにより、出雲王国と吉備王国が滅亡し、ヤマトでは物部王朝が成立しました。物部イクメが大王として、『第11代垂仁天皇』となりました。『243年、豊玉姫は再び魏へ使節を派遣しました。さらに、245年に、再度、魏へ使節を派遣しました。このとき、タジマモリは伊都国長官の立場で、外務大臣役でもありました』(同上)

  • 『タジマモリは、戦場で掲げる黄色の垂れ幡を受け取ってきました。それは、物部王国の領地(都万・豊王国)が魏の属領になったことを意味します。そして、魏は、属国の戦争を指揮するために、軍事指導者を派遣しようと考えました。247年に4度目の使節を送ったときには、魏は、タジマモリを女王に次ぐナンバー2と見なし、2度目の黄色幡と木簡の戦闘命令書を授けました』(同上)

    『タジマモリは、戦場で掲げる黄色の垂れ幡を受け取ってきました。それは、物部王国の領地(都万・豊王国)が魏の属領になったことを意味します。そして、魏は、属国の戦争を指揮するために、軍事指導者を派遣しようと考えました。247年に4度目の使節を送ったときには、魏は、タジマモリを女王に次ぐナンバー2と見なし、2度目の黄色幡と木簡の戦闘命令書を授けました』(同上)

  • 『第2次東征は、都万国を出航した後、宇佐で一時停泊しました。宇佐宮に、魏から貰った黄色幡を8本並べて戦勝祈願したので、宇佐宮は八幡宮と呼ばれるようになり、武力の神とみなされるようになりました。248年に、物部・豊連合王国軍は山陰側と瀬戸内方面へ分かれてヤマトに向けて進軍しました』(同上)、写真の花は、ニホンズイセン(日本水仙)です。

    『第2次東征は、都万国を出航した後、宇佐で一時停泊しました。宇佐宮に、魏から貰った黄色幡を8本並べて戦勝祈願したので、宇佐宮は八幡宮と呼ばれるようになり、武力の神とみなされるようになりました。248年に、物部・豊連合王国軍は山陰側と瀬戸内方面へ分かれてヤマトに向けて進軍しました』(同上)、写真の花は、ニホンズイセン(日本水仙)です。

  • 『東征軍の本隊は、イクメ王の物部軍船です。豊玉姫、豊彦、豊姫の豊国軍船が続きました。瀬戸内方面の征服戦は8年続きました。安芸国(広島)へ上陸して出雲王国を南から攻めましたが、豊玉姫が病気となり、厳島に宮を建てて養生にあたりました。豊玉姫は、イクメ王を最高司令官に任命して先へ進ませ、吉備を攻めました』(同上)

    『東征軍の本隊は、イクメ王の物部軍船です。豊玉姫、豊彦、豊姫の豊国軍船が続きました。瀬戸内方面の征服戦は8年続きました。安芸国(広島)へ上陸して出雲王国を南から攻めましたが、豊玉姫が病気となり、厳島に宮を建てて養生にあたりました。豊玉姫は、イクメ王を最高司令官に任命して先へ進ませ、吉備を攻めました』(同上)

  • 『ヒボコの子孫であるタジマモリは、黄色幡4本をもって軍船に乗り、出雲王国へ向かいました。日本海を進み、田和山へ向かいました。宗教王国の出雲を滅ぼすには田和山神殿を壊すのが有効と考えたからです。多勢に無勢の出雲兵は全員討ち死にし、田和山神殿は完全に破壊されました』(同上)、田和山遺跡の発掘調査では、三重の堀も、頂上の神殿跡も確認され、鏃や礫も見つかりました。

    『ヒボコの子孫であるタジマモリは、黄色幡4本をもって軍船に乗り、出雲王国へ向かいました。日本海を進み、田和山へ向かいました。宗教王国の出雲を滅ぼすには田和山神殿を壊すのが有効と考えたからです。多勢に無勢の出雲兵は全員討ち死にし、田和山神殿は完全に破壊されました』(同上)、田和山遺跡の発掘調査では、三重の堀も、頂上の神殿跡も確認され、鏃や礫も見つかりました。

  • 物部朝倉彦軍の攻めにより、『西出雲王国』が滅亡しました。『タジマモリより少し遅れて、物部朝倉彦軍が日本海を東へ進みました。豊彦の息子・八綱田と菟上王が、豊国軍を率いて進軍しました。ターゲットは西出雲王国です。西出雲王国の王宮は、現在の智伊神社にありました。豊国軍は久奈子へも攻めきて、とうとう出雲王国最後の王は降伏しました』(同上)、写真は福岡空港の帰りの便の待合室です。

    物部朝倉彦軍の攻めにより、『西出雲王国』が滅亡しました。『タジマモリより少し遅れて、物部朝倉彦軍が日本海を東へ進みました。豊彦の息子・八綱田と菟上王が、豊国軍を率いて進軍しました。ターゲットは西出雲王国です。西出雲王国の王宮は、現在の智伊神社にありました。豊国軍は久奈子へも攻めきて、とうとう出雲王国最後の王は降伏しました』(同上)、写真は福岡空港の帰りの便の待合室です。

  • 物部十千根軍の攻めにより、『東出雲王国』が滅亡しました。『物部軍の本体は吉備王国を滅亡させました。十千根が率いる別隊が東出雲王国を攻めました。スパイにより裏をかいて攻め入られた東出雲王国は、出雲軍の解散を宣言し、王宮(現在の神魂神社)から逃げ、南方(現在の熊野大社)に隠れました』(同上)、写真は、同じく福岡空港の待合室です。

    物部十千根軍の攻めにより、『東出雲王国』が滅亡しました。『物部軍の本体は吉備王国を滅亡させました。十千根が率いる別隊が東出雲王国を攻めました。スパイにより裏をかいて攻め入られた東出雲王国は、出雲軍の解散を宣言し、王宮(現在の神魂神社)から逃げ、南方(現在の熊野大社)に隠れました』(同上)、写真は、同じく福岡空港の待合室です。

  • 『熊野大社で、出雲王国と物部との間で講和条約が締結されました。出雲国を除く広域の出雲王国の支配権を物部王国が受け継ぐこと、王宮を物部十千根が使うこと、などです。700年以上続いた日本最初の王国は、第17代目の王で幕を閉じました。記紀では、出雲の国譲りとして神話が作られましたが、史実は、自発的な国譲りではなく、物部・豊国連合軍の猛攻撃により滅ぼされました』(同上)

    『熊野大社で、出雲王国と物部との間で講和条約が締結されました。出雲国を除く広域の出雲王国の支配権を物部王国が受け継ぐこと、王宮を物部十千根が使うこと、などです。700年以上続いた日本最初の王国は、第17代目の王で幕を閉じました。記紀では、出雲の国譲りとして神話が作られましたが、史実は、自発的な国譲りではなく、物部・豊国連合軍の猛攻撃により滅ぼされました』(同上)

  • 第2次物部東征軍は、最後にヤマトへ向かいました。第2次物部東征軍の最終目的は、ヤマト朝廷を奪うことでした。『物部軍は都万・豊王国連合軍(邪馬台国)で、宇佐の豊玉姫(第2の卑弥呼)が総大将です。瀬戸内に進んだ主軍は、イクメ王の物部軍船と、豊玉姫、豊彦、豊姫の豊国軍船でした。途中、豊玉姫が病気となり、厳島で養生しましたが、安芸国の埃ノ宮(えのみや)で亡くなりました』(同上)

    第2次物部東征軍は、最後にヤマトへ向かいました。第2次物部東征軍の最終目的は、ヤマト朝廷を奪うことでした。『物部軍は都万・豊王国連合軍(邪馬台国)で、宇佐の豊玉姫(第2の卑弥呼)が総大将です。瀬戸内に進んだ主軍は、イクメ王の物部軍船と、豊玉姫、豊彦、豊姫の豊国軍船でした。途中、豊玉姫が病気となり、厳島で養生しましたが、安芸国の埃ノ宮(えのみや)で亡くなりました』(同上)

  • 『亡くなった豊玉姫は、宮島に仮埋葬されました。遺骨は宇佐へ移され、宇佐八幡宮の奥山に墳墓が作られました。魏から派遣された軍事司令官は、豊玉姫の13歳の娘・豊姫を次の女王に指名しました。魏志倭人伝に台与と書かれているのが豊姫です。豊姫がNo.1で、イクメ王(第11代垂仁天皇)がNo.2という序列になります』(同上)

    『亡くなった豊玉姫は、宮島に仮埋葬されました。遺骨は宇佐へ移され、宇佐八幡宮の奥山に墳墓が作られました。魏から派遣された軍事司令官は、豊玉姫の13歳の娘・豊姫を次の女王に指名しました。魏志倭人伝に台与と書かれているのが豊姫です。豊姫がNo.1で、イクメ王(第11代垂仁天皇)がNo.2という序列になります』(同上)

  • 『ヤマトに一番乗りしたのは、田和山神殿を破壊したタジマモリ軍です。ヤマトでは、磯城王朝の王子、サホ彦が防衛していました。タジマモリは自分が大王になろうと画策しました。そこへ、吉備王国と東出雲王国を滅ぼしたイクメ軍が到着します。それを見たタジマモリは、サホ彦と手を結び、イクメ軍を襲撃して自分が大王になろうとします』(同上)

    『ヤマトに一番乗りしたのは、田和山神殿を破壊したタジマモリ軍です。ヤマトでは、磯城王朝の王子、サホ彦が防衛していました。タジマモリは自分が大王になろうと画策しました。そこへ、吉備王国と東出雲王国を滅ぼしたイクメ軍が到着します。それを見たタジマモリは、サホ彦と手を結び、イクメ軍を襲撃して自分が大王になろうとします』(同上)

  • 『イクメ王は、出雲勢力の助けを借りてタジマモリをヤマトから追い出しました。出雲族は、田和山神殿を破壊したタジマモリへの復讐心がありました。その時の、出雲勢(野見宿禰)がタジマモリを追いだした出来事が、相撲の始まりとして日本書紀に書かれています。イクメ王はヤマトを占領し、大王となりました。第11代垂仁天皇です』(同上)、最後はだいぶ端折りましたが、これでお終いです。

    『イクメ王は、出雲勢力の助けを借りてタジマモリをヤマトから追い出しました。出雲族は、田和山神殿を破壊したタジマモリへの復讐心がありました。その時の、出雲勢(野見宿禰)がタジマモリを追いだした出来事が、相撲の始まりとして日本書紀に書かれています。イクメ王はヤマトを占領し、大王となりました。第11代垂仁天皇です』(同上)、最後はだいぶ端折りましたが、これでお終いです。

  • セントレアからの家までの帰りには、金山駅が名鉄電車と名古屋市地下鉄の乗換駅になりますので、金山駅で軽くワインを飲んで地下鉄に乗車しました。スムーズに完了した日本百名城巡りでしたから、値段は安くても、いつもより一味違うワインの味になりました。引用させて戴いた、『モモ』さんが記した『世界と日本』の中の日本神話などは、よく整理されていて、大いに勉強になりました。深謝いたします。

    イチオシ

    セントレアからの家までの帰りには、金山駅が名鉄電車と名古屋市地下鉄の乗換駅になりますので、金山駅で軽くワインを飲んで地下鉄に乗車しました。スムーズに完了した日本百名城巡りでしたから、値段は安くても、いつもより一味違うワインの味になりました。引用させて戴いた、『モモ』さんが記した『世界と日本』の中の日本神話などは、よく整理されていて、大いに勉強になりました。深謝いたします。

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