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久留米城の遺構は、本丸の月見櫓や巽櫓、坤櫓などの石垣や水堀の一部などです。その他に、外郭(四の丸)の堀跡と土塁が現存しています。明治時代初頭に城の建造物の大半は解体されましたが、本丸の水手御門が、寿本寺山門として移築され現存しています。

2018暮、大分の日本百名城(28/31):12月21日(4):久留米城(4):篠山神社、筑後川

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

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久留米城の遺構は、本丸の月見櫓や巽櫓、坤櫓などの石垣や水堀の一部などです。その他に、外郭(四の丸)の堀跡と土塁が現存しています。明治時代初頭に城の建造物の大半は解体されましたが、本丸の水手御門が、寿本寺山門として移築され現存しています。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル

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  • 本丸の北側にあった、土塁らしい場所の上から眺めた南側方面の城跡光景です。篠山神社の社殿の背面が見えていました。通常、神社の一番奥にある本殿の建物のようでした。その周りを塀も見えています。(ウィキペディア)

    本丸の北側にあった、土塁らしい場所の上から眺めた南側方面の城跡光景です。篠山神社の社殿の背面が見えていました。通常、神社の一番奥にある本殿の建物のようでした。その周りを塀も見えています。(ウィキペディア)

  • 本丸の北側の土塁らしい場所の上から眺めた東側方面の光景です。本丸の東北角付近になるようです。『艮櫓跡』が建っていた場所です。『艮』は『丑寅』とも表記されます。丑と寅との中間の方角で、北東の方角になります。鬼門とされる方角です。(同上)

    本丸の北側の土塁らしい場所の上から眺めた東側方面の光景です。本丸の東北角付近になるようです。『艮櫓跡』が建っていた場所です。『艮』は『丑寅』とも表記されます。丑と寅との中間の方角で、北東の方角になります。鬼門とされる方角です。(同上)

  • 筑後川に面した本丸跡の北端部分の光景です。矢跡が付いた、かつての城壁に使われていたらしい石材が集められていました。筑後川の上流部では、田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれます。(同上)

    イチオシ

    筑後川に面した本丸跡の北端部分の光景です。矢跡が付いた、かつての城壁に使われていたらしい石材が集められていました。筑後川の上流部では、田の原川・杖立川・大山川・三隈川とも呼ばれます。(同上)

  • 同じく、筑後川に面した本丸跡の北端部分の光景です。先程より右側(東側)方面の光景です。眼下には、住宅地や中小のビル群が見えました。久留米市西部辺りからは福岡県と佐賀県をまたぐように南西方向に流れます。流路変更の影響で筑後川の北西側であっても福岡県であったり、逆に南東側であっても佐賀県であったりすることも多い川です。(同上)

    同じく、筑後川に面した本丸跡の北端部分の光景です。先程より右側(東側)方面の光景です。眼下には、住宅地や中小のビル群が見えました。久留米市西部辺りからは福岡県と佐賀県をまたぐように南西方向に流れます。流路変更の影響で筑後川の北西側であっても福岡県であったり、逆に南東側であっても佐賀県であったりすることも多い川です。(同上)

  • 『艮櫓跡』のタイトルがあった石製プレートの光景です。『艮(うしとら)』は、『丑寅(うしとら)』と同じ意味で、北東を意味します。本丸北東に三重櫓がありましたが、現在は石垣だけが現存します。(同上)

    『艮櫓跡』のタイトルがあった石製プレートの光景です。『艮(うしとら)』は、『丑寅(うしとら)』と同じ意味で、北東を意味します。本丸北東に三重櫓がありましたが、現在は石垣だけが現存します。(同上)

  • 『艮櫓跡』の石製プレートが置かれていた付近の光景です。石段や、その周りの石垣や石材は、久留米城当時の遺物のようです。櫓が解体され、その後に残った基礎部分になるようです。(同上)

    『艮櫓跡』の石製プレートが置かれていた付近の光景です。石段や、その周りの石垣や石材は、久留米城当時の遺物のようです。櫓が解体され、その後に残った基礎部分になるようです。(同上)

  • 『艮櫓跡』からは少し離れた西側にあった、三段ほどに積まれた、低い石垣光景です。使われた石材や石積から見て、久留米城時代の遺跡の石垣のようでした。打込み接ぎで積まれていました。(同上)

    『艮櫓跡』からは少し離れた西側にあった、三段ほどに積まれた、低い石垣光景です。使われた石材や石積から見て、久留米城時代の遺跡の石垣のようでした。打込み接ぎで積まれていました。(同上)

  • ここからは本丸の北端近くに置かれていた石碑類の紹介です。この石碑には、金文字で、『菊歩兵第五六聯隊』の文字が刻まれていました。大日本帝国時代の連隊の一つで、1905年(明治38年)に編成されたようです。(同上)

    ここからは本丸の北端近くに置かれていた石碑類の紹介です。この石碑には、金文字で、『菊歩兵第五六聯隊』の文字が刻まれていました。大日本帝国時代の連隊の一つで、1905年(明治38年)に編成されたようです。(同上)

  • 『道君首名之碑』の文字が刻まれた石碑の光景です。この碑は大伴部博麻碑と並んで建てられ、どちらも明治25年11月の建立です。武田祠官時代に一緒に建てられたもののようですが、どちらも碑文がありません。(同上)

    『道君首名之碑』の文字が刻まれた石碑の光景です。この碑は大伴部博麻碑と並んで建てられ、どちらも明治25年11月の建立です。武田祠官時代に一緒に建てられたもののようですが、どちらも碑文がありません。(同上)

  • 『大伴部博麻之碑』の7文字が刻まれた石碑の光景です。博麻は、上妻郡(今の八女郡)の北川内出身といわれ、斉明天皇(594~664年)の時、朝鮮の白村江の戦いで捕虜となりました。彼は同じ境遇の仲間達を日本に帰すために身を売って奴隷となり、三十年間留まって持統天皇の時に帰国しました。朝廷では、彼の功労を称え、米・布・水田を贈りました。(同上)

    『大伴部博麻之碑』の7文字が刻まれた石碑の光景です。博麻は、上妻郡(今の八女郡)の北川内出身といわれ、斉明天皇(594~664年)の時、朝鮮の白村江の戦いで捕虜となりました。彼は同じ境遇の仲間達を日本に帰すために身を売って奴隷となり、三十年間留まって持統天皇の時に帰国しました。朝廷では、彼の功労を称え、米・布・水田を贈りました。(同上)

  • 『井上鶴代碑』の光景です。ネットで紹介されていた解読文の紹介です。『井上鶴代は、荘島の人で、父の名は収、通称を彦一、鴨脚と号しました。番頭吉田忠見家の家長で漢学に精通していました。真木和泉とならんで久留米藩の古い尊王運動家池尻茂左衛門(号は葛譚)はその実弟です。母は近子といい、歌を善くしました。鶴代もその影響をうけて九才で作歌したといわれます。のちに矢野一貞・船曳鉄門に師事して国学・和歌を学び、女流歌人としての令名が高かった。』と紹介されていました。彼女は、『酒を好み、微酔、筆を下せば百吟たちどころになる』とも紹介されていました。(同上)

    『井上鶴代碑』の光景です。ネットで紹介されていた解読文の紹介です。『井上鶴代は、荘島の人で、父の名は収、通称を彦一、鴨脚と号しました。番頭吉田忠見家の家長で漢学に精通していました。真木和泉とならんで久留米藩の古い尊王運動家池尻茂左衛門(号は葛譚)はその実弟です。母は近子といい、歌を善くしました。鶴代もその影響をうけて九才で作歌したといわれます。のちに矢野一貞・船曳鉄門に師事して国学・和歌を学び、女流歌人としての令名が高かった。』と紹介されていました。彼女は、『酒を好み、微酔、筆を下せば百吟たちどころになる』とも紹介されていました。(同上)

  • 『来城先生詩碑』の光景です。表に刻まれた漢詩の読解は、『浮生、水の如く逝く、我まさに死すべし。一事関心す、時俗の非となるを。寄語す、文章同調の友。大雅を扶持して、相違うことなかれ』と紹介され、裏面には、『宮崎来城先生、名繁吾、明治4年十一月、久留米藩士の家に生まれる、性格は磊落で非凡、志は国家にあるも任官を好まず。全国を遊歴、足跡は台湾から中国大陸に及ぶ。一代の学識を持って作詩に情熱をもやし、著作も多くある。晩年は郷里に家を構え、弟子達が雲霞の如く集まってきて、この世界がますます盛んに成って来た。(中略)昭和八年七月、先生は病の床に臥せられた。床の中で二首の作られ、(中略)その一首が碑に刻まれた七言絶句である』と紹介されていました。(同上)

    『来城先生詩碑』の光景です。表に刻まれた漢詩の読解は、『浮生、水の如く逝く、我まさに死すべし。一事関心す、時俗の非となるを。寄語す、文章同調の友。大雅を扶持して、相違うことなかれ』と紹介され、裏面には、『宮崎来城先生、名繁吾、明治4年十一月、久留米藩士の家に生まれる、性格は磊落で非凡、志は国家にあるも任官を好まず。全国を遊歴、足跡は台湾から中国大陸に及ぶ。一代の学識を持って作詩に情熱をもやし、著作も多くある。晩年は郷里に家を構え、弟子達が雲霞の如く集まってきて、この世界がますます盛んに成って来た。(中略)昭和八年七月、先生は病の床に臥せられた。床の中で二首の作られ、(中略)その一首が碑に刻まれた七言絶句である』と紹介されていました。(同上)

  • 『津田一伝流第二世碑』の紹介です。漢詩を現在語に訳したネット解説の紹介です。『津田教修は嘉永三年(1850)九月、十間屋敷(日吉町)に生まれた。慶応三年御近侍鎗組となり、明治五年父の跡をうけて一伝流二世師範となった。同八年陸軍兵学寮に入り、九年少尉試補に任官。同十年西南役に従}。二十一年歩兵大尉。二十五年陸軍戸山学校教官体操科長。日清戦役に際しては第一師団歩兵第二連隊中球.長として出征。和尚山占領のとき、国旗の代りに敵の血をもってハンカチを染めて日章旗としたことで有名。当時の軍歌に「奇智に富みたる津田大尉、敵の屍骸の血潮もて、即座に染出す日章旗…」と歌われたという』と紹介されていました。(同上)

    『津田一伝流第二世碑』の紹介です。漢詩を現在語に訳したネット解説の紹介です。『津田教修は嘉永三年(1850)九月、十間屋敷(日吉町)に生まれた。慶応三年御近侍鎗組となり、明治五年父の跡をうけて一伝流二世師範となった。同八年陸軍兵学寮に入り、九年少尉試補に任官。同十年西南役に従}。二十一年歩兵大尉。二十五年陸軍戸山学校教官体操科長。日清戦役に際しては第一師団歩兵第二連隊中球.長として出征。和尚山占領のとき、国旗の代りに敵の血をもってハンカチを染めて日章旗としたことで有名。当時の軍歌に「奇智に富みたる津田大尉、敵の屍骸の血潮もて、即座に染出す日章旗…」と歌われたという』と紹介されていました。(同上)

  • 『津田一伝流第二世碑』の紹介です。漢詩を現在語に訳したネット解説の紹介です。『津田教修は嘉永三年(1850)九月、十間屋敷(日吉町)に生まれた。慶応三年御近侍鎗組となり、明治五年父の跡をうけて一伝流二世師範となった。同八年陸軍兵学寮に入り、九年少尉試補に任官。同十年西南役に従}。二十一年歩兵大尉。二十五年陸軍戸山学校教官体操科長。日清戦役に際しては第一師団歩兵第二連隊中球.長として出征。和尚山占領のとき、国旗の代りに敵の血をもってハンカチを染めて日章旗としたことで有名。当時の軍歌に「奇智に富みたる津田大尉、敵の屍骸の血潮もて、即座に染出す日章旗…」と歌われたという』と紹介されていました。(同上)

    『津田一伝流第二世碑』の紹介です。漢詩を現在語に訳したネット解説の紹介です。『津田教修は嘉永三年(1850)九月、十間屋敷(日吉町)に生まれた。慶応三年御近侍鎗組となり、明治五年父の跡をうけて一伝流二世師範となった。同八年陸軍兵学寮に入り、九年少尉試補に任官。同十年西南役に従}。二十一年歩兵大尉。二十五年陸軍戸山学校教官体操科長。日清戦役に際しては第一師団歩兵第二連隊中球.長として出征。和尚山占領のとき、国旗の代りに敵の血をもってハンカチを染めて日章旗としたことで有名。当時の軍歌に「奇智に富みたる津田大尉、敵の屍骸の血潮もて、即座に染出す日章旗…」と歌われたという』と紹介されていました。(同上)

  • 石碑の左手前に建てられていた丸い形の石標の光景です。『来城先生詩碑建設寄付者御芳名』の文字が刻まれていました。昭和14年(1939年)6月の日付けがありました。この当時の世情は、昭和12年(1937年)7月7日に始まった日中戦争から2年ほどが経過し、昭和14年(1939年)12月8日、日本は英米に宣戦布告し、太平洋戦争開戦となりました。(同上)

    石碑の左手前に建てられていた丸い形の石標の光景です。『来城先生詩碑建設寄付者御芳名』の文字が刻まれていました。昭和14年(1939年)6月の日付けがありました。この当時の世情は、昭和12年(1937年)7月7日に始まった日中戦争から2年ほどが経過し、昭和14年(1939年)12月8日、日本は英米に宣戦布告し、太平洋戦争開戦となりました。(同上)

  • 先に紹介した、『来城先生詩碑』と、その周りの光景です。特に大切にされた詩碑らしく、周りが石囲いされていました。宮崎来城(1871~1933年)は、ジャーナリストで詩人でした。久留米に生れ、名は繁吉、初号は柳渓です。山下桃渓、江崎巽庵に師事し、二六新聞に入り日露戦争で従軍記者となりました。田岡領雲との共著等があり、文芸雑誌『天鼓』の執筆に加わりました。(同上)

    先に紹介した、『来城先生詩碑』と、その周りの光景です。特に大切にされた詩碑らしく、周りが石囲いされていました。宮崎来城(1871~1933年)は、ジャーナリストで詩人でした。久留米に生れ、名は繁吉、初号は柳渓です。山下桃渓、江崎巽庵に師事し、二六新聞に入り日露戦争で従軍記者となりました。田岡領雲との共著等があり、文芸雑誌『天鼓』の執筆に加わりました。(同上)

  • 『大井戸』の側面光景です。固い岩盤をくり抜いて造られた井戸で、本丸御殿の北西側にあります。本丸には、他にも二つの井戸が存在しましたが、その一つは有馬記念館前に現存します。現在は落下危険防止のために覆いや金網が張られています。(同上)

    イチオシ

    『大井戸』の側面光景です。固い岩盤をくり抜いて造られた井戸で、本丸御殿の北西側にあります。本丸には、他にも二つの井戸が存在しましたが、その一つは有馬記念館前に現存します。現在は落下危険防止のために覆いや金網が張られています。(同上)

  • 上から眺めた『大井戸』の光景です。現在は落下危険防止のために鉄の柵が渡してありました。暗くてよく見えませんでしたが、かなり深そうな井戸の石組が残されているようでした。(同上)

    上から眺めた『大井戸』の光景です。現在は落下危険防止のために鉄の柵が渡してありました。暗くてよく見えませんでしたが、かなり深そうな井戸の石組が残されているようでした。(同上)

  • 『大井戸』の文字が記された、石製の説明プレートの光景です。久留米城内には、数多くの井戸があったはずですが、現在見付かっているのは2箇所だけと説明されていました。硬い岩盤をくり抜いて造られた井戸です。(同上)

    『大井戸』の文字が記された、石製の説明プレートの光景です。久留米城内には、数多くの井戸があったはずですが、現在見付かっているのは2箇所だけと説明されていました。硬い岩盤をくり抜いて造られた井戸です。(同上)

  • 『篠山神社』の前に置かれた狛犬の光景です。口を閉じた、吽形の雌獅子です。神社に向かって左手に置かれた、神社に対して横向きの像です。筋肉隆々ですが、肥満気味にも見えました。(同上)

    『篠山神社』の前に置かれた狛犬の光景です。口を閉じた、吽形の雌獅子です。神社に向かって左手に置かれた、神社に対して横向きの像です。筋肉隆々ですが、肥満気味にも見えました。(同上)

  • 拝殿の前の石灯篭と、吽形の狛犬の光景です。拝殿に向かって手前側に背が高い石灯篭がありました。春日式灯籠に類似した様式に見えました。春日灯篭の特徴は、『竿が円形、笠・火袋(ひぶくろ)・中台(ちゅうだい)・地輪(じりん)が六角平面で、背の高い標準的な石灯籠』と表現されるようです。(同上)

    拝殿の前の石灯篭と、吽形の狛犬の光景です。拝殿に向かって手前側に背が高い石灯篭がありました。春日式灯籠に類似した様式に見えました。春日灯篭の特徴は、『竿が円形、笠・火袋(ひぶくろ)・中台(ちゅうだい)・地輪(じりん)が六角平面で、背の高い標準的な石灯籠』と表現されるようです。(同上)

  • 『篠山神社』の前の狛犬の光景です。阿形の雌獅子です。神社に向かって右手に置かれた、神社に対して横向きの像です。阿形の口には、玉が咥えられているようでした。足の下に玉を置く姿と共通性があるようでした。(同上)

    『篠山神社』の前の狛犬の光景です。阿形の雌獅子です。神社に向かって右手に置かれた、神社に対して横向きの像です。阿形の口には、玉が咥えられているようでした。足の下に玉を置く姿と共通性があるようでした。(同上)

  • 拝殿の前の石灯篭と、阿形の狛犬の光景です。こちらも同じように、拝殿に向かって狛犬と石灯篭がセットになっていました。石灯篭は六角形が基調で、火袋部分には、春日灯篭と同じように二方向は彫り抜かれているようです。現在の春日灯篭の火袋の六方の面は、二面に雌雄の鹿、他の二面に雲形の日月、残りの二面は彫り抜かれているのが標準です。(同上)

    拝殿の前の石灯篭と、阿形の狛犬の光景です。こちらも同じように、拝殿に向かって狛犬と石灯篭がセットになっていました。石灯篭は六角形が基調で、火袋部分には、春日灯篭と同じように二方向は彫り抜かれているようです。現在の春日灯篭の火袋の六方の面は、二面に雌雄の鹿、他の二面に雲形の日月、残りの二面は彫り抜かれているのが標準です。(同上)

  • 近い場所から撮影した、篠山神社の拝殿光景です。『篠山』は、地名を表しているようでした。篠山神社の公式HPには、『筑後川に接する葦や笹が生えた笹原と呼ばれた低湿地に南から突き出た海抜10m程度の高さの舌状の微高地があります。篠山とは、その先端部に位置する小高い山(30m程度)のことで、笹が生い茂っていたので自然にササヤマと称されるようになった』と紹介されていました。(同上)

    近い場所から撮影した、篠山神社の拝殿光景です。『篠山』は、地名を表しているようでした。篠山神社の公式HPには、『筑後川に接する葦や笹が生えた笹原と呼ばれた低湿地に南から突き出た海抜10m程度の高さの舌状の微高地があります。篠山とは、その先端部に位置する小高い山(30m程度)のことで、笹が生い茂っていたので自然にササヤマと称されるようになった』と紹介されていました。(同上)

  • 少し離れた場所から撮影した、拝殿のズームアップ光景です。銅葺屋根の姿が、より分かりやすく見えました。明確な流れ造りではないようですが、そのイメージを持った大屋根の造作です。(同上)

    少し離れた場所から撮影した、拝殿のズームアップ光景です。銅葺屋根の姿が、より分かりやすく見えました。明確な流れ造りではないようですが、そのイメージを持った大屋根の造作です。(同上)

  • 篠山神社の手水舎の光景です。比較的小型で、屋根は本瓦葺きですが、シンプルな造りでした。写真で見ての判断では、四方転びの柱のようです。注連縄も張ってありました。(同上)

    篠山神社の手水舎の光景です。比較的小型で、屋根は本瓦葺きですが、シンプルな造りでした。写真で見ての判断では、四方転びの柱のようです。注連縄も張ってありました。(同上)

  • かつての久留米城の本丸に建つ、篠山神社の境内の一部になるようです。庭木ではなく、自然に成長したらしい松の木の姿が際立ちました。この辺りは、本丸を取り囲む土塁の上になるようです。(同上)

    かつての久留米城の本丸に建つ、篠山神社の境内の一部になるようです。庭木ではなく、自然に成長したらしい松の木の姿が際立ちました。この辺りは、本丸を取り囲む土塁の上になるようです。(同上)

  • 中央上部に『頌・画聖・青木繁』の文字と、その下にブロンズの肖像があった顕彰碑の光景です。『青木繁(1882~1912年)』は、明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家でした。久留米市荘島町で、旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれました。(同上)

    イチオシ

    中央上部に『頌・画聖・青木繁』の文字と、その下にブロンズの肖像があった顕彰碑の光景です。『青木繁(1882~1912年)』は、明治期の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家でした。久留米市荘島町で、旧久留米藩士である青木廉吾の長男として生まれました。(同上)

  • 『頌・画聖・青木繁』の顕彰文と、その下の青木繁のブロンズ肖像のズームアップ光景です。青木は、同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎(1882~1969年)とは同い年で、小学校の同級生、そして終生の親友でした。代表作の『海の幸(1904年)』や、『わだつみのいろこの宮(1907年)』は、国の重要文化財に指定されています。(同上)

    『頌・画聖・青木繁』の顕彰文と、その下の青木繁のブロンズ肖像のズームアップ光景です。青木は、同じ久留米生まれの洋画家坂本繁二郎(1882~1969年)とは同い年で、小学校の同級生、そして終生の親友でした。代表作の『海の幸(1904年)』や、『わだつみのいろこの宮(1907年)』は、国の重要文化財に指定されています。(同上)

  • 上から眺めた、落葉焚きの場所の光景です。本丸の出入口の虎口を形成していた部分に見えました。風がないせいでしょうか、あるいはコントロールしながら燃やされていたためでしょうか、煙は石垣より上には上がっていませんでした。(同上)

    上から眺めた、落葉焚きの場所の光景です。本丸の出入口の虎口を形成していた部分に見えました。風がないせいでしょうか、あるいはコントロールしながら燃やされていたためでしょうか、煙は石垣より上には上がっていませんでした。(同上)

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