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大分と福岡の名城巡りです。最後の見学は、弥生時代の環濠集落の吉野ヶ里遺跡です。『吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)』は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある弥生遺跡です。国の特別史跡に指定されています。世界遺産を目指す動きもあるようです。

2018暮、大分の日本百名城(30/31):12月21日(6):吉野ヶ里(1):駅から歩いて遺跡へ

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

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大分と福岡の名城巡りです。最後の見学は、弥生時代の環濠集落の吉野ヶ里遺跡です。『吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)』は、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町と神埼市にまたがる吉野ヶ里丘陵にある弥生遺跡です。国の特別史跡に指定されています。世界遺産を目指す動きもあるようです。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル
  • 吉野ヶ里遺跡は、およそ117ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られます。1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見されました。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園です。以降の説明は、ペンネーム『モモ』さんが記した『世界と日本』を参照しています。写真は、『ヤブラン(藪蘭)』の葉のようです。

    吉野ヶ里遺跡は、およそ117ヘクタールにわたって残る弥生時代の大規模な環濠集落(環壕集落)跡で知られます。1986年(昭和61年)からの発掘調査によって発見されました。現在は国営吉野ヶ里歴史公園として一部を国が管理する公園です。以降の説明は、ペンネーム『モモ』さんが記した『世界と日本』を参照しています。写真は、『ヤブラン(藪蘭)』の葉のようです。

  • 最近の考古学情報では、吉野ヶ里の環濠集落は、渡来系の物部氏の王国があったとする説もあります。吉野ヶ里を拠点に紀元165年に第1次物部東征が行われました。『フトニ大王(第7代孝霊天皇)の吉備王国と出雲王国が激しく戦い、吉備王国が勝利し、出雲王国が弱体化しました。その戦いは、ヤマト進出を狙っていた物部王国(筑紫)には好機となりました』(同上)、写真は、『フイリヤブラン(斑入り藪蘭)』です。

    最近の考古学情報では、吉野ヶ里の環濠集落は、渡来系の物部氏の王国があったとする説もあります。吉野ヶ里を拠点に紀元165年に第1次物部東征が行われました。『フトニ大王(第7代孝霊天皇)の吉備王国と出雲王国が激しく戦い、吉備王国が勝利し、出雲王国が弱体化しました。その戦いは、ヤマト進出を狙っていた物部王国(筑紫)には好機となりました』(同上)、写真は、『フイリヤブラン(斑入り藪蘭)』です。

  • 名前:『オタフクナンテン(御多福南天)』<br />分類:メギ科ナンテン属の常緑低木。<br />分布:日本の暖地及び中国を原産地。<br />その他:オカメナンテンや、ゴシキナンテンの別名を持ちます。

    イチオシ

    名前:『オタフクナンテン(御多福南天)』
    分類:メギ科ナンテン属の常緑低木。
    分布:日本の暖地及び中国を原産地。
    その他:オカメナンテンや、ゴシキナンテンの別名を持ちます。

  • 名前:『オタフクナンテン(御多福南天)』<br />分類:メギ科ナンテン属の常緑低木。<br />分布:日本の暖地及び中国を原産地。<br />その他:見事な紅葉のズームアップ光景です。

    名前:『オタフクナンテン(御多福南天)』
    分類:メギ科ナンテン属の常緑低木。
    分布:日本の暖地及び中国を原産地。
    その他:見事な紅葉のズームアップ光景です。

  • 『紀元165年の第1次物部東征のリーダーは、ニギハヤヒ(徐福)から5・6代目にヒコナギサタケ王がいて、その王子のイツセでした。記紀にも、イツセが神武東征のリーダーとして描かれています。イツセが途中(現・和歌山県)で毒矢に当たって戦死したため、弟のイワレビコが後を継いで東征を完成し、神武天皇として即位したという記紀のストーリーです』(同上)、この後もう少し詳しく紹介します。

    『紀元165年の第1次物部東征のリーダーは、ニギハヤヒ(徐福)から5・6代目にヒコナギサタケ王がいて、その王子のイツセでした。記紀にも、イツセが神武東征のリーダーとして描かれています。イツセが途中(現・和歌山県)で毒矢に当たって戦死したため、弟のイワレビコが後を継いで東征を完成し、神武天皇として即位したという記紀のストーリーです』(同上)、この後もう少し詳しく紹介します。

  • 名前:『アベリア』<br />原産:ツクバネウツギ属全般は、東アジア及びメキシコに分布。<br />分布:日本に渡来したのは大正時代末期。<br />その他:垣が長く、低木の街路樹として広く利用されています。

    名前:『アベリア』
    原産:ツクバネウツギ属全般は、東アジア及びメキシコに分布。
    分布:日本に渡来したのは大正時代末期。
    その他:垣が長く、低木の街路樹として広く利用されています。

  • 倭国大乱の最中の165年頃の出来事です。『イツセはヤマトへの遷都を計画し、有明海を出発しました。記紀の神武東征は瀬戸内海を進んだことになっていますが、吉備王国の勢力内を通過することは得策ではなく、四国の南を進みました。紀伊国上陸作戦では、紀ノ川をさかのぼる予定でしたが、夥しいヤマト軍が現れました。ヤマト軍のリーダーは大彦です』(同上)、写真は、久留米のカラーマンホール蓋です。

    倭国大乱の最中の165年頃の出来事です。『イツセはヤマトへの遷都を計画し、有明海を出発しました。記紀の神武東征は瀬戸内海を進んだことになっていますが、吉備王国の勢力内を通過することは得策ではなく、四国の南を進みました。紀伊国上陸作戦では、紀ノ川をさかのぼる予定でしたが、夥しいヤマト軍が現れました。ヤマト軍のリーダーは大彦です』(同上)、写真は、久留米のカラーマンホール蓋です。

  • 名前:『ガザニア』<br />分類:キク科ガザニア属(クンショウギク属)<br />分布:南アフリカ原産<br />その他:開き始めたばかりの白い花です。ギリシャの古典書物をラテン語に翻訳したギリシャ人「ガザ」の名前に由来します。

    名前:『ガザニア』
    分類:キク科ガザニア属(クンショウギク属)
    分布:南アフリカ原産
    その他:開き始めたばかりの白い花です。ギリシャの古典書物をラテン語に翻訳したギリシャ人「ガザ」の名前に由来します。

  • 名前:『ガザニア』<br />分類:キク科ガザニア属(クンショウギク属)<br />分布:南アフリカ原産<br />その他:こちらもまだ開き始めたばかりです。原種は15種類ほどとされます。

    名前:『ガザニア』
    分類:キク科ガザニア属(クンショウギク属)
    分布:南アフリカ原産
    その他:こちらもまだ開き始めたばかりです。原種は15種類ほどとされます。

  • 写真は、久留米は世界的に有名な、ブリジストンによるゴム産業で知られる街の紹介看板です。第1次物部東征の紹介の続きに戻ります。『大彦は、記紀では長髄彦(ながすねひこ)と書かれ、朝敵扱いですが、大彦は大王の子、つまり王子です。大彦は人望もあり、次の大王候補でした。大彦が皇軍で、物部軍が朝敵ということになるはずですが、大彦の出雲系の磯城王朝が物部王朝に政権交代しますので、勝者が正義、敗者が悪と描かれます』(同上)

    写真は、久留米は世界的に有名な、ブリジストンによるゴム産業で知られる街の紹介看板です。第1次物部東征の紹介の続きに戻ります。『大彦は、記紀では長髄彦(ながすねひこ)と書かれ、朝敵扱いですが、大彦は大王の子、つまり王子です。大彦は人望もあり、次の大王候補でした。大彦が皇軍で、物部軍が朝敵ということになるはずですが、大彦の出雲系の磯城王朝が物部王朝に政権交代しますので、勝者が正義、敗者が悪と描かれます』(同上)

  • 『イツセは大彦軍を避け、紀ノ川での上陸をあきらめ、紀ノ川河口のすぐ南にある名草山に登りました。名草村の戸畔(とべ)で女村長がゲリラ戦をしかけ、毒矢を射たところ、イツセに命中し、苦悶しながら亡くなりました。その場面は、日本書紀にはこう記します。「六月の乙未の朔丁巳に、軍、名草邑に至る。すなわち名草戸畔という者をころす」』(同上)、史実とは逆になっています。

    『イツセは大彦軍を避け、紀ノ川での上陸をあきらめ、紀ノ川河口のすぐ南にある名草山に登りました。名草村の戸畔(とべ)で女村長がゲリラ戦をしかけ、毒矢を射たところ、イツセに命中し、苦悶しながら亡くなりました。その場面は、日本書紀にはこう記します。「六月の乙未の朔丁巳に、軍、名草邑に至る。すなわち名草戸畔という者をころす」』(同上)、史実とは逆になっています。

  • 『名草戸畔は出雲王の子孫を婿に迎え、出雲王家と親戚にあたります。出雲族は母系社会なので、女性が指導者でした。因みに、物部氏は中国から来ましたので、戦闘向きの男系社会です。名草戸畔は、日本書紀で軽く触れられているだけですが、名草山付近ではいまも伝承が残り、あらゆる記録や伝承を調査して纏めた本があります』(同上)、ペンネーム『モモ』さんが褒めていた本は、この後紹介します。

    『名草戸畔は出雲王の子孫を婿に迎え、出雲王家と親戚にあたります。出雲族は母系社会なので、女性が指導者でした。因みに、物部氏は中国から来ましたので、戦闘向きの男系社会です。名草戸畔は、日本書紀で軽く触れられているだけですが、名草山付近ではいまも伝承が残り、あらゆる記録や伝承を調査して纏めた本があります』(同上)、ペンネーム『モモ』さんが褒めていた本は、この後紹介します。

  • 『からくり時計』のタイトルがあった説明看板の光景です。その本は、『名草戸畔・古代紀国の女王伝説(なかひら・まい):スタジオ・エム・オー・ジー』です。『歴史に埋もれている人びとを掘り起こして光を当てる。もちろん、わからないことが多々ありますが、正史が消そうとも、神社、地名、伝承などが痕跡を残しています』(同上)、史実に近いと考えられる部分が多くあるようです。

    『からくり時計』のタイトルがあった説明看板の光景です。その本は、『名草戸畔・古代紀国の女王伝説(なかひら・まい):スタジオ・エム・オー・ジー』です。『歴史に埋もれている人びとを掘り起こして光を当てる。もちろん、わからないことが多々ありますが、正史が消そうとも、神社、地名、伝承などが痕跡を残しています』(同上)、史実に近いと考えられる部分が多くあるようです。

  • 写真は、『からくり時計』のようです。『イツセの死後、弟のウマシマジがリーダーとなります(イワレビコではありません)。神武東征の物語のとおり、紀ノ川を離れ、熊野へ海路、向かいます。記紀では、八咫烏(やたがらす)が道案内してヤマトへ入ることになっています。神話的な表現ですが、おおむね、史実に近いです』(同上)、イワレビコは、神武天皇のことです。

    写真は、『からくり時計』のようです。『イツセの死後、弟のウマシマジがリーダーとなります(イワレビコではありません)。神武東征の物語のとおり、紀ノ川を離れ、熊野へ海路、向かいます。記紀では、八咫烏(やたがらす)が道案内してヤマトへ入ることになっています。神話的な表現ですが、おおむね、史実に近いです』(同上)、イワレビコは、神武天皇のことです。

  • 『吉野ヶ里町観光案内』のタイトルがあった写真入りの看板の光景です。中央に縦長の地図があり、現在位置が『吉野ヶ里駅』付近に記されていました。『吉野ヶ里遺跡』は、現在位置から左手(西側)に記されていました。歩いて行けそうな距離のようでした。これまでの吉野ヶ里遺跡の見学は、ツアーに参加しての観光バス利用でした。今日は、往復を歩く予定です。

    『吉野ヶ里町観光案内』のタイトルがあった写真入りの看板の光景です。中央に縦長の地図があり、現在位置が『吉野ヶ里駅』付近に記されていました。『吉野ヶ里遺跡』は、現在位置から左手(西側)に記されていました。歩いて行けそうな距離のようでした。これまでの吉野ヶ里遺跡の見学は、ツアーに参加しての観光バス利用でした。今日は、往復を歩く予定です。

  • 写真は、『吉野ヶ里駅』付近の光景です。『ウマシマジ軍が上陸した熊野には、熊野本宮大社、熊野速玉神社が建てられました。熊野本宮大社では素戔嗚尊(スサノオノミコト)を主祭神に祀り、熊野速玉神社では速玉大神を祀っていますが、この両神はともに徐福のことです。熊野付近(新宮市)には徐福公園があります』(同上)、ただし、秦の始皇帝時代の徐福本人は、熊野には来ていません。

    写真は、『吉野ヶ里駅』付近の光景です。『ウマシマジ軍が上陸した熊野には、熊野本宮大社、熊野速玉神社が建てられました。熊野本宮大社では素戔嗚尊(スサノオノミコト)を主祭神に祀り、熊野速玉神社では速玉大神を祀っていますが、この両神はともに徐福のことです。熊野付近(新宮市)には徐福公園があります』(同上)、ただし、秦の始皇帝時代の徐福本人は、熊野には来ていません。

  • 写真は、『吉野ヶ里遺跡』までの道案内標識です。『徐福の子孫である物部が熊野へ上陸し、ヤマトへ向かわず残った人たちが熊野に定着していきました。徐福の子孫が上陸した史実を徐福の上陸に変えた、有名人仮託話の一つです。たとえば、弘法大師、役行者の奇跡や徳を伝える伝説が全国にありますが、本人ではなく、弟子が残した足跡です』(同上)

    イチオシ

    写真は、『吉野ヶ里遺跡』までの道案内標識です。『徐福の子孫である物部が熊野へ上陸し、ヤマトへ向かわず残った人たちが熊野に定着していきました。徐福の子孫が上陸した史実を徐福の上陸に変えた、有名人仮託話の一つです。たとえば、弘法大師、役行者の奇跡や徳を伝える伝説が全国にありますが、本人ではなく、弟子が残した足跡です』(同上)

  • 写真は、『吉野ヶ里遺跡』までの道案内標識ですが、まだ駅の傍です。『さて、紀ノ川で物部軍を撃退した大彦(長髄彦のこと)ですが、物部の軍団を見て、次に戦ったらかなわないと感じたものの、本家の出雲はヒボコや吉備に攻められて援軍を出す余裕がなく、伊賀(三重県伊賀市)に新しい王国をつくろうと考え、ヤマトを去りました』(同上)

    写真は、『吉野ヶ里遺跡』までの道案内標識ですが、まだ駅の傍です。『さて、紀ノ川で物部軍を撃退した大彦(長髄彦のこと)ですが、物部の軍団を見て、次に戦ったらかなわないと感じたものの、本家の出雲はヒボコや吉備に攻められて援軍を出す余裕がなく、伊賀(三重県伊賀市)に新しい王国をつくろうと考え、ヤマトを去りました』(同上)

  • 写真は、吉野ヶ里が描かれたカラーマンホール蓋の光景です。『大彦という有力者がいなくなったヤマトでは、ヤマトを統一できる人物が見あたりません。出雲王家の分家に太田タネヒコがいました。記紀にはオオタタネコと書かれ、三輪山を祀る大神神社の初代神主とされています。太田タネヒコは、大彦去った後にヤマトを統一できるのは、熊野の物部勢以外にないと考えました』(同上)

    写真は、吉野ヶ里が描かれたカラーマンホール蓋の光景です。『大彦という有力者がいなくなったヤマトでは、ヤマトを統一できる人物が見あたりません。出雲王家の分家に太田タネヒコがいました。記紀にはオオタタネコと書かれ、三輪山を祀る大神神社の初代神主とされています。太田タネヒコは、大彦去った後にヤマトを統一できるのは、熊野の物部勢以外にないと考えました』(同上)

  • 『太田タネヒコは、物部をヤマトへ導いて、自分が大王になろうと考えました。記紀に書かれた八咫烏とは、太田タネヒコのことなのです。物部勢は、太田タネヒコの申し出を受け入れ、山の中をヤマトへ向けて進みました。八咫烏信仰は、中国の信仰がもととなっています。ヤマトに入った物部勢は、三輪山の南西の鳥見山(とみやま)に登りました』(同上)

    『太田タネヒコは、物部をヤマトへ導いて、自分が大王になろうと考えました。記紀に書かれた八咫烏とは、太田タネヒコのことなのです。物部勢は、太田タネヒコの申し出を受け入れ、山の中をヤマトへ向けて進みました。八咫烏信仰は、中国の信仰がもととなっています。ヤマトに入った物部勢は、三輪山の南西の鳥見山(とみやま)に登りました』(同上)

  • 『そこは、三輪山の太陽神の遙拝地でした。出雲族は太陽を信仰しており、出雲族の聖地です。現在は、鳥見山の登り口に等彌神社(とみじんじゃ)があります。1736年に境内から、八咫烏の土偶が発掘され、神宝とされています』(同上)、八咫烏の土偶は、私には、戦闘服を着た異形の兵士のように見えました。ところで、古事記、日本書紀には、八咫烏が3本足とは書かれていません。<br /><br />

    『そこは、三輪山の太陽神の遙拝地でした。出雲族は太陽を信仰しており、出雲族の聖地です。現在は、鳥見山の登り口に等彌神社(とみじんじゃ)があります。1736年に境内から、八咫烏の土偶が発掘され、神宝とされています』(同上)、八咫烏の土偶は、私には、戦闘服を着た異形の兵士のように見えました。ところで、古事記、日本書紀には、八咫烏が3本足とは書かれていません。

  • 『鳥見山は、標高245mで、山頂付近に霊畤(れいじ)があります。説明板には次のように書かれています。:鳥見山中霊畤について:「日本書紀」によると、この鳥見山付近は、神武天皇が「橿原宮で即位後四年、皇祖天つ神を祭られた」と「霊畤」の由来を記しています。(巻第三)、「霊畤」とは、「まつりのにわ」を意味し大嘗祭を行う場所をいいます』(同上)

    『鳥見山は、標高245mで、山頂付近に霊畤(れいじ)があります。説明板には次のように書かれています。:鳥見山中霊畤について:「日本書紀」によると、この鳥見山付近は、神武天皇が「橿原宮で即位後四年、皇祖天つ神を祭られた」と「霊畤」の由来を記しています。(巻第三)、「霊畤」とは、「まつりのにわ」を意味し大嘗祭を行う場所をいいます』(同上)

  • 西暦148~188年頃に起きた『倭国大乱』の中の『第1次物部東征』の紹介の締め括りです。『ヤマトでは、フトニ大王(第7代孝霊天皇)が兵士を連れて吉備に去った後、人口が減って磯城王朝は衰えました。そこへ物部勢が入って来たので、出雲族の一部はヤマトから逃げ出しました。フトニ大王が去った後、ヤマトで大王になったのは、クニクル(第8代孝元天皇)でした』(同上)、以下に続きます。

    西暦148~188年頃に起きた『倭国大乱』の中の『第1次物部東征』の紹介の締め括りです。『ヤマトでは、フトニ大王(第7代孝霊天皇)が兵士を連れて吉備に去った後、人口が減って磯城王朝は衰えました。そこへ物部勢が入って来たので、出雲族の一部はヤマトから逃げ出しました。フトニ大王が去った後、ヤマトで大王になったのは、クニクル(第8代孝元天皇)でした』(同上)、以下に続きます。

  • 『クニクル大王は、物部勢力と妥協し、物部氏の娘、ウツシコメを妃として迎え、ヤマトの争乱を収めようとしました』(同上)、なお、『第1次物部東征』は、太田家の勢力に圧倒された物部勢が九州へ戻ったため、失敗に終わりました。『第1次物部東征』の紹介はここまでです。続いて、『第1のヒミコ』についての紹介です。写真は、『吉野ヶ里遺跡』の入口付近の光景です。

    『クニクル大王は、物部勢力と妥協し、物部氏の娘、ウツシコメを妃として迎え、ヤマトの争乱を収めようとしました』(同上)、なお、『第1次物部東征』は、太田家の勢力に圧倒された物部勢が九州へ戻ったため、失敗に終わりました。『第1次物部東征』の紹介はここまでです。続いて、『第1のヒミコ』についての紹介です。写真は、『吉野ヶ里遺跡』の入口付近の光景です。

  • 『ヤマトに物部勢が入って来たことで、さっそく軋轢が生じました。その原因は、宗教戦争です。出雲は、銅鐸をシンボルとするサイノカミ信仰であり、太陽神を祀ります。物部は鏡をシンボルとする道教神崇拝です。物部勢は、ヤマトの銅鐸を壊してまわり、鏡を木にかけて祈る祭を、ヤマトの人びとにも強要しました』(同上)

    『ヤマトに物部勢が入って来たことで、さっそく軋轢が生じました。その原因は、宗教戦争です。出雲は、銅鐸をシンボルとするサイノカミ信仰であり、太陽神を祀ります。物部は鏡をシンボルとする道教神崇拝です。物部勢は、ヤマトの銅鐸を壊してまわり、鏡を木にかけて祈る祭を、ヤマトの人びとにも強要しました』(同上)

  • 『八咫烏(やたがらす)こと、太田タネヒコは、物部勢の武力を利用してヤマトの出雲勢力を弱体化することに成功し、ヤマトの大王になることを目論んで、三輪山の祭主となりました。それまで、三輪山の南にある鳥見山で行われてきた三輪山を遙拝する祭は、三輪山の西の太田家の領地で行われることになりました』(同上)、写真は『吉野ヶ里遺跡』の敷地内の光景です。

    『八咫烏(やたがらす)こと、太田タネヒコは、物部勢の武力を利用してヤマトの出雲勢力を弱体化することに成功し、ヤマトの大王になることを目論んで、三輪山の祭主となりました。それまで、三輪山の南にある鳥見山で行われてきた三輪山を遙拝する祭は、三輪山の西の太田家の領地で行われることになりました』(同上)、写真は『吉野ヶ里遺跡』の敷地内の光景です。

  • 『ヤマト王朝の初期から、サイノカミ信仰に基づいて春と秋に大祭が行われ、三輪山にこもる太陽の女神を祀っていました。その中心が姫巫女(ヒメミコ)です。大王をはじめ、ヤマト中の豪族たちが集まって祭に参加しました。このような、祭を中心とした政治方式が行われていました。祭祀は政治より上で、祭祀は女性によるので、姫巫女を中心とした政権でした』(同上)

    『ヤマト王朝の初期から、サイノカミ信仰に基づいて春と秋に大祭が行われ、三輪山にこもる太陽の女神を祀っていました。その中心が姫巫女(ヒメミコ)です。大王をはじめ、ヤマト中の豪族たちが集まって祭に参加しました。このような、祭を中心とした政治方式が行われていました。祭祀は政治より上で、祭祀は女性によるので、姫巫女を中心とした政権でした』(同上)

  • 『三輪山の祭主が太田家に変わると、モモソ姫が姫巫女に推挙されました。記紀にはモモソ姫は大王の娘とされていますが、太田家の娘です。このヒメミコが魏志倭人伝では「ヒミコ(卑弥呼)」と記されました。ただし、239年に魏へ使いを出して100枚の鏡をもらったという「ヤマタイ国」の「ヒミコ」はモモソ姫ではなく、別人です』(同上)、写真は、『吉野ヶ里遺跡』の有料敷地内への入口光景です。

    『三輪山の祭主が太田家に変わると、モモソ姫が姫巫女に推挙されました。記紀にはモモソ姫は大王の娘とされていますが、太田家の娘です。このヒメミコが魏志倭人伝では「ヒミコ(卑弥呼)」と記されました。ただし、239年に魏へ使いを出して100枚の鏡をもらったという「ヤマタイ国」の「ヒミコ」はモモソ姫ではなく、別人です』(同上)、写真は、『吉野ヶ里遺跡』の有料敷地内への入口光景です。

  • 『太田家の領地は、現代において、太田遺跡として発掘され、今は纏向(まきむく)遺跡と呼ばれています。第1ヒミコは纏向遺跡に住んで祭をしました。しかし、ヤマタイ国ではありません。魏志倭人伝のヒミコは、2人のヒメミコがヒミコという名で記録されているので、1人の人物だと誤解しがちですが、ヒメミコは個人名ではなく役職名なので、複数のヒミコがいて問題ありません』(同上)

    イチオシ

    『太田家の領地は、現代において、太田遺跡として発掘され、今は纏向(まきむく)遺跡と呼ばれています。第1ヒミコは纏向遺跡に住んで祭をしました。しかし、ヤマタイ国ではありません。魏志倭人伝のヒミコは、2人のヒメミコがヒミコという名で記録されているので、1人の人物だと誤解しがちですが、ヒメミコは個人名ではなく役職名なので、複数のヒミコがいて問題ありません』(同上)

  • 『オオヒビ(第9代開化天皇)のとき、太田タネヒコはモモソ姫の人気を利用して、物部勢をヤマトから追いだしたようです。第9代と第10代の間で王朝が断絶しました。モモソ姫は、亡くなった後、箸墓古墳に葬られました。ヤマタイ国のヒミコではなく、ヤマタイ国とは無関係です。箸墓古墳は古墳初期としては大きな墓ですが、それはヤマトに平和をもたらした功績によるものです』(同上)、『第一はヒミコ:終り』

    『オオヒビ(第9代開化天皇)のとき、太田タネヒコはモモソ姫の人気を利用して、物部勢をヤマトから追いだしたようです。第9代と第10代の間で王朝が断絶しました。モモソ姫は、亡くなった後、箸墓古墳に葬られました。ヤマタイ国のヒミコではなく、ヤマタイ国とは無関係です。箸墓古墳は古墳初期としては大きな墓ですが、それはヤマトに平和をもたらした功績によるものです』(同上)、『第一はヒミコ:終り』

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