小倉・北九州市中心部旅行記(ブログ) 一覧に戻る
大分と福岡の名城巡りです。小倉城下は、お城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し、城内に町を取り込んだ総構えを採っていました。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの多くの別名を持つ名城です。

2018暮、大分の日本百名城(21/31):12月20日(11):小倉城(2):模擬天守、誠心直道碑

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

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大分と福岡の名城巡りです。小倉城下は、お城の東を流れる紫川を天然の堀として活用し、城内に町を取り込んだ総構えを採っていました。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの多くの別名を持つ名城です。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル
  • 振り返って眺めた、八坂神社方面からの城内の通路の光景です。手摺りや策などが設けられ、観光用に整備されていました。小倉城の最初の築城年代は明らかではありませんが、『文永年間(1264~1274年)に緒方大膳亮惟重が居城した』とされるのが文献上の初見のようです。(ウィキペディア)

    振り返って眺めた、八坂神社方面からの城内の通路の光景です。手摺りや策などが設けられ、観光用に整備されていました。小倉城の最初の築城年代は明らかではありませんが、『文永年間(1264~1274年)に緒方大膳亮惟重が居城した』とされるのが文献上の初見のようです。(ウィキペディア)

  • 現在は、『小倉城公園』として整備されている、かつての小倉城の城内光景です。1960年(昭和35年)から10年間、小倉城内(現在北九州市役所が建っている辺り)には、遊園地が設置されていました。天守閣広場は多数の花見客で賑わう、花見の名所としても知られていますが、花見のマナーは芳しくないようです。(同上)

    現在は、『小倉城公園』として整備されている、かつての小倉城の城内光景です。1960年(昭和35年)から10年間、小倉城内(現在北九州市役所が建っている辺り)には、遊園地が設置されていました。天守閣広場は多数の花見客で賑わう、花見の名所としても知られていますが、花見のマナーは芳しくないようです。(同上)

  • 『漬物処・糠蔵』の表札があった建物入口光景です。小倉城城主、小笠原忠真公は、糠漬けが盛んな信州松本を統治していたこともあり、大変糠漬けを好んでいました。小倉城入封の際にも、糠床を持ち込み、城下の人々にもぬか漬けを推奨しました。その伝統に繋がる糠蔵のようでした。(同上)

    『漬物処・糠蔵』の表札があった建物入口光景です。小倉城城主、小笠原忠真公は、糠漬けが盛んな信州松本を統治していたこともあり、大変糠漬けを好んでいました。小倉城入封の際にも、糠床を持ち込み、城下の人々にもぬか漬けを推奨しました。その伝統に繋がる糠蔵のようでした。(同上)

  • 同じく、正面から眺めた『漬物処・糠蔵』の表札があった建物入口光景です。建物の所有権は分かりませんが、北九州市の営業ではなく、民間企業が携わっているようでした。賃借の建物かもしれません。小倉城の『着見(つきみ)櫓』として、沖からの通航船を監視した櫓でした。木造三重二層三階塔屋付、延330平方メートルの構造で、当時の場所に位置します。(同上)

    同じく、正面から眺めた『漬物処・糠蔵』の表札があった建物入口光景です。建物の所有権は分かりませんが、北九州市の営業ではなく、民間企業が携わっているようでした。賃借の建物かもしれません。小倉城の『着見(つきみ)櫓』として、沖からの通航船を監視した櫓でした。木造三重二層三階塔屋付、延330平方メートルの構造で、当時の場所に位置します。(同上)

  • 工事用の囲いがカメラ視野にはいらない場所まで移動しての、天守閣の撮影です。細川忠興によって建てられた天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守で、大天守は最上層の入母屋破風以外に破風が無い簡素な外観を大きな特徴としていました。現在は、その姿をCGで見ることができます。(同上)

    工事用の囲いがカメラ視野にはいらない場所まで移動しての、天守閣の撮影です。細川忠興によって建てられた天守は、4重5階の大天守と1重の小天守からなる連結式層塔型天守で、大天守は最上層の入母屋破風以外に破風が無い簡素な外観を大きな特徴としていました。現在は、その姿をCGで見ることができます。(同上)

  • 同じく、4重5階の大天守の光景です。最上階は、3間四方の御上段を取り囲むように東西に2間×5間と南北に1間×3間の縁側をめぐらせ、外側には戸板で覆った半間幅の内縁がせり出していました。かつては、『唐造り(南蛮造り)』と称された大天守でした。(同上)

    同じく、4重5階の大天守の光景です。最上階は、3間四方の御上段を取り囲むように東西に2間×5間と南北に1間×3間の縁側をめぐらせ、外側には戸板で覆った半間幅の内縁がせり出していました。かつては、『唐造り(南蛮造り)』と称された大天守でした。(同上)

  • 現在修復作業中の小倉城天守閣の光景です。天守閣は、1959年(昭和34年)に建てられましたので、約60年が経過しています。現在の建築基準法などで判断すれば、耐震強度が不足しているのかも知れませんが、詳しいことは分かりませんでした。因みに、名古屋城の天守閣も1959年(昭和34年)に建てられましたので、現在は耐震強度不測のために入城禁止になっています。(同上)

    現在修復作業中の小倉城天守閣の光景です。天守閣は、1959年(昭和34年)に建てられましたので、約60年が経過しています。現在の建築基準法などで判断すれば、耐震強度が不足しているのかも知れませんが、詳しいことは分かりませんでした。因みに、名古屋城の天守閣も1959年(昭和34年)に建てられましたので、現在は耐震強度不測のために入城禁止になっています。(同上)

  • 『誠心直道』の文字が刻まれた石碑の光景です。『二天一流十代宗家師範・今井正之書』の落款がありました。剣豪の宮本武蔵は、養子の宮本伊織が小笠原忠真に仕えていた関係もあり、寛永9年(1632年)に小倉へやって来て、約7年間を過ごしています。『誠心直道』とは、武蔵が完成させた右手に大太刀、左手に小太刀を持って戦う『二天一流』という兵法の真髄とされます。小倉藩の家老だった松井興長は、武蔵の父である新免無二の弟子であったことから武蔵と親しい間柄にありました。松井興長は武蔵が佐々木小次郎と決戦した巌流島の戦いの後見人にもなっています。(同上)

    『誠心直道』の文字が刻まれた石碑の光景です。『二天一流十代宗家師範・今井正之書』の落款がありました。剣豪の宮本武蔵は、養子の宮本伊織が小笠原忠真に仕えていた関係もあり、寛永9年(1632年)に小倉へやって来て、約7年間を過ごしています。『誠心直道』とは、武蔵が完成させた右手に大太刀、左手に小太刀を持って戦う『二天一流』という兵法の真髄とされます。小倉藩の家老だった松井興長は、武蔵の父である新免無二の弟子であったことから武蔵と親しい間柄にありました。松井興長は武蔵が佐々木小次郎と決戦した巌流島の戦いの後見人にもなっています。(同上)

  • 『碑文』のタイトルがあった石標の光景です。『兵法・二天一流・誠心直道を建てる会』により、平成15年(2003年)12月に建立された『碑文』であることが末尾に記されていました。文中、十代宗家師範の今井正之氏を、兵法・二天一流の中興の祖と称されていました。今井正之氏は、2006年(平成18年)に89歳で亡くなられました。(同上)

    『碑文』のタイトルがあった石標の光景です。『兵法・二天一流・誠心直道を建てる会』により、平成15年(2003年)12月に建立された『碑文』であることが末尾に記されていました。文中、十代宗家師範の今井正之氏を、兵法・二天一流の中興の祖と称されていました。今井正之氏は、2006年(平成18年)に89歳で亡くなられました。(同上)

  • 北九州市の名前で建立された、『誠心直道之碑』のタイトルがあった石碑の光景です。『このたび小倉の士が第十一代を操船したので、碑を建立した』、と記されていました。細川、小笠原藩主時代を通じて7年間滞在したことも記されていました。(同上)<br />

    北九州市の名前で建立された、『誠心直道之碑』のタイトルがあった石碑の光景です。『このたび小倉の士が第十一代を操船したので、碑を建立した』、と記されていました。細川、小笠原藩主時代を通じて7年間滞在したことも記されていました。(同上)

  • 麹用の囲い腰に眺めた大天守と小天守の光景です。『倉府見聞集』には、唐造りの天守閣の由来が記載されています。当代一流の茶人であり、文化人であった細川忠興の美意識が現れた個性的で独特な外観の天守は、当時他に類を見ないものであり、視察が訪れるほどの評判を呼んだとされます。(同上)

    イチオシ

    麹用の囲い腰に眺めた大天守と小天守の光景です。『倉府見聞集』には、唐造りの天守閣の由来が記載されています。当代一流の茶人であり、文化人であった細川忠興の美意識が現れた個性的で独特な外観の天守は、当時他に類を見ないものであり、視察が訪れるほどの評判を呼んだとされます。(同上)

  • 天守閣最上階のズームアップ光景です。津山城天守と高松城天守は、評判を呼んだ小倉城天守を参考にしたものと伝わります。かつての最上階の戸板は黒塗りで、下階の白漆喰塗籠とは対照的だったため、『黒段』と呼ばれていました。現在の模擬天守は、その点は踏襲しています。(同上)

    天守閣最上階のズームアップ光景です。津山城天守と高松城天守は、評判を呼んだ小倉城天守を参考にしたものと伝わります。かつての最上階の戸板は黒塗りで、下階の白漆喰塗籠とは対照的だったため、『黒段』と呼ばれていました。現在の模擬天守は、その点は踏襲しています。(同上)

  • 天守閣破風と、屋根飾りのブロンズの鯱のズームアップ光景です。四重5階の大天守は、天保8年(1837年)に失火によって御殿とともに焼失しました。残った天守台には『御三階』と呼ばれる櫓が建ち、天守の代用とされていました。(同上)

    天守閣破風と、屋根飾りのブロンズの鯱のズームアップ光景です。四重5階の大天守は、天保8年(1837年)に失火によって御殿とともに焼失しました。残った天守台には『御三階』と呼ばれる櫓が建ち、天守の代用とされていました。(同上)

  • 『響灘の珪化木』のタイトルがあった説明看板の光景です。樹の幹が地層にうずもれて化石化したものが、『珪化木』です。この経過ぼくは、響灘の海底から引き揚げられたもので、約4千万年前のものと紹介されていました。『響灘』は、関門海峡の北西に広がる海域であり、北東側は日本海に続き、西側には玄界灘が隣接します。(同上)

    『響灘の珪化木』のタイトルがあった説明看板の光景です。樹の幹が地層にうずもれて化石化したものが、『珪化木』です。この経過ぼくは、響灘の海底から引き揚げられたもので、約4千万年前のものと紹介されていました。『響灘』は、関門海峡の北西に広がる海域であり、北東側は日本海に続き、西側には玄界灘が隣接します。(同上)

  • 『響灘の珪化木』の展示光景です。樹種は不明と説明されていました。4千万年前は、年代区分では新生代(約6500万年前~現代)となります。4500万年前には、インド亜大陸が北上を続け、ユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成し、約4000万年前には、 南極大陸で氷河の形成がはじまり、徐々に寒冷化しました。これ以前は非常に温暖な時期だったとされます。(同上)

    『響灘の珪化木』の展示光景です。樹種は不明と説明されていました。4千万年前は、年代区分では新生代(約6500万年前~現代)となります。4500万年前には、インド亜大陸が北上を続け、ユーラシア大陸に衝突し、ヒマラヤ山脈を形成し、約4000万年前には、 南極大陸で氷河の形成がはじまり、徐々に寒冷化しました。これ以前は非常に温暖な時期だったとされます。(同上)

  • 本丸から見下ろした、かつての枡形虎口らしい場所の光景です。広い石段の中央に、観光客用の手摺りが設けてありました。大手口からの通路になります。格式を感じさせる、堂々とした造りです。(同上)

    本丸から見下ろした、かつての枡形虎口らしい場所の光景です。広い石段の中央に、観光客用の手摺りが設けてありました。大手口からの通路になります。格式を感じさせる、堂々とした造りです。(同上)

  • お城の麓に向かう途中、振り返って眺めた木々の間から見えた天守閣の光景です。天守台の石垣は、細川忠興が1602年に築城した小倉城当時のものが残されているようですが、模擬天守は昭和34年(1959年)の鉄筋コンクリート造りの建物です。(同上)

    お城の麓に向かう途中、振り返って眺めた木々の間から見えた天守閣の光景です。天守台の石垣は、細川忠興が1602年に築城した小倉城当時のものが残されているようですが、模擬天守は昭和34年(1959年)の鉄筋コンクリート造りの建物です。(同上)

  • 同じく、本丸の見学を終え、お城の麓に向かう途中の光景です。虎口を形成しているような、石垣の屈曲と上り坂の光景でした。石垣の立派さと、規模の大きさが、当時の評判を呼んだことが納得出来ます。(同上)

    同じく、本丸の見学を終え、お城の麓に向かう途中の光景です。虎口を形成しているような、石垣の屈曲と上り坂の光景でした。石垣の立派さと、規模の大きさが、当時の評判を呼んだことが納得出来ます。(同上)

  • 積み直されたらしい、打込み接ぎの石垣の光景です。綺麗に平面が揃えられた大きな石材が使われていました。乱積と布積を折衷したようなイメージの石垣でした。勝手な想像ですが、細川忠興の美意識が、各所に見て取れる思いがしました。(同上)

    積み直されたらしい、打込み接ぎの石垣の光景です。綺麗に平面が揃えられた大きな石材が使われていました。乱積と布積を折衷したようなイメージの石垣でした。勝手な想像ですが、細川忠興の美意識が、各所に見て取れる思いがしました。(同上)

  • 近くから撮影できた、天守台の石垣光景です。自然石を加工せずに使った野面積の石垣です。右上に模擬天守の石落しが見えていました。かなりの大きさの石材が、各所に使われていました。(同上)

    イチオシ

    近くから撮影できた、天守台の石垣光景です。自然石を加工せずに使った野面積の石垣です。右上に模擬天守の石落しが見えていました。かなりの大きさの石材が、各所に使われていました。(同上)

  • 同じく、近くから撮影できた、野面積の天守台の石垣光景です。戦国時代に城郭が発達するとともに石垣も発達し、全国各地に穴太衆、越前衆、尾張衆、長袖衆など石垣衆という石工集団が現れ、建築を担居ました。その中でも、穴太衆(あのうしゅう)は、現代までその技術を伝えています。(同上)

    同じく、近くから撮影できた、野面積の天守台の石垣光景です。戦国時代に城郭が発達するとともに石垣も発達し、全国各地に穴太衆、越前衆、尾張衆、長袖衆など石垣衆という石工集団が現れ、建築を担居ました。その中でも、穴太衆(あのうしゅう)は、現代までその技術を伝えています。(同上)

  • 同じく、少し離れた場所から撮影した、天守台の石垣光景です。戦国武将の細川忠興が、1602年に築城した小倉城の石垣は、現在もその姿を留めているようでした。ダイナミックな石積です。(同上)

    同じく、少し離れた場所から撮影した、天守台の石垣光景です。戦国武将の細川忠興が、1602年に築城した小倉城の石垣は、現在もその姿を留めているようでした。ダイナミックな石積です。(同上)

  • 野面積の石垣のズームアップ光景です。天守台の最下部になります。戦国武将の細川忠興が1602年に築城した小倉城の石垣は、内側に緩くカーブさせて積むことで強度を保つ『輪取り』と呼ばれる工法が用いられていることが、2018年の北九州市による石垣の構造調査で初めて明らかになりました(西日本新聞)。(同上)

    野面積の石垣のズームアップ光景です。天守台の最下部になります。戦国武将の細川忠興が1602年に築城した小倉城の石垣は、内側に緩くカーブさせて積むことで強度を保つ『輪取り』と呼ばれる工法が用いられていることが、2018年の北九州市による石垣の構造調査で初めて明らかになりました(西日本新聞)。(同上)

  • 矢跡が残った石材が算木積に使われた、天守台のコーナー部分のズームアップ光景です。北九州市による石垣の調査は、2018年2月末~3月中旬まで実施され、最新の測量機器『3Dレーザースキャナ』とドローンで、石垣をさまざまな角度から計測されました。石垣を横から輪切りにして上から見た際、天守閣の直下部分は内側に向かって弧を描いていたことで、『輪取り』が確認されました。(同上)

    イチオシ

    矢跡が残った石材が算木積に使われた、天守台のコーナー部分のズームアップ光景です。北九州市による石垣の調査は、2018年2月末~3月中旬まで実施され、最新の測量機器『3Dレーザースキャナ』とドローンで、石垣をさまざまな角度から計測されました。石垣を横から輪切りにして上から見た際、天守閣の直下部分は内側に向かって弧を描いていたことで、『輪取り』が確認されました。(同上)

  • 藤棚があった休憩所の光景です。休憩用のいすは用意してありませんでしたが、各種の飲物の自販機が並んでいました。『藤(フジ)』はマメ属フジ属の植物で、日本固有種種です。(同上)

    藤棚があった休憩所の光景です。休憩用のいすは用意してありませんでしたが、各種の飲物の自販機が並んでいました。『藤(フジ)』はマメ属フジ属の植物で、日本固有種種です。(同上)

  • 『大手門跡』付近の石垣光景です。積み直された石垣かも知れませんが、石材はそのまま使用されているようでした。見飽きない乱積の打込み接ぎの石垣の光景です。中央付近に、『笑い積』と呼ばれる部分もありました。『笑い積(わらいづみ)』は、大石の周りに比較的小さな石を積む積み方です。右端が『槻門跡』の石段です。(同上)

    『大手門跡』付近の石垣光景です。積み直された石垣かも知れませんが、石材はそのまま使用されているようでした。見飽きない乱積の打込み接ぎの石垣の光景です。中央付近に、『笑い積』と呼ばれる部分もありました。『笑い積(わらいづみ)』は、大石の周りに比較的小さな石を積む積み方です。右端が『槻門跡』の石段です。(同上)

  • 見飽きない乱積の打込み接ぎの石垣のズームアップ光景です。先ほど紹介した石垣に連なる部分の石垣だったようです。『槻門(けやきもん)』は、藩主、公儀役人のほか、家老や主な寺の住職のみが通行を許された門とされます。(同上)<br />

    見飽きない乱積の打込み接ぎの石垣のズームアップ光景です。先ほど紹介した石垣に連なる部分の石垣だったようです。『槻門(けやきもん)』は、藩主、公儀役人のほか、家老や主な寺の住職のみが通行を許された門とされます。(同上)

  • 道案内標識の光景です。左向きの矢印で『小倉城天守閣』と『漬物処・糠蔵』が、右向きの矢印で『小倉城庭園』が表示されていました。綺麗に整備された城址の光景でした。その周りを新しい造りの白壁が巡っていました。(同上)

    道案内標識の光景です。左向きの矢印で『小倉城天守閣』と『漬物処・糠蔵』が、右向きの矢印で『小倉城庭園』が表示されていました。綺麗に整備された城址の光景でした。その周りを新しい造りの白壁が巡っていました。(同上)

  • 『大手門跡』の文字が刻まれた石標の光景です。『大手門』は、城の玄関口となる門ですから、立派な巨石を多用した、正門に相応しい門造りです。『鏡石』らしい大きな石材も使われていました。(同上)

    『大手門跡』の文字が刻まれた石標の光景です。『大手門』は、城の玄関口となる門ですから、立派な巨石を多用した、正門に相応しい門造りです。『鏡石』らしい大きな石材も使われていました。(同上)

  • 『大手門跡』の石標の近くの石垣のズームアップ光景です。野面積と、打込み接ぎを折衷したような石積のように見えましたが、角の部分を除いて、どちら形言えば、野面積のイメージの石垣です。(同上)

    『大手門跡』の石標の近くの石垣のズームアップ光景です。野面積と、打込み接ぎを折衷したような石積のように見えましたが、角の部分を除いて、どちら形言えば、野面積のイメージの石垣です。(同上)

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