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2日目の見学の最後は、水城(みずき)です。天智天皇3年(663年)10月の白村江での敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威が生じ、防衛体制の整備が急がれました。その時、大宰府の防衛のために築かれたのが、水城や大野城等でした。

2018暮、大分の日本百名城(24/31):12月20日(14):水城(2):土塁構造、版築土塁

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2018/12/19 - 2018/12/21

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

2日目の見学の最後は、水城(みずき)です。天智天皇3年(663年)10月の白村江での敗戦後、倭国には唐・新羅軍侵攻の脅威が生じ、防衛体制の整備が急がれました。その時、大宰府の防衛のために築かれたのが、水城や大野城等でした。

交通手段
ANAグループ 新幹線 JR特急 JRローカル

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  • 水城跡見学のメインとなる場所です。この後紹介する、版築で築かれた土塁の断面展示や、工法についての説明がありました。水城や大野城、基肄城が築かれたのは、すべて大宰府の防衛のためでした。また、天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整えました。(ウィキペディア)

    水城跡見学のメインとなる場所です。この後紹介する、版築で築かれた土塁の断面展示や、工法についての説明がありました。水城や大野城、基肄城が築かれたのは、すべて大宰府の防衛のためでした。また、天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整えました。(ウィキペディア)

  • 水城の土塁の横断面を展示した場所の光景です。後年の道路工事などで分断された土塁の端面のようでした。その箇所に、発掘調査で見付かった版築の断面を撮影したパネルが展示してありました。(同上)

    イチオシ

    水城の土塁の横断面を展示した場所の光景です。後年の道路工事などで分断された土塁の端面のようでした。その箇所に、発掘調査で見付かった版築の断面を撮影したパネルが展示してありました。(同上)

  • 版築工法が使われた土塁の断面写真です。主要な古代技術の駆使部分が、『その1、版築』、『その2、傾斜させた版築土塁』、『その3、敷粗朶』として表示されていました。

    版築工法が使われた土塁の断面写真です。主要な古代技術の駆使部分が、『その1、版築』、『その2、傾斜させた版築土塁』、『その3、敷粗朶』として表示されていました。

  • 『さわってみよう!』のタイトルがあった、版築工法が使われた土塁の断面写真です。水城の土塁が体感できるように焼かれた陶板の紹介でした。次に紹介する版築工法の断面部分が、この写真の下部に赤枠で表示されていました。(同上)

    『さわってみよう!』のタイトルがあった、版築工法が使われた土塁の断面写真です。水城の土塁が体感できるように焼かれた陶板の紹介でした。次に紹介する版築工法の断面部分が、この写真の下部に赤枠で表示されていました。(同上)

  • 土塁の横断面の『版築』のパネルのズームアップ光景です。水城の土塁が体感できるように焼かれた陶板でした。陶板ですから、『堅い』との実感だけでした。この時代の版築工法としては、岡山県総社市の鬼城山に築かれた古代山城(神籠石式山城)の『鬼ノ城(日本百名城69番)』の例があります。(同上)

    イチオシ

    土塁の横断面の『版築』のパネルのズームアップ光景です。水城の土塁が体感できるように焼かれた陶板でした。陶板ですから、『堅い』との実感だけでした。この時代の版築工法としては、岡山県総社市の鬼城山に築かれた古代山城(神籠石式山城)の『鬼ノ城(日本百名城69番)』の例があります。(同上)

  • 分割して紹介する土塁解説のパネルの光景です。一番左のパネルには、『土塁の構造』のタイトルがありました。水城の土塁(大堤)の構造や工法解明のために実施された、2013年(平成25年)から始まった発掘調査の前書き部分でした。右上に発掘時の状況が写真紹介されていました。(同上)

    分割して紹介する土塁解説のパネルの光景です。一番左のパネルには、『土塁の構造』のタイトルがありました。水城の土塁(大堤)の構造や工法解明のために実施された、2013年(平成25年)から始まった発掘調査の前書き部分でした。右上に発掘時の状況が写真紹介されていました。(同上)

  • 左から2枚目のパネルの紹介です。土塁の大きさ見本に170センチの人が記されていました。上部に記された断面図には、かつての博多側(北側)の約60メートル幅の水堀も図示されていました。大宰府側にも小さな溝が描かれていましたが、こちらは排水溝かもしれません。土塁構造の全体の幅が凡そ140メートルの巨大さです。(同上)

    左から2枚目のパネルの紹介です。土塁の大きさ見本に170センチの人が記されていました。上部に記された断面図には、かつての博多側(北側)の約60メートル幅の水堀も図示されていました。大宰府側にも小さな溝が描かれていましたが、こちらは排水溝かもしれません。土塁構造の全体の幅が凡そ140メートルの巨大さです。(同上)

  • 左から3枚目のパネルの紹介です。主要な古代技術の駆使部分が、『その1、版築』、『その2、傾斜させた版築土塁』、『その3、敷粗朶』と先に紹介しましたが、『その1、版築』部分の紹介です。板などで囲い、棒で突き固める版築工法は、山の土部分に残されていたことが紹介されていました。(同上)<br />

    左から3枚目のパネルの紹介です。主要な古代技術の駆使部分が、『その1、版築』、『その2、傾斜させた版築土塁』、『その3、敷粗朶』と先に紹介しましたが、『その1、版築』部分の紹介です。板などで囲い、棒で突き固める版築工法は、山の土部分に残されていたことが紹介されていました。(同上)

  • 先程の断面部分に記された箇所の説明文です。『その2、傾斜させた版築土層』の説明では、土層を大宰府側に傾斜させ、急峻な博多側の崩壊を防止したことが解説されていました。『その3、敷粗朶』では、火山の土の下に敷かれていた粗朶の効果の解説でした。土塁の基礎を安定させ、また、作業途中の人が歩き易くなった効果が解説されていました。(同上)

    先程の断面部分に記された箇所の説明文です。『その2、傾斜させた版築土層』の説明では、土層を大宰府側に傾斜させ、急峻な博多側の崩壊を防止したことが解説されていました。『その3、敷粗朶』では、火山の土の下に敷かれていた粗朶の効果の解説でした。土塁の基礎を安定させ、また、作業途中の人が歩き易くなった効果が解説されていました。(同上)

  • 分割して紹介したパネルの最後の部分です。『土塁に使われた土の材料』のタイトルがありました。高さによって土質を使い分け、作業効率を高めたらしいことが紹介されていました。写真紹介された土材は、上から『山の土』、『川の土』と『火山の土』です。粘土を混ぜたり、敷粗朶の腐朽防止策も採られていたようです。(同上)

    分割して紹介したパネルの最後の部分です。『土塁に使われた土の材料』のタイトルがありました。高さによって土質を使い分け、作業効率を高めたらしいことが紹介されていました。写真紹介された土材は、上から『山の土』、『川の土』と『火山の土』です。粘土を混ぜたり、敷粗朶の腐朽防止策も採られていたようです。(同上)

  • 分割して紹介した、先程のパネルとは別の説明パネルです。『土塁の築造方法』のタイトルがありました。1300年を経ても残った土塁の作像方法が、4ん段階に分けてイラストで紹介されていました。1.基礎の構築(調査)、2.基礎の構築(基礎の改質)、3.土塁上部の築造、4.完成の4段階です。発掘調査で精密に確認されたようです。(同上)

    分割して紹介した、先程のパネルとは別の説明パネルです。『土塁の築造方法』のタイトルがありました。1300年を経ても残った土塁の作像方法が、4ん段階に分けてイラストで紹介されていました。1.基礎の構築(調査)、2.基礎の構築(基礎の改質)、3.土塁上部の築造、4.完成の4段階です。発掘調査で精密に確認されたようです。(同上)

  • 次の説明パネルには、『敷粗朶発掘の瞬間』のタイトルがありました。地面から1メートルほど掘り下げた場所から出土した1300年前の敷粗朶の植物は、空気に触れると、緑色が黒色に変色したことが紹介されていました。中国の兵馬俑坑の発掘調査でも、出土した兵馬俑の彩色が見る見るうちに変色したことが紹介されていました。(同上)

    次の説明パネルには、『敷粗朶発掘の瞬間』のタイトルがありました。地面から1メートルほど掘り下げた場所から出土した1300年前の敷粗朶の植物は、空気に触れると、緑色が黒色に変色したことが紹介されていました。中国の兵馬俑坑の発掘調査でも、出土した兵馬俑の彩色が見る見るうちに変色したことが紹介されていました。(同上)

  • 『特別史跡・水城跡・土塁断面ひろば』の文字が刻まれていた石標の光景です。福岡県には、五つの特別史跡が指定されています。後の四つは、大野城跡、佐賀県とに跨る基肄城跡、大宰府跡と、6世紀の前方後円墳の王塚古墳です。王塚古墳以外の四つは、大宰府と、その防衛施設です。(同上)

    『特別史跡・水城跡・土塁断面ひろば』の文字が刻まれていた石標の光景です。福岡県には、五つの特別史跡が指定されています。後の四つは、大野城跡、佐賀県とに跨る基肄城跡、大宰府跡と、6世紀の前方後円墳の王塚古墳です。王塚古墳以外の四つは、大宰府と、その防衛施設です。(同上)

  • 『水城の敷粗朶に使用された樹木』のタイトルがあった説明パネルの光景です。水城の堤防を築く際、軟弱地盤に対応するために敷かれた樹木の紹介でした。これまでの調査で、ムクノキ、タブノキ、アワブキなど、32種類が確認されたことが説明されていました。(同上)

    『水城の敷粗朶に使用された樹木』のタイトルがあった説明パネルの光景です。水城の堤防を築く際、軟弱地盤に対応するために敷かれた樹木の紹介でした。これまでの調査で、ムクノキ、タブノキ、アワブキなど、32種類が確認されたことが説明されていました。(同上)

  • 水城の土塁の断面部分を先に紹介しましたので、次は土塁に沿っての現地紹介です。水城は、大野城のある四大寺山(大城山)と、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られています。その全長は、約1.2キロメートルで、高さが9メートルの規模です。(同上)

    水城の土塁の断面部分を先に紹介しましたので、次は土塁に沿っての現地紹介です。水城は、大野城のある四大寺山(大城山)と、西側の大野城市牛頸(うしくび)地区の台地の間の、一番狭いくびれ部を塞ぐ形で造られています。その全長は、約1.2キロメートルで、高さが9メートルの規模です。(同上)

  • 水城の版築土塁の大宰府側の光景になります。北側のは片側は急峻な地形とされますが、こちら側は平坦地が広がっていました。かつての鈴木の土塁の大宰府側のへいたんちになるようです。土塁を含めて80メートルほどの幅があるようです。(同上)

    水城の版築土塁の大宰府側の光景になります。北側のは片側は急峻な地形とされますが、こちら側は平坦地が広がっていました。かつての鈴木の土塁の大宰府側のへいたんちになるようです。土塁を含めて80メートルほどの幅があるようです。(同上)

  • 同じく、水城の版築土塁の大宰府側の光景です。当時の東アジアの政治状況を紹介しておきます。6世紀から7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していましたが、新羅は二国に圧迫される状況でした。倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録にあります。倭国は任那、加羅と関係が深かったようです。(同上)

    同じく、水城の版築土塁の大宰府側の光景です。当時の東アジアの政治状況を紹介しておきます。6世紀から7世紀の朝鮮半島では、高句麗・百済・新羅の三国が鼎立していましたが、新羅は二国に圧迫される状況でした。倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが『日本書紀』の記録にあります。倭国は任那、加羅と関係が深かったようです。(同上)

  • 475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落しました。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗びへ遷都しました。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされました。当時の百済は倭国と関係が深く、倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していました。また高句麗との戦いでは、度々倭国から援軍を送られました。(同上)

    475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落しました。その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗びへ遷都しました。任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされました。当時の百済は倭国と関係が深く、倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していました。また高句麗との戦いでは、度々倭国から援軍を送られました。(同上)

  • 一方、中国では581年に建国された隋(581~618年)が中国大陸を統一し、文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行いましたが、いずれも失敗しました。その後、隋は国内の反乱で618年に煬帝が殺害されて滅びました。その後に建国されたのが唐(618~907年)です。(同上)

    一方、中国では581年に建国された隋(581~618年)が中国大陸を統一し、文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行いましたが、いずれも失敗しました。その後、隋は国内の反乱で618年に煬帝が殺害されて滅びました。その後に建国されたのが唐(618~907年)です。(同上)

  • この階段を登って、土塁の大宰府側から、10メートルの高さとされる最高地点に向かいました。水城の土塁は、福岡平野が最も狭くなったところを南北に遮断する場所に東西に築かれました。その南側が大宰府側です。(同上)

    この階段を登って、土塁の大宰府側から、10メートルの高さとされる最高地点に向かいました。水城の土塁は、福岡平野が最も狭くなったところを南北に遮断する場所に東西に築かれました。その南側が大宰府側です。(同上)

  • 土塁上を縦断する通りのようでしたが、木々が生い茂り、分け入るのは早々に諦めました。ここで、日本との関係が深かった百済(4世紀前半~660年)について補足説明します。古代の朝鮮半島西部および南西部にあった国家です。660年3月、新羅からの救援要請を受けた唐は、水陸13万の軍を率い、新羅にも従軍を命じました。百済の役の始まりです。(同上)

    土塁上を縦断する通りのようでしたが、木々が生い茂り、分け入るのは早々に諦めました。ここで、日本との関係が深かった百済(4世紀前半~660年)について補足説明します。古代の朝鮮半島西部および南西部にあった国家です。660年3月、新羅からの救援要請を受けた唐は、水陸13万の軍を率い、新羅にも従軍を命じました。百済の役の始まりです。(同上)

  • 百済の役で、唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって百済に進軍しました。唐13万、新羅5万の合計18万の大軍でした。660年7月12日、唐軍は百済の王都を包囲、百済王族の投降希望者が多数でましたが、唐側はこれを拒否、7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡しました。(同上)

    百済の役で、唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって百済に進軍しました。唐13万、新羅5万の合計18万の大軍でした。660年7月12日、唐軍は百済の王都を包囲、百済王族の投降希望者が多数でましたが、唐側はこれを拒否、7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡しました。(同上)

  • 水城の土塁の最高点から、北側の博多側に下る階段の光景です。最高点の縦断は難しそうでしたから、この階段を下って北側に向かいました。ほとんど土塁を横断するだけの見学になりました。話は戻って、663年の白村江の戦いは、再興を目指した倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いでした。倭国・百済遺民の連合軍が大敗しました。(同上)

    水城の土塁の最高点から、北側の博多側に下る階段の光景です。最高点の縦断は難しそうでしたから、この階段を下って北側に向かいました。ほとんど土塁を横断するだけの見学になりました。話は戻って、663年の白村江の戦いは、再興を目指した倭国・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦いでした。倭国・百済遺民の連合軍が大敗しました。(同上)

  • ここからは、土塁の最高点から北側に下りて、出発点の土塁断面が展示してあった場所に向かう途中の光景です。整備された通路が続いていました。百済(くだら)の韓国語読みはペクチェ、現在は韓国の扶余(韓国語読み:プヨ)を中心として、ペクチェ(百済)が滅びた場所としての史跡が残りますので、3度ほど見学して来ました。(同上)

    ここからは、土塁の最高点から北側に下りて、出発点の土塁断面が展示してあった場所に向かう途中の光景です。整備された通路が続いていました。百済(くだら)の韓国語読みはペクチェ、現在は韓国の扶余(韓国語読み:プヨ)を中心として、ペクチェ(百済)が滅びた場所としての史跡が残りますので、3度ほど見学して来ました。(同上)

  • クスノキ(楠木、樟)当たりでしょうか、通路脇には、歴史を感じさせるような大木の姿もありました。出発点の土塁断面が展示してあった場所に戻った後、手元の資料(続日本百名城公式ガイドブック)を参照して、JR線から西鉄線を超えた場所に記されていた、『水城館』を1時間近く歩いて探しましたが、見つかりませんでした。(同上)

    クスノキ(楠木、樟)当たりでしょうか、通路脇には、歴史を感じさせるような大木の姿もありました。出発点の土塁断面が展示してあった場所に戻った後、手元の資料(続日本百名城公式ガイドブック)を参照して、JR線から西鉄線を超えた場所に記されていた、『水城館』を1時間近く歩いて探しましたが、見つかりませんでした。(同上)

  • 『特別史跡・水城城』のタイトルがあった説明看板の光景です。最初に『史跡』に指定されたのが大正10年(1921年)3月、『特別史跡』に指定されたのが昭和28年(1953年)でした。その他に3回の区域追加の年も紹介されていました。(同上)

    『特別史跡・水城城』のタイトルがあった説明看板の光景です。最初に『史跡』に指定されたのが大正10年(1921年)3月、『特別史跡』に指定されたのが昭和28年(1953年)でした。その他に3回の区域追加の年も紹介されていました。(同上)

  • 盛り上がった土塁と、その脇に通路が整備された水城跡の光景です。土塁の上には木々が生い茂る場所もありましたが、木々がない場所は、遺跡整備のために伐採された場所かもしれません。(同上)

    イチオシ

    盛り上がった土塁と、その脇に通路が整備された水城跡の光景です。土塁の上には木々が生い茂る場所もありましたが、木々がない場所は、遺跡整備のために伐採された場所かもしれません。(同上)

  • 博多駅経由でやって来た『水城城跡』の最寄り駅の水城駅構内の光景です。博多駅との間は20分弱の乗車時間でした。今晩の宿は天神地区で予約していましたので、博多駅からは地下鉄での移動になります。(同上)

    博多駅経由でやって来た『水城城跡』の最寄り駅の水城駅構内の光景です。博多駅との間は20分弱の乗車時間でした。今晩の宿は天神地区で予約していましたので、博多駅からは地下鉄での移動になります。(同上)

  • 1時間ほど歩いても探し出せなかった続百名城スタンプが置いてあるはずの『水城館』でしたが、諦めて戻って来た水城駅に置いてありました。その続百名城スタンプが置いてあった場所の光景です。最初に電車を降りた時には、全く気が付きませんでした。(同上)

    1時間ほど歩いても探し出せなかった続百名城スタンプが置いてあるはずの『水城館』でしたが、諦めて戻って来た水城駅に置いてありました。その続百名城スタンプが置いてあった場所の光景です。最初に電車を降りた時には、全く気が付きませんでした。(同上)

  • 昨晩は、豊後水道の鮮魚を肴に晩酌を楽しみましたが、この日は博多の天神近くでの晩酌のお店探しです。同じように鮮魚が美味しそうなお店が見付かりました。刺身の盛り合わせとフグの空揚げなどを摘みに日本酒の晩酌でした。(同上)

    昨晩は、豊後水道の鮮魚を肴に晩酌を楽しみましたが、この日は博多の天神近くでの晩酌のお店探しです。同じように鮮魚が美味しそうなお店が見付かりました。刺身の盛り合わせとフグの空揚げなどを摘みに日本酒の晩酌でした。(同上)

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