水道橋旅行記(ブログ) 一覧に戻る
東京-飯田町間3.9km開通時期は、明治37年(1904年)から大正8年(1919年)に亘る15年間である。<br />即ち、<br /> 飯田町-御茶ノ水間 明治37年(1904年)12月31日 甲武鐵道<br /> 御茶ノ水-昌平橋間 明治41年(1908年) 4月19日 帝國鐵道庁<br /> 昌平橋-萬世橋間  明治45年(1912年) 4月 1日 内閣鐵道院<br /> 萬世橋-東京間   大正 8年(1919年) 3月 1日 内閣鐵道院<br />である。<br /><br /><br />飯田町-御茶ノ水間延長開業は、甲武(こうぶ)鐵道に依り、明治37年(1904年)12月31日大晦日に実施された。<br /><br />該区間延長に鑑み、当時の第13代東京府知事 三浦 安(みうら やすし)(文政12年(1829年)9月15日~明治43年(1910年)12月11日)(明治26年(1893年)10月26日~明治29年(1896年)3月14日在任)を座長とする東京市区改正委員会は、該社該区間建設工事許可申請に対し、<br />甲武鐵道ノ飯田町萬世橋間延長ハ単ニ萬世橋ニ至ルモノトハ許可セス東京中央高架橋鐵道ニ連絡スヘキモノトシテ許可スヘキ<br />との見解を開陳決議し、明治28年(1895年)8月に出席者全会一致で可決した。<br />然るに、問題は、飯田町以東は当時の東京市神田區内に於ける住宅最密集地域形成故に、用地取得が計画当初から困難が予想され、事実、土地選定も二転三転を余儀無くさせられる状況だった。<br /><br />該社に依る、飯田町-神田鍛冶屋町間2.6km建設工事許可に対し、明治33年(1900年)4月25日附で建設免許が交付された。<br /><br />現在の神田三崎神社は、本来は現在の水道橋駅西口付近を中心に鎮座し、且つ、広大な境内を有していたが、該区間建設の為に現在地への移転を強いられ、あまつさへ、昭和8年(1933年)の複々線化工事に伴い、更なる用地提供を余儀無くさせられ、現在の猫の額の如き狭隘な境内になってしまった。<br />現在の御茶ノ水-水道橋間は面倒な一般土地収用を放棄し、代りに、神田川堤防を開削する事で解決施工する始末だった。<br /><br />因みに、新宿-牛込間開通は明治27年(1894年)10月9日、牛込-飯田町間開通が翌明治28年(1895年)4月3日だった事から、飯田町以東延長施工が如何に困難な条件下での施工だったかが理解されよう。<br />因みに、飯田町-御茶ノ水間は開通当初より複吊架線式直流600V電化で電車運転され、更に、当時としては画期的な自動閉塞式で米ユニオン・スイッチ・シグナル社製円盤型自動信号機を採用していた。<br /><br /><br />飯田町-萬世橋間の殆どの橋梁桁は、独逸ハーコート(HARKORT)社製造品が使用された。<br /><br />即ち、該社は、フリードリヒ・ハーコート(Friedrich HARKORT)(1793年(寛政8年)2月22日~1880年(明治12年)3月6日)に依り創設された鋼鉄橋梁製造企業で、本社はデュイスブルク(DUISBURG)に設置された。<br /><br />該橋梁桁は、関東大震災後に於ける道路拡張、及び、飯田町-御茶ノ水Ⅱ間複々線化工事時に撤去例も多いが、昌平橋架道橋、及び、小石川通橋橋梁はじめ数箇所橋梁で現存現用しており、特に、後者橋梁は、平行弦上路プラットトラス構桁は、都内現用橋梁では唯一の存在である。<br /><br /><br />御茶ノ水-昌平橋(しょうへいばし)間0.4km延長工事は甲武鐵道に依り明治39年(1906年)3月に着工したが、然し、該工事着工時点で、同年3月31日附で公布された鐵道國有法にに拠り同年10月1日附で該社は政府買収が決定されていた事から、該区間延長工事着手は、利用者企業の利益を考慮したものなどでは無く、寧ろ、政府買収価格は買収時に於ける資産全体が対象とされた事から、政府買収対象会社は、俄土木工事開始例が多数見られ、該社新宿-中野間複線化、日本鐵道大宮-宇都宮間複線化、関西鐵道名古屋-湊町間全線複線電化、同城東線全線電化、参宮鐵道亀山-鳥羽間全線複線化、等々、明らかに政府に依る企業買収価格吊上を狙ったものが多く、正に狸の泥舟状態で、現在ですら非実現的事業も多きに亘った。<br /><br />御茶ノ水-昌平橋間延長工事は国有化後も継続工事とされ、明治41年(1908年)4月19日に逓信省帝國鐵道庁に依り完成した。<br /><br />引続き、昌平橋-萬世橋(まんせいばし)間0.3km延長工事が施工され、該区間は明治45年(1912年)4月1日に開通し、同時に昌平橋駅は営業を廃止した。<br /><br />延長工事酣な折、昌平橋駅構内に於いて重大列車事故が発生する。<br /><br />明治43年(1910年)3月8日<br />中央東線昌平橋驛ニ於テ電車到着ノ際何人カ制動機排気弁ヲ開放シ置キタル為制動ノ効力ヲ失シ停止スルコト能ハス 為ニ車止ニ激突シ乗客拾一名職員一名負傷シタリ<br />なる記録が現存するが、要するに職員外の第三者が制動機の排気弁を故意に開放した事が原因で、空気制動機が通常作動であるべき減速状態にならず、該駅車止に激突し車内の乗客職員が将棋倒しで負傷したもので、一歩間違えれば列車自体が高架橋から墜落していた危険性を有していた事故で、現在なら列車往来危険罪で、直ちに刑事事件として捜査が開始されたであろうと思われる。<br /><br />竣工した萬世橋駅本屋は、東京帝國大学工科大学(現 東京大学工学部)教授 辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)8月22日~大正8年(1919年)3月25日)設計に依る3階建総煉瓦建築で、同時期に建設中で大正3年(1914年)3月30日竣工の東海道本線烏森(現 新橋Ⅱ)駅本屋と同様の外観を有し、建設中だった東京中央(東京)駅本屋の試周作建築と看做されていた。<br />該駅本屋内には、1,2,3等旅客用待合室やレストラン、会議室等々が設置されたが、当初計画と異なり、該駅発着列車は近距離電車が主で、中長距離列車は相変わらず飯田町駅発着だった事から、特に1等旅客待合室利用者など絶無に等しい状態だったが、該駅本屋が東京市中心部に出現した事で、東京市民をして驚愕させるに充分な存在だった。<br />また、該駅本屋前広場には、日露戦争第3次旅順軍港閉塞作戦(明治37年(1904年)3月27日)遂行中に戦死した 海軍中佐 廣瀬武夫(ひろせ たけお)(慶應4年(1868年)5月27日~明治37年(1904年)3月27日)、及び、海軍兵曹長 杉野孫七(すぎの まごしち)(慶應3年(1867年)1月24日~明治37年(1904年)3月27日)を軍神と讃え、明治42年(1919年)5月27日の日本海海戦記念日に建立された銅像が存在し当時の東京名所となった。<br /><br /><br />残存未建設区間たる東京-萬世橋間1.9kmは、明治45年(1912年)6月に計画骨子が決定したが、用地買収等々に時間を要し、実際の着工は大正5年(1916年)1月だった。<br /><br />該区間延長工事の為に要した土地は計12330坪で該土地買収資金は826830円だった。<br />該当時、当該地は東京市内に於ける最密集地だったが、買収提示金、及び、移転費が高額だった事から、一般住民は概ね土地買収に対し協力的だったが、寧ろ、一番厄介な存在だったのは、当時、麹町區常盤橋に所在した内閣印刷局だった。<br />結局、内閣印刷局移転費用は639坪183000円を要したが、該区間土地買収資金全体の22%を占めた。<br />該本庁舎は煉瓦建築物で、内閣鐵道院は該庁舎を解体し、煉瓦、木材を売却し補填し様と計画したが、調査の結果、使用煉瓦は粗悪品で再用不能と判明し、木材は公開入札の結果、12525円の二束三文的格安価格で落札された。<br /><br /><br />該区間は開通以来、陽陰極の複吊架線式が採用されたが、内閣鐵道院は他車種に先行し電車に限定し既成螺旋連結器を自動連結器交換を決定したが、然し、自動連結器に交換する為には、現在の電棍(ポール)集電では連結時に相互車輌に接触する事が判明した為に、2本電棍集電から軌条を陰極帰線とするパンダグラフ集電とさせるべく、架線を単線からカテナリー式に改造し、萬世橋-四ッ谷間が大正7年(1918年)3月2日、四ッ谷-中野間は翌大正8年(1919年)1月7日に架線変更が施工され、同年内に全車輌がパンダグラフ集電化された。<br /><br /><br />該区間最大の難工事だった萬世橋-東京(呉服橋)間建設は、大正8年(1919年)3月1日に開通し、該線起点が萬世橋から東京駅に変更され、同時に、電車の運転形態も、中野-東京-品川-新宿-池袋-上野間運転に変更されたが、他方、萬世橋駅は中間駅化してしまい将来に於ける蔭りが見え始める。<br /><br /><br />大正12年(1923年)9月1日は、前日未明から続いた二百十日も早朝には止み、天候回復後は夏日特有の蒸暑の午前が正に終わろうとした11時58分頃、東京市民は突然の揺れに当初は単なる地震だと思ったが、然し、単なる揺れから更なる激振動を伴い、木造家屋が次々と轟音を立てて倒壊する姿を目の当たりにし、呆然としつつ立っている事すら困難な状況に人々は大地震が発生した事を身を以って知らされた。<br /><br />後世、関東大震災(かんとう だいしんさい)と命名され記憶された地震は、震源地が神奈川縣西部だったにも拘らず、東京市内、特に、神田區(現 千代田区)、日本橋區(現 中央区)、下谷區(現 台東区)、及び、本所區(現 墨田区)に於いて甚大被害を生じせしめた。<br /><br />該区間に於ける該震災被害は下記である。<br />   神田驛   同日19時00分頃全焼<br />   萬世橋驛  同日18時30分頃全焼<br />   御茶ノ水驛 同日14時00分頃全焼<br />   水道橋驛  同日13時40分頃全焼<br />   飯田町驛  同日15時00分頃全焼<br /><br />御茶ノ水-水道橋間神田川築堤部分では、線路が人家に面していた事から、該民家群火災に伴う、木片、衣類断片が着火状態で線路上に襲来した事や該線、枕木類焼失が他所と比較して著しく、軌条も長時間に亘る高熱の為に屈曲被害が多く発生した。<br />  神田-萬世橋間       枕木焼損 164本<br />  万世橋駅構内    枕木焼損 132本<br />  万世橋-御茶ノ水間 枕木焼損 274本<br />  御茶ノ水駅構内   枕木焼損 110本<br />  御茶ノ水-水道橋間 枕木焼失1000本<br />  水道橋駅構内    枕木焼失 300本<br />  水道橋-飯田町間  枕木焼失 606本<br /><br />然るに、該区間内に於いて最も甚大被害発生に為に悲惨な結果を現出させたのは神田駅である。<br />該駅建設着工当初からを知る地元住民達は、該駅ならば鉄骨鉄筋コンクリート構造で安全なりと考えたのは自然の成行きと言えた。<br />住民達はリヤカーや大八車に家財道具一式を積込み、家族共々、該駅に次々と避難してきた。<br />当初は神田區猿楽町、及び、同區神保町付近で発生した火災が一団となり火砕流化した事から、同日17時頃に付近一帯に延焼し、該駅では重要帳票類、備品等々を該駅地下煉瓦倉庫に搬入させたが、住民達が持込んだ家財道具類が導火帯化した為に引火全滅し、更に、火砕流に包囲され立錐の余地も無い状態中、且つ、当時の女性は日本髪を結っていた事から鬢付油に引火し、悲鳴大絶叫と共に次々に人々に連鎖しながら避難者を襲い、避難現場は壮絶凄惨状態を現出させ、焼死者約550名を出す大惨事現場となった。<br /><br />地震発生と同時に萬世橋駅本屋は煉瓦壁に無数の亀裂が発生したが、倒壊を伴う危険性は全く無かった。<br />他方、地震発生直後より付近住民が家財道具一式を携え次々と集まって来たが、付近数箇所で発生した火災が集約化され火砕流となり、該家財道具群に着火炎上し導火帯化した事から、該駅本屋も当日17時30分頃には火災に巻き込まれ全焼するに至った。<br /><br />現在に於いて、地震発生と同時に津波からの逃避、倒壊建築物に対する注意喚起はなされているが、然し、東日本大震災発生直後に持参道具類に着火炎上例も有り、該事例に対する注意喚起をも必要と痛感させられる。<br /><br />駅施設火災焼失に関しては、神田、萬世橋、及び、御茶ノ水、水道橋、飯田町とは大きく被災要因が異なっていた。<br /><br />即ち、後者3駅が地元火災延焼が原因だったのに対し、前者2駅は、地震発生後、地元住民達が該高架線工事着工時から知り尽しているとして構内は安全なりと考え次々と避難して来たが、かの者達は家族と共に家財道具一式をも帯同し立錐の余地無き状態となったが、同日夕刻頃より付近一帯での火災が集約し火砕流化して駅構内に雪崩れ込み、該家財道具群に着火し導火帯化した事で、結果的に駅構内が全焼したものであり、一方の露天との相違こそ有れど、本所區(現 墨田区)旧陸軍被服廠跡地で発生した惨劇と同例である。<br /><br />萬世橋驛本屋は、屋根が崩れ落ち鉄骨が熔解するなど内部立入が極めて危険な状態だったが、取敢ず、付近一帯で回収された焼死体仮収容所に指定され、神田駅遭難者焼損遺体も該駅本屋内に移送収容された。<br /><br />新水道橋、第2三崎町、第1三崎町、及び、小石川架道橋下は、安全と信じ、付近住民が家財道具一式を携え次々と避難して来たが、近隣火災に依り持参家財道具に着火した事に依り大火災が発生し、該火災高熱の為に該各架道橋桁塗装が焼損し、改めて修復を要する事態も発生した。<br /><br />因みに、該震災で奇跡的に助かった人々で、後に、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲時にも生存を勝ち得た人の共通項は、大災害発生時は何も携帯せず身一つで逃避すべき事を、教訓として身を以って知っていたからだった。<br /><br />該区間外震災被災電車は下記の通りである(電車以外の被災車輌に就いては機関車を含め、該線飯田町-新宿間編に於いて仔細記載予定)。<br /><br /> 神田驛 中野発東京品川経由上野行 第324列車 <br />  デハ23502+サハ33772+デハ23503 同日19時頃焼失<br /><br /> 萬世橋驛 中野発東京行 第80列車<br />該駅進入 停止直前に激震の為に該駅構内に於いて2号車に、該駅ホーム上屋支柱が折損命中し車体は大破したが、死傷者無く奇跡的に焼失を免れた。<br /><br /> 水道橋驛 東京発中野行 第335列車<br />  デハ6318+クハ6434+デハ6319 同日13時40分頃焼失<br /><br /> 飯田町驛 東京発中野行 第833列車<br />  デハ6267+クハ23600+デハ6268 同日15時20分~17時頃焼失<br /><br />当時の電車被災記録に、<br />停車場構内にて焼失せしものは被害程度甚しく、高架軌道上に在りたるものは可燃材料焼失後冷却作用を伴ひしため比較的軽微なり。一般に木製の部分は速に焼尽し、鐵製の部分はその構造上、取付位置等によりて異なるも、台枠、電動機等の如きは修理の後再用し得る程度にあり。今ボギー電動車の損傷の一例を示せば次の如し。<br />主要電動機は導線のケース外の部分は焼損せしも、ブッシング緊密なりため火はケースの内部に侵入せず、以て内部には殆ど異状なく、電動子は其の儘これを使用し得べく、界磁線輪には巻替を要したるもこれは外部の熱のためその表面の焼損に由るものにして、電動圧縮機及び、ダイナモーターの界磁線輪並に電動子巻線の大部分焼損せしは孰れも外部の高熱に因るものなり。<br />とされ、実際に焼失車輌台車台枠、制動装置類、及び、電動機は再用されたものが多かった。<br /><br />曲がりなりにも、飯田町以西区間開通が同月3日に可能だったのに対し、東京-飯田町間被害は甚大で、殆どの高架橋本体は無事だったにも拘らず、沿線火災に依る高熱現象の為に、床石変状、コンクリート剥落に依る鉄骨鉄筋露出、軌条湾曲変状、枕木約7000本焼失、等々の被害が発生した。<br /><br />該区間復旧着手は同月5日だったが、被害甚大だった為に時間を要し、同月24日に東京-萬世橋間が復旧完了したが、永楽町変電所焼失の為に送電が不可能で電車運転が不可能だった事から、取敢えず、東京-横濱間運転で、鐵道院基本型12000型客車数両の前後に6700型炭水車付蒸気機関車を連結した列車を延長運転させ、25分間隔30往復運転が可能になった。<br />翌10月1日初電から京濱線は電車運転が可能になった事から、該日より京濱線列車乗入は中止され、東京-萬世橋間小運転で対応した。<br />同月4日には、漸く萬世橋-飯田町間が復旧し電車の試運転が実施され、該試運転は機関車牽引、および、電車単独で実施され、同月5日より電車運転を再開した。<br /><br />永楽町変電所は関東大震災が原因で全焼し、調査の結果、被害状態が著しい事から、鐵道省は該変電所復旧を放棄し、新に神田に変電所設置を決定し、東京電燈會社から買電して直流600V1000kW送電が可能になった。<br /><br /><br />長らく萬世橋駅は神田歓楽街地帯への連絡駅として機能してきたが、大正8年(1919年)3月1日に該駅-東京間が開通し神田駅が開業した事で、それ迄は、東京市内駅乗降順位は第4位を維持し、大正12年(1923年)に第5位になったが、それでも、東京-萬世橋間から東京市電を中継し上野駅への連絡駅としての機能を有していたが、関東大震災翌年たる大正13年(1924年)には第7位、そして、神田-秋葉原間開通翌年たる大正15年(1926年)には第24位へと転落した。<br /><br />即ち、内閣鐵道院線は東京、上野、萬世橋、及び、両國橋(現 両国)、京濱電気鐵道(現 京急電鉄)は品川、東武鐵道は浅草業平橋、京成電気軌道(現 京成電鉄)は押上が起終点であり、此れらターミナル間を連絡する第1輸送手段は東京市電だった。<br />内閣鐵道院線利用者は、運賃計算を東京市内通過を東京、上野、両國橋(現 両国)各駅終点で打切とせず通し計算された。<br />東海道本線は乗換の関係で特別急行利用者以外は新橋Ⅱが利用され、その為に、普通急行は市電乗換客、及び、霞が関官庁街目的とする事から、当時は全列車が停車した。<br />それ故、萬世橋駅利用者が相当数存在したが、大正8年(1919年)3月1日以降、東海道本線対東北本線乗換客で市電利用者は神田駅を利用する様になり、反比例して該駅乗降客が漸次低下し、更に、関東大震災以降、道路、及び、市電線路付替が実施され、該駅前電停が廃止された事で不便さが露呈し、更に、大正14年(1925年)に神田-秋葉原間が開通し神田-上野間で旅客扱が開始された事で、市電利用者は、新橋-両國橋間のみとなり、結果的に萬世橋駅衰退に拍車をかける事態となった。<br /><br /><br />帝都震災復興院は、関東大震災後に於ける震災復興計画に基き、東京市内既設指定道路幅拡張が実行される事になり、該区間内に於いて、萬世橋架道橋、及び、飯田橋通架道橋が該当とされた事から、鐵道省は、該架道橋架替を決定し、前者は昭和3年(1928年)、後者は大正15年(1926年)に実施された。<br /><br /><br />架線電圧は、長らく直流600Vを使用してきたが、<br />   東京-阿佐ヶ谷間 大正15年(1926年)4月 1日 1200V<br />   東京-立川間   昭和 4年(1929年)6月30日 1500V<br />に昇圧した事で高速運転対応可能になり、更に冬期は電気暖房設置も容易となった。<br /><br /><br />該線飯田町-新宿間は昭和4年(1929年)3月16日に複々線化が完了し、電車運転とは原則分離されていたが、然し、起点たる飯田町駅と云う地が禍し、殊に、昭和3年(1928年)11月15日に飯田橋駅開業と同時に、飯田町駅電車乗降場が廃止され、駅本屋位置が移転した事で、飯田町始発列車に乗車する中長距離列車利用者は1両0~2名と云う回送列車状態となり、早晩客扱廃止が決定的になった。<br /><br />此の為に、鐵道省、閑散状態の列車線を活用すべく、急行(現 快速)線電車運転を立案し、昭和6年(1931年)1月に、飯田町-御茶ノ水間増線建設工事に着手した。<br /><br />昭和7年(1932年)7月1日には、それまで開業以来、御茶ノ水橋名古屋方に所在した御茶ノ水駅を反対側に移設し、同時に、総武線両國橋(現 両国)-御茶ノ水間が延長され同時に電車運転が開始された。<br /><br />最難関工事たる御茶ノ水-水道橋間立体交差工事は、昭和8年(1933年)8月に竣工したが、相前後して、飯田町駅旅客取扱は同年7月14日を以って廃止され、同年中に該駅旅客ホームも撤去された。<br />同年9月15日に全ての工事が完了し複々線運転が開始された。<br /><br /><br />鐵道省は、昭和10年(1935年)後期新車として、新たに、三鷹電車庫に対し モハ51型10両配置を決定し、該線名古屋方先頭車として、翌昭和11年(1936年)4~5月に掛けて次々と就役した。<br />該車は、それ迄の鐵道省電車の前面平妻様式から、初めて半流様式3扉セミクロスシート構造を採用し、その後に於ける76系、111系、211系電車構造の先鞭原型となった。<br />該線用電車として、臨時電車用に先行配置されたモハ42型以外でクロスシート構造だった事から、老若男女の人気の的となり、且つ、該車輌就役当時に於ける該線ホーム連絡階段が名古屋方設置駅が多数を占めていた事から、該車輌は常に満員状態を現出していた。<br /><br />水道橋に存在した、元水戸徳川家屋敷跡に設置されていた帝國陸軍砲兵工廠は、敷地狭隘と設備老朽化を理由に、帝國陸軍小倉砲兵工廠に統合廃止が決定し、昭和10年(1935年)に実施され、跡地は更地化されたが戦争終結後も、そのまま残存した。<br /><br /><br />該区間に於ける大東亜戦争中の空襲に依る被害は、<br />昭和20年(1945)<br />  2月25日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計172機<br />                          07時35分 警戒警報発令<br />                      14時15分 空襲警報発令<br />              14時58分 空襲開始<br />          16時03分 空襲警報解除<br />          16時30分 警戒警報解除<br />  爆弾42.3t 焼夷弾411.4t<br />該空襲に依り、神田-萬世橋間高架橋下火災<br /> 復旧26日始発<br /><br /> 4月13日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計328機<br />         22時44分 警戒警報発令<br />           23時00分 空襲警報発令<br />           23時18分 空襲開始<br />            2時22分 空襲警報解除<br />            2時52分 警戒警報解除<br /> 爆弾81.9t 焼夷弾2037.7t<br />該空襲に依り、御茶ノ水、水道橋、及び、飯田町各駅が被災、<br />            モハ30171<br />            モハ31015<br />            クハ38016 <br />            サハ39004 <br />            サハ39012<br />            サハ25134 <br />御茶ノ水駅構内に於いて、電車6両に焼夷弾直撃に依り全焼。<br />戦災廃車後、モハ30171は東武鉄道払下、サハ39004はオハ7047、サハ39012はオハ7065に復旧され客車として再生、サハ25134は東急電鉄払下された。<br /> 御茶ノ水駅本屋、水道橋駅本屋、及び、該駅上下線旅客ホーム上屋全焼。<br /> 復旧 15日14時<br /><br /> 5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機<br />          22時02分 警戒警報発令<br />            22時22分 空襲警報発令<br />                      22時30分 空襲開始<br />             1時00分 空襲警報解除<br />             1時30分 警戒警報解除<br />該空襲に依り、神田駅本屋、飯田町駅信号取扱所、及び、飯田町機関区全焼。<br />因みに、一部文献に飯田橋駅本屋全焼との記述を散見するが、該事実は無く、飯田町を飯田橋と誤植、誤転記の結果と推定されるが明らかに事実無根である。<br /> 運転再開28日6時00分~19時30分 蒸気機関車牽引列車運転、電車運転は30日初電。<br /><br /><br />大東亜戦争終結直後より数年間は、資材不足の為に全施設が限度規定以上使用が要因で、疲弊老朽化が著しい状態となったガ、此の為に、電化区間各地に於いて、架線切断事故が多発したが、該線萬世橋電留線に於いて、昭和21年(1946年)9月13日に、架線断線が原因とする車輌火災事故が発生した。<br /><br />即ち、<br />モハ30133 → デハ73333 昭和3年(1928年)3月31日附竣功 汽車會社製造東京支店製造。<br /> 昭和22年(1947年)4月24日附 事故廃車 相模鉄道払下。<br /><br /><br />現在の東京地下鉄東西線中野-大手町間10.7kmは、中央本線東京-三鷹間複々線化計画代替建設区間として別途設置された路線である。<br /><br />即ち、昭和32年(1957年)日本国有鉄道理事会に於いて、中央本線東京-三鷹間24.1km増線計画案承認事案が事の発端である。<br />御茶ノ水-中野間12.1kmの既成複々線区間を活用し、東京-御茶ノ水間2.6km、及び、中野-三鷹間9.4kmに新に複線施設を追加し該区間全線を複々線とする内容だった。<br />該計画案に基き、東京駅に0番ホーム設置スペースを構成させたが、然し、現実には、東京-御茶ノ水間2.6kmに於ける用地取得は殆ど絶望的であるとされ、追加複々線化は中野-三鷹間9.4kmに限定し、中野-東京間は、帝都高速度交通営団地下鉄に依り、別途建設施工し相互乗入計画に変更された。<br />該計画案は昭和62年(1987年)4月1日の民営分割後も継続したが、昭和63年(1988年)に東京駅復元計画が浮上した事で、該計画案は自然消滅した。<br />現在では、首都高速道路都心環状線で中央本線跨線部が複々線跨間となっているのは、該計画案の先行結果である。<br /><br /><br />昭和43年(1968年)7月16日22時38分頃、御茶ノ水駅1番線で重大事故が発生した。<br /><br />即ち、先行旅客第2239F列車は、該駅出発直後、該列車に直前乗車した乗客荷物が扉に挟まった状態で扉が閉止したが、該乗客が無理やり荷物を引張った為に、扉が開閉状態となった事から、該列車運転台のパイロットランプが消灯し、該列車運転士は異常事態と判断し非常制動を動作させた。<br /><br />他方、後続旅客第2201F列車運転士は、先行第2239F列車に接近し、閉塞信号機が停止現示で列車自動停止装置ATS-B型が動作した為に確認動作したが、漠然と行動した為に、該停止信号を冒進し、先行旅客第2239F列車後部に気づき非常制動を動作させたが間に合わず追突した。<br />該事故に依り双方の電車2両が破損し、乗客20名が重軽傷を負った。<br /><br />復旧は双方の電車を分割し、万世橋留置線に収容後、線路復旧を実施し、翌17日6時50分に開通した。<br /><br />当時のATSは確認ボタンを押印後はバックアップ機能が無く、言わば、起こるべくして発生した事故だった。<br /><br />因みに、現在、東日本旅客鉄道が使用するATS-Pn型は、運転士に依る確認作業を必要とせず、信号冒進時にのみ非常制動が作動するシステムとなっており、保安装置としてはATCよりも高度機能を有する。<br /><br />東海旅客鉄道は、該社所有地大半から西日本旅客鉄道が採用した交流60Hz様式のATS-W型導入を決定し採用したが、故障が多いのみならず、該システムと連携する踏切誤動作に依る、遮断機が列車通過中にも拘らず開状態だった事故が連続発生した事が契機となり、東海旅客鉄道は主要線区に於いて設置工事中だったにも拘らず、W型採用を中止し、東日本旅客鉄道50Hz様式のATS-Pn型採用に踏み切った。<br /><br />此の為に、大垣-米原間に乗入れていた西日本旅客鉄道普通快速用電車は、Pn型車上機器設置を見送った事から、該区間乗入が不可能になり、結果的に長らく続いた大垣乗入が廃止された。<br /><br />逆に、東日本旅客鉄道小山車両区配置の231系電車はW型未設置だった事から、東海道本線熱海以西区間乗入が不可能だったが、東海旅客鉄道がPn型が設置された事で、事実上、米原まで入線可能である。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />1903年(明治36年)ドイツ・ハーコード社製<br />平行弦上路プラットトラス構造<br />小石川(こいしかわがわ)橋梁<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />中央本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-飯田橋間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11227787<br />~飯田町-飯田橋-新宿間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11228675<br />~新宿-中野間編 明治頌歌~<br /><br />~中野-三鷹間編 大正浪漫~<br /><br />~三鷹-立川間編 大正浪漫~<br /><br />~立川-八王子間編 明治頌歌~<br /><br />~八王子-上野原間編 明治頌歌~<br /><br />~上野原-大月間編 明治頌歌~<br /><br />~大月-笹子間編 明治頌歌~<br /><br />~笹子-塩山間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11303788<br />~塩山-甲府間編 明治頌歌~<br 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中央本線歴史的痕跡探訪記 ~東京-飯田橋間編 明治頌歌~

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

東京-飯田町間3.9km開通時期は、明治37年(1904年)から大正8年(1919年)に亘る15年間である。
即ち、
飯田町-御茶ノ水間 明治37年(1904年)12月31日 甲武鐵道
御茶ノ水-昌平橋間 明治41年(1908年) 4月19日 帝國鐵道庁
昌平橋-萬世橋間  明治45年(1912年) 4月 1日 内閣鐵道院
萬世橋-東京間   大正 8年(1919年) 3月 1日 内閣鐵道院
である。


飯田町-御茶ノ水間延長開業は、甲武(こうぶ)鐵道に依り、明治37年(1904年)12月31日大晦日に実施された。

該区間延長に鑑み、当時の第13代東京府知事 三浦 安(みうら やすし)(文政12年(1829年)9月15日~明治43年(1910年)12月11日)(明治26年(1893年)10月26日~明治29年(1896年)3月14日在任)を座長とする東京市区改正委員会は、該社該区間建設工事許可申請に対し、
甲武鐵道ノ飯田町萬世橋間延長ハ単ニ萬世橋ニ至ルモノトハ許可セス東京中央高架橋鐵道ニ連絡スヘキモノトシテ許可スヘキ
との見解を開陳決議し、明治28年(1895年)8月に出席者全会一致で可決した。
然るに、問題は、飯田町以東は当時の東京市神田區内に於ける住宅最密集地域形成故に、用地取得が計画当初から困難が予想され、事実、土地選定も二転三転を余儀無くさせられる状況だった。

該社に依る、飯田町-神田鍛冶屋町間2.6km建設工事許可に対し、明治33年(1900年)4月25日附で建設免許が交付された。

現在の神田三崎神社は、本来は現在の水道橋駅西口付近を中心に鎮座し、且つ、広大な境内を有していたが、該区間建設の為に現在地への移転を強いられ、あまつさへ、昭和8年(1933年)の複々線化工事に伴い、更なる用地提供を余儀無くさせられ、現在の猫の額の如き狭隘な境内になってしまった。
現在の御茶ノ水-水道橋間は面倒な一般土地収用を放棄し、代りに、神田川堤防を開削する事で解決施工する始末だった。

因みに、新宿-牛込間開通は明治27年(1894年)10月9日、牛込-飯田町間開通が翌明治28年(1895年)4月3日だった事から、飯田町以東延長施工が如何に困難な条件下での施工だったかが理解されよう。
因みに、飯田町-御茶ノ水間は開通当初より複吊架線式直流600V電化で電車運転され、更に、当時としては画期的な自動閉塞式で米ユニオン・スイッチ・シグナル社製円盤型自動信号機を採用していた。


飯田町-萬世橋間の殆どの橋梁桁は、独逸ハーコート(HARKORT)社製造品が使用された。

即ち、該社は、フリードリヒ・ハーコート(Friedrich HARKORT)(1793年(寛政8年)2月22日~1880年(明治12年)3月6日)に依り創設された鋼鉄橋梁製造企業で、本社はデュイスブルク(DUISBURG)に設置された。

該橋梁桁は、関東大震災後に於ける道路拡張、及び、飯田町-御茶ノ水Ⅱ間複々線化工事時に撤去例も多いが、昌平橋架道橋、及び、小石川通橋橋梁はじめ数箇所橋梁で現存現用しており、特に、後者橋梁は、平行弦上路プラットトラス構桁は、都内現用橋梁では唯一の存在である。


御茶ノ水-昌平橋(しょうへいばし)間0.4km延長工事は甲武鐵道に依り明治39年(1906年)3月に着工したが、然し、該工事着工時点で、同年3月31日附で公布された鐵道國有法にに拠り同年10月1日附で該社は政府買収が決定されていた事から、該区間延長工事着手は、利用者企業の利益を考慮したものなどでは無く、寧ろ、政府買収価格は買収時に於ける資産全体が対象とされた事から、政府買収対象会社は、俄土木工事開始例が多数見られ、該社新宿-中野間複線化、日本鐵道大宮-宇都宮間複線化、関西鐵道名古屋-湊町間全線複線電化、同城東線全線電化、参宮鐵道亀山-鳥羽間全線複線化、等々、明らかに政府に依る企業買収価格吊上を狙ったものが多く、正に狸の泥舟状態で、現在ですら非実現的事業も多きに亘った。

御茶ノ水-昌平橋間延長工事は国有化後も継続工事とされ、明治41年(1908年)4月19日に逓信省帝國鐵道庁に依り完成した。

引続き、昌平橋-萬世橋(まんせいばし)間0.3km延長工事が施工され、該区間は明治45年(1912年)4月1日に開通し、同時に昌平橋駅は営業を廃止した。

延長工事酣な折、昌平橋駅構内に於いて重大列車事故が発生する。

明治43年(1910年)3月8日
中央東線昌平橋驛ニ於テ電車到着ノ際何人カ制動機排気弁ヲ開放シ置キタル為制動ノ効力ヲ失シ停止スルコト能ハス 為ニ車止ニ激突シ乗客拾一名職員一名負傷シタリ
なる記録が現存するが、要するに職員外の第三者が制動機の排気弁を故意に開放した事が原因で、空気制動機が通常作動であるべき減速状態にならず、該駅車止に激突し車内の乗客職員が将棋倒しで負傷したもので、一歩間違えれば列車自体が高架橋から墜落していた危険性を有していた事故で、現在なら列車往来危険罪で、直ちに刑事事件として捜査が開始されたであろうと思われる。

竣工した萬世橋駅本屋は、東京帝國大学工科大学(現 東京大学工学部)教授 辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)8月22日~大正8年(1919年)3月25日)設計に依る3階建総煉瓦建築で、同時期に建設中で大正3年(1914年)3月30日竣工の東海道本線烏森(現 新橋Ⅱ)駅本屋と同様の外観を有し、建設中だった東京中央(東京)駅本屋の試周作建築と看做されていた。
該駅本屋内には、1,2,3等旅客用待合室やレストラン、会議室等々が設置されたが、当初計画と異なり、該駅発着列車は近距離電車が主で、中長距離列車は相変わらず飯田町駅発着だった事から、特に1等旅客待合室利用者など絶無に等しい状態だったが、該駅本屋が東京市中心部に出現した事で、東京市民をして驚愕させるに充分な存在だった。
また、該駅本屋前広場には、日露戦争第3次旅順軍港閉塞作戦(明治37年(1904年)3月27日)遂行中に戦死した 海軍中佐 廣瀬武夫(ひろせ たけお)(慶應4年(1868年)5月27日~明治37年(1904年)3月27日)、及び、海軍兵曹長 杉野孫七(すぎの まごしち)(慶應3年(1867年)1月24日~明治37年(1904年)3月27日)を軍神と讃え、明治42年(1919年)5月27日の日本海海戦記念日に建立された銅像が存在し当時の東京名所となった。


残存未建設区間たる東京-萬世橋間1.9kmは、明治45年(1912年)6月に計画骨子が決定したが、用地買収等々に時間を要し、実際の着工は大正5年(1916年)1月だった。

該区間延長工事の為に要した土地は計12330坪で該土地買収資金は826830円だった。
該当時、当該地は東京市内に於ける最密集地だったが、買収提示金、及び、移転費が高額だった事から、一般住民は概ね土地買収に対し協力的だったが、寧ろ、一番厄介な存在だったのは、当時、麹町區常盤橋に所在した内閣印刷局だった。
結局、内閣印刷局移転費用は639坪183000円を要したが、該区間土地買収資金全体の22%を占めた。
該本庁舎は煉瓦建築物で、内閣鐵道院は該庁舎を解体し、煉瓦、木材を売却し補填し様と計画したが、調査の結果、使用煉瓦は粗悪品で再用不能と判明し、木材は公開入札の結果、12525円の二束三文的格安価格で落札された。


該区間は開通以来、陽陰極の複吊架線式が採用されたが、内閣鐵道院は他車種に先行し電車に限定し既成螺旋連結器を自動連結器交換を決定したが、然し、自動連結器に交換する為には、現在の電棍(ポール)集電では連結時に相互車輌に接触する事が判明した為に、2本電棍集電から軌条を陰極帰線とするパンダグラフ集電とさせるべく、架線を単線からカテナリー式に改造し、萬世橋-四ッ谷間が大正7年(1918年)3月2日、四ッ谷-中野間は翌大正8年(1919年)1月7日に架線変更が施工され、同年内に全車輌がパンダグラフ集電化された。


該区間最大の難工事だった萬世橋-東京(呉服橋)間建設は、大正8年(1919年)3月1日に開通し、該線起点が萬世橋から東京駅に変更され、同時に、電車の運転形態も、中野-東京-品川-新宿-池袋-上野間運転に変更されたが、他方、萬世橋駅は中間駅化してしまい将来に於ける蔭りが見え始める。


大正12年(1923年)9月1日は、前日未明から続いた二百十日も早朝には止み、天候回復後は夏日特有の蒸暑の午前が正に終わろうとした11時58分頃、東京市民は突然の揺れに当初は単なる地震だと思ったが、然し、単なる揺れから更なる激振動を伴い、木造家屋が次々と轟音を立てて倒壊する姿を目の当たりにし、呆然としつつ立っている事すら困難な状況に人々は大地震が発生した事を身を以って知らされた。

後世、関東大震災(かんとう だいしんさい)と命名され記憶された地震は、震源地が神奈川縣西部だったにも拘らず、東京市内、特に、神田區(現 千代田区)、日本橋區(現 中央区)、下谷區(現 台東区)、及び、本所區(現 墨田区)に於いて甚大被害を生じせしめた。

該区間に於ける該震災被害は下記である。
神田驛   同日19時00分頃全焼
萬世橋驛  同日18時30分頃全焼
御茶ノ水驛 同日14時00分頃全焼
水道橋驛  同日13時40分頃全焼
飯田町驛  同日15時00分頃全焼

御茶ノ水-水道橋間神田川築堤部分では、線路が人家に面していた事から、該民家群火災に伴う、木片、衣類断片が着火状態で線路上に襲来した事や該線、枕木類焼失が他所と比較して著しく、軌条も長時間に亘る高熱の為に屈曲被害が多く発生した。
 神田-萬世橋間 枕木焼損 164本
  万世橋駅構内   枕木焼損 132本
  万世橋-御茶ノ水間 枕木焼損 274本
  御茶ノ水駅構内  枕木焼損 110本
  御茶ノ水-水道橋間 枕木焼失1000本
  水道橋駅構内   枕木焼失 300本
  水道橋-飯田町間  枕木焼失 606本

然るに、該区間内に於いて最も甚大被害発生に為に悲惨な結果を現出させたのは神田駅である。
該駅建設着工当初からを知る地元住民達は、該駅ならば鉄骨鉄筋コンクリート構造で安全なりと考えたのは自然の成行きと言えた。
住民達はリヤカーや大八車に家財道具一式を積込み、家族共々、該駅に次々と避難してきた。
当初は神田區猿楽町、及び、同區神保町付近で発生した火災が一団となり火砕流化した事から、同日17時頃に付近一帯に延焼し、該駅では重要帳票類、備品等々を該駅地下煉瓦倉庫に搬入させたが、住民達が持込んだ家財道具類が導火帯化した為に引火全滅し、更に、火砕流に包囲され立錐の余地も無い状態中、且つ、当時の女性は日本髪を結っていた事から鬢付油に引火し、悲鳴大絶叫と共に次々に人々に連鎖しながら避難者を襲い、避難現場は壮絶凄惨状態を現出させ、焼死者約550名を出す大惨事現場となった。

地震発生と同時に萬世橋駅本屋は煉瓦壁に無数の亀裂が発生したが、倒壊を伴う危険性は全く無かった。
他方、地震発生直後より付近住民が家財道具一式を携え次々と集まって来たが、付近数箇所で発生した火災が集約化され火砕流となり、該家財道具群に着火炎上し導火帯化した事から、該駅本屋も当日17時30分頃には火災に巻き込まれ全焼するに至った。

現在に於いて、地震発生と同時に津波からの逃避、倒壊建築物に対する注意喚起はなされているが、然し、東日本大震災発生直後に持参道具類に着火炎上例も有り、該事例に対する注意喚起をも必要と痛感させられる。

駅施設火災焼失に関しては、神田、萬世橋、及び、御茶ノ水、水道橋、飯田町とは大きく被災要因が異なっていた。

即ち、後者3駅が地元火災延焼が原因だったのに対し、前者2駅は、地震発生後、地元住民達が該高架線工事着工時から知り尽しているとして構内は安全なりと考え次々と避難して来たが、かの者達は家族と共に家財道具一式をも帯同し立錐の余地無き状態となったが、同日夕刻頃より付近一帯での火災が集約し火砕流化して駅構内に雪崩れ込み、該家財道具群に着火し導火帯化した事で、結果的に駅構内が全焼したものであり、一方の露天との相違こそ有れど、本所區(現 墨田区)旧陸軍被服廠跡地で発生した惨劇と同例である。

萬世橋驛本屋は、屋根が崩れ落ち鉄骨が熔解するなど内部立入が極めて危険な状態だったが、取敢ず、付近一帯で回収された焼死体仮収容所に指定され、神田駅遭難者焼損遺体も該駅本屋内に移送収容された。

新水道橋、第2三崎町、第1三崎町、及び、小石川架道橋下は、安全と信じ、付近住民が家財道具一式を携え次々と避難して来たが、近隣火災に依り持参家財道具に着火した事に依り大火災が発生し、該火災高熱の為に該各架道橋桁塗装が焼損し、改めて修復を要する事態も発生した。

因みに、該震災で奇跡的に助かった人々で、後に、昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲時にも生存を勝ち得た人の共通項は、大災害発生時は何も携帯せず身一つで逃避すべき事を、教訓として身を以って知っていたからだった。

該区間外震災被災電車は下記の通りである(電車以外の被災車輌に就いては機関車を含め、該線飯田町-新宿間編に於いて仔細記載予定)。

神田驛 中野発東京品川経由上野行 第324列車
デハ23502+サハ33772+デハ23503 同日19時頃焼失

萬世橋驛 中野発東京行 第80列車
該駅進入 停止直前に激震の為に該駅構内に於いて2号車に、該駅ホーム上屋支柱が折損命中し車体は大破したが、死傷者無く奇跡的に焼失を免れた。

水道橋驛 東京発中野行 第335列車
デハ6318+クハ6434+デハ6319 同日13時40分頃焼失

飯田町驛 東京発中野行 第833列車
デハ6267+クハ23600+デハ6268 同日15時20分~17時頃焼失

当時の電車被災記録に、
停車場構内にて焼失せしものは被害程度甚しく、高架軌道上に在りたるものは可燃材料焼失後冷却作用を伴ひしため比較的軽微なり。一般に木製の部分は速に焼尽し、鐵製の部分はその構造上、取付位置等によりて異なるも、台枠、電動機等の如きは修理の後再用し得る程度にあり。今ボギー電動車の損傷の一例を示せば次の如し。
主要電動機は導線のケース外の部分は焼損せしも、ブッシング緊密なりため火はケースの内部に侵入せず、以て内部には殆ど異状なく、電動子は其の儘これを使用し得べく、界磁線輪には巻替を要したるもこれは外部の熱のためその表面の焼損に由るものにして、電動圧縮機及び、ダイナモーターの界磁線輪並に電動子巻線の大部分焼損せしは孰れも外部の高熱に因るものなり。
とされ、実際に焼失車輌台車台枠、制動装置類、及び、電動機は再用されたものが多かった。

曲がりなりにも、飯田町以西区間開通が同月3日に可能だったのに対し、東京-飯田町間被害は甚大で、殆どの高架橋本体は無事だったにも拘らず、沿線火災に依る高熱現象の為に、床石変状、コンクリート剥落に依る鉄骨鉄筋露出、軌条湾曲変状、枕木約7000本焼失、等々の被害が発生した。

該区間復旧着手は同月5日だったが、被害甚大だった為に時間を要し、同月24日に東京-萬世橋間が復旧完了したが、永楽町変電所焼失の為に送電が不可能で電車運転が不可能だった事から、取敢えず、東京-横濱間運転で、鐵道院基本型12000型客車数両の前後に6700型炭水車付蒸気機関車を連結した列車を延長運転させ、25分間隔30往復運転が可能になった。
翌10月1日初電から京濱線は電車運転が可能になった事から、該日より京濱線列車乗入は中止され、東京-萬世橋間小運転で対応した。
同月4日には、漸く萬世橋-飯田町間が復旧し電車の試運転が実施され、該試運転は機関車牽引、および、電車単独で実施され、同月5日より電車運転を再開した。

永楽町変電所は関東大震災が原因で全焼し、調査の結果、被害状態が著しい事から、鐵道省は該変電所復旧を放棄し、新に神田に変電所設置を決定し、東京電燈會社から買電して直流600V1000kW送電が可能になった。


長らく萬世橋駅は神田歓楽街地帯への連絡駅として機能してきたが、大正8年(1919年)3月1日に該駅-東京間が開通し神田駅が開業した事で、それ迄は、東京市内駅乗降順位は第4位を維持し、大正12年(1923年)に第5位になったが、それでも、東京-萬世橋間から東京市電を中継し上野駅への連絡駅としての機能を有していたが、関東大震災翌年たる大正13年(1924年)には第7位、そして、神田-秋葉原間開通翌年たる大正15年(1926年)には第24位へと転落した。

即ち、内閣鐵道院線は東京、上野、萬世橋、及び、両國橋(現 両国)、京濱電気鐵道(現 京急電鉄)は品川、東武鐵道は浅草業平橋、京成電気軌道(現 京成電鉄)は押上が起終点であり、此れらターミナル間を連絡する第1輸送手段は東京市電だった。
内閣鐵道院線利用者は、運賃計算を東京市内通過を東京、上野、両國橋(現 両国)各駅終点で打切とせず通し計算された。
東海道本線は乗換の関係で特別急行利用者以外は新橋Ⅱが利用され、その為に、普通急行は市電乗換客、及び、霞が関官庁街目的とする事から、当時は全列車が停車した。
それ故、萬世橋駅利用者が相当数存在したが、大正8年(1919年)3月1日以降、東海道本線対東北本線乗換客で市電利用者は神田駅を利用する様になり、反比例して該駅乗降客が漸次低下し、更に、関東大震災以降、道路、及び、市電線路付替が実施され、該駅前電停が廃止された事で不便さが露呈し、更に、大正14年(1925年)に神田-秋葉原間が開通し神田-上野間で旅客扱が開始された事で、市電利用者は、新橋-両國橋間のみとなり、結果的に萬世橋駅衰退に拍車をかける事態となった。


帝都震災復興院は、関東大震災後に於ける震災復興計画に基き、東京市内既設指定道路幅拡張が実行される事になり、該区間内に於いて、萬世橋架道橋、及び、飯田橋通架道橋が該当とされた事から、鐵道省は、該架道橋架替を決定し、前者は昭和3年(1928年)、後者は大正15年(1926年)に実施された。


架線電圧は、長らく直流600Vを使用してきたが、
東京-阿佐ヶ谷間 大正15年(1926年)4月 1日 1200V
東京-立川間   昭和 4年(1929年)6月30日 1500V
に昇圧した事で高速運転対応可能になり、更に冬期は電気暖房設置も容易となった。


該線飯田町-新宿間は昭和4年(1929年)3月16日に複々線化が完了し、電車運転とは原則分離されていたが、然し、起点たる飯田町駅と云う地が禍し、殊に、昭和3年(1928年)11月15日に飯田橋駅開業と同時に、飯田町駅電車乗降場が廃止され、駅本屋位置が移転した事で、飯田町始発列車に乗車する中長距離列車利用者は1両0~2名と云う回送列車状態となり、早晩客扱廃止が決定的になった。

此の為に、鐵道省、閑散状態の列車線を活用すべく、急行(現 快速)線電車運転を立案し、昭和6年(1931年)1月に、飯田町-御茶ノ水間増線建設工事に着手した。

昭和7年(1932年)7月1日には、それまで開業以来、御茶ノ水橋名古屋方に所在した御茶ノ水駅を反対側に移設し、同時に、総武線両國橋(現 両国)-御茶ノ水間が延長され同時に電車運転が開始された。

最難関工事たる御茶ノ水-水道橋間立体交差工事は、昭和8年(1933年)8月に竣工したが、相前後して、飯田町駅旅客取扱は同年7月14日を以って廃止され、同年中に該駅旅客ホームも撤去された。
同年9月15日に全ての工事が完了し複々線運転が開始された。


鐵道省は、昭和10年(1935年)後期新車として、新たに、三鷹電車庫に対し モハ51型10両配置を決定し、該線名古屋方先頭車として、翌昭和11年(1936年)4~5月に掛けて次々と就役した。
該車は、それ迄の鐵道省電車の前面平妻様式から、初めて半流様式3扉セミクロスシート構造を採用し、その後に於ける76系、111系、211系電車構造の先鞭原型となった。
該線用電車として、臨時電車用に先行配置されたモハ42型以外でクロスシート構造だった事から、老若男女の人気の的となり、且つ、該車輌就役当時に於ける該線ホーム連絡階段が名古屋方設置駅が多数を占めていた事から、該車輌は常に満員状態を現出していた。

水道橋に存在した、元水戸徳川家屋敷跡に設置されていた帝國陸軍砲兵工廠は、敷地狭隘と設備老朽化を理由に、帝國陸軍小倉砲兵工廠に統合廃止が決定し、昭和10年(1935年)に実施され、跡地は更地化されたが戦争終結後も、そのまま残存した。


該区間に於ける大東亜戦争中の空襲に依る被害は、
昭和20年(1945)
 2月25日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計172機
07時35分 警戒警報発令
    14時15分 空襲警報発令
          14時58分 空襲開始
          16時03分 空襲警報解除
         16時30分 警戒警報解除
  爆弾42.3t 焼夷弾411.4t
該空襲に依り、神田-萬世橋間高架橋下火災
復旧26日始発

 4月13日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計328機
         22時44分 警戒警報発令
          23時00分 空襲警報発令
          23時18分 空襲開始
          2時22分 空襲警報解除
           2時52分 警戒警報解除
 爆弾81.9t 焼夷弾2037.7t
該空襲に依り、御茶ノ水、水道橋、及び、飯田町各駅が被災、
            モハ30171
            モハ31015
            クハ38016
            サハ39004
            サハ39012
            サハ25134
御茶ノ水駅構内に於いて、電車6両に焼夷弾直撃に依り全焼。
戦災廃車後、モハ30171は東武鉄道払下、サハ39004はオハ7047、サハ39012はオハ7065に復旧され客車として再生、サハ25134は東急電鉄払下された。
御茶ノ水駅本屋、水道橋駅本屋、及び、該駅上下線旅客ホーム上屋全焼。
復旧 15日14時

 5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機
          22時02分 警戒警報発令
           22時22分 空襲警報発令
     22時30分 空襲開始
            1時00分 空襲警報解除
            1時30分 警戒警報解除
該空襲に依り、神田駅本屋、飯田町駅信号取扱所、及び、飯田町機関区全焼。
因みに、一部文献に飯田橋駅本屋全焼との記述を散見するが、該事実は無く、飯田町を飯田橋と誤植、誤転記の結果と推定されるが明らかに事実無根である。
運転再開28日6時00分~19時30分 蒸気機関車牽引列車運転、電車運転は30日初電。


大東亜戦争終結直後より数年間は、資材不足の為に全施設が限度規定以上使用が要因で、疲弊老朽化が著しい状態となったガ、此の為に、電化区間各地に於いて、架線切断事故が多発したが、該線萬世橋電留線に於いて、昭和21年(1946年)9月13日に、架線断線が原因とする車輌火災事故が発生した。

即ち、
モハ30133 → デハ73333 昭和3年(1928年)3月31日附竣功 汽車會社製造東京支店製造。
 昭和22年(1947年)4月24日附 事故廃車 相模鉄道払下。


現在の東京地下鉄東西線中野-大手町間10.7kmは、中央本線東京-三鷹間複々線化計画代替建設区間として別途設置された路線である。

即ち、昭和32年(1957年)日本国有鉄道理事会に於いて、中央本線東京-三鷹間24.1km増線計画案承認事案が事の発端である。
御茶ノ水-中野間12.1kmの既成複々線区間を活用し、東京-御茶ノ水間2.6km、及び、中野-三鷹間9.4kmに新に複線施設を追加し該区間全線を複々線とする内容だった。
該計画案に基き、東京駅に0番ホーム設置スペースを構成させたが、然し、現実には、東京-御茶ノ水間2.6kmに於ける用地取得は殆ど絶望的であるとされ、追加複々線化は中野-三鷹間9.4kmに限定し、中野-東京間は、帝都高速度交通営団地下鉄に依り、別途建設施工し相互乗入計画に変更された。
該計画案は昭和62年(1987年)4月1日の民営分割後も継続したが、昭和63年(1988年)に東京駅復元計画が浮上した事で、該計画案は自然消滅した。
現在では、首都高速道路都心環状線で中央本線跨線部が複々線跨間となっているのは、該計画案の先行結果である。


昭和43年(1968年)7月16日22時38分頃、御茶ノ水駅1番線で重大事故が発生した。

即ち、先行旅客第2239F列車は、該駅出発直後、該列車に直前乗車した乗客荷物が扉に挟まった状態で扉が閉止したが、該乗客が無理やり荷物を引張った為に、扉が開閉状態となった事から、該列車運転台のパイロットランプが消灯し、該列車運転士は異常事態と判断し非常制動を動作させた。

他方、後続旅客第2201F列車運転士は、先行第2239F列車に接近し、閉塞信号機が停止現示で列車自動停止装置ATS-B型が動作した為に確認動作したが、漠然と行動した為に、該停止信号を冒進し、先行旅客第2239F列車後部に気づき非常制動を動作させたが間に合わず追突した。
該事故に依り双方の電車2両が破損し、乗客20名が重軽傷を負った。

復旧は双方の電車を分割し、万世橋留置線に収容後、線路復旧を実施し、翌17日6時50分に開通した。

当時のATSは確認ボタンを押印後はバックアップ機能が無く、言わば、起こるべくして発生した事故だった。

因みに、現在、東日本旅客鉄道が使用するATS-Pn型は、運転士に依る確認作業を必要とせず、信号冒進時にのみ非常制動が作動するシステムとなっており、保安装置としてはATCよりも高度機能を有する。

東海旅客鉄道は、該社所有地大半から西日本旅客鉄道が採用した交流60Hz様式のATS-W型導入を決定し採用したが、故障が多いのみならず、該システムと連携する踏切誤動作に依る、遮断機が列車通過中にも拘らず開状態だった事故が連続発生した事が契機となり、東海旅客鉄道は主要線区に於いて設置工事中だったにも拘らず、W型採用を中止し、東日本旅客鉄道50Hz様式のATS-Pn型採用に踏み切った。

此の為に、大垣-米原間に乗入れていた西日本旅客鉄道普通快速用電車は、Pn型車上機器設置を見送った事から、該区間乗入が不可能になり、結果的に長らく続いた大垣乗入が廃止された。

逆に、東日本旅客鉄道小山車両区配置の231系電車はW型未設置だった事から、東海道本線熱海以西区間乗入が不可能だったが、東海旅客鉄道がPn型が設置された事で、事実上、米原まで入線可能である。



表紙写真は、
1903年(明治36年)ドイツ・ハーコード社製
平行弦上路プラットトラス構造
小石川(こいしかわがわ)橋梁







中央本線歴史的痕跡探訪記
~東京-飯田橋間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11227787
~飯田町-飯田橋-新宿間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11228675
~新宿-中野間編 明治頌歌~

~中野-三鷹間編 大正浪漫~

~三鷹-立川間編 大正浪漫~

~立川-八王子間編 明治頌歌~

~八王子-上野原間編 明治頌歌~

~上野原-大月間編 明治頌歌~

~大月-笹子間編 明治頌歌~

~笹子-塩山間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11303788
~塩山-甲府間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11488165
~甲府-韮崎間編 明治頌歌~
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~韮崎-小淵澤間編 明治頌歌~

~小淵澤-茅野間編 明治頌歌~

~茅野-岡谷間編 明治頌歌~

~岡谷-辰野間編 明治頌歌~

~辰野-塩尻間編 明治頌歌~

旅行の満足度
4.5
観光
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円未満
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム(旧第1番ホーム)<br />東京駅開業当時、大正3年(1914年)12月開業から平成7年(1995年)7月新ホーム切替まで中央線電車発着ホームだった。

    東京駅



    第2番ホーム(旧第1番ホーム)
    東京駅開業当時、大正3年(1914年)12月開業から平成7年(1995年)7月新ホーム切替まで中央線電車発着ホームだった。

    東京駅

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム(旧第1番ホーム)

    東京駅



    第2番ホーム(旧第1番ホーム)

    東京駅

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第2番ホーム(旧第1番ホーム)<br />ホーム上屋支柱がホーム縁に比較し内側に湾曲状態なのは、中央本線東京-三鷹間複々線計画に基く0番線設置計画に拠る。

    東京駅



    第2番ホーム(旧第1番ホーム)
    ホーム上屋支柱がホーム縁に比較し内側に湾曲状態なのは、中央本線東京-三鷹間複々線計画に基く0番線設置計画に拠る。

    東京駅

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />平成7年(1995年)7月移転。

    東京駅



    第1番ホーム
    平成7年(1995年)7月移転。

    東京駅

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />構内信号機と中央本線0キロポスト。

    東京駅



    第1番ホーム
    構内信号機と中央本線0キロポスト。

    東京駅

  • 東京駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />中央本線0キロポスト。<br />1番線中央部に所在。

    東京駅



    第1番ホーム
    中央本線0キロポスト。
    1番線中央部に所在。

    東京駅

  • 東京-神田間<br /><br /><br />銭瓶町橋(ぜにかめちょうばし)高架橋<br />20連構成<br />総延長200m<br />スパン間長 8m<br />明治39年(1906年)12月竣工。<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された麹町區銭瓶町(ぜにかめちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和4年(1929年)3月30日附府告示第203号に拠り大手町2丁目統合改称が決定し、該府告示は同年4月15日附で施行され、該町名は消滅した。<br />該高架橋は、現在の東京駅構内中心部を形成。<br />但し、東京-神田間中央本線別増線工事時に、該高架橋前を拡張した為に、該高架橋自体直視は不可能。<br /><br />東京都千代田区大手町2-5-9<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    東京-神田間


    銭瓶町橋(ぜにかめちょうばし)高架橋
    20連構成
    総延長200m
    スパン間長 8m
    明治39年(1906年)12月竣工。
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された麹町區銭瓶町(ぜにかめちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和4年(1929年)3月30日附府告示第203号に拠り大手町2丁目統合改称が決定し、該府告示は同年4月15日附で施行され、該町名は消滅した。
    該高架橋は、現在の東京駅構内中心部を形成。
    但し、東京-神田間中央本線別増線工事時に、該高架橋前を拡張した為に、該高架橋自体直視は不可能。

    東京都千代田区大手町2-5-9
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    銭瓶町橋 高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />銭瓶町橋高架橋<br />表面上に於ける設置当時の痕跡は見当たらない。<br /><br />東京都千代田区大手町2-5-9<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    東京-神田間



    銭瓶町橋高架橋
    表面上に於ける設置当時の痕跡は見当たらない。

    東京都千代田区大手町2-5-9
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    銭瓶町橋 高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服橋(ごふくばし)架道橋<br />36.17m(56.70ft)<br />鋼鐡製複線型橋桁使用<br />カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間36.4×1連(2)<br />明治36年(1903年)7月9日設計完了。<br />明治43年(1910年)9月架橋。<br />該架道橋名は、該地に存在した外濠に架橋された呉服橋から採用されたものである。<br />永代通り(国道1号線)<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1-7<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    東京-神田間



    呉服橋(ごふくばし)架道橋
    36.17m(56.70ft)
    鋼鐡製複線型橋桁使用
    カンチレバー・プレート・ガーダー橋桁 支間36.4×1連(2)
    明治36年(1903年)7月9日設計完了。
    明治43年(1910年)9月架橋。
    該架道橋名は、該地に存在した外濠に架橋された呉服橋から採用されたものである。
    永代通り(国道1号線)

    東京都千代田区丸ノ内1-7
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    呉服橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服橋架道橋架道橋<br />東京方<br />煉瓦積橋台<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1-7<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    東京-神田間



    呉服橋架道橋架道橋
    東京方
    煉瓦積橋台

    東京都千代田区丸ノ内1-7
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    呉服橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服橋架道橋<br />球体支承(きゅうたい ししょう)<br />該物は、橋梁に於ける重量物受支柱 対 台座接点部に球体を設置する事で柱全体に於ける振動揺に遊間を付与軽減させる構造、ピボット支承とも称する。<br />X字状の補助補強鋼材は、耐震工事施工時に追加設置された。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1-7<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    東京-神田間



    呉服橋架道橋
    球体支承(きゅうたい ししょう)
    該物は、橋梁に於ける重量物受支柱 対 台座接点部に球体を設置する事で柱全体に於ける振動揺に遊間を付与軽減させる構造、ピボット支承とも称する。
    X字状の補助補強鋼材は、耐震工事施工時に追加設置された。

    東京都千代田区丸ノ内1-7
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    呉服橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服橋架道橋<br />支柱<br />左 大正初期<br />中 明治後期<br />右 昭和中期<br />設置時期で個々形態が微妙に異なる。<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1-7<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    東京-神田間



    呉服橋架道橋
    支柱
    左 大正初期
    中 明治後期
    右 昭和中期
    設置時期で個々形態が微妙に異なる。

    東京都千代田区丸ノ内1-7
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    呉服橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服橋架道橋<br />球体支承<br />近接<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1-7<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    東京-神田間



    呉服橋架道橋
    球体支承
    近接

    東京都千代田区丸ノ内1-7
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    呉服橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服橋架道橋<br />球体支承<br />装飾頭部横面<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1-7<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    東京-神田間



    呉服橋架道橋
    球体支承
    装飾頭部横面

    東京都千代田区丸ノ内1-7
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    呉服橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服橋架道橋<br />球体支承<br />装飾頭部横面<br /><br />東京都千代田区丸ノ内1-7<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    東京-神田間



    呉服橋架道橋
    球体支承
    装飾頭部横面

    東京都千代田区丸ノ内1-7
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩2分

    呉服橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服橋架道橋架道橋<br />名古屋方<br />煉瓦積橋台<br />煉瓦は小口積<br /><br />東京都千代田区大手町2-5-1<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    東京-神田間



    呉服橋架道橋架道橋
    名古屋方
    煉瓦積橋台
    煉瓦は小口積

    東京都千代田区大手町2-5-1
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    呉服橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服橋架道橋架道橋<br />名古屋方<br />煉瓦積橋台<br />装飾隅石<br /><br />東京都千代田区大手町2-5-1<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    東京-神田間



    呉服橋架道橋架道橋
    名古屋方
    煉瓦積橋台
    装飾隅石

    東京都千代田区大手町2-5-1
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    呉服橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />旧呉服橋駅跡<br />全景<br /><br />東京都千代田区大手町2-5-1<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    東京-神田間



    旧呉服橋駅跡
    全景

    東京都千代田区大手町2-5-1
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    呉服橋跡 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />旧呉服橋駅跡<br />駅出入口跡<br /><br />東京都千代田区大手町2-5-1<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    東京-神田間



    旧呉服橋駅跡
    駅出入口跡

    東京都千代田区大手町2-5-1
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    呉服橋跡 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />旧呉服橋駅跡<br />駅出入口跡<br /><br />東京都千代田区大手町2-5-1<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    東京-神田間



    旧呉服橋駅跡
    駅出入口跡

    東京都千代田区大手町2-5-1
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    呉服橋跡 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />旧呉服橋駅跡<br />全景<br /><br />東京都千代田区大手町2-5-1<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    東京-神田間



    旧呉服橋駅跡
    全景

    東京都千代田区大手町2-5-1
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩3分

    呉服橋跡 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服町橋(ごふくちょうばし)高架橋<br />36.17m(119.39ft)<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された日本橋區呉服橋町から採用されたものである。<br />但し、該高架橋は、建設当初より麹町區永楽2丁目に設置された。<br />その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)6月28日附府告示第373号に拠り本石町2丁目に合併改称が決定し、該府告示は同年9月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区大手町2-5<br />東海道本線東京丸ノ内北口 徒歩5分

    東京-神田間



    呉服町橋(ごふくちょうばし)高架橋
    36.17m(119.39ft)
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で命名された日本橋區呉服橋町から採用されたものである。
    但し、該高架橋は、建設当初より麹町區永楽2丁目に設置された。
    その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)6月28日附府告示第373号に拠り本石町2丁目に合併改称が決定し、該府告示は同年9月1日附で施行され、該町名は消滅した。

    東京都千代田区大手町2-5
    東海道本線東京丸ノ内北口 徒歩5分

    呉服町橋 高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />呉服町橋高架橋<br />名古屋方<br />末端部<br /><br />東京都千代田区大手町2-5-13<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    東京-神田間



    呉服町橋高架橋
    名古屋方
    末端部

    東京都千代田区大手町2-5-13
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    呉服町橋 高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />常盤橋架道橋<br />東京方橋台<br />煉瓦積構築<br /><br />東京都千代田区大手町2-5<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    東京-神田間



    常盤橋架道橋
    東京方橋台
    煉瓦積構築

    東京都千代田区大手町2-5
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    常盤橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />常盤橋(ときわばし)架道橋<br />17.18m(56.70ft)<br />鋼鐡製複線型橋桁使用<br />新永間高架線建設設置工事は該架道橋東京方橋台部まで施工。<br />現在の千代田区立常盤橋公園から常盤橋小公園が存在する<br />該架道橋名は、該地に存在し外濠に架橋された常盤橋から採用されたものである。<br />該橋梁設置は、大正5年(1916年)。<br /><br />東京都千代田区大手町2-5<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    東京-神田間



    常盤橋(ときわばし)架道橋
    17.18m(56.70ft)
    鋼鐡製複線型橋桁使用
    新永間高架線建設設置工事は該架道橋東京方橋台部まで施工。
    現在の千代田区立常盤橋公園から常盤橋小公園が存在する
    該架道橋名は、該地に存在し外濠に架橋された常盤橋から採用されたものである。
    該橋梁設置は、大正5年(1916年)。

    東京都千代田区大手町2-5
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    常盤橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />常盤橋架道橋<br />中央本線高々架設置工事の際に支障箇所が存在する為に、平成6年(1994年)に一部解体撤去された。<br />解体露出部内部は奥まで煉瓦積構築構造。<br />此れに対し、反対側橋台は大正期設置で表面が煉瓦タイル貼で内部は鉄骨鉄筋コンクリート構造。<br /><br />東京都千代田区大手町2-5<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    東京-神田間



    常盤橋架道橋
    中央本線高々架設置工事の際に支障箇所が存在する為に、平成6年(1994年)に一部解体撤去された。
    解体露出部内部は奥まで煉瓦積構築構造。
    此れに対し、反対側橋台は大正期設置で表面が煉瓦タイル貼で内部は鉄骨鉄筋コンクリート構造。

    東京都千代田区大手町2-5
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    常盤橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />常盤橋架道橋<br />名古屋方橋台<br />化粧煉瓦積構築<br />表面の化粧煉瓦内部はコンクリートが充填。<br /><br />東京都千代田区大手町2-3-14<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    東京-神田間



    常盤橋架道橋
    名古屋方橋台
    化粧煉瓦積構築
    表面の化粧煉瓦内部はコンクリートが充填。

    東京都千代田区大手町2-3-14
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    常盤橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />大手町橋(おおてまちばし)高架橋<br />136.68m(451.05ft)<br />鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造<br /><br />東京都千代田区大手町2-4-14<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    東京-神田間



    大手町橋(おおてまちばし)高架橋
    136.68m(451.05ft)
    鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造

    東京都千代田区大手町2-4-14
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    大手町橋 高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />大手町橋高架橋<br />該高架橋構造は、大正初期の建築でありながら、我が国に於ける最初期の鉄筋コンクリート・アーチ橋梁建築である。<br />然し、アーチ部に於けるコンクリート打技術は、該建築物群は勿論、大正末期ですら工作困難とされ、特に山岳型隧道坑門部を含め、本体構造はコンクリート建築でありながら、アーチ部のみ煉瓦巻構造とせざるを得なかった工作類例は全国各地に現存する。<br /><br />東京都千代田区大手町2-4-14<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    東京-神田間



    大手町橋高架橋
    該高架橋構造は、大正初期の建築でありながら、我が国に於ける最初期の鉄筋コンクリート・アーチ橋梁建築である。
    然し、アーチ部に於けるコンクリート打技術は、該建築物群は勿論、大正末期ですら工作困難とされ、特に山岳型隧道坑門部を含め、本体構造はコンクリート建築でありながら、アーチ部のみ煉瓦巻構造とせざるを得なかった工作類例は全国各地に現存する。

    東京都千代田区大手町2-4-14
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩5分

    大手町橋 高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />首都高速道路<br />左側空間部は中央線東京-御茶ノ水間複々線化を見越し線路設置予定空間だった。<br /><br />東京都千代田区日本橋本石町4-9<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩7分

    東京-神田間



    首都高速道路
    左側空間部は中央線東京-御茶ノ水間複々線化を見越し線路設置予定空間だった。

    東京都千代田区日本橋本石町4-9
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩7分

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />外濠川(そとぼりがわ)橋梁<br />47.80m(125.00ft)<br />大正5年(1916年)架橋当時は常盤橋梁(ときわ きょうりょう)と称した。<br />阿部美樹志(あべ みきし)(明治16年(1883年)5月4日~昭和40年(1965年)2月20日)設計のメラン式充複アーチ橋。<br />現在の河川名は日本橋川。<br />http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169<br /><br />東京都千代田区大手町2-4<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    東京-神田間



    外濠川(そとぼりがわ)橋梁
    47.80m(125.00ft)
    大正5年(1916年)架橋当時は常盤橋梁(ときわ きょうりょう)と称した。
    阿部美樹志(あべ みきし)(明治16年(1883年)5月4日~昭和40年(1965年)2月20日)設計のメラン式充複アーチ橋。
    現在の河川名は日本橋川。
    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169

    東京都千代田区大手町2-4
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />外濠川橋梁<br />内閣鐵道院紋章<br />該橋梁は、以前は近接困難だったが、竜閑さくら橋開通に依り近接容易となった。<br /><br />東京都千代田区大手町2-4<br />東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

    東京-神田間



    外濠川橋梁
    内閣鐵道院紋章
    該橋梁は、以前は近接困難だったが、竜閑さくら橋開通に依り近接容易となった。

    東京都千代田区大手町2-4
    東海道本線東京駅丸ノ内北口 徒歩8分

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />龍閑河岸橋(りゅうかんがしばし)高架橋<br />29.25m(92.55ft)<br />鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造<br /><br />東京都中央区日本橋本石町2-1<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩7分

    東京-神田間



    龍閑河岸橋(りゅうかんがしばし)高架橋
    29.25m(92.55ft)
    鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造

    東京都中央区日本橋本石町2-1
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩7分

    龍閑河岸 高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />龍閑橋(りゅうかんばし)架道橋<br />30.47m(100.58ft)<br />鋼鐡製単線並立型橋桁使用<br />外堀通り<br /><br />東京都中央区日本橋本石町4-1<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩7分

    東京-神田間



    龍閑橋(りゅうかんばし)架道橋
    30.47m(100.58ft)
    鋼鐡製単線並立型橋桁使用
    外堀通り

    東京都中央区日本橋本石町4-1
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩7分

    龍閑橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br /><br />龍閑橋架道橋<br />東京方<br />煉瓦板張橋台<br /><br />東京都中央区日本橋本石町4-1<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩7分

    東京-神田間




    龍閑橋架道橋
    東京方
    煉瓦板張橋台

    東京都中央区日本橋本石町4-1
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩7分

    龍閑橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br /><br />龍閑橋架道橋<br />時代の趨勢で、呉服橋架道橋と比較して構造がシンプル。<br />耐震補助鋼材未設置。<br /><br />東京都中央区日本橋本石町4-1<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩7分

    東京-神田間




    龍閑橋架道橋
    時代の趨勢で、呉服橋架道橋と比較して構造がシンプル。
    耐震補助鋼材未設置。

    東京都中央区日本橋本石町4-1
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩7分

    龍閑橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />第1本銀町橋(だいいち ほんしろがねちょうばし)高架橋<br />52.02m(171.69ft)<br />鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された日本橋區本銀町(ほんしろがねちょう)1丁目から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)6月28日附府告示第373号に拠り、付近一帯は本石町4丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年9月1日府で施行され、該町名は消滅した。<br />http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169<br /><br />東京都中央区本石町4-3-4<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩6分

    東京-神田間



    第1本銀町橋(だいいち ほんしろがねちょうばし)高架橋
    52.02m(171.69ft)
    鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された日本橋區本銀町(ほんしろがねちょう)1丁目から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)6月28日附府告示第373号に拠り、付近一帯は本石町4丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年9月1日府で施行され、該町名は消滅した。
    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169

    東京都中央区本石町4-3-4
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩6分

    第1本銀町橋高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />第1本銀町橋高架橋<br />柱装飾<br />化粧煉瓦コンクリート装飾<br />柱装飾様式としては末期の存在。<br /><br />東京都中央区本石町4-3-19<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩6分

    東京-神田間



    第1本銀町橋高架橋
    柱装飾
    化粧煉瓦コンクリート装飾
    柱装飾様式としては末期の存在。

    東京都中央区本石町4-3-19
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩6分

    第1本銀町橋高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />本銀橋(ほんしろがねばし)架道橋<br />14.32m(47.26ft)<br />鋼鐡製複線型橋桁使用<br />該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された日本橋區本銀町(ほんしろがねちょう)1丁目から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)11月2日附府告示第373号に拠り、付近一帯は本石町4丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年9月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都中央区日本橋本石町4-2<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩5分

    東京-神田間



    本銀橋(ほんしろがねばし)架道橋
    14.32m(47.26ft)
    鋼鐡製複線型橋桁使用
    該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された日本橋區本銀町(ほんしろがねちょう)1丁目から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)11月2日附府告示第373号に拠り、付近一帯は本石町4丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年9月1日附で施行され、該町名は消滅した。

    東京都中央区日本橋本石町4-2
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩5分

    本銀町架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />本銀橋架道橋<br /><br />東京都中央区日本橋本石町4-2<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩5分

    東京-神田間



    本銀橋架道橋

    東京都中央区日本橋本石町4-2
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩5分

    本銀町架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />第2本銀町橋(だいに ほんしろがねちょうばし)高架橋<br />25.80m(85.15ft)<br />鉄骨鉄筋コンクリートラーメン構造<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された日本橋區本銀町(ほんぎんちょう)1丁目から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)6月28日附府告示第373号に拠り、付近一帯は本石町4丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年9月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br />http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169<br /><br />東京都中央区本石町4-2-15<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩5分

    東京-神田間



    第2本銀町橋(だいに ほんしろがねちょうばし)高架橋
    25.80m(85.15ft)
    鉄骨鉄筋コンクリートラーメン構造
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された日本橋區本銀町(ほんぎんちょう)1丁目から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和7年(1932年)6月28日附府告示第373号に拠り、付近一帯は本石町4丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年9月1日附で施行され、該町名は消滅した。
    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169

    東京都中央区本石町4-2-15
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩5分

    第2本銀町橋高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />第2本銀町橋高架橋<br />第1本銀町橋高架橋までとは基本的に異なり、化粧煉瓦板を張付たとは申せ、煉瓦積構築で該構造構築は不可能であり、コンクリート・ラーメン構造が歴然。<br /><br />東京都中央区本石町4-2-6<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩5分

    東京-神田間



    第2本銀町橋高架橋
    第1本銀町橋高架橋までとは基本的に異なり、化粧煉瓦板を張付たとは申せ、煉瓦積構築で該構造構築は不可能であり、コンクリート・ラーメン構造が歴然。

    東京都中央区本石町4-2-6
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩5分

    第2本銀町橋高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />白旗橋(しらはたばし)橋梁<br />5.12m(16.80ft)<br />鋼鐡製単線並立型橋桁使用<br />該橋梁名は、現在の千代田区内神田3?1?2に鎮座した白幡稲荷神社から採用されたものである。<br />該橋梁は、龍閑川(りゅうかんじがわ)に架橋されたが、該河川は、徳川幕府第5代将軍 徳川綱吉(とくがわ つなよし)(正保3年(1646年)2月23日~宝永6年(1709年)2月19日)(延宝8年(1680年)5月7日~宝永6年(1709年)2月19日在任)時代たる、元禄4年(1691年)に開削された人工河川である。<br />その後、徳川幕府第13代将軍 徳川家定(とくがわ いえさだ)(文政7年(1824年)5月6日~安政5年(1858年)6月4日)(嘉永6年(1853年)11月23日~安政5年(1853年)6月4日在任)時代たる安政4年(1857年)に不要河川に指定され一旦埋立てられたが、明治16年(1883年)に下水用河川として再開削された。<br />該橋梁付近一帯は、元来、外濠の遊水池だったが、明治末期より埋立てられた事から、大正9年(1920年)9月18日附府告第351号に拠り、該埋立地は日本橋區本銀町1丁目編入された。<br />関東大震災に依り、付近一帯は被災全焼し、該社は、現在の中央区日本橋本石町4-5-16に移遷した。<br />大東亜戦争後、繊細塵芥処理の為に、該河川活用が決定し、昭和23年(1948年)4月に下水本館設置と共に、該河川埋立工事が開始され、昭和25年(1950年)3月に該工事は完了し、該河川は消滅した。<br />現在では、該河川跡は地元生活道路と化し、更に、千代田区、及び、中央区境界が設定されている。<br /><br />東京都千代田区鍛冶町1-2<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩4分

    東京-神田間



    白旗橋(しらはたばし)橋梁
    5.12m(16.80ft)
    鋼鐡製単線並立型橋桁使用
    該橋梁名は、現在の千代田区内神田3?1?2に鎮座した白幡稲荷神社から採用されたものである。
    該橋梁は、龍閑川(りゅうかんじがわ)に架橋されたが、該河川は、徳川幕府第5代将軍 徳川綱吉(とくがわ つなよし)(正保3年(1646年)2月23日~宝永6年(1709年)2月19日)(延宝8年(1680年)5月7日~宝永6年(1709年)2月19日在任)時代たる、元禄4年(1691年)に開削された人工河川である。
    その後、徳川幕府第13代将軍 徳川家定(とくがわ いえさだ)(文政7年(1824年)5月6日~安政5年(1858年)6月4日)(嘉永6年(1853年)11月23日~安政5年(1853年)6月4日在任)時代たる安政4年(1857年)に不要河川に指定され一旦埋立てられたが、明治16年(1883年)に下水用河川として再開削された。
    該橋梁付近一帯は、元来、外濠の遊水池だったが、明治末期より埋立てられた事から、大正9年(1920年)9月18日附府告第351号に拠り、該埋立地は日本橋區本銀町1丁目編入された。
    関東大震災に依り、付近一帯は被災全焼し、該社は、現在の中央区日本橋本石町4-5-16に移遷した。
    大東亜戦争後、繊細塵芥処理の為に、該河川活用が決定し、昭和23年(1948年)4月に下水本館設置と共に、該河川埋立工事が開始され、昭和25年(1950年)3月に該工事は完了し、該河川は消滅した。
    現在では、該河川跡は地元生活道路と化し、更に、千代田区、及び、中央区境界が設定されている。

    東京都千代田区鍛冶町1-2
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩4分

    白旗橋架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />西今川町橋(にしいまがわちょうばし)高架橋<br />18.00m(60.86ft)<br />鉄骨鉄筋コンクリートラーメン構造<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された、日本橋區西今川町(にしいまがわちょう)から採用されたものである。<br />その後、昭和6年(1931年)4月23日附府告示第225号に拠り、該町は該費附で日本橋區所属から神田區所属に変更され、更に、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区鍛冶町1-10<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩4分

    東京-神田間



    西今川町橋(にしいまがわちょうばし)高架橋
    18.00m(60.86ft)
    鉄骨鉄筋コンクリートラーメン構造
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された、日本橋區西今川町(にしいまがわちょう)から採用されたものである。
    その後、昭和6年(1931年)4月23日附府告示第225号に拠り、該町は該費附で日本橋區所属から神田區所属に変更され、更に、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。

    東京都千代田区鍛冶町1-10
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩4分

    西今川町橋高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />西今川橋(にしいまがわばし)架道橋<br />14.32m(47.26ft)<br />鋼鐡製単線並立型橋桁使用<br />該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された、神田區西今川町(にしいまがわちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区鍛治町1-1-6<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩3分

    東京-神田間



    西今川橋(にしいまがわばし)架道橋
    14.32m(47.26ft)
    鋼鐡製単線並立型橋桁使用
    該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された、神田區西今川町(にしいまがわちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。

    東京都千代田区鍛治町1-1-6
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩3分

    西今川橋 架道橋 名所・史跡

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />千代田町橋(ちよだまちばし)高架橋<br />99.60m(328.69ft)<br />鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區千代田町(ちよだちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅したが、歴史的地名たる事から、皇居内住所に対し、昭和42年(1967年)4月1日附で該町名が復活した。<br /><br />東京都千代田区内神田3-2-1<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩3分

    神田駅



    千代田町橋(ちよだまちばし)高架橋
    99.60m(328.69ft)
    鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區千代田町(ちよだちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅したが、歴史的地名たる事から、皇居内住所に対し、昭和42年(1967年)4月1日附で該町名が復活した。

    東京都千代田区内神田3-2-1
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩3分

    千代田町橋高架橋 名所・史跡

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />千代田町橋高架橋<br />青森方<br />末端部<br /><br />東京都千代田区内神田3-2-1<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩2分

    神田駅



    千代田町橋高架橋
    青森方
    末端部

    東京都千代田区内神田3-2-1
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩2分

    千代田町橋高架橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />千代田橋(ちよだばし)架道橋<br />12.99m(42.87ft)<br />鋼鐡製単線並立型橋桁使用<br />神田金物通り<br />該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區千代田町(ちよだちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅したが、歴史的地名たる事から、皇居内住所に対し、昭和42年(1967年)4月1日附で該町名が復活した。<br /><br />東京都千代田区鍛治町1-2<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩2分

    東京-神田間



    千代田橋(ちよだばし)架道橋
    12.99m(42.87ft)
    鋼鐡製単線並立型橋桁使用
    神田金物通り
    該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區千代田町(ちよだちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅したが、歴史的地名たる事から、皇居内住所に対し、昭和42年(1967年)4月1日附で該町名が復活した。

    東京都千代田区鍛治町1-2
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩2分

    千代田橋 架道橋 名所・史跡

  • 東京-神田間<br /><br /><br /><br />千代田橋架道橋<br />背後の高々架線は東京上野ライン連絡線<br /><br />東京都千代田区鍛治町1-2<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩2分

    東京-神田間



    千代田橋架道橋
    背後の高々架線は東京上野ライン連絡線

    東京都千代田区鍛治町1-2
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩2分

    千代田橋 架道橋 名所・史跡

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />新石町橋(しんごくちょうばし)高架橋<br />31.52m(104.04ft)<br />鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區新石町(いんごくちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区鍛冶町2-14-1<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩1分

    神田駅



    新石町橋(しんごくちょうばし)高架橋
    31.52m(104.04ft)
    鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區新石町(いんごくちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。

    東京都千代田区鍛冶町2-14-1
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩1分

    新石町橋 高架橋 名所・史跡

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />新石橋架道橋(しんごくばし かどうきょう)<br />24.04m(79.36ft)<br />鋼鐡製単線並立型橋桁使用<br />日銀通り<br />該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區新石町(しんごくちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区鍛治町2-14<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩15秒

    神田駅



    新石橋架道橋(しんごくばし かどうきょう)
    24.04m(79.36ft)
    鋼鐡製単線並立型橋桁使用
    日銀通り
    該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區新石町(しんごくちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。

    東京都千代田区鍛治町2-14
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩15秒

    新石橋 架道橋 名所・史跡

  • 神田(かんだ)駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />西口<br />該駅は、大正8年(1919年)3月1日開業である。<br />大正12年(1923年)9月1日の関東大震災発生時、該駅付近一帯の木造建築物は倒壊が相次いだが、該駅構体には何ら被害が発生せず無事だった。<br />該駅付近住民は、該駅が鉄骨鉄筋コンクリート構造たる事を工事開始当初から熟知しており、該駅構内なれば安全なりと考え、続々と避難して来たが、大部分の者は家財道具一式を大八車に載せて来た事から、該駅構内は立錐の余地すら無い過密状態だった。<br />震災直後に神田區内では神保町、猿楽町、及び、西小川町倒壊家屋から出火し、更に、駿河台から外神田方面に延焼の後、風向変化に拠り東南方面に類延焼する。<br />他方、日本橋區内では、震災直後に、大和田町、松枝町、及び、宮本町から出火し、16時頃には該駅前に存在した松屋呉服店に延焼し、両者の大火が17時頃に神田駅付近で合流した事から、該大火が該駅を包囲し、同日17時頃には退路を遮断する形で大火砕流が業火になった。<br />該駅職員は、重要帳票類、手小荷物、及び駅備品類を該駅階下煉瓦造倉庫に搬入した。<br />然し、19時頃から該駅ホーム上屋に引火し、同時刻頃には避難者持込の家財道具一式上に着火導火帯化した事から、現場は大混乱状態を来たし、該駅構内に大火砕流が雪崩込んだ事から避難者上を猛火が襲い、無残にも焼死者550名、重軽傷者(生存者)0名という大惨事が発生した。<br />関東大震災に於いて東京市内犠牲者は本所區(現 墨田区)陸軍被服廠跡地に於ける約40000名焼死が知られているが、該数値に対し該駅死者は僅少に見えても、平時死者数としては尋常数値では無き事を記憶すべきである。<br />神田-秋葉原間開通に伴い、該駅乗降数は飛躍的向上を遂げたが、実は、鐵道省が事前想定した数値を大幅に上回る乗降客が在った。<br />即ち、該区間開業に伴い、該駅以北から利用者で、当時の東京駅八重洲側に、昭和4年(1929年)12月16日附で出改札口が設置される迄、東京駅に銀座、京橋方面へのアプローチが存在せず、それ故、該利用者は該駅で乗降し徒歩、市電利用に依り移動せざるを得なかった為である。<br />該駅は、昭和20年(1945年)5月25日空襲で東京駅丸ノ内駅本屋と共に空襲被害に拠り再度被災全焼する。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=538<br />http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169

    神田(かんだ)駅



    駅本屋
    西口
    該駅は、大正8年(1919年)3月1日開業である。
    大正12年(1923年)9月1日の関東大震災発生時、該駅付近一帯の木造建築物は倒壊が相次いだが、該駅構体には何ら被害が発生せず無事だった。
    該駅付近住民は、該駅が鉄骨鉄筋コンクリート構造たる事を工事開始当初から熟知しており、該駅構内なれば安全なりと考え、続々と避難して来たが、大部分の者は家財道具一式を大八車に載せて来た事から、該駅構内は立錐の余地すら無い過密状態だった。
    震災直後に神田區内では神保町、猿楽町、及び、西小川町倒壊家屋から出火し、更に、駿河台から外神田方面に延焼の後、風向変化に拠り東南方面に類延焼する。
    他方、日本橋區内では、震災直後に、大和田町、松枝町、及び、宮本町から出火し、16時頃には該駅前に存在した松屋呉服店に延焼し、両者の大火が17時頃に神田駅付近で合流した事から、該大火が該駅を包囲し、同日17時頃には退路を遮断する形で大火砕流が業火になった。
    該駅職員は、重要帳票類、手小荷物、及び駅備品類を該駅階下煉瓦造倉庫に搬入した。
    然し、19時頃から該駅ホーム上屋に引火し、同時刻頃には避難者持込の家財道具一式上に着火導火帯化した事から、現場は大混乱状態を来たし、該駅構内に大火砕流が雪崩込んだ事から避難者上を猛火が襲い、無残にも焼死者550名、重軽傷者(生存者)0名という大惨事が発生した。
    関東大震災に於いて東京市内犠牲者は本所區(現 墨田区)陸軍被服廠跡地に於ける約40000名焼死が知られているが、該数値に対し該駅死者は僅少に見えても、平時死者数としては尋常数値では無き事を記憶すべきである。
    神田-秋葉原間開通に伴い、該駅乗降数は飛躍的向上を遂げたが、実は、鐵道省が事前想定した数値を大幅に上回る乗降客が在った。
    即ち、該区間開業に伴い、該駅以北から利用者で、当時の東京駅八重洲側に、昭和4年(1929年)12月16日附で出改札口が設置される迄、東京駅に銀座、京橋方面へのアプローチが存在せず、それ故、該利用者は該駅で乗降し徒歩、市電利用に依り移動せざるを得なかった為である。
    該駅は、昭和20年(1945年)5月25日空襲で東京駅丸ノ内駅本屋と共に空襲被害に拠り再度被災全焼する。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=538
    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />第1鍛冶町橋(だいいち かじちょうばし)高架橋<br />96.06m(317.10ft)<br />http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169<br /><br />東京都千代田区鍛冶町2-13-6<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩15秒

    神田駅



    第1鍛冶町橋(だいいち かじちょうばし)高架橋
    96.06m(317.10ft)
    http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960387/169

    東京都千代田区鍛冶町2-13-6
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩15秒

    第1鍛冶町橋 高架橋 寺・神社・教会

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />上白壁架道橋(かみしらかべ かどうきょう)<br />12.57m(41.50ft)<br />鋼鐡製単線並立型橋桁使用<br />該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區上白壁町(かみしらかべちょう)から採用された。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)11月2日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町3丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br />戦後、昭和39年(1964年)12月1日附実施に拠り、神田鍛冶町3丁目は内神田3丁目に再統合改称された。<br /><br />東京都千代田区鍛治町2-13<br />東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩15秒

    神田駅



    上白壁架道橋(かみしらかべ かどうきょう)
    12.57m(41.50ft)
    鋼鐡製単線並立型橋桁使用
    該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區上白壁町(かみしらかべちょう)から採用された。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)11月2日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶町3丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。
    戦後、昭和39年(1964年)12月1日附実施に拠り、神田鍛冶町3丁目は内神田3丁目に再統合改称された。

    東京都千代田区鍛治町2-13
    東北本線(山手線)神田駅南口 徒歩15秒

    上白壁 架道橋 名所・史跡

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />第2鍛冶町橋(だいに かじちょうばし)高架橋<br />71.72m(236.09ft)<br /><br />東京都千代田区内神田3-13-11<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩15秒

    神田駅



    第2鍛冶町橋(だいに かじちょうばし)高架橋
    71.72m(236.09ft)

    東京都千代田区内神田3-13-11
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩15秒

    第2鍛冶町橋 高架橋 名所・史跡

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />北口

    神田駅



    北口

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />北口<br />http://www.jreast.co.jp/estation/stations/538.html

    神田駅



    北口
    http://www.jreast.co.jp/estation/stations/538.html

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />東口<br /><br />東京都千代田区神田鍛冶町2-13<br />東北本線(山手線)神田駅

    神田駅



    東口

    東京都千代田区神田鍛冶町2-13
    東北本線(山手線)神田駅

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />東口<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=538<br />

    神田駅



    東口
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=538

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />大正8年(1919年)3月1日設置。<br />開業以来 中央本線専用。

    神田駅



    第1番ホーム
    大正8年(1919年)3月1日設置。
    開業以来 中央本線専用。

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム<br />側壁

    神田駅



    第1番ホーム
    側壁

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    神田駅



    第1番ホーム

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    神田駅



    第1番ホーム

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    神田駅



    第1番ホーム

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />第1番ホーム

    神田駅



    第1番ホーム

    神田駅 (東京都)

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />旧鋼製架線柱<br />鐵道省が関東大震災被害の一環として該架線鋼鉄支柱群を調査した処、大火災を原因とする焼損軟質化被害が予想を超越し著しい事が判明し、長期使用に不適当と判定され、その結果、鐵道省は該当焼損被災架線柱群を更改を決定し、該決定に基き大正15年(1926年)に再建植された。<br />該駅構内に、更改当時の鋼鉄製架線柱群が93年を経過し現存する。

    神田-御茶ノ水間



    旧鋼製架線柱
    鐵道省が関東大震災被害の一環として該架線鋼鉄支柱群を調査した処、大火災を原因とする焼損軟質化被害が予想を超越し著しい事が判明し、長期使用に不適当と判定され、その結果、鐵道省は該当焼損被災架線柱群を更改を決定し、該決定に基き大正15年(1926年)に再建植された。
    該駅構内に、更改当時の鋼鉄製架線柱群が93年を経過し現存する。

    神田駅 (東京都)

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />旧鋼製架線柱<br />鐵道省が関東大震災被害の一環として該架線鋼鉄支柱群を調査した処、大火災を原因とする焼損軟化被害が予想を超越し著しい事が判明し、長期使用に不適当と判定され、その結果、鐵道省は該当焼損被災架線柱群を更改を決定し、該決定に基き大正15年(1926年)に再建植された。<br />該駅構内に、更改当時の鋼鉄製架線柱群が93年を経過し現存する。

    神田-御茶ノ水間



    旧鋼製架線柱
    鐵道省が関東大震災被害の一環として該架線鋼鉄支柱群を調査した処、大火災を原因とする焼損軟化被害が予想を超越し著しい事が判明し、長期使用に不適当と判定され、その結果、鐵道省は該当焼損被災架線柱群を更改を決定し、該決定に基き大正15年(1926年)に再建植された。
    該駅構内に、更改当時の鋼鉄製架線柱群が93年を経過し現存する。

    神田駅 (東京都)

  • 神田駅<br /><br /><br /><br />神田大通橋(かんだおおどおりばし)架道橋<br />44.86m(148.05ft)<br />鋼鐡製単線並立型橋桁使用<br />国道17号線<br /><br />東京都千代田区内神田3-20-6<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩1分

    神田駅



    神田大通橋(かんだおおどおりばし)架道橋
    44.86m(148.05ft)
    鋼鐡製単線並立型橋桁使用
    国道17号線

    東京都千代田区内神田3-20-6
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩1分

    神田大通橋 架道橋 名所・史跡

  • 神田-秋葉原間<br /><br /><br /><br />第3鍛冶町橋(だいさん かじちょうばし)高架橋<br />23.12m(76.32ft)<br /><br />東京都千代田区内神田3-12-5<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩1分

    神田-秋葉原間



    第3鍛冶町橋(だいさん かじちょうばし)高架橋
    23.12m(76.32ft)

    東京都千代田区内神田3-12-5
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩1分

    第3鍛冶町橋 高架橋 名所・史跡

  • 神田-秋葉原間<br /><br /><br /><br />鍋橋(なべばし)架道橋<br />22.99m(75.89ft)<br />鋼鐡製単線並立型橋桁使用<br />該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區鍋町(なべちょう)から採用された。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示に拠り、付近一帯は鍛冶町3丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区鍛冶町2-11-22<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩1分

    神田-秋葉原間



    鍋橋(なべばし)架道橋
    22.99m(75.89ft)
    鋼鐡製単線並立型橋桁使用
    該橋梁名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區鍋町(なべちょう)から採用された。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示に拠り、付近一帯は鍛冶町3丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。

    東京都千代田区鍛冶町2-11-22
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩1分

    鍋橋 架道橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門町橋(くろもんちょうばし)高架橋<br />鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月21日附で正式命名された神田區黒門町(くろもんちょう)から採用されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶屋町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区鍛冶町3-11-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    神田-御茶ノ水間



    黒門町橋(くろもんちょうばし)高架橋
    鉄骨鉄筋コンクリートアーチ構造
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月21日附で正式命名された神田區黒門町(くろもんちょう)から採用されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第424号に拠り、付近一帯は鍛冶屋町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年7月1日附で施行され、該町名は消滅した。

    東京都千代田区鍛冶町3-11-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    黒門町橋 高架橋 名所・史跡

    黒門町橋高架橋〔鉄道戦災被災痕〕 by 横浜臨海公園さん
  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門町橋高架橋<br />名古屋方<br />橋台<br /><br />東京都千代田区鍛冶町3-11-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    神田-御茶ノ水間



    黒門町橋高架橋
    名古屋方
    橋台

    東京都千代田区鍛冶町3-11-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    黒門町橋 高架橋 名所・史跡

    黒門町橋高架橋〔鉄道戦災被災痕〕 by 横浜臨海公園さん
  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門町橋高架橋<br />高架橋として、東京-浜松町間の純煉瓦積構築とは異なり、表面こそ化粧煉瓦貼だが、実際は純然たる鉄骨鉄筋コンクリート建築構造である。<br />大東亜戦争中末期、我が国は全国に於いて連合軍に依る空爆被害を受けたが、昭和20年(1945年)4月13日空襲では、神田区神田佐久間町一帯に焼夷弾に交え爆弾が投下され、内500kg爆弾1弾が該高架橋至近距離に於いて着弾炸裂時に該高架橋に被災痕を残した。<br />抉穴痕は弾片が原因、白色部分は爆風が原因での剥離面である。<br />空襲被災から70年を経て、焼夷弾痕、機銃掃射痕残存例は全国各地の存在するが、爆弾炸裂痕の残存例は、構築物自体が爆弾で破壊される事から、阪和線美章園駅構内の破壊復旧例の如き、破壊痕が再構築時に解体消滅する為に、当時の痕跡を今日に残すものとしては貴重な存在である。<br /><br />東京都千代田区鍛冶町3-11-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    神田-御茶ノ水間



    黒門町橋高架橋
    高架橋として、東京-浜松町間の純煉瓦積構築とは異なり、表面こそ化粧煉瓦貼だが、実際は純然たる鉄骨鉄筋コンクリート建築構造である。
    大東亜戦争中末期、我が国は全国に於いて連合軍に依る空爆被害を受けたが、昭和20年(1945年)4月13日空襲では、神田区神田佐久間町一帯に焼夷弾に交え爆弾が投下され、内500kg爆弾1弾が該高架橋至近距離に於いて着弾炸裂時に該高架橋に被災痕を残した。
    抉穴痕は弾片が原因、白色部分は爆風が原因での剥離面である。
    空襲被災から70年を経て、焼夷弾痕、機銃掃射痕残存例は全国各地の存在するが、爆弾炸裂痕の残存例は、構築物自体が爆弾で破壊される事から、阪和線美章園駅構内の破壊復旧例の如き、破壊痕が再構築時に解体消滅する為に、当時の痕跡を今日に残すものとしては貴重な存在である。

    東京都千代田区鍛冶町3-11-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    黒門町橋 高架橋 名所・史跡

    黒門町橋高架橋〔鉄道戦災被災痕〕 by 横浜臨海公園さん
  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門町橋高架橋<br />空襲被災痕跡跡<br />昭和20年(1945年)4月13日、米戦略部隊空爆に依り至近弾爆発時に該高架橋一部に爆弾破片に依る抉痕群。<br /><br />東京都千代田区鍛冶町3-11-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    神田-御茶ノ水間



    黒門町橋高架橋
    空襲被災痕跡跡
    昭和20年(1945年)4月13日、米戦略部隊空爆に依り至近弾爆発時に該高架橋一部に爆弾破片に依る抉痕群。

    東京都千代田区鍛冶町3-11-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    黒門町橋 高架橋 名所・史跡

    黒門町橋高架橋〔鉄道戦災被災痕〕 by 横浜臨海公園さん
  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門町橋高架橋<br /><br />東京都千代田区鍛冶町3-11-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    神田-御茶ノ水間



    黒門町橋高架橋

    東京都千代田区鍛冶町3-11-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩2分

    黒門町橋 高架橋 名所・史跡

    黒門町橋高架橋〔鉄道戦災被災痕〕 by 横浜臨海公園さん
  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門町橋高架橋<br />昭和20年(1945年)2月25日<br /><br />東京都千代田区鍛冶町3-11-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    黒門町橋高架橋
    昭和20年(1945年)2月25日

    東京都千代田区鍛冶町3-11-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩3分

    黒門町橋 高架橋 名所・史跡

    黒門町橋高架橋〔鉄道戦災被災痕〕 by 横浜臨海公園さん
  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門町橋高架橋<br /><br />東京都千代田区鍛冶町3-11-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩3分<br />

    神田-御茶ノ水間



    黒門町橋高架橋

    東京都千代田区鍛冶町3-11-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩3分

    黒門町橋 高架橋 名所・史跡

    黒門町橋高架橋〔鉄道戦災被災痕〕 by 横浜臨海公園さん
  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門町橋高架橋<br /><br />東京都千代田区鍛冶町3-11-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    黒門町橋高架橋

    東京都千代田区鍛冶町3-11-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩4分

    黒門町橋 高架橋 名所・史跡

    黒門町橋高架橋〔鉄道戦災被災痕〕 by 横浜臨海公園さん
  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門町橋高架橋<br />名古屋方終端部<br /><br />東京都千代田区鍛冶町3-11-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    黒門町橋高架橋
    名古屋方終端部

    東京都千代田区鍛冶町3-11-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩4分

    黒門町橋 高架橋 名所・史跡

    黒門町橋高架橋〔鉄道戦災被災痕〕 by 横浜臨海公園さん
  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門橋(くろもんばし)架道橋<br />一八通り<br /><br />東京都千代田区神田鍛冶町3-11-8<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    黒門橋(くろもんばし)架道橋
    一八通り

    東京都千代田区神田鍛冶町3-11-8
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩4分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />黒門橋架道橋<br />名古屋方<br />橋台<br /><br />東京都千代田区神田鍛冶町3-11-8<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    黒門橋架道橋
    名古屋方
    橋台

    東京都千代田区神田鍛冶町3-11-8
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩4分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />第1小柳町橋(だいいち こやなぎまちばし)高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩5分

    神田-御茶ノ水間



    第1小柳町橋(だいいち こやなぎまちばし)高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩5分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />第1小柳町高架橋<br />鉄骨鉄筋コンクリートアーチ<br />該高架橋は、該地に存在し明治11年(1878年)11月21日附で正式命名された神田區神田小柳町(こやなぎちょう)から命名されたものである。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)3月18日附府告示第171号に拠り、付近一帯は須田町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は、同年3月25日附で施行され該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩5分

    神田-御茶ノ水間



    第1小柳町高架橋
    鉄骨鉄筋コンクリートアーチ
    該高架橋は、該地に存在し明治11年(1878年)11月21日附で正式命名された神田區神田小柳町(こやなぎちょう)から命名されたものである。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)3月18日附府告示第171号に拠り、付近一帯は須田町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は、同年3月25日附で施行され該町名は消滅した。

    東京都千代田区神田須田町1-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩5分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />第1小柳町橋高架橋<br />写真右下の黒油脂痕は、昭和20年(1945年)2月25日空襲時の焼夷弾命中及び炎上油脂痕。<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-1-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩5分

    神田-御茶ノ水間



    第1小柳町橋高架橋
    写真右下の黒油脂痕は、昭和20年(1945年)2月25日空襲時の焼夷弾命中及び炎上油脂痕。

    東京都千代田区神田須田町1-1-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩5分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />第1小柳町橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-1-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩5分

    神田-御茶ノ水間



    第1小柳町橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-1-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩5分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />第1小柳町橋高架橋<br />海側<br />元来鉄道用地の為に一般人の目に触れぬ所は装飾煉瓦張は省略されコンクリート地剥出で施工。<br /><br />東京都千代田区神田須田町2-1-1<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    第1小柳町橋高架橋
    海側
    元来鉄道用地の為に一般人の目に触れぬ所は装飾煉瓦張は省略されコンクリート地剥出で施工。

    東京都千代田区神田須田町2-1-1
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />小柳橋(こやなぎばし)架道橋<br />該橋は、大正8年(1919年)3月1日開通の橋梁である。<br />全長49.37m(16.55ft)<br />該架道橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月21日附で命名された神田區神田小柳町(こやなぎちょう)から命名されたものである。<br />その後、昭和8年(1933年)3月18日附府告示第171号に拠り、付近一帯は須田町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は、同年3月25日に施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-18<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    小柳橋(こやなぎばし)架道橋
    該橋は、大正8年(1919年)3月1日開通の橋梁である。
    全長49.37m(16.55ft)
    該架道橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月21日附で命名された神田區神田小柳町(こやなぎちょう)から命名されたものである。
    その後、昭和8年(1933年)3月18日附府告示第171号に拠り、付近一帯は須田町1丁目に統合改称が決定し、該府告示は、同年3月25日に施行され、該町名は消滅した。

    東京都千代田区神田須田町1-18
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />小柳橋架道橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-7<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    小柳橋架道橋

    東京都千代田区神田須田町1-7
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />第2小柳町橋(だいに こやなぎちょうばし) 高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-7<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    第2小柳町橋(だいに こやなぎちょうばし) 高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-7
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />第2小柳町橋高架橋<br />化粧煉瓦剥離部分<br />昭和20年(1945年)2月25日空襲に依り該高架橋内火災発生の為に構体高温化を原因とする表面化粧煉瓦剥離跡。<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-7-7<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩7分

    神田-御茶ノ水間



    第2小柳町橋高架橋
    化粧煉瓦剥離部分
    昭和20年(1945年)2月25日空襲に依り該高架橋内火災発生の為に構体高温化を原因とする表面化粧煉瓦剥離跡。

    東京都千代田区神田須田町1-7-7
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩7分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />第2小柳町橋高架橋<br />上り線側壁。<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-7-21<br />東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩7分<br />

    神田-御茶ノ水間



    第2小柳町橋高架橋
    上り線側壁。

    東京都千代田区神田須田町1-7-21
    東北本線(山手線)神田駅北口 徒歩7分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋(まんせいばし)架道橋<br />該橋は、大正8年(1919年)3月1日開通時の橋梁である。<br />但し、関東大震災復興計画に依り、萬世橋駅周辺道路拡張付替変更設置に伴い、昭和3年(1928年)に架替られた、我が国初の曲線式橋桁である。<br />全長57.6m<br />鐵道省 技師 黒田武定(くろだ たけさだ)(明治20年(1888年)4月28日~昭和54年(1979年)12月13日)設計。<br />横河橋梁製作所製造<br />下り線橋梁  23.45m+37.40m<br />上り線橋梁  23.86m+33.22m<br />下り線曲線  半径315.5m<br />上り線曲線  半径398.0m<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-18-2<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋(まんせいばし)架道橋
    該橋は、大正8年(1919年)3月1日開通時の橋梁である。
    但し、関東大震災復興計画に依り、萬世橋駅周辺道路拡張付替変更設置に伴い、昭和3年(1928年)に架替られた、我が国初の曲線式橋桁である。
    全長57.6m
    鐵道省 技師 黒田武定(くろだ たけさだ)(明治20年(1888年)4月28日~昭和54年(1979年)12月13日)設計。
    横河橋梁製作所製造
    下り線橋梁 23.45m+37.40m
    上り線橋梁 23.86m+33.22m
    下り線曲線 半径315.5m
    上り線曲線 半径398.0m

    東京都千代田区神田須田町1-18-2
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋架道橋<br />下り線曲線プレート・ガーダー桁<br />下り線側曲線俯瞰<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋架道橋
    下り線曲線プレート・ガーダー桁
    下り線側曲線俯瞰

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋架道橋<br />下り線曲線プレート・ガーダー桁<br />下り線側名古屋方俯瞰<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-18-2<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋架道橋
    下り線曲線プレート・ガーダー桁
    下り線側名古屋方俯瞰

    東京都千代田区神田須田町1-18-2
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋架道橋<br />上り線曲線プレート・ガーダー桁<br />上り線名古屋方俯瞰<br /><br />東京都千代田区神田須田町2-21<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋架道橋
    上り線曲線プレート・ガーダー桁
    上り線名古屋方俯瞰

    東京都千代田区神田須田町2-21
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋架道橋<br />上り線曲線プレート・ガーダー桁<br />上り線側東京方俯瞰<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋架道橋
    上り線曲線プレート・ガーダー桁
    上り線側東京方俯瞰

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋架道橋<br />橋桁銘板<br />鐵道省<br />昭和3年(1928年)<br />横河橋梁製作所<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋架道橋
    橋桁銘板
    鐵道省
    昭和3年(1928年)
    横河橋梁製作所

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />旧 萬世橋駅構内<br />全景<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-1-14<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    旧 萬世橋駅構内
    全景

    東京都千代田区神田須田町1-1-14
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-1-14<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分<br />

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-1-14
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区外神田1-1-14<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区外神田1-1-14
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    万世橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区外神田1-1-14<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区外神田1-1-14
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    万世橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    万世橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    万世橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩3分

    万世橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />旧萬世橋駅跡<br />該駅は、明治45年(1912年)4月1日開業である。<br />初代駅本屋は、東京帝國大学工学大学(現 東京大学工学部)教授 辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)8月22日~大正8年(1919年)3月25日)設計に依る3階建総煉瓦建築で、建設中の東海道本線烏森(現 新橋Ⅱ)第2代目駅本屋と同規模で、且つ、東京中央(現 東京)駅本屋の前習作と看做されていた。<br />該駅本屋館内は、駅業務施設以外に1,2,3等旅客待合室や、レストラン、会議室なども存在したが、該駅発着列車は電車主体で中長距離列車は相変わらず飯田町駅起点だった事から1等旅客待合室利用者は稀な存在だった。<br />関東大震災後に於ける乗降客減少に伴い、縮小を重ね、昭和18年(1943年)11月1日附を以って営業休止となり、該駅備品類は新子安駅備品として移管された。<br />因みに、営業休止状態は大東亜戦争後も継続し、法規上は昭和62年(1987年)4月1日0時まで存在したが、該駅は新会社に継承されず事実上の廃止となった。<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25-4<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    旧萬世橋駅跡
    該駅は、明治45年(1912年)4月1日開業である。
    初代駅本屋は、東京帝國大学工学大学(現 東京大学工学部)教授 辰野金吾(たつの きんご)(嘉永7年(1854年)8月22日~大正8年(1919年)3月25日)設計に依る3階建総煉瓦建築で、建設中の東海道本線烏森(現 新橋Ⅱ)第2代目駅本屋と同規模で、且つ、東京中央(現 東京)駅本屋の前習作と看做されていた。
    該駅本屋館内は、駅業務施設以外に1,2,3等旅客待合室や、レストラン、会議室なども存在したが、該駅発着列車は電車主体で中長距離列車は相変わらず飯田町駅起点だった事から1等旅客待合室利用者は稀な存在だった。
    関東大震災後に於ける乗降客減少に伴い、縮小を重ね、昭和18年(1943年)11月1日附を以って営業休止となり、該駅備品類は新子安駅備品として移管された。
    因みに、営業休止状態は大東亜戦争後も継続し、法規上は昭和62年(1987年)4月1日0時まで存在したが、該駅は新会社に継承されず事実上の廃止となった。

    東京都千代田区神田須田町1-25-4
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />旧萬世橋駅<br />電車ホーム連絡階段跡<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25-4<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    旧萬世橋駅
    電車ホーム連絡階段跡

    東京都千代田区神田須田町1-25-4
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />旧萬世橋駅<br />電車ホーム連絡階段跡<br />大正14年(1925年)設置とする文献を多数とするが、事実は、明治45年(1912年)設置が正当である。<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25-4<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    旧萬世橋駅
    電車ホーム連絡階段跡
    大正14年(1925年)設置とする文献を多数とするが、事実は、明治45年(1912年)設置が正当である。

    東京都千代田区神田須田町1-25-4
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />旧萬世橋駅<br />電車ホーム連絡階段跡<br />花崗岩を研磨しタイル状にした覆輪目地(ふくりんめいじ)。<br />現在では絶滅した技術。<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25-4<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    旧萬世橋駅
    電車ホーム連絡階段跡
    花崗岩を研磨しタイル状にした覆輪目地(ふくりんめいじ)。
    現在では絶滅した技術。

    東京都千代田区神田須田町1-25-4
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />旧萬世橋駅<br />電車ホーム連絡階段跡<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25-4<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    旧萬世橋駅
    電車ホーム連絡階段跡

    東京都千代田区神田須田町1-25-4
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />旧萬世橋駅<br />電車ホーム連絡階段跡<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25-4<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    旧萬世橋駅
    電車ホーム連絡階段跡

    東京都千代田区神田須田町1-25-4
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋駅本屋<br />関東大震災焼失鎮火直後。<br />鐵道省震災関係文書

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋駅本屋
    関東大震災焼失鎮火直後。
    鐵道省震災関係文書

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25-4<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-25-4
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    万世橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    マーチエキュート 神田万世橋 ショッピングモール

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    マーチエキュート 神田万世橋 ショッピングモール

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    マーチエキュート 神田万世橋 ショッピングモール

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    マーチエキュート 神田万世橋 ショッピングモール

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br />メダリオン<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋
    メダリオン

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    マーチエキュート 神田万世橋 ショッピングモール

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋<br /><br />東京都千代田区神田須田町1-25<br />東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分<br />

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

    東京都千代田区神田須田町1-25
    東北本線(山手線)秋葉原駅電気街口 徒歩6分

    マーチエキュート 神田万世橋 ショッピングモール

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />萬世橋高架橋

    神田-御茶ノ水間



    萬世橋高架橋

  • 神田-御茶ノ水間

    神田-御茶ノ水間

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋(しょうへいばし)架道橋<br />全長44.2m<br />12.70m+20.15m+12.70m<br />鋼鉄製単線並立型橋桁使用<br />筋交様式<br />独HARKORT Duisburg-GERMAN 1904<br />(独逸ハーコート社デュイスブルク工場1904年(明治37年)製造<br />橋脚鋼鉄材<br />該区間開通は、明治45年(1912年)4月1日で、該桁製造年とは一見前後矛盾しているようにも思えるが、該区間開通を見越し甲武鐵道発注備蓄転用品と推定される。<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-12<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩5分<br />

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋(しょうへいばし)架道橋
    全長44.2m
    12.70m+20.15m+12.70m
    鋼鉄製単線並立型橋桁使用
    筋交様式
    独HARKORT Duisburg-GERMAN 1904
    (独逸ハーコート社デュイスブルク工場1904年(明治37年)製造
    橋脚鋼鉄材
    該区間開通は、明治45年(1912年)4月1日で、該桁製造年とは一見前後矛盾しているようにも思えるが、該区間開通を見越し甲武鐵道発注備蓄転用品と推定される。

    東京都千代田区神田淡路町2-12
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩5分

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋架道橋<br />下り線側<br />名古屋方<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-12<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩5分

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋架道橋
    下り線側
    名古屋方

    東京都千代田区神田淡路町2-12
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩5分

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋架道橋<br />上り線側<br />名古屋方<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-12<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩5分

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋架道橋
    上り線側
    名古屋方

    東京都千代田区神田淡路町2-12
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩5分

    昌平橋 名所・史跡

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />昌平橋架道橋<br />銘板<br />HARKORT.<br />DUISBUR-GERMANY.<br />1904<br />ハートコート社<br />デュイスブルク-ドイツ<br />1904年製造<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-12<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩5分

    水道橋-飯田橋間



    昌平橋架道橋
    銘板
    HARKORT.
    DUISBUR-GERMANY.
    1904
    ハートコート社
    デュイスブルク-ドイツ
    1904年製造

    東京都千代田区神田淡路町2-12
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩5分

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />紅梅河岸橋(こうばいがしばし)高架橋<br />111.71m(368.67ft)<br />煉瓦積建築<br />該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區平永町(ひらながちょう)から採用された。<br />その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)3月18日附府告示第171号に拠り、付近一帯は須田町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年3月25日附で施行され、該町名は消滅した。<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-9<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分<br /><br />

    神田-御茶ノ水間



    紅梅河岸橋(こうばいがしばし)高架橋
    111.71m(368.67ft)
    煉瓦積建築
    該高架橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區平永町(ひらながちょう)から採用された。
    その後、行政合理化で、昭和8年(1933年)3月18日附府告示第171号に拠り、付近一帯は須田町2丁目に統合改称が決定し、該府告示は同年3月25日附で施行され、該町名は消滅した。

    東京都千代田区神田淡路町2-9
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋駅跡<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-9<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋駅跡

    東京都千代田区神田淡路町2-9
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋駅跡<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-9<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋駅跡

    東京都千代田区神田淡路町2-9
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋駅跡<br />右手スペイン料理店が元駅出入口跡。<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-9<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋駅跡
    右手スペイン料理店が元駅出入口跡。

    東京都千代田区神田淡路町2-9
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋駅跡<br />神田川側<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-9<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋駅跡
    神田川側

    東京都千代田区神田淡路町2-9
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋駅跡<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-9<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋駅跡

    東京都千代田区神田淡路町2-9
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋駅跡<br />全景<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-9<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋駅跡
    全景

    東京都千代田区神田淡路町2-9
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    昌平橋 名所・史跡

  • 神田-御茶ノ水間<br /><br /><br /><br />昌平橋駅跡<br />4連のアーチ部分が該駅跡<br /><br />東京都千代田区神田淡路町2-9<br />中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    神田-御茶ノ水間



    昌平橋駅跡
    4連のアーチ部分が該駅跡

    東京都千代田区神田淡路町2-9
    中央本線御茶ノ水駅聖橋口 徒歩4分

    昌平橋 名所・史跡

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />御茶ノ水橋口<br />該駅は、明治37年(1904年)12月31日開業である。<br />該駅開業時は、御茶ノ水橋を挟み反対側に設置された。<br />鐵道省東京第2改良事務所技師 伊藤 滋(いとう しげる)(明治31年(1898年)10月10日~昭和46年(1971年)7月3日)設計。<br />当時のモダニズム建築であり、且つ、典型的インターナショナル建築でもある。<br />大東亜戦争中たる昭和20年(1945年)4月13日の空襲で該駅本屋に焼夷弾が命中し全焼したが、鉄筋コンクリート建築故に修復し使用可能された。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384<br />

    御茶ノ水駅



    駅本屋
    御茶ノ水橋口
    該駅は、明治37年(1904年)12月31日開業である。
    該駅開業時は、御茶ノ水橋を挟み反対側に設置された。
    鐵道省東京第2改良事務所技師 伊藤 滋(いとう しげる)(明治31年(1898年)10月10日~昭和46年(1971年)7月3日)設計。
    当時のモダニズム建築であり、且つ、典型的インターナショナル建築でもある。
    大東亜戦争中たる昭和20年(1945年)4月13日の空襲で該駅本屋に焼夷弾が命中し全焼したが、鉄筋コンクリート建築故に修復し使用可能された。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />該駅は、明治37年(1904年)12月31日開業である。<br />開業当時は、御茶ノ水橋を挟み反対側に設置された。<br /><br /><br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384

    御茶ノ水駅



    駅本屋
    該駅は、明治37年(1904年)12月31日開業である。
    開業当時は、御茶ノ水橋を挟み反対側に設置された。


    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />御茶ノ水橋口<br />側面

    御茶ノ水駅



    駅本屋
    御茶ノ水橋口
    側面

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />御茶ノ水橋口<br />側面

    御茶ノ水駅



    駅本屋
    御茶ノ水橋口
    側面

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />上り線側旅客ホーム

    御茶ノ水駅



    上り線側旅客ホーム

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />上り線側旅客ホーム

    御茶ノ水駅



    上り線側旅客ホーム

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />御茶ノ水橋口<br />改札口<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384<br /><br />

    御茶ノ水駅



    駅本屋
    御茶ノ水橋口
    改札口
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />御茶ノ水橋口改札

    御茶ノ水駅



    御茶ノ水橋口改札

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />跨線橋

    御茶ノ水駅



    跨線橋

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />御茶ノ水橋口<br />出改札口側

    御茶ノ水駅



    御茶ノ水橋口
    出改札口側

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム

    御茶ノ水駅



    旅客第2番ホーム

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />跨線橋<br />古軌条支柱使用

    御茶ノ水駅



    跨線橋
    古軌条支柱使用

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />御茶ノ水橋口側階段<br />現在は新階段設置に依り閉鎖解体中。

    御茶ノ水駅



    御茶ノ水橋口側階段
    現在は新階段設置に依り閉鎖解体中。

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />聖橋口駅舎<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384

    御茶ノ水駅



    聖橋口駅舎
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水駅<br /><br /><br /><br />聖橋口駅舎<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384

    御茶ノ水駅



    聖橋口駅舎
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=384

    御茶ノ水駅

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />初代御茶ノ水駅<br />駅本屋台座跡<br />中央出張り部分が初代駅本屋台座跡<br /><br />東京都千代田区神田駿河台2-3<br />中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩30秒

    御茶ノ水-水道橋間



    初代御茶ノ水駅
    駅本屋台座跡
    中央出張り部分が初代駅本屋台座跡

    東京都千代田区神田駿河台2-3
    中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩30秒

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />初代御茶ノ水駅<br />駅本屋台座跡<br /><br />東京都千代田区神田駿河台2-3<br />中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩30秒

    御茶ノ水-水道橋間



    初代御茶ノ水駅
    駅本屋台座跡

    東京都千代田区神田駿河台2-3
    中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩30秒

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />初代御茶ノ水駅跡<br />開業当時は現在と異り御茶ノ水橋を挟んだ反対側に相対式ホームが設置された。<br />関東大震災発生当時、該駅構内施設に特に被害が発生しなかったが、神田區猿楽町2丁目で発生した火災が該駅に迫り、該駅構内の避難者携帯の家財道具一式も次々と着火導火帯化し該駅構内に流火し、同日14時頃、駅本屋他施設が全焼したが、但し、該駅ホーム上屋位置は駅本屋から階段下に存在し、併せて神田川が防火帯化した事から全焼全滅は免れた。<br />昭和7年(1932年)7月1日に現位置移転後は該施設全部を撤去し線路を敷設。<br /><br />東京都千代田区神田駿河台2-6<br />中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩1分

    御茶ノ水-水道橋間



    初代御茶ノ水駅跡
    開業当時は現在と異り御茶ノ水橋を挟んだ反対側に相対式ホームが設置された。
    関東大震災発生当時、該駅構内施設に特に被害が発生しなかったが、神田區猿楽町2丁目で発生した火災が該駅に迫り、該駅構内の避難者携帯の家財道具一式も次々と着火導火帯化し該駅構内に流火し、同日14時頃、駅本屋他施設が全焼したが、但し、該駅ホーム上屋位置は駅本屋から階段下に存在し、併せて神田川が防火帯化した事から全焼全滅は免れた。
    昭和7年(1932年)7月1日に現位置移転後は該施設全部を撤去し線路を敷設。

    東京都千代田区神田駿河台2-6
    中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩1分

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />関東大震災被災現場<br />該震災に依る土砂崩痕が残存。<br /><br />東京都千代田区神田駿河台2-3<br />中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩2分

    御茶ノ水-水道橋間



    関東大震災被災現場
    該震災に依る土砂崩痕が残存。

    東京都千代田区神田駿河台2-3
    中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩2分

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />関東大震災被災現場<br />該震災発生と同時に左手土手部分が大崩落し大量の土砂が神田川に落込む。<br />その後、複々線化時にコンクリートで護岸工事を施工。<br /><br />東京都千代田区神田駿河台2-6<br />中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩2分

    御茶ノ水-水道橋間



    関東大震災被災現場
    該震災発生と同時に左手土手部分が大崩落し大量の土砂が神田川に落込む。
    その後、複々線化時にコンクリートで護岸工事を施工。

    東京都千代田区神田駿河台2-6
    中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩2分

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />関東大震災被災現場<br /><br />東京都千代田区神田駿河台2-6<br />中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩2分

    御茶ノ水-水道橋間



    関東大震災被災現場

    東京都千代田区神田駿河台2-6
    中央本線御茶ノ水駅御茶ノ水橋口 徒歩2分

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />急行線<br />立体交差地点

    御茶ノ水-水道橋間



    急行線
    立体交差地点

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />新水道橋(しんすいどうばし)架道橋<br />該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。<br />全長開通当初は61.5m<br />複線式下路プレート・ガーダー桁<br />独逸ハーコート(HARKORT)社 1904年(明治37年)鋼鉄製<br />関東大震災発生直後に、付近住民達が次々と該架道橋下に家財道具一式を伴い避難して来たが、その後の大火災に依り該家財道具類に次々と引火炎上し、該橋桁に焼損被害が発生した。

    御茶ノ水-水道橋間



    新水道橋(しんすいどうばし)架道橋
    該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。
    全長開通当初は61.5m
    複線式下路プレート・ガーダー桁
    独逸ハーコート(HARKORT)社 1904年(明治37年)鋼鉄製
    関東大震災発生直後に、付近住民達が次々と該架道橋下に家財道具一式を伴い避難して来たが、その後の大火災に依り該家財道具類に次々と引火炎上し、該橋桁に焼損被害が発生した。

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />新水道橋架道橋<br />

    御茶ノ水-水道橋間



    新水道橋架道橋

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />新水道橋架道橋<br />

    御茶ノ水-水道橋間



    新水道橋架道橋

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />新水道橋架道橋<br />

    御茶ノ水-水道橋間



    新水道橋架道橋

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />新水道橋架道橋<br />

    御茶ノ水-水道橋間



    新水道橋架道橋

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />新水道橋架道橋<br />銘板<br />HARKORT.<br />DUISBUR-GERMANY.<br />1904<br />ハートコート社<br />デュイスブルク-ドイツ<br />1904年製造

    御茶ノ水-水道橋間



    新水道橋架道橋
    銘板
    HARKORT.
    DUISBUR-GERMANY.
    1904
    ハートコート社
    デュイスブルク-ドイツ
    1904年製造

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />新水道橋架道橋<br />

    御茶ノ水-水道橋間



    新水道橋架道橋

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /> <br /><br /><br />新水道橋架線道橋<br />急行線側

    御茶ノ水-水道橋間
     


    新水道橋架線道橋
    急行線側

  • 水道橋(すいどうばし)駅<br /><br /><br />該駅は、明治39年(1906年)9月24日開業である。<br />該駅設置理由は、旧徳川水戸家後楽園跡に設置された帝國陸軍砲兵東京工廠職工通勤便宜の為とされているが、該駅は開業後1週間にして甲武鐵道は政府買収され、該駅開設決定時に買収は決定既定事実だった事から、政府に拠る該社買収価格吊上を目論んだ泥縄設置疑念が晴れない。<br />大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、至近地で発生した火砕流が該駅に押寄せ、駅本屋、及び、旅客ホーム上屋が全焼した。<br />その後、仮復旧を経て、昭和8年(1933年)に概ね現形態に落着いた。<br />大東亜戦争中たる、昭和20年(1945年)4月13日東京空襲に依り、駅本屋、上下線旅客ホーム上屋、急行線線路枕木焼損多数が発生した。<br />現駅本屋は、昭和40年(1965年)12月改築の第6代駅本屋。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=891

    水道橋(すいどうばし)駅


    該駅は、明治39年(1906年)9月24日開業である。
    該駅設置理由は、旧徳川水戸家後楽園跡に設置された帝國陸軍砲兵東京工廠職工通勤便宜の為とされているが、該駅は開業後1週間にして甲武鐵道は政府買収され、該駅開設決定時に買収は決定既定事実だった事から、政府に拠る該社買収価格吊上を目論んだ泥縄設置疑念が晴れない。
    大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災で、至近地で発生した火砕流が該駅に押寄せ、駅本屋、及び、旅客ホーム上屋が全焼した。
    その後、仮復旧を経て、昭和8年(1933年)に概ね現形態に落着いた。
    大東亜戦争中たる、昭和20年(1945年)4月13日東京空襲に依り、駅本屋、上下線旅客ホーム上屋、急行線線路枕木焼損多数が発生した。
    現駅本屋は、昭和40年(1965年)12月改築の第6代駅本屋。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=891

    水道橋駅

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />西口

    水道橋駅



    駅本屋
    西口

    水道橋駅

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />第1番緩行線旅客ホーム<br />古軌条上屋支柱<br />当該ホーム上屋は、昭和8円(1933年)に構築され、昭和20年(1945年)4月13日未明空襲に依り木葺き屋根が焼失したが、大東亜戦争終結後にホーロー挽きで復旧された。

    水道橋駅



    第1番緩行線旅客ホーム
    古軌条上屋支柱
    当該ホーム上屋は、昭和8円(1933年)に構築され、昭和20年(1945年)4月13日未明空襲に依り木葺き屋根が焼失したが、大東亜戦争終結後にホーロー挽きで復旧された。

    水道橋駅

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />緩行線旅客ホーム<br />古軌条支柱群<br />

    水道橋駅



    緩行線旅客ホーム
    古軌条支柱群

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />緩行線旅客ホーム<br />古軌条上屋支柱<br />軌条構築が幾何学的

    水道橋駅



    緩行線旅客ホーム
    古軌条上屋支柱
    軌条構築が幾何学的

    水道橋駅

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />緩行線旅客ホーム<br />古軌条架線柱群<br />該駅ホーム架線柱設置は、財産票に拠れば昭和22年(1947年)設置とされる。<br />然るに、該駅は、飯田町-御茶ノ水間複々線化完成時たる昭和8年(1933年)に大改造され、且つ、該架線柱群建設様式が大正末期~昭和初期の特徴を有しており、該駅大改造時に架線柱も改築され、財産票誤記公算が高いと思われる。

    水道橋駅



    緩行線旅客ホーム
    古軌条架線柱群
    該駅ホーム架線柱設置は、財産票に拠れば昭和22年(1947年)設置とされる。
    然るに、該駅は、飯田町-御茶ノ水間複々線化完成時たる昭和8年(1933年)に大改造され、且つ、該架線柱群建設様式が大正末期~昭和初期の特徴を有しており、該駅大改造時に架線柱も改築され、財産票誤記公算が高いと思われる。

    水道橋駅

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />架線柱群<br />因みに、該架線柱群を精査すると、1m未満古軌条複数本を鋲締構成した形跡が多数存在し、寧ろ、該駅が戦災で被災し復旧時に焼損軌条を切断接合した可能性も在り、修復を含め財産票に該年が誤記されたものと推定される。

    水道橋駅



    旅客ホーム
    架線柱群
    因みに、該架線柱群を精査すると、1m未満古軌条複数本を鋲締構成した形跡が多数存在し、寧ろ、該駅が戦災で被災し復旧時に焼損軌条を切断接合した可能性も在り、修復を含め財産票に該年が誤記されたものと推定される。

    水道橋駅

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />西口駅舎

    水道橋駅



    西口駅舎

    水道橋駅

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />西口駅舎

    水道橋駅



    西口駅舎

    水道橋駅

  • 御茶ノ水-水道橋間<br /><br /><br /><br />水道橋(すいどうばし)架道橋<br />急行線用<br />該橋は、昭和8年(1934年)9月15日開通の橋梁である。<br />全長121.0m<br />昭和7年(1932年)横河橋梁 製<br />複線式下路ラーメン高架橋構造<br />7.40m×1 + 25.00m×1 + 18.0m×4<br />その後、道路拡張計画に基き、東京方<br />24.8m×1<br />を追加架橋。

    御茶ノ水-水道橋間



    水道橋(すいどうばし)架道橋
    急行線用
    該橋は、昭和8年(1934年)9月15日開通の橋梁である。
    全長121.0m
    昭和7年(1932年)横河橋梁 製
    複線式下路ラーメン高架橋構造
    7.40m×1 + 25.00m×1 + 18.0m×4
    その後、道路拡張計画に基き、東京方
    24.8m×1
    を追加架橋。

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />飯田橋通架道橋<br />緩行線側<br />

    水道橋-飯田橋間



    飯田橋通架道橋
    緩行線側

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />水道橋通架道橋<br />急行線側桁<br />ラーメン橋脚一体型構造<br />24.80m + 7.40m + 25.00m + 18.00m×4 + 25.00m<br />昭和7年(1932年)横河橋梁製造<br /><br />東京都千代田区神田三崎町2-9<br />中央本線水道橋駅東口前

    水道橋駅



    水道橋通架道橋
    急行線側桁
    ラーメン橋脚一体型構造
    24.80m + 7.40m + 25.00m + 18.00m×4 + 25.00m
    昭和7年(1932年)横河橋梁製造

    東京都千代田区神田三崎町2-9
    中央本線水道橋駅東口前

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />第2三崎町通(だいに みさきちょうどおり)架道橋<br />該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通の橋梁である。<br />上路プレート・ガーダー桁12.70m×1連<br />HARKORT DUISBURG-GERMANY<br />1904<br />(ハーコート社 デュイスブルク造船所-独逸 1904年(明治37年)製造)<br />の銘板が残存。<br />該架道橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區三崎町1~3丁目から採用されたものである。<br />その後、昭和6年(1931年)4月22日附府告示第225号に拠り、該町鐵道省所有地に限定し神田區所属から麹町區所属に変更が決定し、該告示は同年5月1日附で施行された。<br />更に、行政統合合理化に依り、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第423号に拠り、三崎町3丁目鐵道省所有地は飯田町1~3丁目に改称が決定し、該告示は同年7月1日府で施行された。<br /><br />東京都千代田区神田三崎町2-22<br />中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

    水道橋駅



    第2三崎町通(だいに みさきちょうどおり)架道橋
    該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通の橋梁である。
    上路プレート・ガーダー桁12.70m×1連
    HARKORT DUISBURG-GERMANY
    1904
    (ハーコート社 デュイスブルク造船所-独逸 1904年(明治37年)製造)
    の銘板が残存。
    該架道橋名は、該地に存在し、明治11年(1878年)11月2日附で正式命名された神田區三崎町1~3丁目から採用されたものである。
    その後、昭和6年(1931年)4月22日附府告示第225号に拠り、該町鐵道省所有地に限定し神田區所属から麹町區所属に変更が決定し、該告示は同年5月1日附で施行された。
    更に、行政統合合理化に依り、昭和8年(1933年)6月29日附府告示第423号に拠り、三崎町3丁目鐵道省所有地は飯田町1~3丁目に改称が決定し、該告示は同年7月1日府で施行された。

    東京都千代田区神田三崎町2-22
    中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />第2三崎町通架道橋<br />支間16.10m<br />緩行線側桁<br /><br />東京都千代田区神田三崎町2-22<br />中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

    水道橋駅



    第2三崎町通架道橋
    支間16.10m
    緩行線側桁

    東京都千代田区神田三崎町2-22
    中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />第2三崎町通架道橋<br />橋台<br />東京方<br />該橋梁は、関東大震災直後の大火災で焼損被害が発生した。<br />その後、水道橋架道橋設置で重量適正化を目的として、昭和6年(1931年)に現橋桁に架替された。<br /><br />東京都千代田区神田三崎町2-9<br />中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

    水道橋駅



    第2三崎町通架道橋
    橋台
    東京方
    該橋梁は、関東大震災直後の大火災で焼損被害が発生した。
    その後、水道橋架道橋設置で重量適正化を目的として、昭和6年(1931年)に現橋桁に架替された。

    東京都千代田区神田三崎町2-9
    中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />第2三崎町通架道橋<br />関東大震災鎮火直後。<br />鐵道省震災関係文書<br />木部桟道等々焼失焼損している。<br /><br />東京都千代田区神田三崎町2-22<br />中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

    水道橋駅



    第2三崎町通架道橋
    関東大震災鎮火直後。
    鐵道省震災関係文書
    木部桟道等々焼失焼損している。

    東京都千代田区神田三崎町2-22
    中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />第2三崎町通架道橋<br />支間16.10m<br />急行線側桁<br /><br />東京都千代田区神田三崎町2-9<br />中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

    水道橋駅



    第2三崎町通架道橋
    支間16.10m
    急行線側桁

    東京都千代田区神田三崎町2-9
    中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

  • 水道橋駅<br /><br /><br /><br />第2三崎町通架道橋<br />急行線側桁<br />銘板<br />昭和6年(1932年)<br />鐵道省<br />横河橋梁製造<br /><br />東京都千代田区神田三崎町2-9<br />中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

    水道橋駅



    第2三崎町通架道橋
    急行線側桁
    銘板
    昭和6年(1932年)
    鐵道省
    横河橋梁製造

    東京都千代田区神田三崎町2-9
    中央本線水道橋駅東口 徒歩1分

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />小石川通り(こいそかわどおり)架道橋<br />該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。<br />全長23.10m

    水道橋-飯田橋間



    小石川通り(こいそかわどおり)架道橋
    該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。
    全長23.10m

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />小石川通り(こいしかわどおり)架道橋<br />該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。<br />全長23.10m

    水道橋-飯田橋間



    小石川通り(こいしかわどおり)架道橋
    該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。
    全長23.10m

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />小石川(こいしかわ)橋梁<br />該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。<br />全長25.40m<br />平行弦上路プラットトラス構桁<br />ドイツ・ハーコート(HARKОRТ)社 明治36年(1903年)製造<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-11-2<br />中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

    水道橋-飯田橋間



    小石川(こいしかわ)橋梁
    該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。
    全長25.40m
    平行弦上路プラットトラス構桁
    ドイツ・ハーコート(HARKОRТ)社 明治36年(1903年)製造

    東京都千代田区飯田橋3-11-2
    中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />小石川橋梁<br />該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。<br />全長25.40m<br />平行弦上路プラットトラス構桁<br />ドイツ・ハーコート(HARKОRТ)社 明治36年(1903年)製造<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-11-2<br />中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

    水道橋-飯田橋間



    小石川橋梁
    該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。
    全長25.40m
    平行弦上路プラットトラス構桁
    ドイツ・ハーコート(HARKОRТ)社 明治36年(1903年)製造

    東京都千代田区飯田橋3-11-2
    中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />小石川通架道橋<br />該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。<br />全長13.20m

    水道橋-飯田橋間



    小石川通架道橋
    該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。
    全長13.20m

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />小石川橋通架道橋<br />該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。<br />全長13.20m<br />プレートガーダー桁中央部に銘板。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-2<br />中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

    水道橋-飯田橋間



    小石川橋通架道橋
    該橋は、明治37年(1904年)12月31日開通である。
    全長13.20m
    プレートガーダー桁中央部に銘板。

    東京都千代田区飯田橋3-13-2
    中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />小石川橋通架道橋<br />銘板<br />HARKORT.<br />DUISBUR-GERMANY.<br />1904<br />ハートコート社<br />デュイスブルク-ドイツ<br />1904年製造<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-2<br />中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

    水道橋-飯田橋間



    小石川橋通架道橋
    銘板
    HARKORT.
    DUISBUR-GERMANY.
    1904
    ハートコート社
    デュイスブルク-ドイツ
    1904年製造

    東京都千代田区飯田橋3-13-2
    中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />小石川橋通架道橋<br />全景<br />全長76.6m<br />24.8m+25.40m+13.20m+13.20m<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-2<br />中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

    水道橋-飯田橋間



    小石川橋通架道橋
    全景
    全長76.6m
    24.8m+25.40m+13.20m+13.20m

    東京都千代田区飯田橋3-13-2
    中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />小石川橋橋梁<br />急行線側

    水道橋-飯田橋間



    小石川橋橋梁
    急行線側

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />旧飯田町駅跡<br />右手築堤が該駅電車ホーム跡

    水道橋-飯田橋間



    旧飯田町駅跡
    右手築堤が該駅電車ホーム跡

  • 旧飯田町駅<br /><br /><br /><br />駅本屋跡<br />現 大和ハウス東京ビル<br />旅客業務取扱廃止以降、配置客車溜(東イヒ→西イイ)となり、昭和62年(1987年)4月1日以降、日本国有鉄道清算事業団所有地を経て、民間業者に払下られた。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-1<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

    旧飯田町駅



    駅本屋跡
    現 大和ハウス東京ビル
    旅客業務取扱廃止以降、配置客車溜(東イヒ→西イイ)となり、昭和62年(1987年)4月1日以降、日本国有鉄道清算事業団所有地を経て、民間業者に払下られた。

    東京都千代田区飯田橋3-13-1
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

  • 旧飯田町駅<br /><br /><br /><br />駅本屋跡<br />右手高架に列車電車旅客ホームが存在した。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-1<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

    旧飯田町駅



    駅本屋跡
    右手高架に列車電車旅客ホームが存在した。

    東京都千代田区飯田橋3-13-1
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />飯田町駅<br />旅客取扱ホーム跡<br />中距離用客車列車専用ホーム跡<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-1<br />中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

    水道橋-飯田橋間



    飯田町駅
    旅客取扱ホーム跡
    中距離用客車列車専用ホーム跡

    東京都千代田区飯田橋3-13-1
    中央本線水道橋駅西口 徒歩5分

  • 旧飯田町駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム跡<br />中央本線飯田町-新宿間客車列車廃止後は、客車留置線となり車輌洗浄等々に使用された。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-1<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

    旧飯田町駅



    旅客ホーム跡
    中央本線飯田町-新宿間客車列車廃止後は、客車留置線となり車輌洗浄等々に使用された。

    東京都千代田区飯田橋3-13-1
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

  • 水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />旧飯田町駅<br />構内俯瞰

    水道橋-飯田橋間



    旧飯田町駅
    構内俯瞰

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />飯田橋通(いいだばしどおり)架道橋<br />該橋は、明治28年(1895年)4月3日開通の架道橋である。<br />但し、初代架道橋は、全鋼鐵製では無く何故か木造橋併用だった。<br />恐らく、日清戦争(にっしんせんそう)(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、独逸から該橋用鋼材未着、若しくは、急遽他橋梁用転用の為に仮木造橋梁架橋を余儀無くさせられたものと推定される。<br />全長18.18m<br />4.5m(木製)+9.0m(鋼鐵製)+4.5m<br />鋼鐵製単線並立型上路プレート・ガーダー桁<br />で構成されたが、該年中に改めて独逸より該架道橋鋼鐵材が到着し、2代目架道橋として木製橋2連が架替られた。<br />独HARKORT Duisburg-GERMAN 1904<br />(独逸ハーコート社デュイスブルク工場1904年(明治37年)製造<br />関東大震災発生直後、付近住民多数が家財道具一式を携え該橋下に避難して来たが、その後、該橋付近で発生した大火災で、該家財道具群が導火帯化した為に、該橋は強火勢高温が原因で焼損被害が発生した。<br />該区間開通時に於ける橋梁幅は狭隘だったが、その後、関東大震災後に於ける帝都復興計画に基き、該既設道路幅拡張が決定された事を受け、鐵道省は、大正15年(1926年)に該道路拡張と同時に桁架替を実施した。<br />全長28.8m<br />上路プレート・ガーダー桁 5.82m+上路プレート・ガーダー桁19.10m+上路プレート・ガーダー桁 5.82m<br />ラーメン橋脚一体構造型。<br />緩行線用単線桁上下線各桁<br />ホーム用桁<br />急行線用複線桁<br />貨物線用単線桁<br />に架替られた。<br />架替完了後に該道は白山(はくさん)通と改称されたが、該橋梁名は架橋当時のまま残存。

    飯田橋駅



    飯田橋通(いいだばしどおり)架道橋
    該橋は、明治28年(1895年)4月3日開通の架道橋である。
    但し、初代架道橋は、全鋼鐵製では無く何故か木造橋併用だった。
    恐らく、日清戦争(にっしんせんそう)(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、独逸から該橋用鋼材未着、若しくは、急遽他橋梁用転用の為に仮木造橋梁架橋を余儀無くさせられたものと推定される。
    全長18.18m
    4.5m(木製)+9.0m(鋼鐵製)+4.5m
    鋼鐵製単線並立型上路プレート・ガーダー桁
    で構成されたが、該年中に改めて独逸より該架道橋鋼鐵材が到着し、2代目架道橋として木製橋2連が架替られた。
    独HARKORT Duisburg-GERMAN 1904
    (独逸ハーコート社デュイスブルク工場1904年(明治37年)製造
    関東大震災発生直後、付近住民多数が家財道具一式を携え該橋下に避難して来たが、その後、該橋付近で発生した大火災で、該家財道具群が導火帯化した為に、該橋は強火勢高温が原因で焼損被害が発生した。
    該区間開通時に於ける橋梁幅は狭隘だったが、その後、関東大震災後に於ける帝都復興計画に基き、該既設道路幅拡張が決定された事を受け、鐵道省は、大正15年(1926年)に該道路拡張と同時に桁架替を実施した。
    全長28.8m
    上路プレート・ガーダー桁 5.82m+上路プレート・ガーダー桁19.10m+上路プレート・ガーダー桁 5.82m
    ラーメン橋脚一体構造型。
    緩行線用単線桁上下線各桁
    ホーム用桁
    急行線用複線桁
    貨物線用単線桁
    に架替られた。
    架替完了後に該道は白山(はくさん)通と改称されたが、該橋梁名は架橋当時のまま残存。

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />飯田橋通架道橋<br />急行線側<br />

    飯田橋駅



    飯田橋通架道橋
    急行線側

    飯田橋駅

  • 飯田橋(いいだばし)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和3年(1928年)11月15日開業である。<br />関東大震災に依り該駅付近一帯は火災発生の為に壊滅的被害が発生した。<br />内務省震災復興院に依る復興事業の一環として、東京市内に広幅道路に依る防火帯設置案が決定し、該決定に基き現在の目白通りが設置されたが、他方、当時の中央本線飯田町電車駅-牛込間が0.7kmの至近距離だった事を理由に、両駅を統合し、且つ、該通りに面した位置に駅本屋設置を策定し、鐵道省も該案を了承した事から、該駅開設に至った。<br />此の為に、旧牛込区神楽坂地区を中心とした従来の牛込駅利用者に不便を蒙らさせぬ為に、西口は緩やかなスロープが設置された。<br />昭和20年(1945年)4月13日空襲で、駅所在周辺地たる、麹町区(現 千代田区)及び、牛込区(現 新宿区)の殆どの地域が焼失したが、該駅は奇跡的に被害が発生せず焼失を免れた。<br />帝都高速度交通営団(現 東京メトロ地下鉄)東西線が該駅直下を通過し駅開設が決定した事から、東口駅本屋改築が決定し、昭和39年(1964年)6月に現第2代駅本屋が竣工した。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=99

    飯田橋(いいだばし)駅



    該駅は、昭和3年(1928年)11月15日開業である。
    関東大震災に依り該駅付近一帯は火災発生の為に壊滅的被害が発生した。
    内務省震災復興院に依る復興事業の一環として、東京市内に広幅道路に依る防火帯設置案が決定し、該決定に基き現在の目白通りが設置されたが、他方、当時の中央本線飯田町電車駅-牛込間が0.7kmの至近距離だった事を理由に、両駅を統合し、且つ、該通りに面した位置に駅本屋設置を策定し、鐵道省も該案を了承した事から、該駅開設に至った。
    此の為に、旧牛込区神楽坂地区を中心とした従来の牛込駅利用者に不便を蒙らさせぬ為に、西口は緩やかなスロープが設置された。
    昭和20年(1945年)4月13日空襲で、駅所在周辺地たる、麹町区(現 千代田区)及び、牛込区(現 新宿区)の殆どの地域が焼失したが、該駅は奇跡的に被害が発生せず焼失を免れた。
    帝都高速度交通営団(現 東京メトロ地下鉄)東西線が該駅直下を通過し駅開設が決定した事から、東口駅本屋改築が決定し、昭和39年(1964年)6月に現第2代駅本屋が竣工した。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=99

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />旧飯田町客車区引上線跡

    飯田橋駅



    旧飯田町客車区引上線跡

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />旧飯田町客車区引上線跡

    飯田橋駅



    旧飯田町客車区引上線跡

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />古軌条支柱

    飯田橋駅



    旅客ホーム
    古軌条支柱

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />古軌条支柱

    飯田橋駅



    旅客ホーム
    古軌条支柱

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />古軌条支柱<br />第1番ホーム上屋古軌条支柱<br />CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL W.1888 SEC131 I.R.J.<br />(英キャムメル・スティール社1888年製造 発注番号131号 工部省鐵道作業局発注品)<br />支柱番号 第21号b

    飯田橋駅



    旅客ホーム
    古軌条支柱
    第1番ホーム上屋古軌条支柱
    CAMMELLS FIELD TOUGHENED STEEL W.1888 SEC131 I.R.J.
    (英キャムメル・スティール社1888年製造 発注番号131号 工部省鐵道作業局発注品)
    支柱番号 第21号b

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />新設旅客ホーム

    飯田橋駅



    新設旅客ホーム

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />新旅客ホーム<br />事実上の牛込駅復活。

    飯田橋駅



    新旅客ホーム
    事実上の牛込駅復活。

    飯田橋駅

  • リニア鉄道館<br /><br /><br /><br />モハ1035<br />該車輌は、大正11年(1922年)に鐵道省デハ33509として製造された電車である。<br />車体は純木造構造で、汽車會社東京支店で製造され、電動機にはGM社製75kW GE-244型をモデルに国産化した芝浦製作所社製75kW SE102型(MT-4)を装着した。<br />昭和3年(1928年)10月1日附鐵道省車輌称号規定改正に拠り、モハ1035に改番された。<br />該車は、新製以来 中野電車庫に配置され、長らく中央本線で使用されたが、該車装着電動機が75kWだった事から加速力は弱く、半鋼製100kW電動機装着電車が台頭するに従い、出力不足に依る遅延原因の元凶とされ、次第にラッシュアワー時の東京-荻窪間専用運転となった。<br />昭和7年(1932年)改造に依り、扉自動開閉装置、電動発電機、及び、電気暖房機を装備するまで、扉開閉は手動、電動発電機未設置で室内灯は直列直結で電燈1個が断線すると該車輌全部が停電状態、自車付近で他電車が発進加速すると自車照明が徐々に暗くなると云う現在では考えられぬ状態が発生していた。<br />老朽化の為に、昭和12年(1937年)12月11日附で廃車されたが解体はされず、三信電気鐵道に払下られ、該社デハ307となった。<br />然るに、該社が国策によ依り昭和18年(1943年)8月1日附で国有化され飯田線となるに従い、再度国有財産となった。<br />昭和27年(1952年)7月7日附で廃車手続が執行され、大井川鐵道に払下げられ使用されたが、該社で廃車後、東海旅客鉄道が購入し、平成9年(1997年)1月に一般公開され、昭和3年(1928年)当時の姿に復元し展示されている。

    リニア鉄道館



    モハ1035
    該車輌は、大正11年(1922年)に鐵道省デハ33509として製造された電車である。
    車体は純木造構造で、汽車會社東京支店で製造され、電動機にはGM社製75kW GE-244型をモデルに国産化した芝浦製作所社製75kW SE102型(MT-4)を装着した。
    昭和3年(1928年)10月1日附鐵道省車輌称号規定改正に拠り、モハ1035に改番された。
    該車は、新製以来 中野電車庫に配置され、長らく中央本線で使用されたが、該車装着電動機が75kWだった事から加速力は弱く、半鋼製100kW電動機装着電車が台頭するに従い、出力不足に依る遅延原因の元凶とされ、次第にラッシュアワー時の東京-荻窪間専用運転となった。
    昭和7年(1932年)改造に依り、扉自動開閉装置、電動発電機、及び、電気暖房機を装備するまで、扉開閉は手動、電動発電機未設置で室内灯は直列直結で電燈1個が断線すると該車輌全部が停電状態、自車付近で他電車が発進加速すると自車照明が徐々に暗くなると云う現在では考えられぬ状態が発生していた。
    老朽化の為に、昭和12年(1937年)12月11日附で廃車されたが解体はされず、三信電気鐵道に払下られ、該社デハ307となった。
    然るに、該社が国策によ依り昭和18年(1943年)8月1日附で国有化され飯田線となるに従い、再度国有財産となった。
    昭和27年(1952年)7月7日附で廃車手続が執行され、大井川鐵道に払下げられ使用されたが、該社で廃車後、東海旅客鉄道が購入し、平成9年(1997年)1月に一般公開され、昭和3年(1928年)当時の姿に復元し展示されている。

    リニア 鉄道館 美術館・博物館

  • リニア鉄道館<br /><br /><br /><br />モハ1035<br />側面<br />ステップ撤去後。

    リニア鉄道館



    モハ1035
    側面
    ステップ撤去後。

    リニア 鉄道館 美術館・博物館

  • モハ1035<br /><br /><br /><br />車内俯瞰<br />該車は時速50km以上の速度を出すと、車内は菱形を呈し、背凭れに服が食いつかれる為に、一般利用者もモハ1型が来ると乗車を忌避する者が多かった。

    モハ1035



    車内俯瞰
    該車は時速50km以上の速度を出すと、車内は菱形を呈し、背凭れに服が食いつかれる為に、一般利用者もモハ1型が来ると乗車を忌避する者が多かった。

    リニア 鉄道館 美術館・博物館

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この旅行記へのコメント (8)

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  • 風 魔さん 2019/10/22 12:59:19
    中央線沿線の駅々の懐かしい光景を拝見しました!
    横浜臨海公園さま
    おはようございます。
    旅行記への訪問&投票をありがとうございます。
    貴旅行記を拝見しましたが、詳しい史実、史跡の説明には大変驚いています。
    中央線の沿線は東京の大学生活の頃、電車に乗って都内を周遊した記憶がありますが今では新路線、高いビル建物群が多く出来て風景も様変わりしました。

    全国の鉄道の旅に、マイホーム・タウンの静岡近辺のいつも見慣れた風景を拝見しましたが、私の知らない史跡・史実の詳しい解説がとても参考になりました。
    ところで、私の亡妻の叔父は、明治時代の建造物研究の第一人者として旧丸ビル近辺の建築物に関する著書を書き、その後「明治村の村長」を務めた村松貞次郎氏ですが、自分も古き良き時代の建造物にも興味があります。
    興津座魚荘に移り住んだ「西園寺公望公」は、神田・駿河台に本宅がありましたが、幕末の頃駿河(静岡)の役人が神田周辺に住んでいたことから、その地名の由来です。

    横浜臨海公園とは、私のなかでは「山下公園」をイメージしますが、学生時代に横浜に住んでいたので、海と公園の景色には特に想い入れがあります。

    またの訪問と情報交換を!
    風 魔

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/10/23 14:05:13
    拝復
    風 魔さま、こんにちは。


    拙稿へのお立寄りと投票、そして掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    当該旅行記は、関東大震災発生、当時の鉄道省本省庁舎が類焼に依り全焼した際に、建設当時のオリジナル資料も焼失した為に、旅行記作成の資料蒐集に時間を取られすぎてしまい、上程まで時間がかかり過ぎてしまいました。

    兎に角、今回の旅行記作成過程でもそうですが、今まで真顔で語られていたことが、実は伝承嘘ばかりだったと言えると思います。

    仮に30年前と比較すると、神田、御茶ノ水、飯田橋駅前は、麻雀荘が軒を並べていたものが、その後、殆どの店が全滅し、現在ではカラオケボックスが乱立する状態となっております。

    然し、御親戚に村松貞次郎教授がおられたとは驚いております。

    何卒亦宜敷くお願い申します。




    横浜臨海公園
  • frau.himmelさん 2019/10/17 07:11:55
    0㎞スポット
    横浜臨海公園さま おはようございます。
    3週間のヨーロッパ旅行にいっていまして昨日帰ってまいりました。

    留守の間にまたまた大変重厚なご旅行記をアップなさっていたのですね。私にも身近な東京駅界隈、特に神田・お茶の水はいつも見知っているところなのに、とても新鮮な目線で拝見いたしました。
    それに昇平橋や万世橋、神田のガード下・・・。

    前から東京駅の0㎞スポットのことは何度かご旅行記にも書いていらっ者いましたが、1番線にあるのですね。中央線はあまり利用しないものですから気が付きませんでした。
    一度見てみたいと思います。

    帰国早々帯状疱疹に罹り、それに時差ボケでフラフラしておりますので、体調が回復しましたらもう一度じっくり拝見させていただきたいご旅行記です。
    ありがとうございました。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/10/17 12:07:57
    拝復
    frau.himmelさま、こんにちは。


    拙稿への投票、及び、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    飯田橋-新宿間は複々線化工事時に開通時の痕跡が殆ど消滅したのに対し、特に、東京-水道橋間は、開通時の橋梁がそのまま残るなど、意外と知られていないのも実情です。

    先般、日本経済新聞文化面に万世橋駅、昌平橋駅跡の記事が掲載されておりましたが、当該記事で両方の駅は関東大震災で被災せずと云うのは、明らかに誤りで、拙稿にも出ている様に、関東大震災では甚大被害が発生したというのが事実です。

    時間がございましたら、是非とも現地を訪れてみて下さい。

    お体何卒御自愛下さいませ。




    横浜臨海公園
  • M-koku1さん 2019/10/07 10:20:19
    懐かしい区間です
    横浜臨海公園様

    子供の頃には通学で 大人になっては通勤で 今はショッピングや遊び行く時に使う 実に馴染み深いエリアだったので 興味深く読ませていただきました。 

    最寄りの駅が水道橋だったので あのホームの上の 鉄骨のアーチは いつもきれいだなあと思ってみていました。

    万世橋駅は父はちょっと覚えていたみたいですが 鉄道博物館のある場所位の印象しかなかったのに 再開発ですっかり素敵になりました。
    時代の変遷を深く感じさせるエリアです。

    飯田橋の神楽坂側の入口が閉鎖されましたが 今後どうなっていくんでしょうね。
    江戸時代の面影まで残すこのエリア 大切に保存開発して行ってもらいたいと思います。

    いつもながらの大作 頭が下がります。

    Mより

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/10/07 11:56:28
    拝復
    M-koku1さま、こんにちは。


    拙稿に投票、並びに、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    水道橋駅の古軌条アーチは、形態から判断して、財産票に記載されている昭和22年(1947年)などでは無く、昭和8年(1933年)の飯田町-御茶ノ水間複々線化時に設置されたもので、中には1mに満たないレールを鋲留しながら連続させたものもあり、当時は何物でも無駄にしなかった時代背景が読み取れる物です。

    飯田橋駅牛込口は新ホーム完成後に復活する予定との事で、神楽坂方面利用者は便利になる事でしょう。

    計画通りであれば、今月中に、飯田町-飯田橋-新宿間編が上程可能だと思います。




    横浜臨海公園
  • Tagucyanさん 2019/10/03 22:40:41
    なじみがある区間
    横浜臨海公園さま

    こんばんは。
    この区間は現在の通勤ルートとなっていて、かつ御茶ノ水駅、神田駅、東京駅、いずれも勤務先(通学先)の最寄り駅だった時代があり、意外となじみのあるところでもありますので、興味を持って拝見させていただきました。
    明治~大正にかけて開通した区間で、当時からの構造物をそのまま使っている区間がほとんど。もう100年以上経っている構造物もまだ現役で、建設当時すでに高い技術力があったんだなあと思います。

    旧万世橋駅のホームは、現在ガラス張りのオシャレな飲み屋さんになっています。
    あの区間は電車はゆっくり走りますので、そこで飲食している人たちと目が合ってしまうこともあります(笑)

    御茶ノ水駅と飯田橋駅は現在改良工事中。
    飯田橋駅は直線区間にホームを作り直していますね。

    そう言えば、快速線にはかつて、あのカーブ区間の途中で分岐して貨物駅がありました。
    私ぐらいがあの貨物駅をリアルタイムに見ていた最後の年代かも知れません。

    ---
    Tagucyan

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2019/10/04 11:45:03
    拝復
    Tagucyanさま、こんにちは。


    ご無沙汰をしております。
    拙稿への投票、及び、掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。

    実は、小生の横浜在住ながら、通学、通勤で、中央線には40年以上お世話になっております。

    最初の頃は101系なんて、殆どポンコツ電車が走っており、横須賀線や東海道線普通電車が殆ど冷房車なのに、中央線ともなると快速電車ですら6割前後しか冷房車が無く、初夏から秋口まで、暑い思いをしながら乗った記憶がございます。

    当該区間は乗った方は多いと思いますが、ドイツ製の橋梁が現用されているなど、実は土木にかんしてご存知の方は殆ど居ないと思います。

    飯田町駅に関しては飯田町-新宿間編で紹介させて頂きたいと存じます。




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