四ツ谷旅行記(ブログ) 一覧に戻る
該区間は、甲武(こうぶ)鐵道に依り開通した。<br /><br />即ち、該区間は、日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)勃発に依る軍事輸送の観点から緊急敷設された。<br /><br />開通日は、<br />   新 宿-牛 込間  明治27年(1894年)10月 9日<br />   牛 込-飯田町間 明治28年(1895年) 4月 3日<br />である。<br /><br />但し、新宿-青山練兵場間に就いては、日清戦争勃発の為に帝國陸軍より緊急設置要請を受け、直ちに敷設工事に着手し、明治27年(1894年)9月17日に竣工し、同年同月23日より運転開始され同時に青山軍用停車場が開設されたものである。<br /><br /><br />現在の東京都港区青山一帯は、江戸期は、徳川家安祥(現 安城)出身譜代大名 青山家領地跡で、明治維新以降は遊休地化していたが、現在の、国立霞ヶ丘競技場、神宮球場、明治神宮外苑域は、明治19年(1886年)に帝國陸軍第1師団青山練兵場として活用された。<br /><br /><br />該社は、明治22年(1889年)4月11日に新宿-立川間27.2km、同年8月11日に立川‐八王子間9.9kmを開通させ、該社列車を日本鐵道新宿-品川間に直通乗入運転を果たし、品川-新橋Ⅰ間を介し東京市中心部への連絡を可能ならしめたが、一方、同時期に該社が別途次期社策として東京市中心部への直接連絡線設置を目論み、政府に対し同年5月22日附で新宿-神田區(現 千代田区)三崎町間延伸許可申請を提出し、逓信省では該件を審査の上、同年7月13日附で該社に対し仮免許状を交付した。<br />此れを受け、該省鐵道局2等技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)6月24日~昭和2年(1927年)1月23日)、及び、同5等技師 野村龍太郎(のむら りゅうたろう)(安政6年(1859年)2月27日~昭和18年(1943年)9月18日)両名の手に依り直ちに現地測量を開始し、紆余曲折の上、同年10月30日に該測量が完了した。<br /><br />終点に予定された神田區三崎町には、明治以降、帝國陸軍第1師団練兵場が存在した。<br />該社が当初計画したのは、新宿から現在の靖国通と平行し、ほぼ直線経路で三崎町に至るもので、軽勾配で、且つ、建設設置は容易と判断されていた。<br /><br />第2代日本鐵道社長 奈良原 繁(ならはら しげる)(天保5年(1834年)6月29日~大正7年(1918年)8月13日)(明治17年(1884年)10月~明治25年(1892年)3月14日在任)は、該社が日本鐵道の全面協力に依り開業に至った経緯を有していた事から、該社東京市中心部乗入計画に対し、日本鐵道に何ら事前相談無く勝手に政府に対し建設申請を行った事に対し、強い不快感と憤怒とを抱かせ、結果的に翌明治23年(1890年)6月1日附を以って、甲武鐵道列車の品川乗入は拒否され中止を余儀無くさせられる。<br /><br />他方、帝國陸軍は、西南の役(せいなんのえき)(明治10年(1867年)2月8日~同年9月24日)、秩父困民党事件(ちちぶ こんみんとうじけん)(明治17年(1884年)10月31日~同年11月9日)等々鎮圧の為の非常事態に於ける緊急軍隊動員行動容易を知悉しており、当時、緊急事態発生時に青山に存在した練兵場に対する敏速な軍隊輸送を期待した。<br /><br />陸軍参謀本部次長 陸軍中将 川上操六(かわかみ そうろく)(嘉永元年(1848年)12月6日~明治32年(1899年)5月11日)は、当時の朝鮮半島権益を巡り緊張が高まっていた日清間に於いて、戦闘状態勃発時に於ける軍隊輸送を該社に期待した。<br /><br />更に、日本鐵道に依る上野-赤羽-品川間に於ける東京府下市外循環線形成に対し、該社が東京市内循環線構想を有していた事は、該仮免許願内容から判断して歴然としており、即ち、新宿‐飯田町間延長も該循環線構造の一環である。<br /><br />此の為に、改めて、菅原恒覧(すがわら つねみ)(安政6年(1859年)8月22日~昭和15年(1940年)4月10日)に測量調査を依頼し、明治24年(1891年)12月に南線測量を開始し、翌明治25年(1892年)3月23日附で、ほぼ現行経路測量が完了し、該社は内務省に対し該報告書を提出したが、然るに、同年9月に陸軍省は該社に対し、<br /> 1)軍隊出入不便を理由に大番町(信濃町)停車場位置変更。<br /> 2)四谷停車場に於ける外濠中央部設置に対し、要塞地たるを以って障碍力減殺を想定し外濠内側に変更。<br /> 3)四谷見附-市ヶ谷見附間に於ける線路勾配存在区間に対し濠幅を減じ、線路を外濠内側に敷設し、且つ、隧道設置。<br /> 4)青山練兵場は狭隘地に付、軍隊教練障碍となる事から1420坪以上の代替地提供。<br /> 5)飯田町砲兵工科学舎所在地、及び、馬術練習位置をして停車場用地として貸渡の為に、代替地移転両支払。<br /> 6)馬術練習場は、借用既成権を有する故に移転料支払。<br />を要求した。<br /><br />該区間設置に関し、関係官庁に対する出願は、<br /> 東京府 154件<br /> 陸軍省監督部、経理部 14件<br /> 鐵道局、警視庁、麹町區役所 27件<br /> 宮内省、学習院 46件<br />にのぼり、該請願群に於ける第1次審査通過例は5件のみで残りは全部却下された。<br /><br />即ち、日本鐵道赤羽線(現 山手線)と平行し千駄ヶ谷村代々木付近で跨線橋で越え、新宿御苑南方を迂回し、青山練兵場西部から、御所付近を隧道で通過し、外濠を一部埋立して飯田町に至る経路だった。<br /><br />此れに対し、明治26年(1892年)3月1日附で、新宿-飯田町間建設本免状を交付した。<br /><br />特に、四ッ谷-市ヶ谷間に於ける玉川上水分流木樋が数箇所存在する事から、内務省をして態度を硬化させるに充分だった。<br />即ち、該区間建設当時に於ける東京市内上水道設備は殆ど未完成状態だった事から、玉川上水より各疎道を経由し該市内各地に給水する状態であり、木樋が使用されていた為に、既に老朽腐朽化していた該木樋をして損傷させる事無く該工事を進行させる必要性が在り、且つ、風致地区でもあり、此の為に、市ヶ谷-四ッ谷間に隧道が3箇所設置を余儀無くさせらされた。<br /> 四番町隧道 18.2m<br /> 三番町隧道 30.0m<br /> 四谷隧道   26.0m<br />特に、四番町隧道上には皇居、麹町區内各配疎道が存在した為に、隧道施工では慎重に慎重を帰した。<br /> 御所隧道  290.0m<br />該隧道は、赤坂御所、及び、学習院所在地下通過に鑑み、学習院側から建築物異常発生時復元等々14箇条に亘る誓約書を交付された。<br /><br />該区間敷設工事は、朝鮮半島の権益を巡り日清間に於いて戦闘状態勃発が現実化の様相を帯びていた事から、取敢えず、明治27年(1894年)3月に、青山練兵場内設置工事に着手した。<br />工事途中で、同年6月20日14時4分頃、東京地方を中心とする震度7の明治東京地震が発生した。<br />該地震に於ける人的被害は少数だったが、浅草凌雲閣をはじめとする洋風建築物に少なからず被害が発生した。<br />寧ろ、該地震に依り学習院構内諸施設に被害が発生し、初等科以外施設は現在地たる目白に移転する要因となった。<br />該地震被害復旧工事を伴った事から工事遅延が見込まれたが、更に、日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)勃発の為に、陸軍省に対し工事早期完了要求が有り、突貫工事の末、同年9月17日に竣工し同月23日より使用を開始した。<br />同時期の同様例として、山陽鐵道は大本営より戦地宛船舶集結地たる広島宇品港の存在に鑑み、広島停車場より宇品港に至る鉄道設置要求を行い、該社は該要求を受け、明治27年(1894年)7月に現地測量を実施し、同年8月4日に該敷設工事に着工し、突貫工事の結果、同年同月20日に該区間5.8kmが竣工させると云う離れ業を演じた。<br />該練兵場停車場から出征した部隊として、第1師団、及び、台湾派兵近衛師団があったが、何れも、山陽鐵道宇品駅まで鉄道輸送され、船舶に乗船し各地へと派兵され、翌明治28年(1895年)5~6月に該停車場に帰還凱旋した。<br /><br />新宿-青山練兵場間建設工事と平行し市街線建設工事は順調に進行し、同年10月9日に牛込、続いて翌明治28年(1896年)4月3日に飯田町まで開通した。<br /><br />新宿-飯田町間6.4km設置工事は、計画当初こそ陸軍側は提示条件を多々要求し、該社をして困惑の度を深めさせられたが、同時期に、日清間外交関係が急速に緊張悪化し、戦争勃発が現実味を見せるに従い、陸軍側も該社に対し要求ばかりが許される状況では無くなり、該状況下に於いて、該社も亦、寧ろ棚から牡丹餅的に軍部のゴリ押しに対し対抗も亦容易だった。<br /><br />牛込-飯田町間0.7kmは、該地域一帯が住宅密集地故に、鉄道敷設が困難だったが、日清戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)勃発に伴い、軍用輸送不足を理由に逆に内務省、及び、東京府に対し、半ば強権を以って土地収用を容易可能とさせた事で、該区間は、翌明治28年(1895年)4月3日に開通した。<br /><br />更に、新宿-飯田町間は、路盤、隧道共に将来を見据え複線構造可能な状態で構築された事から、該社は軍用列車増発を理由に同年5月16日附で複線化申請を提出し、審査の結果、同年7月22日附で該申請が許可され同年12月30日には複線化を完了させた。<br /><br /><br />該社は、明治26年(1893年)7月28日附で、東京市内循環鐵道敷設願を申請した。<br /><br />甲武鐵道株式会社延長線仮免許状御下付願<br />弊社曩キニ新宿八王子間ノ鐵道絵営業御裁可ヲ蒙ルニ当リ深ク前途ヲ考察シ中央政府ノ所在地大都府ニ在リテ百般文明ノ利器ヲ要スル今日独リ交通機関ニ荷車人力ノ妨キ旧時ノ器械ニ依頼スヘカラサルハ論ヲ待タサル義ニ附市内循環鐵道ヲ敷設シ日本鐵道會社カ大半所有スル市外縦環鐵道ト相待ツテ市民ノ鴻益ヲ図カリ退テ弊社営業ノ規模ヲ各条センコトヲ企図シ右鐵道敷設ノ願書ヲ差出サントスルニ当リ不幸ニシテ世上金融逼迫有要ノ事業ニ放資スルノ余裕ヲ与ヘス殊ニ新事業ヲ企図スルニ当リ前者ノ失敗ハ後者ノ企業心ヲ蹉跌スルノ懼レ之レアリ最モ謹慎を加ヘサルヘカラス故ニ先ツ三崎町延長線布設ノ義ヲ願立テ引続キ萬世橋迄延長願出候処諸種ノ沿革ヲ経テ先般飯田町迄延長ノ本免許状御下付相成リ平常ノ素志央ハ貫徹弊社ノ雀躍之レニ加フル者ナク爾来工事ニ着手略ホ予定ノ如ク進捗ノ目途相付キ且ツ既往の経験に照シ些カ信スル所有之候ニ付兼テ企図スル市内循環鐵道完成ノ目的ヲ達セント茲ニ従来ノ調査ヲ再審シ予定線路ヲ測定以テ起業ノ費用ヲ算当シ各要処ニ社員ヲ派シ以テ通貨ノ人員物資ヲ測カリ略ホ収支概算ノ杜撰ナラサルヲ明ラカニ仮免許状願書ヲ差出サントスルニ当り世上ノ金融ハ日ニ増シ緩慢ヲ告ケ有益ノ事業ニ出資セントスルス者陸続諸方ニ勃発致候機運ニ相向ヒ候折柄徒ラニ杞憂躊躇好機ヲ失スヘキニ非ス況ンヤ市内循環鐵道完成ノ大半ハ既ニ本免許状ヲ得テ幸ニ弊社基衝ニ当ルノ栄誉ヲ辱フシ進ンテ之レヲ完決スル府民ノ鴻益は申す迄モナック帝國大都府ノ偉観ニシテ仰モ弊社カ努メサルカラサルノ義務ナリト確信致候ニ付別紙略図ニ記スル市内循環鉄鐵道即四谷停車場ヨリ分岐シテ御堀側土堤敷ニ沿ヘ赤坂目附虎ノ門幸橋山下門ヲ経テ市孔區改正御予定ノ中央停車場ニ至リ尚ホ進ンテ神田橋一ツ橋ヲ経テ今川小路新運河ニ沿ヘ弊社飯田町停車場ニ連絡スル五哩十二鎖間ノ鐵道線路ハ封建時代ノ遺物ヲ王政文明ノ利器ニ利用スルノ考按ニシテ勉メテ人家稠ノ地ヲ避ケ而カモ市内交通上最大要処ト称スル各目附ヲ通過シ所謂下町ト山ノ手ヲ連絡スル唯一ノ線路ト思考仕候右五哩間鐵道複線起業費ヲ調査スルニ概略壱百拾萬円ニシテ一哩凡ソ三拾萬円ニ双頭スルハ市内鐵道ニ在リテハ頗ル廉価ニシテ必意地理上ノ便利然ラシムル者ニ可有之然レトモ亦一方ヨリ考察スレハ一哩ノ起業費無慮三拾萬円ノ大金ニ対シ年五朱八厘五毛ノ配当ヲ為シ得ラルルカ如キハ必意市内循環鐵道有スル弊社ニ在リテ始メテ計算相立候義ニシテ若シ独立之レヲ営業セントスル者アラハ収支相償フ能ハサルハ殆ント疑ヲ容レサル義ト奉存候之レヲ要スルニ右市内循環鐵道敷設ハ弊社従来ノ宿願ニシテ之レヲ実行スル諸種ノ便宜ヲ有シ候義ニ附願意御採納蔽成下速カニ仮免状御下付被成下候様奉願度別紙起業費目論見書収支概算略図相添ヘ此段奉懇願候也<br /> 明治弐拾六年七月弐拾八日<br />  逓信大臣 伯爵 黒田清隆殿<br />                    甲武鐵道株式會社<br />                     専務取締役 三浦泰輔<br /><br />然るに、東京市區改正委員會は、明治28年(1895年)8月26日会議に於いて、<br />東京市内速輸ノ方式トシテ汽車鐵道ヲ採用スルハ其利害相償ハサルモノナルヲ以テ許可セラレルモノニ非ス<br />として該申請は却下したが、該却下理由として、蒸気機関車牽引に依る煤煙排出に依る空気汚濁だけでは無く沿線火災要因の可能性を有する為に、電気式、若しくは、馬力鉄道が好都合と考えられていた。<br /><br />該社は、新宿-飯田町開業後、明治30年(1897年)5月31日附で、四ツ谷-喰違見附-虎ノ門-新橋烏森間3.2kmの分岐線建設延長申請を出願したが、前述の理由を以って、翌明治31年(1898年)6月30日附で申請却下。<br />該社は懲りずに、翌明治32年(1899年)12月13日附で、四ツ谷-喰違見附-虎ノ門-麹町區有楽町間延長を出願したが、同様理由で、翌明治33年(1900年)5月18日附で申請却下。<br /><br />歴史に於ける 若し! は禁物だが、該申請時点が該社が曲がりなりにも飯田町-新宿間電車運転開始後であれば、逓信省としても却下拒否理由が無くなり、四ツ谷-新橋烏森間建設許可が下りた可能性があり、現在の東京メトロ地下鉄 四ツ谷-赤坂見附-新橋間相当区間に、埋立以前の外濠を活用した高架線が建設された可能性が高く、若し、実現していれば、該区間は東日本旅客鉄道所有の超黒字路線が実現したものと思われる。<br /><br /><br />第121代 孝明(こうめい)天皇(天保2年(1831年)7月22日~慶應3年(1867年)1月30日)(弘化3年(1846年)3月10日~慶應3年(1867年)1月30日御在位 )英照(えいしょう)皇太后(天保5年(1835年)1月11日~明治30年(1897年)1月11日)崩御に伴い、大喪式は京都に於いて執行が決定した事から、御霊移送の為に、青山仮駅より京都まで霊柩列車運転が決定し、同年2月2日14時に青山仮駅を出発し、京都に於いて大喪執行後、後月輪東北陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)に奉葬された。<br /><br /><br />該社は、近隣煤煙被害防止を主目的として市街線電化を決定する。<br /><br />該区間利用者は年々増加の一途を辿ったが、蒸気機関車牽引の長編成では無く、電車使用に依る単車頻発運転が検討され、此の為に該社は明治33年(1899年)に 鐵道作業局技師 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政4年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)に出張依頼をさせ、仙石は渡独し独逸国内に於いて保安装置に自動閉塞式を導入する事で概ね5~10分間隔で電車運転を実現している事が判明した事から、該社は飯田町-中野間電化計画を策定し、同年12月に電化工事申請をし、該申請は、翌明治34年(1901年)9月に審議の上許可された事から、該社は三井物産を経由し電車電装品一式、及び、自動閉塞装置一式を米國に発注した。<br /><br />電車運転の為に該社は柏木(現 大久保)に自社火力発電所を設置し、交流3300Vを発電すると共に、市ヶ谷に変電所を設置し柏木から交流3300Vを送電し、該変電所で直流600Vに降圧変換送電し、明治37年(1904年)8月21日より飯田町-中野間で電車運転を開始した。<br /><br />該電化当時に導入された電車は、<br />   1)長10058mm、車体幅2286mm、2軸式単車<br />   米ジェネラル エレクトリック(GENERAL ELECTRIC)社製 電動機45馬力×2<br />   C14型電磁式複式制御器<br />   米BRILL型21E式台車<br />   GE型直通空気制動機<br /> 計16両が飯田町工場で組立られた。<br />直接制御方式ばかりの当時の我が国内で運用されていた電車の内で、原始的構造ながら総括制御方式を採用し、1個の制御器で複数の電動機運用が可能と同時に、鉄道車輌に於ける制動機器と言えば手制動が主流、真空制動器装備ですら少数時代に空気制動器装備車輌とは、正しく革新的存在だった。<br /><br />次いで、明治39年(1906年)4月に増備された車輌は、<br /> 2)長10058mm 車体幅2286mm 、2軸式単車<br />   米ウェスティング ハウス(WESTING HAUSE)社製 電動機50馬力×2<br />   WH12型電磁空気式制御器<br />   米BRILL型21E式台車<br />   WH型直通空気制動器<br /> 計12両が新宿電車庫で組立てられた。<br />双方の電車は第Ⅰ期投入車輌とは車体サイズは同様ながら、機器製造企業相違の為に、相互車輌間の総括制御運転は不可能だった。<br /><br />我が国に於ける電車営業運転は、明治28年(1894年)に京都市内で実現し、既に数都市に於いて運転され、明治33年(1900年)東京市内でも路面電車が運転開始されており、遡る事、明治23年(1890年)5月には上野公園に於いて開催された第3回内國勧業博覧会会場に於いて我が国初の電車運転が実施されていた事から、東京市民にとって電車とは必ずしも未知の乗り物ではなかったが、それまで開業した電車は悉く道路上に於いて乗降する路面電車形態だったのに対し、該社で開始した電車運転は専用線を走行しホーム上から乗降するインターバン輸送だった点が大いに異なっていた。<br /><br />更に、直流600V電化開業に先達ち、飯田町-新宿間複線区間に対し、同年4月より従来の双信閉塞式から自動閉塞式に変更させ、同時に原始的構造ながら、円盤表示式自動信号機を導入し列車運行上に於ける保安度向上に貢献した。<br /><br /><br />甲武鐵道は明治39年(1906年)10月1日に政府に依り買収されたが、該社政府買収直前たる同年9月23日に代々木駅が開業した。<br /><br /><br />明治43年(1910年)8月9~10日に、関東地方は近現代を通じ、最大最悪な記録的集中豪雨被害に見舞われたが、該区間内たる牛込-四ッ谷間に並行する外濠が排水限度能力を超過し溢水状態となり、該濠に面した牛込駅本屋に床上浸水被害発生他、該区間列車運転は数日間不通になった。<br /><br /><br />第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、晩年、多年に亘る過度な飲酒が原因で糖尿病を発症し、更に尿毒症を併発した事から危篤状態となり、明治45年(1912年)7月29日に崩御されたが、新帝即位に要する継承時間不足を理由に死去は翌30日とされ、御大葬を大正元年(1912年)9月13日に旧青山練兵場跡地に於いて執行する事に決定した。<br />此の為に内閣鐵道院は該地に青山仮駅を設置し、伏見桃山陵に謹葬されるべく、京都桃山駅まで霊柩列車運転が決定された。<br />大葬は深更に終了し、翌14日2時に6428型蒸気機関車が牽引する霊柩車を含む霊柩列車7両編成が該駅より桃山駅に向け出発し京都桃山御陵に奉葬された。<br /><br />大正3年(1914年)4月9日には、明治天皇皇后だった昭憲(しょうけん)皇太后(嘉永2年(1849年)5月9日~大正3年(1914年)4月9日)が崩御された事から、明治天皇大葬時と同様、旧青山練兵場跡地に於いて同年5月24日深更に大葬が執行され、翌25日2時に京都桃山駅に向い霊柩列車が運転された。<br /><br />その後、該地は陸軍省から宮内省に管轄移管され、大葬儀跡地に大正15年(1926年)10月に、明治天皇聖徳記念館が開館した。<br /><br /><br />大正12年(1923年)9月1日、関東大震災発生と同時に、飯田町駅構内を最大に該線飯田町-新宿間に甚大被害が発生した。<br /><br />該駅に併設された飯田町機関庫配置蒸気機関車を中心に被害が発生した。<br />即ち、<br />飯田町駅構内、及び、飯田町機関庫<br />                    619号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損<br />         623号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損<br />         651号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損<br />         666号機 機関室屋根焼損<br />         671号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損<br />        6205号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損<br />        6209号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損<br />        6772号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損<br />        6775号機 機関室屋根、真空制動器ホース、ギア焼損<br />         6776号機 機関室小焼損<br />           6781号機 脱線<br />                     6791号機 機関室屋根、真空制動器、各ゲージ焼損<br />            6792号機 機関室、真空制動器ホース、各ゲージ焼損<br />         6796号機 機関室、真空制動器ホース、各ゲージ焼損<br />新宿駅構内<br />        6210号機 制動管破損<br />        6789号機 脱線<br /><br />600型タンク式蒸気機関車<br />英國ナスミス・ウィルソン社(NASMIS WILSON & Co.Ltd)が明治30年(1897年)より製造した輸入機で、逓信省鐵道作業局のみならず、当時の主要私鐵で採用導入された機関車で、619号機は日本鐵道、623号機は甲武鐵道、651号機は参宮鐵道、666号機、及び、671号機は逓信省鐵道作業局購入機だったものが各社政府買収に依り600型に統容されたものである。<br /><br />6200型テンダー式蒸気機関車<br />英國ネイルソン・ハイドパーク社(NEILSON HYDEPARK LOCOMOTIVE WALK)が明治30年(1897年)より製造した輸入機で、導入当初は本線旅客用機関車だったが、後年より強力な機関車が出現するに従い、6760型や8620型蒸気機関車導入と共に、震災同時は構内入換用として使用されていた。<br /><br />6760型テンダー式蒸気機関車<br />大正3年(1914年)に8620型テンダー式蒸気機関車と同時に製造され、8620型が1級本線用だったのに対し、該機は2級本線用としての用途を以って製造されたが、主要部品は8620型と共通仕様だった。<br /><br />該機関庫構内では、機関車庫、及び、付属建物全部、機関車転車台枕木40本、機関車炭灰壷横枕木全部が焼失した。<br />更に、該駅構内に留置中だった、ボギー式客車37両、単軸客車31両、有蓋貨車70両、無蓋貨車61両が全焼し、該駅構内で無事だったのは無蓋貨車2両に過ぎなかった。<br /><br />該駅構内に於いて焼失した私有貨車は、青梅鐵道(現 東日本旅客鉄道青梅線)10両、武蔵野鐵道(現 西武鉄道池袋線)5両、西武鐵道(現 西武鉄道新宿線)4両、多摩鐵道(現 西武鉄道多摩川線)2両、及び、三河鐵道(現 名古屋鉄道三河線)1両、計22両が悉く被災全焼した。<br /><br />新宿駅本屋は、鐵道省所属駅本屋施設で鉄骨鉄筋コンクリート剛建築として既に9割方完成していたが、該震災動が原因に拠り、鉄筋切断を初め、コンクリート基礎崩落、クラッチの発生等々で建築物として中破被害と判定され大改修を余儀無くされる。<br />完全修復には1年以上をを要する大工事を要し、その間に予定より早く、大正12年(1923年)8月13日附で竣工した呉駅が第1号、広島駅が第2号で、それに続き、新宿駅青梅口本屋竣工は第3号の存在となった。<br />因みに、本来は耐久性に優秀とされる鉄骨鉄筋コンクリート剛建築物たる新宿駅本屋が、竣工後35年後に改築を余儀無くされたのは、後に、昭和20年(1945年)5月25日未明の東京山の手大空襲に拠り、新宿駅構内施設は全滅に等しい被害を被ったが、該駅本屋も焼夷弾が天井を貫通し内部で発火全焼した経緯を有し、焼損建築として耐持久力低下が挙げられる。<br />呉駅は同年7月2日未明の呉大空襲の際に1t爆弾直撃命中に依り大破、広島駅本屋は原子爆弾に依る激猛爆風に依り天井が破壊崩落、更に、延焼火炎被害を被り焼損したが、呉駅本屋は解体、新宿駅、及び、広島駅は修復され昭和30年代半ばまで使用後改築された。<br />横浜駅は横浜大空襲時に火災被害を受けず家屋は昭和50年代まで残存していた。<br />また、他の鉄骨鉄筋コンクリート剛建築駅本屋は、岡山駅は山陽新幹線開業に伴う支障物として解体を余儀無くされたが、長野、奈良、名古屋各駅本屋は平成初期まで使用され、現在残存する該様式駅本屋は、両國橋(現 両国)駅本屋のみである。<br /><br />該駅では、山手線甲州口旅客ホーム側壁損傷、貨物積卸取扱場上屋倒壊、更に、構内留置中貨車約300両内67両脱線被害が発生した。<br /><br />また、新宿駅構内では、山手線貨物第723列車が11時35分に該駅到着後、貨車入換作業を行使し、出発準備中に該震災に遭遇し、前部緩急車1軸、2~21両目、23、26両目2軸脱線、27両目1軸脱線被害が発生した。<br />脱線車輛は同月4日に復線し、牽引機関車は翌5日に品川機関庫に回送された。<br /><br />牛込-新宿間復旧は同月3日だった。<br /><br /><br />大正13年(1924年)7月18日に、中野発東京品川経由上野行第366列車走行中に事故が発生した。<br />即ち、該電車運転手は、市ヶ谷駅到着時にパンダグラフに異状を察した為に、該駅出発時に集電状態を確認すべく、起動状態のまま運転台右側乗務員扉を開け身を乗り出して確認した際に、不運にも該身体が該駅跨線橋支柱に激突墜落し人事不祥となったが、たまたま便乗で乗り合せていた手職職員が非常停止処置を執った事から無人運転とならず急停車した。<br />即ち、電車運転開始当時は車体幅は狭隘だったのも拘らず、時代を経るに従い徐々に大型化され、該当時車輌は2700mm存在した。<br />他方、当時の電車はパンダグラフ集電化されたが、ポール集電時代同様、運転士は後方確認が半ば慣例化されていた事から、慣習上、乗務員室扉を開放し身を乗り出して後方確認する者が多く存在し、何時か発生したであろう事故と言えた。<br /><br /><br />鐵道省は該線飯田町-新宿間複々線化を決定し、大正13年(1924年)着工したが、此の為に、増線工事に支障が発生する、千駄ヶ谷、及び、代々木両駅は該設置支障の為に駅位置が移動した。<br /><br /><br />第123代 大正(たいしょう)天皇(明治12年(1879年)8月31日~大正15年(1926年)12月25日)(大正元年(1912年)7月29日~大正15年(1926年)12月25日御在位)は大正15年(1926年)12月25日1時25分に神奈川縣葉山御用邸に於いて崩御された。<br />此の為に、翌昭和2年(1927年)2月7日深更に新宿御苑内に於いて御大喪執行が決定し、信濃町-代々木間複々線化工事で千駄ヶ谷駅Ⅱ付近に分岐線を設置し、新宿御苑仮駅が設置された。<br /><br />当時、該線が代々木-信濃町間を複々線化工事中だった事から、上り線を着発線として活用し、該仮駅設置が決定された。<br />該駅本屋は、鐵道省工務局技師 久野 節(くの みさお)(明治15年(1882年)2月21日~昭和37年(1962年)8月7日)が設計したが、該工事中は、下り急行線上に幕張を展開し、該内部を遠望不可能とした。<br />該大喪に鐵道省が要した総工費は5731652円だった。<br /><br />大葬当日は、信濃町、及び、千駄ヶ谷両駅は、16時30分を期し、大葬参列者専用電車を除き、一般旅客、及び、手小荷物取扱業務を停止し、信濃町駅は当日21時00分、千駄ヶ谷駅は翌8日0時40分に営業再開まで閉鎖され、更に、中央本線列車運転は、当日19時35分~20時35分の間は四ツ谷、及び、代々木両駅での折返運転とし、当日23時00分~翌0時45分の間は、信濃町-國分寺間全列車運転が停止された。<br /><br />霊柩列車運転は、飯田町機関庫配置の蒸気機関車が牽引で、<br /> 指導列車    28661<br /> 先発供奉列車 19618 大正 6年(1917年)川崎造船兵庫分工場製<br /> 霊柩列車    29673 大正10年(1921年)川崎造船兵庫分工場製<br /> 後発供奉列車 29670 大正10年(1921年)川崎造船兵庫分工場製<br />因みに、霊柩車列車牽引機 29673 は、大正12年(1923年)9月1日 関東大震災発生時は東海道本線貨物用機関車として高島機関庫配置で、該庫内に於いて脱線した経緯を有する。<br /><br />大正天皇御大喪時は、霊柩列車が新宿御苑-東浅川間に運転されたが、該霊柩列車と相前後して供奉列車数本も運転された。<br />更に、大喪終了後、新宿御苑駅本屋は解体移築され、淺川(現 高尾)駅本屋として再活用され現在も現役使用中である。<br /><br />因みに、該御大喪儀式に於いて、大東亜戦争(だいとうあせんそう)(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)末期に成立した、第42代 鈴木貫太郎(すずき かんたろう)(慶應4年(1868年)1月18日~昭和23年(1948年)4月17日)内閣(昭和20年(1945年)4月7日~同年8月17日組閣)の 海軍大臣 米内光政(よない みつまさ)海軍大将(明治13年(1880年)3月2日~昭和23年(1948年)4月20日)(昭和20年(1945年)4月7日~同年8月17日就任 前後内閣留任)で海軍次官 井上成美(いのうえ しげよし)海軍中将(明治22年(1889年)12月9日~昭和50年(1975年)12月15日)(昭和20年(1945年)4月7日~同年5月25日就任)の下で戦争終結に於ける極秘命令を受け奔走した 高木惣吉(たかき そうきち)海軍少将(明治26年(1893年)8月9日~昭和54年(1979年)7月27日)は、当時、海軍大尉で海軍大学校学生だった事から、該大葬海軍側供奉接受員として現地に詰め、上り帰京列車に乗車したが、該大喪に参列した国会議員の余りの下品愚劣ぶりに憤慨させられた実体験を戦後に回顧録で記述しており、地方出身の成上者議員ほど、妻と称し実は愛人たる2号の芸者を同伴し、泥酔状態で大喪場内で大声を出し、あまつさえ神聖なる大喪場内に反吐を吐くなど傍若無人ふりを発揮し、昨今の話題に上がる国会議員なみの軽薄状態程度だったらしい。<br />因みに、該大葬時の先発供奉列車に 草刈英治(くさかり えいじ)(明治24年(1891年)6月1日~昭和5年(1930年)5月24日)海軍少佐、後発供奉列車に 柳本柳作(やなぎもと りゅうさく)(明治27年(1894年)1月9日~昭和17年(1942年)6月5日)海軍大尉が高木と同じく海軍大学校学生供奉接受員として待機しており、後に、草刈少佐は中佐昇進後、昭和5年(1930年)1月21日~同年4月22日に開催されたロンドン海軍軍縮条約締結は、大日本帝國憲法第11条解釈を巡り世情が統帥権干犯問題で紛糾した際に、草刈中佐は該条約受諾反対を理由に、東海道本線神戸発東京行上り12等普通急行第18列車2等寝台車内に於いて割腹自殺を遂げ世間を愕然とさせた激情的性格人物であり、柳本大尉は大東亜戦争中、大佐在任中、航空母艦蒼龍艦長としてミッドウェイ海戦で奮戦戦死し少将に昇進した。<br /><br /><br />新宿-信濃町間は、昭和3年(1928年)3月1日附で複々線化されたが、該区間複々線化工事着工時点で、輜重兵営、及び、輜重兵廠の諸陸軍施設は移転して遊休施設と化しており、態々不要施設を複々線化の為に改築は不要として、諸陸軍施設前に架橋されていた輜重兵営前跨線橋、及び、輜重兵廠前跨線橋は廃止撤去された。<br /><br /><br />関東大震災以降、東京市内中心部居住者は、該震災で自宅被災者は東京市外に居住地を求める傾向が強まった関係で、該線利用者の為に朝夕は200%を越える乗車率を記録する状態となり、此の為に、鐵道省東京鐵道局は、昭和3年(1928年)11月2日に、6両編成1本を使用し飯田橋-中野間に於いて試運転を実施した処、片道9分短縮、更に該区間往復運転で68kW節電が可能との結果を得たが、該当時は、飯田町-御茶ノ水間複々線化が未完成状態であり、且つ、現状では、飯田町、及び、中野両駅に於ける構内配線平面交差の問題が解決出来ず、実施は持越しとなった。<br /><br />昭和8年(1933年)9月15日に開始された列車線使用に依る通過運転は、朝夕各2時間で、且つ、該当列車は、東京-吉祥寺以西間運転電車に限定されたが、利用者には好評を以って迎えられた。<br />因みに、令和2年(2020年)3月13日まで緩行線運転と並行し快速運転が6~23時に拡大されたのは、昭和34年(1959年)11月9日附時刻改正時以降である。<br />更に、急行 の名称が快速に改められたのは、昭和36年(1961年)3月20日附時刻改正時であり、現在でも当該線路正式名称は快速線では無く急行線である。<br /><br /><br />東京に於ける夏季国際オリムピック開催は過去3回決定された。<br /><br />即ち、第12回1940年(昭和15年)、第18回1964年(昭和39年)、及び、第32回2020年(令和2年)で、第18回は実現したが、第12回は1936年(昭和11年)7月31日にIOC総会で開催決定さ後に、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発激化に伴い、昭和13年(1938年)4月1日附制定 国家総動員体制強化に拠り、同年7月15日に開催中止が決定した。<br /><br />鐵道省は該開催決定を受け、廃線同様の状態で残存していた旧青山軍用引込線を活用し、大正13年(1924年)に完成した 明治神宮外苑競技場観客輸送の臨時駅設置を検討し、他方、東京地区を走る電車車体塗装を、従来のぶどう色1色から、屋根 淡青色、窓下ヘッダー上 淡黄色、腰下 赤色の、当時の鉄道車輌としてはカラフルなオリムピック塗装車輌を各路線に配置しアピールに務め、該線には2編成導入されたが、該開催中止を期に全般検査時に旧塗装に戻されてしまった。<br /><br /><br />大東亜戦争中たる昭和19年(1944年)3月3日附を以って、電車区間休日時刻が廃止された。<br />此れは、官庁が土日祭日をも平日として執務となった事を受けたものだが、国家を挙げての戦争体制にも拘らず、役所が平時体制から抜け切れていなかった証拠でもあり遅きに失した感ずる。<br /><br /><br />小田原急行鐵道(現 小田急電鉄)新宿-小田原間は、陸上交通調整法に拠り昭和17年(1942年)5月1日附で東京急行電鉄に吸収合併されたが、戦時体制下に於ける東海道本線爆撃時に於ける代替輸送路として陸軍省検討対象となり、軌条捻出の為に昭和18年(1943年)8月28日附で江ノ島線藤沢-片瀬江ノ島間単線化に続き、小田原線新松田-小田原間単線化を立案した処、帝國陸軍より、該区間は該線座間に存在した陸軍士官学校生徒演習輸送に支障を来すとして反対されたが、実は、東部88部隊輸送上から東海道本線戦時輸送障害被害を想定したものだった。<br /><br />現実に、同年5~9月に、鐵道省所有蒸気機関車、及び、電気機関車が客車を牽引して小田原線全線に於いて試運転を実施し、建築限界、及び、橋梁強度確認を行い、多数の駅で建築限界支障を理由に線路中心側に5cm移動させた。<br />更に、車輛運用を円滑化させるとの理由から、昭和19年(1944年)8月には、新宿駅構内中央本線緩行線東京方で東急電鉄小田急線と連絡線路結合工事を行った。<br /><br />該連絡線路が役に立ったのは、昭和20年(1945年)5月25日未明の新宿地域大空襲時で、東海道本線東京-大船間不通に依り、運輸通信省より電車4両編成3本を貸与され新宿-藤沢間に代替救済列車が運転された。<br />また、大東亜線戦争終結直後の、海軍厚木航空隊叛乱事件後始末で、既に聯合国進駐軍将兵が厚木に進駐直前だった事から、該時期、東急電鉄では小田原線一般旅客営業を停止させ、日本軍将兵輸送の為に、運輸省鉄道総局東京鉄道局中野電車区より2本2編成の貸与を受け該将兵帰還輸送に貢献した。<br /><br /><br />該区間に於ける大東亜戦争中の空襲に依る被害は、<br />昭和20年(1945)<br />   4月13日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計328機<br />         22時44分 警戒警報発令<br />         23時00分 空襲警報発令<br />         23時18分 空襲開始<br />          2時22分 空襲警報解除<br />          2時52分 警戒警報解除<br /> B29-330機 爆弾81.9t 焼夷弾2037.7t<br />飯田町駅構内施設多数全焼。<br /> 復旧15日14時<br /><br /> 5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機<br />                        22時02分 警戒警報発令<br />          22時22分 空襲警報発令<br />                               22時30分 空襲開始<br />                     1時00分 空襲警報解除<br />           1時30分 警戒警報解除<br /> B29-470機 爆弾4t、焼夷弾3258t<br />飯田町駅本屋、飯田町機関区、市ヶ谷駅本屋、千駄ヶ谷駅本屋、以上全焼、千駄ヶ谷駅旅客ホーム上屋半焼。<br />千駄ヶ谷駅長以下職員数名防空壕退避中、該防空壕直撃弾命中に依り即死殉職。<br />新宿駅本屋、旅客跨線橋、全旅客ホーム上屋、青梅口出改札駅舎、貨物積卸取扱施設、以上全焼。<br /> 東京-新宿間枕木焼失多数。<br />飯田町駅構内被災車輌<br />  マロネフ37 30(東イヒ)全焼<br />  オハフ 30 14(東イヒ)全焼<br />他、木造客車相当数。<br /> 以上、昭和23年(1948年)5月17日附戦災廃車<br /> 貨車50両<br />大東亜戦争前に、該線で全室2等寝台車は大正10年(1921年)6月10日より普通第401、402列車に連結運転され、昭和15年(1940年)には連結中止になっていたにも拘らず該車輌が配置されていたのは、急増した臨時雇用鉄道職員宿泊場確保であり、同様例として、同年5月29日に東海道本線(高島貨物線)高島駅構内に於いて全焼した マロネ37 97(東シナ)2等寝台車、スシ38 5(東シナ)食堂車、同年6月1日に西成線(現 桜島線)安治川口駅構内に於いて焼損した マロネ37 120(大ミハソ)2等寝台車、同年同月7日に宮原客車操車場内に於いて全焼した マロネ37 121(大ミハソ)2等寝台車が存在した。<br />因みに、多数文献に5月25日空襲に依り飯田橋駅本屋被災全焼との記述を散見する。<br />然るに、当時の運輸通信省鐵道総局資料、及び、昭和48年(1973年)11月24日附で公刊された 東京大空襲戦災誌、等々資料を精査したが該駅被災全焼なる記述は見出されない。<br />他方、該駅被災全焼なる記述が初見するのは、昭和48年(1973年)3月公刊の 日本国有鉄道百年誌第11巻417頁からで、該誌公刊後、引用文献使用で該駅被災なる記述が連続散見される様になった。<br />管見として本来は飯田町とすべき処、編者が飯田橋と記載ミスをしたか、印刷段階で飯田町を飯田橋とし最終校正確認で見落したかの何れかと推定される。<br />また資料作成に於ける元資料確認もせず、公刊資料を精査せず引用鵜呑み活用する現実は嘆かわしい事例である。<br />何れにせよ、大東亜戦争中に飯田橋駅本屋被災なる事実は全く無く事実無根である。<br />新宿駅構内被災車輌<br /> 電気機関車2両<br />  ED1723(昭和18年(1943年)鐵道省大宮工機部改造)→ED522(昭和3年(1928年)10月1日称号改正)→6003(大正13年(1924年)英ノースブリテッシュ・ロコモティヴ社製造)<br />  ED1725(昭和19年(1944年(運輸通信省大宮工機部改造)→ED512(昭和3年(1928年)10月1日称号改正)→6001(大正14年(1925年)英ノースブリテッシュ・ロコモティヴ社製造)<br /> 以上、昭和21年(1946年) 1月28日附戦災廃車。<br /> 電車12両 <br />  サハ19022(東ミツ)→ サハ16431(大正15年(1926年)11月下旬 大井工場改造) → デハ6332(日本車輌製造東京支店 大正8年(1919年)9月2日製造)<br />  サハ25134(東イケ)→ サロハ6192(昭和3年(1928年)10月1日) → サハ6192(大正15年(1926年)4月 大井工場改造)→ クロハ6192(内閣鉄道院新橋工場 大正3年(1914年)製造)<br />  モハ30031(東イケ)→ デハ73231(日本車輌製造本店 昭和2年(1927年)2月2日製造)駿豆鉄道払下<br />  モハ30161(東イケ)(川崎造船所兵庫分工場 昭和3年(1928年)12月13日製造)京成電気鉄道払下<br />  モハ30182(東イケ)(大阪鐡工所 昭和8年(1933年)製造)全焼<br />  モハ31071(東イケ)(日本車輌製造本店 昭和6年(1931年)12月16日製造)東武鉄道払下<br />  モハ31099(東イケ)(田中鐡工所 昭和7年(1932年)3月11日製造)西武鉄道払下<br />  サハ39037(東ミツ)(昭和16年(1941年)2月下旬 大井工場改造)→ サロ37008(田中鐡工所 昭和4年(1929年)10月15日製造)京成電気鉄道払下<br />  クハ55059(東イケ)(川崎車輌製造 昭和13年(1938年)11月28日製造)<br />  サハ57036(東イケ)(日本車輌製造本店 昭和16年(1941年)7月2日製造)<br />  モハ41057(東ミツ)(日本車輌本店 昭和11年(1936年)3月24日製造)全焼→モハ51002→昭和17年(1942年)鐵省大井工機部改造)<br />  クハ65189(東イケ)( 昭和16年(1941年)12月下旬鐵道省大井工場鋼体化)→サハ25160→<br />  クハ65201(東イケ)(昭和18年(1942年)1月30日鐵道省大井工機部鋼体化)→クハ17108→<br /> 以上、昭和21年(1946年)11月28日附戦災廃車。<br /><br />東京-新宿間は急行線緩行線共に枕木被害が甚大だった事から、東京鐵道局は帝國陸軍鐵道連隊教導鐵道団司令部に対し復旧協力を要請し、該司令部は該要請を受け、同月26日早朝、現地に偵察将校を派遣し、該将校報告を検討した結果、東部第86鐵道連隊、及び、東部第87鐵道連隊計140名派遣を決定し同日14時に現地に到着した。<br />東京鉄道局との協議の結果、取敢えず急行線復旧を最優先とし、焼損枕木交換の為に、東部第86鐵道連隊は東京→新宿間、東部第87鐵道連隊は新宿→東京間焼損枕木交換を実行した。<br /> 運転再開28日6~19時限定蒸気機関車牽引列車運転、29日終日蒸気機関車牽引列車運転、電車運転30日初電。<br /><br /><br />大東亜戦争終結直後より数年間は、資材不足の為に全施設が限度規定以上使用が要因で、疲弊老朽化が著しい状態となった為に、電化区間各地に於いて、架線切断事故が多発し、該線四ッ谷-信濃町間に於いて、架線断線を原因とする車輌火災事故が2計件発生した。<br /><br />即ち、<br />昭和20年(1945年)12月11日<br />モハ50010 → モハ10050 昭和12年(1937年)2月中旬 鋼体化 鐵道省大井工場 → デハ63148 大正14年(1925年)1月26日附 日本車輌東京支店製造。<br /> 昭和24年(1949年)4月21日附 事故廃車 京成電気鉄道払下。<br /><br />クハ65186 → サハ25030 昭和18年(1943年)10月20日附 鋼体化 鐵道省大井工機部 → サハ33700 大正10年(1921年)3月附 汽車會社製造東京支店製造。<br /> 昭和22年(1947年)4月27日附 事故廃車 京成電気鉄道払下。<br /><br />サハ39010 昭和 7年(1932年)3月29日附 新製 汽車會社製造東京支店製造。<br /> 昭和23年(1948年)10月27日附 事故廃車。<br /><br />昭和21年(1946年) 4月27日<br />モハ50013 → モハ10106 昭和12年(1937年)3月上旬 鋼体化 鐵道省大井工場 → デハ63204 大正15年(1926年)2月10日附 日本車輌東京支店製造。<br /> 昭和22年(1947年)4月27日附 事故廃車 相模鉄道払下。<br /><br /><br />昭和22年(1947年)7月17日に、四ツ谷駅発の御召列車が運転された。<br />即ち、第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は、相模湖ダム竣工式出席で巡幸される為に、四ッ谷-与瀬(現 相模湖)間往復に御召電車が運転された。<br />今回、原宿宮廷駅を使用されなかったのは、該当時の山手貨物線は未電化で、山手線貨物線原宿-代々木間に電気機関車、電車は入線不可能であり、且つ、当時は東京-浅川-甲府間は直流1500V電化されていたが、浅川(現 高尾)-与瀬(現 相模湖)間には25/1000‰連続登り勾配が存在し、敢えて蒸気機関車牽引運転を忌避した事が原因と思われる。<br />当日の編成は、<br />四ッ谷方                           与瀬方<br />モハ40030+クロ49002+モハ40050+モハ40072<br />当日は、三鷹電車区を7時41分発回送電車が東京まで運転、折返し、四ツ谷駅9時10分到着、該駅で天皇皇后両陛下は御乗りになられ、10時3分に出発し、与瀬(現 相模湖)駅に10時48分に到着した。<br />両陛下は満水状態の相模湖内をモーターボートで巡幸され、帰路は与瀬駅を13時30分に出発し四ツ谷駅に14時15分に到着された。<br />明治~今上歴代各天皇皇后御召列車で該駅発着は当該列車のみである。<br /><br /><br />東京-浅川間運転急行電車は朝夕限定運転だったが、昭和34年(1959年)11月9日より平日に限り終日運転に変更され、更に、昭和35年(1960年)4月25日より、新宿-松本間に正真正銘の急行列車運転開始に依り、一般人には料金有料無料区別が紛らわしい事から、昭和36年(1961年)3月17日附で、従来の急行から現行の快速に名称変更された。<br /><br /><br />昭和42年(1967年)8月8日1時45分頃、新宿駅構内に於いて大事故が発生した。<br /><br />即ち、浜川崎発立川行 貨物第2471列車 EF1038電気機関車牽引 貨車19両に、氷川(現 奥多摩)発浜川崎行 貨物第2470列車 EF1040電気機関車牽引 貨車21両が側面衝突した。<br />実は、貨物第2471列車貨物搭載物は米軍用航空燃料が満載されており、該衝突時の火花が該航空燃料に引火大爆発が発生し、付近約280mに亘り火の海状態となった。<br />奇跡的にも該事故に依る死傷者は発生しなかったが、該駅構内復旧は消火活動に手間取り、開通は同月9日4時4分と27時間をも要した。<br /><br />該事故は折からのベトナム戦争に鑑み、労働者学生達に依る反米反戦運動の起爆剤となり、その後、該駅周辺では警視庁新宿西口交番火炎瓶放火襲撃事件、等々、不穏な事件が多発するきっかけとなった事は誠に遺憾である。<br /><br />事故列車牽引EF1038電気機関車は、昭和16年(1941年)に当時開通した関門隧道用に製造され、該区間九州側が交流化された事で首都圏に転属使用されていた。<br />該車は該事故で全焼し、その後、該車は18年に亘り該駅片隅で赤錆色の無残な焼け爛れた姿を残し放置され、大宮工場に回送される事も無く現地に於いて解体された。<br /><br /><br />急行快速運転開始後も、早朝深夜帯は長らく普通運転が実施されていたが、中央快速電車使用233系にグリーン車連結に伴う12両編成化が決定し、此の為に、令和2年(2020年)3月14日時刻改正より全時間帯共に快速運転化され、飯田橋、市ヶ谷、信濃町、千駄ケ谷、及び、代々木各駅に於いて、東京、高尾行電車は消滅した。<br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />御所隧道東京方坑口と初代四ツ谷駅開業時駅本屋旅客連絡階段遺構。<br /><br /><br /><br /><br /><br />中央本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-飯田橋間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11227787<br />~飯田町-飯田橋-新宿間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11228675<br />~新宿-中野間編 大正浪漫~<br /><br />~中野-三鷹間編 大正浪漫~<br /><br />~三鷹-立川間編 大正浪漫~<br /><br />~立川-八王子間編 明治頌歌~<br /><br />~八王子-上野原間編 明治頌歌~<br /><br />~上野原-大月間編 明治頌歌~<br /><br />~大月-笹子間編 明治頌歌~<br /><br />~笹子-塩山間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11303788<br />~塩山-甲府間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11488165<br />~甲府-韮崎間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11495714<br />~韮崎-小淵澤間編 明治頌歌~<br /><br 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中央本線歴史的痕跡探訪記 ~飯田町-飯田橋-新宿間編 明治頌歌~

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2020/03/17 - 2020/03/17

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旅行記グループ 中央本線歴史的痕跡探訪記Ⅰ

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、甲武(こうぶ)鐵道に依り開通した。

即ち、該区間は、日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)勃発に依る軍事輸送の観点から緊急敷設された。

開通日は、
新 宿-牛 込間  明治27年(1894年)10月 9日
牛 込-飯田町間 明治28年(1895年) 4月 3日
である。

但し、新宿-青山練兵場間に就いては、日清戦争勃発の為に帝國陸軍より緊急設置要請を受け、直ちに敷設工事に着手し、明治27年(1894年)9月17日に竣工し、同年同月23日より運転開始され同時に青山軍用停車場が開設されたものである。


現在の東京都港区青山一帯は、江戸期は、徳川家安祥(現 安城)出身譜代大名 青山家領地跡で、明治維新以降は遊休地化していたが、現在の、国立霞ヶ丘競技場、神宮球場、明治神宮外苑域は、明治19年(1886年)に帝國陸軍第1師団青山練兵場として活用された。


該社は、明治22年(1889年)4月11日に新宿-立川間27.2km、同年8月11日に立川‐八王子間9.9kmを開通させ、該社列車を日本鐵道新宿-品川間に直通乗入運転を果たし、品川-新橋Ⅰ間を介し東京市中心部への連絡を可能ならしめたが、一方、同時期に該社が別途次期社策として東京市中心部への直接連絡線設置を目論み、政府に対し同年5月22日附で新宿-神田區(現 千代田区)三崎町間延伸許可申請を提出し、逓信省では該件を審査の上、同年7月13日附で該社に対し仮免許状を交付した。
此れを受け、該省鐵道局2等技師 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永4年(1851年)6月24日~昭和2年(1927年)1月23日)、及び、同5等技師 野村龍太郎(のむら りゅうたろう)(安政6年(1859年)2月27日~昭和18年(1943年)9月18日)両名の手に依り直ちに現地測量を開始し、紆余曲折の上、同年10月30日に該測量が完了した。

終点に予定された神田區三崎町には、明治以降、帝國陸軍第1師団練兵場が存在した。
該社が当初計画したのは、新宿から現在の靖国通と平行し、ほぼ直線経路で三崎町に至るもので、軽勾配で、且つ、建設設置は容易と判断されていた。

第2代日本鐵道社長 奈良原 繁(ならはら しげる)(天保5年(1834年)6月29日~大正7年(1918年)8月13日)(明治17年(1884年)10月~明治25年(1892年)3月14日在任)は、該社が日本鐵道の全面協力に依り開業に至った経緯を有していた事から、該社東京市中心部乗入計画に対し、日本鐵道に何ら事前相談無く勝手に政府に対し建設申請を行った事に対し、強い不快感と憤怒とを抱かせ、結果的に翌明治23年(1890年)6月1日附を以って、甲武鐵道列車の品川乗入は拒否され中止を余儀無くさせられる。

他方、帝國陸軍は、西南の役(せいなんのえき)(明治10年(1867年)2月8日~同年9月24日)、秩父困民党事件(ちちぶ こんみんとうじけん)(明治17年(1884年)10月31日~同年11月9日)等々鎮圧の為の非常事態に於ける緊急軍隊動員行動容易を知悉しており、当時、緊急事態発生時に青山に存在した練兵場に対する敏速な軍隊輸送を期待した。

陸軍参謀本部次長 陸軍中将 川上操六(かわかみ そうろく)(嘉永元年(1848年)12月6日~明治32年(1899年)5月11日)は、当時の朝鮮半島権益を巡り緊張が高まっていた日清間に於いて、戦闘状態勃発時に於ける軍隊輸送を該社に期待した。

更に、日本鐵道に依る上野-赤羽-品川間に於ける東京府下市外循環線形成に対し、該社が東京市内循環線構想を有していた事は、該仮免許願内容から判断して歴然としており、即ち、新宿‐飯田町間延長も該循環線構造の一環である。

此の為に、改めて、菅原恒覧(すがわら つねみ)(安政6年(1859年)8月22日~昭和15年(1940年)4月10日)に測量調査を依頼し、明治24年(1891年)12月に南線測量を開始し、翌明治25年(1892年)3月23日附で、ほぼ現行経路測量が完了し、該社は内務省に対し該報告書を提出したが、然るに、同年9月に陸軍省は該社に対し、
1)軍隊出入不便を理由に大番町(信濃町)停車場位置変更。
2)四谷停車場に於ける外濠中央部設置に対し、要塞地たるを以って障碍力減殺を想定し外濠内側に変更。
3)四谷見附-市ヶ谷見附間に於ける線路勾配存在区間に対し濠幅を減じ、線路を外濠内側に敷設し、且つ、隧道設置。
4)青山練兵場は狭隘地に付、軍隊教練障碍となる事から1420坪以上の代替地提供。
5)飯田町砲兵工科学舎所在地、及び、馬術練習位置をして停車場用地として貸渡の為に、代替地移転両支払。
6)馬術練習場は、借用既成権を有する故に移転料支払。
を要求した。

該区間設置に関し、関係官庁に対する出願は、
東京府 154件
陸軍省監督部、経理部 14件
鐵道局、警視庁、麹町區役所 27件
宮内省、学習院 46件
にのぼり、該請願群に於ける第1次審査通過例は5件のみで残りは全部却下された。

即ち、日本鐵道赤羽線(現 山手線)と平行し千駄ヶ谷村代々木付近で跨線橋で越え、新宿御苑南方を迂回し、青山練兵場西部から、御所付近を隧道で通過し、外濠を一部埋立して飯田町に至る経路だった。

此れに対し、明治26年(1892年)3月1日附で、新宿-飯田町間建設本免状を交付した。

特に、四ッ谷-市ヶ谷間に於ける玉川上水分流木樋が数箇所存在する事から、内務省をして態度を硬化させるに充分だった。
即ち、該区間建設当時に於ける東京市内上水道設備は殆ど未完成状態だった事から、玉川上水より各疎道を経由し該市内各地に給水する状態であり、木樋が使用されていた為に、既に老朽腐朽化していた該木樋をして損傷させる事無く該工事を進行させる必要性が在り、且つ、風致地区でもあり、此の為に、市ヶ谷-四ッ谷間に隧道が3箇所設置を余儀無くさせらされた。
四番町隧道 18.2m
三番町隧道 30.0m
四谷隧道  26.0m
特に、四番町隧道上には皇居、麹町區内各配疎道が存在した為に、隧道施工では慎重に慎重を帰した。
御所隧道 290.0m
該隧道は、赤坂御所、及び、学習院所在地下通過に鑑み、学習院側から建築物異常発生時復元等々14箇条に亘る誓約書を交付された。

該区間敷設工事は、朝鮮半島の権益を巡り日清間に於いて戦闘状態勃発が現実化の様相を帯びていた事から、取敢えず、明治27年(1894年)3月に、青山練兵場内設置工事に着手した。
工事途中で、同年6月20日14時4分頃、東京地方を中心とする震度7の明治東京地震が発生した。
該地震に於ける人的被害は少数だったが、浅草凌雲閣をはじめとする洋風建築物に少なからず被害が発生した。
寧ろ、該地震に依り学習院構内諸施設に被害が発生し、初等科以外施設は現在地たる目白に移転する要因となった。
該地震被害復旧工事を伴った事から工事遅延が見込まれたが、更に、日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)勃発の為に、陸軍省に対し工事早期完了要求が有り、突貫工事の末、同年9月17日に竣工し同月23日より使用を開始した。
同時期の同様例として、山陽鐵道は大本営より戦地宛船舶集結地たる広島宇品港の存在に鑑み、広島停車場より宇品港に至る鉄道設置要求を行い、該社は該要求を受け、明治27年(1894年)7月に現地測量を実施し、同年8月4日に該敷設工事に着工し、突貫工事の結果、同年同月20日に該区間5.8kmが竣工させると云う離れ業を演じた。
該練兵場停車場から出征した部隊として、第1師団、及び、台湾派兵近衛師団があったが、何れも、山陽鐵道宇品駅まで鉄道輸送され、船舶に乗船し各地へと派兵され、翌明治28年(1895年)5~6月に該停車場に帰還凱旋した。

新宿-青山練兵場間建設工事と平行し市街線建設工事は順調に進行し、同年10月9日に牛込、続いて翌明治28年(1896年)4月3日に飯田町まで開通した。

新宿-飯田町間6.4km設置工事は、計画当初こそ陸軍側は提示条件を多々要求し、該社をして困惑の度を深めさせられたが、同時期に、日清間外交関係が急速に緊張悪化し、戦争勃発が現実味を見せるに従い、陸軍側も該社に対し要求ばかりが許される状況では無くなり、該状況下に於いて、該社も亦、寧ろ棚から牡丹餅的に軍部のゴリ押しに対し対抗も亦容易だった。

牛込-飯田町間0.7kmは、該地域一帯が住宅密集地故に、鉄道敷設が困難だったが、日清戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)勃発に伴い、軍用輸送不足を理由に逆に内務省、及び、東京府に対し、半ば強権を以って土地収用を容易可能とさせた事で、該区間は、翌明治28年(1895年)4月3日に開通した。

更に、新宿-飯田町間は、路盤、隧道共に将来を見据え複線構造可能な状態で構築された事から、該社は軍用列車増発を理由に同年5月16日附で複線化申請を提出し、審査の結果、同年7月22日附で該申請が許可され同年12月30日には複線化を完了させた。


該社は、明治26年(1893年)7月28日附で、東京市内循環鐵道敷設願を申請した。

甲武鐵道株式会社延長線仮免許状御下付願
弊社曩キニ新宿八王子間ノ鐵道絵営業御裁可ヲ蒙ルニ当リ深ク前途ヲ考察シ中央政府ノ所在地大都府ニ在リテ百般文明ノ利器ヲ要スル今日独リ交通機関ニ荷車人力ノ妨キ旧時ノ器械ニ依頼スヘカラサルハ論ヲ待タサル義ニ附市内循環鐵道ヲ敷設シ日本鐵道會社カ大半所有スル市外縦環鐵道ト相待ツテ市民ノ鴻益ヲ図カリ退テ弊社営業ノ規模ヲ各条センコトヲ企図シ右鐵道敷設ノ願書ヲ差出サントスルニ当リ不幸ニシテ世上金融逼迫有要ノ事業ニ放資スルノ余裕ヲ与ヘス殊ニ新事業ヲ企図スルニ当リ前者ノ失敗ハ後者ノ企業心ヲ蹉跌スルノ懼レ之レアリ最モ謹慎を加ヘサルヘカラス故ニ先ツ三崎町延長線布設ノ義ヲ願立テ引続キ萬世橋迄延長願出候処諸種ノ沿革ヲ経テ先般飯田町迄延長ノ本免許状御下付相成リ平常ノ素志央ハ貫徹弊社ノ雀躍之レニ加フル者ナク爾来工事ニ着手略ホ予定ノ如ク進捗ノ目途相付キ且ツ既往の経験に照シ些カ信スル所有之候ニ付兼テ企図スル市内循環鐵道完成ノ目的ヲ達セント茲ニ従来ノ調査ヲ再審シ予定線路ヲ測定以テ起業ノ費用ヲ算当シ各要処ニ社員ヲ派シ以テ通貨ノ人員物資ヲ測カリ略ホ収支概算ノ杜撰ナラサルヲ明ラカニ仮免許状願書ヲ差出サントスルニ当り世上ノ金融ハ日ニ増シ緩慢ヲ告ケ有益ノ事業ニ出資セントスルス者陸続諸方ニ勃発致候機運ニ相向ヒ候折柄徒ラニ杞憂躊躇好機ヲ失スヘキニ非ス況ンヤ市内循環鐵道完成ノ大半ハ既ニ本免許状ヲ得テ幸ニ弊社基衝ニ当ルノ栄誉ヲ辱フシ進ンテ之レヲ完決スル府民ノ鴻益は申す迄モナック帝國大都府ノ偉観ニシテ仰モ弊社カ努メサルカラサルノ義務ナリト確信致候ニ付別紙略図ニ記スル市内循環鉄鐵道即四谷停車場ヨリ分岐シテ御堀側土堤敷ニ沿ヘ赤坂目附虎ノ門幸橋山下門ヲ経テ市孔區改正御予定ノ中央停車場ニ至リ尚ホ進ンテ神田橋一ツ橋ヲ経テ今川小路新運河ニ沿ヘ弊社飯田町停車場ニ連絡スル五哩十二鎖間ノ鐵道線路ハ封建時代ノ遺物ヲ王政文明ノ利器ニ利用スルノ考按ニシテ勉メテ人家稠ノ地ヲ避ケ而カモ市内交通上最大要処ト称スル各目附ヲ通過シ所謂下町ト山ノ手ヲ連絡スル唯一ノ線路ト思考仕候右五哩間鐵道複線起業費ヲ調査スルニ概略壱百拾萬円ニシテ一哩凡ソ三拾萬円ニ双頭スルハ市内鐵道ニ在リテハ頗ル廉価ニシテ必意地理上ノ便利然ラシムル者ニ可有之然レトモ亦一方ヨリ考察スレハ一哩ノ起業費無慮三拾萬円ノ大金ニ対シ年五朱八厘五毛ノ配当ヲ為シ得ラルルカ如キハ必意市内循環鐵道有スル弊社ニ在リテ始メテ計算相立候義ニシテ若シ独立之レヲ営業セントスル者アラハ収支相償フ能ハサルハ殆ント疑ヲ容レサル義ト奉存候之レヲ要スルニ右市内循環鐵道敷設ハ弊社従来ノ宿願ニシテ之レヲ実行スル諸種ノ便宜ヲ有シ候義ニ附願意御採納蔽成下速カニ仮免状御下付被成下候様奉願度別紙起業費目論見書収支概算略図相添ヘ此段奉懇願候也
明治弐拾六年七月弐拾八日
逓信大臣 伯爵 黒田清隆殿
                    甲武鐵道株式會社
                     専務取締役 三浦泰輔

然るに、東京市區改正委員會は、明治28年(1895年)8月26日会議に於いて、
東京市内速輸ノ方式トシテ汽車鐵道ヲ採用スルハ其利害相償ハサルモノナルヲ以テ許可セラレルモノニ非ス
として該申請は却下したが、該却下理由として、蒸気機関車牽引に依る煤煙排出に依る空気汚濁だけでは無く沿線火災要因の可能性を有する為に、電気式、若しくは、馬力鉄道が好都合と考えられていた。

該社は、新宿-飯田町開業後、明治30年(1897年)5月31日附で、四ツ谷-喰違見附-虎ノ門-新橋烏森間3.2kmの分岐線建設延長申請を出願したが、前述の理由を以って、翌明治31年(1898年)6月30日附で申請却下。
該社は懲りずに、翌明治32年(1899年)12月13日附で、四ツ谷-喰違見附-虎ノ門-麹町區有楽町間延長を出願したが、同様理由で、翌明治33年(1900年)5月18日附で申請却下。

歴史に於ける 若し! は禁物だが、該申請時点が該社が曲がりなりにも飯田町-新宿間電車運転開始後であれば、逓信省としても却下拒否理由が無くなり、四ツ谷-新橋烏森間建設許可が下りた可能性があり、現在の東京メトロ地下鉄 四ツ谷-赤坂見附-新橋間相当区間に、埋立以前の外濠を活用した高架線が建設された可能性が高く、若し、実現していれば、該区間は東日本旅客鉄道所有の超黒字路線が実現したものと思われる。


第121代 孝明(こうめい)天皇(天保2年(1831年)7月22日~慶應3年(1867年)1月30日)(弘化3年(1846年)3月10日~慶應3年(1867年)1月30日御在位 )英照(えいしょう)皇太后(天保5年(1835年)1月11日~明治30年(1897年)1月11日)崩御に伴い、大喪式は京都に於いて執行が決定した事から、御霊移送の為に、青山仮駅より京都まで霊柩列車運転が決定し、同年2月2日14時に青山仮駅を出発し、京都に於いて大喪執行後、後月輪東北陵(のちのつきのわのひがしのみささぎ)に奉葬された。


該社は、近隣煤煙被害防止を主目的として市街線電化を決定する。

該区間利用者は年々増加の一途を辿ったが、蒸気機関車牽引の長編成では無く、電車使用に依る単車頻発運転が検討され、此の為に該社は明治33年(1899年)に 鐵道作業局技師 仙石 貢(せんごく みつぎ)(安政4年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)に出張依頼をさせ、仙石は渡独し独逸国内に於いて保安装置に自動閉塞式を導入する事で概ね5~10分間隔で電車運転を実現している事が判明した事から、該社は飯田町-中野間電化計画を策定し、同年12月に電化工事申請をし、該申請は、翌明治34年(1901年)9月に審議の上許可された事から、該社は三井物産を経由し電車電装品一式、及び、自動閉塞装置一式を米國に発注した。

電車運転の為に該社は柏木(現 大久保)に自社火力発電所を設置し、交流3300Vを発電すると共に、市ヶ谷に変電所を設置し柏木から交流3300Vを送電し、該変電所で直流600Vに降圧変換送電し、明治37年(1904年)8月21日より飯田町-中野間で電車運転を開始した。

該電化当時に導入された電車は、
1)長10058mm、車体幅2286mm、2軸式単車
   米ジェネラル エレクトリック(GENERAL ELECTRIC)社製 電動機45馬力×2
   C14型電磁式複式制御器
   米BRILL型21E式台車
   GE型直通空気制動機
 計16両が飯田町工場で組立られた。
直接制御方式ばかりの当時の我が国内で運用されていた電車の内で、原始的構造ながら総括制御方式を採用し、1個の制御器で複数の電動機運用が可能と同時に、鉄道車輌に於ける制動機器と言えば手制動が主流、真空制動器装備ですら少数時代に空気制動器装備車輌とは、正しく革新的存在だった。

次いで、明治39年(1906年)4月に増備された車輌は、
 2)長10058mm 車体幅2286mm 、2軸式単車
   米ウェスティング ハウス(WESTING HAUSE)社製 電動機50馬力×2
   WH12型電磁空気式制御器
   米BRILL型21E式台車
   WH型直通空気制動器
 計12両が新宿電車庫で組立てられた。
双方の電車は第Ⅰ期投入車輌とは車体サイズは同様ながら、機器製造企業相違の為に、相互車輌間の総括制御運転は不可能だった。

我が国に於ける電車営業運転は、明治28年(1894年)に京都市内で実現し、既に数都市に於いて運転され、明治33年(1900年)東京市内でも路面電車が運転開始されており、遡る事、明治23年(1890年)5月には上野公園に於いて開催された第3回内國勧業博覧会会場に於いて我が国初の電車運転が実施されていた事から、東京市民にとって電車とは必ずしも未知の乗り物ではなかったが、それまで開業した電車は悉く道路上に於いて乗降する路面電車形態だったのに対し、該社で開始した電車運転は専用線を走行しホーム上から乗降するインターバン輸送だった点が大いに異なっていた。

更に、直流600V電化開業に先達ち、飯田町-新宿間複線区間に対し、同年4月より従来の双信閉塞式から自動閉塞式に変更させ、同時に原始的構造ながら、円盤表示式自動信号機を導入し列車運行上に於ける保安度向上に貢献した。


甲武鐵道は明治39年(1906年)10月1日に政府に依り買収されたが、該社政府買収直前たる同年9月23日に代々木駅が開業した。


明治43年(1910年)8月9~10日に、関東地方は近現代を通じ、最大最悪な記録的集中豪雨被害に見舞われたが、該区間内たる牛込-四ッ谷間に並行する外濠が排水限度能力を超過し溢水状態となり、該濠に面した牛込駅本屋に床上浸水被害発生他、該区間列車運転は数日間不通になった。


第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月29日御在位)は、晩年、多年に亘る過度な飲酒が原因で糖尿病を発症し、更に尿毒症を併発した事から危篤状態となり、明治45年(1912年)7月29日に崩御されたが、新帝即位に要する継承時間不足を理由に死去は翌30日とされ、御大葬を大正元年(1912年)9月13日に旧青山練兵場跡地に於いて執行する事に決定した。
此の為に内閣鐵道院は該地に青山仮駅を設置し、伏見桃山陵に謹葬されるべく、京都桃山駅まで霊柩列車運転が決定された。
大葬は深更に終了し、翌14日2時に6428型蒸気機関車が牽引する霊柩車を含む霊柩列車7両編成が該駅より桃山駅に向け出発し京都桃山御陵に奉葬された。

大正3年(1914年)4月9日には、明治天皇皇后だった昭憲(しょうけん)皇太后(嘉永2年(1849年)5月9日~大正3年(1914年)4月9日)が崩御された事から、明治天皇大葬時と同様、旧青山練兵場跡地に於いて同年5月24日深更に大葬が執行され、翌25日2時に京都桃山駅に向い霊柩列車が運転された。

その後、該地は陸軍省から宮内省に管轄移管され、大葬儀跡地に大正15年(1926年)10月に、明治天皇聖徳記念館が開館した。


大正12年(1923年)9月1日、関東大震災発生と同時に、飯田町駅構内を最大に該線飯田町-新宿間に甚大被害が発生した。

該駅に併設された飯田町機関庫配置蒸気機関車を中心に被害が発生した。
即ち、
飯田町駅構内、及び、飯田町機関庫
      619号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損
         623号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損
         651号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損
         666号機 機関室屋根焼損
         671号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損
        6205号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損
        6209号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損
        6772号機 機関室屋根汽罐覆各計器焼損
        6775号機 機関室屋根、真空制動器ホース、ギア焼損
        6776号機 機関室小焼損
        6781号機 脱線
     6791号機 機関室屋根、真空制動器、各ゲージ焼損
         6792号機 機関室、真空制動器ホース、各ゲージ焼損
         6796号機 機関室、真空制動器ホース、各ゲージ焼損
新宿駅構内
        6210号機 制動管破損
        6789号機 脱線

600型タンク式蒸気機関車
英國ナスミス・ウィルソン社(NASMIS WILSON & Co.Ltd)が明治30年(1897年)より製造した輸入機で、逓信省鐵道作業局のみならず、当時の主要私鐵で採用導入された機関車で、619号機は日本鐵道、623号機は甲武鐵道、651号機は参宮鐵道、666号機、及び、671号機は逓信省鐵道作業局購入機だったものが各社政府買収に依り600型に統容されたものである。

6200型テンダー式蒸気機関車
英國ネイルソン・ハイドパーク社(NEILSON HYDEPARK LOCOMOTIVE WALK)が明治30年(1897年)より製造した輸入機で、導入当初は本線旅客用機関車だったが、後年より強力な機関車が出現するに従い、6760型や8620型蒸気機関車導入と共に、震災同時は構内入換用として使用されていた。

6760型テンダー式蒸気機関車
大正3年(1914年)に8620型テンダー式蒸気機関車と同時に製造され、8620型が1級本線用だったのに対し、該機は2級本線用としての用途を以って製造されたが、主要部品は8620型と共通仕様だった。

該機関庫構内では、機関車庫、及び、付属建物全部、機関車転車台枕木40本、機関車炭灰壷横枕木全部が焼失した。
更に、該駅構内に留置中だった、ボギー式客車37両、単軸客車31両、有蓋貨車70両、無蓋貨車61両が全焼し、該駅構内で無事だったのは無蓋貨車2両に過ぎなかった。

該駅構内に於いて焼失した私有貨車は、青梅鐵道(現 東日本旅客鉄道青梅線)10両、武蔵野鐵道(現 西武鉄道池袋線)5両、西武鐵道(現 西武鉄道新宿線)4両、多摩鐵道(現 西武鉄道多摩川線)2両、及び、三河鐵道(現 名古屋鉄道三河線)1両、計22両が悉く被災全焼した。

新宿駅本屋は、鐵道省所属駅本屋施設で鉄骨鉄筋コンクリート剛建築として既に9割方完成していたが、該震災動が原因に拠り、鉄筋切断を初め、コンクリート基礎崩落、クラッチの発生等々で建築物として中破被害と判定され大改修を余儀無くされる。
完全修復には1年以上をを要する大工事を要し、その間に予定より早く、大正12年(1923年)8月13日附で竣工した呉駅が第1号、広島駅が第2号で、それに続き、新宿駅青梅口本屋竣工は第3号の存在となった。
因みに、本来は耐久性に優秀とされる鉄骨鉄筋コンクリート剛建築物たる新宿駅本屋が、竣工後35年後に改築を余儀無くされたのは、後に、昭和20年(1945年)5月25日未明の東京山の手大空襲に拠り、新宿駅構内施設は全滅に等しい被害を被ったが、該駅本屋も焼夷弾が天井を貫通し内部で発火全焼した経緯を有し、焼損建築として耐持久力低下が挙げられる。
呉駅は同年7月2日未明の呉大空襲の際に1t爆弾直撃命中に依り大破、広島駅本屋は原子爆弾に依る激猛爆風に依り天井が破壊崩落、更に、延焼火炎被害を被り焼損したが、呉駅本屋は解体、新宿駅、及び、広島駅は修復され昭和30年代半ばまで使用後改築された。
横浜駅は横浜大空襲時に火災被害を受けず家屋は昭和50年代まで残存していた。
また、他の鉄骨鉄筋コンクリート剛建築駅本屋は、岡山駅は山陽新幹線開業に伴う支障物として解体を余儀無くされたが、長野、奈良、名古屋各駅本屋は平成初期まで使用され、現在残存する該様式駅本屋は、両國橋(現 両国)駅本屋のみである。

該駅では、山手線甲州口旅客ホーム側壁損傷、貨物積卸取扱場上屋倒壊、更に、構内留置中貨車約300両内67両脱線被害が発生した。

また、新宿駅構内では、山手線貨物第723列車が11時35分に該駅到着後、貨車入換作業を行使し、出発準備中に該震災に遭遇し、前部緩急車1軸、2~21両目、23、26両目2軸脱線、27両目1軸脱線被害が発生した。
脱線車輛は同月4日に復線し、牽引機関車は翌5日に品川機関庫に回送された。

牛込-新宿間復旧は同月3日だった。


大正13年(1924年)7月18日に、中野発東京品川経由上野行第366列車走行中に事故が発生した。
即ち、該電車運転手は、市ヶ谷駅到着時にパンダグラフに異状を察した為に、該駅出発時に集電状態を確認すべく、起動状態のまま運転台右側乗務員扉を開け身を乗り出して確認した際に、不運にも該身体が該駅跨線橋支柱に激突墜落し人事不祥となったが、たまたま便乗で乗り合せていた手職職員が非常停止処置を執った事から無人運転とならず急停車した。
即ち、電車運転開始当時は車体幅は狭隘だったのも拘らず、時代を経るに従い徐々に大型化され、該当時車輌は2700mm存在した。
他方、当時の電車はパンダグラフ集電化されたが、ポール集電時代同様、運転士は後方確認が半ば慣例化されていた事から、慣習上、乗務員室扉を開放し身を乗り出して後方確認する者が多く存在し、何時か発生したであろう事故と言えた。


鐵道省は該線飯田町-新宿間複々線化を決定し、大正13年(1924年)着工したが、此の為に、増線工事に支障が発生する、千駄ヶ谷、及び、代々木両駅は該設置支障の為に駅位置が移動した。


第123代 大正(たいしょう)天皇(明治12年(1879年)8月31日~大正15年(1926年)12月25日)(大正元年(1912年)7月29日~大正15年(1926年)12月25日御在位)は大正15年(1926年)12月25日1時25分に神奈川縣葉山御用邸に於いて崩御された。
此の為に、翌昭和2年(1927年)2月7日深更に新宿御苑内に於いて御大喪執行が決定し、信濃町-代々木間複々線化工事で千駄ヶ谷駅Ⅱ付近に分岐線を設置し、新宿御苑仮駅が設置された。

当時、該線が代々木-信濃町間を複々線化工事中だった事から、上り線を着発線として活用し、該仮駅設置が決定された。
該駅本屋は、鐵道省工務局技師 久野 節(くの みさお)(明治15年(1882年)2月21日~昭和37年(1962年)8月7日)が設計したが、該工事中は、下り急行線上に幕張を展開し、該内部を遠望不可能とした。
該大喪に鐵道省が要した総工費は5731652円だった。

大葬当日は、信濃町、及び、千駄ヶ谷両駅は、16時30分を期し、大葬参列者専用電車を除き、一般旅客、及び、手小荷物取扱業務を停止し、信濃町駅は当日21時00分、千駄ヶ谷駅は翌8日0時40分に営業再開まで閉鎖され、更に、中央本線列車運転は、当日19時35分~20時35分の間は四ツ谷、及び、代々木両駅での折返運転とし、当日23時00分~翌0時45分の間は、信濃町-國分寺間全列車運転が停止された。

霊柩列車運転は、飯田町機関庫配置の蒸気機関車が牽引で、
指導列車    28661
先発供奉列車 19618 大正 6年(1917年)川崎造船兵庫分工場製
霊柩列車    29673 大正10年(1921年)川崎造船兵庫分工場製
後発供奉列車 29670 大正10年(1921年)川崎造船兵庫分工場製
因みに、霊柩車列車牽引機 29673 は、大正12年(1923年)9月1日 関東大震災発生時は東海道本線貨物用機関車として高島機関庫配置で、該庫内に於いて脱線した経緯を有する。

大正天皇御大喪時は、霊柩列車が新宿御苑-東浅川間に運転されたが、該霊柩列車と相前後して供奉列車数本も運転された。
更に、大喪終了後、新宿御苑駅本屋は解体移築され、淺川(現 高尾)駅本屋として再活用され現在も現役使用中である。

因みに、該御大喪儀式に於いて、大東亜戦争(だいとうあせんそう)(昭和16年(1941年)12月8日~昭和20年(1945年)8月15日)末期に成立した、第42代 鈴木貫太郎(すずき かんたろう)(慶應4年(1868年)1月18日~昭和23年(1948年)4月17日)内閣(昭和20年(1945年)4月7日~同年8月17日組閣)の 海軍大臣 米内光政(よない みつまさ)海軍大将(明治13年(1880年)3月2日~昭和23年(1948年)4月20日)(昭和20年(1945年)4月7日~同年8月17日就任 前後内閣留任)で海軍次官 井上成美(いのうえ しげよし)海軍中将(明治22年(1889年)12月9日~昭和50年(1975年)12月15日)(昭和20年(1945年)4月7日~同年5月25日就任)の下で戦争終結に於ける極秘命令を受け奔走した 高木惣吉(たかき そうきち)海軍少将(明治26年(1893年)8月9日~昭和54年(1979年)7月27日)は、当時、海軍大尉で海軍大学校学生だった事から、該大葬海軍側供奉接受員として現地に詰め、上り帰京列車に乗車したが、該大喪に参列した国会議員の余りの下品愚劣ぶりに憤慨させられた実体験を戦後に回顧録で記述しており、地方出身の成上者議員ほど、妻と称し実は愛人たる2号の芸者を同伴し、泥酔状態で大喪場内で大声を出し、あまつさえ神聖なる大喪場内に反吐を吐くなど傍若無人ふりを発揮し、昨今の話題に上がる国会議員なみの軽薄状態程度だったらしい。
因みに、該大葬時の先発供奉列車に 草刈英治(くさかり えいじ)(明治24年(1891年)6月1日~昭和5年(1930年)5月24日)海軍少佐、後発供奉列車に 柳本柳作(やなぎもと りゅうさく)(明治27年(1894年)1月9日~昭和17年(1942年)6月5日)海軍大尉が高木と同じく海軍大学校学生供奉接受員として待機しており、後に、草刈少佐は中佐昇進後、昭和5年(1930年)1月21日~同年4月22日に開催されたロンドン海軍軍縮条約締結は、大日本帝國憲法第11条解釈を巡り世情が統帥権干犯問題で紛糾した際に、草刈中佐は該条約受諾反対を理由に、東海道本線神戸発東京行上り12等普通急行第18列車2等寝台車内に於いて割腹自殺を遂げ世間を愕然とさせた激情的性格人物であり、柳本大尉は大東亜戦争中、大佐在任中、航空母艦蒼龍艦長としてミッドウェイ海戦で奮戦戦死し少将に昇進した。


新宿-信濃町間は、昭和3年(1928年)3月1日附で複々線化されたが、該区間複々線化工事着工時点で、輜重兵営、及び、輜重兵廠の諸陸軍施設は移転して遊休施設と化しており、態々不要施設を複々線化の為に改築は不要として、諸陸軍施設前に架橋されていた輜重兵営前跨線橋、及び、輜重兵廠前跨線橋は廃止撤去された。


関東大震災以降、東京市内中心部居住者は、該震災で自宅被災者は東京市外に居住地を求める傾向が強まった関係で、該線利用者の為に朝夕は200%を越える乗車率を記録する状態となり、此の為に、鐵道省東京鐵道局は、昭和3年(1928年)11月2日に、6両編成1本を使用し飯田橋-中野間に於いて試運転を実施した処、片道9分短縮、更に該区間往復運転で68kW節電が可能との結果を得たが、該当時は、飯田町-御茶ノ水間複々線化が未完成状態であり、且つ、現状では、飯田町、及び、中野両駅に於ける構内配線平面交差の問題が解決出来ず、実施は持越しとなった。

昭和8年(1933年)9月15日に開始された列車線使用に依る通過運転は、朝夕各2時間で、且つ、該当列車は、東京-吉祥寺以西間運転電車に限定されたが、利用者には好評を以って迎えられた。
因みに、令和2年(2020年)3月13日まで緩行線運転と並行し快速運転が6~23時に拡大されたのは、昭和34年(1959年)11月9日附時刻改正時以降である。
更に、急行 の名称が快速に改められたのは、昭和36年(1961年)3月20日附時刻改正時であり、現在でも当該線路正式名称は快速線では無く急行線である。


東京に於ける夏季国際オリムピック開催は過去3回決定された。

即ち、第12回1940年(昭和15年)、第18回1964年(昭和39年)、及び、第32回2020年(令和2年)で、第18回は実現したが、第12回は1936年(昭和11年)7月31日にIOC総会で開催決定さ後に、日華事変(にっか じへん)(昭和12年(1937年)7月7日~昭和16年(1941年)12月8日)勃発激化に伴い、昭和13年(1938年)4月1日附制定 国家総動員体制強化に拠り、同年7月15日に開催中止が決定した。

鐵道省は該開催決定を受け、廃線同様の状態で残存していた旧青山軍用引込線を活用し、大正13年(1924年)に完成した 明治神宮外苑競技場観客輸送の臨時駅設置を検討し、他方、東京地区を走る電車車体塗装を、従来のぶどう色1色から、屋根 淡青色、窓下ヘッダー上 淡黄色、腰下 赤色の、当時の鉄道車輌としてはカラフルなオリムピック塗装車輌を各路線に配置しアピールに務め、該線には2編成導入されたが、該開催中止を期に全般検査時に旧塗装に戻されてしまった。


大東亜戦争中たる昭和19年(1944年)3月3日附を以って、電車区間休日時刻が廃止された。
此れは、官庁が土日祭日をも平日として執務となった事を受けたものだが、国家を挙げての戦争体制にも拘らず、役所が平時体制から抜け切れていなかった証拠でもあり遅きに失した感ずる。


小田原急行鐵道(現 小田急電鉄)新宿-小田原間は、陸上交通調整法に拠り昭和17年(1942年)5月1日附で東京急行電鉄に吸収合併されたが、戦時体制下に於ける東海道本線爆撃時に於ける代替輸送路として陸軍省検討対象となり、軌条捻出の為に昭和18年(1943年)8月28日附で江ノ島線藤沢-片瀬江ノ島間単線化に続き、小田原線新松田-小田原間単線化を立案した処、帝國陸軍より、該区間は該線座間に存在した陸軍士官学校生徒演習輸送に支障を来すとして反対されたが、実は、東部88部隊輸送上から東海道本線戦時輸送障害被害を想定したものだった。

現実に、同年5~9月に、鐵道省所有蒸気機関車、及び、電気機関車が客車を牽引して小田原線全線に於いて試運転を実施し、建築限界、及び、橋梁強度確認を行い、多数の駅で建築限界支障を理由に線路中心側に5cm移動させた。
更に、車輛運用を円滑化させるとの理由から、昭和19年(1944年)8月には、新宿駅構内中央本線緩行線東京方で東急電鉄小田急線と連絡線路結合工事を行った。

該連絡線路が役に立ったのは、昭和20年(1945年)5月25日未明の新宿地域大空襲時で、東海道本線東京-大船間不通に依り、運輸通信省より電車4両編成3本を貸与され新宿-藤沢間に代替救済列車が運転された。
また、大東亜線戦争終結直後の、海軍厚木航空隊叛乱事件後始末で、既に聯合国進駐軍将兵が厚木に進駐直前だった事から、該時期、東急電鉄では小田原線一般旅客営業を停止させ、日本軍将兵輸送の為に、運輸省鉄道総局東京鉄道局中野電車区より2本2編成の貸与を受け該将兵帰還輸送に貢献した。


該区間に於ける大東亜戦争中の空襲に依る被害は、
昭和20年(1945)
4月13日 第21爆撃機軍団 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計328機
         22時44分 警戒警報発令
         23時00分 空襲警報発令
         23時18分 空襲開始
          2時22分 空襲警報解除
          2時52分 警戒警報解除
 B29-330機 爆弾81.9t 焼夷弾2037.7t
飯田町駅構内施設多数全焼。
復旧15日14時

 5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機
  22時02分 警戒警報発令
         22時22分 空襲警報発令
      22時30分 空襲開始
          1時00分 空襲警報解除
           1時30分 警戒警報解除
 B29-470機 爆弾4t、焼夷弾3258t
飯田町駅本屋、飯田町機関区、市ヶ谷駅本屋、千駄ヶ谷駅本屋、以上全焼、千駄ヶ谷駅旅客ホーム上屋半焼。
千駄ヶ谷駅長以下職員数名防空壕退避中、該防空壕直撃弾命中に依り即死殉職。
新宿駅本屋、旅客跨線橋、全旅客ホーム上屋、青梅口出改札駅舎、貨物積卸取扱施設、以上全焼。
東京-新宿間枕木焼失多数。
飯田町駅構内被災車輌
  マロネフ37 30(東イヒ)全焼
  オハフ 30 14(東イヒ)全焼
他、木造客車相当数。
 以上、昭和23年(1948年)5月17日附戦災廃車
 貨車50両
大東亜戦争前に、該線で全室2等寝台車は大正10年(1921年)6月10日より普通第401、402列車に連結運転され、昭和15年(1940年)には連結中止になっていたにも拘らず該車輌が配置されていたのは、急増した臨時雇用鉄道職員宿泊場確保であり、同様例として、同年5月29日に東海道本線(高島貨物線)高島駅構内に於いて全焼した マロネ37 97(東シナ)2等寝台車、スシ38 5(東シナ)食堂車、同年6月1日に西成線(現 桜島線)安治川口駅構内に於いて焼損した マロネ37 120(大ミハソ)2等寝台車、同年同月7日に宮原客車操車場内に於いて全焼した マロネ37 121(大ミハソ)2等寝台車が存在した。
因みに、多数文献に5月25日空襲に依り飯田橋駅本屋被災全焼との記述を散見する。
然るに、当時の運輸通信省鐵道総局資料、及び、昭和48年(1973年)11月24日附で公刊された 東京大空襲戦災誌、等々資料を精査したが該駅被災全焼なる記述は見出されない。
他方、該駅被災全焼なる記述が初見するのは、昭和48年(1973年)3月公刊の 日本国有鉄道百年誌第11巻417頁からで、該誌公刊後、引用文献使用で該駅被災なる記述が連続散見される様になった。
管見として本来は飯田町とすべき処、編者が飯田橋と記載ミスをしたか、印刷段階で飯田町を飯田橋とし最終校正確認で見落したかの何れかと推定される。
また資料作成に於ける元資料確認もせず、公刊資料を精査せず引用鵜呑み活用する現実は嘆かわしい事例である。
何れにせよ、大東亜戦争中に飯田橋駅本屋被災なる事実は全く無く事実無根である。
新宿駅構内被災車輌
 電気機関車2両
  ED1723(昭和18年(1943年)鐵道省大宮工機部改造)→ED522(昭和3年(1928年)10月1日称号改正)→6003(大正13年(1924年)英ノースブリテッシュ・ロコモティヴ社製造)
  ED1725(昭和19年(1944年(運輸通信省大宮工機部改造)→ED512(昭和3年(1928年)10月1日称号改正)→6001(大正14年(1925年)英ノースブリテッシュ・ロコモティヴ社製造)
 以上、昭和21年(1946年) 1月28日附戦災廃車。
 電車12両
  サハ19022(東ミツ)→ サハ16431(大正15年(1926年)11月下旬 大井工場改造) → デハ6332(日本車輌製造東京支店 大正8年(1919年)9月2日製造)
  サハ25134(東イケ)→ サロハ6192(昭和3年(1928年)10月1日) → サハ6192(大正15年(1926年)4月 大井工場改造)→ クロハ6192(内閣鉄道院新橋工場 大正3年(1914年)製造)
  モハ30031(東イケ)→ デハ73231(日本車輌製造本店 昭和2年(1927年)2月2日製造)駿豆鉄道払下
  モハ30161(東イケ)(川崎造船所兵庫分工場 昭和3年(1928年)12月13日製造)京成電気鉄道払下
  モハ30182(東イケ)(大阪鐡工所 昭和8年(1933年)製造)全焼
  モハ31071(東イケ)(日本車輌製造本店 昭和6年(1931年)12月16日製造)東武鉄道払下
  モハ31099(東イケ)(田中鐡工所 昭和7年(1932年)3月11日製造)西武鉄道払下
  サハ39037(東ミツ)(昭和16年(1941年)2月下旬 大井工場改造)→ サロ37008(田中鐡工所 昭和4年(1929年)10月15日製造)京成電気鉄道払下
  クハ55059(東イケ)(川崎車輌製造 昭和13年(1938年)11月28日製造)
  サハ57036(東イケ)(日本車輌製造本店 昭和16年(1941年)7月2日製造)
  モハ41057(東ミツ)(日本車輌本店 昭和11年(1936年)3月24日製造)全焼→モハ51002→昭和17年(1942年)鐵省大井工機部改造)
  クハ65189(東イケ)( 昭和16年(1941年)12月下旬鐵道省大井工場鋼体化)→サハ25160→
  クハ65201(東イケ)(昭和18年(1942年)1月30日鐵道省大井工機部鋼体化)→クハ17108→
 以上、昭和21年(1946年)11月28日附戦災廃車。

東京-新宿間は急行線緩行線共に枕木被害が甚大だった事から、東京鐵道局は帝國陸軍鐵道連隊教導鐵道団司令部に対し復旧協力を要請し、該司令部は該要請を受け、同月26日早朝、現地に偵察将校を派遣し、該将校報告を検討した結果、東部第86鐵道連隊、及び、東部第87鐵道連隊計140名派遣を決定し同日14時に現地に到着した。
東京鉄道局との協議の結果、取敢えず急行線復旧を最優先とし、焼損枕木交換の為に、東部第86鐵道連隊は東京→新宿間、東部第87鐵道連隊は新宿→東京間焼損枕木交換を実行した。
運転再開28日6~19時限定蒸気機関車牽引列車運転、29日終日蒸気機関車牽引列車運転、電車運転30日初電。


大東亜戦争終結直後より数年間は、資材不足の為に全施設が限度規定以上使用が要因で、疲弊老朽化が著しい状態となった為に、電化区間各地に於いて、架線切断事故が多発し、該線四ッ谷-信濃町間に於いて、架線断線を原因とする車輌火災事故が2計件発生した。

即ち、
昭和20年(1945年)12月11日
モハ50010 → モハ10050 昭和12年(1937年)2月中旬 鋼体化 鐵道省大井工場 → デハ63148 大正14年(1925年)1月26日附 日本車輌東京支店製造。
 昭和24年(1949年)4月21日附 事故廃車 京成電気鉄道払下。

クハ65186 → サハ25030 昭和18年(1943年)10月20日附 鋼体化 鐵道省大井工機部 → サハ33700 大正10年(1921年)3月附 汽車會社製造東京支店製造。
 昭和22年(1947年)4月27日附 事故廃車 京成電気鉄道払下。

サハ39010 昭和 7年(1932年)3月29日附 新製 汽車會社製造東京支店製造。
 昭和23年(1948年)10月27日附 事故廃車。

昭和21年(1946年) 4月27日
モハ50013 → モハ10106 昭和12年(1937年)3月上旬 鋼体化 鐵道省大井工場 → デハ63204 大正15年(1926年)2月10日附 日本車輌東京支店製造。
 昭和22年(1947年)4月27日附 事故廃車 相模鉄道払下。


昭和22年(1947年)7月17日に、四ツ谷駅発の御召列車が運転された。
即ち、第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は、相模湖ダム竣工式出席で巡幸される為に、四ッ谷-与瀬(現 相模湖)間往復に御召電車が運転された。
今回、原宿宮廷駅を使用されなかったのは、該当時の山手貨物線は未電化で、山手線貨物線原宿-代々木間に電気機関車、電車は入線不可能であり、且つ、当時は東京-浅川-甲府間は直流1500V電化されていたが、浅川(現 高尾)-与瀬(現 相模湖)間には25/1000‰連続登り勾配が存在し、敢えて蒸気機関車牽引運転を忌避した事が原因と思われる。
当日の編成は、
四ッ谷方                          与瀬方
モハ40030+クロ49002+モハ40050+モハ40072
当日は、三鷹電車区を7時41分発回送電車が東京まで運転、折返し、四ツ谷駅9時10分到着、該駅で天皇皇后両陛下は御乗りになられ、10時3分に出発し、与瀬(現 相模湖)駅に10時48分に到着した。
両陛下は満水状態の相模湖内をモーターボートで巡幸され、帰路は与瀬駅を13時30分に出発し四ツ谷駅に14時15分に到着された。
明治~今上歴代各天皇皇后御召列車で該駅発着は当該列車のみである。


東京-浅川間運転急行電車は朝夕限定運転だったが、昭和34年(1959年)11月9日より平日に限り終日運転に変更され、更に、昭和35年(1960年)4月25日より、新宿-松本間に正真正銘の急行列車運転開始に依り、一般人には料金有料無料区別が紛らわしい事から、昭和36年(1961年)3月17日附で、従来の急行から現行の快速に名称変更された。


昭和42年(1967年)8月8日1時45分頃、新宿駅構内に於いて大事故が発生した。

即ち、浜川崎発立川行 貨物第2471列車 EF1038電気機関車牽引 貨車19両に、氷川(現 奥多摩)発浜川崎行 貨物第2470列車 EF1040電気機関車牽引 貨車21両が側面衝突した。
実は、貨物第2471列車貨物搭載物は米軍用航空燃料が満載されており、該衝突時の火花が該航空燃料に引火大爆発が発生し、付近約280mに亘り火の海状態となった。
奇跡的にも該事故に依る死傷者は発生しなかったが、該駅構内復旧は消火活動に手間取り、開通は同月9日4時4分と27時間をも要した。

該事故は折からのベトナム戦争に鑑み、労働者学生達に依る反米反戦運動の起爆剤となり、その後、該駅周辺では警視庁新宿西口交番火炎瓶放火襲撃事件、等々、不穏な事件が多発するきっかけとなった事は誠に遺憾である。

事故列車牽引EF1038電気機関車は、昭和16年(1941年)に当時開通した関門隧道用に製造され、該区間九州側が交流化された事で首都圏に転属使用されていた。
該車は該事故で全焼し、その後、該車は18年に亘り該駅片隅で赤錆色の無残な焼け爛れた姿を残し放置され、大宮工場に回送される事も無く現地に於いて解体された。


急行快速運転開始後も、早朝深夜帯は長らく普通運転が実施されていたが、中央快速電車使用233系にグリーン車連結に伴う12両編成化が決定し、此の為に、令和2年(2020年)3月14日時刻改正より全時間帯共に快速運転化され、飯田橋、市ヶ谷、信濃町、千駄ケ谷、及び、代々木各駅に於いて、東京、高尾行電車は消滅した。




表紙写真は、
御所隧道東京方坑口と初代四ツ谷駅開業時駅本屋旅客連絡階段遺構。





中央本線歴史的痕跡探訪記
~東京-飯田橋間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11227787
~飯田町-飯田橋-新宿間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11228675
~新宿-中野間編 大正浪漫~

~中野-三鷹間編 大正浪漫~

~三鷹-立川間編 大正浪漫~

~立川-八王子間編 明治頌歌~

~八王子-上野原間編 明治頌歌~

~上野原-大月間編 明治頌歌~

~大月-笹子間編 明治頌歌~

~笹子-塩山間編 明治頌歌~
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~塩山-甲府間編 明治頌歌~
https://4travel.jp/travelogue/11488165
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~韮崎-小淵澤間編 明治頌歌~

~小淵澤-茅野間編 明治頌歌~

~茅野-岡谷間編 明治頌歌~

~岡谷-辰野間編 明治頌歌~

~辰野-塩尻間編 明治頌歌~

旅行の満足度
5.0
観光
4.0
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配

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  • 飯田町(いいだまち)駅<br /><br /><br /><br />旧駅本屋跡<br />該駅は、明治28年(1895年)4月3日開業である。<br />該駅地には、現在の、専修大学、日本大学法学部、及び、同経済学部所在地域は、明治期以降、帝國陸軍第1鎮台を経て第1師団練兵場活用地を払下使用したものである。<br />関東大震災発生と同時に、築堤に若干の土留亀裂が発生したが、全体的に見て該時点に於ける被害は軽微だったが、然るに、その後に於ける付近発生火災に依り、当日15時頃より次々と焼失し甚大被害となり、該駅は全滅に均しい被害が発生した。<br />昭和3年(1933年)11月15日に飯田橋駅開業に依り、該駅電車旅客扱が廃止され当該ホームが撤去された事で、該駅利用者は激減し、特に、御茶ノ水-飯田町間複々線化工事の為に土地を要する事から、昭和8年(1933年)7月14日を以って該駅旅客取扱は廃止され、以後は貨物取扱専用駅となった。<br />大東亜戦争中は2度に渡る空襲被害を受け該駅構内は全滅に瀕した。<br />戦争終結後は、一般貨物取扱業務専用駅だったが、該駅に隣接して、昭和46年(1971年)4月1日附で、飯田町紙流通センターが開設された事から、該駅貨物取扱ホームを解体し、昭和47年(1972年)11月より、当該貨物取扱が主流となった。<br />昭和62年(1987年)4月1日附の民営分割で、該駅は、日本貨物鉄道所有となったが、該当時より貨物取扱量が減少を続け平成9年(1997年)3月15日時刻改正で遂に貨物列車運転はゼロとなり、該駅は単純に駅が存在するだけの状態となり、平成11年(1999年)3月9日を以って該駅は廃止され該駅開業来104年の歴史を閉じた。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-1<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

    飯田町(いいだまち)駅



    旧駅本屋跡
    該駅は、明治28年(1895年)4月3日開業である。
    該駅地には、現在の、専修大学、日本大学法学部、及び、同経済学部所在地域は、明治期以降、帝國陸軍第1鎮台を経て第1師団練兵場活用地を払下使用したものである。
    関東大震災発生と同時に、築堤に若干の土留亀裂が発生したが、全体的に見て該時点に於ける被害は軽微だったが、然るに、その後に於ける付近発生火災に依り、当日15時頃より次々と焼失し甚大被害となり、該駅は全滅に均しい被害が発生した。
    昭和3年(1933年)11月15日に飯田橋駅開業に依り、該駅電車旅客扱が廃止され当該ホームが撤去された事で、該駅利用者は激減し、特に、御茶ノ水-飯田町間複々線化工事の為に土地を要する事から、昭和8年(1933年)7月14日を以って該駅旅客取扱は廃止され、以後は貨物取扱専用駅となった。
    大東亜戦争中は2度に渡る空襲被害を受け該駅構内は全滅に瀕した。
    戦争終結後は、一般貨物取扱業務専用駅だったが、該駅に隣接して、昭和46年(1971年)4月1日附で、飯田町紙流通センターが開設された事から、該駅貨物取扱ホームを解体し、昭和47年(1972年)11月より、当該貨物取扱が主流となった。
    昭和62年(1987年)4月1日附の民営分割で、該駅は、日本貨物鉄道所有となったが、該当時より貨物取扱量が減少を続け平成9年(1997年)3月15日時刻改正で遂に貨物列車運転はゼロとなり、該駅は単純に駅が存在するだけの状態となり、平成11年(1999年)3月9日を以って該駅は廃止され該駅開業来104年の歴史を閉じた。

    東京都千代田区飯田橋3-13-1
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />旧駅本屋跡<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-1<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

    飯田町駅



    旧駅本屋跡

    東京都千代田区飯田橋3-13-1
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />旧飯田町客車区跡<br />該客車区廃止後は線路保守用機材保管地。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-13-1<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

    飯田町駅



    旧飯田町客車区跡
    該客車区廃止後は線路保守用機材保管地。

    東京都千代田区飯田橋3-13-1
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />甲武鉄道飯田町駅(こうぶ てつどう いいだまちえき)跡碑<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-1-3<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

    飯田町駅



    甲武鉄道飯田町駅(こうぶ てつどう いいだまちえき)跡碑

    東京都千代田区飯田橋3-1-3
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

    甲武鉄道 飯田町駅の碑 名所・史跡

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />甲武鉄道飯田町駅跡碑<br />裏面<br />筆者に依る駅本屋位置相違指摘に依り現在は撤去。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-1-3<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

    飯田町駅



    甲武鉄道飯田町駅跡碑
    裏面
    筆者に依る駅本屋位置相違指摘に依り現在は撤去。

    東京都千代田区飯田橋3-1-3
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

    甲武鉄道 飯田町駅の碑 名所・史跡

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />飯田町駅旧貨物取扱施設取付道路<br />該道路正面に該駅本屋が存在したかの如く碑文にも記載されているが、該地に存在したのは貨物取扱施設であり、必ずしも跡碑本文の記述の如き史実が正確ではない。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-1-3<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

    飯田町駅



    飯田町駅旧貨物取扱施設取付道路
    該道路正面に該駅本屋が存在したかの如く碑文にも記載されているが、該地に存在したのは貨物取扱施設であり、必ずしも跡碑本文の記述の如き史実が正確ではない。

    東京都千代田区飯田橋3-1-3
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

    甲武鉄道 飯田町駅の碑 名所・史跡

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />飯田町駅旧貨物取扱施設取付道路<br />正面建築物は ホテルメトロポリタンエドモンド。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-1-3<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

    飯田町駅



    飯田町駅旧貨物取扱施設取付道路
    正面建築物は ホテルメトロポリタンエドモンド。

    東京都千代田区飯田橋3-1-3
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩4分

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />ホテルメトロポリタンエドモンド<br />貨物取扱施設場跡<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-10-8<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

    飯田町駅



    ホテルメトロポリタンエドモンド
    貨物取扱施設場跡

    東京都千代田区飯田橋3-10-8
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />線路跡<br />勿論オリジナルでは無く再開発工事完了後に設置。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-10-8<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

    飯田町駅



    線路跡
    勿論オリジナルでは無く再開発工事完了後に設置。

    東京都千代田区飯田橋3-10-8
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩5分

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />元船溜跡<br />飯田町駅構内に船溜が存在し、日本橋川、隅田川を経由して、新橋(汐留)、秋葉原、隅田川各駅間と連絡を可能にした。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-9<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩6分

    飯田町駅



    元船溜跡
    飯田町駅構内に船溜が存在し、日本橋川、隅田川を経由して、新橋(汐留)、秋葉原、隅田川各駅間と連絡を可能にした。

    東京都千代田区飯田橋3-9
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩6分

  • 飯田町/水道橋-飯田橋間<br /><br /><br /><br />曲線上分岐器設置跡<br />昭和8年(1933年)9月15日附で、該駅飯田町-御茶ノ水間複々線化に依る飯田町駅急行線本線上曲線分岐が問題となり、此の為に、本線用曲線上分岐器が開発され、写真中央部に本邦初の本線用曲線上分岐器が設置された。<br />然るに、開発段階から危惧された様に該分岐器上での脱線事故が平成期に至るまで頻発し、その都度復旧完了まで列車運行が不可能になる事から保線側からは嫌悪の対象だった。<br />此の為に、平成11年(1999年)3月9日を以って飯田町駅廃止直後に即座に撤去。<br /><br />東京都千代田区3-12<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩1分

    飯田町/水道橋-飯田橋間



    曲線上分岐器設置跡
    昭和8年(1933年)9月15日附で、該駅飯田町-御茶ノ水間複々線化に依る飯田町駅急行線本線上曲線分岐が問題となり、此の為に、本線用曲線上分岐器が開発され、写真中央部に本邦初の本線用曲線上分岐器が設置された。
    然るに、開発段階から危惧された様に該分岐器上での脱線事故が平成期に至るまで頻発し、その都度復旧完了まで列車運行が不可能になる事から保線側からは嫌悪の対象だった。
    此の為に、平成11年(1999年)3月9日を以って飯田町駅廃止直後に即座に撤去。

    東京都千代田区3-12
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩1分

  • 飯田町-飯田橋間<br /><br /><br /><br />飯田橋通(いいだばしどおり)架道橋<br />該橋は、明治28年(1895年)4月3日開通の架道橋である。<br />但し、初代架道橋は、全鋼鐵製では無く木造木組橋梁だった。<br />恐らく、日清戦争(にっしんせんそう)(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、独逸から該橋用鋼材未着、若しくは、急遽他橋梁用転用の為に仮木造橋梁架橋を余儀無くさせられたものと推定される。<br />全長18.29m<br />4.5m(木造製)+9.0m(鋼鐵製)+4.5m(木造製)<br />鋼鐵製単線並立型上路プレート・ガーダー桁<br />で構成されたが、該年中に改めて独逸より該架道橋鋼鐵材が到着し、2代目架道橋として木製橋2連が架替られた。<br />独HARKORT Duisburg-GERMAN 1904<br />(独逸ハーコート社デュイスブルク工場1904年(明治37年)製造<br />関東大震災発生直後、付近住民多数が家財道具一式を携え該橋下に避難して来たが、その後、該橋付近で発生した大火災で、該家財道具群が導火帯化した為に、該橋は強火勢高温が原因で焼損被害が発生した。<br />該区間開通時に於ける橋梁幅は狭隘だったが、その後、関東大震災後に於ける帝都復興計画に基き、該既設道路幅拡張が決定された事を受け、鐵道省は、大正15年(1926年)に該道路拡張と同時に桁架替を実施した。<br />全長28.8m<br />上路プレート・ガーダー桁5.82m+上路プレート・ガーダー桁19.10m+上路プレート・ガーダー桁5.82m<br />ラーメン橋脚一体構造型。<br />緩行線用単線桁上下線各桁<br />ホーム用桁<br />急行線用複線桁<br />貨物線用単線桁<br />に架替られた。<br />架替完了後に該道は白山(はくさん)通と改称されたが、該橋梁名は架橋当時のまま残存。<br /><br />東京都千代田区飯田橋3-12<br />中央本線飯田橋駅東口 徒歩30秒

    飯田町-飯田橋間



    飯田橋通(いいだばしどおり)架道橋
    該橋は、明治28年(1895年)4月3日開通の架道橋である。
    但し、初代架道橋は、全鋼鐵製では無く木造木組橋梁だった。
    恐らく、日清戦争(にっしんせんそう)(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、独逸から該橋用鋼材未着、若しくは、急遽他橋梁用転用の為に仮木造橋梁架橋を余儀無くさせられたものと推定される。
    全長18.29m
    4.5m(木造製)+9.0m(鋼鐵製)+4.5m(木造製)
    鋼鐵製単線並立型上路プレート・ガーダー桁
    で構成されたが、該年中に改めて独逸より該架道橋鋼鐵材が到着し、2代目架道橋として木製橋2連が架替られた。
    独HARKORT Duisburg-GERMAN 1904
    (独逸ハーコート社デュイスブルク工場1904年(明治37年)製造
    関東大震災発生直後、付近住民多数が家財道具一式を携え該橋下に避難して来たが、その後、該橋付近で発生した大火災で、該家財道具群が導火帯化した為に、該橋は強火勢高温が原因で焼損被害が発生した。
    該区間開通時に於ける橋梁幅は狭隘だったが、その後、関東大震災後に於ける帝都復興計画に基き、該既設道路幅拡張が決定された事を受け、鐵道省は、大正15年(1926年)に該道路拡張と同時に桁架替を実施した。
    全長28.8m
    上路プレート・ガーダー桁5.82m+上路プレート・ガーダー桁19.10m+上路プレート・ガーダー桁5.82m
    ラーメン橋脚一体構造型。
    緩行線用単線桁上下線各桁
    ホーム用桁
    急行線用複線桁
    貨物線用単線桁
    に架替られた。
    架替完了後に該道は白山(はくさん)通と改称されたが、該橋梁名は架橋当時のまま残存。

    東京都千代田区飯田橋3-12
    中央本線飯田橋駅東口 徒歩30秒

  • 飯田町駅<br /><br /><br /><br />旧客車入換引上線跡<br />写真左手の上り勾配。

    飯田町駅



    旧客車入換引上線跡
    写真左手の上り勾配。

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />該駅は、昭和3年(1928年)11月15日開業である。<br />関東大震災に依り該駅付近一帯は火災の為に壊滅的被害が発生した。<br />内務省震災復興院に依る復興事業の一環として、東京市内に広幅道路に依る防火帯設置案が決定し、該決定に基き現在の目白通りが設置されたが、他方、当時の中央本線飯田町電車駅-牛込間が0.7kmの至近距離だった事を理由に、両駅を統合し、且つ、該通りに面した位置に駅本屋設置を策定し、鐵道省も該案を了承した事から該駅開設に至った。<br />此の為に、旧牛込区神楽坂地区を中心とした従来の牛込駅利用者に不便を蒙らさせぬ為に、西口は緩やかなスロープが設置された。<br />昭和20年(1945年)4月13日空襲で、駅所在周辺地たる、麹町区(現 千代田区)及び、牛込区(現 新宿区)の殆どの地域が焼失したが、該駅は奇跡的に被害が発生せず焼失を免れた。<br />因みに、該駅に就いて、大東亜戦争末期に於ける米戦略部隊B29爆撃機に依る空襲被害で、該駅本屋が焼夷弾攻撃での被災全焼なる文献を多数散見するが、当時の運輸省鐵道総局空襲被災資料、及び、東京大空襲戦災誌に於いて、飯田町駅本屋全焼の記載は存在するが該駅本屋全焼なる記述は存在しない。<br />他方、昭和48年(1973年)3月公刊の 日本国有鉄道百年史第11巻417頁に、該駅本屋焼失なる記載が初見するが、肝心な飯田町駅本屋焼失の記述が存在し無い。<br />所見として、該誌公刊時は現在の如くコンピューター等々は存在せず、全部手作業に依る編集であり、本来、飯田町と記載すべき処、飯田橋と転記し見落した事が原因で、非事実が恰も一人歩きし、資料作成の為に該誌記述を鵜呑みにした結果、該駅本屋が被災全焼したかの如き事態へと発展したのであり、故に、該誌記述は事実無根である。<br />帝都高速度交通営団(現 東京メトロ地下鉄)東西線が該駅直下を通過し駅開設が決定した事から、東口駅本屋改築が決定し、昭和39年(1964年)6月に現駅本屋が竣工した。<br />http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=99

    飯田橋駅



    該駅は、昭和3年(1928年)11月15日開業である。
    関東大震災に依り該駅付近一帯は火災の為に壊滅的被害が発生した。
    内務省震災復興院に依る復興事業の一環として、東京市内に広幅道路に依る防火帯設置案が決定し、該決定に基き現在の目白通りが設置されたが、他方、当時の中央本線飯田町電車駅-牛込間が0.7kmの至近距離だった事を理由に、両駅を統合し、且つ、該通りに面した位置に駅本屋設置を策定し、鐵道省も該案を了承した事から該駅開設に至った。
    此の為に、旧牛込区神楽坂地区を中心とした従来の牛込駅利用者に不便を蒙らさせぬ為に、西口は緩やかなスロープが設置された。
    昭和20年(1945年)4月13日空襲で、駅所在周辺地たる、麹町区(現 千代田区)及び、牛込区(現 新宿区)の殆どの地域が焼失したが、該駅は奇跡的に被害が発生せず焼失を免れた。
    因みに、該駅に就いて、大東亜戦争末期に於ける米戦略部隊B29爆撃機に依る空襲被害で、該駅本屋が焼夷弾攻撃での被災全焼なる文献を多数散見するが、当時の運輸省鐵道総局空襲被災資料、及び、東京大空襲戦災誌に於いて、飯田町駅本屋全焼の記載は存在するが該駅本屋全焼なる記述は存在しない。
    他方、昭和48年(1973年)3月公刊の 日本国有鉄道百年史第11巻417頁に、該駅本屋焼失なる記載が初見するが、肝心な飯田町駅本屋焼失の記述が存在し無い。
    所見として、該誌公刊時は現在の如くコンピューター等々は存在せず、全部手作業に依る編集であり、本来、飯田町と記載すべき処、飯田橋と転記し見落した事が原因で、非事実が恰も一人歩きし、資料作成の為に該誌記述を鵜呑みにした結果、該駅本屋が被災全焼したかの如き事態へと発展したのであり、故に、該誌記述は事実無根である。
    帝都高速度交通営団(現 東京メトロ地下鉄)東西線が該駅直下を通過し駅開設が決定した事から、東口駅本屋改築が決定し、昭和39年(1964年)6月に現駅本屋が竣工した。
    http://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=99

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />電車編成に合せホーム有効長さを延長に延長を重ねた結果、当該ホーム途中に急曲線が発生させた。

    飯田橋駅



    旅客ホーム
    電車編成に合せホーム有効長さを延長に延長を重ねた結果、当該ホーム途中に急曲線が発生させた。

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    飯田橋駅



    旅客ホーム

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱。

    飯田橋駅



    旅客ホーム
    上屋古軌条支柱。

    飯田橋駅

  • 飯田橋駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱。

    飯田橋駅



    旅客ホーム
    上屋古軌条支柱。

    飯田橋駅

  • 飯田橋-市ヶ谷間<br /><br /><br /><br />牛込駅旅客ホーム跡<br />現在、飯田橋駅改良工事中で完成後は事実上の牛込駅復活となる。<br /><br />東京都千代田区富士見2-9-10<br />中央本線飯田橋駅牛込口 徒歩2分

    飯田橋-市ヶ谷間



    牛込駅旅客ホーム跡
    現在、飯田橋駅改良工事中で完成後は事実上の牛込駅復活となる。

    東京都千代田区富士見2-9-10
    中央本線飯田橋駅牛込口 徒歩2分

  • 飯田橋-市ヶ谷間<br /><br /><br /><br />牛込駅本屋跡<br />2店舗間が該駅出入口跡<br /><br />東京都千代田区富士見2-9-10<br />中央本線飯田橋駅牛込口 徒歩2分

    飯田橋-市ヶ谷間



    牛込駅本屋跡
    2店舗間が該駅出入口跡

    東京都千代田区富士見2-9-10
    中央本線飯田橋駅牛込口 徒歩2分

  • 飯田橋-市ヶ谷間<br /><br /><br /><br />牛込駅本屋跡<br />該駅出入口跡<br />旧駅本屋側に石積が内側に曲線門状。<br /><br />東京都千代田区富士見2-9-10<br />中央本線飯田橋駅牛込口 徒歩2分

    飯田橋-市ヶ谷間



    牛込駅本屋跡
    該駅出入口跡
    旧駅本屋側に石積が内側に曲線門状。

    東京都千代田区富士見2-9-10
    中央本線飯田橋駅牛込口 徒歩2分

  • 飯田橋-市ヶ谷間<br /><br /><br /><br />牛込駅跡<br />連絡橋台跡

    飯田橋-市ヶ谷間



    牛込駅跡
    連絡橋台跡

  • 市ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />都水道橋

    市ヶ谷駅



    都水道橋

  • 市ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />都水道橋

    市ヶ谷駅



    都水道橋

  • 市ヶ谷(いちがや)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治28年(1895年)3月6日開業である。<br />新宿-牛込間5.7kmは、前年たる明治27年(1894年)10月9日に開通したが、当時、四ッ谷-牛込間2.0kmに途中停車場は設置されなかったが、該駅設置理由として、該駅至近地に、陸軍省、及び、陸軍参謀本部が所在した事実は見逃せない。<br />駅本屋位置は現在と変わらず、相対式ホームが設置された。<br />大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災で、該駅構内に於ける被害は、土留石垣約15坪崩壊、上り旅客ホーム側壁崩壊、及び、上下線旅客ホーム上面沈降亀裂、等々の被害が発生した。<br />飯田町-信濃町間4.0kmは、昭和4年(1929年)3月16日附で複々線化されたが、該区間増線工事の為に外濠淵部を開削し、牛込-四ッ谷間沿線に植樹されていた桜樹群全部を切倒し撤去、更に、市ヶ谷-四ッ谷間に存在した四番町、三番町、及び、四谷各隧道を撤去し、緩行線乗越橋を設置する事から、旅客相対式ホホームを撤去し島式ホームを設置したが、同時に甲武鐵道開業時に設置された初代駅本屋も解体され、第2代駅本屋が設置された。<br />大東亜戦争末期に於ける米戦略部隊B29爆撃機に依る東京都区内攻撃で、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日空襲に依り、駅本屋、職員官舎、構内線路班小屋に焼夷弾が命中し全焼被害が発生した。<br />終戦後、応急復旧に依る第3代駅本屋が設置されたが、老朽化が著しい事から、現第4代駅本屋は、昭和42年(1967年)3月に改築された。

    市ヶ谷(いちがや)駅



    該駅は、明治28年(1895年)3月6日開業である。
    新宿-牛込間5.7kmは、前年たる明治27年(1894年)10月9日に開通したが、当時、四ッ谷-牛込間2.0kmに途中停車場は設置されなかったが、該駅設置理由として、該駅至近地に、陸軍省、及び、陸軍参謀本部が所在した事実は見逃せない。
    駅本屋位置は現在と変わらず、相対式ホームが設置された。
    大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災で、該駅構内に於ける被害は、土留石垣約15坪崩壊、上り旅客ホーム側壁崩壊、及び、上下線旅客ホーム上面沈降亀裂、等々の被害が発生した。
    飯田町-信濃町間4.0kmは、昭和4年(1929年)3月16日附で複々線化されたが、該区間増線工事の為に外濠淵部を開削し、牛込-四ッ谷間沿線に植樹されていた桜樹群全部を切倒し撤去、更に、市ヶ谷-四ッ谷間に存在した四番町、三番町、及び、四谷各隧道を撤去し、緩行線乗越橋を設置する事から、旅客相対式ホホームを撤去し島式ホームを設置したが、同時に甲武鐵道開業時に設置された初代駅本屋も解体され、第2代駅本屋が設置された。
    大東亜戦争末期に於ける米戦略部隊B29爆撃機に依る東京都区内攻撃で、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日空襲に依り、駅本屋、職員官舎、構内線路班小屋に焼夷弾が命中し全焼被害が発生した。
    終戦後、応急復旧に依る第3代駅本屋が設置されたが、老朽化が著しい事から、現第4代駅本屋は、昭和42年(1967年)3月に改築された。

    市ヶ谷駅 (JR)

  • 市ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />改札口

    市ヶ谷駅



    改札口

    市ヶ谷駅 (JR)

  • 市ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />基台

    市ヶ谷駅



    駅本屋
    基台

    市ヶ谷駅 (JR)

  • 市ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />基台

    市ヶ谷駅



    駅本屋
    基台

    市ヶ谷駅 (JR)

  • 市ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />地下鉄連絡口

    市ヶ谷駅



    地下鉄連絡口

    市ヶ谷駅 (JR)

  • 市ヶ谷-四ッ谷間<br /><br /><br /><br />四番町(よんばんちょう)隧道跡<br />全長18.20m<br /><br />東京都千代田区5番町2<br />中央本線市ヶ谷駅 徒歩3分

    市ヶ谷-四ッ谷間



    四番町(よんばんちょう)隧道跡
    全長18.20m

    東京都千代田区5番町2
    中央本線市ヶ谷駅 徒歩3分

  • 市ヶ谷-四ツ谷間<br /><br /><br /><br />中央線急行線跨線橋

    市ヶ谷-四ツ谷間



    中央線急行線跨線橋

  • 四ッ谷駅<br /><br /><br /><br />四ッ谷(よつや)駅<br />該駅は、明治27年(1894年)10月9日開業である。<br />該駅設置に鑑み、当初計画では、該駅設置予定地外濠全部を埋立て、該地ち停車場設置を策定したが、該計画案を知った陸軍省は、該地が要塞地たりとして障碍力低下を理由に該濠淵部設置を要求した為に、該社は仕方が無く該要求を受諾した事で、現在でも見られる掘割内設置形態となった。<br />該駅設置の為に該濠を調査した処、宝永13年(1636年)設置以来、堆積した泥土が約5m以上存在する事が判明し、埋立工事着工前に全部除去する必要が生じた。<br />該駅開業時の駅本屋は、宮内省赤坂御所(現 赤坂迎賓館)前通りから長石段を以って地平に造営され、相対式ホームが設置された。<br />現在の四谷見附跨線橋は、内務省土木局に依り大正2年(1913年9に初代橋梁が架橋されたが、該跨線橋竣工と同時に駅本屋は該橋梁麹町側に移転し、旧駅本屋は御所前口と称される様になったが、裏口化の印象が免れなかった。<br />関東大震災発生時、該線神田-飯田町間は甚大被害が発生したが、該駅構内は、外濠側に若干の亀裂発生程度で被害は軽微だった。<br />信濃町-飯田町間4.0kmは、昭和4年(1929年)3月16日附で複々線化され、電車、及び、列車が分離運転が実施されたが、同時に該駅ホームは相対式から島式に改造された。<br />昭和7年(1932年)に急行線に島式ホーム1本が増設され、同時に御所前口駅舎は地平から道路面に移転し、各ホーム連絡は旅客跨線橋が新設され、例の長石段は廃止された。<br />大東亜戦争末期、数次に亘る東京都区内空襲に依り、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日空襲時に、該駅構内線路班小屋に焼夷弾が命中し全焼した以外、該駅施設被害は発生せず無事だった。<br />該駅史上、1度だけ該駅発着に依る御召列車が運転された事がある。<br />即ち、戦前から工事が継続していた相模湖が満水となり、此の為に、第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)が現地を巡幸視察される事になり、昭和22年(1947年)7月17日に、該駅から与瀬(現 相模湖)間を往復される為に御召電車に乗車された。<br />該御召電車編成は、<br />東京方←                         →与瀬方<br />モハ40030 + クロ49002 + モハ40050 + モハ40072<br />で、三鷹電車区を7時41分に出区し東京駅で折返後、四ッ谷駅に9時10分に回送到着し、陛下は2号車クロ49002特別室に御乗車になられ、該駅10時03分に出発され、与瀬駅に10時48分着後、陛下は相模湖をモーターボートで視察され、与瀬駅13時15分発の該編成電車に御乗車になられ、四ッ谷駅に14時15分に到着され四ッ谷駅から車で皇居にお戻りになられた。<br />中央本線方面への御召列車は、通常では原宿宮廷専用ホーム発着が原則であり、四ッ谷駅発着は御召列車運転史上、稀有例である。<br />また此の時の陛下の服装は宮内服と云う、旧帝國海軍将校用制服を黒色状にされた服を着用されていた。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647<br />

    四ッ谷駅



    四ッ谷(よつや)駅
    該駅は、明治27年(1894年)10月9日開業である。
    該駅設置に鑑み、当初計画では、該駅設置予定地外濠全部を埋立て、該地ち停車場設置を策定したが、該計画案を知った陸軍省は、該地が要塞地たりとして障碍力低下を理由に該濠淵部設置を要求した為に、該社は仕方が無く該要求を受諾した事で、現在でも見られる掘割内設置形態となった。
    該駅設置の為に該濠を調査した処、宝永13年(1636年)設置以来、堆積した泥土が約5m以上存在する事が判明し、埋立工事着工前に全部除去する必要が生じた。
    該駅開業時の駅本屋は、宮内省赤坂御所(現 赤坂迎賓館)前通りから長石段を以って地平に造営され、相対式ホームが設置された。
    現在の四谷見附跨線橋は、内務省土木局に依り大正2年(1913年9に初代橋梁が架橋されたが、該跨線橋竣工と同時に駅本屋は該橋梁麹町側に移転し、旧駅本屋は御所前口と称される様になったが、裏口化の印象が免れなかった。
    関東大震災発生時、該線神田-飯田町間は甚大被害が発生したが、該駅構内は、外濠側に若干の亀裂発生程度で被害は軽微だった。
    信濃町-飯田町間4.0kmは、昭和4年(1929年)3月16日附で複々線化され、電車、及び、列車が分離運転が実施されたが、同時に該駅ホームは相対式から島式に改造された。
    昭和7年(1932年)に急行線に島式ホーム1本が増設され、同時に御所前口駅舎は地平から道路面に移転し、各ホーム連絡は旅客跨線橋が新設され、例の長石段は廃止された。
    大東亜戦争末期、数次に亘る東京都区内空襲に依り、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日空襲時に、該駅構内線路班小屋に焼夷弾が命中し全焼した以外、該駅施設被害は発生せず無事だった。
    該駅史上、1度だけ該駅発着に依る御召列車が運転された事がある。
    即ち、戦前から工事が継続していた相模湖が満水となり、此の為に、第124代 昭和天皇(しょうわ てんのう)(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)が現地を巡幸視察される事になり、昭和22年(1947年)7月17日に、該駅から与瀬(現 相模湖)間を往復される為に御召電車に乗車された。
    該御召電車編成は、
    東京方←                         →与瀬方
    モハ40030 + クロ49002 + モハ40050 + モハ40072
    で、三鷹電車区を7時41分に出区し東京駅で折返後、四ッ谷駅に9時10分に回送到着し、陛下は2号車クロ49002特別室に御乗車になられ、該駅10時03分に出発され、与瀬駅に10時48分着後、陛下は相模湖をモーターボートで視察され、与瀬駅13時15分発の該編成電車に御乗車になられ、四ッ谷駅に14時15分に到着され四ッ谷駅から車で皇居にお戻りになられた。
    中央本線方面への御召列車は、通常では原宿宮廷専用ホーム発着が原則であり、四ッ谷駅発着は御召列車運転史上、稀有例である。
    また此の時の陛下の服装は宮内服と云う、旧帝國海軍将校用制服を黒色状にされた服を着用されていた。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ツ谷駅

  • 四ッ谷駅<br /><br /><br /><br />麹町口<br />駅舎<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647<br />

    四ッ谷駅



    麹町口
    駅舎
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ツ谷駅

  • 四ッ谷駅<br /><br /><br />麹町口<br />駅舎<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ッ谷駅


    麹町口
    駅舎
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ツ谷駅

  • 四ッ谷駅<br /><br /><br /><br />赤坂口<br />帝都高速度交通営団地下鉄(現 東京メトロ地下鉄)丸ノ内線霞ヶ関-新宿間開通に合せ、昭和34年(1959年)3月15日設置。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ッ谷駅



    赤坂口
    帝都高速度交通営団地下鉄(現 東京メトロ地下鉄)丸ノ内線霞ヶ関-新宿間開通に合せ、昭和34年(1959年)3月15日設置。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ツ谷駅

  • 四ッ谷駅<br /><br /><br /><br />四ツ谷口<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ッ谷駅



    四ツ谷口
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ツ谷駅

  • 四ッ谷駅<br /><br /><br /><br />本屋改札口<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ッ谷駅



    本屋改札口
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1647

    四ツ谷駅

  • 四ツ谷駅<br /><br /><br /><br />駅構内

    四ツ谷駅



    駅構内

    四ツ谷駅

  • 四ツ谷駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />中心部<br />外濠跡が歴然。

    四ツ谷駅



    駅構内
    中心部
    外濠跡が歴然。

    四ツ谷駅

  • 四ツ谷駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />名古屋方

    四ツ谷駅



    駅構内
    名古屋方

    四ツ谷駅

  • 四ツ谷駅<br /><br /><br /><br />第1番旅客ホーム<br />

    四ツ谷駅



    第1番旅客ホーム

    四ツ谷駅

  • 四ツ谷駅<br /><br /><br /><br />旧御所前口Ⅰ跡<br />駅本屋接続階段跡<br />明治27年(1894年)10月9日開業時設置。<br /><br />東京都新宿区四谷1-1<br />中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩4分

    四ツ谷駅



    旧御所前口Ⅰ跡
    駅本屋接続階段跡
    明治27年(1894年)10月9日開業時設置。

    東京都新宿区四谷1-1
    中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩4分

  • 四ッ谷駅<br /><br /><br /><br />旧御所前口Ⅱ跡<br />然るに、該線複々線化工事に支障する事から、昭和7年(1932年)に該階段途中から跨線橋が設置され階段半分は残存したが、大東亜戦争後に帝都高速度交通営団地下鉄(現 東京メトロ地下鉄)丸ノ内線設置工事支障の為、昭和33年(1958年)7月に該出改札口は廃止。<br /><br />東京都新宿区四谷1-1<br />中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩4分

    四ッ谷駅



    旧御所前口Ⅱ跡
    然るに、該線複々線化工事に支障する事から、昭和7年(1932年)に該階段途中から跨線橋が設置され階段半分は残存したが、大東亜戦争後に帝都高速度交通営団地下鉄(現 東京メトロ地下鉄)丸ノ内線設置工事支障の為、昭和33年(1958年)7月に該出改札口は廃止。

    東京都新宿区四谷1-1
    中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩4分

  • 四谷見附(よつやみつけ)跨線橋<br /><br /><br /><br />該橋は、大正2年(1913年)10月5日に初代跨線橋が架橋された。<br />全長37.186m 幅21.946m<br />即ち、該橋架橋理由は、赤坂御所(現 赤坂迎賓館)連絡路として設置された。<br />米カーネギー社製造鋼材使用。<br />東京市土木課第3部橋梁課長 樺島正義(かばしま まさよし)(明治11年(1878年)1月15日~昭和24年(1949年))が設計。<br /><br />東京都千代田区六番町14<br />中央本線四ッ谷駅麹町口 徒歩30秒

    四谷見附(よつやみつけ)跨線橋



    該橋は、大正2年(1913年)10月5日に初代跨線橋が架橋された。
    全長37.186m 幅21.946m
    即ち、該橋架橋理由は、赤坂御所(現 赤坂迎賓館)連絡路として設置された。
    米カーネギー社製造鋼材使用。
    東京市土木課第3部橋梁課長 樺島正義(かばしま まさよし)(明治11年(1878年)1月15日~昭和24年(1949年))が設計。

    東京都千代田区六番町14
    中央本線四ッ谷駅麹町口 徒歩30秒

    四ッ谷見附橋 名所・史跡

  • 四谷見附跨線橋<br /><br /><br /><br />その後、老朽化の為に平成3年(1991年)に全面的に架替が実施され、橋台は初代該橋をイメージさせる煉瓦タイル張様式が採用された。<br />尚、架替前初代橋梁は若干改造の上、八王子市長沢公園に移設架橋された。<br /><br />東京都千代田区麹町6-2<br />中央本線四ッ谷駅麹町口 徒歩30秒

    四谷見附跨線橋



    その後、老朽化の為に平成3年(1991年)に全面的に架替が実施され、橋台は初代該橋をイメージさせる煉瓦タイル張様式が採用された。
    尚、架替前初代橋梁は若干改造の上、八王子市長沢公園に移設架橋された。

    東京都千代田区麹町6-2
    中央本線四ッ谷駅麹町口 徒歩30秒

    四ッ谷見附橋 名所・史跡

  • 四ッ谷-信濃町間<br /><br /><br /><br />御所(ごしょ)隧道<br />全長287.90m<br />該隧道は掘割状態で構築し煉瓦積完了後、埋戻された。<br />複々線化時に、宮内省学習院側から該校小等部運動場拡張を条件に工事着工が承認された事から名古屋方を27.0m延長し覆土施工した。<br />複々線化を前に新御所隧道に移設させ、御所隧道内部を修理し、線路を該隧道中心部に1線のみ移設し、改めて下り線を再移設させ現在に至る。<br /><br />東京都新宿区四谷1-1-1<br />中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩4分

    四ッ谷-信濃町間



    御所(ごしょ)隧道
    全長287.90m
    該隧道は掘割状態で構築し煉瓦積完了後、埋戻された。
    複々線化時に、宮内省学習院側から該校小等部運動場拡張を条件に工事着工が承認された事から名古屋方を27.0m延長し覆土施工した。
    複々線化を前に新御所隧道に移設させ、御所隧道内部を修理し、線路を該隧道中心部に1線のみ移設し、改めて下り線を再移設させ現在に至る。

    東京都新宿区四谷1-1-1
    中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩4分

  • 四ッ谷-信濃町間<br /><br /><br /><br />新御所(しんごしょ)隧道<br />全長385m<br /><br />東京都新宿区四谷1-1-1<br />中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩3分

    四ッ谷-信濃町間



    新御所(しんごしょ)隧道
    全長385m

    東京都新宿区四谷1-1-1
    中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩3分

  • 四ッ谷-信濃町間<br /><br /><br /><br />御所隧道<br />名古屋方<br />坑門<br /><br />東京都新宿区若葉1-22<br />中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩6分

    四ッ谷-信濃町間



    御所隧道
    名古屋方
    坑門

    東京都新宿区若葉1-22
    中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩6分

  • 四ツ谷-信濃町間<br /><br /><br /><br />新御所隧道<br />名古屋方<br />坑口<br />右手に保線作業員避難所が見える。<br /><br />東京都新宿区若葉1-22<br />中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩6分

    四ツ谷-信濃町間



    新御所隧道
    名古屋方
    坑口
    右手に保線作業員避難所が見える。

    東京都新宿区若葉1-22
    中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩6分

  • 四ツ谷-信濃町間<br /><br /><br /><br />御所・新御所隧道<br />名古屋方<br />坑門<br />全景<br /><br />東京都新宿区若葉1-22<br />中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩6分

    四ツ谷-信濃町間



    御所・新御所隧道
    名古屋方
    坑門
    全景

    東京都新宿区若葉1-22
    中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩6分

  • 四ツ谷-信濃町間<br /><br /><br /><br />鮫ヶ通(さめがどおり)架道橋<br />全長9.75m<br />緩行線側<br /><br />東京都新宿区若葉1-24<br />中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩8分

    四ツ谷-信濃町間



    鮫ヶ通(さめがどおり)架道橋
    全長9.75m
    緩行線側

    東京都新宿区若葉1-24
    中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩8分

  • 四ツ谷-信濃町間<br /><br /><br /><br />鮫ヶ通架道橋<br />急行線側<br />関東大震災発生と同時に橋台沈下、及び、石垣に亀裂被害発生。<br /><br />東京都新宿区若葉1-24<br />中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩8分

    四ツ谷-信濃町間



    鮫ヶ通架道橋
    急行線側
    関東大震災発生と同時に橋台沈下、及び、石垣に亀裂被害発生。

    東京都新宿区若葉1-24
    中央本線四ッ谷駅赤坂口 徒歩8分

  • 四ツ谷-信濃町間<br /><br /><br /><br />第2南鮫ヶ橋通(だいに みなみさめがどおり)架道橋<br />初代橋梁は鋼材未着の為に、木組木造構造で架橋された。<br />複々線化時に改修され原型を止めず。<br /><br />東京都新宿区南元町15<br />中央本線信濃町駅 徒歩5分

    四ツ谷-信濃町間



    第2南鮫ヶ橋通(だいに みなみさめがどおり)架道橋
    初代橋梁は鋼材未着の為に、木組木造構造で架橋された。
    複々線化時に改修され原型を止めず。

    東京都新宿区南元町15
    中央本線信濃町駅 徒歩5分

  • 四ツ谷-信濃町間<br /><br /><br /><br />第1南鮫ヶ橋通(だいいち みなみさめがどおり)架道橋<br />初代橋梁は鋼材未着の為に、木組木造構造で架橋された。<br />複々線化時に改修され原型を止めず。<br />因みに、橋梁隧道付番は起点基準であるが、当該架道橋第1が東京方では無く名古屋方に存在するのは、該区間建設が新宿起点で開始された痕跡である。<br /><br />東京都渋谷区霞ヶ丘町12<br />中央本線信濃町駅 徒歩2分

    四ツ谷-信濃町間



    第1南鮫ヶ橋通(だいいち みなみさめがどおり)架道橋
    初代橋梁は鋼材未着の為に、木組木造構造で架橋された。
    複々線化時に改修され原型を止めず。
    因みに、橋梁隧道付番は起点基準であるが、当該架道橋第1が東京方では無く名古屋方に存在するのは、該区間建設が新宿起点で開始された痕跡である。

    東京都渋谷区霞ヶ丘町12
    中央本線信濃町駅 徒歩2分

  • 信濃町(しなのまち)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治27年(1894年)10月9日開業である。<br />該区間開通当時、新宿-牛込間5.7kmに於ける途中停車駅は、該駅以外は四ッ谷だけで、新宿-信濃町間2.4km、信濃町-四ッ谷間1.3km、四ッ谷-牛込間2.0kmで、四ッ谷以外に至近距離と考えられた信濃町駅が開設された最大理由は、折から 日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、該駅隣接地に存在する陸軍青山練兵場関係者利用の為である。<br />該社は、当初、該駅設置箇所を信濃町跨線橋反対側を計画していたが、陸軍省は、該練兵場将兵出入不便として計画変更を要求し、結果的に現駅設置箇所に落着いた。<br />同年9月17日開設の青山練兵場停車場への分岐地が、該駅新宿方に存在する為に、取扱業務一般は千駄ヶ谷駅開設まで該駅で取扱っていた。<br />大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災で、該線神田-飯田町間は甚大被害が発生したが、該駅構内施設は被災せず、隣接駅 千駄ヶ谷と共に全く無事だった。<br />現在の明治神宮外苑は、該練兵場移転に伴い、該地管轄が陸軍省から宮内省に移管され造営されたもので、大正15年(1926年)に完成した。<br />新宿-信濃町間は昭和2年(1927年)3月1日、信濃町-飯田町間は昭和4年(1929年)3月16日に複々線化されたが、飯田町複々線時に、該駅構内が大改造され、駅本屋は改築され第2代駅本屋が竣工し、同時に、旅客ホームも従来の相対式から島式に改築され、貨物、及び、手小荷物取扱の為に急行線上り線側に該専用ホームが新設された。<br />東京-新宿間各駅で貨物取扱業務が存在したのは、該駅以外、飯田町だけで、昭和15年81940年)10月10日迄は、該駅貨物取扱業務に活鮮魚があり、盛況を極めたが、該取扱は該日を以って廃止され、更に、翌昭和16年(1941年)2月1日附を以って、該駅貨物取扱業務は廃止された。<br />大東亜戦争末期、東京都区内は数次に亘る空襲被害を蒙ったが、該駅は、飯田橋駅と共に、該駅構内施設は無事だった。<br />第18回国際東京オリムピック大会は、昭和39年(1964年)10月10日より同月24日に開催されたが、オリムピック競技場に短時間に集中する観客誘導の為に、該駅緩行線下り線側に臨時ホームが設置されたが、該オリムピック競技閉会後は、神宮球場で開催される国鉄スワローズ(現 ヤクルト スワローズ)観客誘導用に数回使用後、閉鎖状態が継続し、平成2年(1990年)に該駅大改造の為に解体されるまで錆だらけの無残な姿を晒していた。<br />昭和62年(1987年)4月1日の民営化以降、該駅施設老朽化と共に、該駅旅客ホーム狭隘解消が最重点課題となり、その結果、該駅本屋改築と共に、上部に駅ビル設置等々が決定され、旅客臨時ホーム、及び、手小荷物取扱ホームを撤去して遊休地を産出させ、旅客ホーム拡張の上、平成4年(1992年)に現3代目駅本屋が竣工した。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=798

    信濃町(しなのまち)駅



    該駅は、明治27年(1894年)10月9日開業である。
    該区間開通当時、新宿-牛込間5.7kmに於ける途中停車駅は、該駅以外は四ッ谷だけで、新宿-信濃町間2.4km、信濃町-四ッ谷間1.3km、四ッ谷-牛込間2.0kmで、四ッ谷以外に至近距離と考えられた信濃町駅が開設された最大理由は、折から 日清戦争(にっしん せんそう)(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)11月30日)勃発に伴い、該駅隣接地に存在する陸軍青山練兵場関係者利用の為である。
    該社は、当初、該駅設置箇所を信濃町跨線橋反対側を計画していたが、陸軍省は、該練兵場将兵出入不便として計画変更を要求し、結果的に現駅設置箇所に落着いた。
    同年9月17日開設の青山練兵場停車場への分岐地が、該駅新宿方に存在する為に、取扱業務一般は千駄ヶ谷駅開設まで該駅で取扱っていた。
    大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災で、該線神田-飯田町間は甚大被害が発生したが、該駅構内施設は被災せず、隣接駅 千駄ヶ谷と共に全く無事だった。
    現在の明治神宮外苑は、該練兵場移転に伴い、該地管轄が陸軍省から宮内省に移管され造営されたもので、大正15年(1926年)に完成した。
    新宿-信濃町間は昭和2年(1927年)3月1日、信濃町-飯田町間は昭和4年(1929年)3月16日に複々線化されたが、飯田町複々線時に、該駅構内が大改造され、駅本屋は改築され第2代駅本屋が竣工し、同時に、旅客ホームも従来の相対式から島式に改築され、貨物、及び、手小荷物取扱の為に急行線上り線側に該専用ホームが新設された。
    東京-新宿間各駅で貨物取扱業務が存在したのは、該駅以外、飯田町だけで、昭和15年81940年)10月10日迄は、該駅貨物取扱業務に活鮮魚があり、盛況を極めたが、該取扱は該日を以って廃止され、更に、翌昭和16年(1941年)2月1日附を以って、該駅貨物取扱業務は廃止された。
    大東亜戦争末期、東京都区内は数次に亘る空襲被害を蒙ったが、該駅は、飯田橋駅と共に、該駅構内施設は無事だった。
    第18回国際東京オリムピック大会は、昭和39年(1964年)10月10日より同月24日に開催されたが、オリムピック競技場に短時間に集中する観客誘導の為に、該駅緩行線下り線側に臨時ホームが設置されたが、該オリムピック競技閉会後は、神宮球場で開催される国鉄スワローズ(現 ヤクルト スワローズ)観客誘導用に数回使用後、閉鎖状態が継続し、平成2年(1990年)に該駅大改造の為に解体されるまで錆だらけの無残な姿を晒していた。
    昭和62年(1987年)4月1日の民営化以降、該駅施設老朽化と共に、該駅旅客ホーム狭隘解消が最重点課題となり、その結果、該駅本屋改築と共に、上部に駅ビル設置等々が決定され、旅客臨時ホーム、及び、手小荷物取扱ホームを撤去して遊休地を産出させ、旅客ホーム拡張の上、平成4年(1992年)に現3代目駅本屋が竣工した。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=798

    信濃町駅

  • 信濃町駅<br /><br /><br /><br />改札口<br />該駅出札業務は廃止。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=798

    信濃町駅



    改札口
    該駅出札業務は廃止。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=798

    信濃町駅

  • 信濃町駅<br /><br /><br /><br />旧手小荷物列車専用ホーム跡<br />該駅は、旅客ホームが狭い上に階段下に存在した為に、手小荷物取扱業務に煩瑣が多く、昭和4年(1929年)3月16日の複々線化と同時に、上り線側にのみ側線を設置し、該側線に貨物、及び、手小荷物取扱専用ホームを設置し該業務を行った。<br />昭和38年(1963年)12月1日附を以って、該駅に於ける手小荷物取扱業務は廃止され、該駅ホーム、及び、側線は暫く残存した。

    信濃町駅



    旧手小荷物列車専用ホーム跡
    該駅は、旅客ホームが狭い上に階段下に存在した為に、手小荷物取扱業務に煩瑣が多く、昭和4年(1929年)3月16日の複々線化と同時に、上り線側にのみ側線を設置し、該側線に貨物、及び、手小荷物取扱専用ホームを設置し該業務を行った。
    昭和38年(1963年)12月1日附を以って、該駅に於ける手小荷物取扱業務は廃止され、該駅ホーム、及び、側線は暫く残存した。

    信濃町駅

  • 信濃町駅<br /><br /><br /><br />旧手小荷物列車専用ホーム跡<br />近接

    信濃町駅



    旧手小荷物列車専用ホーム跡
    近接

    信濃町駅

  • 信濃町駅<br /><br /><br /><br />信濃町(しなのまち)跨線橋<br />手前左手側は元都電専用橋線路跡<br />都電7号系統四谷塩町-泉岳寺前間、及び、33号系統四谷塩町‐浜松町1丁目間が運転されていたが、昭和44年(1969年)10月26日附で双方系統共に廃止されたが、都電廃止後も軌条共々長らく橋梁跡が残存していた。<br />地元事情に疎い地方ナンバー車が注意散漫で漫然と該橋梁内に進入し、該車タイヤがバーストする姿が月数件発生していた。<br />現在は整備され晴れて道路道として再生される。<br /><br />東京都新宿区信濃町34<br />中央本線信濃町駅 徒歩15秒

    信濃町駅



    信濃町(しなのまち)跨線橋
    手前左手側は元都電専用橋線路跡
    都電7号系統四谷塩町-泉岳寺前間、及び、33号系統四谷塩町‐浜松町1丁目間が運転されていたが、昭和44年(1969年)10月26日附で双方系統共に廃止されたが、都電廃止後も軌条共々長らく橋梁跡が残存していた。
    地元事情に疎い地方ナンバー車が注意散漫で漫然と該橋梁内に進入し、該車タイヤがバーストする姿が月数件発生していた。
    現在は整備され晴れて道路道として再生される。

    東京都新宿区信濃町34
    中央本線信濃町駅 徒歩15秒

  • 信濃町駅<br /><br /><br /><br />信濃町(しなのまち)跨線橋<br />甲武鐵道時代は、<br />東信濃町通橋<br />と称した。<br /><br />東京都新宿区信濃町34<br />中央本線信濃町駅 徒歩15秒

    信濃町駅



    信濃町(しなのまち)跨線橋
    甲武鐵道時代は、
    東信濃町通橋
    と称した。

    東京都新宿区信濃町34
    中央本線信濃町駅 徒歩15秒

  • 慶應大学医学部<br /><br /><br /><br />旧帝國陸軍兵器輜重兵営跡<br />当該輜重兵営移転後、当時の慶應大学に払下げられ医科が設置された。

    慶應大学医学部



    旧帝國陸軍兵器輜重兵営跡
    当該輜重兵営移転後、当時の慶應大学に払下げられ医科が設置された。

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />陸軍輜重兵営前跨線橋跡<br />青山練兵場間に専用跨線橋を有していた。<br />甲武鐵道時代は、<br />輜重兵営前陸橋<br />として設置。<br />複々線化時に廃止され、現在では橋台座跡が残存する。<br /><br />東京都新宿区霞ヶ丘町無番地<br />中央本線信濃町駅 徒歩2分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    陸軍輜重兵営前跨線橋跡
    青山練兵場間に専用跨線橋を有していた。
    甲武鐵道時代は、
    輜重兵営前陸橋
    として設置。
    複々線化時に廃止され、現在では橋台座跡が残存する。

    東京都新宿区霞ヶ丘町無番地
    中央本線信濃町駅 徒歩2分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />本番町通(ほんばんちょうどおり)跨線道路橋<br />該跨線橋は、明治27年(1894年)10月9日開通である。<br />甲武鐵道時代は、<br />大番町通陸橋<br />として設置。<br />該線複々線化工事の為に、大正15年(1926年)に複線跨線様式から現行複々線跨線様式に架替された。<br />その後、床面老朽化に依り昭和47年(1972年)に張替改装され人道専用橋化されたが、基本的外観は大正15年(1926年)架替時状態を維持。<br /><br />東京都渋谷区霞ヶ丘町2<br />中央本線信濃町駅 徒歩3分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    本番町通(ほんばんちょうどおり)跨線道路橋
    該跨線橋は、明治27年(1894年)10月9日開通である。
    甲武鐵道時代は、
    大番町通陸橋
    として設置。
    該線複々線化工事の為に、大正15年(1926年)に複線跨線様式から現行複々線跨線様式に架替された。
    その後、床面老朽化に依り昭和47年(1972年)に張替改装され人道専用橋化されたが、基本的外観は大正15年(1926年)架替時状態を維持。

    東京都渋谷区霞ヶ丘町2
    中央本線信濃町駅 徒歩3分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />本番町通跨線道路橋<br />橋梁内部<br /><br />東京都渋谷区霞ヶ丘町2<br />中央本線信濃町駅 徒歩3分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    本番町通跨線道路橋
    橋梁内部

    東京都渋谷区霞ヶ丘町2
    中央本線信濃町駅 徒歩3分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />本番町通跨線道路橋<br />橋柱<br />老朽化の為に、現在では軽車輌以下通行可。<br /><br />東京都渋谷区霞ヶ丘町12<br />中央本線信濃町駅 徒歩3分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    本番町通跨線道路橋
    橋柱
    老朽化の為に、現在では軽車輌以下通行可。

    東京都渋谷区霞ヶ丘町12
    中央本線信濃町駅 徒歩3分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />本番町通跨線道路橋<br />橋梁欄干内側<br /><br />東京都渋谷区霞ヶ丘町12<br />中央本線信濃町駅 徒歩3分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    本番町通跨線道路橋
    橋梁欄干内側

    東京都渋谷区霞ヶ丘町12
    中央本線信濃町駅 徒歩3分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />旧陸軍青山軍用停車場分岐線跡、及び、初代千駄ヶ谷駅跡<br /><br />東京都新宿区霞ヶ丘町11<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    旧陸軍青山軍用停車場分岐線跡、及び、初代千駄ヶ谷駅跡

    東京都新宿区霞ヶ丘町11
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />旧陸軍青山軍用停車場分岐線跡<br />右側に向けた該保線修理管理用簡易分岐器こそ、旧青山軍用停車場、及び、明治帝、照憲皇太后大葬臨時霊柩列車運転時に使用された現存する数少ない痕跡。<br />旧青山練兵場への軌道敷跡は当該練兵場廃止後たる大東亜戦争終結後も残存するも、東京オリンピック、及び、首都高速道路設置工事に支障となる事から、昭和36年(1961年)に奥部分は撤去。<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷1-34<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    旧陸軍青山軍用停車場分岐線跡
    右側に向けた該保線修理管理用簡易分岐器こそ、旧青山軍用停車場、及び、明治帝、照憲皇太后大葬臨時霊柩列車運転時に使用された現存する数少ない痕跡。
    旧青山練兵場への軌道敷跡は当該練兵場廃止後たる大東亜戦争終結後も残存するも、東京オリンピック、及び、首都高速道路設置工事に支障となる事から、昭和36年(1961年)に奥部分は撤去。

    東京都渋谷区千駄ヶ谷1-34
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />旧陸軍青山軍用停車場分岐線跡<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷1-34<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    旧陸軍青山軍用停車場分岐線跡

    東京都渋谷区千駄ヶ谷1-34
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />旧陸軍青山軍用停車場線路跡<br />

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    旧陸軍青山軍用停車場線路跡

  • 聖徳記念絵画館<br /><br /><br /><br />本館<br />該造営物は、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月12日~明治45年(1912年)7月29日御在位)御遺徳を偲び、大正15年(1926年)10月22日に御大喪斉場跡地に開設された施設である。

    聖徳記念絵画館



    本館
    該造営物は、第122代 明治(めいじ)天皇(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月29日)(慶應3年(1867年)2月12日~明治45年(1912年)7月29日御在位)御遺徳を偲び、大正15年(1926年)10月22日に御大喪斉場跡地に開設された施設である。

    聖徳記念絵画館 美術館・博物館

  • 聖徳記念絵画館<br /><br /><br /><br />青山軍用停車場跡<br />該停車場開設は、明治27年(1894年)9月17日である。

    聖徳記念絵画館



    青山軍用停車場跡
    該停車場開設は、明治27年(1894年)9月17日である。

    聖徳記念絵画館 美術館・博物館

  • 聖徳記念絵画館<br />

    聖徳記念絵画館

    聖徳記念絵画館 美術館・博物館

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />初代千駄ヶ谷駅跡<br />該駅移転後も長らく国有財産とされ資材関係置場ったが、昭和62年(1987年)4月1日附で民営分割時に日本国有鉄道清算事業団所有地となり、民間に売却後、現在は某宗教本部関連施設が入居。<br /><br />東京都新宿区大京町33-1<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩3分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    初代千駄ヶ谷駅跡
    該駅移転後も長らく国有財産とされ資材関係置場ったが、昭和62年(1987年)4月1日附で民営分割時に日本国有鉄道清算事業団所有地となり、民間に売却後、現在は某宗教本部関連施設が入居。

    東京都新宿区大京町33-1
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩3分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />初代千駄ヶ谷駅跡<br />該地に、明治37年(1904年)8月21日~大正14年(1925年)9月1日に該駅施設が存在した。<br /><br />東京都新宿区大京町33-1<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩3分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    初代千駄ヶ谷駅跡
    該地に、明治37年(1904年)8月21日~大正14年(1925年)9月1日に該駅施設が存在した。

    東京都新宿区大京町33-1
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩3分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />外苑通(がいいえんどうり)架道橋<br />全長26.50m<br />4.0m + 18.0m + 4.0m<br />緩行線側<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷1-32-1<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩3分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    外苑通(がいいえんどうり)架道橋
    全長26.50m
    4.0m + 18.0m + 4.0m
    緩行線側

    東京都渋谷区千駄ヶ谷1-32-1
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩3分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />千駄ヶ谷(せんだがや)架道橋<br />全長10.01m<br />9.75m<br />緩行線側<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷1-35-10<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩2分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    千駄ヶ谷(せんだがや)架道橋
    全長10.01m
    9.75m
    緩行線側

    東京都渋谷区千駄ヶ谷1-35-10
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩2分

  • 信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間<br /><br /><br /><br />千駄ヶ谷架道橋<br />急行線側<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷1-35-10<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩3分

    信濃町-千駄ヶ谷Ⅱ間



    千駄ヶ谷架道橋
    急行線側

    東京都渋谷区千駄ヶ谷1-35-10
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩3分

  • 千駄ヶ谷(せんだがや)Ⅱ駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治37年(1904年)8月21日開業である。<br />該駅開設以前より存在した陸軍青山練兵場軍用仮停車場分岐点は、該駅開業前は、信濃町駅が管理し分岐器取扱は当該列車運転の都度、信濃町駅から現地に派遣され取扱されていたが、日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月10日~明治38年(1905年)9月5日)勃発に伴い、軍用列車運転激増に依り、従来の取扱手段では行詰を見せた事から、該地に駅が独立設置させたと云うのが、けだし真相で有ろうと思われる。<br />此の為に、初代該駅は、現在地より東京方面約100m地点に設置された。<br />該駅開業と同時に飯田町-中野間10.8kmが直流600V電化され、電車運転が開始された。<br />大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災では、該線一部沿線では甚大被害が発生したが、該駅は、隣接 信濃町駅と共に被害が一切発生しなかった。<br />該駅は、開業当時は現位置と異なり、現駅本屋反対側たる新宿御苑側に面していたが、複々線化工事に対する用地捻出、及び、予てより地元より駅本屋を町側設置要請が存在した事から、信濃町-新宿間複々線化工事着工直後たる大正14年(1925年)9月1日附で現在地に移転した。<br />大東亜戦争末期に、米戦略攻撃部隊B29爆撃機に依り、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日空襲時に被災し、駅本屋、及び、旅客ホーム事務室が全焼し、防空壕避難中の駅長以下職員数名が殉職する被害が発生した。<br />大東亜戦争後、取敢えず仮建築で駅本屋が設置されたが、昭和33年(1958年)8月23日附で現第4代駅本屋が竣功した。<br />第18回夏季国際オリムピック東京大会が、昭和39年(1964年)10月10日~同月24日に亘り開催が決定した事から、該駅は観客輸送増大が確実視された為に、旅客ホームとは別個に下り緩行線側に臨時ホーム設置が決定し追設されたが、該オリムピック終了後は全く使用する機会が訪れず、その後、約50年間に亘り無残な姿を晒していた。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=914

    千駄ヶ谷(せんだがや)Ⅱ駅



    該駅は、明治37年(1904年)8月21日開業である。
    該駅開設以前より存在した陸軍青山練兵場軍用仮停車場分岐点は、該駅開業前は、信濃町駅が管理し分岐器取扱は当該列車運転の都度、信濃町駅から現地に派遣され取扱されていたが、日露戦争(にちろ せんそう)(明治37年(1904年)2月10日~明治38年(1905年)9月5日)勃発に伴い、軍用列車運転激増に依り、従来の取扱手段では行詰を見せた事から、該地に駅が独立設置させたと云うのが、けだし真相で有ろうと思われる。
    此の為に、初代該駅は、現在地より東京方面約100m地点に設置された。
    該駅開業と同時に飯田町-中野間10.8kmが直流600V電化され、電車運転が開始された。
    大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災では、該線一部沿線では甚大被害が発生したが、該駅は、隣接 信濃町駅と共に被害が一切発生しなかった。
    該駅は、開業当時は現位置と異なり、現駅本屋反対側たる新宿御苑側に面していたが、複々線化工事に対する用地捻出、及び、予てより地元より駅本屋を町側設置要請が存在した事から、信濃町-新宿間複々線化工事着工直後たる大正14年(1925年)9月1日附で現在地に移転した。
    大東亜戦争末期に、米戦略攻撃部隊B29爆撃機に依り、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日空襲時に被災し、駅本屋、及び、旅客ホーム事務室が全焼し、防空壕避難中の駅長以下職員数名が殉職する被害が発生した。
    大東亜戦争後、取敢えず仮建築で駅本屋が設置されたが、昭和33年(1958年)8月23日附で現第4代駅本屋が竣功した。
    第18回夏季国際オリムピック東京大会が、昭和39年(1964年)10月10日~同月24日に亘り開催が決定した事から、該駅は観客輸送増大が確実視された為に、旅客ホームとは別個に下り緩行線側に臨時ホーム設置が決定し追設されたが、該オリムピック終了後は全く使用する機会が訪れず、その後、約50年間に亘り無残な姿を晒していた。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=914

    千駄ケ谷駅

  • 旧連絡線跡<br /><br /><br /><br />機関庫、転車台、車輌留置線連絡線跡<br />該施設廃止後、現在は道路。

    旧連絡線跡



    機関庫、転車台、車輌留置線連絡線跡
    該施設廃止後、現在は道路。

    千駄ケ谷駅

  • 千駄ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />機関庫、転車台、車輌留置線跡<br />現津田塾大学千駄ヶ谷キャンパス他<br />該地には甲武鐵道青山軍用仮停車場列車出入の為に、飯田町機関庫支庫、及び、車輛転車台が設置されていた。<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷1-18-24<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩15秒

    千駄ヶ谷駅



    機関庫、転車台、車輌留置線跡
    現津田塾大学千駄ヶ谷キャンパス他
    該地には甲武鐵道青山軍用仮停車場列車出入の為に、飯田町機関庫支庫、及び、車輛転車台が設置されていた。

    東京都渋谷区千駄ヶ谷1-18-24
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩15秒

  • 信濃町-千駄ヶ谷間<br /><br /><br /><br />新宿御苑駅跡<br />第123代 大正(たいしょう)天皇(明治15年(1926年)12月25日)(大正元年(1912年)7月29日~大正15年(1926年)12月25日御在位)の御大喪儀齋行の為に、昭和2年(1927年)2月7日に新宿御料地横に併設設置された臨時駅である。<br />当時、該線代々木-信濃町間複々線化工事中だった事から、上り線を着発線として活用可能と判断し、該仮駅が設置が決定された。<br />駅本屋は、鐵道省工務局技師 久野 節(くの みさお)(明治15年(1882年)2月21日~昭和37年(1962年)8月7日)の設計。<br />総工費5731652円。<br />因みに、該駅は同月9日に廃止されたが、駅本屋は大喪終了後、解体され該駅淺川(現 高尾)駅本屋として移築され現存する。

    信濃町-千駄ヶ谷間



    新宿御苑駅跡
    第123代 大正(たいしょう)天皇(明治15年(1926年)12月25日)(大正元年(1912年)7月29日~大正15年(1926年)12月25日御在位)の御大喪儀齋行の為に、昭和2年(1927年)2月7日に新宿御料地横に併設設置された臨時駅である。
    当時、該線代々木-信濃町間複々線化工事中だった事から、上り線を着発線として活用可能と判断し、該仮駅が設置が決定された。
    駅本屋は、鐵道省工務局技師 久野 節(くの みさお)(明治15年(1882年)2月21日~昭和37年(1962年)8月7日)の設計。
    総工費5731652円。
    因みに、該駅は同月9日に廃止されたが、駅本屋は大喪終了後、解体され該駅淺川(現 高尾)駅本屋として移築され現存する。

  • 千駄ヶ谷駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />上屋支柱は古軌条使用。<br />昭和20年(1945年)5月25日空襲に依り上屋屋根木板張は全焼したが、戦後、トタン板張で復旧。

    千駄ヶ谷駅



    旅客第1番ホーム
    上屋支柱は古軌条使用。
    昭和20年(1945年)5月25日空襲に依り上屋屋根木板張は全焼したが、戦後、トタン板張で復旧。

    千駄ケ谷駅

  • 千駄ケ谷駅<br /><br /><br /><br />新設旅客ホーム

    千駄ケ谷駅



    新設旅客ホーム

    千駄ケ谷駅

  • 千駄ケ谷駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />旅客地下連絡階段

    千駄ケ谷駅



    旅客第1番ホーム
    旅客地下連絡階段

    千駄ケ谷駅

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />八幡前架道橋<br />全長11.5m<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷1-36<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩45秒

    千駄ヶ谷-代々木間



    八幡前架道橋
    全長11.5m

    東京都渋谷区千駄ヶ谷1-36
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩45秒

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />八幡前架道橋<br />全長11.5m<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷1-36<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩45秒

    千駄ヶ谷-代々木間



    八幡前架道橋
    全長11.5m

    東京都渋谷区千駄ヶ谷1-36
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩45秒

    千駄ケ谷駅

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />大通(おおどおり)架道橋<br />全長3.55m<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷4-25-14<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

    千駄ヶ谷-代々木間



    大通(おおどおり)架道橋
    全長3.55m

    東京都渋谷区千駄ヶ谷4-25-14
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />大通架道橋<br />上り急行線側<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷5-2-3<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

    千駄ヶ谷-代々木間



    大通架道橋
    上り急行線側

    東京都渋谷区千駄ヶ谷5-2-3
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩4分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />仲道(なかみち)架道橋<br />4.15m<br />緩行線側<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷4-25<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩5分

    千駄ヶ谷-代々木間



    仲道(なかみち)架道橋
    4.15m
    緩行線側

    東京都渋谷区千駄ヶ谷4-25
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩5分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />仲道架道橋<br />急行線側<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷5-6-4<br />中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩5分

    千駄ヶ谷-代々木間



    仲道架道橋
    急行線側

    東京都渋谷区千駄ヶ谷5-6-4
    中央本線千駄ヶ谷駅 徒歩5分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />御苑裏(ぎょえんうら)架道橋<br />9.667m<br />緩行線側<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷4-25-14<br />山手線代々木駅西口 徒歩6分

    千駄ヶ谷-代々木間



    御苑裏(ぎょえんうら)架道橋
    9.667m
    緩行線側

    東京都渋谷区千駄ヶ谷4-25-14
    山手線代々木駅西口 徒歩6分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />御苑裏架道橋<br />9.754m<br />急行線側<br />該橋は、曲線上に存在する為に内外差に依り緩行急行両線橋梁支間長が相違。<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷4-24<br />山手線代々木駅西口 徒歩6分

    千駄ヶ谷-代々木間



    御苑裏架道橋
    9.754m
    急行線側
    該橋は、曲線上に存在する為に内外差に依り緩行急行両線橋梁支間長が相違。

    東京都渋谷区千駄ヶ谷4-24
    山手線代々木駅西口 徒歩6分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />新屋敷(しんやしき)架道橋<br />25.13m<br />緩行線側<br />該区間開通時に於ける橋梁幅は狭隘形態だったが、その後、関東大震災後に於ける帝都復興計画に基き、該既設道路幅拡張が決定された事を受け、鐵道省は、大正15年(1926年)に該道路拡張と同時に桁架替が施行されたが、該橋梁はラーメン鋼構造として本邦初の存在である。<br />該道は桁架替工事完了後に 明治(めいじ)通 と改称されたが、該橋梁名は架橋当時のまま残存。<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷4-25-7<br />山手線代々木駅西口 徒歩5分

    千駄ヶ谷-代々木間



    新屋敷(しんやしき)架道橋
    25.13m
    緩行線側
    該区間開通時に於ける橋梁幅は狭隘形態だったが、その後、関東大震災後に於ける帝都復興計画に基き、該既設道路幅拡張が決定された事を受け、鐵道省は、大正15年(1926年)に該道路拡張と同時に桁架替が施行されたが、該橋梁はラーメン鋼構造として本邦初の存在である。
    該道は桁架替工事完了後に 明治(めいじ)通 と改称されたが、該橋梁名は架橋当時のまま残存。

    東京都渋谷区千駄ヶ谷4-25-7
    山手線代々木駅西口 徒歩5分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />新屋敷架道橋<br />急行線側<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷5-17-14<br />山手線代々木駅西口 徒歩5分

    千駄ヶ谷-代々木間



    新屋敷架道橋
    急行線側

    東京都渋谷区千駄ヶ谷5-17-14
    山手線代々木駅西口 徒歩5分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />新屋敷架道橋<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷5-17-14<br />山手線代々木駅西口 徒歩5分

    千駄ヶ谷-代々木間



    新屋敷架道橋

    東京都渋谷区千駄ヶ谷5-17-14
    山手線代々木駅西口 徒歩5分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />新屋敷架道橋<br />橋梁底辺<br />単線上路プレート・ガーダー桁4並列式。<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷5-17-14<br />山手線代々木駅西口 徒歩5分

    千駄ヶ谷-代々木間



    新屋敷架道橋
    橋梁底辺
    単線上路プレート・ガーダー桁4並列式。

    東京都渋谷区千駄ヶ谷5-17-14
    山手線代々木駅西口 徒歩5分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />新屋敷架道橋<br />銘板<br />鐵道省<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷5-17-14<br />山手線代々木駅西口 徒歩5分

    千駄ヶ谷-代々木間



    新屋敷架道橋
    銘板
    鐵道省

    東京都渋谷区千駄ヶ谷5-17-14
    山手線代々木駅西口 徒歩5分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />山手線(やまのてせん)跨線橋<br />全長13.41m<br />甲武鐵道時代は、<br />赤羽線交叉点上跨線橋<br />として設置。<br />但し、該当時は 品川(しながわ)線と呼称。<br />現在の路線名 山手(やまのて)線は、明治34年(1901年)制定。<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷4-31-3<br />山手線代々木駅西口 徒歩2分

    千駄ヶ谷-代々木間



    山手線(やまのてせん)跨線橋
    全長13.41m
    甲武鐵道時代は、
    赤羽線交叉点上跨線橋
    として設置。
    但し、該当時は 品川(しながわ)線と呼称。
    現在の路線名 山手(やまのて)線は、明治34年(1901年)制定。

    東京都渋谷区千駄ヶ谷4-31-3
    山手線代々木駅西口 徒歩2分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />山手線跨線橋<br />急行線側<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷4-31<br />山手線代々木駅西口 徒歩1分

    千駄ヶ谷-代々木間



    山手線跨線橋
    急行線側

    東京都渋谷区千駄ヶ谷4-31
    山手線代々木駅西口 徒歩1分

  • 千駄ヶ谷-代々木間<br /><br /><br /><br />厩道(うまやみち)踏切<br />昭和54年(1979年)12月に自動化されるまで、踏切警手職員の手に依り手動で遮断機を動作開閉していた。<br /><br />東京都渋谷区千駄ヶ谷4-31<br />山手線代々木駅西口 徒歩1分

    千駄ヶ谷-代々木間



    厩道(うまやみち)踏切
    昭和54年(1979年)12月に自動化されるまで、踏切警手職員の手に依り手動で遮断機を動作開閉していた。

    東京都渋谷区千駄ヶ谷4-31
    山手線代々木駅西口 徒歩1分

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治39年(1906年)9月23日開業である。<br />即ち、甲武鐵道飯田町-中野間は、明治37年(1904年)8月21日に直流600V電化され電車運転が開始された事から、利用者利便向上の為に開設されたが、該駅開設当時は、山手線は旅貨列車線路共用であり、且つ、山手線は地上走行だった事から、後に、山手線停車の際は該線旅客ホームは現在の原宿-代々木間厩道踏切付近に設置された。<br />大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災に依り、工事中の高架外壁に亀裂被害が発生した。<br />その後、新宿駅構内大改良工事進展と共に、山手線客貨運転分離複々線化工事に依り、大正13年(1924年)6月に現駅構内が竣功し、中央本線電車のみ現駅位置に移動した。<br />他方、山手線代々木-新宿間複々線化は、大正14年(1925年)4月2日附に竣工し、該日より山手線旅客線も現駅構内高架上に移動し現駅形態が完成。<br />都営地下鉄大江戸線開通に鑑み、該駅は平成12年(2000年)に大改造された。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1654

    代々木駅



    該駅は、明治39年(1906年)9月23日開業である。
    即ち、甲武鐵道飯田町-中野間は、明治37年(1904年)8月21日に直流600V電化され電車運転が開始された事から、利用者利便向上の為に開設されたが、該駅開設当時は、山手線は旅貨列車線路共用であり、且つ、山手線は地上走行だった事から、後に、山手線停車の際は該線旅客ホームは現在の原宿-代々木間厩道踏切付近に設置された。
    大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災に依り、工事中の高架外壁に亀裂被害が発生した。
    その後、新宿駅構内大改良工事進展と共に、山手線客貨運転分離複々線化工事に依り、大正13年(1924年)6月に現駅構内が竣功し、中央本線電車のみ現駅位置に移動した。
    他方、山手線代々木-新宿間複々線化は、大正14年(1925年)4月2日附に竣工し、該日より山手線旅客線も現駅構内高架上に移動し現駅形態が完成。
    都営地下鉄大江戸線開通に鑑み、該駅は平成12年(2000年)に大改造された。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1654

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />北口<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1654

    代々木駅



    北口
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1654

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />北口改札<br />該改札内通路は、大正14年(1925年)4月2日附で竣工した通路で、完成当時は、山手線外回 対 中央本線緩行上り線間連絡通路だった。<br />その後、都営交通地下鉄大江戸線開通に鑑み、該通路山手線側が開口され、平成12年(2000年)4月20日附で、該駅北口が開設された。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1654

    代々木駅



    北口改札
    該改札内通路は、大正14年(1925年)4月2日附で竣工した通路で、完成当時は、山手線外回 対 中央本線緩行上り線間連絡通路だった。
    その後、都営交通地下鉄大江戸線開通に鑑み、該通路山手線側が開口され、平成12年(2000年)4月20日附で、該駅北口が開設された。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1654

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />東口改札口<br />大正13年(1924年)12月4日まで、地上に存在した山手線旅客ホーム連絡通路として設置。

    代々木駅



    東口改札口
    大正13年(1924年)12月4日まで、地上に存在した山手線旅客ホーム連絡通路として設置。

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />東口<br />連絡通路<br />大正末期設置の為に急階段。

    代々木駅



    東口
    連絡通路
    大正末期設置の為に急階段。

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />東口<br />連絡通路<br />大正13年(1924年)12月4日まで、山手線原宿-新大久保間は客貨共用の複線で、該線旅客ホーム連絡用に設置された。

    代々木駅



    東口
    連絡通路
    大正13年(1924年)12月4日まで、山手線原宿-新大久保間は客貨共用の複線で、該線旅客ホーム連絡用に設置された。

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />東口<br />連絡通路

    代々木駅



    東口
    連絡通路

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />東口

    代々木駅



    東口

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />東口<br />屋根は大東亜戦争後追設置。

    代々木駅



    東口
    屋根は大東亜戦争後追設置。

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />東京方

    代々木駅



    駅構内
    東京方

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />古軌条架線柱

    代々木駅



    駅構内
    古軌条架線柱

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br /><br />駅構内<br />古軌条架線柱

    代々木駅




    駅構内
    古軌条架線柱

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />駅構内<br />第2番旅客ホーム<br />古軌条支柱

    代々木駅



    駅構内
    第2番旅客ホーム
    古軌条支柱

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br />駅構内<br />古軌条架線柱<br />軌条間空間は旧通信線跡。

    代々木駅


    駅構内
    古軌条架線柱
    軌条間空間は旧通信線跡。

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />山手線複線時代旅客ホーム跡<br />山手線は、明治38年(1906年)10月に、澁谷-新宿間が複線化された。<br />初代原宿駅は明治39年(1907年)10月30日に現在の宮廷ホーム付近に開業、初代代々木駅は明治42年(1909年)12月16日に写真中央に山手線用相対式ホームが設置された。<br />その後、該線複々線化が進行し、大正13年(1924年)12月5日附で、原宿-新大久保間複々線化が竣工し、該工事竣工と同時に、原宿は明治神宮参拝客利便の為に駅位置が現位置に移転し、代々木駅山手線旅客ホームは高架化され現位置に移動した。<br />因みに、山手線建設史に鑑み、一部史実に日付設定が省略例が散見されるが、此れは、大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災に依り、当時の鐵道省本省官房文書庫が全焼した事で、当該資料類も焼失烏有に帰し、日付特定が不可能になった事が原因である。

    代々木駅



    山手線複線時代旅客ホーム跡
    山手線は、明治38年(1906年)10月に、澁谷-新宿間が複線化された。
    初代原宿駅は明治39年(1907年)10月30日に現在の宮廷ホーム付近に開業、初代代々木駅は明治42年(1909年)12月16日に写真中央に山手線用相対式ホームが設置された。
    その後、該線複々線化が進行し、大正13年(1924年)12月5日附で、原宿-新大久保間複々線化が竣工し、該工事竣工と同時に、原宿は明治神宮参拝客利便の為に駅位置が現位置に移転し、代々木駅山手線旅客ホームは高架化され現位置に移動した。
    因みに、山手線建設史に鑑み、一部史実に日付設定が省略例が散見されるが、此れは、大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災に依り、当時の鐵道省本省官房文書庫が全焼した事で、当該資料類も焼失烏有に帰し、日付特定が不可能になった事が原因である。

    代々木駅

  • 代々木駅<br /><br /><br /><br />初代山手線旅客ホーム跡<br />明治39年(1907年)10月23日~大正13年(1924年)12月4日の17年間存在した。<br />写真右絵植込が初代山手線用旅客ホーム残滓。

    代々木駅



    初代山手線旅客ホーム跡
    明治39年(1907年)10月23日~大正13年(1924年)12月4日の17年間存在した。
    写真右絵植込が初代山手線用旅客ホーム残滓。

    代々木駅

  • 新宿(しんじゅく)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治18年(1885年)3月1日開業である。<br />初代駅本屋は、現在の駅本屋中心地付近に設置された。<br />即ち、該駅は、日本鐵道赤羽線(現 山手線)開通時所属駅として設置されたものであり、此れに対し、甲武鐵道に依る新宿-立川間27.2km開通は、明治22年(1889年)4月11日である。<br />それ故、該駅は、現在に至るも先行開業たる山手線所属駅であり、中央本線所属では無い。<br />該駅構内の狭隘さ、及び、構内配線不備は既に日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)に於ける軍事輸送時に露呈しており、軍部の要請も在り、該駅構内改良、及び、拡張が決定し、日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)勃発直前たる、明治37年(1904年)1月に着工し、更に、飯田町-新宿-中野間電車運転の為に、該駅西側敷地に新宿電車庫が設置され、途中、戦時中で作業員不足の不足を理由に工事中断も発生したが、明治39年(1906年)3月1日に竣工し、甲州街道陸橋東側付近に第2代駅本屋設置をはじめ、それ迄は、該駅旅客ホームは2本しか存在せず、列車本数激増から列車遅延原因の温床となっていた事から、利用者の利便も考慮し、取敢えず電車ホーム分散を決定し、翌2日より、山手線・中央線電車専用 甲州街道口、中央線電車専用 青梅街道口が開設され、此の為に、中央線電車は該駅構内にに於いて2度停車した。<br />現在の如く20m×10両編成=200mならば単独ホーム1本で良いが、当時の電車は15m×1、2両では、該状態では過剰設備となる事が火を見るより明らかだった。<br />大正4年(1915年)5月30日に京王電気軌道(現 京王電鉄)が新町-新宿追分町開通に依り、該駅甲州街道口前に該社線電停が設置された事で、該駅が郊外線連絡ターミナル乗換拠点の様相が明確になってきた。<br />他方、大正期に入り、増大する客貨に対応困難な状態と化し、それ故に抜本的大改良を要すると判定され、此れに基き第2次大改良計画が策定され、分離状態の電車旅客ホーム統合や、鉄骨鉄筋コンクリート剛建築駅本屋改築等々が決定され、第3代駅本屋設置工事は大正11年(1922年)に着工した。<br />大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災に依る被害で、該駅本屋は、鐵道省所属駅本屋施設で鉄骨鉄筋コンクリート剛建築として既に8割方完成していたが、該震災動が原因に拠り、鉄筋切断を初め、コンクリート基礎崩落、クラッチの発生等々で建築物として中破被害と判定され根本的大改修を余儀無くされる。<br />調査の結果、該駅本屋完全修復には1年以上をを要する大工事を要する事が判明し、鐵道省は、震災復旧工事を最優先事業と決定した為に、該駅、及び、該駅付近近代化工事は中断を余儀無くさせられたが、鉄骨鉄筋コンクリート駅本屋建築は、その間に予定より早く、大正12年(1923年)8月13日附で竣工した呉駅が第1号、広島駅が第2号で、それに続き、新宿駅本屋竣工は第3号の存在となった。<br />因みに、本来は耐久性に秀逸とされる鉄骨鉄筋コンクリート剛建築物たる新宿駅本屋だったが、竣工後35年後に改築を余儀無くされたのは、後に、昭和20年(1945年)5月25日未明の東京山の手大空襲に拠り、新宿駅構内施設は全滅に等しい被害を被ったが、該駅本屋も焼夷弾が天井を貫通し内部で爆発引火し全焼した経緯を有し、焼損建築として耐持久力低下が挙げられた。<br />震災に依る工事遅延も、大正13年(1924年)に該建設工事が再開され、長年の懸案事項だった電車旅客ホーム統合は、同年7月13日に統合されれ、現第8番旅客ホームが設置された。<br />更に、同年12月25日附で、甲州口(現 南口)が開設された。<br />建設中の第3代駅本屋は、震災復旧を前提に工事が遅延したが、大正14年(1925年)4月26日に落成式が催行され、同年5月1日より正式開業した。<br />同年4月23日に現5番中央線旅客列車ホームが新設されたが、旅客数増大に追い付かず、昭和8年(1933年)9月15日附で、現4番中央線上り電車ホームが追設される。<br />大東亜戦争末期、我が国は全国各地に於いて連合国軍より空爆撃を受け被害が拡大する結果となったが、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日未明の空襲に依り、駅本屋、旅客跨線橋、全旅客ホーム上屋、青梅口出改札駅舎、貨物取扱業務積卸場、等々、該駅構内諸施設に全焼被害が発生した。<br />戦争終結直後たる、昭和20年(1945年)9月2日附で、該駅本屋貴賓室が進駐軍鉄道輸送事務室RТО用として接収されたが、該駅本屋貴賓室も例外無く被災しており、当面は壁面に紙を張付け当場を切抜けた。<br />該駅本屋は復旧の目途も立たず、半ば廃墟状態だったが、昭和23年(1948年)2月10日附で、改札口、及び、小荷物取扱場が復旧したが、該駅本屋が本復旧を果たすのは、広間、天井、柱へのモルタル吹付が完了する昭和28年(1953年)11月10日である。<br />昭和36年(1961年)12月7日12時頃、当時存在した日通小荷物配達取扱所付近から出火し、折からの冬風に煽られ、甲州口(現 南口)出改札駅舎が全焼する火事が発生した。<br />該出改札口駅舎再建は、昭和38年(1963年)12月である。<br />第3代駅本屋は建築途上で関東大震災に遭遇し中破被害が発生修復されたが、大東亜戦争末期の空襲に依る焼夷弾攻撃で全焼被害が発生し、再修復されながら使用されたが、焼損建築でクラッチが入るなど築40年未満ながら深刻な状態となっていた。<br />地元資本も参加して民衆駅として改築が決定し、昭和36年(1961年)12月20日に起工式が挙行され、翌昭和37年(1962年)3月21日より解体工事が開始され、昭和38年(1963年)12月20日附で、駅部分が完成し、翌昭和39年(1964年)5月18日附で全国第36番目の現第4代駅本屋が竣工した。<br />此の間、同年7月7日附で、現3番旅客ホームが増設される。<br />該駅西口は淀橋浄水場移転に合せ、東京都、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現 京王電鉄)と共同で、昭和41年(1966年)11月30日に現在の立体広場が竣工した。<br />昭和48年(1973年)8月8日深更、該駅構内於いて貨物列車が停止信号を冒進し別貨物列車側面に衝突し、非衝突側貨車積載の米軍航空燃料に引火大爆発事故の為に、該駅構内相当内敷地が火の海状態となった。<br />事故発生と同時に、該駅職員141名、国鉄職員46名、地元住民36名、某高校山岳部員11名、計234名は、決死の覚悟で引火爆発の危険性が高いタンク車を切離し手押しで安全地帯へ退避させ2次災害を防止した。<br />但し、該事故が発端となり、該駅周辺は凶暴化したフーテン、及び、凶悪化した過激派学生に依る反米運動拠点となった事は誠に遺憾である。<br />該駅は東京都区内に所在するにも拘らず、遅くまで貨物取扱業務が行われていたが、昭和55年(1980年)10月1日附でコンテナ取扱業務、残る貨物取扱業務も昭和59年(1984年)2月1日附で全面廃止され、当該貨物取扱施設跡は、民営分割後は日本国有鉄道清算事業団を経て民間に払下げられた。<br />昭和61年(1986年)3月3日に、埼京線新宿延長に伴い、新ホームが追設され、更に、成田エクスプレス運転開始と同時に、ホームが追々設され現形態が完成し、概ね現形態が完成した。

    新宿(しんじゅく)駅



    該駅は、明治18年(1885年)3月1日開業である。
    初代駅本屋は、現在の駅本屋中心地付近に設置された。
    即ち、該駅は、日本鐵道赤羽線(現 山手線)開通時所属駅として設置されたものであり、此れに対し、甲武鐵道に依る新宿-立川間27.2km開通は、明治22年(1889年)4月11日である。
    それ故、該駅は、現在に至るも先行開業たる山手線所属駅であり、中央本線所属では無い。
    該駅構内の狭隘さ、及び、構内配線不備は既に日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)に於ける軍事輸送時に露呈しており、軍部の要請も在り、該駅構内改良、及び、拡張が決定し、日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)勃発直前たる、明治37年(1904年)1月に着工し、更に、飯田町-新宿-中野間電車運転の為に、該駅西側敷地に新宿電車庫が設置され、途中、戦時中で作業員不足の不足を理由に工事中断も発生したが、明治39年(1906年)3月1日に竣工し、甲州街道陸橋東側付近に第2代駅本屋設置をはじめ、それ迄は、該駅旅客ホームは2本しか存在せず、列車本数激増から列車遅延原因の温床となっていた事から、利用者の利便も考慮し、取敢えず電車ホーム分散を決定し、翌2日より、山手線・中央線電車専用 甲州街道口、中央線電車専用 青梅街道口が開設され、此の為に、中央線電車は該駅構内にに於いて2度停車した。
    現在の如く20m×10両編成=200mならば単独ホーム1本で良いが、当時の電車は15m×1、2両では、該状態では過剰設備となる事が火を見るより明らかだった。
    大正4年(1915年)5月30日に京王電気軌道(現 京王電鉄)が新町-新宿追分町開通に依り、該駅甲州街道口前に該社線電停が設置された事で、該駅が郊外線連絡ターミナル乗換拠点の様相が明確になってきた。
    他方、大正期に入り、増大する客貨に対応困難な状態と化し、それ故に抜本的大改良を要すると判定され、此れに基き第2次大改良計画が策定され、分離状態の電車旅客ホーム統合や、鉄骨鉄筋コンクリート剛建築駅本屋改築等々が決定され、第3代駅本屋設置工事は大正11年(1922年)に着工した。
    大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災に依る被害で、該駅本屋は、鐵道省所属駅本屋施設で鉄骨鉄筋コンクリート剛建築として既に8割方完成していたが、該震災動が原因に拠り、鉄筋切断を初め、コンクリート基礎崩落、クラッチの発生等々で建築物として中破被害と判定され根本的大改修を余儀無くされる。
    調査の結果、該駅本屋完全修復には1年以上をを要する大工事を要する事が判明し、鐵道省は、震災復旧工事を最優先事業と決定した為に、該駅、及び、該駅付近近代化工事は中断を余儀無くさせられたが、鉄骨鉄筋コンクリート駅本屋建築は、その間に予定より早く、大正12年(1923年)8月13日附で竣工した呉駅が第1号、広島駅が第2号で、それに続き、新宿駅本屋竣工は第3号の存在となった。
    因みに、本来は耐久性に秀逸とされる鉄骨鉄筋コンクリート剛建築物たる新宿駅本屋だったが、竣工後35年後に改築を余儀無くされたのは、後に、昭和20年(1945年)5月25日未明の東京山の手大空襲に拠り、新宿駅構内施設は全滅に等しい被害を被ったが、該駅本屋も焼夷弾が天井を貫通し内部で爆発引火し全焼した経緯を有し、焼損建築として耐持久力低下が挙げられた。
    震災に依る工事遅延も、大正13年(1924年)に該建設工事が再開され、長年の懸案事項だった電車旅客ホーム統合は、同年7月13日に統合されれ、現第8番旅客ホームが設置された。
    更に、同年12月25日附で、甲州口(現 南口)が開設された。
    建設中の第3代駅本屋は、震災復旧を前提に工事が遅延したが、大正14年(1925年)4月26日に落成式が催行され、同年5月1日より正式開業した。
    同年4月23日に現5番中央線旅客列車ホームが新設されたが、旅客数増大に追い付かず、昭和8年(1933年)9月15日附で、現4番中央線上り電車ホームが追設される。
    大東亜戦争末期、我が国は全国各地に於いて連合国軍より空爆撃を受け被害が拡大する結果となったが、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日未明の空襲に依り、駅本屋、旅客跨線橋、全旅客ホーム上屋、青梅口出改札駅舎、貨物取扱業務積卸場、等々、該駅構内諸施設に全焼被害が発生した。
    戦争終結直後たる、昭和20年(1945年)9月2日附で、該駅本屋貴賓室が進駐軍鉄道輸送事務室RТО用として接収されたが、該駅本屋貴賓室も例外無く被災しており、当面は壁面に紙を張付け当場を切抜けた。
    該駅本屋は復旧の目途も立たず、半ば廃墟状態だったが、昭和23年(1948年)2月10日附で、改札口、及び、小荷物取扱場が復旧したが、該駅本屋が本復旧を果たすのは、広間、天井、柱へのモルタル吹付が完了する昭和28年(1953年)11月10日である。
    昭和36年(1961年)12月7日12時頃、当時存在した日通小荷物配達取扱所付近から出火し、折からの冬風に煽られ、甲州口(現 南口)出改札駅舎が全焼する火事が発生した。
    該出改札口駅舎再建は、昭和38年(1963年)12月である。
    第3代駅本屋は建築途上で関東大震災に遭遇し中破被害が発生修復されたが、大東亜戦争末期の空襲に依る焼夷弾攻撃で全焼被害が発生し、再修復されながら使用されたが、焼損建築でクラッチが入るなど築40年未満ながら深刻な状態となっていた。
    地元資本も参加して民衆駅として改築が決定し、昭和36年(1961年)12月20日に起工式が挙行され、翌昭和37年(1962年)3月21日より解体工事が開始され、昭和38年(1963年)12月20日附で、駅部分が完成し、翌昭和39年(1964年)5月18日附で全国第36番目の現第4代駅本屋が竣工した。
    此の間、同年7月7日附で、現3番旅客ホームが増設される。
    該駅西口は淀橋浄水場移転に合せ、東京都、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現 京王電鉄)と共同で、昭和41年(1966年)11月30日に現在の立体広場が竣工した。
    昭和48年(1973年)8月8日深更、該駅構内於いて貨物列車が停止信号を冒進し別貨物列車側面に衝突し、非衝突側貨車積載の米軍航空燃料に引火大爆発事故の為に、該駅構内相当内敷地が火の海状態となった。
    事故発生と同時に、該駅職員141名、国鉄職員46名、地元住民36名、某高校山岳部員11名、計234名は、決死の覚悟で引火爆発の危険性が高いタンク車を切離し手押しで安全地帯へ退避させ2次災害を防止した。
    但し、該事故が発端となり、該駅周辺は凶暴化したフーテン、及び、凶悪化した過激派学生に依る反米運動拠点となった事は誠に遺憾である。
    該駅は東京都区内に所在するにも拘らず、遅くまで貨物取扱業務が行われていたが、昭和55年(1980年)10月1日附でコンテナ取扱業務、残る貨物取扱業務も昭和59年(1984年)2月1日附で全面廃止され、当該貨物取扱施設跡は、民営分割後は日本国有鉄道清算事業団を経て民間に払下げられた。
    昭和61年(1986年)3月3日に、埼京線新宿延長に伴い、新ホームが追設され、更に、成田エクスプレス運転開始と同時に、ホームが追々設され現形態が完成し、概ね現形態が完成した。

    新宿駅

  • 新宿駅<br /><br /><br /><br />南口

    新宿駅



    南口

    新宿駅

  • 新宿駅<br /><br /><br /><br />西口

    新宿駅



    西口

    新宿駅

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  • frau.himmelさん 2020/03/20 11:02:45
    中央線沿線の花見の名所、今年は寂しくなりますね
    横浜臨海公園さま、こんにちは。

    飯田橋から新宿までの中央線の旅、楽しませていただきました。
    馴染みのある場所ばかりですが、横浜臨海公園様の写真で改めて拝見させていただくと、大変新鮮に感じます。
    飯田橋駅のこと、当時は飯田町駅という駅名だったのですね。知りませんでした。

    大正天皇御大喪時の様子も大変興味深く拝見しました。
    横浜臨海公園さまの旅行記によく登場している海軍の米内光政や井上茂美、それに思いがけず高木惣吉少将の名前も出てきて驚きました。

    あの沿線には東京の桜の名所が何か所もありますが、今年の花見は寂しいものになるでしょうね。昨年は外人さんも大勢来日して日本の「ハナミ」を満喫していましたが、今年は入国規制や出国規制で外人さんの姿も少ないでしょうから。
    早く終息してほしいですね。

    himmel

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2020/07/09 17:56:02
    すっかり御無沙汰をしておりました
    frau.himmelさま、こんばんは。

    すっかりご無沙汰をしておりました。
    コロナコロナと、世間の新興宗教的超バカ騒ぎぶりにウンザリさせられ、小生の気休めのフォートラベルから遠ざかっておりました。

    今回の旅行記も構想から着手まで実に4年もかかってしまいました。
    兎に角、意外と資料類が見当たらず、突き詰めていくと関東大震災で類焼し烏有化したものが多く、穴を埋める作業がコンナに手間取るとは予想すらしておりませんでした。

    来年ですが、中央本線で都内に所在する数駅が115周年を迎える事から、小生の旅行記を参考にしたいとの照会が来ております。




    横浜臨海公園

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