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該区間は、明治22年(1889年)4月11日開業である。<br /><br />現在の中央本線新宿-八王子間鉄道建設設置原案は、明治17年(1884年)4月22日附で、武蔵野地域地元有力者たる、岩田作兵衛(いわた さくべい)(天保14年(1843年)1月25日~大正12年(1923年)9月8日)、井関盛良(いぜき もりよし)(安政4年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)、田村半十郎(たむら はんじゅうろう)(生没年不詳)等々発起人に依る甲武馬車鐵道會社設立が嚆矢である。<br /><br />即ち、内藤新宿-八王子間に短時間移動到達を可能とした甲州街道上を運行する乗合馬車営業は、明治5年(1872年)8月31日附出願の甲州街道馬車會社が発端だったが、開設当初から両者間移動が主目的であり、10月25日附で運行開始した該馬車は該区間を4時間を以って走破した。<br />他方、該区間が乗合馬車に依る時間短縮に刺激を受け、鐵道敷設を以って利便性向上を求める動きが出たのは自然の成行きだった。<br /><br />該社主要株主に、<br />雨宮敬次郎(あめみや けいじろう)<br />   (弘化3年(1846年)10月24日~明治44年(1911年)1月20日)3410株<br />久松定謨(ひさまつ さだこと)<br />   (慶應3年(1867年)10月6日~昭和18年(1943年)2月19日)2500株<br />安田善次郎(やすだ ぜんじろう)<br />   (天保9年(1839年)11月25日~大正10年(1921年)9月28日)1853株<br />伊達宗徳(だて むねのり)<br />   (文政13年(1830年)5月19日~明治39年(1905年)11月29日)833株<br />等々が名を連ねた。<br /><br />発起人達は鐵道會社運営経験は皆無だった事から、新設鉄道会社経営に就いて雨宮に相談した処、雨宮は 三浦泰輔(みうら たいすけ)(安政3年(1858年)2月3日~大正4年(1915年)3月1日)を推挙した事から、発起人一同は該提議を承諾し三浦は該社初代社長に就任する。<br />因みに、明治期日本外交史に於いて度々登場する 青木周蔵(あおき しゅうぞう)(天保15年(1844年)3月3日~大正3年(1914年)2月16日)は三浦の実兄である。<br />地道で学研肌の三浦に対し、明治期には稀な夫人がドイツ人と云う華やかな外交界に身を置く兄とは性格的にも全くソリが合わず実の兄弟ながら犬猿の仲だったと伝えられるが、該社納入品に青木の斡旋で独逸製品が導入されている事実から兄たる青木とは公私別感ながら何らかの接触が有ったものと推測される。<br /><br />該社は道路使用敷設の為に内務省に願書を提出し、新宿-和田堀ノ内-関前-砂川-福生-羽村間を第1期建設区間、別途支線として砂川-拝島-八王子間を第2期建設区間とする骨子だった。<br />当初計画では青梅街道路面上に軌条を敷設し馬力を以って営業するもので、該願書に対し、内務省は審議の上、該社に対し明治19年(1886年)11月10日附で建設免許状を交付した。<br /><br />然るに、翌明治20年(1887年)5月18日に私設鐵道建設條例が発布された。<br />該法解釈に対し、東京府は内閣鐵道局に対し 6月6日附を以って該社に対し交付された馬車鐵道免許状は該法第3條に基き仮免許状と見做すと解せりや と請訓し、此れに対し内閣鐵道局は7月1日附文書を以って該解釈同意たりと返答した。<br />然して、明治20年代ともなると都市間輸送に対し馬力では大量輸送応用困難と認識され、改めて動力を馬力から蒸気機関に変更し、且つ、路線敷設位置も道路上から専用敷地軌道敷設への変更が決議され企業名も 甲武(こうぶ)鐵道 に改名された。<br /><br />翌明治21年(1888年)1月17日附で、初代内閣鐵道局長 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)(明治18年(1885年)12月25日~明治22年(1889年)9月6日在任)に対し出願し、該出願は同月21日附を以って許容され、12月に 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永3年(1851年)6月24日~昭和2年(1927年)1月23日)が統理監督に就任し内閣鐵道局と共同で実地測量を実施した。<br />該区間測量に対し、原口は敢て土地収用で厄介な問題を発生させる可能性を有していた甲州街道沿を敢て選定せず、途中土地収容が容易な田圃雑木林連なる武蔵野台地上を選定し現行直線経路に決定し開設させた。<br /><br /><br />東京市は明治19年(1886年)のコレラ大流行を教訓に、該市内上水道設置、及び、浄水場建設を決定し、内務省技師 中島鋭治(なかじま えいじ)(安政5年(1858年)11月17日~大正14年(1925年)2月17日)を工事総監督に任命し、明治26年(1893年)10月22日附で豊多摩郡淀橋町 元舘林藩秋元家屋敷跡地に浄水場建設を開始、該工事は明治31年(1898年)に竣工したが、当時は蒸気動力ポンプ作動の為に要する石炭、且つ、濾過池、沈殿池に清浄砂運搬を必要とした事から明治26年(1893年)7月に新宿驛から該工事現場まで専用線が設置された。<br />新宿驛拡張計画から大久保驛開業後は大久保驛分岐該専用線付替が施工された。<br /><br /><br />明治23年(1890年)5月5日附で 大久保(おおくぼ)Ⅰ 驛が開設された。<br /><br /><br />日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)に於いて帝國陸軍は将兵物資輸送、及び、敵破壊工作に依る線路復旧工事等々、当時の鉄道工務部門の重要性を認識し、それ迄は工兵隊が行使していた該施工を独立部門とすべく明治29年(1896年)に鐵道大隊が創設され中野に本拠が開庁し、翌明治30年(1897年)6月17日附で中野驛より該大隊に至る専用線が設置された。<br />鉄道大隊は義和団(ぎわだん)ノ乱(明治33年(1900年)6月20日~9月7日)、日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月6日~明治38年(1905年)9月5日)に於ける敵破壊復旧工事施工で効果を発揮した。<br />陸軍省は鉄道聯隊格上を決定し、同時に敷地狭隘の為に実習不便だった中野から千葉県津田沼に本拠移駐が決定され、明治40年(1907年)9月に移転開始し翌明治41年(1908年)10月に移駐完了した。<br /><br /><br />該区間は、明治37年(1904年)8月21日附で直流600V電化され電車が運転された。<br />該社は電車運転の為に柏木(現 大久保)に自社火力発電所を設置し、交流3300Vを発電すると共に市ヶ谷に交流3300Vを送電、該変電所で直流600Vに降圧変換送電し、明治37年(1904年)8月21日より飯田町-中野間で電車運転を開始し同時に円盤式自動信号機が採用されたが、従来の蒸気機関車牽引列車時代は毎時1~2本運転だったものが、電車運転開始と共に5~10分間隔運転となる。<br /><br /><br />該区間複線化は、<br /> 新宿-大久保Ⅰ間   明治39年(1906年) 6月 4日<br /> 大久保Ⅰ-中野間   明治39年(1906年) 9月<br />である。<br />大久保Ⅰ-中野Ⅰ間に6月14日附で 柏木(かしわぎ)(現 東中野)驛 が開設された。<br />甲武鐵道は10月1日附で国有化されたが政府は該時資産を以って買収価格とするとの方針から、買収価格吊上を狙った泥縄的設置と見做れる。<br /><br /><br />田山花袋(たやま かたい)(明治5年(1872年)1月22日~昭和5年(1930年)5月13日)は群馬縣舘林町(現 館林市)出身で自然主義派に属する作家として知られ、該生涯に於いて武蔵野の自然をこよなく愛した人物だったが、明治19年(1886年)7月より東京市牛込區市ヶ谷富久町、明治22年(1889年)より大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災に依り自宅が全焼するまで該區牛込納戸町に居住した。<br />大久保は該区間開業当初は東京市外の武蔵野の面影を色濃く残し、田園調布、成城学園成立以前に於いて東京市郊外静檗な住宅地として東京市民に認識された存在だったが、大正9年(1920年)5月公刊書に於いて、<br />私はこの都会と野との接触点を選んで歩いて見たことがあった。私は私の家を出て、新町の通を歩いて、それから淀橋に出て、引きかえして、汽車で大久保に行った。大久保はすっかり俗化していた。<br />と記述しているが、然し、大正中期の大久保をして俗化した存在と言うなら、花袋は現在の平成令和の奇怪不逞外国人横行の大久保の街の姿を見たら何と感想を漏らすであろうかを知りたいものである。<br /><br /><br />大正6年(1917年)1月1日附で柏木驛は 東中野(ひがしなかの)驛 に驛名改称された。<br /><br /><br />該区間に於ける関東大震災発生に依る被害は、<br /> 大久保Ⅰ驛<br />  旅客乗降場擁壁76.0m傾斜<br /> 大久保Ⅰ-東中野Ⅰ間<br />  石垣土留崩壊<br />  神田上水橋梁付近沈下<br /> 東中野Ⅰ驛<br />  乗降場路面沈降<br /> 東中野Ⅰ-中野Ⅰ間<br />  道床沈降<br /> 中野電車庫<br />   デハ6285(大正5年(1916年)汽車會社製造東京支店製造)<br />   デハ6328(大正7年(1918年)日本車輌製造本店製造)<br />   リフティングジャッキ墜落<br />が発生した。<br /><br /><br />該区間は長らく直流600Vだったが、東京-阿佐ヶ谷間は大正15年(1926年)4月1日附で直流1200Vに昇圧された。<br />該区間使用車輌にデハ63000型電車が導入されたが、当該車輌は1500V仕様の為に出力低下状態で使用し、当時の車輌には電動発電機未設置車輌が多数存在した状態で、更に電気補助回路が直列式構成だった事から冬期電気暖房が使用出来なかった。<br />電車に於ける電気暖房設置は、直流1500V昇圧化と並行し電動車に対する電動発電機装備に依る高圧補助回路分離に依り制御回路100V独立後である。<br /><br /><br />該区間複々線化は、大正13年(1924年)7月16日附で新宿-大久保Ⅰ間に淀橋信号取扱所を設置し代々木-新宿-大久保Ⅰ間電列車分離を実施した上で複々線化工事を開始し、現在の緩行線相当部分が昭和3年(1928年)5月10日附で高架化され、同時に、大久保、及び、東中野両驛は現在位置に移転し、旧線路跡に高架式急行線建設が施工され、該工事は昭和4年(1929年)11月1日附で竣工したが、該複々線化竣工時に中野驛は東京方0.1Km地点に移転した。<br />該区間高架化に依り淀橋浄水場連絡専用線は大久保驛に於ける接続喪失後は線路敷が残存したが、昭和9年(1934年)に東京市に払下られ1月10日より3月31日にかけて軌条撤去、及び、道路化を施工した。<br /><br /><br />該区間は直流1200Vだったが、東京-立川間は昭和4年(1929年)6月30日附で直流1500Vに再昇圧された。<br /><br /><br />米ニューヨーク・ウォール街に端を発した昭和初期に於ける世界的恐慌下、鐵道省も亦例外的存在では無く客貨輸送減少に伴う減収が深刻な状況から不況増収対策に迫られる事になった。<br />他方、当時はハイキング熱が盛んである事に着目し、該客輸送の為に昭和9年(1934年)4月より臨時電車運転が実施された。<br />即ち、目的地として、新宿発、淺川(現 高尾)、興瀬(現 相模湖)、及び、青梅電気鐵道(現 青梅線)青梅各驛を設定し、往復割引乗車券大人1円で発売し各目的地行臨時電車が運転された。<br />4月27日 <br />←東京方<br />新宿-興瀬(現 相模湖)間運転<br /> 8時30分発<br />モハ42001 + モハ42011 + モハ42002 + モハ43004 + モハ43006 + モハ43013<br />新宿-淺川(現 高尾)間運転<br /> 9時30分発<br />モハ42004 + モハ43003 + モハ43010 + モハ43012 + モハ42003<br />使用車輌は既存 田町電車庫配置予備車輌を使用したが、不足分に就いては東海道本線吹田-神戸-須磨間電化用に準備された42系電車を東京鐵道局三鷹電車庫配置として先行使用した。<br />即ち、当時の鐵道省所属車輌は民間会社製造分に対し、車輌製造工程は車体、及び、官給品使用たる台車制動機器関係に限定され、電気関係部分は全部直営工場に於いて施工の為に、客車と言えども照明等々取付設置工事は直営工場で行っており、電車の場合は電動機制御器関係も含め、大井、吹田両工場でのみ装備施工が出来ず、それ故、関西地域鐵道車輌製造会社に於いて製造されたにも拘らず、東海道本線御殿場経由で東京大井工場まで回送し電装した事から、足慣らしをも兼ね中央本線で高速運転を実施したが、当時は立川以西区間は単線で更に淺川(現 高尾)-輿瀬(現 相模湖)間は名古屋鐵道局管轄だった事から運転には困難を伴った。<br />当該車輌内 モハ42000 は クモハ42000 として現存する。<br /><br /><br />大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は、<br />昭和20年(1945年)<br />     5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機<br />     22時02分 警戒警報発令<br />     22時22分 空襲警報発令<br />     22時30分 空襲開始<br />      1時00分 空襲警報解除<br />      1時30分 警戒警報解除<br />大久保驛<br /> 驛本屋 旅客ホーム上屋 全焼<br />東中野驛<br /> 驛本屋 全焼<br />大久保驛構内被災車輌<br />  モハ 30116(東ミツ)B<br />  モハ 41071(東ミツ)A<br />  モハ 50005(東ミツ)A<br />  モハ 50030(東ミツ)A<br />  クハ 65074(東ミツ)A<br />大久保-東中野間被災車輌<br />  サハ 19055(東カノ)A<br />  サハ 25148(東カノ)A<br />  モハ 30165(東カノ)A<br />  モハ 30201(東カノ)A<br />  モハ 31075(東カノ)A<br />  モハ 31077(東カノ)A<br />  モハ 31080(東カノ)A<br />  モハ 34019(東カノ)A<br />  サハ 39020(東カノ)A<br />  クハ 55048(東カノ)A<br />  モハ 60047(東カノ)A<br />  クハ 65003(東カノ)A<br />  クハ 65048(東カノ)A<br />  クハ 65189(東カノ)B<br />  クハ 65220(東カノ)A<br />  サハ 75015(東カノ)A<br /> 以上、<br />    A昭和21年(1946年)11月28日附戦災廃車。<br />    B昭和22年(1947年) 1月23日附戦災廃車。<br /><br /><br />該線内に於けるRTO設置駅は、<br /> 新宿駅<br />  昭和20年(1945年) 9月18日~昭和27年(1952年) 3月31日  <br />である。<br /><br /><br />昭和21年(1946年)6月4日8時24分頃、大久保-東中野間に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、上り国立発東京行急行第800B列車は、該区間走行中に突然4号車中央木製客用扉が突然脱落し超満員状態だった車内から旅客数名が神田川河中に転落した。<br />該事故に依り、神田川小滝橋付近に於いて旅客3名水死体を発見。<br />事故当時は側扉が存在するなどマシな方で、馬栓棒車輌が東京地域だけで62両も存在する状態だった。<br /><br /><br />該区間に於ける優等列車命名例は、昭和26年(1951年)3月9日附で、新宿-長野(松本-長野間普通列車)間運転 準急第407第408列車に対し アルプス と命名されたものが嚆矢である。<br /><br />該区間に於ける急行列車運転開始は、昭和35年(1960年)4月25日より、新宿-松本間に準急用気動車キハ55型を使用した 第1アルプス、及び、第2アルプス 2往復が嚆矢である。<br />それ迄、該区間は準急列車で概ね5時間40分を要していたものが、該列車は4時間25分で運転された。<br />因みに、該列車運転当時は、浅川(現 高尾)-塩尻-松本間全線が単線で、且つ、殆どの区間が通票閉塞式だった事から該運転時間は画期的だった。<br />該車輌導入に対し、当時、長野県、山梨県、及び、東京都新宿区に対し、車輌製造費半額たる2億円を利用積引受で導入可能となった。<br /><br />該区間に於ける電車使用優等列車は、昭和38年(1963年)4月28日よりゴールデンウィーク期間中 新宿-甲府間運転の 準急かいじ号に直流急行用165系電車使用が嚆矢である。<br />該当時、該線運用電車に抑速制動機設置車輌は存在せず、特に、八王子-猿橋間、及び、大月-石和(現 石和温泉)間に混在する25~33/1000‰急勾配降坂時に、該機器搭載の該車輌は空気制動機単独扱と異なり主幹制御器操作に依り簡単に抑速制動取扱が可能になった事から運転側から歓迎された。<br /><br />該線に於ける特別急行列車は、昭和41年(1966年)10月1日附時刻改正時に運転開始予定だったが、初狩-初鹿野(現 甲斐大和)間複線化工事遅延に依り12月12日附運転開始の 第1あずさ号、及び、第2あずさ号2往復を嚆矢とする。<br />新宿-松本間を3時間57分運転で必ずしも高速では無かったが、全車指定席で短時間運転ながら食堂車も連結しており、正に特権階級専用列車の感を有していた。<br /><br /><br />現在の特別快速電車は、昭和42年(1967年)7月3日附時刻改正時より運転開始されたものである。<br />即ち、該線新宿-八王子間平行私鉄線たる京王帝都電鉄(現 京王電鉄)本線に於いて特急電車運転開始に鑑み、此れに対抗すべく設定されたものである。<br />然し、該社特急用5000系電車全車両に通勤通学専用電車として当時としては珍しい冷房が昭和43年(1968年)迄に設置完了し、且つ、新宿-八王子間運賃は該社線が廉価で夏場は冷房稼動で快適だったのに対し、特別快速使用の101系電車は全車非冷房で運賃が高額だった為に、特別快速設定に対し些か狸の泥舟感が在った事は否定し得ない事実である。<br />該線通勤通学用車輌に冷房車登場は昭和47年(1972年)7月で、101系冷房改造車、及び、103系電車新製で対抗したが、103系電車は新車と云う事で利用者からは歓迎されたが、該車輌は、本来、駅間短区間たる山手線運転用に開発された車輌であり、MT比8両運転編成とする事で経済的運転効果を発揮する為に車輌特性も高加速高減速を特長とする事から、該線の如き駅間が長く、更に、特別快速の如き途中無停車区間が長線区での使用は設計者として想定外であり、事実、該線に於いて103系電車運転経験者回顧では、時速60km前後までの加速は良好だが、該速度を越えた状態では主電動機音は強烈となり、速度維持の為に主幹制御器をフルノッチ状態でも加速が鈍り、最高速度は下り勾配区間でも無い限り90kmが限度で、それ故に列車遅延時に於ける時刻回復は困難であり、更に、時速90km付近から制動動作させても該動作は鈍化し、時速70km以下に於いて制動効果を発揮する事から、運転士側から見た該車輌は殆どの路線での使用は忌避されていたと云うのが実相だった。<br /><br /><br />大久保Ⅱ-東中野Ⅱ間下り緩行線は左緩曲線部が存在する為に運転席から死角となり易く大東亜戦争後に3回の重大事故が発生した。<br /><br />昭和39年(1964年)1月14日18時30分頃、津田沼発中野行第821C列車8両編成は東中野駅場内信号機が停止現時にも拘らず冒進し、先行千葉発中野行第819C列車に追突した。<br />該事故に依り、クハ16465(千ツヌ) クハ16478(千ツヌ) クモハ73130(千ツヌ)が大破し車輌損傷が著しい事から復旧を断念し、昭和40年(1965年)3月31日附廃車決済に拠り解体。<br /><br />昭和55年(1980年)10月17日9時25分頃、東中野駅構内に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、千葉発三鷹行普通第841B列車101系電車10両編成は東中野駅停車中だったが、後続津田沼発中野行普通第707C列車101系電車10両編成が停止信号を冒進し先行普通第841B列車に追突した。<br />該事故に依り、旅客計11名が重軽傷。<br />事故原因は、第707C列車運転士は保安装置ATS-B型が作動した為に確認釦を押釦したが、その後漫然と運転継続した為に追突に至ったもので、第707C列車運転士は警視庁に依り列車往来危険罪に拠り現行犯逮捕された。<br /><br />昭和63年(1988年)12月5日9時31分頃、東中野駅構内に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、東中野駅停車中の津田沼発中野行普通第805C列車103系電車10両編成は該駅出発直後に、後続 千葉発中野行普通第835B列車201系電車10両編成が停止信号を冒進し先行普通第805C列車に追突した。<br />該事故に依り、乗客1名 運転士1名即死 乗客116名重軽傷。<br /><br /><br />中野駅北方地区は大東亜戦争以前は帝國陸軍が所管し鐵道大隊移転後は憲兵學校分校が設置され特殊任務従事者養成を行っていたが、戦後は警察庁警察学校警察大学校所在地となり警部補以上の幹部養成を行っていた。<br />然るに、該学校施設老朽化を理由に郊外に移転し拡大な跡地利用に利用に関し検討した結果、再開発地として平成21年(2012年)に中野四季の森公園創設が決定した。<br />該決定に基き、中野駅大改良が始動し該竣工は令和8年(2026年)12月に完成予定である。<br /><br /><br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />大正10年(1921年)建築 鉄骨コンクリート造 中野電車区庫<br /><br /><br /><br /><br /><br /><br /><br />中央本線歴史的痕跡探訪記<br />~東京-飯田橋間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11227787<br />~飯田町-飯田橋-新宿間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11228675<br />~新宿-中野間編 大正浪漫~<br /><br />~中野-三鷹間編 大正浪漫~<br /><br />~三鷹-立川間編 大正浪漫~<br /><br />~立川-八王子間編 明治頌歌~<br /><br />~八王子-上野原間編 明治頌歌~<br /><br />~上野原-大月間編 明治頌歌~<br /><br />~大月-笹子間編 明治頌歌~<br /><br />~笹子-塩山間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11303788<br />~塩山-甲府間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11488165<br />~甲府-韮崎間編 明治頌歌~<br />https://4travel.jp/travelogue/11495714<br />~韮崎-小淵澤間編 明治頌歌~<br /><br />~小淵澤-茅野間編 明治頌歌~<br /><br />~茅野-岡谷間編 明治頌歌~<br /><br />~岡谷-辰野間編 明治頌歌~<br /><br />~辰野-塩尻間編 明治頌歌~

中央本線歴史的痕跡探訪記 ~新宿-中野間編 大正浪漫~

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2022/03/03 - 2022/03/03

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

該区間は、明治22年(1889年)4月11日開業である。

現在の中央本線新宿-八王子間鉄道建設設置原案は、明治17年(1884年)4月22日附で、武蔵野地域地元有力者たる、岩田作兵衛(いわた さくべい)(天保14年(1843年)1月25日~大正12年(1923年)9月8日)、井関盛良(いぜき もりよし)(安政4年(1857年)7月22日~昭和6年(1931年)10月30日)、田村半十郎(たむら はんじゅうろう)(生没年不詳)等々発起人に依る甲武馬車鐵道會社設立が嚆矢である。

即ち、内藤新宿-八王子間に短時間移動到達を可能とした甲州街道上を運行する乗合馬車営業は、明治5年(1872年)8月31日附出願の甲州街道馬車會社が発端だったが、開設当初から両者間移動が主目的であり、10月25日附で運行開始した該馬車は該区間を4時間を以って走破した。
他方、該区間が乗合馬車に依る時間短縮に刺激を受け、鐵道敷設を以って利便性向上を求める動きが出たのは自然の成行きだった。

該社主要株主に、
雨宮敬次郎(あめみや けいじろう)
   (弘化3年(1846年)10月24日~明治44年(1911年)1月20日)3410株
久松定謨(ひさまつ さだこと)
   (慶應3年(1867年)10月6日~昭和18年(1943年)2月19日)2500株
安田善次郎(やすだ ぜんじろう)
   (天保9年(1839年)11月25日~大正10年(1921年)9月28日)1853株
伊達宗徳(だて むねのり)
   (文政13年(1830年)5月19日~明治39年(1905年)11月29日)833株
等々が名を連ねた。

発起人達は鐵道會社運営経験は皆無だった事から、新設鉄道会社経営に就いて雨宮に相談した処、雨宮は 三浦泰輔(みうら たいすけ)(安政3年(1858年)2月3日~大正4年(1915年)3月1日)を推挙した事から、発起人一同は該提議を承諾し三浦は該社初代社長に就任する。
因みに、明治期日本外交史に於いて度々登場する 青木周蔵(あおき しゅうぞう)(天保15年(1844年)3月3日~大正3年(1914年)2月16日)は三浦の実兄である。
地道で学研肌の三浦に対し、明治期には稀な夫人がドイツ人と云う華やかな外交界に身を置く兄とは性格的にも全くソリが合わず実の兄弟ながら犬猿の仲だったと伝えられるが、該社納入品に青木の斡旋で独逸製品が導入されている事実から兄たる青木とは公私別感ながら何らかの接触が有ったものと推測される。

該社は道路使用敷設の為に内務省に願書を提出し、新宿-和田堀ノ内-関前-砂川-福生-羽村間を第1期建設区間、別途支線として砂川-拝島-八王子間を第2期建設区間とする骨子だった。
当初計画では青梅街道路面上に軌条を敷設し馬力を以って営業するもので、該願書に対し、内務省は審議の上、該社に対し明治19年(1886年)11月10日附で建設免許状を交付した。

然るに、翌明治20年(1887年)5月18日に私設鐵道建設條例が発布された。
該法解釈に対し、東京府は内閣鐵道局に対し 6月6日附を以って該社に対し交付された馬車鐵道免許状は該法第3條に基き仮免許状と見做すと解せりや と請訓し、此れに対し内閣鐵道局は7月1日附文書を以って該解釈同意たりと返答した。
然して、明治20年代ともなると都市間輸送に対し馬力では大量輸送応用困難と認識され、改めて動力を馬力から蒸気機関に変更し、且つ、路線敷設位置も道路上から専用敷地軌道敷設への変更が決議され企業名も 甲武(こうぶ)鐵道 に改名された。

翌明治21年(1888年)1月17日附で、初代内閣鐵道局長 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)(明治18年(1885年)12月25日~明治22年(1889年)9月6日在任)に対し出願し、該出願は同月21日附を以って許容され、12月に 原口 要(はらぐち かなめ)(嘉永3年(1851年)6月24日~昭和2年(1927年)1月23日)が統理監督に就任し内閣鐵道局と共同で実地測量を実施した。
該区間測量に対し、原口は敢て土地収用で厄介な問題を発生させる可能性を有していた甲州街道沿を敢て選定せず、途中土地収容が容易な田圃雑木林連なる武蔵野台地上を選定し現行直線経路に決定し開設させた。


東京市は明治19年(1886年)のコレラ大流行を教訓に、該市内上水道設置、及び、浄水場建設を決定し、内務省技師 中島鋭治(なかじま えいじ)(安政5年(1858年)11月17日~大正14年(1925年)2月17日)を工事総監督に任命し、明治26年(1893年)10月22日附で豊多摩郡淀橋町 元舘林藩秋元家屋敷跡地に浄水場建設を開始、該工事は明治31年(1898年)に竣工したが、当時は蒸気動力ポンプ作動の為に要する石炭、且つ、濾過池、沈殿池に清浄砂運搬を必要とした事から明治26年(1893年)7月に新宿驛から該工事現場まで専用線が設置された。
新宿驛拡張計画から大久保驛開業後は大久保驛分岐該専用線付替が施工された。


明治23年(1890年)5月5日附で 大久保(おおくぼ)Ⅰ 驛が開設された。


日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)に於いて帝國陸軍は将兵物資輸送、及び、敵破壊工作に依る線路復旧工事等々、当時の鉄道工務部門の重要性を認識し、それ迄は工兵隊が行使していた該施工を独立部門とすべく明治29年(1896年)に鐵道大隊が創設され中野に本拠が開庁し、翌明治30年(1897年)6月17日附で中野驛より該大隊に至る専用線が設置された。
鉄道大隊は義和団(ぎわだん)ノ乱(明治33年(1900年)6月20日~9月7日)、日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月6日~明治38年(1905年)9月5日)に於ける敵破壊復旧工事施工で効果を発揮した。
陸軍省は鉄道聯隊格上を決定し、同時に敷地狭隘の為に実習不便だった中野から千葉県津田沼に本拠移駐が決定され、明治40年(1907年)9月に移転開始し翌明治41年(1908年)10月に移駐完了した。


該区間は、明治37年(1904年)8月21日附で直流600V電化され電車が運転された。
該社は電車運転の為に柏木(現 大久保)に自社火力発電所を設置し、交流3300Vを発電すると共に市ヶ谷に交流3300Vを送電、該変電所で直流600Vに降圧変換送電し、明治37年(1904年)8月21日より飯田町-中野間で電車運転を開始し同時に円盤式自動信号機が採用されたが、従来の蒸気機関車牽引列車時代は毎時1~2本運転だったものが、電車運転開始と共に5~10分間隔運転となる。


該区間複線化は、
 新宿-大久保Ⅰ間   明治39年(1906年) 6月 4日
 大久保Ⅰ-中野間   明治39年(1906年) 9月
である。
大久保Ⅰ-中野Ⅰ間に6月14日附で 柏木(かしわぎ)(現 東中野)驛 が開設された。
甲武鐵道は10月1日附で国有化されたが政府は該時資産を以って買収価格とするとの方針から、買収価格吊上を狙った泥縄的設置と見做れる。


田山花袋(たやま かたい)(明治5年(1872年)1月22日~昭和5年(1930年)5月13日)は群馬縣舘林町(現 館林市)出身で自然主義派に属する作家として知られ、該生涯に於いて武蔵野の自然をこよなく愛した人物だったが、明治19年(1886年)7月より東京市牛込區市ヶ谷富久町、明治22年(1889年)より大正12年(1923年)9月1日発生の関東大震災に依り自宅が全焼するまで該區牛込納戸町に居住した。
大久保は該区間開業当初は東京市外の武蔵野の面影を色濃く残し、田園調布、成城学園成立以前に於いて東京市郊外静檗な住宅地として東京市民に認識された存在だったが、大正9年(1920年)5月公刊書に於いて、
私はこの都会と野との接触点を選んで歩いて見たことがあった。私は私の家を出て、新町の通を歩いて、それから淀橋に出て、引きかえして、汽車で大久保に行った。大久保はすっかり俗化していた。
と記述しているが、然し、大正中期の大久保をして俗化した存在と言うなら、花袋は現在の平成令和の奇怪不逞外国人横行の大久保の街の姿を見たら何と感想を漏らすであろうかを知りたいものである。


大正6年(1917年)1月1日附で柏木驛は 東中野(ひがしなかの)驛 に驛名改称された。


該区間に於ける関東大震災発生に依る被害は、
 大久保Ⅰ驛
  旅客乗降場擁壁76.0m傾斜
 大久保Ⅰ-東中野Ⅰ間
  石垣土留崩壊
  神田上水橋梁付近沈下
 東中野Ⅰ驛
  乗降場路面沈降
 東中野Ⅰ-中野Ⅰ間
  道床沈降
 中野電車庫
   デハ6285(大正5年(1916年)汽車會社製造東京支店製造)
   デハ6328(大正7年(1918年)日本車輌製造本店製造)
   リフティングジャッキ墜落
が発生した。


該区間は長らく直流600Vだったが、東京-阿佐ヶ谷間は大正15年(1926年)4月1日附で直流1200Vに昇圧された。
該区間使用車輌にデハ63000型電車が導入されたが、当該車輌は1500V仕様の為に出力低下状態で使用し、当時の車輌には電動発電機未設置車輌が多数存在した状態で、更に電気補助回路が直列式構成だった事から冬期電気暖房が使用出来なかった。
電車に於ける電気暖房設置は、直流1500V昇圧化と並行し電動車に対する電動発電機装備に依る高圧補助回路分離に依り制御回路100V独立後である。


該区間複々線化は、大正13年(1924年)7月16日附で新宿-大久保Ⅰ間に淀橋信号取扱所を設置し代々木-新宿-大久保Ⅰ間電列車分離を実施した上で複々線化工事を開始し、現在の緩行線相当部分が昭和3年(1928年)5月10日附で高架化され、同時に、大久保、及び、東中野両驛は現在位置に移転し、旧線路跡に高架式急行線建設が施工され、該工事は昭和4年(1929年)11月1日附で竣工したが、該複々線化竣工時に中野驛は東京方0.1Km地点に移転した。
該区間高架化に依り淀橋浄水場連絡専用線は大久保驛に於ける接続喪失後は線路敷が残存したが、昭和9年(1934年)に東京市に払下られ1月10日より3月31日にかけて軌条撤去、及び、道路化を施工した。


該区間は直流1200Vだったが、東京-立川間は昭和4年(1929年)6月30日附で直流1500Vに再昇圧された。


米ニューヨーク・ウォール街に端を発した昭和初期に於ける世界的恐慌下、鐵道省も亦例外的存在では無く客貨輸送減少に伴う減収が深刻な状況から不況増収対策に迫られる事になった。
他方、当時はハイキング熱が盛んである事に着目し、該客輸送の為に昭和9年(1934年)4月より臨時電車運転が実施された。
即ち、目的地として、新宿発、淺川(現 高尾)、興瀬(現 相模湖)、及び、青梅電気鐵道(現 青梅線)青梅各驛を設定し、往復割引乗車券大人1円で発売し各目的地行臨時電車が運転された。
4月27日
←東京方
新宿-興瀬(現 相模湖)間運転
8時30分発
モハ42001 + モハ42011 + モハ42002 + モハ43004 + モハ43006 + モハ43013
新宿-淺川(現 高尾)間運転
9時30分発
モハ42004 + モハ43003 + モハ43010 + モハ43012 + モハ42003
使用車輌は既存 田町電車庫配置予備車輌を使用したが、不足分に就いては東海道本線吹田-神戸-須磨間電化用に準備された42系電車を東京鐵道局三鷹電車庫配置として先行使用した。
即ち、当時の鐵道省所属車輌は民間会社製造分に対し、車輌製造工程は車体、及び、官給品使用たる台車制動機器関係に限定され、電気関係部分は全部直営工場に於いて施工の為に、客車と言えども照明等々取付設置工事は直営工場で行っており、電車の場合は電動機制御器関係も含め、大井、吹田両工場でのみ装備施工が出来ず、それ故、関西地域鐵道車輌製造会社に於いて製造されたにも拘らず、東海道本線御殿場経由で東京大井工場まで回送し電装した事から、足慣らしをも兼ね中央本線で高速運転を実施したが、当時は立川以西区間は単線で更に淺川(現 高尾)-輿瀬(現 相模湖)間は名古屋鐵道局管轄だった事から運転には困難を伴った。
当該車輌内 モハ42000 は クモハ42000 として現存する。


大東亜戦争中に於ける該区間内空襲被害は、
昭和20年(1945年)
    5月25日 第21爆撃機軍団 第58航空隊 第73航空隊 第313航空隊 第314航空隊 B29戦略爆撃機計464機
     22時02分 警戒警報発令
     22時22分 空襲警報発令
     22時30分 空襲開始
      1時00分 空襲警報解除
      1時30分 警戒警報解除
大久保驛
 驛本屋 旅客ホーム上屋 全焼
東中野驛
 驛本屋 全焼
大久保驛構内被災車輌
  モハ 30116(東ミツ)B
  モハ 41071(東ミツ)A
  モハ 50005(東ミツ)A
  モハ 50030(東ミツ)A
  クハ 65074(東ミツ)A
大久保-東中野間被災車輌
  サハ 19055(東カノ)A
  サハ 25148(東カノ)A
  モハ 30165(東カノ)A
  モハ 30201(東カノ)A
  モハ 31075(東カノ)A
  モハ 31077(東カノ)A
  モハ 31080(東カノ)A
  モハ 34019(東カノ)A
  サハ 39020(東カノ)A
  クハ 55048(東カノ)A
  モハ 60047(東カノ)A
  クハ 65003(東カノ)A
  クハ 65048(東カノ)A
  クハ 65189(東カノ)B
  クハ 65220(東カノ)A
  サハ 75015(東カノ)A
 以上、
   A昭和21年(1946年)11月28日附戦災廃車。
   B昭和22年(1947年) 1月23日附戦災廃車。


該線内に於けるRTO設置駅は、
 新宿駅
  昭和20年(1945年) 9月18日~昭和27年(1952年) 3月31日  
である。


昭和21年(1946年)6月4日8時24分頃、大久保-東中野間に於いて重大事故が発生した。
即ち、上り国立発東京行急行第800B列車は、該区間走行中に突然4号車中央木製客用扉が突然脱落し超満員状態だった車内から旅客数名が神田川河中に転落した。
該事故に依り、神田川小滝橋付近に於いて旅客3名水死体を発見。
事故当時は側扉が存在するなどマシな方で、馬栓棒車輌が東京地域だけで62両も存在する状態だった。


該区間に於ける優等列車命名例は、昭和26年(1951年)3月9日附で、新宿-長野(松本-長野間普通列車)間運転 準急第407第408列車に対し アルプス と命名されたものが嚆矢である。

該区間に於ける急行列車運転開始は、昭和35年(1960年)4月25日より、新宿-松本間に準急用気動車キハ55型を使用した 第1アルプス、及び、第2アルプス 2往復が嚆矢である。
それ迄、該区間は準急列車で概ね5時間40分を要していたものが、該列車は4時間25分で運転された。
因みに、該列車運転当時は、浅川(現 高尾)-塩尻-松本間全線が単線で、且つ、殆どの区間が通票閉塞式だった事から該運転時間は画期的だった。
該車輌導入に対し、当時、長野県、山梨県、及び、東京都新宿区に対し、車輌製造費半額たる2億円を利用積引受で導入可能となった。

該区間に於ける電車使用優等列車は、昭和38年(1963年)4月28日よりゴールデンウィーク期間中 新宿-甲府間運転の 準急かいじ号に直流急行用165系電車使用が嚆矢である。
該当時、該線運用電車に抑速制動機設置車輌は存在せず、特に、八王子-猿橋間、及び、大月-石和(現 石和温泉)間に混在する25~33/1000‰急勾配降坂時に、該機器搭載の該車輌は空気制動機単独扱と異なり主幹制御器操作に依り簡単に抑速制動取扱が可能になった事から運転側から歓迎された。

該線に於ける特別急行列車は、昭和41年(1966年)10月1日附時刻改正時に運転開始予定だったが、初狩-初鹿野(現 甲斐大和)間複線化工事遅延に依り12月12日附運転開始の 第1あずさ号、及び、第2あずさ号2往復を嚆矢とする。
新宿-松本間を3時間57分運転で必ずしも高速では無かったが、全車指定席で短時間運転ながら食堂車も連結しており、正に特権階級専用列車の感を有していた。


現在の特別快速電車は、昭和42年(1967年)7月3日附時刻改正時より運転開始されたものである。
即ち、該線新宿-八王子間平行私鉄線たる京王帝都電鉄(現 京王電鉄)本線に於いて特急電車運転開始に鑑み、此れに対抗すべく設定されたものである。
然し、該社特急用5000系電車全車両に通勤通学専用電車として当時としては珍しい冷房が昭和43年(1968年)迄に設置完了し、且つ、新宿-八王子間運賃は該社線が廉価で夏場は冷房稼動で快適だったのに対し、特別快速使用の101系電車は全車非冷房で運賃が高額だった為に、特別快速設定に対し些か狸の泥舟感が在った事は否定し得ない事実である。
該線通勤通学用車輌に冷房車登場は昭和47年(1972年)7月で、101系冷房改造車、及び、103系電車新製で対抗したが、103系電車は新車と云う事で利用者からは歓迎されたが、該車輌は、本来、駅間短区間たる山手線運転用に開発された車輌であり、MT比8両運転編成とする事で経済的運転効果を発揮する為に車輌特性も高加速高減速を特長とする事から、該線の如き駅間が長く、更に、特別快速の如き途中無停車区間が長線区での使用は設計者として想定外であり、事実、該線に於いて103系電車運転経験者回顧では、時速60km前後までの加速は良好だが、該速度を越えた状態では主電動機音は強烈となり、速度維持の為に主幹制御器をフルノッチ状態でも加速が鈍り、最高速度は下り勾配区間でも無い限り90kmが限度で、それ故に列車遅延時に於ける時刻回復は困難であり、更に、時速90km付近から制動動作させても該動作は鈍化し、時速70km以下に於いて制動効果を発揮する事から、運転士側から見た該車輌は殆どの路線での使用は忌避されていたと云うのが実相だった。


大久保Ⅱ-東中野Ⅱ間下り緩行線は左緩曲線部が存在する為に運転席から死角となり易く大東亜戦争後に3回の重大事故が発生した。

昭和39年(1964年)1月14日18時30分頃、津田沼発中野行第821C列車8両編成は東中野駅場内信号機が停止現時にも拘らず冒進し、先行千葉発中野行第819C列車に追突した。
該事故に依り、クハ16465(千ツヌ) クハ16478(千ツヌ) クモハ73130(千ツヌ)が大破し車輌損傷が著しい事から復旧を断念し、昭和40年(1965年)3月31日附廃車決済に拠り解体。

昭和55年(1980年)10月17日9時25分頃、東中野駅構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、千葉発三鷹行普通第841B列車101系電車10両編成は東中野駅停車中だったが、後続津田沼発中野行普通第707C列車101系電車10両編成が停止信号を冒進し先行普通第841B列車に追突した。
該事故に依り、旅客計11名が重軽傷。
事故原因は、第707C列車運転士は保安装置ATS-B型が作動した為に確認釦を押釦したが、その後漫然と運転継続した為に追突に至ったもので、第707C列車運転士は警視庁に依り列車往来危険罪に拠り現行犯逮捕された。

昭和63年(1988年)12月5日9時31分頃、東中野駅構内に於いて重大事故が発生した。
即ち、東中野駅停車中の津田沼発中野行普通第805C列車103系電車10両編成は該駅出発直後に、後続 千葉発中野行普通第835B列車201系電車10両編成が停止信号を冒進し先行普通第805C列車に追突した。
該事故に依り、乗客1名 運転士1名即死 乗客116名重軽傷。


中野駅北方地区は大東亜戦争以前は帝國陸軍が所管し鐵道大隊移転後は憲兵學校分校が設置され特殊任務従事者養成を行っていたが、戦後は警察庁警察学校警察大学校所在地となり警部補以上の幹部養成を行っていた。
然るに、該学校施設老朽化を理由に郊外に移転し拡大な跡地利用に利用に関し検討した結果、再開発地として平成21年(2012年)に中野四季の森公園創設が決定した。
該決定に基き、中野駅大改良が始動し該竣工は令和8年(2026年)12月に完成予定である。





表紙写真は、
大正10年(1921年)建築 鉄骨コンクリート造 中野電車区庫







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3.5
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個別手配

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  • 新宿(しんじゅく)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治18年(1885年)3月1日開業である。<br />初代駅本屋は、現在の駅本屋中心地付近に設置された。<br />然し、甲武鐵道に依る新宿-立川間27.2km開通は、明治22年(1889年)4月11日である。<br />それ故、該駅は現在に至るも先行開業たる山手線所属駅であり、中央本線所属では無い。<br />該駅構内の狭隘さ、及び、構内配線不備は既に日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)に於ける軍事輸送時に露呈しており、軍部の要請も在り、該駅構内改良、及び、拡張が決定し、日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)勃発直前たる、明治37年(1904年)1月に着工し、更に、飯田町-新宿-中野間電車運転の為に、該駅西側敷地に新宿電車庫が設置され、途中、戦時中で作業員不足の不足を理由に工事中断も発生したが、明治39年(1906年)3月1日に竣工し、甲州街道陸橋東側付近に第2代駅本屋設置をはじめ、それ迄は、該駅旅客ホームは2本しか存在せず、列車本数激増から列車遅延原因の温床となっていた事から、利用者の利便も考慮し、取敢えず電車ホーム分散を決定し、翌2日より、山手線・中央線電車専用 甲州街道口、中央線電車専用 青梅街道口が開設され、此の為に、中央線電車は該駅構内にに於いて2度停車した。<br />現在の如く20m×10両編成=200mならば単独ホーム1本で良いが、当時の電車は15m×1、2両では、該状態では過剰設備となる事から別設された。<br />大正4年(1915年)5月30日に京王電気軌道(現 京王電鉄)が新町-新宿追分町開通に依り、該駅甲州街道口前に該社線電停が設置された事で、該駅が郊外線連絡ターミナル乗換拠点の様相が明確になってきた。<br />他方、大正期に入り、増大する客貨に対応困難な状態と化し、それ故に抜本的大改良を要すると判定され、此れに基き第2次大改良計画が策定され、分離状態の電車旅客ホーム統合や、鉄骨鉄筋コンクリート剛建築駅本屋改築等々が決定され、第3代駅本屋設置工事は大正11年(1922年)に着工した。<br />大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災に依る被害で、該駅本屋は、鐵道省所属駅本屋施設で鉄骨鉄筋コンクリート剛建築として既に8割方完成していたが、該震災動が原因に拠り、鉄筋切断を初め、コンクリート基礎崩落、クラッチの発生等々で建築物として中破被害と判定され根本的大改修を余儀無くされる。<br />調査の結果、該駅本屋完全修復には1年以上をを要する大工事を要する事が判明し、鐵道省は、震災復旧工事を最優先事業と決定した為に、該駅、及び、該駅付近近代化工事は中断を余儀無くさせられたが、鉄骨鉄筋コンクリート駅本屋建築は、その間に予定より早く、大正12年(1923年)8月13日附で竣工した呉駅が第1号、広島駅が第2号で、それに続き、新宿駅本屋竣工は第3号の存在となった。<br />因みに、本来は耐久性に秀逸とされる鉄骨鉄筋コンクリート剛建築物たる新宿駅本屋だったが、竣工後35年後に改築を余儀無くされたのは、後に、昭和20年(1945年)5月25日未明の東京山の手大空襲に拠り、新宿駅構内施設は全滅に等しい被害を被ったが、該駅本屋も焼夷弾が天井を貫通し内部で爆発引火し全焼した経緯を有し、焼損建築として耐持久力低下が挙げられた。<br />震災に依る工事遅延も、大正13年(1924年)に該建設工事が再開され、長年の懸案事項だった電車旅客ホーム統合は、同年7月13日に統合されれ、現第8番旅客ホームが設置された。<br />更に、同年12月25日附で、甲州口(現 南口)が開設された。<br />建設中の第3代駅本屋は、震災復旧を前提に工事が遅延したが、大正14年(1925年)4月26日に落成式が催行され、同年5月1日より正式開業した。<br />同年4月23日に現5番中央線旅客列車ホームが新設されたが、旅客数増大に追い付かず、昭和8年(1933年)9月15日附で、現4番中央線上り電車ホームが追設される。<br />大東亜戦争末期、我が国は全国各地に於いて連合国軍より空爆撃を受け被害が拡大する結果となったが、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日未明の空襲に依り、駅本屋、旅客跨線橋、全旅客ホーム上屋、青梅口出改札駅舎、貨物取扱業務積卸場、等々、該駅構内諸施設に全焼被害が発生した。<br />戦争終結直後たる、昭和20年(1945年)9月2日附で、該駅本屋貴賓室が進駐軍鉄道輸送事務室RТО用として接収されたが、該駅本屋貴賓室も例外無く被災しており、当面は壁面に紙を張付け当場を切抜けた。<br />該駅本屋は復旧の目途も立たず、半ば廃墟状態だったが、昭和23年(1948年)2月10日附で、改札口、及び、小荷物取扱場が復旧したが、該駅本屋が本復旧を果たすのは、広間、天井、柱へのモルタル吹付が完了する昭和28年(1953年)11月10日である。<br />昭和36年(1961年)12月7日12時頃、当時存在した日通小荷物配達取扱所付近から出火し、折からの冬風に煽られ、甲州口(現 南口)出改札駅舎が全焼する火事が発生した。<br />該出改札口駅舎再建は、昭和38年(1963年)12月である。<br />第3代駅本屋は建築途上で関東大震災に遭遇し中破被害が発生修復されたが、大東亜戦争末期の空襲に依る焼夷弾攻撃で全焼被害が発生し、再修復されながら使用されたが、焼損建築でクラッチが入るなど築40年未満ながら深刻な状態となっていた。<br />地元資本も参加して民衆駅として改築が決定し、昭和36年(1961年)12月20日に起工式が挙行され、翌昭和37年(1962年)3月21日より解体工事が開始され、昭和38年(1963年)12月20日附で、駅部分が完成し、翌昭和39年(1964年)5月18日附で全国第36番目の現第4代駅本屋が竣工した。<br />此の間、同年7月7日附で、現3番旅客ホームが増設される。<br />該駅西口は淀橋浄水場移転に合せ、東京都、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現 京王電鉄)と共同で、昭和41年(1966年)11月30日に現在の立体広場が竣工した。<br />昭和48年(1973年)8月8日深更、該駅構内於いて貨物列車が停止信号を冒進し別貨物列車側面に衝突し、非衝突側貨車積載の米軍航空燃料に引火大爆発事故の為に、該駅構内相当内敷地が火の海状態となった。<br />事故発生と同時に、該駅職員141名、国鉄職員46名、地元住民36名、某高校山岳部員11名、計234名は、決死の覚悟で引火爆発の危険性が高いタンク車を切離し手押しで安全地帯へ退避させ2次災害を防止した。<br />但し、該事故が発端となり、該駅周辺は凶暴化したフーテン、及び、凶悪化した過激派学生に依る反米運動拠点となった事は誠に遺憾である。<br />該駅は東京都区内に所在するにも拘らず、遅くまで貨物取扱業務が行われていたが、昭和55年(1980年)10月1日附でコンテナ取扱業務、残る貨物取扱業務も昭和59年(1984年)2月1日附で全面廃止され、当該貨物取扱施設跡は、民営分割後は日本国有鉄道清算事業団を経て民間に払下げられた。<br />昭和61年(1986年)3月3日に、埼京線新宿延長に伴い、新ホームが追設され、更に、成田エクスプレス運転開始と同時にホームが追々設され現形態が完成し、概ね現形態が完成した。

    新宿(しんじゅく)駅



    該駅は、明治18年(1885年)3月1日開業である。
    初代駅本屋は、現在の駅本屋中心地付近に設置された。
    然し、甲武鐵道に依る新宿-立川間27.2km開通は、明治22年(1889年)4月11日である。
    それ故、該駅は現在に至るも先行開業たる山手線所属駅であり、中央本線所属では無い。
    該駅構内の狭隘さ、及び、構内配線不備は既に日清(にっしん)戦争(明治27年(1894年)7月25日~明治28年(1895年)4月17日)に於ける軍事輸送時に露呈しており、軍部の要請も在り、該駅構内改良、及び、拡張が決定し、日露(にちろ)戦争(明治37年(1904年)2月8日~明治38年(1905年)9月5日)勃発直前たる、明治37年(1904年)1月に着工し、更に、飯田町-新宿-中野間電車運転の為に、該駅西側敷地に新宿電車庫が設置され、途中、戦時中で作業員不足の不足を理由に工事中断も発生したが、明治39年(1906年)3月1日に竣工し、甲州街道陸橋東側付近に第2代駅本屋設置をはじめ、それ迄は、該駅旅客ホームは2本しか存在せず、列車本数激増から列車遅延原因の温床となっていた事から、利用者の利便も考慮し、取敢えず電車ホーム分散を決定し、翌2日より、山手線・中央線電車専用 甲州街道口、中央線電車専用 青梅街道口が開設され、此の為に、中央線電車は該駅構内にに於いて2度停車した。
    現在の如く20m×10両編成=200mならば単独ホーム1本で良いが、当時の電車は15m×1、2両では、該状態では過剰設備となる事から別設された。
    大正4年(1915年)5月30日に京王電気軌道(現 京王電鉄)が新町-新宿追分町開通に依り、該駅甲州街道口前に該社線電停が設置された事で、該駅が郊外線連絡ターミナル乗換拠点の様相が明確になってきた。
    他方、大正期に入り、増大する客貨に対応困難な状態と化し、それ故に抜本的大改良を要すると判定され、此れに基き第2次大改良計画が策定され、分離状態の電車旅客ホーム統合や、鉄骨鉄筋コンクリート剛建築駅本屋改築等々が決定され、第3代駅本屋設置工事は大正11年(1922年)に着工した。
    大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災に依る被害で、該駅本屋は、鐵道省所属駅本屋施設で鉄骨鉄筋コンクリート剛建築として既に8割方完成していたが、該震災動が原因に拠り、鉄筋切断を初め、コンクリート基礎崩落、クラッチの発生等々で建築物として中破被害と判定され根本的大改修を余儀無くされる。
    調査の結果、該駅本屋完全修復には1年以上をを要する大工事を要する事が判明し、鐵道省は、震災復旧工事を最優先事業と決定した為に、該駅、及び、該駅付近近代化工事は中断を余儀無くさせられたが、鉄骨鉄筋コンクリート駅本屋建築は、その間に予定より早く、大正12年(1923年)8月13日附で竣工した呉駅が第1号、広島駅が第2号で、それに続き、新宿駅本屋竣工は第3号の存在となった。
    因みに、本来は耐久性に秀逸とされる鉄骨鉄筋コンクリート剛建築物たる新宿駅本屋だったが、竣工後35年後に改築を余儀無くされたのは、後に、昭和20年(1945年)5月25日未明の東京山の手大空襲に拠り、新宿駅構内施設は全滅に等しい被害を被ったが、該駅本屋も焼夷弾が天井を貫通し内部で爆発引火し全焼した経緯を有し、焼損建築として耐持久力低下が挙げられた。
    震災に依る工事遅延も、大正13年(1924年)に該建設工事が再開され、長年の懸案事項だった電車旅客ホーム統合は、同年7月13日に統合されれ、現第8番旅客ホームが設置された。
    更に、同年12月25日附で、甲州口(現 南口)が開設された。
    建設中の第3代駅本屋は、震災復旧を前提に工事が遅延したが、大正14年(1925年)4月26日に落成式が催行され、同年5月1日より正式開業した。
    同年4月23日に現5番中央線旅客列車ホームが新設されたが、旅客数増大に追い付かず、昭和8年(1933年)9月15日附で、現4番中央線上り電車ホームが追設される。
    大東亜戦争末期、我が国は全国各地に於いて連合国軍より空爆撃を受け被害が拡大する結果となったが、該駅は、昭和20年(1945年)5月25日未明の空襲に依り、駅本屋、旅客跨線橋、全旅客ホーム上屋、青梅口出改札駅舎、貨物取扱業務積卸場、等々、該駅構内諸施設に全焼被害が発生した。
    戦争終結直後たる、昭和20年(1945年)9月2日附で、該駅本屋貴賓室が進駐軍鉄道輸送事務室RТО用として接収されたが、該駅本屋貴賓室も例外無く被災しており、当面は壁面に紙を張付け当場を切抜けた。
    該駅本屋は復旧の目途も立たず、半ば廃墟状態だったが、昭和23年(1948年)2月10日附で、改札口、及び、小荷物取扱場が復旧したが、該駅本屋が本復旧を果たすのは、広間、天井、柱へのモルタル吹付が完了する昭和28年(1953年)11月10日である。
    昭和36年(1961年)12月7日12時頃、当時存在した日通小荷物配達取扱所付近から出火し、折からの冬風に煽られ、甲州口(現 南口)出改札駅舎が全焼する火事が発生した。
    該出改札口駅舎再建は、昭和38年(1963年)12月である。
    第3代駅本屋は建築途上で関東大震災に遭遇し中破被害が発生修復されたが、大東亜戦争末期の空襲に依る焼夷弾攻撃で全焼被害が発生し、再修復されながら使用されたが、焼損建築でクラッチが入るなど築40年未満ながら深刻な状態となっていた。
    地元資本も参加して民衆駅として改築が決定し、昭和36年(1961年)12月20日に起工式が挙行され、翌昭和37年(1962年)3月21日より解体工事が開始され、昭和38年(1963年)12月20日附で、駅部分が完成し、翌昭和39年(1964年)5月18日附で全国第36番目の現第4代駅本屋が竣工した。
    此の間、同年7月7日附で、現3番旅客ホームが増設される。
    該駅西口は淀橋浄水場移転に合せ、東京都、小田急電鉄、京王帝都電鉄(現 京王電鉄)と共同で、昭和41年(1966年)11月30日に現在の立体広場が竣工した。
    昭和48年(1973年)8月8日深更、該駅構内於いて貨物列車が停止信号を冒進し別貨物列車側面に衝突し、非衝突側貨車積載の米軍航空燃料に引火大爆発事故の為に、該駅構内相当内敷地が火の海状態となった。
    事故発生と同時に、該駅職員141名、国鉄職員46名、地元住民36名、某高校山岳部員11名、計234名は、決死の覚悟で引火爆発の危険性が高いタンク車を切離し手押しで安全地帯へ退避させ2次災害を防止した。
    但し、該事故が発端となり、該駅周辺は凶暴化したフーテン、及び、凶悪化した過激派学生に依る反米運動拠点となった事は誠に遺憾である。
    該駅は東京都区内に所在するにも拘らず、遅くまで貨物取扱業務が行われていたが、昭和55年(1980年)10月1日附でコンテナ取扱業務、残る貨物取扱業務も昭和59年(1984年)2月1日附で全面廃止され、当該貨物取扱施設跡は、民営分割後は日本国有鉄道清算事業団を経て民間に払下げられた。
    昭和61年(1986年)3月3日に、埼京線新宿延長に伴い、新ホームが追設され、更に、成田エクスプレス運転開始と同時にホームが追々設され現形態が完成し、概ね現形態が完成した。

    新宿駅

  • 新宿-大久保間<br /><br /><br /><br />青梅街道(おうめかいどう)架道橋<br />大正11年(1922年)設置。<br />該架道橋設置以前は踏切が存在したが、閉止時間が長く社会問題化した事から架道橋化。<br />一時期は都営交通杉並線が通行していた。

    新宿-大久保間



    青梅街道(おうめかいどう)架道橋
    大正11年(1922年)設置。
    該架道橋設置以前は踏切が存在したが、閉止時間が長く社会問題化した事から架道橋化。
    一時期は都営交通杉並線が通行していた。

  • 新宿-大久保間<br /><br /><br /><br />淀橋(よどばし)信号取扱所跡<br />大正13年(1924年)7月16日設置。<br />昭和 3年(1928年)5月10日廃止。<br />新宿-中野間複々線化工事に依る新宿驛大改良中に設置され、淀橋-中野間複々線化工事竣工時に廃止。

    新宿-大久保間



    淀橋(よどばし)信号取扱所跡
    大正13年(1924年)7月16日設置。
    昭和 3年(1928年)5月10日廃止。
    新宿-中野間複々線化工事に依る新宿驛大改良中に設置され、淀橋-中野間複々線化工事竣工時に廃止。

  • 新宿-大久保間<br /><br /><br /><br />高架橋旧様式手摺<br />該区間高架化工事時に施工設置。

    新宿-大久保間



    高架橋旧様式手摺
    該区間高架化工事時に施工設置。

  • 新宿-大久保間<br /><br /><br /><br />旧淀橋浄水場引込線跡<br />該線開設当初は新宿駅から分岐していたが、甲武鐵道新宿-立川間開業時より数年後の明治25年(1892年)に大久保駅Ⅰ開業に伴い該駅分岐に変更された。

    新宿-大久保間



    旧淀橋浄水場引込線跡
    該線開設当初は新宿駅から分岐していたが、甲武鐵道新宿-立川間開業時より数年後の明治25年(1892年)に大久保駅Ⅰ開業に伴い該駅分岐に変更された。

  • 新宿-大久保間<br /><br /><br /><br />旧淀橋浄水場引込線跡

    新宿-大久保間



    旧淀橋浄水場引込線跡

  • 新宿-大久保間<br /><br /><br /><br />旧淀橋浄水場引込線跡

    新宿-大久保間



    旧淀橋浄水場引込線跡

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />中道架道橋<br />南口<br />該部分のみ鉄骨鉄筋ラーメン構造

    大久保駅



    中道架道橋
    南口
    該部分のみ鉄骨鉄筋ラーメン構造

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />南口

    大久保駅



    南口

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />南口<br />改札口

    大久保駅



    南口
    改札口

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />南口<br />改札口<br />古軌条支柱

    大久保駅



    南口
    改札口
    古軌条支柱

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />南口<br />旅客ホーム連絡階段

    大久保駅



    南口
    旅客ホーム連絡階段

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    大久保駅



    旅客ホーム

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    大久保駅



    旅客ホーム

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    大久保駅



    旅客ホーム

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    大久保駅



    旅客ホーム

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />高架橋

    大久保駅



    高架橋

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    大久保駅



    旅客ホーム

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム上屋<br />上屋古軌条支柱<br />CAMMELL S TOUGHENED STEEL W.1888 SEC131 I.R.J.<br />(英キャムメル・スティール社1888年(明治21年)製造 断面規格番号131 工部省鐵道作業局発注品)<br />支柱番号第16号1a

    大久保駅



    旅客ホーム上屋
    上屋古軌条支柱
    CAMMELL S TOUGHENED STEEL W.1888 SEC131 I.R.J.
    (英キャムメル・スティール社1888年(明治21年)製造 断面規格番号131 工部省鐵道作業局発注品)
    支柱番号第16号1a

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム上屋<br />上屋古軌条支柱<br />CAMMELL S TOUGHENED STEEL W.1888 SEC131 I.R.J.<br />(英キャムメル・スティール社1888年(明治21年)製造 断面規格番号131 工部省鐵道作業局発注品)<br />支柱番号第18号1a

    大久保駅



    旅客ホーム上屋
    上屋古軌条支柱
    CAMMELL S TOUGHENED STEEL W.1888 SEC131 I.R.J.
    (英キャムメル・スティール社1888年(明治21年)製造 断面規格番号131 工部省鐵道作業局発注品)
    支柱番号第18号1a

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム上屋<br />上屋古軌条支柱<br />UNION D 1887 N.T.K.<br />(独ウニオン社ドルトムント工場 1887年製造 日本鐵道會社発注品)<br />支柱番号第21号1a

    大久保駅



    旅客ホーム上屋
    上屋古軌条支柱
    UNION D 1887 N.T.K.
    (独ウニオン社ドルトムント工場 1887年製造 日本鐵道會社発注品)
    支柱番号第21号1a

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム上屋<br />上屋古軌条支柱<br />UNION D 1887 N.T.K.<br />(独ウニオン社ドルトムント工場 1887年製造 日本鐵道會社発注品)<br />支柱番号第27号2b

    大久保駅



    旅客ホーム上屋
    上屋古軌条支柱
    UNION D 1887 N.T.K.
    (独ウニオン社ドルトムント工場 1887年製造 日本鐵道會社発注品)
    支柱番号第27号2b

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />古軌条使用支柱群

    大久保駅



    古軌条使用支柱群

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />ホーム駅事務室<br />該駅ホーム駅事務室は該駅高架化時建築物。<br />該駅付近は、昭和20年(1945年)5月25日空襲に依り、コンクリート建築物を除き全焼全滅したが、何故か該建築物のみ焼失を免れ残存した。<br />額縁状建築様式に鑑み、同時期建築の東海道本線早川駅本屋、根府川駅本屋、及び、横須賀線鎌倉駅ホーム事務室と同様の手法がみられる。<br />該駅移転高架化時設置と考察される。<br />該空襲に非被災木造建築物故に、東日本旅客鉄道に依る保存手段を講ぜられる事を期待したい。

    大久保駅



    ホーム駅事務室
    該駅ホーム駅事務室は該駅高架化時建築物。
    該駅付近は、昭和20年(1945年)5月25日空襲に依り、コンクリート建築物を除き全焼全滅したが、何故か該建築物のみ焼失を免れ残存した。
    額縁状建築様式に鑑み、同時期建築の東海道本線早川駅本屋、根府川駅本屋、及び、横須賀線鎌倉駅ホーム事務室と同様の手法がみられる。
    該駅移転高架化時設置と考察される。
    該空襲に非被災木造建築物故に、東日本旅客鉄道に依る保存手段を講ぜられる事を期待したい。

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />ホーム駅事務室<br />額縁状建築構造

    大久保駅



    ホーム駅事務室
    額縁状建築構造

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    大久保駅



    旅客ホーム

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />北口旅客階段

    大久保駅



    北口旅客階段

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />北口旅客階段

    大久保駅



    北口旅客階段

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />高架橋<br />桁装飾

    大久保駅



    高架橋
    桁装飾

    大久保駅

  • 大久保(おおくぼ)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治28年(1895年)5月5日開業である。<br />但し初代駅位置は現在より東京寄200m位置に設置された。<br />昭和3年(1928年)5月17日附高架化時に現位置に移転。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/stations/316.html

    大久保(おおくぼ)駅



    該駅は、明治28年(1895年)5月5日開業である。
    但し初代駅位置は現在より東京寄200m位置に設置された。
    昭和3年(1928年)5月17日附高架化時に現位置に移転。
    https://www.jreast.co.jp/estation/stations/316.html

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />北口<br />高架橋支柱装飾

    大久保駅



    北口
    高架橋支柱装飾

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />北口<br />ステンドグラス

    大久保駅



    北口
    ステンドグラス

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />北口<br />ステンドグラス

    大久保駅



    北口
    ステンドグラス

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />北口<br />ステンドグラス

    大久保駅



    北口
    ステンドグラス

    大久保駅

  • 大久保駅<br /><br /><br /><br />北口旅客階段

    大久保駅



    北口旅客階段

    大久保駅

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />第2大久保(だいにおおくぼ)架道橋

    大久保-東中野間



    第2大久保(だいにおおくぼ)架道橋

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />第2大久保架道橋

    大久保-東中野間



    第2大久保架道橋

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />薬師道(やくしどう)架道橋

    大久保-東中野間



    薬師道(やくしどう)架道橋

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />薬師道架道橋

    大久保-東中野間



    薬師道架道橋

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />薬師道架道橋<br />球体支承(きゅうたい ししょう)<br />該物は、橋梁に於ける重量物受支柱 対 台座接点部に球体を設置する事で柱全体に於ける振動揺に遊間を付与軽減させる構造、ピボット支承とも称する。

    大久保-東中野間



    薬師道架道橋
    球体支承(きゅうたい ししょう)
    該物は、橋梁に於ける重量物受支柱 対 台座接点部に球体を設置する事で柱全体に於ける振動揺に遊間を付与軽減させる構造、ピボット支承とも称する。

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />薬師道架道橋<br />急行線側

    大久保-東中野間



    薬師道架道橋
    急行線側

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />鎧(よろい)架道橋

    大久保-東中野間



    鎧(よろい)架道橋

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />鎧架道橋<br />急行線側が高位置に存在する為に天井部分が広い。

    大久保-東中野間



    鎧架道橋
    急行線側が高位置に存在する為に天井部分が広い。

  • 大久保-東中野間

    大久保-東中野間

  • 大久保-東中野間

    大久保-東中野間

  • 大久保-東中野間

    大久保-東中野間

  • 大久保-東中野間

    大久保-東中野間

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />神田川(かんだがわ)橋梁<br />PCコンクリート桁に架替。

    大久保-東中野間



    神田川(かんだがわ)橋梁
    PCコンクリート桁に架替。

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />桐ケ谷(きりがや)踏切跡<br />常渋滞踏切として悪名高かったが、第Ⅱ次東京オリムピック開催直前たる昭和39年(1964年)9月に閉鎖され現在は東日本旅客鉄道工事用車両通行専用。

    大久保-東中野間



    桐ケ谷(きりがや)踏切跡
    常渋滞踏切として悪名高かったが、第Ⅱ次東京オリムピック開催直前たる昭和39年(1964年)9月に閉鎖され現在は東日本旅客鉄道工事用車両通行専用。

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />中央緩行線電車追突事故慰霊碑

    大久保-東中野間



    中央緩行線電車追突事故慰霊碑

  • 大久保-東中野間<br /><br /><br /><br />中央緩行線電車追突事故慰霊碑<br />昭和63年(1988年)12月5日9時31分頃、大久保-東中野間緩行線に於いて重大事故が発生した。<br />即ち、東中野駅停車中の津田沼発中野行普通第805C列車103系電車10両編成は該駅出発直後に、後続 千葉発中野行普通第835B列車201系電車10両編成が停止信号を冒進し先行普通第805C列車に追突し第835B列車運転士乗客計2名が即死

    大久保-東中野間



    中央緩行線電車追突事故慰霊碑
    昭和63年(1988年)12月5日9時31分頃、大久保-東中野間緩行線に於いて重大事故が発生した。
    即ち、東中野駅停車中の津田沼発中野行普通第805C列車103系電車10両編成は該駅出発直後に、後続 千葉発中野行普通第835B列車201系電車10両編成が停止信号を冒進し先行普通第805C列車に追突し第835B列車運転士乗客計2名が即死

  • 東中野駅

    東中野駅

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旧出札口跡<br />出札窓口廃止統合後は民間に売却されファミリーマートが入居。

    東中野駅



    旧出札口跡
    出札窓口廃止統合後は民間に売却されファミリーマートが入居。

  • 東中野駅

    東中野駅

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />北口<br /><br />

    東中野駅



    北口

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋

    東中野駅



    旅客跨線橋

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客跨線橋

    東中野駅



    旅客跨線橋

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    東中野駅



    旅客ホーム

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    東中野駅



    旅客ホーム

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    東中野駅



    旅客ホーム

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    東中野駅



    旅客ホーム

    東中野駅

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    東中野駅



    旅客ホーム

    東中野駅

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱

    東中野駅



    旅客ホーム
    上屋古軌条支柱

    東中野駅

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱

    東中野駅



    旅客ホーム
    上屋古軌条支柱

    東中野駅

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱

    東中野駅



    旅客ホーム
    上屋古軌条支柱

    東中野駅

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム<br />上屋古軌条支柱

    東中野駅



    旅客ホーム
    上屋古軌条支柱

    東中野駅

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />旅客ホーム

    東中野駅



    旅客ホーム

    東中野駅

  • 東中野(ひがしなかの)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治39年(1906年)6月14日開業である。<br />昭和3年(1928年)5月第2代駅本屋竣工。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1295

    東中野(ひがしなかの)駅



    該駅は、明治39年(1906年)6月14日開業である。
    昭和3年(1928年)5月第2代駅本屋竣工。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1295

    東中野駅

  • 東中野駅<br /><br /><br /><br />駅本屋<br />全景

    東中野駅



    駅本屋
    全景

    東中野駅

  • 東中野-中野間<br /><br /><br /><br />初代東中野駅跡<br />複々線化時に現在地に移転。<br />初代駅付近は桜並木の名所。

    東中野-中野間



    初代東中野駅跡
    複々線化時に現在地に移転。
    初代駅付近は桜並木の名所。

  • 東中野-中野間<br /><br /><br /><br />上野原人道橋<br />東京方<br />俯瞰

    東中野-中野間



    上野原人道橋
    東京方
    俯瞰

  • 東中野-中野間<br /><br /><br /><br />上野原人道橋<br />名古屋方<br />俯瞰

    東中野-中野間



    上野原人道橋
    名古屋方
    俯瞰

  • 東中野-中野間<br /><br /><br /><br />上野原人道橋

    東中野-中野間



    上野原人道橋

  • 東中野-中野間<br /><br /><br /><br />谷戸(やと)架道橋

    東中野-中野間



    谷戸(やと)架道橋

  • 東中野-中野間<br /><br /><br /><br />新井道(あらいみち)架道橋<br />該線開業時は踏切だったが昭和3年(1928年)複々線化工事と同時に架道橋化。

    東中野-中野間



    新井道(あらいみち)架道橋
    該線開業時は踏切だったが昭和3年(1928年)複々線化工事と同時に架道橋化。

  • 東中野-中野間<br /><br /><br /><br />中野電車区<br />正門<br />該電車区は、大正10年(1921年)7月10日附で、当時の池袋電車庫中野分庫設置が嚆矢である。<br />関東大震災発生に依り、デハ6285、及び、デハ6328 2両がリフティングジャッキから墜落し車体損傷の被害が発生した。<br />その後、昭和3年(1928年)5月10日附で池袋より中野電車庫として独立。

    東中野-中野間



    中野電車区
    正門
    該電車区は、大正10年(1921年)7月10日附で、当時の池袋電車庫中野分庫設置が嚆矢である。
    関東大震災発生に依り、デハ6285、及び、デハ6328 2両がリフティングジャッキから墜落し車体損傷の被害が発生した。
    その後、昭和3年(1928年)5月10日附で池袋より中野電車庫として独立。

  • 中野電車区<br /><br /><br /><br />電車庫<br />大正10年(1921年)7月10日開設時構築

    中野電車区



    電車庫
    大正10年(1921年)7月10日開設時構築

  • 中野電車区<br /><br /><br /><br />電車庫<br />大正10年(1921年)7月10日開設時構築<br />鉄骨コンクリート建築<br />建築当時は全長115mだったが、その後、列車編成延長と共に増築された。<br />現在、名古屋リニアに於いて保存展示されているED11型電気機関車も新製配置鼠色に塗装されていた。

    中野電車区



    電車庫
    大正10年(1921年)7月10日開設時構築
    鉄骨コンクリート建築
    建築当時は全長115mだったが、その後、列車編成延長と共に増築された。
    現在、名古屋リニアに於いて保存展示されているED11型電気機関車も新製配置鼠色に塗装されていた。

  • 中野電車区<br /><br /><br /><br />電車庫<br />大正10年(1921年)7月10日開設時構築

    中野電車区



    電車庫
    大正10年(1921年)7月10日開設時構築

  • 中野電車区<br /><br /><br /><br />電車庫<br />大正10年(1921年)7月10日開設時構築

    中野電車区



    電車庫
    大正10年(1921年)7月10日開設時構築

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />写真前方が下り状となるのは、該駅昭和3年(1928年)移転大改良時に、南北駅前用地を捻出する為に、東西130m 南北150mに亘り大規模に掘下た。

    中野駅



    写真前方が下り状となるのは、該駅昭和3年(1928年)移転大改良時に、南北駅前用地を捻出する為に、東西130m 南北150mに亘り大規模に掘下た。

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />鋼鉄製架線柱

    中野駅



    鋼鉄製架線柱

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />鋼鉄製架線柱<br />昭和5年(1930年)植柱

    中野駅



    鋼鉄製架線柱
    昭和5年(1930年)植柱

  • 中野(なかの)駅<br /><br /><br /><br />該駅は、明治22年(1889年)4月11日開業である。<br />該駅開業当初は現位置より名古屋方0.1km地点に開設された。<br />該駅開設理由は列車交換施設であると同時に、妙法寺新井薬師参詣客目当だった事から、近隣居住人口は希薄であり、該駅開業当初に於ける乗降客数は僅少であり、雨天時等々天候不良時は乗降客ゼロも亦珍しく無かった。<br />明治29年(1896年)に該駅北西部に存在する官有地に帝國陸軍鐵道大隊本部、通信隊、及び、気球隊が設置された事から、軍用貨物取扱業務が発生し、此の為に、翌明治30年(1897年)6月17日附で、該駅-鐵道大隊間150mに対し専用線が設置された。<br />因みに、該鐵道大隊は組織拡充の為に大正7年(1918年)に鐵道聯隊格上となり、同時に千葉県に移転し、鐵道第1大隊が千葉町、鐵道第2大隊が習志野町に移設時に北口開設。<br />該駅は、新宿-中野間複々線化工事に合せ、昭和4年(1929年)11月1日附で東京方0.1km地点に移転し、同時に第2代駅本屋が建築された。<br />新駅は旅客ホーム2本4線化され、更に駅本屋前駅前広場確保の為に、東南側0.1キロ地点に移転し、同時に南北駅前を東南側130m、南北側計150m、深度4m堀下を実施し、一瞥すると恰も該駅は高架線上に存在するから如き心象を得るが、実際は現在に至るも地上設置駅である。<br />現駅本屋は昭和39年(1964年)改築の第3代駅本屋である。<br />https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1104

    中野(なかの)駅



    該駅は、明治22年(1889年)4月11日開業である。
    該駅開業当初は現位置より名古屋方0.1km地点に開設された。
    該駅開設理由は列車交換施設であると同時に、妙法寺新井薬師参詣客目当だった事から、近隣居住人口は希薄であり、該駅開業当初に於ける乗降客数は僅少であり、雨天時等々天候不良時は乗降客ゼロも亦珍しく無かった。
    明治29年(1896年)に該駅北西部に存在する官有地に帝國陸軍鐵道大隊本部、通信隊、及び、気球隊が設置された事から、軍用貨物取扱業務が発生し、此の為に、翌明治30年(1897年)6月17日附で、該駅-鐵道大隊間150mに対し専用線が設置された。
    因みに、該鐵道大隊は組織拡充の為に大正7年(1918年)に鐵道聯隊格上となり、同時に千葉県に移転し、鐵道第1大隊が千葉町、鐵道第2大隊が習志野町に移設時に北口開設。
    該駅は、新宿-中野間複々線化工事に合せ、昭和4年(1929年)11月1日附で東京方0.1km地点に移転し、同時に第2代駅本屋が建築された。
    新駅は旅客ホーム2本4線化され、更に駅本屋前駅前広場確保の為に、東南側0.1キロ地点に移転し、同時に南北駅前を東南側130m、南北側計150m、深度4m堀下を実施し、一瞥すると恰も該駅は高架線上に存在するから如き心象を得るが、実際は現在に至るも地上設置駅である。
    現駅本屋は昭和39年(1964年)改築の第3代駅本屋である。
    https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=1104

    中野駅 (東京都)

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />北口<br />大正7年(1918年)設置。

    中野駅



    北口
    大正7年(1918年)設置。

    中野駅 (東京都)

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />中央総武緩行線下り線用

    中野駅



    旅客第1番ホーム
    中央総武緩行線下り線用

    中野駅 (東京都)

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム

    中野駅



    旅客第1番ホーム

    中野駅 (東京都)

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム

    中野駅



    旅客第1番ホーム

    中野駅 (東京都)

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />旅客第1番ホーム<br />上屋古軌条支柱

    中野駅



    旅客第1番ホーム
    上屋古軌条支柱

    中野駅 (東京都)

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />東京メトロ地下鉄東西線用

    中野駅



    旅客第2番ホーム
    東京メトロ地下鉄東西線用

    中野駅 (東京都)

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />旅客第2番ホーム<br />現在は中央本線緩行線三鷹方面、及び、東京メトロ地下鉄東西線折返列車使用。

    中野駅



    旅客第2番ホーム
    現在は中央本線緩行線三鷹方面、及び、東京メトロ地下鉄東西線折返列車使用。

    中野駅 (東京都)

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />新井(あらい)架道橋<br />23.83m<br />該区間開通時は踏切。<br />架道橋名は新井薬師(梅照院)に因み命名。

    中野駅



    新井(あらい)架道橋
    23.83m
    該区間開通時は踏切。
    架道橋名は新井薬師(梅照院)に因み命名。

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />新井架道橋<br />全景

    中野駅



    新井架道橋
    全景

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />初代駅跡<br />正面に初代駅本屋が存在。

    中野駅



    初代駅跡
    正面に初代駅本屋が存在。

  • 中野駅<br /><br /><br /><br />初代駅跡<br />駅前通<br />駅本や移転後は事務所街化後、現在は中野駅周辺再開発に依る巨大タワーマンション街形成の様相。

    中野駅



    初代駅跡
    駅前通
    駅本や移転後は事務所街化後、現在は中野駅周辺再開発に依る巨大タワーマンション街形成の様相。

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この旅行記へのコメント (4)

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  • Tagucyanさん 2023/05/06 22:27:55
    興味深く拝見しました
    横浜海浜公園さま
    こんばんは

    毎日通勤で通っている区間なので、興味深く拝見しました。
    この区間が複々線化されたのが昭和初期ということで、よく拝見しますと当時の構造物がかなりそのままになっていますね。

    東中野駅界隈は、一時期仕事で自転車で走り回っていたので、狭いガード下とかなつかしいです。私事ですが、結婚式を挙げた式場もここにありました。今はなくなってしまいタワマンになってますが・・・
    あとは、昭和末期の追突事故ですね。私が中央線で通学を始めた年の話でして、この数日前にダイヤ改正して中央線のスピードアップが図られたのですが、直後から毎日のようにダイヤが混乱して、そんな中で起きた事故でした。帰宅時はまだ事故処理中でしたので、快速電車車内から見た光景は未だ覚えています。
    当時は古いタイプのATSでしたが、この事故を契機に現在のP型が普及したと記憶しています。

    中野駅から先は戦後だいぶ経ってから高架・複々線化したので雰囲気が変わりますが、中野駅までは昭和初期の匂いがまだ残っているなあ、と改めて思いました。

    ---
    Tagucyan 

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2023/05/07 10:02:48
    拝復
    Tagucyanさま、こんにちは。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。


    > この区間が複々線化されたのが昭和初期ということで、よく拝見しますと当時の構造物がかなりそのままになっていますね。
    →架線柱などは此の数年で建植替が殆ど完了してしまい、残存するのは中野駅構内程度になりました。

    > 昭和末期の追突事故ですね。帰宅時はまだ事故処理中でしたので、快速電車車内から見た光景は未だ覚えています。
    →あの日、小生は道東地区を巡検中で釧路で一報を耳にしました。
    あとで側聞した処では、追突側運転士は運転姿勢で遺体が発見され、当時の勤労担当取締役が責任追及されたものの、当時の第1組合バックアップもあり退任せず最終的に会長に上り詰めた経緯があったものです。

    > 当時は古いタイプのATSでしたが、この事故を契機に現在のP型が普及したと記憶しています。
    →当時研究中だったATSーP型が前倒しで導入されました。

    > 中野駅から先は戦後だいぶ経ってから高架・複々線化したので雰囲気が変わります。
    →中野-三鷹間で原風景が残存するのは荻窪駅手前の青梅街道跨線橋ぐらいなもので、大東亜戦争中に爆弾の直撃弾を受け中破したものしか投稿内容が無いのが残念です。





    横浜臨海公園
  • かっちんさん 2023/05/06 14:37:46
    中野駅の歴史がよくわかりました
    横浜臨海公園さま こんにちは。

    昔、中野駅周辺に住んでいたので興味津々に読みました。
    中野駅改札口が掘り下げて作られたことを初めて知りました。
    どうりで、線路と並行する前後の歩道に坂があったのですね。

    上野原人道橋の中野寄りの道が低くなっていますが、ここには人が通れるだけの小さな踏切がありました。上野原人道橋は踏み切りを撤去した後につくられたと記憶しています。春になると橋から桜と中央線の電車の写真を撮りに行ってました。
     かっちん

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2023/05/07 09:48:15
    拝復
    かっちんさま、こんにちは。

    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    今回の旅行記作成では新宿駅から中野駅まで徒歩で訪れたものです。
    現中野駅に移転時に、東西両口を掘下げ駅前用地として捻出した一件は、中野区誌にも掲載されておらず、地元でも知らない方が多いと思われます。
    大久保、東中野、中野各駅ホーム古軌条支柱群は、そろそろ建替時期でもあり、そう長くないと思われます。



    横浜臨海公園

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