2019/07/25 - 2019/07/25
3位(同エリア808件中)
横浜臨海公園さん
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該区間は、笹子-初鹿野(現 甲斐大和)間が、明治36年(1903年)2月1日、初鹿野(現 甲斐大和)-塩山間は、同年6月11日開通である。
笹子(ささご)隧道は、全長4657.3m(15280ft)を有し、昭和6年(1931年)9月1日附で、上越線湯檜曾-土樽間清水(しみず)隧道(9702m)開通まで我が国最長隧道だった。
該線八王子-名古屋間建設工事に於いて最難事工事と認識され、且つ、当初予定では、該工事着工から竣功に至る期間を概ね8箇年を要すると算定されていた。
現地測量は、明治29年(1896年)6月上旬より同年10月下旬に亘り実施され、更に、同年12月上旬より同月下旬に掛け、該隧道東西坑口取付部に於ける補足改測を実施した結果、該隧道東西坑口に於いて、半径402.3mの曲線で連結し、該坑口施工基面は標高607,4mで、該隧道内部勾配は、22/1000‰勾配を以って最高点を標高622.3mとする事で決定された。
該隧道建設工事必要機材類に就いては、該隧道東坑口分は、東海道本線(御殿場線)御殿場駅に貨車送致し、該駅より馬車で静岡山梨両県境たる籠坂峠を越え、66.8km(17里)間を運搬した。
該隧道建設工事は、明治29年(1896年)12月9日に、該隧道東西行口予定地に於いて開始された。
該隧道内部地質は東西内部共に良質だったが、湧水も亦多く施工が困難化した事から、該工事着工翌年たる明治30年(1897年)には、外部に圧縮機械、内部、削岩機が設置され効果が発揮された矢先、他方、同年には、当時の衛生概念希薄な事から、該地域に赤痢が大流行し、該隧道工事従事職工人夫達にも罹病者が多数発生した事から影響が出て、該掘削工事推進能力が著しく低下を見るに至った。
明治31年(1898年)には、東口誘導坑内部の湧水が1分間に0.1?を越え、排水が追付かぬ状況が現出したが、同年発生の経済恐慌に依り、我が国政府は対露戦備拡充を最優先課題と決定した事から、該隧道工事予算が削減され、該隧道工事は導坑工事以外、全部中止を余儀無くさせられた。
該隧道建設工事は、翌明治32年(1899年)に再開したが、当時、東口導坑は1219.2m進捗しており、該坑内発生土石類処分に対し、該隧道東坑口付近に処理する捨場が存在せず、坑口捨場間4.82km(3哩)に対し、軽便鉄道を敷設し、更に、該軽便鉄道に直流550V電化を施工し、電気機関車牽引に依る土運車運搬で使用した処、作業効率が飛躍的に向上を見た。
該隧道は、明治35年(1902年)7月6日に導坑が貫通し、同年11月5日に竣功し、同月下旬には機関車に依る隧道内試運転が開始された。
明治40年(1907年)8月は天候不順で、山梨県内は低温の上に連日降雨だったが、特に、同月21日より記録的豪雨が降注ぎ、更に、同月23日に台風が東併進した事から輪を掛け、800mmを越える集中豪雨となり、特に、山梨縣東部地域では富士川上流域各地に於いて堤防決壊に依る大洪水と土石流に依り、該縣内で死者行方不明者計223名、重軽傷者計189名、住宅被害計11923戸、床下床上浸水家屋計19306戸を出す、該県明治期以降近現代に於ける最大甚大被害が発生した。
該水害が大規模土石流発生の要因となったのが、実は、該線開通に依り、重川、笛吹川沿岸で産出される花崗岩採掘の為に、山々の樹木を無制限伐採し保水力が低下した事で、被害を拡大化させた。
該区間に存在する、日川、及び、重川両橋梁は該大雨に依る土石流の為に、橋台下洗掘、橋脚流失、橋桁破壊等々の被害発生の為に列車運行が不可能になった。
更に、甚大被害が発生した、該縣北都留郡、東山梨郡、及び、東八代郡住民約3000名は、縣の指導に依り郷里を放棄し、北海道羊蹄山南麓北東麓に集団移住し開墾開拓に従事した。
明治43年(1910年)6月16日20時24分頃、初狩駅構内に於いて重大事故が発生した。
甲府発飯田町行 混合第404列車は、該駅が転向線形態の為に、該列車は推進状態で該駅構内に進入したが、速度節制を誤り、該列車は停止せず車止に激突し、旅客2名、及び、逓信省郵便職員2名が重軽傷を負った。
大正2年(1913年)4月8日の勝沼(現 勝沼ぶどう郷)駅開設に至る経緯は不明な点が多い。
即ち、該駅は、同年同月1日開設の大日影信号所を嚆矢とするが、信号所開設の為の土木工事に対し、該地には取付道路が存在せず、鉄道線駅間中途に土木工事の為の分岐点設置は当時の常識であり、然も、初代該駅構造は完全なるスイッチバック式で、敷設工事は複雑であり、当時の土木技術水準から見て、設置工事に概ね最低9箇月は必要とされた事から、該信号所設置年月日自体に疑問を抱かざるを得ない。
該線八王子-甲府間直流1500V電化は昭和5年(1930年)12月に竣工したが、それ迄は、笹子、初鹿野(現 甲斐大和)、勝沼(現 勝沼ぶどう郷)各駅スイッチバックは、駅構内直進が不可能な構造だったが、該電化に依り通過線が設置され、初めて該各駅通過運転が可能になった。
大東亜戦争終結直後たる、昭和20年(1945年)9月6日3時14分頃、笹子駅構内に於いて、新宿発長野行旅客普通第403列車9両編成 ED16 4電気機関車牽引は、転向線に於いて一旦停止すべき処、機関士機関助手共に睡魔に襲われ仮眠状態で連続25/1000‰急勾配を登り、該駅構内水平区間は加速状態で進行し該駅転向線末端部分岩壁に激突した。
該牽引電気機関車は脱線傾斜、中央本線客車列車の特徴として2等車を除き当時の該線運用車輌殆どが木造車だった事から、1~3両目は脱線大破粉砕、4~6両目は小破、旅客60名即死、91名重軽傷を出す大惨事となった。
終戦に伴う緊張感喪失弛緩が原因とは言え、該時期に於ける八王子、山梨地区鉄道では大事故が続発していた。
該事故被害者に対し、運輸大臣名、名古屋鉄道局長名、甲府管理部長連名で、死者1名に慰謝料40700円、負傷程度に依り負傷者1名に平均見舞金5600円が支払われたが、当時は戦後の急激なインフレーションが進行中で、該受領金額もたちまち紙屑と化してしまった。
該区間複線化は、
笹子-初鹿野(現 甲斐大和)間 昭和41年(1966年) 12月12日
初鹿野(現 甲斐大和)-塩山間 昭和43年(1968年) 8月30日
である。
昭和43年(1968年)3月31日まで、初鹿野(現 甲斐大和)、及び、勝沼(現 勝沼ぶどう郷)両駅共に、電報電信取扱指定駅だった。
当時は一般家庭に於いて電話普及率は高くない時代で、電報電信取扱指定駅は格式高かった。
表紙写真は、
勝沼ぶどう郷駅構内に残存する明治45年(1912年)増築の 菱山、新菱山架道橋。
※該旅行記作成の為に現地を訪れていた筆者は、重川河川敷に於いて髑髏を巻いたマムシ2匹と遭遇し、マムシに驚いた筆者は思わず足を滑らし、該河川内に落下し、全身ずぶ濡れ、所持史料類は流失、更に、筆者は負傷し普段生活に困難を生ずるに至った。
此の為に、本来登場すべき隧道類写真が無く、篤とご理解の上、何卒了承あらせられたい。
中央本線歴史的痕跡探訪記
~東京-飯田橋間編 明治頌歌~
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~飯田町-飯田橋-新宿間編 明治頌歌~
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~新宿-中野間編 明治頌歌~
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~立川-八王子間編 明治頌歌~
~八王子-上野原間編 明治頌歌~
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~大月-笹子間編 明治頌歌~
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~小淵澤-茅野間編 明治頌歌~
~茅野-岡谷間編 明治頌歌~
~岡谷-辰野間編 明治頌歌~
~辰野-塩尻間編 明治頌歌~
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円 - 3万円
- 交通手段
- JR特急 JRローカル 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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-
笹子駅Ⅱ
駅本屋
該駅は、明治36年(1903年)2月1日開業である。笹子駅 駅
-
笹子駅Ⅱ
駅本屋
近接笹子駅 駅
-
笹子駅Ⅱ
旅客ホーム
該ホームはスイッチバック廃止に伴い25/1000‰本線上に設置されたが、電車停車が主力となり、該急勾配上で発車可能である。笹子駅 駅
-
笹子駅Ⅱ
旅客ホーム
上り211系電車笹子駅 駅
-
笹子駅Ⅱ
駅名板笹子駅 駅
-
笹子駅
駅前広場
笹子隧道記念碑(ささご ずいどう きねんひ)
明治38年(1905年)建立
元々は甲府市舞鶴公園に建立されたが、平成5年(1993年)6月に、他該町内所在碑と共に現位置に移設された。
大月市笹子町黒田野1034
中央本線笹子駅 徒歩30秒 -
笹子駅Ⅰ
旧駅本屋跡
明治36年(1903年)2月1日~昭和43年(1968年)12月11日存在。
現在は保線関係施設が設置。
大月市笹子町黒田野1300
中央本線笹子駅 徒歩2分 -
笹子駅Ⅰ
旧駅構内跡
旧頭端部
更地化され痕跡類は一切消滅。
大月市笹子町黒田野1300
中央本線笹子駅 徒歩2分 -
笹子駅Ⅰ
旧駅構内跡
大月市笹子町黒田野1300
中央本線笹子駅 徒歩2分 -
笹子駅Ⅰ
旧駅構内
ホームは旧駅廃止後の訓練センター設置時の復元物で原形と異なる。
大月市笹子町黒田野1359
中央本線笹子駅 徒歩2分 -
笹子駅Ⅰ
旧駅構内
大月市笹子町黒田野1359
中央本線笹子駅 徒歩2分 -
笹子駅Ⅰ
旧旅客ホーム側壁跡
初代駅構内に於ける唯一の痕跡。
大月市笹子町黒田野1359
中央本線笹子駅 徒歩2分 -
笹子駅Ⅱ
旧駅取付線路橋梁跡
桁のみ残存。笹子駅 駅
-
笹子駅Ⅱ
旧駅取付線路笹子駅 駅
-
笹子駅Ⅱ
旧駅取付線路笹子駅 駅
-
笹子駅Ⅰ
旧転向線跡
線路から手前側に向かい直進構造。
大月市笹子町黒野田1207
中央本線笹子駅 富士急山梨バス変電所前停留所降車 徒歩1分 -
笹子駅
観音像
全景
大月市笹子町黒野田1207
中央本線笹子駅 富士急山梨バス変電所前停留所降車 徒歩1分 -
笹子駅
観音像
裏面
昭和54年(1979年)3月彼岸建立。
甲府機関区長 矢崎貞夫
昭和20年(1945年)9月6日払暁、該地に於いて発生した、旅客第403列車冒進脱線転覆事故犠牲者霊を慰めるべく個人浄財を以って建立。
大月市笹子町黒野田1207
中央本線笹子駅 富士急山梨バス変電所前停留所降車 徒歩1分 -
笹子-甲斐大和間
第6笹子川(だいろく ささごがわ)橋梁
19.5m × 2連
大月市笹子町黒田野1034
中央本線笹子駅 富士急山梨バス黒田野橋停留所降車 徒歩3分 -
笹子-甲斐大和間
新第6笹子川(しん だいろく ささごがわ)橋梁
19.5m × 2連
大月市笹子町黒田野1192
中央本線笹子駅 富士急山梨バス黒田野橋停留所降車 徒歩9分 -
笹子-甲斐大和間
笹子隧道
大月市笹子町黒田野1192
中央本線笹子駅 富士急山梨バス黒田野橋停留所降車 徒歩9分 -
笹子-甲斐大和間
笹子(ささご)隧道
東坑口
全長4657.3m(15280ft)
大月市笹子町黒田野1192
中央本線笹子駅 富士急山梨バス黒田野橋停留所降車 徒歩9分 -
笹子-甲斐大和間
笹子隧道と353系特急電車 -
笹子-甲斐大和間
笹子隧道
東口
扁額
利 地 因
侯爵 伊藤博文
(因地利)
地ノ利ニ因ミ最適地ヲ掘ル
伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)は、該隧道竣功当時は侯爵で元老。
大月市笹子町黒田野1192
中央本線笹子駅 富士急山梨バス黒田野橋停留所降車 徒歩9分 -
笹子-甲斐大和間
笹子隧道
東坑口
大月市笹子町黒田野1192
中央本線笹子駅 富士急山梨バス黒田野橋停留所降車 徒歩9分 -
笹子-甲斐大和間
新笹子(しんささご)隧道
東坑口
全長4670m
該隧道工事着工は、昭和39年(1964年)1月。
大月市笹子町黒田野1192
中央本線笹子駅 富士急山梨バス黒田野橋停留所降車 徒歩9分 -
笹子-甲斐大和間
新笹子(左)
笹子(右)
名古屋方
坑口 -
笹子-甲斐大和間
笹子隧道
西坑口
工 天 代
侯爵 山縣有朋
(代天工)
天ニ代リ造リ上ゲル
山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)は、該隧道竣功当時は侯爵で元老、陸軍元帥。 -
笹子-甲斐大和間
笹子隧道
西坑口
工 天 代
侯爵 山縣有朋
(代天工)
天ニ代リ造リ上ゲル
山縣有朋(やまがた ありとも)(天保9年(1838年)6月14日~大正11年(1922年)2月1日)は、該隧道竣功当時は侯爵で元老、陸軍元帥。 -
笹子-甲斐大和間
新笹子(しんささご)隧道
西坑口 -
笹子-甲斐大和間
日川(ひがわ)橋梁
該橋は、明治36年(1903年)2月1日開通の橋梁である。
初代橋梁は、
上路プラットトラス構桁31.4m × 1連
が架橋されたが、該橋梁は、明治40年(1907年)8月の山梨大水害発生時に土石流に巻込まれ流失した。
甲州市大和町初鹿野1762
中央本線甲斐大和駅 徒歩5分 -
笹子-甲斐大和間
新日川(しんひがわ)橋梁
該橋は、明治36年(1903年)2月1日開通の橋梁である。
初代橋梁は、
上路プラットトラス構桁31.4m × 1連
が架橋されたが、該橋梁は、明治40年(1907年)8月の山梨大水害発生時に土石流に巻込まれ流失した。
甲州市大和町初鹿野1762
中央本線甲斐大和駅 徒歩5分 -
笹子-甲斐大和間
笹子、新笹子隧道
名古屋方
坑口
甲州市大和町初鹿野無番地
中央本線甲斐大和駅 徒歩5分 -
笹子-甲斐大和間
笹子、新笹子隧道
名古屋方
坑口
甲州市大和町初鹿野無番地
中法本線甲斐大和駅 徒歩3分 -
甲斐大和駅
653系振子電車 -
甲斐大和駅
駅構内
名古屋方
俯瞰甲斐大和駅 駅
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甲斐大和(かいやまと)駅
該駅は、明治36年(1903年)2月1日開業である。
即ち、笹子隧道4657.3m(15282ft)西口に於ける列車交換施設として設置された。
該駅開業当時は 初鹿野(はじかの)と称したが、平成5年(1993年)4月1日附を以って現駅名に改称された。
初代駅本屋は、該駅位置が高湿度地が原因で老朽化が著しい事から、昭和41年(1966年)12月12日附で現第2代駅本屋に改築され、改築と同時に橋上駅舎化された。甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
改札口甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
第2番ホーム
客車電車兼用ホーム高状態の為に、直流用電車床高と段差大。甲斐大和駅 駅
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甲斐大和駅
第2旅客ホーム甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
第2旅客ホーム甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
第2旅客ホーム甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
駅構内
旧貨物取扱施設跡甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
駅構内甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
駅構内甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
駅構内甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
諏訪神社
御神木保護柵甲斐大和駅 駅
-
甲斐大和駅
甲斐諏訪神社
御神木保護柵
該線路は、該神社境内を活用し通過が可能となったが、該神社境内には甲州街道3大杉と称された大杉が存在し、該線路に近接していた関係で、当時の蒸気機関車の煤煙が原因で、直流電化工事竣工直前に枯死被害が発生した。
架線への落雷に依る漏電短路発火を懸念し、防御柵が設置された。甲斐大和駅 駅
-
諏訪神社
甲斐大和駅 駅
-
諏訪神社
全景 -
諏訪神社
-
諏訪神社
-
諏訪神社
-
諏訪神社
枯死大杉株根
該社御神木は朴ノ木で、日本武尊(やまと たけるのみこと)(生没年不詳)東征時に、該地休息の折、杖を突いた処、発芽に及んだものとされ、樹齢1000年を越えるものとされる。
更に、該社境内巨大杉群は、甲州街道3大巨大杉とされ、該街道往来者には、つと知られた存在だった。
然るに、明治36年(1903年)2月1日附で、大月-初鹿野(現 甲斐大和)間鉄道開通に依り、当時の蒸気機関車から排出される煙害に依り、徐々に樹勢が衰耗し、遂に、昭和5年(1930年)に該杉は枯死するに至った。
該県内では、大正3年(1914年)12月に発生した、該線日野春駅横に存在した信玄公旗立掛松枯死一件に於いて、当時の監督官庁たる内閣鐵道院の態度が一方的、且つ、尊大高圧的だった事から地元住民態度を逆撫で硬化させた結果、当時の国家官庁を被告とする民事裁判に発展した経緯が存在した事から、該事態を重視した鐵道省名古屋鐵道局は、該松樹枯死原因は鉄道側に在りと判断し、地元に対し、若い見舞金5000円支払を以って解決させた。 -
諏訪神社
碑文 -
諏訪神社
碑文 -
甲斐大和-勝沼ぶどう郷間
鶴瀬(つるせ)隧道
全長346m
甲州市大和町鶴瀬無番地
中央本線甲斐大和駅 徒歩12分 -
甲斐大和-勝沼ぶどう郷間
鶴瀬(つるせ)隧道
全長346m
甲州市大和町鶴瀬無番地
中央本線甲斐大和駅 徒歩12分 -
甲斐大和-勝沼ぶどう郷間
新鶴瀬(しんつるせ)隧道
全長1252m
甲州市大和町初鹿野1650
中央本線甲斐大和駅 徒歩13分 -
甲斐大和-勝沼ぶどう郷間
新鶴瀬(しんつるせ)隧道
全長1252m
甲州市大和町初鹿野1650
中央本線甲斐大和駅 徒歩13分 -
甲斐大和-勝沼ぶどう郷間
大日影隧道、及び、新大日影隧道
名古屋方
坑口 -
勝沼ぶどう郷(かつぬま ぶどうきょう)駅
該駅は、大正2年(1913年)4月8日開業である。
該駅開業当時は 勝沼(かつぬま)と称したが、平成5年(1993年)4月1日附を以って現駅名に改称された。
該駅は、同年同月1日開設の大日影信号所を嚆矢とするが、信号所開設の為の土木工事に対し、該地には取付道路が存在せず、鉄道線駅間中途に土木工事の為の分岐点設置は当時の常識であり、然も、初代該駅構造は完全なるスイッチバック式で、敷設工事は複雑であり、当時の土木技術水準から見て、設置工事に概ね最低9箇月は必要とされた事から、該信号所設置年月日自体に疑問を抱かざるを得ない。
該駅開業当時、初鹿野(現 甲斐大和)-塩山間に停車場が存在せず、列車増発の妨げになっていたが、他方、該駅所在地たる菱山村は、明治末期に於いて、我が国葡萄酒生産筆頭だった事から、製品は塩山駅に馬車で送致し、貨車に積換える為にロスが多く、要するに、内閣鐵道院、及び、地元菱山村の利害が一致した事から、停車場設置はトントン拍子に進行した。
然るに、該駅付近は現在でも25/1000‰急勾配が存在する為に、初狩駅同様、スイッチバック形態を採用せざるを得ず、該条件をクリアする為に、該村は新設停車場用地一切を無償提供した。
該駅は、昭和43年(1968年)8月30日附を以って、初鹿野(現 甲斐大和)-塩山間複線化時に、現位置に移動を余儀無くさせられ、同時に貨物取扱業務は廃止された。
他方、該駅スイッチバック時代は、地域の特異性から、我が国映画、及び、テレビ黎明期のロケに利用される事も多く、俳優 藤原釜足(ふじわら かまたり)(明治38年(1905年)1月15日~昭和60年(1985年)12月21日)の駅長役は、正しく該駅旧駅時代を彷彿とさせる姿を今に伝える。勝沼ぶどう郷駅 駅
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勝沼ぶどう郷駅
駅本屋
昭和55年(1980年)10月に現駅本屋に改築。勝沼ぶどう郷駅 駅
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勝沼ぶどう郷駅
旅客ホーム
25/1000‰急勾配上に設置された為に、設置当時残存していた電気機関車牽引客車列車は、該線、初狩、笹子、長坂と共に、該駅は通過していた。勝沼ぶどう郷駅 駅
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勝沼ぶどう郷駅
旅客ホーム勝沼ぶどう郷駅 駅
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勝沼ぶどう郷駅
駅名版勝沼ぶどう郷駅 駅
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勝沼ぶどう郷駅
菱山(ひしやま)架道橋
明治45年(1912年)構築。 -
勝沼ぶどう郷駅
菱山架道橋
該駅開設の為に、既成架道橋に追構造として構築。
左翼壁は道路建設時に撤去、右翼壁のみ現存。 -
勝沼ぶどう郷駅
菱山架道橋
左架道橋は後世道路設置時に架橋。 -
勝沼ぶどう郷駅
菱山(ひしやま)架道橋
明治35年(1902年)構築。
こちらが原形。 -
勝沼甚六桜公園
-
勝沼甚六桜公園
-
勝沼甚六桜公園
-
勝沼ぶどう郷-塩山間
旧勝沼駅転向線跡 -
勝沼ぶどう郷-塩山間
中央本線線路
遠景下まで連続25/1000‰急勾配で下る。 -
勝沼ぶどう郷-塩山間
重川橋梁
東京方 -
勝沼ぶどう郷-塩山間
重川(おもいがわ)橋梁
該橋は、明治36年(1903年)6月11日開通の橋梁である。
全長71.63m
錬鐡製上路プレート・ガーダー桁
19.30m × 3連
が架橋された。
橋台は煉瓦構造 橋脚は煉瓦石積構造
明治40年(1907年)8月に該県東部に甚大被害を与えた局地的集中豪雨被害に依り、重川に土石流が発生し、該橋梁は橋台以外、全部破壊され、特に架橋時のプレートガーダー桁は巨岩に依り押し潰され、調査の結果、作30式上路ガーダー桁修復は不可能と判定された事から、急遽、貯留品たる 関西(かんせい)鐵道発注品が架橋された。
鋼鐡製上路プレート・ガーダー桁
19.10m(22.03ft)×3連 + 12.90m(10.58ft)×1連
該社買収品に貯留桁が存在したのは、恐らく、該社が政府に依る買収価格吊上の為に、実現不可能な複線化用発注品末裔と推定される。
その後、河川引堤化に依り、昭和48年(1973年)7月に名古屋方に、
12.90m × 1連
が追架橋された。
甲州市塩山寿町1061
中央本線塩山駅北口 徒歩7分 -
勝沼ぶどう郷-塩山間
重川橋梁
関西鐵道発注品転用橋桁。
甲州市塩山寿町1061
中央本線塩山駅北口 徒歩7分 -
塩山(えんざん)駅
該駅は、明治36年(1903年)6月11日開業である。
該駅周辺たる大藤、及び、神金地区では少数ながら花崗岩が産出していたが、該駅開業前は輸送手段が無に等しく、該花崗岩買手は皆無だったが、該駅開業に伴い鉄道輸送が可能になった事から、地元の主要産業として高額取引が成される様になり、該駅貨物主要発送品となった。
該駅は、昭和59年(1984年)2月1日附で貨物取扱業務を廃止し、跡地活用を兼ね、駅本屋改築に着手し、昭和61年(1986年)9月3日に、現第2代駅本屋が竣工し合せて橋上化された。
https://www.jreast.co.jp/estation/station/info.aspx?StationCd=293塩山駅 駅
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塩山駅
東口
旧駅本屋側塩山駅 駅
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塩山駅
出改札口塩山駅 駅
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塩山駅
西口塩山駅 駅
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塩山駅
第1番ホーム
上屋
支柱古軌条塩山駅 駅
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塩山駅
第1番ホーム
上屋
支柱古軌条塩山駅 駅
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塩山駅
第1番ホーム
上屋
支柱古軌条塩山駅 駅
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塩山駅
第2番ホーム
211系普通電車塩山駅 駅
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塩山駅
第2番ホーム塩山駅 駅
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塩山駅
第2番ホーム塩山駅 駅
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塩山駅
第2番ホーム塩山駅 駅
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塩山駅
第2番ホーム塩山駅 駅
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塩山駅
第第2番ホーム
上屋
支柱古軌条
CARNEGIE 1908 ET IIIIIIIIIIII I.R.J.
(米カーネギー社 1908年12月製造 帝國鐵道庁発注品)
2-23AB塩山駅 駅
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塩山駅
第2番ホーム塩山駅 駅
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塩山駅
第2番ホーム
日本最古の日の丸のまるまち
記念碑
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この旅行記へのコメント (4)
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- ねもさん 2019/10/05 14:16:29
- お久しぶりです
- 横浜臨海公園さん いつもご投票ありがとうございます。
山歩きを始めたころ国立に5年ほど住んでいて、中央線や青梅線にはよく乗りました。現代人はのほほんと乗っていますが、難工事だったのですね。
意見は分かれそうですが、駅名を今風に変えるのはどうなんでしょう? 塩山も甲州市の一部になって、そのうちに妙な駅名に!?という心配が杞憂であることを祈ります。
遅すぎですが、お怪我されて大変でした。もうすっかり回復されたのでしょうか。お大事(というのは変かな)になさってください。
- 横浜臨海公園さん からの返信 2019/10/05 14:34:58
- 拝復
- ねもさま、こんにちは。
掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
当該区間工事は明治中期でありながら、平行道路が存在しない為に、小仏隧道資材運搬であすら、現在の我々からは想像すら困難な手段で現地に運ばれた様です。
因みに、平成以降の駅名改称は、小生から見れば、地元や地元の観光協会に阿った奇矯な名称が選定される様になり、気がつけば、どこソコも「温泉」がついたりと、良いと思うものなど殆ど存在しないのが実情だと思っております。
横浜臨海公園
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- JGC_SFCさん 2019/08/02 10:57:39
- 子供の頃の記憶が・・・中央本線♪
- 横浜臨海公園さま;
中央本線旅行記(笹子~塩山編)・・・とても興味深く拝見致しました♪
もう旅行記と言うよりも『文献』の域ですね。
中央本線=東線は、沿線(少し離れていますが)に生まれた者として、また鉄道大好き少年だった身としては、特別な想いで今も接しています♪
記憶を辿れば、5才くらいのころ、父に連れられて、横浜(南区)の親戚に遊びに行く時の記憶がほんのりと思い出されます。
電気機関車に曳かれた、客車(形式は???ですが)のボックス席で、母の作ってくれたおにぎりを、初鹿野(甲斐大和)の辺りで食べていた記憶が・・・
勝沼~笹子のスイッチバックも懐かしく、今も笹子駅に差しかかる(『かいじ』の車窓から)じっと、跡を見ています (*^^*)
来週は、また甲府の施設に母の面会に行きますので、横浜臨海公園さまの旅行記と照し合せながら、車窓を楽しみます♪
10日は、時間の都合で早朝の各駅停車での石和温泉までの移動です・・・久しぶりにゆっくり、昔を懐かしみながらの電車旅(のつもり)です♪
それでは、猛暑の日々、体調に気を付けてお過ごし下さい。
JGC_SFC
- 横浜臨海公園さん からの返信 2019/08/03 14:51:38
- 拝復
- JGC_SFCさま、こんにちは。
拙稿に投票と掲示板に過分なるコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
当該旅行記は本来 冬 に訪れるべき処、当該時期は夏休みの小中高生の夏休自由研究対象にと、各方面図書館より期限付著作権承認依頼が有り、笹子-塩山間も急遽上程する事になりましたが、結果はご存知の様に最悪で散々でした。
客車の形式はスハ32型か木造車鋼体化のオハ60型だったと思われます。
それにしても、勝沼ぶどう郷駅横の菱山架道橋取扱と言い、下今井架道橋の落書紛いの絵と言い、地元に於いて、もう少し気を使うなりの事が出来なかったのでしょうか。
現地を訪れ、たいへん遺憾に思いました。
横浜臨海公園
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