2016/09/18 - 2016/09/21
43位(同エリア732件中)
琉球熱さん
シルバーウィーク、山に行くつもりだった。
ところが相方は沖縄に行きたいという。「じゃ、沖縄」。
彼女が青い海に潜っている間、私はガマに潜ることにした。
戦跡巡りにはそれなりの準備が必要だが、これが充分とは言えない状態だっただけでなく、この10年ほどの間で情報も増え、沖縄への想いも一言では言えない自分がいて、気持ちの整理がつかないままの出発となった。
第三弾は、戦跡のメッカとも言える摩文仁と隣接する米須。
このエリアは言わずと知れた平和祈念公園とひめゆりの塔があるが、今回はスキップ。その周辺の散在する戦跡を周った。
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決して明るいテーマではありません。タイトル通り、戦跡ばかりです。
極力史実に基づいた内容だけを淡々と記述するつもりですが、一部の思い入れのある場所については、多少の私情が含まれています。
「史実」と言っても、沖縄戦当時の記録は、文献によって数値や見解に差異があることも多く、ここで採用した内容について是非の議論をするつもりはありません。
大事なのは、それほど遠くない過去、ここで多くの人が命を落としたという事実、その舞台が「琉球」という異国家だったという事実です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- その他
- 交通手段
- レンタカー
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本島の最南端エリア。平和祈念公園とひめゆりの塔という2大スポットを擁するエリアでもある。
これらのさらに海岸線寄りにも非常に多くの戦跡が存在する。 -
まずは平和祈念公園の隣。わずかに敷地から外れた場所。
有名な「健児の塔」を目当てに訪れたが、その途中に数々の戦跡があった。 -
国道沿いの看板に導かれて着いた健児の塔入口。
広い駐車場になっているが、かつては土産物屋・休憩所などがあったと思われる(ひめゆりの塔周辺のように)場所は、今はシャッターを閉じて廃屋のよう。 -
『風部隊之碑』
風部隊は、戦況気象情報、基地通信、整備、燃料補給、整備の任に当たっていた。
米軍の沖縄本島上陸以来、壊滅状態になった軍通信網に代わって大本営及び関係部隊に戦況を報告するなど通信業務に携わった。
中央航空路部沖縄航空路管区、第5野戦航空修理廠、中央航空路本部並びに他航空路管区の戦没者を合祀してある。米兵による異色の慰霊碑 by 琉球熱さん沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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『独立臼砲第1連隊戦没英霊之碑』
独立臼砲第1連隊戦は、1940年満州にて対ソ作戦に備えての特殊兵器を装備した秘密部隊だった。
その後ラバウル戦線、沖縄戦に分隊し出陣。
この慰霊碑は臼砲連隊の秘密兵器98式臼砲実物大原形に基づいて建立されたものとのことだが、この形は、、、米兵による異色の慰霊碑 by 琉球熱さん沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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健児の塔へ続く道からは海が見える。
アメリカの夥しい艦船で真っ黒に染まったであろう海 -
『沖縄師範健児の塔』
沖縄師範学校男子部の生徒によって編成された鉄血勤皇隊を祀った碑。
鉄血勤皇隊が南部の断崖絶壁に追い詰められ最期を遂げたところで、生徒・職員307名を合祀している。
在校生のなんと75%が戦争によって命を落とした。
右手は「平和の像」である。米兵による異色の慰霊碑 by 琉球熱さん沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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『沖縄師範健児の塔』近影
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『平和の像』
向かって右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴してるという。 -
これはいつのものだろうか?
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傍らにあった地蔵尊は、学生の慰霊地らしく、書物を持っている。
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慰霊碑の裏手にあるガマ
師範学校の生徒たちはこのガマに追いつめられた。
軍から解散命令を受け、斬り込みに出撃する者、手榴弾で自決する者、米軍の火炎放射を浴びて焼け死ぬなど多くの犠牲者を出した。
壕内には納骨堂が作られている。また壕壁には火炎放射の跡がまだ残っている。
13~19歳の若者たちが、ここで短すぎる生涯を閉じたのである。 -
裏手の崖沿いには通路があり、これを進むと摩文仁の丘だ。
岩肌に刻まれた鎮魂歌・・・
「小石もて 戦せしと きくにつけ 身につまされて 悲しかりけり」 -
『南冥の塔』
健児の塔から来た道を戻り、分岐を直進する。
断崖の下、オーバーハングになった場所に建てられた慰霊碑。米兵による異色の慰霊碑 by 琉球熱さん沖縄県営平和祈念公園 公園・植物園
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他の慰霊碑とは少々趣を異にする印象を受ける。
塔の手前の説明板によると、沖縄戦に参戦した日系二世の米兵ヤマモトタツオ氏が中心となり、昭和29年9月、この一帯に放置されていた身元不明の兵士、住民の遺骨12,000柱を集骨して建立されたとのこと。
もしかすると、碑の題字のせいか?
他の慰霊碑と違い、明らかに手書き、それもあまり達筆ではない。これがちょっと奇異な印象を与えるのかもしれない。
しかし・・・ -
その隣にある碑文を読んで、途端に厳粛な気持ちになった。
建立した人々の、溢れんばかりの慈愛の心が刻まれている。 -
左手には墓碑が建てられている。
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わかっただけでも6つ
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その奥の、壕と思われる洞窟には火炎放射器の跡か、黒く焦げた箇所があった。
学徒の慰霊地に、風部隊之碑や独立臼砲第1連隊戦没英霊之碑のような明らかに軍人の戦死を美化するものを造らないでほしい。
やりきれない気持ちが、この『南冥の塔』で救われた。 -
摩文仁から糸満市米須へ移動
ひめゆりの塔にほど近い第一外科壕へ向かう。 -
国道沿いに建つ標柱に従って集落へ入る。
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『第一外科壕跡』
観光客で賑わうひめゆりの塔から、わずか500m程度。
ここも数回訪れた場所だが、いつも無人。
しかし、花や千羽鶴は途絶えたことがない。第3外科壕を見たならこちらも併せて by 琉球熱さん伊原第一外科壕跡 名所・史跡
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壕への入口
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壕は土砂が入って半分ほど埋まっている。入ることは不可能。
ここもひめゆり学徒隊の一部が身を潜めた場所だ。
ひめゆり学徒隊の女学生たちは、沖縄陸軍病院に従軍する際、日本軍の圧倒的な勝利で戦争はすぐに終わると思っていたそうだ。皇民教育の恐ろしさである。
しかし現実は全く逆で、彼女たちは文字通り「生き地獄」の中で過ごすことになる。
彼女らは沖縄陸軍病院で何を思い、どのような気持ちでここまで撤退、身を潜めていたのだろうか・・・。 -
『ずゐせんの塔』
ひめゆりの塔から魂魄の塔に向かう途中、国道を折れた場所に建つずゐせんの塔。駐車場もなく、交差点のそばと言うこともあって、立寄る人はほぼ皆無。ここにも女子学徒隊の足跡が by 琉球熱さんずゐせんの塔 名所・史跡
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質素な佇まいの塔
瑞泉学徒隊は、県立首里高校の女子生徒たちである。
女子学徒隊はこのほかに、「なごらん」「積徳」「梯梧」があるが、なぜ「ひめゆり」だけがかように有名になってしまったのか?
一説には、死亡率が突出しているからと言われるが・・・ -
沖縄師範学校女子部
+県立第一高女=ひめゆり学徒・・・55.4%
県立第二高女=白梅学徒 ・・・・・・・・・・・・38.2%
県立第三高女=なごらん学徒・・・・・・・・・10.0%
県立首里高校=瑞泉学徒・・・・・・・・・・・・・54.1%
積徳高女 =積徳学徒・・・・・・・・・・・・・ 6.2%
昭和高女 =梯梧学徒・・・・・・・・・・・・・41.2%
※(ひめゆり平和祈念資料館公式ガイドブックより)
確かに最大ではあるが「突出」とは言えないだろう。
1953年の映画がきっかけだろうか? -
閑話休題
今見ても卓越したデザインの校章。
首里高校の前身である首里工芸学校のもの。 -
『ひむかいの塔』
「ずゐせんの塔」の隣にある、宮崎県の戦没者慰霊碑。
「ひむかい」とは宮崎県の古名「日向の国=ひむかひの国」に由来するもの。公募により決定した名前である。
また、慰霊碑本体が横になっている非常に珍しい形態だが、戦没者たちの魂が安息されるように、との意図だそうだ。宮崎県の慰霊碑 by 琉球熱さんひむかいの塔 名所・史跡
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戦後25周年に建立された。
その後、沖縄戦以外の戦没者も合祀されている。 -
『魂魄の塔』
円形・二段構えの石積みに「魂魄」と刻んだサンゴ石が載っているシンプルなもの。
かつてこの一帯は避難民や敗残兵の吹き溜まり、遺骨がそのままの状態で放置されていた。
そして 戦後最も早く、住民によって遺骨収集が行われた場所でもある。その数、3万5千とも4万とも言われている。
沖縄の本土復帰後、遺骨は摩文仁の国立沖縄戦没者墓苑に集約されることになったが、この一帯の慰霊碑は住民の発露によって生まれたものだけに、いまだに参拝者が後を絶たない。魂魄之塔 名所・史跡
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「魂魄の塔」建立の背景を記したもの。
摩文仁や魂魄の塔がある米須を中心に、全国全ての都道府県の慰霊碑がある。 しかし意外なことに、唯一「沖縄県の碑」は存在しない。敢えて挙げるならば、この「魂魄」が 沖縄県の碑と言えるかもしれない。
沖縄戦で死んだ多くの人々、軍民・人種を問わず葬られた、沖縄最初で最大の慰霊塔である。 -
「魂魄の塔」建立に奔走した金城和信村長像
金城夫妻は、米軍によってこの地に集結させられた真和志村の村長に任命され、周辺一帯の遺骨収集に奔走し、魂魄の塔を建立。
また、夫妻は二人の娘を戦争で失っていることから、ひめゆりの塔の建立にも尽力し、さらに健児の塔の建立にも携わった。正しく偉人 by 琉球熱さん金城和信先生胸像 名所・史跡
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金城夫妻の功績を称える、東大名誉教授 宇野氏の碑文が刻まれた石碑。
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さて、ここからいくつか各地の慰霊碑を周ろう。
『讃岐の奉公塔』
沖縄県及び中国大陸、南方諸地域で散華された香川県出身戦没者32,400余を合祀する慰霊塔。
香川県に古くから伝わる民話「奉公さん」にちなんで「讃岐の奉公塔」と命名された。
昭和43年5月建立。香川県出身者の慰霊碑 by 琉球熱さん讃岐の奉公塔 名所・史跡
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『島根の塔』
908柱の島根県出身沖縄戦没者を祀る。
島根県の慰霊碑としては、宜野湾市の嘉数高台公園にも「島根の兵奮戦之地」碑がある。
昭和44年3月建立。島根県出身者の慰霊碑 by 琉球熱さん島根の塔 名所・史跡
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『ひろしまの塔』
沖縄及び南方諸地域での広島県出身戦没者34,635柱が合祀されている。
全体を「ヒンプン」をモチーフにしたデザインにし、塔本体は郷土広島県に向けられている。
昭和44年5月建立。広島県出身者が眠る by 琉球熱さんひろしまの塔 名所・史跡
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『大分の塔』
大分県の遺族代表が沖縄に巡拝した際、
ふるさとの 山河も泣かむこの島に 散りたる若き御霊祭れば
と記した県産檜の白木の柱を建て、沖縄に散華した県出身 900余柱の慰霊を行った。(最終的に1430)
その後、大分県耶馬渓産の霊石を用いて「大分の塔」を建てた。
昭和40年11月建立。大分県出身戦没者の慰霊碑 by 琉球熱さん大分の塔 名所・史跡
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『大和の塔』
沖縄戦のほか、南方戦線の戦没者も合祀する。その数、15,871柱。
吉野川産出の玉石を用い、その石一つ一つに戦没者氏名が記されているという。
昭和42年11月建立。奈良県出身者の慰霊碑 by 琉球熱さん大和の塔 名所・史跡
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『北霊碑』
沖縄戦・南方戦線合祀、40,850柱。
沖縄戦では、北海道出身者が沖縄を除く全都道府県で最も多い犠牲者を出している(10,850人)。
また、この塔は全都道府県で最初に建立された塔である。
昭和29年4月建立。最大の戦死者を出した北海道 by 琉球熱さん北霊碑 名所・史跡
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『紀乃國之塔』
沖縄、南方諸地域の戦没者を合祀。19,000柱余。
現在の形は昭和57年4月に改修。
昭和36年11月建立。和歌山県出身者の戦没慰霊碑 by 琉球熱さん紀乃國之塔 名所・史跡
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『東京の塔』
他の道府県とは離れた一画にある。平和創造の森
魂魄の塔からはクルマで移動しても良いくらい。
そしてアプローチはこんなに長い。 -
玉川で集めた小石を敷き詰めた上に碑本体が据えられている。
沖縄・南方戦線の合祀、103,500柱。
昭和46年10月建立。離れた場所にひっそり by 琉球熱さん東京之塔 名所・史跡
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広い敷地には、南方戦線の方位盤。
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『因伯の塔』
東京の塔のそばにある。
鳥取の旧国名「因幡」と「伯耆(ほうき)」から命名された。
敷地のデザインが凝っていて、雰囲気がとても良い。
昭和46年11月建立。因伯の塔 名所・史跡
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『開南健児の塔』
「因伯の塔」の正面にある。
塔へのアプローチ、霊域の雰囲気を醸し出している。静かな場所で霊域の雰囲気 by 琉球熱さん平和創造の森公園 公園・植物園
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私立開南中学校の職員4名と一期生から九期生までの274名を祀る。
ただ、学徒たちの配属後の任務はよくわかっていない。 -
東京の塔、因伯の塔、開南健児の塔は、魂魄の塔のエリアから離れ、ほとんど平和創造の森公園と言っても良いくらいの位置にある。
厳密には別。静かな場所で霊域の雰囲気 by 琉球熱さん平和創造の森公園 公園・植物園
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米須霊域をあとにして、向かったのは陸軍病院本部壕跡/陸軍病院之塔。
ここもわかりやすい場所ではない。広い畑地の中の端にある。
敷地内に陸軍病院之塔があり、慰霊碑を前に長椅子が並べられている型式が、他の慰霊碑と違う点。
後年整地されたらしいが、本部壕とあって、第1外科壕とは違い定期的に慰霊祭も執り行われている。沖縄陸軍病院之塔 名所・史跡
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『沖縄陸軍病院本部壕跡(陸軍病院山城本部壕跡)』
6/14艦砲弾の直撃を受け、病院長をはじめ他数の職員、ひめゆり学徒にも犠牲者が出た。
同病院が来てからは周囲の家々には治療を受けることのない重症患者たちが置かれ、死者も豚小屋に置いていたので、住民は近寄れなかったいう。陸軍病院山城本部壕跡 名所・史跡
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地元では「サキアブ」と呼ばれていたガマの入口は上に向けて開いている。これでは着弾したらひとたまりもないだろう。
いつからか平和学習で訪問する団体が増え、それに伴い内部も荒れて行ったという。
土砂が流入し、内部の足元の悪さは相当なものとのことだが、天井があまりに低く、入れるような気がしない。
【証言:伊波文子(現 比嘉文子)当時19歳】
師範生本科1年 本部病院勤務
山城本部壕に艦砲の直撃弾が落ちたのは6/14でした。何10人も戦死者が出る惨憺たる状況でした。壕入り口に出ていた病院長を始め、歩哨兵や衛生兵が瞬時に吹き飛ばされましたが、その時伝令で来ていた糸州壕第二外科壕からの宜保春子さん、第三外科壕からの安座間昌子さんが亡くなったのです。
~~中略~~
安座間昌子さんはもう板の上に寝かされていました。手の指も切れ、お腹もやられ、息する度に腸が飛び出すんです。包帯で巻き三角巾でくるんで「昌子ちゃん大丈夫だから、頑張ってよね」と言ったら、指の切れた手で私の手を強く握るんです。悲しくなって胸を締め付けられる思いでした。「お腹をやられたら死ぬと教えられたでしょう」と言って、どうせ駄目だから水を頂戴・・と欲しがるんです。躊躇していたら、次第に声も弱まり、かすかな声で水、水・・・と言うので西平先生に上げていいかと尋ねました。悲痛な顔でうなずいていました。脱脂綿に浸した水を少しずつ吸っていた昌ちゃんはうわ言を言いながら息を引き取ったのです。
(ひめゆり資料館公式ガイドブックより抜粋) -
春くると ひたすら待ちし 若草の 萌え立ついのち 君は捧げぬ
水汲みに 行きし看護婦 死ににけり 患者の水筒 四つ持ちしまま -
『陸軍病院之塔』
陸軍病院の傷病兵、職員、学徒の慰霊碑。
昭和39年に建立、平成4年に改修。 -
さてそろそろ帰ろう、と糸満市街へ向かう途中、国道331脇に「糸洲の壕」の看板を見つけ寄り道。
農地の中に「鎮魂の碑」
「この洞窟は第二十四師団山第二野戦病院の跡である。長野富山石川県出身の将兵、現地召集兵並びに従軍看護婦積徳高等女学校看護隊が傷病兵を収容した壕跡である」糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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『糸洲の壕』
ウッカーガマとも呼ばれる。入口はこんなところ。 -
雑草が生い茂った小道、この先に壕の入口がある。
実はこの壕には入口が二つあり、もう一方を「ウンジャーガマ」と呼ぶ。 -
豊見城から避難してきた第24師団第二野戦病院(山3487部隊小池隊)には積徳高等女学校の女生徒25名が動員されていた。
特筆すべきはこの隊の軍医小池勇助隊長である。
戦時中にあって命の尊さを説く珍しい軍人だったという。
野戦病院の解散命令が届くが、今解散したら学徒隊を戦場に放り出すことになると考えた小池隊長は解散命令を握りつぶし、6月26日牛島中将自決の報を受け日本軍の敗北を知り、危険が少なくなったと判断し、積徳学徒隊に解散命令を出した。
解散にあたって小池隊長は学徒隊を集め、「捕虜になることは恥ではない、決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてください」と訓示したと言う。
この解散命令が、沖縄戦の戦闘が終了した後のことであったために、積徳学徒隊25名のうち22名が生還した。
解散の翌日、学徒隊の一人の少女が壕に戻ると、服毒自決した小池隊長の変わり果てた姿を発見した。
積徳学徒隊の死亡率は突出して低い。他の学徒隊が全て2桁であるのに対し、積徳学徒隊は6%である。
なお、積徳高女の学徒隊を「ふじ学徒隊」とするものもあるが、これは記録映画のタイトルの影響ではないかと思われる。
信頼のおける記録には「積徳学徒隊」とある。この女学校の同窓会が「ふじ」であることから、混同されたのではないかと思われる。
-------------------その4(最終稿)へ続く
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