2016/09/18 - 2016/09/21
31位(同エリア676件中)
琉球熱さん
シルバーウィーク、山に行くつもりだった。
ところが相方は沖縄に行きたいという。「じゃ、沖縄」。
彼女が青い海に潜っている間、私はガマに潜ることにした。
戦跡巡りにはそれなりの準備が必要だが、これが充分とは言えない状態だっただけでなく、この10年ほどの間で情報も増え、沖縄への想いも一言では言えない自分がいて、気持ちの整理がつかないままの出発となった。
第二弾は、八重瀬町。今も自治体と保存会がもめているヌヌマチガマと、冨盛の大獅子。そして嘉数高台。
ヌヌマチガマは8年ぶりの再訪、大獅子、嘉数高台は初訪問である。
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決して明るいテーマではありません。タイトル通り、戦跡ばかりです。
極力史実に基づいた内容だけを淡々と記述するつもりですが、一部の思い入れのある場所については、多少の私情が含まれています。
「史実」と言っても、沖縄戦当時の記録は、文献によって数値や見解に差異があることも多く、ここで採用した内容について是非の議論をするつもりはありません。
大事なのは、それほど遠くない過去、ここで多くの人が命を落としたという事実、その舞台が「琉球」という異国家だったという事実です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- その他
- 交通手段
- レンタカー
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さて、この項でご紹介する場所は、地図上の円で囲まれた場所の2ヶ所、そして最終日に寄った宜野湾市の史跡、計3ヶ所である。
ヌヌマチガマは今でも八重瀬町と地元保存会がもめている。
現地は一体どうなっているのか、是非自分の目で確かめたかった。
一方の冨盛の石彫大獅子は、本来は戦跡ではないのだが、沖縄戦の最中に撮影された一枚の写真の「今」を見てみたかったのだ。 -
ヌヌマチガマを語る時に忘れてはならないのが「ガラビ壕」である。
ヌヌマチガマとつながっているためだ。 -
場所はわかりにくい。車道沿いに入口があるので、つい通り過ぎてしまう。
目印は「具志頭運動公園」。この公園は丘の上と下にまたがっているが、下の方の駐車場に車を停めると良い。 -
駐車場からは数m。車道の脇に広がる農地。その一角にこのような看板が立てられている。(道路の左側)
以前はこれすらなかった。 -
農地の中のこんもり茂った場所。
この壕は、見学可-不可-可と何回も変更されている。
「平和教育」の一環でここを訪れる団体もいたが、入壕者が増えることで内部が荒れて行き、さらに落盤の危険性も出てきたり、入口手前の墓が荒らされたりと、腹を立てた地権者が一切の立ち入りを禁止した時代もあった。
わたしの最初の訪問は、まさにこの時期だった。
こんなマイナーな戦跡を訪問する団体は、それなりに意識を持った人たちだと思うが、なんとも皮肉なことだ。
そんなわけで、現在の「入壕可、しかし自己責任」という変化は驚きだった。 -
入口の目印となる破風墓。
この脇を通り抜けていくのだが・・・
誰一人いない、さすがにためらわれた。 -
スタート地点の運動公園脇には右のような道標が設置されていた。
かつてはなかったものだ。
そして、ヌヌマチガマの駐車場には、左のような標識。
白梅同窓会の努力の跡がうかがえる。 -
運動公園の脇の道を登ると左手に運動公園(上)がある。そこを右に曲がると、立派な駐車場と共に、ヌヌマチガマがある。
2008年の最初の訪問時に比べると、隔世の感。
入口がわからず、クルマで2往復ほどしたのが嘘のよう。ヌヌマチガマ 名所・史跡
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駐車場の一画にはこのような石碑が建てられ、ヌヌマチガマとガラビ壕について解説されている。
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八重瀬町戦争遺跡公園・・・
ネットで検索しても出て来ない。 -
壕への階段。これも最近設営されたもの。
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白梅学徒看護隊之壕
標柱自体は変わっていないようだが、台座は変わっていた。 -
この2枚の写真は2008年のもの。
標柱の台座は明らかに変更されている。意図は不明。
そして壕内。
ほぼ垂直(と感じる)の穴を降りると千羽鶴が供えられていた。
泥濘で足場は悪く、とても中に入れる状態ではなかった。
駐車場などもなかったし、上の写真の背景を見ればわかるように、周りは畑、ビニールハウス。 -
そして大きく変わったのは、設備面だけではなく、運用方法だろう。
この通り、壕へは別の意味で入れない。
ここを管理する団体に申し込まないと見学できないのである。
かつ、個人の申し込みは基本的に受け付けていない。 -
さらに異様なのは、駐車場向かいにあるこの看板。
ここで言う「手術壕」とは、ヌヌマチガマから枝分かれした一画で、その名の通り、傷病兵への手術が行われた場所だ。 -
2008年当時。
かつてはこのように、樹木に覆われたままになっており、この写真では判別できないが、フェンスで囲われていた。
そしてそのフェンスには、内部に遺骨遺品が大量に残されていること、それ故に立ち入りを禁止する旨が書かれていた。
ガラビ壕同様、土地の所有者が他人が入るのを嫌ったらしい。 -
それが今では、公開されている。
こちらの入口は地面に設けられた木の蓋を開けて入る。
実は、偶然居合わせた「NPO法人 沖縄鍾乳洞保存会」の理事と話ができ、特別に内部を案内していただいたのだ。 -
内部は(当たり前だが)漆黒の闇。
ガマ全体の地図 -
ガマ内部
黒く口を開けた通路。
戦火の中、ここで行われた手術、麻酔もないまま手足を鋸で切断する際に、患者を押さえつけるのも、切断された手足を壕外へ運ぶのも、白梅の女学生たちだった。 -
沖縄のガマの多くがそうであるように、ここもしばらくはゴミ捨て場になっていたようだ。
様々な無念の想いが詰まるガマも、戦後は邪魔なもの、ごみ処理にちょうど良い穴でしかなかったのだろう。
不届き、不遜、非常識と責めるのは簡単だが、当時の状況を推察すれば、少なくとも私は地元の人を責める気にはなれない。 -
ここで収集された遺品の一部
ヌヌマチガマを巡るいざこざの一部が、現地新聞で報じられている。
沖縄タイムズ 2015/12/3
ヌヌマチガマ 展示物撤去
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/21518
琉球新報 2015/7/12
ヌヌマチガマ 指定管理者
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-245628.html -
理事から様々な話を伺い、外に出る。
ついでに、とばかり見せてくれたのは、旧日本軍の鉄兜。陸軍のマークが入っている。これは壕には置かず、クルマで持ち歩いているそうだ。
陸軍のマークが入っているとなると、不心得なコレクターがいるからである。
同じような話を、父島でも聞いた。
写真下は整理前の発掘物。もう何が何やらわからない物ばかり。
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ヌヌマチガマの維持管理は、かつて地元のボランティアやNPO法人が行っていた。平和学習も然り。
しかし、何を思ったか八重瀬町が「指定管理者」を決めることにした。おそらく入札だったのだろうが、なぜかこれを落札したのは北海道の業者。
“公明正大”をうたう入札だから仕方ないかもしれない。地元団体は当然抗議もしたようだが、受け入れられなかったそうだ。
例えば、先の鍾乳洞協会などは、それまでに壕内の遺骨収集や整備を行い、語り部として活動してきたという自負があった。
強制撤去された遺品類にしても、琉球新報ではまるで違法行為のような書き方をしているが、平和学習の際に使用する物を展示していただけと考えることもできる。
“玄関”から締め出された格好の鍾乳洞協会は、手術壕に目を付け、その地権者と交渉して現在のような形までこぎつけた。
沖縄戦跡の管理者が地元業者ではないということには、何か釈然としないものを感じるし、こんなことで自治体と地元団体が対立するようなことは絶対避けるべきだろう。
現管理団体や地元団体、どちらが良い悪いということではなく、自治体の舵取りが決定的に不味かったと思う。 -
さて、ヌヌマチガマからさほど離れていない場所に、冨盛の石彫大獅子がある。
とは言え、実は住宅地のくねくねの細い道を行くので、意外にわかりにくい。 -
勢理城(ジリグスク)に到着。
目指す大獅子は、勢理城跡の広場にある。勢理城 名所・史跡
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階段を登り切ったところに、城跡の広場がある。
そこに鎮座している大獅子。
やっと会えた。
※知らぬ間にカメラの露出ダイヤルが動いてしまったことに気付かず、完全な露出オーバーになってしまった。富盛の石彫大獅子 名所・史跡
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このシーサーに会いたかったのは、沖縄戦当時のこの写真がきっかけ。
米軍は、この大柄なシーサーを弾除けに使ったのだった。 -
沖縄最古のシーサーは、あの“鉄の雨”の中を生き抜きながらも、どことなく長閑な顔をしていた。
所々に残された銃痕が痛々しい。 -
もともとは、1689年に建立されたというから、第二尚氏王朝時代だ。
火事が多かったため、風水師の助言をもとに造られたという。
八重瀬岳に向けて建てよと言われたらしいが、神聖な八重瀬岳に向けるわけに行かず、少しばかり向きを変えて設えられたそうだ。
いずれにせよ、古くから冨盛集落をこの高台から見守っていた守り神であることには変わりない。 -
さて、ちょっとエリアが違うので地図を別掲。
順序は前後するが、エリア的に全く別なので、便宜上ここで紹介。
「嘉数」、言わずと知れた激戦地である。
あの「普天間」のすぐそば。
ここ、「都会」なので今まで行っていなかったが、行くのなら平日と決めていた。 -
嘉数高台公園 地球儀を模した展望台。
嘉数高台公園 公園・植物園
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展望台に上る前にいくつかの慰霊碑を見る。
こちらは「島根の兵奮戦之地」碑。
魂魄の塔の敷地にも島根県の慰霊碑があるが、こちらは「兵士」を慰霊するもの。 -
京都の塔
1964年建立。京都出身の兵士たち及び住民を祀る。
京都産出の鞍馬石が使われている。
この党の建立には、あの野中広務氏が尽力したそうだ。
住民被害に触れている碑は京都の碑を含め2基しかない。嘉数高台公園 公園・植物園
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嘉数の塔
嘉数の住民が建てた碑。京都の塔と同じ敷地内にある。碑文にもあるとおり嘉数部落には日本軍が駐留しており過半数を超える死亡率となった。嘉数高台公園 公園・植物園
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トーチカ
これは背後の出入り口。まさかここから出入りしていたとは…
当時に比べ、埋まってしまった分狭くなっているとはいえ、大人一人、楽に出入りできる大きさではない。 -
トーチカの銃眼
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銃眼 その2
激しい銃撃によって、鉄筋が露出してしまっている。
末期の沖縄戦において、ここで1945年4月8日から16日間、沖縄戦最大級とも言われる激戦があった。
日本軍の頑強な抵抗に、米軍からは「死の罠(しかばね)」「忌まわしい丘」と呼ばれたという。
16日間の両軍の戦死傷者は約10万人にものぼり、米軍が失った戦車22台というのは、沖縄の一戦闘での損害としては最大のものだったそうだ。 -
展望台に上る
普天間基地の概要が解説されている。 -
普天間基地は目の前、そして住宅地も目の前。
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ヘリが2機、飛んできた。
住宅の上を旋回して基地に降りていく。 -
基地をズームしてみると、何機ものオスプレイが駐機していた。
ここを訪問するのを平日にしたのは、“動いている”普天間を見たかったから。 -
もう一度、展望台の全景。
明らかに市民運動家と思しき初老の男性が2名、2階と3階に陣取っていた。
双眼鏡、望遠レンズ付きカメラを傍らに置いて、時折基地の方を睨んでは座る、を繰り返していた。
私は、普天間基地のあり方には大いに疑問を持っているが、それでもこの「運動家」の佇まいはあまり気持ちの良いものではなかった。 -
展望台のある頂上の途中には、陣地壕跡がある。
入口は柵でシャットアウトされているが、内部をのぞくことはできる。
この陣地壕を掘るには、兵士だけでなく、嘉数や周辺地域からも、老人や女性を含む多くの民間人が駆り出された。
そして、なぜか消火器・・・
数年前の写真にもしっかり写っているこの消化器、誰かがごみとして捨てたのか、はたまた何らかの意図をもって投棄されたのか? -
最終日、涙が出そうな夕焼けを見た。
『いのちのリレー』
http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/song/
♪ 赤い海、黒い空の色を
どれだけの人が知っていますか
でも 生きている
そう ここにいる
大切な命をつないでいくよ ♪
-------------------その3へ続く
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この旅行記へのコメント (5)
-
- picotabiさん 2016/10/09 10:46:11
- 美しい島の凄まじい過去
- シーサー今の写真と白黒の写真の対比のとこで心臓のあたりがぐいーーっとなりました。
沖縄は4年前に始めて行ったんですが
ひめゆりの塔のなんたるかをぼんやりとした知識しか持たないまま
現地に訪れたのですが、20歳にもみたない女の子たちが
兵隊さんの糞尿や遺体までを始末していたのにショックを受けたのを覚えています。
それが手術豪というのもあったとは… 気が狂ってもおかしくない状況だったでしょう…
- 琉球熱さん からの返信 2016/10/11 00:38:55
- RE: 美しい島の凄まじい過去
- picotabiさん、投票&書き込みありがとうございます。
実はひめゆりの塔は、あまりに観光地化されすぎて、かつある種の「悲劇の押し売り」みたいなことになりかねない危うさがあり、敢えて避けています。
あそこを見学するのなら、資料館を見ないことには・・・
今回多くが再訪でしたが、数ある戦跡がいつしか有名になり、平和学習と言う美名の下、また変な風向きになっていることがわかりました。
とてもデリケートで難しい問題です。
-
- わきさん 2016/10/06 19:28:10
- 合掌
- 合掌です。
- 琉球熱さん からの返信 2016/10/11 00:33:54
- RE: 合掌
- わきさん、ありがとうございます。
「沖縄の犠牲の上に今の平和がある」という声がありますが、私はこの意見にはあまり同調できません。
観光地化されていない戦跡を訪ねて、そこで何を感じるかは人それぞれ。
ただ、亡くなった多くの方々への鎮魂の精神は持っていたいものです。
-
- たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん 2016/10/06 14:28:39
- さすがです!
- 琉球熱さん
こんにちは。ご無沙汰しております。二節の戦跡旅行記読ませて頂きました。すばらしいです!書かれておられることも勿論のこと、運とも捉えられるチャンスをものにされていることは、やはり沖縄戦を正しく伝えらたいお気持ちの賜物のように私にとっては思えてなりません。
ガラピ壕は私の場合は『諦め』という気持ちがあり、訪れもしませんでした。まさか入れるようになっているとは…。ヌヌマチ手術壕は入る手段すら考えていませんでしたし…。
写真で見る限りヌヌマチでの出土品を展示していたという説はあるようにも思えます。ただ新聞記事になっていたことからは、『必要以上の手を加えない』ことが鍾乳洞協会が八重瀬町から管理と運用を任された理由であり、偶々そこに管理者の交代があったため露見してしまった…。縁も所縁もない北海道のNPO団体には、正当性を謳う格好の理由だったのかも知れません。それを私を含めた多くの無知な人間が過剰に反応してしまったことが結果のようにも思えます。
旅行記を
管理者が変わり1年が経ちました。ヌヌマチは八重瀬町が整備したものを団体が借り受けて現在に至っています。しかし『白梅学徒の足跡』として圧倒的な知名度のある『ヌヌマチガマ』は拝観希望も多く、がっちりと管理運営されているようですが、同時期に管理を委託された『クラシンジョー』は、希望者も少なく荒れる一方になっていたことを今年6月に確認しています。
約3年に渡り沖縄の戦績を回ってきました。しかしご存知のようにその数の多さは調べようとしても調べきれない数があることは間違いのない事実です。沖縄島全土が戦場になったその証拠たる所以ではあるものの、今までの知識では表現できない『現実』も多くあることに気付きました。所詮写真を撮ってその戦跡を紹介するのが目的だったものの、やはりこれだけは伝えたいという想いが伝えられなくなっているのが私の現状です。
そんな背景もありしばらく沖縄から離れることにしました。頭を整理して改めて知識をつけてから再訪したいと考えています。多分来年の春か6月…、それまで私の知らない戦跡の知識をつけていきたいと思っておりますので、これからもそれを拡散すべく口コミ&旅行記を期待しております。
たかティム。
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