2016/09/18 - 2016/09/21
30位(同エリア653件中)
琉球熱さん
シルバーウィーク、山に行くつもりだった。
ところが相方は沖縄に行きたいという。「じゃ、沖縄」。
彼女が青い海に潜っている間、私はガマに潜ることにした。
かつてかなり集中的に戦跡巡りをした時期があり、今回は基本的にそれらを再訪。合間に初訪問となる戦跡を組み込んでいこうと考えた。
戦跡巡りにはそれなりの準備が必要だが、これが充分とは言えない状態だっただけでなく、この10年ほどの間で情報も増え、沖縄への想いも一言では言えない自分がいて、気持ちの整理がつかないままの出発となった。
さて、実際に周ってみると写真の数が南部だけで150枚ほどになってしまい、一つの旅行記としてまとめるには長くなりすぎるため、適量に分けて作成することにした。
第一弾はやはり『白梅の塔』から。
ここは私が最も厳粛な気持ちになる場所である。
============================
決して明るいテーマではありません。タイトル通り、戦跡ばかりです。
極力史実に基づいた内容だけを淡々と記述するつもりですが、一部の思い入れのある場所については、多少の私情が含まれています。
「史実」と言っても、沖縄戦当時の記録は、文献によって数値や見解に差異があることも多く、ここで採用した内容について是非の議論をするつもりはありません。
大事なのは、それほど遠くない過去、ここで多くの人が命を落としたという事実、その舞台が「琉球」という異国家だったという事実です。
- 旅行の満足度
- 5.0
PR
-
娘と潜りに行く相方と別れ、一人南部に向かう。
事前の情報収集が不足、整理も不備のままだったが、エリアとしては概ねこの地図に示す通り。
とても一日で周れるエリアではないが、気になっている場所を中心に訪問しようということに。 -
真栄里地区、国吉地区の拡大地図。
ご覧の通り、白梅の塔から西方面に戦跡が集中している。激戦地であった証拠だ。 -
『白梅の塔』
観光スポットとなっている「ひめゆりの塔」からほどない場所にひっそりと建つ慰霊碑。
モクマオウの木立に囲まれた、意外に広い敷地。
境内を想起させる、静謐な雰囲気が漂う。白梅の塔 名所・史跡
-
敷地の左側には「萬魂の塔」という慰霊碑が建っている。
これは戦後、国吉部落各所に散らばっていた遺骨を拾い集め、部落民の手で建てられた慰霊碑だ。もちろんその遺骨とは、全て身元不明のものだ・・・。
小さな慰霊碑だが、4000柱もの御霊を祀る。
萬魂の塔に並んで、日本軍司令官の慰霊碑も建てられていた。萬魂之塔 名所・史跡
-
右側には南禅廣寺。
この裏手に壕がある。 -
手前には弥勒親子地蔵尊。
赤子を抱いた地蔵様だ。
台座には人の顔をかたどったオブジェ。 -
塔の右手には大量の千羽鶴。
新しいものが沢山。
以前より訪問者が増えたのだろうか? -
献花台より白梅の塔
比較的新しい供花。
慰霊に訪れる人が絶えないことを示している。
県立第一高等女学校、すなわち「ひめゆり」はあまりに有名だが、第二高女の「白梅学徒隊」はさほど認知度は高くない。
片や戦跡観光コースの中心となり、片や対照的にひっそりとしている。それだけに、むしろ霊域の趣が溢れている。
★沖縄県立第二高等女学校学徒隊(白梅学徒隊)の主な足取り★
1945年3月24日、八重瀬岳の第24師団第1野戦病院に配置される。
その後5名の生徒が具志頭村(現八重瀬町)の新城分院(ヌヌマチガマ)に配置される。
6月3日、米軍の攻撃により第1野戦病院閉鎖。
6月4日、野戦病院の解散命令
6月9日、国吉(現糸満市)に16人の生徒が到着。
21〜22日に米軍の猛攻撃(馬乗り攻撃)を受け、ほぼ全滅する。 -
この地に散った女子学生たちは、今、このような穏やかな顔でいてくれるのだろうか・・・
後ろは戦没者氏名が刻まれた墓碑。
生徒を含む学校関係者149人が合祀されている。 -
本来の「白梅の塔」
脇にひっそりと佇んでいる。 -
1992年6月に新たに建立された塔
-
散りてなほ 香りい高し 白梅(うめ)の花
最初に訪れた時、ガラスケースに入った人形が置かれていた。
かなり色褪せていたが、女の子の慰霊碑だけに、人形を供えた人の想いを想像すると胸が詰まった。
その次に来た時、その人形が新しいものと取り換えられていた。 -
南禅廣寺
この納骨堂は、付近一帯で収骨した約3000体の遺骨が納められている。
この左側に“下の壕”がある。 -
壕入口横にある、自決之壕碑
6月22日、米軍の馬乗り攻撃を受け多くが焼死、残った者も手榴弾で自決、全滅した。
実はこの前日、米軍将校のバックナー中将が日本軍に狙撃され死亡、これに怒った米軍が無差別の報復攻撃に出たと考えられる。
馬乗り攻撃とは、地上から壕内へ手榴弾・黄燐弾やガソリンを流し込み火あぶりにするという、まるで害虫や害獣を駆除するような攻撃方法である。
極東裁判の中でこれらが問題にされた形跡はない。 -
壕入口より
自決と言っても、火炎放射、ナパーム弾などで焼死したものも多かったと言う。そして6月22日、全滅 -
以前訪れた時は、底部に千羽鶴が供えられていた。
ここで命を落とした女学生たちの無念を思うと足が止まる。
これ以上進めなくなり、戻ることにした。
供花はいつも新しく、敷地内も定期的に清掃が行われていることをうかがわせる。
その様がより一層聖域の趣を醸し出している。
ひめゆりをスキップしてでも訪れてもらいたい場所である。 -
白梅の塔から徒歩数分、山形の塔の前に
『歩兵第32連隊終焉の地』碑がある。
この連隊が多くの山形県出身者で編成されたこともあり、この地に建立されたのだろう。
2006年というから、まだ新しい。
最期を覚悟して、軍旗を焼いた(奉焼)場所である。歩兵第三十二連隊終焉の地碑 名所・史跡
-
これは壕入口。
以前は中には入れたらしいが、2009年に訪問した時は既に施錠された柵が設けられていて、今も内部を覗くことすらできない。 -
敗残兵が潜んでいたと言われる壕。
壕内には遺品が相当量の残り、遺体も横穴に集められていたらしいが、今は埋没して所在もわからなくなっているらしい。 -
『山形の塔』
沖縄戦のみならず、海外戦線も含めて戦没した山形県出身者四万余柱の霊を祀る。
1965年、山形県から碑石・台座を運んで建立。山形の塔 名所・史跡
-
山形の塔にて
千羽鶴、そしてこんな人形も・・・ -
『眞山の塔』
山形の塔のすぐ隣。
真栄里を拠点とし、ここに陣地を築いて闘い全滅した第24師団の100余名を祀る。つまりその主旨は靖国と同じだろう。
南方同胞援護会の援助の下、建立されたもの。
(「南方同胞援護会」については、栄里之塔の項で触れる)真山の塔 名所・史跡
-
『白梅の塔 上の壕』
眞山の塔の奥にある。白梅の塔にある壕とつながっており、「上の壕」「下の壕」と呼ばれる。
下の壕が兵の看護場所、こちらの上の壕は食糧弾薬倉庫だったそうだ。白梅之塔上の壕碑 名所・史跡
-
壕を覗いてみる。
大きく口を開けた壕は、草や木が生い茂り、中を見ることはできない。 -
こちらにも供え物が・・・
置かれた人形が涙を誘う。 -
『栄里の塔』
山形の塔からクルマなら1〜2分。
真栄里住民による遺骨収集のモニュメントである。
その数、12,000にも及ぶ。栄里之塔 名所・史跡
-
塔の脇に立つ石碑
歩兵第22連隊、6月17日玉砕とある。
それに続く文言がひっかっかった。
「このたび南方同胞援護会の助成を得てあらたにこの地を画し塔を改修し永くその遺烈を伝え英魂を弔う 昭和四三年三月 財団法人沖縄遺族連合会」(原文まま)
この南方同胞援護会というのは、かつて存在した国策の特殊法人である。
多くの沖縄の慰霊塔が1962年から10年ほどの間に改築・新規建立された背景には、この団体が資金的バックアップをしてきたことが挙げられる。(当然、原資は日本国家である)
つまり、「金を出してやるから碑文も良きに計らえ」ということだ。
元来、地元住民が収集した遺骨の納骨所だったものが、改築を契機に、この碑文にあるように、戦闘・軍人を美化・礼賛するものになったというわけだ。
事実、1961年に視察に訪れた南方同胞援護会の者が、既存の納骨所を「見苦しい」と発言したという記録がある。 -
栄里の塔から西へ少し進む。
階段の上にモニュメント。 -
階段脇に咲いていたヒオウギ
まさかこんなところで遭遇するとは。
少し気持ちがなごむ。 -
バックナー中将慰霊碑と間違えやすいが、こちらは「イースリー准将慰霊碑」
-
その左手
こちらが「バックナー中将慰霊碑」・・・と言うと、手前の十字架を「それ」と思う人も多い。
その奥の石が「米第10軍司令官サイモン・B・バックナー中将慰霊碑」である。
十字架と左の石碑は、戦死者への慰霊之碑である。バクナー中将慰霊碑 名所・史跡
-
『バックナー中将慰霊碑』
アメリカ軍史上において最高位の階級で戦死した事例にも関わらず、意外にも質素である。
1945年6月18日午後1時15分、戦死。
戦闘指揮中に、との資料もあるが、前線視察中というのが真相のようだ。また、流れ弾に当たったという説、狙撃されたという説があるが、狙撃説が真相のような気がする。
死因がどうあれ、この戦死が引き金となり、アメリカの激烈な報復攻撃が始まったことは事実である。そして真栄里に移動していた白梅学徒は全滅したのだ。
当時の米兵にとって、日本人などは虫けら同然だったのだろう。 -
さて、白梅の塔から少し南に戻るような形、真壁集落に向かう。
ここは沖縄戦最後の激戦地だったという。 -
『萬華の塔』
戦後、住民がいち早く建立した慰霊碑であり、19,000柱もの遺骨が埋葬されている。萬華の塔 名所・史跡
-
広場の左手にある山3480部隊の鎮魂碑
-
沖縄連隊区司令部戦没職員 慰霊碑
-
萬華の塔の周りには夥しい数の「鎮魂碑」や「墓碑」が、まさに「雨後の筍」のように建てられている。
この萬華の塔は、そもそも真壁住民が、日本兵、米兵、地域住民の差別無く集め、これら無縁仏の慰霊のために建立したものだ。
この“筍”群は、萬華の塔の趣旨とは相容れないものばかりである。 -
その象徴、『砲兵山吹の塔』
「山吹」と称された野戦重砲第一連隊は、総裁に皇族を戴き、天皇に近い存在である。
この山吹の塔をはじめ、戦後続々と建てられた“筍”は、「八紘一宇の塔」「馬魂の碑」、各戦友会で建立した英霊の碑など、武運長久・天皇礼賛に通じるものばかりだ。砲兵山吹之塔 名所・史跡
-
萬華の塔は、屋根の部分に当初は十字架が建てられていた。
これは米軍に墓を荒らされないようにとの意図から生まれた一計であったという。
ご存知だろうか?沖縄に上陸した米軍の、少なくない兵士たちが、「戦利品」「戦勝記念」として、日本人の頭蓋骨を母国へ持ち帰ったことを。
青空の下、雑念を振り払い、真壁の人たちの初心に立ち返り手を合わせる。 -
『真壁千人壕』
萬華の塔の右手を進んでいくと、大規模なガマがある。
軍民混在であるがゆえの悲劇も多かった。
ここも米軍による火焔放射のために、たくさんの犠牲者が出ている。 -
壕の入口まで行ってみたが、天井が低く、中はよく見えなかった。
ここでの証言がある。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
真壁では千人壕というのがあってそこに入りました。民間人はいなくて、兵隊だけがたくさん入っていました。そしたら、アメリカーに、迫撃砲をうちこまれて、壕のワクがこわされて入り口がふさがれ、出入りができなくなっていましたが、アメリカーのためにここで友達が一人焼き殺されて死にました。それで、私たちは奥にいって、二十日間ぐらいそこで生活していました。壕の奥は水もありました。負傷兵は入り口にいて全滅しましたが、友軍は奥にいました。
それから千人壕からちょっとはなれた壕に移りましたが、そこは民間も友軍もごっちゃになっていました。大きくて何百人も入れるので、ずいぶん大勢の人がいました。友軍よりも民間の人がずっと多かったんですがそこで、大変なことを見ました。
四つか五つになっていたと思いますが、男の子はがおりました。その子は、親がいない、といって泣いていました。子供は入り口の方にいましたが、壕の上には穴が空いていました。そしたら、友軍の兵隊が「この子の泣き声が敵に聞こえる、泣き声が聞こえたら私たちも大変である。この子をどうするか、親はいないか。」と言いました。兵隊の声にだれも返事をする人はいません。そこで兵隊達が中にはいって殺ったんです。少し明るかったんですね。上に穴が空いていたから。連れていって、三角布で首を絞めたんです。民間の人はそれを見て、みんな泣いていました。首を絞めるのは現に見ましたが、怖かったもんですから、最後まで見ることは出来ませんでした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 -
米軍兵士による墓荒らしの心配がなくなり、改修された萬華の塔。
今は沖縄らしく、シーサーが鎮座する。
ここで遺骨収集を行った真壁の人々の精神を、いつまでも尊重してもらいたいものだ。
-------------------その2へ続く
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
沖縄の戦跡群
この旅行記へのコメント (6)
-
- ちゅらさん 2016/10/05 16:37:59
- 大切なこと。
琉球熱さん
メッセージありがとうございます。
白梅の塔 わたしも行ったことがありますので
同じ思いで拝見させていただきました。
重い内容の旅ですが、沖縄を訪れる者として
知らなければいけない大切なことだと思っています。
あまり、旅行記には載せていませんが
わたしも、時間のある時には
慰霊碑に出向いて手を合わせたり「まちまーい」で地元の方々の
貴重なお話を聞いたりしています。
会社でも、戦争の悲惨さ・平和の尊さを次代に伝える
平和活動の取り組みとして
毎年、沖縄慰霊の日にあわせ本島で3日間、
慰霊祭や平和学習会、平和祈念行動に参加する機会があります。
今年の6月は、都合で参加できませんでしたが
千羽鶴だけは入社以来 毎年、沖縄、広島、長崎に届けております。
あの島で何が起こったか、一人でも多くの人に知ってもらいたいという気持ち
ほんとうに大切なことだと思います。
あと3つ 慰霊の旅 ただただ頭が下がる思いです。
じっくりと拝見させていただきます。
ありがとうございました。
ちゅら
- 琉球熱さん からの返信 2016/10/06 00:59:45
- RE: 大切なこと。
- ちゅらさん、書き込みありがとうございます。
心のこもったメッセージ、とても光栄です。
サンゴの海が好きなちゅらさんは、海だけでなく、やはり「沖縄」を敬愛していますね。
とても嬉しいです!
どうもありがとう!!
-
- 玄白さん 2016/10/02 15:23:51
- 考えさせられる旅行記
- 琉球熱さん、こんにちは
先の大戦では沖縄のみ、唯一悲惨な地上戦で多くの無辜の人たちが犠牲になったことは、ほとんどの日本人が漫然とは知っているところです。しかしながら、先の戦争の過ちに対する反省から民主的平和国家への歩みを進めて来たはずの戦後日本が、最近???と思わざるを得ないような状況になっていると個人的に感じています。
単に知識としての沖縄の過去を知っているだけではなく、客観的史実を通して、平和国家日本としてどうあるべきか、すべての人たちが立ち止まって考えるべき時期に差し掛かっているように思います。(いささか、大仰で口はばったいですが・・・)
その意味で、具体的に沖縄で何があったのかを淡々と綴った琉球熱さんの旅行記は、とても価値があると感じました。
玄白
- 琉球熱さん からの返信 2016/10/02 22:54:17
- 心より感謝 (RE: 考えさせられる旅行記)
- 玄白さん、いつもありがとうございます。
> 最近???と思わざるを得ないような状況になっていると個人的に感じています。
我が意を得たり、です。
本当に、危ない時代になって来たと感じます。それは近隣諸国もそうですが、この日本のかじ取りが本当に危なっかしい。
> 単に知識としての沖縄の過去を知っているだけではなく、客観的史実を通して、平和国家日本としてどうあるべきか、すべての人たちが立ち止まって考えるべき時期に差し掛かっているように思います。(いささか、大仰で口はばったいですが・・・)
決して大仰ではないと思います。
今、最も危険なのは、「考えすぎだ。そんなこと起こるわけがない。お上に任せておけばよいんだ。」と、「感じること、考えること」を停止させてしまうことでしょう。
・・・とは言え、このサイトのカラーとは合わないですね(笑)
-
- j-ryuさん 2016/10/02 06:10:25
- 尊敬します。
- 琉球熱さん、おはようございます。
昨日はご来訪&投票&コメントありがとうございます。
慰霊地巡りとはただただ尊敬します。
私なんぞ慰霊地どころか沖縄さえ行ったことがありません。
やはり天気が読みにくいのが足を鈍らせてしまいます。
もし、行けたとしてもわざわざ慰霊地を巡礼するような殊勝さはない人間です。
なんせ我が家の仏壇やお墓でさえ盆彼岸くらいしか手を合わせない人間です(^_^;)。
平和は大切だと感じますが
平和、平和と言葉だけ合唱しても平和になる保障はありませんよね。
現実と過去を見つめて平和とは何かを一から問い直すのも大切ですね。
j-ryu
- 琉球熱さん からの返信 2016/10/02 22:49:14
- RE: 尊敬します。
- j-ryuさん、早々とありがとうございます。
> もし、行けたとしてもわざわざ慰霊地を巡礼するような殊勝さはない人間です。
> なんせ我が家の仏壇やお墓でさえ盆彼岸くらいしか手を合わせない人間です(^_^;)。
沖縄通いが高じて、琉球王朝や沖縄戦に興味を持ったのが事の始まりです。
沖縄に行く頻度が数年に一回程度だったら、私もここまでやらなかったでしょうね。だから、戦跡を周るのは殊勝でも何でもないですよ(笑)
ただ、機会があって訪問することがあれば、誰でも厳粛な気持ちになるはずです。
> 平和、平和と言葉だけ合唱しても平和になる保障はありませんよね。
> 現実と過去を見つめて平和とは何かを一から問い直すのも大切ですね。
沖縄の戦跡を通じて、今のきな臭いご時世を考えるきっかけができれば幸い、と考えています。
何も“しない”ことよりも、むしろ何も“感じない”ことの方が恐いことです。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 沖縄の戦跡群
6
42