2016/09/18 - 2016/09/20
132位(同エリア4183件中)
琉球熱さん
シルバーウィーク、山に行くつもりだった。
ところが相方は沖縄に行きたいという。「じゃ、沖縄」。
彼女が青い海に潜っている間、私はガマに潜ることにした。
戦跡巡りにはそれなりの準備が必要だが、これが充分とは言えない状態だっただけでなく、この10年ほどの間で情報も増え、沖縄への想いも一言では言えない自分がいて、気持ちの整理がつかないままの出発となった。
第四弾の最終章は、読谷村。
日航アリビラをはじめとするリゾートホテルや世界遺産の座喜味城もありながら、のんびりとした生活臭も感じられる、恩納村とは趣を異にするエリアである。
沖縄戦では、米軍が初めて上陸した地でもあり、当然戦跡も多い。
ただ、南部のように観光資源化されていないので、どこも静かに見学できる。
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決して明るいテーマではありません。タイトル通り、戦跡ばかりです。
極力史実に基づいた内容だけを淡々と記述するつもりですが、一部の思い入れのある場所については、多少の私情が含まれています。
「史実」と言っても、沖縄戦当時の記録は、文献によって数値や見解に差異があることも多く、ここで採用した内容について是非の議論をするつもりはありません。
大事なのは、それほど遠くない過去、ここで多くの人が命を落としたという事実、その舞台が「琉球」という異国家だったという事実です。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- レンタカー ANAグループ
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初日の夕刻、南部の戦跡群を駆け回り、少し落ちた気持ちを癒すために立ち寄った喜名番所。
読谷村の戦跡について話を伺う。しかし新たな情報としては、シムクガマが以前ほど“クローズ”ではなくなったこと、チビチリガマの先に「さとうきび畑の歌碑」ができたことくらいだった。歴史と史跡 by 琉球熱さん道の駅 喜名番所 道の駅
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本日の宿は希望が丘。つまり周辺にはろくな店がないということ。
そこで、今夜の夕食も読谷で。
比較的新しく、沖縄では珍しくもつ鍋を提供する店「マリブ食堂」。
店内明るく、味もよし。 -
さて、今回読谷村での訪問予定はこの地図の通り。
チビチリガマは今回で4回目。掩体壕は2回目。しかしそれ以外は初訪問の地ばかりである。 -
順不同ながら・・・
「さとうきび畑 歌碑」
チビチリガマのもっと先にある。看板が出ているので迷うこともないだろう。逆に、看板なしでは難しい。そのくらい奥まった場所にある。
道路よりちょっと高くした園地、広くはないが芝生が張られている。さとうきび畑を一望する場所に by 琉球熱さんさとうきび畑 歌碑 名所・史跡
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この歌ができるきっかけ、背景などが刻まれた碑文。
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歌碑メイン
右手前のボタンを押すと「さとうきび畑」が流れる。
誰もいないだけに、その歌詞をもう一度噛み締めてみるには良い場所だろう。 -
「さとうきび畑の歌碑」から戻るような形で、「対照的」と軽々しく評することができない2つのガマ、チビチリとシムク。
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『チビチリガマ』
周囲がずいぶんきれいに整備された。小さいながらも駐車スペースもある。
でも入り口は以前と変わっていない。リアルな「生」の想い by 琉球熱さんチビチリガマ 名所・史跡
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これがチビチリガマである。
この前庭のような場所自体が、崩落したガマの一部のようになっていて、頭上は樹木で覆われている。
そのせいで、いつ来ても薄暗い。 -
右手、小川が流れている
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平和の像と対峙するように、がじゅまるの古木。
いつ誰が作ったのか?木の前に「チビチリガマの唄」と書かれた歌碑?
目障りなだけである。 -
ここで起こった凄惨な出来事を綴った石碑。
死者83名のうち約6割が18歳以下の子供達だったという。 -
ガマ入口には遺族からのメッセージ
これは12年前と変わっていない。
そして、絶えることのない千羽鶴。 -
チビチリガマ 世代を結ぶ平和の像
この場所が独特の、異様な雰囲気を醸し出しているのは、間違いなくこの像によるものだ。 -
琵琶法師の周りを見てほしい
初めて訪れてこの像を見た時の衝撃は、いまだに忘れない。
それは、ひたすら鎮魂を祈る他の戦跡と明らかに風情を異にするものだ。
そしてさらに・・・ -
平和の像の台座の内部
単なる“鎮魂”では済まされない、このガマで起こった出来事、
そして遺族の想い・・・ -
阿鼻叫喚
この世の地獄
親子、隣人同士が殺し合うという極限の世界。
娘が母親に殺してくれと懇願し、母親が泣き叫びながら実の娘の首めがけて鎌をふるった。これを皮切りに次々と… -
迫りくる米軍にパニックを起こし、「投降」の選択肢は教育されなかった住人たち、“自決”しかないと包丁、鎌、石で殺し合いを始めた…
これが今まで語られてきたチビチリガマの悲劇。 -
ところが、最近になってこのガマの数少ない生存者がその重い口を開き始めている。
『集団自決』と言う名の殺し合いを目の当たりにして生きて残った人たちが一様に固く口を閉ざし、ここで起こったことが戦後50数年間、明らかにされなかったのも無理はない。
生存者が語る“真実”とは・・・
これまで、チビチリガマの死者は「集団自決」によるものとされてきた。しかし、多くは「窒息死」だったらしい。
誰かが火をつけた布団の不完全燃焼による煙が壕内に立ち込め、多くの人を死に追いやった・・・どうやらこれが真実のようだ。
多くの人が死に至った原因が、これまで語られてきたこととは異なると言っても、ここで集団自決が行われようとしたことは事実であり、ガスが充満するガマから脱出しようとせずに死を選んだ思想的背景は、何ら変わるものではない。 -
そしてこのチビチリガマの悲劇はこれで終わらず、「平和の像」が右翼によって原形をとどめないほどに破壊されたのである。1987年11月、地元住民らによって製作・建立されてわずか7ヶ月後のことであった。
遺族会は「犠牲者は2度殺された」と憤ったという。
この事件の伏線には、海邦国体での日の丸焼き捨て事件があるが、さらに言えば、この焼き捨て事件自体も当時の沖縄と本土の埋め難い“溝”が原因である。
沖縄を巡る昨今のきな臭い事件の数々を見るにつけ、結局当時から何ら進展していない“大和と琉球”の関係に暗澹とせざるを得ないのは私だけだろうか?
「平和の像」が再建されたのは、7年後の1995年3月のことであった。
※今やすっかり有名になり、迷うことなく誰でも訪問できる場所になったが、戦後になっても歴史に翻弄された史跡として、真摯な気持ちで見学していただきたい場所である。
また、冬以外は場所柄、強烈な藪蚊が大量に生息しているので、対策は必須。 -
『シムクガマ』
同じ波平部落の防空壕で、チビチリと全く対照的な結果を残したガマがある。
それが「シムクガマ」だ。チビチリから1kmほどしか離れておらず、かつ避難民の規模は1000名と格段に大きいにも関わらず、ここの避難民たちは全員が生還した。
ここにはハワイ移民帰りの男が二人。英語が話せたことに加え、「鬼畜米英」の嘘、皇民化教育・軍国主義の嘘を知っていたのである。
彼らは住民を説得し、かつガマから出て行き米軍指揮官と交渉。「中には民間人しかいない。攻撃しないで欲しい。」
こうやって1000名の住民が「集団自決」を免れた。
軍が押しつける「死の論理」が支配したか否か、これが二つのガマの明暗を分けたのである。
このシムクガマ、雑草が生い茂りハブに注意しなければならない。また、水場にあることで雨の後は増水していることも多く、訪問は避けた方が良い。
場所は非常にわかりにくい。説明のしようがないが、今では集落のはずれに写真のような道標もできている。 -
同じ部落でチビチリガマとは微妙な関係にならざるを得ず、こちらの生還者たちも一様に口をつぐんでいるという。
無事に生還したのだからいいじゃないか、と単純に割り切れるものではないのだろう。
しかし、戦時下における民衆の「生の論理」の勝利のモニュメントとして、もう少し手を入れて見学ができるようにして欲しい、というのは身勝手だろうか? -
読谷村を走る58号線。
喜名番所から徒歩圏に、あまり知られていない戦跡がある。 -
『山吹の碑』
文字通り国道沿いなので、クルマは停められない。喜名番所の駐車場において歩く。
「山吹」の名の通り、砲兵隊の慰霊碑である。 -
萬華の塔の傍にあった「砲兵山吹の塔」と違うのは、遺骨収集と慰霊碑建立に当たった地元住民への謝辞が記されている点だろう。
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傍らに建つ「無名戦没者慰霊碑」
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碑の脇の階段を登ると「梯梧之塔」。
周辺住民が収集した遺骨を安置した碑に梯梧の木を植えたことから、「梯梧之塔」と命名。
さきほこる はなびらちりし でいごじゅに
くれないそめて なつはきにけり -
最初に建立した梯梧之塔が立入禁止区域になったため、この地に再建したとある。1956年。
当時の区長らの私財に募金を加えてのことだった。 -
沖縄出身らしい名前が並ぶ
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隣には『さくら之塔』
こちらも戦没者慰霊碑である。
やまざくら あらしにちるも はるくれば
いろかはたかく さとにみなぎる -
読谷村役場の周辺にもいくつか戦跡がある。
そもそも役場裏手の不自然な広い道路、これはかつての滑走路。目の前の道路はかつての誘導路である。
その「沖縄北飛行場」からは、特攻が飛び立つ予定だった。特攻機の格納庫も造られた(後述)。しかし、肝心の特攻機は遂に一機も送られてこなかったのである。
代わりにこの飛行場から飛び立ったのは、皮肉にも本土爆撃に向かうB29だった。 -
読谷村役場に立寄り、企画政策課にて村内の戦跡について情報収集。
村のHPには「読谷村の戦跡めぐり」というコーナーがあるが、その内容がそのまま書籍になっているという。
村立図書館の隣、読谷村史編集室で購入可能。500円とは思えぬ立派な内容だ。しかし残念なのは2007年以降、データが更新されていない点だ。 -
『忠魂碑』
役場から運動広場へ向かう途中、フェンスで囲まれたテニスコートの角に建つ。
クルマだと視線よりも高い位置にあるので、つい見逃してしまう。
この忠魂碑の異様なのは、碑文がほとんど削り取られ、一見した限りではただのコンクリートの塊であることだ。考えさせられる戦跡 by 琉球熱さん忠魂碑 名所・史跡
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慰霊碑とは、その名の通り、亡くなった人々を“慰霊”するもの。
一方、忠魂碑は、国のため、天皇のために死んだ軍人・軍属の“忠義”を顕彰するためのものである。
碑の表面をことごとく削った人物は、当然その意味を理解した上で事に及んだのだろう。
今では近寄れないように、周囲をフェンスで囲っている。 -
『掩体壕』と『義烈空挺体玉砕之地碑』
かつて4棟ほどあった掩体壕、今はどうやらこの1棟を残すのみのようだ。
その代わり、完全に戦争遺跡として「見せる」ように整備されている。畑の中に by 琉球熱さん読谷村掩体壕 名所・史跡
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以前(2010年・2011年)の掩体壕
この粗末で貧相な建造物に特攻機を格納する予定だったというのだから、泣けてくる。しかし肝心の特攻機は遂に送られてこなかった。
戦後もある意味「現役」で、牛や豚の飼育小屋だったり、農機具の倉庫になっていた。
その滑稽さがあまりに悲しい。 -
内部には入れないが、掩体壕ほか、付近の戦跡群のパネルが掲示されている。
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裏側(後方)の窓からのぞいてみる。
老朽は避けられないため、かなり念入りに補強されている。 -
掩体壕の外側
公園に造られた“山”のよう・・・ -
『義烈空挺体玉砕之地碑』は以前は役場の真ん前にあった。
いつ頃かここに移設されたわけだが、役場の企画政策課でも把握していないというのはどういうことだろうか?
また、この碑を建てた人・団体も不明らしい。
それでも、この碑を参拝する人はいるようだ。
義烈空挺隊と聞こえは良いが、結局は「肉弾戦」。
この沖縄北飛行場(読谷飛行場)は、軍が地元民間人の労働力を総動員して造り、さしたる役割を果たせぬまま米軍に占領され、奪還の見通しも立たないままに、滑走路を使わせまいとして、ただそれだけの目的で113名もの少年兵に自爆突入させた。
こんなお粗末な“作戦”のために命を落とさざるを得なかった人たちが、果たして「玉砕之地」などと都合の良い文言で慰められるだろうか? -
次に訪れたのは、渡久地ビーチ。
地元の人たちがのんびり海水浴やビーチパーティを楽しむ長閑な場所だ。
しかし、ここは米軍が沖縄本島に初上陸した場所でもある。 -
ビーチ入口は「泊城公園」
ちょいと洒落たレストランがある。おきなわポークビレッジ グルメ・レストラン
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渡具知ビーチ
美しいビーチである。ローカルな美しいビーチ by 琉球熱さん渡具知ビーチ ビーチ
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泊城公園は、ビーチの端から比謝川河口にかかる小高い丘の地形を利用した公園。
遊歩道を行くと、琉球石灰岩特有の奇岩を見ることができる。 -
戦前から行楽の場所だったようだが、「トゥマイグシク」という、琉球三山時代のある種の城があったらしい。
おそらく「城郭」というより「基地」のようなモノだったのだろう。 -
その巨大な奇岩の上部、以前は行けたようだが、今は立入禁止になっている。
惜しい・・・ -
ぽつんと、しかし大事そうに設えられた『梵字碑』
「地・水・火・風・空」を表しているという。
航海安全を祈願したものと考えられているそうだ。 -
梵字碑の前に崖の際を通る小径があった。
進んでみると、墓碑。
先ほどのトゥマイグシクの説明板にも登場した“岳春”の墓。
三山時代のものにしては新しい。建て替えられたのだろう。
それにしても、ここでは「岳春」となっているが、説明板では「丘春」である。 -
さらにすすむと、今度は洞。
手前には祭壇のようなもの。
周囲が黒く焦げているのは、戦時中のものか、祭壇での火のためか? -
お次は『ノロの墓』
これも近年整備(?)されたもののようだが・・・ -
鷹の目いわや(窟屋)
岳春とその家来がここに葬られた、と説明板にあった。 -
ようやく頭上が開けた場所に出た。
これもわかりにくいが、『大湾按司の墓』とある。
奇しくも、読谷村の入口の一つに「大湾」という地名が今でも残っている。何か関係があるのだろうか?
コンクリートとブロックで固められた入口。
洞窟だったと思われるが、あのブロックの穴から覗く(参拝する)のか?
ちょっと怖気づいて覗けなかった・・・
それにしても不思議な遺構群ではある。
頭上を樹木に覆われた、崖の際の道。夕暮れ時は入りたくない場所だが、足場はきちんと整備され、人の往来の痕跡は多々あれど、積極的に「見せる」つもりはないのだろう。その割に、一つ一つに不充分ながら標識のようなものを設置しているのは何故だろうか? -
戦跡とは無関係の遺跡を見た後は、『米軍上陸の地碑』
小高い丘の上、先ほどの『大湾按司の墓』の上部に当たる。
見晴らしの良い場所だ。 -
碑文 沖縄戦終結50周年のモニュメント。
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比謝川河口の米軍の写真がレリーフになっていた。
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米軍の侵攻ルート
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比謝川河口
向かいは嘉手納町。
ここから米軍が侵攻して行った。 -
泊城公園の真下に特攻艇秘匿壕があるが、公園から直接行くことはできない。
いったん公園を出て、住宅街を抜けて、海岸に出る。
長閑なビーチがあった。 -
その右手、崩落しそうな崖の下に墓碑。
文字が一部消されたりしているが、これも崖上の遺構群と同じ時代のものだろう。
同じく、洞の入口をコンクリートで埋めてあり、中に入るどころか見ることもできない。
拝所のようだ。 -
海岸(磯)を進むと崖の中腹に洞窟。
-
足場はすこぶる悪いが登ってみると、あった
『特攻艇秘匿陣地跡』
特攻艇とは、文字通り「体当たり攻撃」を目的にした一人乗りの兵器。
映画『出口のない海』で有名になった人間魚雷「回天」は、その名の通り「魚雷」だが、ここで言う「特攻艇」とは、ベニヤ板一枚の粗末な舟(「船」とは呼べない代物)に爆薬を積んで敵艦に体当たりするものである。 -
背丈の高い雑草が茂っており、入口まで行くのは躊躇われた。
門扉は破壊されている。
海軍は「震洋」、陸軍は「四式肉薄攻撃艇」。呼称は違っていても、目的は同じである。
そしてここは陸軍の基地だったそうだ。 -
こちらは実際に特攻艇を格納した壕だろう。
海岸線にいくつか点在している。
当時この場所は立入禁止となっていたため特攻艇が何隻収納されていたかは不明。また、実際に秘匿艇壕が使用されたのかも定かではないという。 -
ここ読谷では、明暗を分けた2つのガマがあり、だからこそ生まれた、戦後まで続く悲劇がある。
また、米軍が初めて上陸した地でもあり、住民総出で建設された飛行場は、皮肉にも本土爆撃に使用されることになり、『特攻』などと言う馬鹿げた“戦法”の遺構があった。
戦後70年が経ち、『赤い海、黒い空の色を どれだけの人が知っていますか』と唄う若い母親は、この地の出身である。 -
今回の戦跡巡りで、かつて放置されていた戦跡がだいぶ整備されてきたことがわかった。
この点は、素直に喜びたいところだ。
しかし、整備の進展が必ずしも「吉」となっていない現実も見えてきた。 -
「平和学習」と言う行為が、ここ沖縄ではビジネスとして成立し、それゆえにさまざまな利害が絡んでしまって、本来の戦跡保全や後世に伝えるべきことが置き去りにされてしまっている部分も見受けられる。
そもそも戦跡群をどう残していくか、何を伝えていくべきか、この点が曖昧で統一されないまま、それぞれの業者・団体・自治体が「勝手に」平和学習ビジネスに乗っかってしまった結果が今日の姿のように感じる。
戦跡群が持つ意味、その価値観はやはり沖縄県として統一されるべきだろう。
ガイドにも統一した基準を設けて、許可制にする等の施策が必要ではないだろうか?
戦跡は永遠ではない。時と共に劣化し、崩壊する運命にある。だからこそ、何を残し、どう保全するかをしっかり決めておく必要があるだろう。
このルールを決めるのは自治体(県・市町村)以外にない。だからこそ、そのプロセスには、遺族会や有識者の意見を充分に汲んでオープンな議論を重ねることが重要になってくる。
少なくとも、今回ご紹介したヌヌマチガマに見る八重瀬町のようなやり方では、禍根を残すばかりで何も良いことがない。 -
個人的には、戦跡見学の団体優先志向には反対だし、修学旅行の高校生たちに実際のガマまで見学させる必要はないと考えている。汚れることを気にして本来の説明も上の空のような状態では意味がないし、悲惨さを伝えるなら、ひめゆり平和祈念資料館や平和祈念公園の資料館をしっかり見学ことで充分だろう。
ガマの闇を体験させたいなら、平和祈念公園等に疑似体験コーナーを作ればよいことである。
価値がわからない団体や物見遊山の団体を招き入れて、結果内部が荒れて入壕制限がかかるというのは本末転倒であり、金儲けを優先していると非難されても仕方ない。 -
また一方で、沖縄の「今」を考える上でも、70年前にこの地で起こったことを知っておくべきだろう。
辺野古や高江で起こっている問題を、「今」だけ切り取って「沖縄はけしからん」と非難する声もあるが、そもそも「そこ」に至るまでの経緯や、問題行動を起こしている多くが本土から遠征している“デモ屋”である実態、家を守るために親族で賛成・反対の両派に分断することを選択せざるを得なかった人々の無念、住民同士の軋轢を画策する裏の動き、ひいては「嫌沖縄」の風潮を喚起しようとする者がいることなどを考え合わせると、安易な批評や非難はできないはずだ。 -
戦後70年が経ち、戦争の記憶が風化しつつある今だからこそ、「あの日」を後世に伝えていくために「考える」ことが必要な時期に来ているのではないだろうか?
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旅行記グループ
沖縄の戦跡群
この旅行記へのコメント (8)
-
- ぽっちさん 2020/12/01 22:56:20
- 貴重な旅行記
- 琉球熱様こんにちは、ぽっちです。
沖縄戦跡旅行記、拝読させていただきました。
私も以前は毎年のように沖縄戦跡を巡り、数多ある壕にも訪問させていただきましたが、チビチリガマだけがなぜか、上手く表現ができないのですが胸がざわざわとして階段より下へ足を運ぶことができなかった記憶がよみがえってきました。
いくつかの戦跡を訪れたとはいえ、知らない場の方がもちろん多くありますので琉球熱様の旅行記で大変勉強になりました。
再度沖縄へ訪問する際の参考にさせていただきたく思います。
貴重な旅行記をありがとうございます。
- 琉球熱さん からの返信 2020/12/02 23:15:02
- Re: 貴重な旅行記
- ぽっちさん、こんにちは
沢山の投票、そしてコメントまでありがとうございます。
私はぽっちさんのように東南アジアまで遠征する根性がないのですが、沖縄の戦跡だけはかなり周ったと言えます。
観光で成り立っている沖縄県なので、戦跡も観光スポット化されてますね。止むを得ない事情もあるでしょうが、残念ながら、それでは見えてこないものが数多くあると感じています。
思うに、この国はあの敗戦からほとんど何も学んでこなかった、お涙頂戴の安っぽいドラマに仕立てて、大衆の目を逸らすよう仕向けてきたとしか思えないのです。
ぽっちさんは「何か」お持ちのようですね。
私の、多少霊感のある友人も、あのチビチリガマだけは気分が悪くなり、「早く帰ろう」と言った表情は、切羽詰まったものでした。
私はそっち方面は全く疎いのですが、やはりあそこだけは背筋に(ちょっと表現しにくいのですが)悪寒と言うか、何か嫌なものを感じます。
あのガマは戦後になってもなお、政治的思想に弄ばれた不幸な経験を持っていますが、それも無縁ではないような気がしています。
最近、少し足が遠のいている沖縄ですが、ぽっちさんが再訪されるのであれば、是非とも戦跡のレポートをお願いしたいです。
嬉しいコメント、ありがとうございました。
---------琉球熱--------
- ぽっちさん からの返信 2020/12/03 08:45:25
- Re: 貴重な旅行記
- 琉球熱様おはようございます、ぽっちです
返信ありがとうございます
敗戦から何も学ぶことなくと、琉球熱様のおっしゃる通りと思います。犠牲者の方々個人に焦点をあてまさにお涙頂戴の話にすり替えているように、私も思います。
国として伝えていくべきはもっと本質を晒すくらい(表現があっているかは分かりませんが)でないと、戦争や平和に対する意識がなお薄っぺらく(かくいう私こそぺらぺらなのですが)なってしまうような、そんな気がします。
琉球熱様の考え方や表現は私にとって大変勉強になるものですので、フォローさせていただきたく、また旅行記を拝見させていただく存じます。
素晴らしい旅行記をありがとうございます重ねてお礼申し上げます。
- 琉球熱さん からの返信 2020/12/03 22:49:19
- Re: 貴重な旅行記
- ぽっちさん、再度ありがとうございます。
戦争の悲劇は「戦後」も続くことを忘れてはならないと思いますが、日本では「戦後」が華々しい復興の象徴のように使われることが多いように思います。
しかし沖縄ではいまだに戦後が続いていますし、私の大好きな街横浜にも戦後の悲劇の跡が残っています。
RAAなどは戦後を語る上で不可避な言葉であるはずです。
> 琉球熱様の考え方や表現は私にとって大変勉強になるものですので
あ、それは止めた方が良いです(笑)
普段はノー天気に、山に行くことばかり考えているような輩なので(笑)
他の旅行記を読めばすぐ馬の足が出てきます
フォローありがとうございます。
こちらからもフォローさせていただきます。
---------琉球熱--------
-
- エスペラさん 2016/11/13 08:02:55
- 貴重な記事をありがとうございます
- 琉球熱さま こんにちは。
ヌヌマチガマの変わりようなど驚きました。
お書きになったひめゆりとその他の関心の持たれようの違いは、沖縄内部の差別の問題に突き当たらざるを得ないのではないでしょうか。
私はもっぱら仕事で沖縄に何度か行きましたが、本島南部と北部、本島と離島の対立、あるいはお金持ちとそうでない人との対立は、時に本土以上のものを感じることがありました。ひめゆりの問題も第一高女とそれ以外という点は抜きにしては考えられないと思っています。もちろん、第一高女は同窓会組織が強固だったということもあるかとは思いますが。
この沖縄内部の差別の問題が現在の基地問題にも大きな影を落としていることを意識しなければ、私たち自身お書きになった本土からの「デモ屋」と大差はなくなってしまうのかもしれません。
少し偉そうな話になってしまいましたが、これまで知らなかったことも多く、貴重な記事に感謝します。
- 琉球熱さん からの返信 2016/11/14 00:17:51
- RE: 貴重な記事をありがとうございます
- エスペラさん、ご無沙汰してます。そして、投票&書き込み、ありがとうございます。
以前のヌヌマチガマをご存知だったのですね。あの戦跡(以前の)を知っているというのは、かなり珍しいと思いますが、何かのきっかけがあって調べたのでしょうか?
私は南部の戦跡を調べているうちに、糸満市の教育委員会の資料で初めて知りました。
おっしゃるように、沖縄県内でも本島と離島の温度差はありますね。「対立」とまで行かなくても「疎遠」と言うか、一つの県としての意識は薄弱のような印象を私も受けることがあります。
県内の、それも本島内での対立構造は、多分に外部(本土)が助長している側面もあります。
ただ、戦跡としての「ひめゆり」を考えた場合、安易なお涙頂戴映画が原因の一つでしょうし、それに安易に乗った沖縄側の事情もあるように思えます。
しかし原因がなにかと言うことよりむしろ、それをきっかけにして関心の対象が広がればよいと思うのですが、現実はなかなかそうは行かない。「ひめゆり」で終わってしまう。これこそが、「観光化」と「平和学習」の弊害です。
「観光化」と「平和学習」そのものが悪いのではなく、これまでのやり方に問題があったと思えてなりません。
沖縄戦の戦後処理については書き切れない思いがありますが、旅行記にも書いたように、「考えること」をやめてしまうことが最も危険なことだと思います。
貴重なご意見ありがとうございました。
-
- ちゅらさん 2016/11/07 01:02:37
- あの日の沖縄 最終章に込める想い...
琉球熱さま こんばんは。
娘が小さかった頃、むら咲きむらが大好きで
夏休みの工作作成に 珊瑚や貝殻細工、シーサー作りに琉球グラス作りにと
毎年のように楽しみに通った場所
そこから、わずかな場所で起こった悲劇
初めてチビチリガマを訪ねた時の心の動揺が...
あれから足を向けることができず今に至っています
これまで語られてきたこととは異なると言っても、ここで集団自決が行われようとしたことは事実であり、
ガマから脱出しようとせずに死を選んだ思想的背景は、何ら変わるものではない。
本当にそうですね。
遠くは、中国に薩摩に翻弄され
軍が押しつけた「死の論理」 現在に至っては、本土から遠征している輩に思想まで
仮に、米軍が撤退した後の失業者問題をどうするのか..
そんな住民の本音の声をポツリと聞くと
琉球という美しい異国を 勝手に利用し続けている無責任な歴史が疎ましく
本土の人間としてとても複雑な気持ちになります。
過酷な状況が今も続いている沖縄
「あの日」を後世に伝えていくために「考える」
今後、どうすれば沖縄で、無残にも犠牲になった人々に償えるのか
私も変わらず考え続けます。
美しい琉球という異国を後世に伝え続けるために
とても貴重な旅行記を ありがとうございました。
ちゅら
- 琉球熱さん からの返信 2016/11/09 01:06:59
- RE: あの日の沖縄 最終章に込める想い...
- ちゅらさん、こんにちは。いつもありがとうございます。
チビチリガマは確かに衝撃ですね。私も初めて訪れた時はとてもショックでした。あの一帯は戦没者の怨念がこもっているような気がします。それは、無念の死を遂げたことだけでなく、戦後に受けた心無い「仕打ち」にも起因しているのではないかと。
「平和の像」の台座の中は、綺麗事では済まされない慰霊の姿であるように思えます。
> 仮に、米軍が撤退した後の失業者問題をどうするのか..
基地の“経済効果”は本土の人間が考えるほど高くないと言います。沖縄経済界の多くの人が、基地はいらないと言っています。頼もしいですね。
重苦しい旅行記にお付き合いいただき、ありがとうございました。
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