2016/04/14 - 2016/04/18
167位(同エリア660件中)
たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん
≪2016.April≫あみんちゅ歴史に触れる旅 with no plan,沖縄本島その参之参~3日目前半:糸洲・米須・宇江城・真栄里編~
毎年4月は恒例の1week&mulch island travelパターン。しか~しいきなりやっちゃった・・・。In のPeachは便を間違えて取り直し、帰りの石垣outに至っては入金し忘れて記録が消されてしまった・・・。自分の楽しみに対する不始末を人のせいにはしたくはないが、ややこしい輩が今職場におり、旅行前日に必ず厄介なことを起こす。結果期間短縮行き先変更を余儀なくされた・・・。こんなのがいることだけで不愉快な日々を送っているため、その息抜きの沖縄旅行であるもののそこでダメ出し食らうとは・・・。という経緯からNo Plan沖縄本島の旅が始まります。さあどんな弥次喜多道中が待っていたのでしょうか?それでは中日3日目前半がスタートします♪
【平成28年4月16日土曜日】
ペンション喫茶南の楽園 12:38 (0.0km:113.8km:0.0km/h)
糸洲の壕 12:44(1.5km:115.3km:15.0km/h)
13:15
糸洲農事集会所 13:17 (0.3km:115.6km:10.0km/h)
13:33 (糸満市字糸洲86-1)
ファミリーマート糸満米須店 13:41 (3.2km:118.8km:24.7km/h)
13:55
忠霊之塔 13:58 (286m:徒歩:5.8km/h)
14:02
ファミリーマー糸満米須店 14:05 (286m:徒歩:5.8km)
14:17
山雨の塔 14:25 (2.5km:121.3km:19.3km/h)
14:43
南北之塔 15:18 (8.8km:132.1km:15.2km)
15:33
白梅之塔 15:38 (3.0km:135.1km:37.5km/h)
16:15
山形の塔 16:17 (0.2km:135.3km:6.7km/h)
16:29
【前半ここまで】
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【後半ここから】
ひめゆりの塔 16:39 (4.5km:139.8km:28.2km/h)
18:05
糸洲第二外科壕跡 18:10 (3.0km:142.8km:37.5km/h)
18:27
轟の壕 18:30 (1.5km:144.3km:30.0km/h)
18:43
あしびなー沖縄 18:58 (7.1km:151.4km:27.4km/h)
【夕食】 20:27
ローソン豊見城宜保店 20:32 (1.2km:152.6km:15.0km/h)
20:45
マックスバリュー豊見城店 20:52 (2.0km:154.6km:18.2km/h)
21:20
ペンション喫茶南の楽園 21:37 (10.4km:165.0km:37.2km/h)
【ナイトドライブ出発】 23:23
ペンション喫茶南の楽園 23:46 (4.3km:169.3km:11.4km/h)//
旅3日目の朝を迎えました。朝ご飯を8:00にお願いしておいたので時間通り降りて行きます。たっだ~3日目にして寝不足が続いていたことが辛くなり、ここで無理をするとドツボにはまるため、本日の行程を一部変更し出発を遅らせるとともに本日もペンション喫茶南の楽園に宿泊することを決めます。朝食を頂いている間に予約記録がFaxされてきて、本日の宿泊も決まり、もうしばらく寝ることにしますzzz。
今回の旅はNo Planでありながら天候に大きく左右される要素がありました。壕やガマなど雨が降るとその水が壕内に流れ込むため、足場が悪くなると同時に水脈があると増水のため入れなくなることもある…。まして沖縄入りする前は結構雨が多かったこともありどうなることやら…と思いつつ今日の行程を見直します。
取りあえず昨晩仕入れた情報で、宿から〝糸洲第二外科壕跡〟と〝轟の壕〟は自転車で行ける範囲ということを知り、一度車で行ってみて場所の目星を付けてからと言って出発します。先に前回訪れた〝糸洲の壕〟を再訪した後糸洲集落へと戻ってきて探しますが、このあたりの情報は知られているようで知られていないところがあり、小波蔵の集落に近い〝糸洲第二外科壕跡〟もピンポイントの情報がありません。どうやら〝糸洲農事集会所〟の付近のように書かれているものもあったので、一度〝糸洲農事集会所〟まで戻ってきて歩いて集落内を見て回りますが見つからない…。結果的にはその道中にあったという〝オチ〟でしたがそんなことは知る由もなく、雨が降ってくるという予報に従い次の目的地へと向かうことにしました。
何度となく利用しているファミリーマート糸満米須店に立ち寄り、恒例の〝気付けのドリンク一本〟を飲み干し、何回か訪れているものの上手く写真が撮れていない〝忠霊之塔〟へと歩いて向かいます。米須小学校の向かいにあり、沖縄県道7号線という主要道路に面しているにも拘らず〝駐車スペース〟がないので夜の訪問しかできていませんでしたが、真っ暗な場所ゆえモバイルライトではまともな写真も撮ることができません。歩いて数分の距離ゆえ歩いてみましたが、慰霊碑がポツンと建っているだけに過ぎないため小学校の向かいにあることを知らなければわからないかも知れません。今の主要道路は沖縄戦時には軍の南部への敗走ルートであり、集落住民と兵士が混在して入っていた壕出会ったものの、米軍の馬乗り攻撃を受け、兵士・住民とも多くの犠牲者を出しました。正確な犠牲者数は不明ではあるものの、その後の調査で判明した住民の犠牲者(一家全滅を含む)159名の名前が刻まれています。改めて手を合わせて犠牲者のご冥福を祈った後、今来た道を戻って車へと戻り、宇江城(うえぐすく)集落へと向かうことにします。
距離はさほどないもののやはり場所がわかりません。番地で検索するも〝該当場所なし〟と表示されるので、ゆっくりと場所を探して行きますがどうやら付近にバス停がある様子。とはいえどの程度のバスが通るのかもわからず走って行くと…ありました。一応舗装された道路の脇にポツンとある碑の存在が。しかし碑の真正面はバスや車が通り、その隣は畑へ向かわれる車が通る場所ゆえ車を停める場所を探しますが、どうやら碑の前にしか停められる場所はなく、急いで見学をすることにします。
山雨の塔〝さんうのとう〟と読まれがちのようですが〝やまあめのとう〟と読みます。沖縄戦に於ける日本軍の組織的抵抗が第32軍司令官の自決によって終了したとされる昭和20(1945)年6月23日以降も、隷下の第24師団司令部がこの場所のクラガーに籠りゲリラ戦を続けていましたが、6月28日米軍の攻撃を受けて壕の入口が破壊され、隷下部隊で玉砕した第22連隊と第89連隊の連隊旗を奉焼し、6月30日第24師団師団長雨宮巽中将以下幕僚と将兵が自決した場所です。終戦後生き残った配下の将兵により〝雨宮巽中将自決の跡〟という木札が建てられたものを改修し、現在の〝山雨の塔〟が建立されました。なんとなく見ていると気付かないことなのかも知れませんが、この〝山雨の塔〟という命名には確固たる謂れがあります。第24師団は通称〝山〟部隊、そして師団長は〝雨宮巽中将〟。つまりその二文字を合わせて命名されたものこそがこの〝山雨の塔〟と言うことになります。碑文を読んでもその軍としての謂れが書かれていることから嫌悪感を抱かれることもあることは聞いているものの、やはりそれだけでは史実を知ることにはなりません。どんなことでもそうですが、一歩進んで何事も見ることこそが過去の過ちを繰り返さないことに繋がるように思えます。
そして山雨の塔下には〝暗い井戸〟の意味を持つ〝クラガー〟が開口しています。ここについては入壕不可とは記載されておらず、詳細が不明だったものの以前同様扉が開いていたこともあり少し奥まで下りてみました。水脈が豊富なのは一見してもわかる場所なので、奥へと続く通路は確認できるものの、昨今の降雨によって水の量が増えていることもわかります。携帯は圏外であり万が一のことが起こっても当の私は自業自得ですが、行方不明者のために住民の方々にご迷惑を掛けることだけは避けたいと思い、作られていた祭壇に手を合わせて壕内から出てきました。かなり足元がぬかるんでおり、気をつけないと転倒する危険性が高いため注意が必要です。最後に山雨の塔にも手を合わせて次の目的地へと向かいます。
次に向かった先は南北之塔。真栄平集落にありさほど離れてはいないはずですが場所がわかりません。よくわからないまま走っているといつの間にか八重瀬町の仲座交差点に出てしまい、そのまま来た道を戻ったりしたもののやはりわからず・・・。結局真栄平の畑のど真ん中で車を脇に停めて周辺を眺めるもわかりません。準備不足を悔やみますが仕方がありません。次回に回そうかと思っていたところ、神様が降臨します(笑)。地元農家のオジィが来られたところを見逃さず、尋ねると、丘にあるビニールハウスの向こうにあるさ~と言われます。トロトロと車を進めながら向かうと・・・ありました。納骨堂のような建物の姿が。向かいには先客がいると思いきやなにか他の目的だった様子。だんだんと天気が崩れている最中、速やかに見学と参拝を済ませます。
南北之塔は沖縄戦の激戦地のひとつであった真栄平の地では、戦後に集落に戻った住民達が付近に散乱していた身元不明の遺骨数千体を集落後方にあった〝アバタガマ〟に収め、真栄平納骨堂と呼んだことに始まります。その後集落では永久的や慰霊塔を建立することを決定し、住民からの分担金やその他からの寄付金を集め、それを元手に昭和41(1966)年に南北之塔を建立しました。この南北之塔の謂れについて、アイヌ民族との繋がりを語るものがあります。確かに沖縄戦に於いて都道府県別戦没者数が沖縄に次いで多いのが北海道であることは周知の事実です。その寄付金の出処の中で、第24師団隷下の部隊に所属していた元兵士の方の存在があります。碑の建立時には大金だった寄付をされている事実はあるものの、塔に刻まれた〝キムンウタリ〟(アイヌ語で山の仲間)の文字により、南北之塔=アイヌの墓という解釈がされ、イチャルパという供養祭を開催されたことが論議を醸し出した経緯があります。これには賛否論があり、また真栄平集落の住民の中でも意見が割れているため、第三者がコメントすることはできないものの、塔の命名が〝南から北まで〟の戦没者〝別け隔てなく〟という理由から付けられていることを踏まえると残念な結果のように思えます。確かに全ての住民の方の意見ではないものの、慰霊というものがプロパガンダとして利用されているならば、こんな残念なことはないと思います。アバタガマや南北之塔敷地内に建立されている軍関連や兵士家族の慰霊碑が地元の許可を得ずして建立され、世話役がないまま放置されていることは、遺族感情はわかるものの、沖縄県が抱える無縁慰霊碑の増加に対する懸念に繋がっていることを踏まえ、深刻な問題になっている事実も忘れてはならないことのように思います。
ただ一観光客が意見を述べることではないので、それぞれの碑に手を合わせて先へと急ぎます。2月にも訪れた白梅之塔とその周辺の慰霊碑と戦跡ですが、日暮れの絡みで急いで回ったため改めて訪れます。白梅学徒自決之壕、夕暮れ時に訪れると日差しが差し込まないため大変暗かったイメージが強かったのですが、今日はまだ奥の祭壇付近まで日差しが差し込んでいます。入口と階段数段を残した場所で立ち止まり、手を合わせてから進みます。祭壇で手を合わせから付近の闇の中を見ると、入口から差し込む日差しが余計に眩しく感じます。70年前に多くの学徒達がここで何を見て、感じて考えていたのかはわかりませんが、今のように命の危険もなく、外の明るさを感じることはできなかったろうに・・・という気持ちに駆られながら手を合わせて壕から外へと出て行きました。
壕の隣にある白梅之塔へも足を運び、納骨堂と合わせて改めて手を合わせます。慰霊塔の両脇に座るお地蔵様。柔らかい表情のお顔が一層寂しさを引き立てるようにも思えるのですが、少しお顔にコケが付いていることに気付き、洗っても良かったのかな?と思いながら歩き始めます。
学徒隊の慰霊碑近くに軍や米軍将校の慰霊碑があることに嫌悪感を抱かれる方も多いとは聞きます。しかし一観光客の立場では口を出すことではないと思いますので、敢えて追悼という思いを抱き手を合わせながらお参りして行きます。最後に白梅之塔上の壕に手を合わせ、時間の許す限り行こうと思っていたひめゆり平和祈念資料館へと向かいます。
~後半に続く~
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- 交通
- 5.0
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 3万円 - 5万円
- 交通手段
- 高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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朝を迎えました。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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ペンション喫茶南の楽園、喫茶コーナー。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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ペンション喫茶南の楽園、喫茶コーナーカウンター。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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ペンション喫茶南の楽園、喫茶コーナーテーブル。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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朝食を頂きます。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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一階のおトイレ。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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一階のバスルーム。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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一階のバスルーム内、洗面所。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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一階のバスルーム。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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一階のバスルーム内、シャワー。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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一階のバスルーム。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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一階の洗面所。
ペンション・喫茶 南の楽園 宿・ホテル
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昼からスタートしたものの最初に向った糸洲第二外科壕跡は場所がわからなかったため、3月に訪れた糸洲の壕へと向かいました。
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国道から脇道に入ってここを曲がります。
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入口から遠い方にある?鎮魂の碑?。
内容から判断すると犠牲者遺族の建立かと思われます。 -
入口に付近にある?鎮魂之碑?は?山部隊(第24師団)第2野戦病院戦友会?の建立です。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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昭和60(1985)年6月23日の建立となっています。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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入口は相変わらずわかり辛い?糸洲の壕?です。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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糸洲の壕入口付近は階段が設けられています。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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どんどん下りて行きます。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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最後は地道になっています。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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底の部分に到着しました。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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底の部分に到着し、あたりを見回しますが目が慣れていないこともありほとんど見えません…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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右方向に白いものが写っているように見えますが、ハレーション(光の乱反射)の影響です。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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遺物が固めて置いてあります。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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前回訪問時は日暮れの時間もあり細かいところまで観察していませんが、奥行きは結構あるようです。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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奥に続く黒いものはなんでしょう…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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拝所が設けられています…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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奥へと続く黒い物体…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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それは…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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なんとホースなのです(驚)。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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奥へと続く足場のブロック…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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おや足元が写ってしまいました。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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糸洲の壕(ウッカーガマ)は轟の壕へと繋がっていると言われています。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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手前の岩に残る白いものは…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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馬乗り攻撃を受けた時の爆発物の金属が溶けたものだと言われています…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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奥へと続くホースと足場のブロック…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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小さな懐中電灯しか持たない装備ではこれ以上は無理だと思います。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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このホースは地下水をくみ上げるためのものです。
元々地下水脈に恵まれた糸洲の壕は、水を汲みに行く必要はなかったとされています。戦後付近で農業を営む方々はその水脈を利用してポンプで水を組み上げて利用されています。糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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これは逆方向の水脈の様子です。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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奥行きはそれほどないようですが、見た感じで入ることは不可能のように思えます。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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ドス黒く残っているものは火炎放射器の跡。その先端にある白いものは70年かかって成長した鍾乳石ではないでしょうか?
70年前に戦場となった?糸洲の壕?は今なお生き続けています。糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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こちらの大きなものは金属が溶けたものです。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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ホースは奥へと続きます。
参考までにこちらがデジカメ画像です。糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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同じ場所でのiPhone6sの画像です。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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人が入ることもないであろう方向の水脈にもホースは繋がっています。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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もう一ヶ所遺物が集められていましたが、ゴミもあるようです。しかし触れることはためらってしまったのでそのままにしておきます。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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それでは出口へと向かいます。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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外の明るい光を…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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壕に籠っていた学徒達はどのように思っていたのでしょうか…。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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糸洲の壕入口へと戻ってきました。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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最後に?鎮魂之碑?に手を合わせて出発します。
糸洲の壕 (ウッカーガマ) 名所・史跡
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糸洲集落にある?復興乃泉?。戦後間もなくの混乱期に作られたもので、当時は飲料水と農業用水等に使われたものだそうです。
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一旦いつも来ているファミリーマート糸満米須店へとやってきて、ドリンク&一服タイムを摂ります。
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そして夜にしか訪れたことのない?忠霊之塔?を訪れます。
忠霊之塔 名所・史跡
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塔の前面には戦没された集落の159名の氏名が刻印されています。
忠霊之塔 名所・史跡
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第二次世界大戦戦没者之碑 昭和20(1945)年6月20日死亡人数159名と刻まれています。
米須集落自治会の建立ですが、この人数には兵士の数は含まれていません…。忠霊之塔 名所・史跡
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山雨の塔へと到着しました。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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かなり迷って?山雨の塔(やまあめのとう)?へと辿り着きました。
?さんうのとう?と表記されているものが少なからずあるようですが、この碑には確たる命名の謂れが存在しています。元々戦後に部下生存者の手で?雨宮中将戦没の跡?という木柱が建立されていましたが、昭和37年(1962年)10月に沖縄遺族連合会が財団法人沖縄協会の委託を受けて現在の塔に改修して現在に至っています。
中央の塔が雨宮師団長で、両脇が師団長を支える幕僚を表し、雨宮司令官を助ける幕僚の姿とモチーフに作られたものだそうです。そして第24師団=通称?山?部隊。そして?雨?宮巽司令官、その二文字から名付けられたものが?山雨の塔(やまあめのとう)?になります。クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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山雨の塔中心部には碑文が刻まれていました。
大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和19年 8月、遙か北満より雨宮巽中将の統ぶる山兵団長駆沖縄の布陣に参加す。翌20年 4月 1日上陸せる米軍を迎撃、血戦 3か月に及んで刀折れ弾尽き 6月30日兵団長以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大儀に生く。茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を伝う。
昭和37年10月 沖縄県遺族連合会クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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歩兵第22連隊軍旗奉焼之地と刻まれた石碑。
玉砕した歩兵第89連隊と第22連隊の連隊旗を奉焼し、昭和20(1945)年6月30日第24師団長雨宮巽中将以下将兵が自決された場所が?山雨の塔?の下に広がるクラガーです。クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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山雨の塔を回り込むように歩くと、クラガーの入口があります。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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階段の途中には千羽鶴が吊り下げられています。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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その奥には拝所が設けられていました。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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拝所です。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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底部まで下りましたが、階段にも泥が堆積しており足元は非常に悪いです。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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本来ならば写真右手の中だけに水がたまっているらしいのですが…。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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私が沖縄入りする前数日間は非常に強い雨が降っていたとのことで、その影響により地下水脈は増水し、足場も悪くなっているようです。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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クラガー(暗い井戸の意味)の様子、その①。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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クラガー(暗い井戸の意味)の様子、その②。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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クラガー(暗い井戸の意味)の様子、その③。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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それでは出口に向かいます。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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外の明るさは戦時中にはどのように映っていたのでしょうか…。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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クラガーの入口。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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階段を上がって行きます。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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最後に山雨の塔に手を合わせて、次の目的地へと向かいます。
クラガー 山雨の塔 名所・史跡
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再び迷った末、地元農家の方に聞いてやっと辿り着けた?南北之塔?。塔の下には納骨堂があります。
南北之塔 名所・史跡
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南北之塔。
南北之塔 名所・史跡
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南北之塔とアバタガマの入口。
真栄平集落の住民の方によって戦後の混乱期にこのアバタガマに付近一帯に散らばっていた無名戦士や住民の遺骨を集められたそうです。南北之塔 名所・史跡
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南北之塔碑文
沖縄戦終えんの地、ここ真栄平は最も悲惨な戦場と化し、多くの犠牲者を出した所である。当時の人口 900人の中、生存者はわずかに 300人余りであった。 沖縄の戦後は遺骨収集から始まったと言われ、収容所から半年ぶりに帰った区民も直ちに屋敷内や道路、田畑、山野に散らばっていた遺骨の収集をはじめた。
この塔には、真栄平周辺で戦禍にたおれた区民をはじめ、中南部からの避難民、軍人等数千柱の身元不明者の遺骨が納めされ、その御霊が祀られている。
この塔は終戦間もない昭和21年、真栄平納骨堂として、世界の恒久平和の願いをこめ、真栄平区民によって建立された。昭和41年、真栄平遺族会や篤志家のご芳志を受けて改築を行い、現在の南北の塔が完成された。
毎年 6月23日には、戦没者のご冥福をお祈りするとともに、平和の尊さを子々孫々に伝える行事として慰霊祭が行われている。
平成元年 3月 真栄平自治会南北之塔 名所・史跡
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捜索24連隊慰霊之碑。
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捜索24連隊慰霊之碑 山三四七八部隊 故将兵之霊 碑文
昭和19年7月連隊に動員下令、同年10月17日駐屯地満州東安省密山を出発 同年8月3日沖縄本島到着読谷山村字波平に駐屯波平瀬名波長浜に至る海岸線に陣地構築 同年12月沖縄防衛作戦変更により連隊は島尻郡真栄平に異動連隊本部を真栄平にき大度より米須に至る海岸線に向い陣地構築国の防衛に任ずるも 同年20年4月1日米軍嘉手納より波平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回 同年4月24日首里防衛戦参加のため連隊は辨ケ岳後方大名部落に転進連日棚原西原幸地掛久保宮城方面に斬込隊を出動させ多大な戦果をあげ部隊個人感状数多く受け前田方面えの夜襲17戦辨ケ岳での陣地戦と勇戦敢闘せり 同年 5月29日軍は 島尻地区の新防衛線に後退連隊は師団後退の後衛部隊として最後迄敵と対時良く任務を達成最後の引上部隊として真栄平陣地に後退同年 6月 1日配備完了連日斬込隊を敵陣に出動さす 同年 6月18日175.5 高地えの夜襲占領翌19日同陣地で連隊主力をもっ平に至る海岸線より上陸連日激戦を転回 同年4月24日首里防衛戦参加の為連隊は辨ケ岳て激戦を転回 6月21日真栄平66高地陣地に於いて連隊長以下残余の将兵連隊長自ら兵の銃を取り敵を激撃全員壮烈な戦死をとげた 連隊長以下戦没将兵400名と連隊と運命を共にした真栄平住民連隊医務班看護婦炊事班勤務の炊事婦防衛隊員等約200名の英霊に子々孫々に至る迄慰霊の誠を捧げ2度とあの悲惨な戦争を起こしてはならない永遠の世界平和を念じここに象徴の碑を建立した。
昭和54年2月24日 -
アバタガマへと向かう参道には個人が建立した慰霊碑が数多く並んでいます。
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アバタガマ内部、その①。ゴミでしょうか…。
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アバタガマ内部、その②。見える範囲でも見たくないものがあるようです。
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アバタガマ内部、その③。
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アバタガマ内部、その④。
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3月にも訪れている?白梅之塔?を再訪しました。
白梅の塔 名所・史跡
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白梅之塔、全景。
白梅の塔 名所・史跡
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白梅之塔、祭壇。
白梅の塔 名所・史跡
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白梅之塔前面に刻まれている?沖縄県立第二高等女学校?職員生徒戦没者名。
白梅の塔 名所・史跡
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白梅之塔碑文
沖縄県立第二高等女学校の四年生五十六名で編成された白梅学徒看護隊は、昭和二十年三月六日第二十四師団(山部隊)の衛生看護教育隊に入隊し、補助看護婦として特別集中教育を受けていた。
米軍の艦砲射撃が激しくなった同月二十四日から、東風平町富盛の八重瀬岳にあった同師団の第一野戦病院に軍属として配置され、昼夜別なく傷病兵の看護に専念した。
戦況は日毎に悪化し、同年六月四日遂に白梅隊に解散命令が下り、隊員は散り散りになって戦野を彷徨し、一人またひとりと戦火に斃れていった。その場所は殆ど不明である。
また、解散後この地に後退した山第一野戦病院に、再び合流した一部の白梅隊員は、同年六月二十一、二十二の両日に亘り、米軍の猛攻撃を受け無念の最期を遂げた。この辺一帯は、白梅隊員の最も多くの犠牲者が出た所である。
塔は、戦没した白梅隊員及び沖縄戦で戦死、或いは戦争が原因で亡くなった教職員・同窓生百四十九柱の鎮魂と、世界の恒久平和を祈念して昭和二十二年一月に建立した。
毎年六月二十三日の「慰霊の日」に例祭が行われる。
平成十年六月二十三日
沖縄県立第二高等女学校 白梅同窓会白梅の塔 名所・史跡
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この安らかなお顔のお地蔵様を見ると…。
白梅の塔 名所・史跡
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急に涙が溢れてきます…。本当はそんなキャラじゃないはずですが…。
白梅の塔 名所・史跡
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初代白梅之塔。
白梅の塔 名所・史跡
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初代白梅之塔の裏に刻まれた歌碑。
散りてなほ 香りい憂し 白梅(うめ)の花
元教諭 金城宏吉
昭和二十二年一月建立白梅の塔 名所・史跡
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白梅之塔納骨堂です。
多くは国立沖縄戦没者墓苑に移されましたが、一部分骨が残されています。白梅の塔 名所・史跡
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白梅之塔、アップで。
白梅の塔 名所・史跡
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南禅廣寺の石碑とお寺。
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南禅廣寺。
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白梅学徒看護隊自決之壕の碑。
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壕内に入るには、入口と階段を降り切る前に一度立ち止まって手を合わせてから進みます。
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こんな場所で…と不快に思わせたなら申し訳ありません。あまりにも暗いのでiPhone6sに搭載されている?Retina Flash?ならどうなるか…を試しましたが、結果はあまり変わりませんでした…。
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白梅学徒自決之壕内部にて、その①。火炎放射の跡のドス黒さ、溶けた金属の遺物をなんとかカメラに収めようとしています…。
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白梅学徒自決之壕内部にて、その②。火炎放射の跡のドス黒さ、溶けた金属の遺物をなんとかカメラに収めようとしています…。
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白梅学徒自決之壕内部にて、拝所その①。
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白梅学徒自決之壕内部にて、拝所その②。
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白梅学徒自決之壕内部にて、拝所その③。
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白梅学徒自決之壕内部にて、その③。火炎放射の跡のドス黒さ、溶けた金属の遺物をなんとかカメラに収めようとしています…。
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白梅学徒自決之壕内部にて、その④。火炎放射の跡のドス黒さ、溶けた金属の遺物をなんとかカメラに収めようとしています…。
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白梅学徒自決之壕内部にて、その⑤。火炎放射の跡のドス黒さ、溶けた金属の遺物をなんとかカメラに収めようとしています…。
ドス黒さが目立ちます…。 -
白梅学徒自決之壕内部にて、その⑥。火炎放射の跡のドス黒さ、溶けた金属の遺物をなんとかカメラに収めようとしています…。
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白梅学徒自決之壕内部にて、その⑦。火炎放射の跡のドス黒さ、溶けた金属の遺物をなんとかカメラに収めようとしています…。
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白梅学徒自決之壕内部にて、その⑧。火炎放射の跡のドス黒さ、溶けた金属の遺物をなんとかカメラに収めようとしています…。
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拝所と少し違う場所にお供え物が置かれていました。
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白梅学徒自決之壕内部にて、その⑨。火炎放射の跡のドス黒さ、溶けた金属の遺物をなんとかカメラに収めようとしています…。
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あえてライトを消して撮ってみました。この明るさを?希望?と取ったのか?絶望?と取ったのか…。
壕を出る前にもう一度手を合わせます。 -
白梅之塔隣にある?萬魂之塔?。
萬魂之塔 名所・史跡
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そして山形之塔へとやってきました。
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山形の塔付近にある観音堂。二体の観音様が祀られているそうです。
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山形の塔手前にある壕は、山形県が管理されており入壕はできません。不発弾等も残っているとのことでしたが…。
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山形の塔。
糸満市真栄里にあり、他の都道府県慰霊碑とは場所が違います。山形の塔 名所・史跡
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山形の塔の謂れ(入口看板にあるものを転記)。
「山形の塔」は、沖縄をはじめ海外諸地域において戦没された山形県出身者四万余柱の諸霊を祀ってあります。
1965年2月に山形県民の総意と誠心による碑石、台座を県から運び建立したものであります。
また、当地は、多くの山形県出身者で編成された歩兵第三十二連隊が、1945年8月にこの壕内で軍旗を奉焼した由緒ある丘(終焉の地)であります。
ここに書かれている碑文は劣化しており読むことができませんでした。山形の塔 名所・史跡
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真山の塔。
真山の塔 名所・史跡
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真山之塔碑文。
怒濤の南進を続ける米軍に対し第24師団隸下の各部隊は最後の拠点きして真栄里地区に陣地を構築し勇戦奮闘敵の心胆を寒からしめたるも ついに昭和20年6月17日この附近の壕内において玉砕せり
ここに南方同胞援護会の助成を得て塔を建て地下に眠る幾多の英霊を慰め永くその慰烈を伝う
昭和42年3月 沖縄県遺族連合会真山の塔 名所・史跡
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白梅の塔上の壕 碑文
ここは、軍の物資置き場であり、同時に白梅学徒看護隊の仮眠所でもあったという。
昭和ニ十年六月二十二日、米軍の攻撃を受け、軍人・白梅隊員および一般住民が死傷した。 -
白梅之塔上の壕、遠景その①。
柵の隙間から入られたとの話もありますが、結構急なため危険は冒しません。 -
白梅之塔上の壕、ズームでその①。
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白梅之塔上の壕、ズームでその②。
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白梅之塔上の壕、遠景その②。
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我が興亡の史跡
歩兵第三十二連隊(呼名:霞城連隊・満州八〇三部隊・山三四七五部隊)終焉の地。
平成十七年八月建 連隊関係者一同歩兵第三十二連隊終焉の地碑 名所・史跡
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歩兵第三十二連隊終焉の地の碑。
ここより西北西四百七十米の低地で軍旗を奉焼した。とあるのですが、先程の壕内で奉焼されたのでは…。歩兵第三十二連隊終焉の地碑 名所・史跡
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連隊は明治三十一年三月末軍旗を拝受して山形に誕生し日露戦争黒溝台会戦で武勲を立て満州事変熱河作戦に活躍した。
太平洋戦争の沖縄戦で終始敢闘し昭和二十年六月二十三日軍の組織的戦闘が終了後も残存軍民協力してこの地を守り終戦後の八月二十八日夜軍旗を奉焼し翌日鉾を納めた。
この間の戦没者に対し心から弔意を捧げる。歩兵第三十二連隊終焉の地碑 名所・史跡
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そしてやって来たのはひめゆり平和祈念資料館です。
ひめゆり平和祈念資料館 美術館・博物館
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