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≪2016.April≫あみんちゅ歴史に触れる旅 with no plan,沖縄本島その参之参~3日目前半:糸洲・米須・宇江城・真栄里編~<br /><br />毎年4月は恒例の1week&mulch island travelパターン。しか~しいきなりやっちゃった・・・。In のPeachは便を間違えて取り直し、帰りの石垣outに至っては入金し忘れて記録が消されてしまった・・・。自分の楽しみに対する不始末を人のせいにはしたくはないが、ややこしい輩が今職場におり、旅行前日に必ず厄介なことを起こす。結果期間短縮行き先変更を余儀なくされた・・・。こんなのがいることだけで不愉快な日々を送っているため、その息抜きの沖縄旅行であるもののそこでダメ出し食らうとは・・・。という経緯からNo Plan沖縄本島の旅が始まります。さあどんな弥次喜多道中が待っていたのでしょうか?それでは中日3日目前半がスタートします♪<br /><br />【平成28年4月16日土曜日】<br /><br />ペンション喫茶南の楽園 12:38 (0.0km:113.8km:0.0km/h)<br />糸洲の壕  12:44(1.5km:115.3km:15.0km/h)<br />13:15<br />糸洲農事集会所 13:17 (0.3km:115.6km:10.0km/h)<br />13:33 (糸満市字糸洲86-1)<br />ファミリーマート糸満米須店 13:41 (3.2km:118.8km:24.7km/h)<br />13:55<br />忠霊之塔  13:58 (286m:徒歩:5.8km/h)<br />14:02<br />ファミリーマー糸満米須店 14:05 (286m:徒歩:5.8km)<br />14:17<br />山雨の塔  14:25 (2.5km:121.3km:19.3km/h)<br />      14:43    <br />南北之塔  15:18 (8.8km:132.1km:15.2km)<br />15:33<br />白梅之塔  15:38 (3.0km:135.1km:37.5km/h)<br />16:15<br />山形の塔  16:17 (0.2km:135.3km:6.7km/h)<br />16:29<br />【前半ここまで】<br />------------------------------------------------------------<br />【後半ここから】<br />ひめゆりの塔  16:39 (4.5km:139.8km:28.2km/h)<br />18:05<br />糸洲第二外科壕跡 18:10 (3.0km:142.8km:37.5km/h)<br />18:27<br />轟の壕  18:30 (1.5km:144.3km:30.0km/h)<br />        18:43<br />あしびなー沖縄 18:58 (7.1km:151.4km:27.4km/h)<br />【夕食】    20:27<br />ローソン豊見城宜保店 20:32 (1.2km:152.6km:15.0km/h)<br />20:45<br />マックスバリュー豊見城店 20:52 (2.0km:154.6km:18.2km/h)<br />21:20<br />ペンション喫茶南の楽園  21:37 (10.4km:165.0km:37.2km/h)<br />【ナイトドライブ出発】 23:23<br />ペンション喫茶南の楽園  23:46  (4.3km:169.3km:11.4km/h)//<br /><br />旅3日目の朝を迎えました。朝ご飯を8:00にお願いしておいたので時間通り降りて行きます。たっだ~3日目にして寝不足が続いていたことが辛くなり、ここで無理をするとドツボにはまるため、本日の行程を一部変更し出発を遅らせるとともに本日もペンション喫茶南の楽園に宿泊することを決めます。朝食を頂いている間に予約記録がFaxされてきて、本日の宿泊も決まり、もうしばらく寝ることにしますzzz。<br /><br />今回の旅はNo Planでありながら天候に大きく左右される要素がありました。壕やガマなど雨が降るとその水が壕内に流れ込むため、足場が悪くなると同時に水脈があると増水のため入れなくなることもある…。まして沖縄入りする前は結構雨が多かったこともありどうなることやら…と思いつつ今日の行程を見直します。<br /><br />取りあえず昨晩仕入れた情報で、宿から〝糸洲第二外科壕跡〟と〝轟の壕〟は自転車で行ける範囲ということを知り、一度車で行ってみて場所の目星を付けてからと言って出発します。先に前回訪れた〝糸洲の壕〟を再訪した後糸洲集落へと戻ってきて探しますが、このあたりの情報は知られているようで知られていないところがあり、小波蔵の集落に近い〝糸洲第二外科壕跡〟もピンポイントの情報がありません。どうやら〝糸洲農事集会所〟の付近のように書かれているものもあったので、一度〝糸洲農事集会所〟まで戻ってきて歩いて集落内を見て回りますが見つからない…。結果的にはその道中にあったという〝オチ〟でしたがそんなことは知る由もなく、雨が降ってくるという予報に従い次の目的地へと向かうことにしました。<br /><br />何度となく利用しているファミリーマート糸満米須店に立ち寄り、恒例の〝気付けのドリンク一本〟を飲み干し、何回か訪れているものの上手く写真が撮れていない〝忠霊之塔〟へと歩いて向かいます。米須小学校の向かいにあり、沖縄県道7号線という主要道路に面しているにも拘らず〝駐車スペース〟がないので夜の訪問しかできていませんでしたが、真っ暗な場所ゆえモバイルライトではまともな写真も撮ることができません。歩いて数分の距離ゆえ歩いてみましたが、慰霊碑がポツンと建っているだけに過ぎないため小学校の向かいにあることを知らなければわからないかも知れません。今の主要道路は沖縄戦時には軍の南部への敗走ルートであり、集落住民と兵士が混在して入っていた壕出会ったものの、米軍の馬乗り攻撃を受け、兵士・住民とも多くの犠牲者を出しました。正確な犠牲者数は不明ではあるものの、その後の調査で判明した住民の犠牲者(一家全滅を含む)159名の名前が刻まれています。改めて手を合わせて犠牲者のご冥福を祈った後、今来た道を戻って車へと戻り、宇江城(うえぐすく)集落へと向かうことにします。<br /><br />距離はさほどないもののやはり場所がわかりません。番地で検索するも〝該当場所なし〟と表示されるので、ゆっくりと場所を探して行きますがどうやら付近にバス停がある様子。とはいえどの程度のバスが通るのかもわからず走って行くと…ありました。一応舗装された道路の脇にポツンとある碑の存在が。しかし碑の真正面はバスや車が通り、その隣は畑へ向かわれる車が通る場所ゆえ車を停める場所を探しますが、どうやら碑の前にしか停められる場所はなく、急いで見学をすることにします。<br /><br />山雨の塔〝さんうのとう〟と読まれがちのようですが〝やまあめのとう〟と読みます。沖縄戦に於ける日本軍の組織的抵抗が第32軍司令官の自決によって終了したとされる昭和20(1945)年6月23日以降も、隷下の第24師団司令部がこの場所のクラガーに籠りゲリラ戦を続けていましたが、6月28日米軍の攻撃を受けて壕の入口が破壊され、隷下部隊で玉砕した第22連隊と第89連隊の連隊旗を奉焼し、6月30日第24師団師団長雨宮巽中将以下幕僚と将兵が自決した場所です。終戦後生き残った配下の将兵により〝雨宮巽中将自決の跡〟という木札が建てられたものを改修し、現在の〝山雨の塔〟が建立されました。なんとなく見ていると気付かないことなのかも知れませんが、この〝山雨の塔〟という命名には確固たる謂れがあります。第24師団は通称〝山〟部隊、そして師団長は〝雨宮巽中将〟。つまりその二文字を合わせて命名されたものこそがこの〝山雨の塔〟と言うことになります。碑文を読んでもその軍としての謂れが書かれていることから嫌悪感を抱かれることもあることは聞いているものの、やはりそれだけでは史実を知ることにはなりません。どんなことでもそうですが、一歩進んで何事も見ることこそが過去の過ちを繰り返さないことに繋がるように思えます。<br /><br />そして山雨の塔下には〝暗い井戸〟の意味を持つ〝クラガー〟が開口しています。ここについては入壕不可とは記載されておらず、詳細が不明だったものの以前同様扉が開いていたこともあり少し奥まで下りてみました。水脈が豊富なのは一見してもわかる場所なので、奥へと続く通路は確認できるものの、昨今の降雨によって水の量が増えていることもわかります。携帯は圏外であり万が一のことが起こっても当の私は自業自得ですが、行方不明者のために住民の方々にご迷惑を掛けることだけは避けたいと思い、作られていた祭壇に手を合わせて壕内から出てきました。かなり足元がぬかるんでおり、気をつけないと転倒する危険性が高いため注意が必要です。最後に山雨の塔にも手を合わせて次の目的地へと向かいます。<br /><br />次に向かった先は南北之塔。真栄平集落にありさほど離れてはいないはずですが場所がわかりません。よくわからないまま走っているといつの間にか八重瀬町の仲座交差点に出てしまい、そのまま来た道を戻ったりしたもののやはりわからず・・・。結局真栄平の畑のど真ん中で車を脇に停めて周辺を眺めるもわかりません。準備不足を悔やみますが仕方がありません。次回に回そうかと思っていたところ、神様が降臨します(笑)。地元農家のオジィが来られたところを見逃さず、尋ねると、丘にあるビニールハウスの向こうにあるさ~と言われます。トロトロと車を進めながら向かうと・・・ありました。納骨堂のような建物の姿が。向かいには先客がいると思いきやなにか他の目的だった様子。だんだんと天気が崩れている最中、速やかに見学と参拝を済ませます。<br /><br />南北之塔は沖縄戦の激戦地のひとつであった真栄平の地では、戦後に集落に戻った住民達が付近に散乱していた身元不明の遺骨数千体を集落後方にあった〝アバタガマ〟に収め、真栄平納骨堂と呼んだことに始まります。その後集落では永久的や慰霊塔を建立することを決定し、住民からの分担金やその他からの寄付金を集め、それを元手に昭和41(1966)年に南北之塔を建立しました。この南北之塔の謂れについて、アイヌ民族との繋がりを語るものがあります。確かに沖縄戦に於いて都道府県別戦没者数が沖縄に次いで多いのが北海道であることは周知の事実です。その寄付金の出処の中で、第24師団隷下の部隊に所属していた元兵士の方の存在があります。碑の建立時には大金だった寄付をされている事実はあるものの、塔に刻まれた〝キムンウタリ〟(アイヌ語で山の仲間)の文字により、南北之塔=アイヌの墓という解釈がされ、イチャルパという供養祭を開催されたことが論議を醸し出した経緯があります。これには賛否論があり、また真栄平集落の住民の中でも意見が割れているため、第三者がコメントすることはできないものの、塔の命名が〝南から北まで〟の戦没者〝別け隔てなく〟という理由から付けられていることを踏まえると残念な結果のように思えます。確かに全ての住民の方の意見ではないものの、慰霊というものがプロパガンダとして利用されているならば、こんな残念なことはないと思います。アバタガマや南北之塔敷地内に建立されている軍関連や兵士家族の慰霊碑が地元の許可を得ずして建立され、世話役がないまま放置されていることは、遺族感情はわかるものの、沖縄県が抱える無縁慰霊碑の増加に対する懸念に繋がっていることを踏まえ、深刻な問題になっている事実も忘れてはならないことのように思います。<br /><br />ただ一観光客が意見を述べることではないので、それぞれの碑に手を合わせて先へと急ぎます。2月にも訪れた白梅之塔とその周辺の慰霊碑と戦跡ですが、日暮れの絡みで急いで回ったため改めて訪れます。白梅学徒自決之壕、夕暮れ時に訪れると日差しが差し込まないため大変暗かったイメージが強かったのですが、今日はまだ奥の祭壇付近まで日差しが差し込んでいます。入口と階段数段を残した場所で立ち止まり、手を合わせてから進みます。祭壇で手を合わせから付近の闇の中を見ると、入口から差し込む日差しが余計に眩しく感じます。70年前に多くの学徒達がここで何を見て、感じて考えていたのかはわかりませんが、今のように命の危険もなく、外の明るさを感じることはできなかったろうに・・・という気持ちに駆られながら手を合わせて壕から外へと出て行きました。<br /><br />壕の隣にある白梅之塔へも足を運び、納骨堂と合わせて改めて手を合わせます。慰霊塔の両脇に座るお地蔵様。柔らかい表情のお顔が一層寂しさを引き立てるようにも思えるのですが、少しお顔にコケが付いていることに気付き、洗っても良かったのかな?と思いながら歩き始めます。<br /><br />学徒隊の慰霊碑近くに軍や米軍将校の慰霊碑があることに嫌悪感を抱かれる方も多いとは聞きます。しかし一観光客の立場では口を出すことではないと思いますので、敢えて追悼という思いを抱き手を合わせながらお参りして行きます。最後に白梅之塔上の壕に手を合わせ、時間の許す限り行こうと思っていたひめゆり平和祈念資料館へと向かいます。<br /><br /><br />~後半に続く~

≪2016.April≫あみんちゅ歴史に触れる旅 with no plan,沖縄本島その参之参~3日目前半:糸洲・米須・宇江城・真栄里編~

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2016/04/14 - 2016/04/18

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

≪2016.April≫あみんちゅ歴史に触れる旅 with no plan,沖縄本島その参之参~3日目前半:糸洲・米須・宇江城・真栄里編~

毎年4月は恒例の1week&mulch island travelパターン。しか~しいきなりやっちゃった・・・。In のPeachは便を間違えて取り直し、帰りの石垣outに至っては入金し忘れて記録が消されてしまった・・・。自分の楽しみに対する不始末を人のせいにはしたくはないが、ややこしい輩が今職場におり、旅行前日に必ず厄介なことを起こす。結果期間短縮行き先変更を余儀なくされた・・・。こんなのがいることだけで不愉快な日々を送っているため、その息抜きの沖縄旅行であるもののそこでダメ出し食らうとは・・・。という経緯からNo Plan沖縄本島の旅が始まります。さあどんな弥次喜多道中が待っていたのでしょうか?それでは中日3日目前半がスタートします♪

【平成28年4月16日土曜日】

ペンション喫茶南の楽園 12:38 (0.0km:113.8km:0.0km/h)
糸洲の壕 12:44(1.5km:115.3km:15.0km/h)
13:15
糸洲農事集会所 13:17 (0.3km:115.6km:10.0km/h)
13:33 (糸満市字糸洲86-1)
ファミリーマート糸満米須店 13:41 (3.2km:118.8km:24.7km/h)
13:55
忠霊之塔 13:58 (286m:徒歩:5.8km/h)
14:02
ファミリーマー糸満米須店 14:05 (286m:徒歩:5.8km)
14:17
山雨の塔 14:25 (2.5km:121.3km:19.3km/h)
    14:43
南北之塔 15:18 (8.8km:132.1km:15.2km)
15:33
白梅之塔 15:38 (3.0km:135.1km:37.5km/h)
16:15
山形の塔 16:17 (0.2km:135.3km:6.7km/h)
16:29
【前半ここまで】
------------------------------------------------------------
【後半ここから】
ひめゆりの塔 16:39 (4.5km:139.8km:28.2km/h)
18:05
糸洲第二外科壕跡 18:10 (3.0km:142.8km:37.5km/h)
18:27
轟の壕 18:30 (1.5km:144.3km:30.0km/h)
18:43
あしびなー沖縄 18:58 (7.1km:151.4km:27.4km/h)
【夕食】    20:27
ローソン豊見城宜保店 20:32 (1.2km:152.6km:15.0km/h)
20:45
マックスバリュー豊見城店 20:52 (2.0km:154.6km:18.2km/h)
21:20
ペンション喫茶南の楽園 21:37 (10.4km:165.0km:37.2km/h)
【ナイトドライブ出発】 23:23
ペンション喫茶南の楽園 23:46 (4.3km:169.3km:11.4km/h)//

旅3日目の朝を迎えました。朝ご飯を8:00にお願いしておいたので時間通り降りて行きます。たっだ~3日目にして寝不足が続いていたことが辛くなり、ここで無理をするとドツボにはまるため、本日の行程を一部変更し出発を遅らせるとともに本日もペンション喫茶南の楽園に宿泊することを決めます。朝食を頂いている間に予約記録がFaxされてきて、本日の宿泊も決まり、もうしばらく寝ることにしますzzz。

今回の旅はNo Planでありながら天候に大きく左右される要素がありました。壕やガマなど雨が降るとその水が壕内に流れ込むため、足場が悪くなると同時に水脈があると増水のため入れなくなることもある…。まして沖縄入りする前は結構雨が多かったこともありどうなることやら…と思いつつ今日の行程を見直します。

取りあえず昨晩仕入れた情報で、宿から〝糸洲第二外科壕跡〟と〝轟の壕〟は自転車で行ける範囲ということを知り、一度車で行ってみて場所の目星を付けてからと言って出発します。先に前回訪れた〝糸洲の壕〟を再訪した後糸洲集落へと戻ってきて探しますが、このあたりの情報は知られているようで知られていないところがあり、小波蔵の集落に近い〝糸洲第二外科壕跡〟もピンポイントの情報がありません。どうやら〝糸洲農事集会所〟の付近のように書かれているものもあったので、一度〝糸洲農事集会所〟まで戻ってきて歩いて集落内を見て回りますが見つからない…。結果的にはその道中にあったという〝オチ〟でしたがそんなことは知る由もなく、雨が降ってくるという予報に従い次の目的地へと向かうことにしました。

何度となく利用しているファミリーマート糸満米須店に立ち寄り、恒例の〝気付けのドリンク一本〟を飲み干し、何回か訪れているものの上手く写真が撮れていない〝忠霊之塔〟へと歩いて向かいます。米須小学校の向かいにあり、沖縄県道7号線という主要道路に面しているにも拘らず〝駐車スペース〟がないので夜の訪問しかできていませんでしたが、真っ暗な場所ゆえモバイルライトではまともな写真も撮ることができません。歩いて数分の距離ゆえ歩いてみましたが、慰霊碑がポツンと建っているだけに過ぎないため小学校の向かいにあることを知らなければわからないかも知れません。今の主要道路は沖縄戦時には軍の南部への敗走ルートであり、集落住民と兵士が混在して入っていた壕出会ったものの、米軍の馬乗り攻撃を受け、兵士・住民とも多くの犠牲者を出しました。正確な犠牲者数は不明ではあるものの、その後の調査で判明した住民の犠牲者(一家全滅を含む)159名の名前が刻まれています。改めて手を合わせて犠牲者のご冥福を祈った後、今来た道を戻って車へと戻り、宇江城(うえぐすく)集落へと向かうことにします。

距離はさほどないもののやはり場所がわかりません。番地で検索するも〝該当場所なし〟と表示されるので、ゆっくりと場所を探して行きますがどうやら付近にバス停がある様子。とはいえどの程度のバスが通るのかもわからず走って行くと…ありました。一応舗装された道路の脇にポツンとある碑の存在が。しかし碑の真正面はバスや車が通り、その隣は畑へ向かわれる車が通る場所ゆえ車を停める場所を探しますが、どうやら碑の前にしか停められる場所はなく、急いで見学をすることにします。

山雨の塔〝さんうのとう〟と読まれがちのようですが〝やまあめのとう〟と読みます。沖縄戦に於ける日本軍の組織的抵抗が第32軍司令官の自決によって終了したとされる昭和20(1945)年6月23日以降も、隷下の第24師団司令部がこの場所のクラガーに籠りゲリラ戦を続けていましたが、6月28日米軍の攻撃を受けて壕の入口が破壊され、隷下部隊で玉砕した第22連隊と第89連隊の連隊旗を奉焼し、6月30日第24師団師団長雨宮巽中将以下幕僚と将兵が自決した場所です。終戦後生き残った配下の将兵により〝雨宮巽中将自決の跡〟という木札が建てられたものを改修し、現在の〝山雨の塔〟が建立されました。なんとなく見ていると気付かないことなのかも知れませんが、この〝山雨の塔〟という命名には確固たる謂れがあります。第24師団は通称〝山〟部隊、そして師団長は〝雨宮巽中将〟。つまりその二文字を合わせて命名されたものこそがこの〝山雨の塔〟と言うことになります。碑文を読んでもその軍としての謂れが書かれていることから嫌悪感を抱かれることもあることは聞いているものの、やはりそれだけでは史実を知ることにはなりません。どんなことでもそうですが、一歩進んで何事も見ることこそが過去の過ちを繰り返さないことに繋がるように思えます。

そして山雨の塔下には〝暗い井戸〟の意味を持つ〝クラガー〟が開口しています。ここについては入壕不可とは記載されておらず、詳細が不明だったものの以前同様扉が開いていたこともあり少し奥まで下りてみました。水脈が豊富なのは一見してもわかる場所なので、奥へと続く通路は確認できるものの、昨今の降雨によって水の量が増えていることもわかります。携帯は圏外であり万が一のことが起こっても当の私は自業自得ですが、行方不明者のために住民の方々にご迷惑を掛けることだけは避けたいと思い、作られていた祭壇に手を合わせて壕内から出てきました。かなり足元がぬかるんでおり、気をつけないと転倒する危険性が高いため注意が必要です。最後に山雨の塔にも手を合わせて次の目的地へと向かいます。

次に向かった先は南北之塔。真栄平集落にありさほど離れてはいないはずですが場所がわかりません。よくわからないまま走っているといつの間にか八重瀬町の仲座交差点に出てしまい、そのまま来た道を戻ったりしたもののやはりわからず・・・。結局真栄平の畑のど真ん中で車を脇に停めて周辺を眺めるもわかりません。準備不足を悔やみますが仕方がありません。次回に回そうかと思っていたところ、神様が降臨します(笑)。地元農家のオジィが来られたところを見逃さず、尋ねると、丘にあるビニールハウスの向こうにあるさ~と言われます。トロトロと車を進めながら向かうと・・・ありました。納骨堂のような建物の姿が。向かいには先客がいると思いきやなにか他の目的だった様子。だんだんと天気が崩れている最中、速やかに見学と参拝を済ませます。

南北之塔は沖縄戦の激戦地のひとつであった真栄平の地では、戦後に集落に戻った住民達が付近に散乱していた身元不明の遺骨数千体を集落後方にあった〝アバタガマ〟に収め、真栄平納骨堂と呼んだことに始まります。その後集落では永久的や慰霊塔を建立することを決定し、住民からの分担金やその他からの寄付金を集め、それを元手に昭和41(1966)年に南北之塔を建立しました。この南北之塔の謂れについて、アイヌ民族との繋がりを語るものがあります。確かに沖縄戦に於いて都道府県別戦没者数が沖縄に次いで多いのが北海道であることは周知の事実です。その寄付金の出処の中で、第24師団隷下の部隊に所属していた元兵士の方の存在があります。碑の建立時には大金だった寄付をされている事実はあるものの、塔に刻まれた〝キムンウタリ〟(アイヌ語で山の仲間)の文字により、南北之塔=アイヌの墓という解釈がされ、イチャルパという供養祭を開催されたことが論議を醸し出した経緯があります。これには賛否論があり、また真栄平集落の住民の中でも意見が割れているため、第三者がコメントすることはできないものの、塔の命名が〝南から北まで〟の戦没者〝別け隔てなく〟という理由から付けられていることを踏まえると残念な結果のように思えます。確かに全ての住民の方の意見ではないものの、慰霊というものがプロパガンダとして利用されているならば、こんな残念なことはないと思います。アバタガマや南北之塔敷地内に建立されている軍関連や兵士家族の慰霊碑が地元の許可を得ずして建立され、世話役がないまま放置されていることは、遺族感情はわかるものの、沖縄県が抱える無縁慰霊碑の増加に対する懸念に繋がっていることを踏まえ、深刻な問題になっている事実も忘れてはならないことのように思います。

ただ一観光客が意見を述べることではないので、それぞれの碑に手を合わせて先へと急ぎます。2月にも訪れた白梅之塔とその周辺の慰霊碑と戦跡ですが、日暮れの絡みで急いで回ったため改めて訪れます。白梅学徒自決之壕、夕暮れ時に訪れると日差しが差し込まないため大変暗かったイメージが強かったのですが、今日はまだ奥の祭壇付近まで日差しが差し込んでいます。入口と階段数段を残した場所で立ち止まり、手を合わせてから進みます。祭壇で手を合わせから付近の闇の中を見ると、入口から差し込む日差しが余計に眩しく感じます。70年前に多くの学徒達がここで何を見て、感じて考えていたのかはわかりませんが、今のように命の危険もなく、外の明るさを感じることはできなかったろうに・・・という気持ちに駆られながら手を合わせて壕から外へと出て行きました。

壕の隣にある白梅之塔へも足を運び、納骨堂と合わせて改めて手を合わせます。慰霊塔の両脇に座るお地蔵様。柔らかい表情のお顔が一層寂しさを引き立てるようにも思えるのですが、少しお顔にコケが付いていることに気付き、洗っても良かったのかな?と思いながら歩き始めます。

学徒隊の慰霊碑近くに軍や米軍将校の慰霊碑があることに嫌悪感を抱かれる方も多いとは聞きます。しかし一観光客の立場では口を出すことではないと思いますので、敢えて追悼という思いを抱き手を合わせながらお参りして行きます。最後に白梅之塔上の壕に手を合わせ、時間の許す限り行こうと思っていたひめゆり平和祈念資料館へと向かいます。


~後半に続く~

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
ホテル
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
3万円 - 5万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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