クラガー 山雨の塔
名所・史跡
3.22
クチコミ・評判
1~2件(全2件中)
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陸軍第24師団司令部の終焉の地です。~山雨の塔~
- 5.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
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糸満市北東部の宇江城集落に位置しており、1日に数便しかないバスを利用し、最寄りの宇江城バス停から歩いてすぐの場所でもあ... 続きを読むります。
第32軍司令官の自決により、沖縄戦に於ける日本軍組織的抵抗が終了した昭和20(1945)6月23日(22日説あり)以降も付近の真栄平や宇江城の壕に籠りながらゲリラ戦を戦っていた隷下の部隊が駐屯していました。
そしてこの〝暗い井戸〟の意味であるクラガーには雨宮巽中将以下師団の幕僚たちがいたそうですが、6月30日には本部壕が米軍の馬乗り攻撃の対象となったことにより退路を断たれた師団長をはじめとした幕僚が青酸カリや手榴弾で自決をして亡くなられました。またこちらでは玉砕したとされる歩兵第89連隊や22連隊の〝連隊旗〟が奉焼された場所だという記録も残っています。
慰霊塔下部にあるクラガーでは戦後統治していた米軍兵士によって、雨宮師団長並びに配下の幕僚の戦死を確認するために入壕した後、しばらくの間放置されていました。昭和27(1952)年にやっと配下の元兵士の方々の手によって発掘され、やっと遺骨が遺族の元へと帰って行ったそうです。
黎明之塔と同じく元軍人の方々によって建立されたものゆえ、由来文にも重なる要素を多々見つけることができますが、やはり軍隊慰霊碑の特徴として戦争への功績を讃える文面が特徴になっています。
『大東亜戦争の局運急を告ぐるや昭和19年 8月、遙か北満より雨宮巽中将の統ぶる山兵団長駆沖縄の布陣に参加す。翌20年 4月 1日上陸せる米軍を迎撃、血戦 3か月に及んで刀折れ弾尽き 6月30日兵団長以下幕僚等此の地宇江城跡に於て自刃悠久の大儀に生く。茲に南方同胞援護会の助成を得て碑を建て永くその偉烈を伝う。 昭和37年10月沖縄県遺族連合会』
なぜこの碑が〝山雨の塔〟と呼ばれることになったのか?これは私もあまり気にはしていませんでした。しかしこの塔の名称には確固たる由来が存在しています。実はこの現〝山雨の塔〟の前に師団兵士の生き残りの方々の手によって建立された〝雨宮中将戦没の跡〟の木柱がかつて存在しました。その後昭和37(1962)年10月に沖縄遺族連合会沖縄協会の委託を受けて現在の塔に改修されたものが今に至っている訳ですが、山雨の塔(やまあめのとう)とはふたつの言葉から成り立っているものであり、まず第24師団は通称〝山部隊〟、そして師団長は〝雨〟宮巽司令官。その頭文字を取って命名されたものが〝山雨の塔〟となります。
山雨の塔の真下にはクラガーが現存し、鉄扉があるものの鍵はかかっておらず自己責任の元で見学できるようになっています。ただ周辺の壕やガマと比較して天候の影響を受けやすいため、雨が上がった後などは足元が大変滑りやすくなっているため、細心の注意が必要です。 閉じる投稿日:2016/04/25
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暗い井戸
- 4.0
- 旅行時期:2016/04(約10年前)
- 2
糸満市を通る県道250号線を南下すると、真栄平バス亭を過ぎた少し先に“真栄平ストアー”があります。そのすぐそばの脇道を右手... 続きを読むに道なりに進み、“宇江城バス停”を過ぎた先に「クラガー 山雨の塔」があります。
クラガーは“暗い井戸”という意味で、もともと住民が水汲み場として利用していたこの場所を第24師団が陣地として利用したところです。このあたり一帯は日本軍最後の抵抗拠点の一つで、師団長の雨宮中将は、摩文仁の軍司令部が崩壊した後もここで指揮にあたり6月30日ついに自決し、軍旗の奉焼も行われたそうです。
クラガー壕の上には山部隊と雨宮中将の名をとって山雨の塔が建てられ、500柱が合祀されています。
クラガーの入り口はきれいに整備されていて、少しだけなら壕内に入ることができそうでしたが、部外者が安易に入るべきではないと思い、豪口から御霊安かれとお祈り申し上げました。 閉じる投稿日:2016/04/21
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