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〝第十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~瑞泉(ずゐせん)学徒隊(沖縄県立首里高等女学校)の足跡を訪ねて~〟<br /><br />沖縄県立首里高等女学校は、明治30(1897)年4月に首里区立女子実業補修学校として首里尋常高等小学校女子部に敷設されたことに歴史が始まります。明治33(1900)年には女子部より離れ、明治41(1908)年には首里城内に移設されます。首里城内の瑞泉門近くにあった学校ということで〝瑞泉〟学徒という名称が戦後つけられたとのことです。<br /><br />大正10(1921)に首里市立女子工芸学校と改称された後、昭和9(1934)年に桃原町に新校舎が落成し移転します。そして昭和12(1937)年就業年数を4年に改め、沖縄県立首里高等女学校と改称されました。<br /><br />昭和20(1945)年1月25日、私立沖縄昭和高等女学校(梯梧学徒)とともに首里赤田の民家に寄宿しながら第62師団野戦病院による看護訓練始まります。<br /><br />3月下旬には南風原村新川の第62師団野戦病院(通称ナゲーラ壕)に昭和高女生とともに配置される。訓練に参加した生徒61名全員が入隊する。入隊後生徒たちは負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などに従事しました。<br /><br />3月27日にナゲーラ壕の前で卒業式が行なわた後、4月中旬頃沖縄中部戦線に於ける負傷者の激増に伴い、浦添村仲間に仲間分室が、首里高等女学校内の壕にも分室が開設されました。そして首里石嶺や平良からナゲーラ壕までの負傷者の搬送にも携わります。この時期の浦添は日々一進一退の激戦が繰り広げられており、文字通り最前線に送られた〝初めての学徒隊〟という表現がまさに当てはまるところになります。<br /><br />4月23日には患者を収容するために仲間分室壕を出た生徒1名が砲弾の破片を受け死亡します。これが瑞泉学徒隊初の生徒の犠牲者となりました。そして翌4月24日には最前線にあった仲間分室壕の生徒はナゲーラ壕と首里高女内の分室壕へ撤退します。<br /><br />5月中旬には第32軍司令部が置かれていた首里が戦場となりつつあったことから、首里高等女学校内分室の生徒もナゲーラ壕へ一旦撤退します。<br /><br />その後軍命により5月20日~29日に南部への撤退が出され、生徒たちは歩ける負傷兵を武富へ護送しますが、この際に重症患者には〝処置〟をされたとの記録があります。そして6月1日には米須の石部隊の壕へと到着するも、既に壕内は患者と兵隊であふれかえっている状態だったため、生徒達は伊原の崖下の岩間に入ります。<br /><br />そして6月7日には伊原の岩間が直撃弾を受け落盤が起こり、学徒1名が戦死します。<br /><br />南部地区が砲弾の飛び交う戦場の最前線となった6月10日には第一回目の解散命令が下されます。しかし今まで行動を共にしてきた学徒隊達からの不満が相次いだことにより撤回されます。そして6月19日、米須の壕に再び呼び出されて第二回目の解散命令が下されたものの、壕を出るにも砲弾が飛び交って〝出るに出られぬ〟状況に陥り、再び壕内へと戻ってきます。<br /><br />そして6月23日、米須の壕が米軍の馬乗り攻撃の標的となり、火炎放射器で燻り出されるかのように壕を出るか、そのまま壕に残るかの究極の選択を強いられることになりその結果この馬乗り攻撃によって25名の学徒が戦死し、残った僅かの学徒が米軍の捕虜収容所に収監されることになりました。学徒として動員された61名のうち33名が戦死や自決によって短い命を終えました。戦死者率54.1%、数字の大小で語れるものではないにしろ、半数以上の若き乙女たちが斃れていった史実がここにありました。<br /><br />沖縄県立首里高等女学校学徒看護隊(戦後名称:瑞泉学徒看護隊)の足跡ですが、首里桃原町の学舎から南風原町新川の石部隊野戦病院壕(通称:ナゲーラ壕)を経て、浦添仲間分室壕と首里高等女学校内分室壕へも学徒看護隊として従軍され、再びナゲーラ壕へと集まった後、南部への撤退路を歩まれています。途中繁多川壕や豊見城武富壕を経てサキタリガマ、第62師団米須壕(フシゾーアブ)で最期を迎えられました。しかし70余年経った現在では、整地や安全のための埋め戻し等が行われており、加えて入壕に対して厳しい条件を付けているところが多く存在します。<br /><br />沖縄県立首里高等女学校跡地は見つかりました。ナゲーラ壕も場所はとりあえず、識名壕は中へと入ることもできました。しかしその後の繁多川壕は繁多川公園の整地時に入口が埋め戻され、武富壕もマンション建設時に埋め戻しされました。サキタリガマは企業敷地内になり、許可制ではあるものの不可能に近いことがわかり、第62師団米須壕(フシゾーアブ)の個人見学は不可能ということがわかりました。残念ではありますが個人の能力ではここまでが限界のように思えます。<br /><br />沖縄戦時に従軍を余儀なくされた学徒隊は20ありました。構成された学校は21にものぼり、ふたつの学校で構成されたものが沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校による〝ひめゆり学徒〟になります。本来であれば〝女子学徒隊〟というもの自体兵役方や陸軍の規則によって、戦場動員は男子に限られており女子学徒の動員は法律にはなかったこともあり沖縄県当局は女子学徒隊に抵抗したものの、軍の〝超法規的解釈〟により強制したことに起因します。そして沖縄戦に於ける女子学徒の動員数動員467名、戦死者数378名、実に死亡率81%という数値が出ています。しかしこの数字には疑わしいところもあり、学徒ではなく学校関係者を含む犠牲者を表しているのではないかという説があります。実際に沖縄県が出している〝沖縄戦に動員された21校の学徒隊〟によると、女子学徒隊動員数479名、うち戦死者数188名。となれば39.3%となる訳ですがこの数値の差はどこから出るのでしょうか。約2倍となる戦死者の数、このどちらを信じるのかは〝人によりけり〟ということなのでしょうか。<br /><br />沖縄戦を数字の上の問題として取り上げられる者などいるわけがないことはわかっていてもこの開きはあまりにも大きな違いだと言って間違いはないでしょう。しかし少ない方のデータで見ても戦死率が高い瑞泉学徒看護隊を追いかけても追いかけきれない壁を感じたように思えてなりません。埋め戻された壕が公開されることはありませんが、もし何らかの理由により立ち入りが制限されている壕が入れるようになったなら、その足跡を求めて訪ね歩きたいとも思います。<br /><br />沖縄県立首里高等女学校は戦後再興されることもなく、約半世紀の歴史の後に時代の波に消えて行きました。しかし彼女達が学んだ科目は、戦後開校した沖縄県立首里高等学校〝染織デザイン科〟となって現在に至っています。そして戦後瑞泉学徒隊の生き残りとして〝語り部〟をされてきた宮城巳知子(みちこ)さんが昨年平成26(2015)年10月31日に89歳で逝去されました。時の流れは止めることができないことを今更語っても仕方がないものかとも思いますが、どのような形でも残せるものは残して行く…そんな時代に差し掛かっているようにも思えます。<br /><br />少し中途半端に思えるところもありましたが、これにて〝第十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~瑞泉(ずゐせん)学徒隊(沖縄県立首里高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。<br /><br />【訪ね歩いた日】<br />① 平成27(2015)年6月24日水曜日<br />② 平成28(2016)年2月29日月曜日<br />③ 平成28(2016)年4月15日金曜日<br />④ 平成28(2016)年6月22日水曜日<br />⑤ 平成28(2016)年6月23日木曜日

第十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~瑞泉(ずゐせん)学徒隊(沖縄県立首里高等女学校)の足跡を訪ねて~

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2015/06/24 - 2016/06/23

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たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。

たかちゃんティムちゃんはるおちゃん・ついでにおまけのまゆみはん。さん

〝第十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~瑞泉(ずゐせん)学徒隊(沖縄県立首里高等女学校)の足跡を訪ねて~〟

沖縄県立首里高等女学校は、明治30(1897)年4月に首里区立女子実業補修学校として首里尋常高等小学校女子部に敷設されたことに歴史が始まります。明治33(1900)年には女子部より離れ、明治41(1908)年には首里城内に移設されます。首里城内の瑞泉門近くにあった学校ということで〝瑞泉〟学徒という名称が戦後つけられたとのことです。

大正10(1921)に首里市立女子工芸学校と改称された後、昭和9(1934)年に桃原町に新校舎が落成し移転します。そして昭和12(1937)年就業年数を4年に改め、沖縄県立首里高等女学校と改称されました。

昭和20(1945)年1月25日、私立沖縄昭和高等女学校(梯梧学徒)とともに首里赤田の民家に寄宿しながら第62師団野戦病院による看護訓練始まります。

3月下旬には南風原村新川の第62師団野戦病院(通称ナゲーラ壕)に昭和高女生とともに配置される。訓練に参加した生徒61名全員が入隊する。入隊後生徒たちは負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などに従事しました。

3月27日にナゲーラ壕の前で卒業式が行なわた後、4月中旬頃沖縄中部戦線に於ける負傷者の激増に伴い、浦添村仲間に仲間分室が、首里高等女学校内の壕にも分室が開設されました。そして首里石嶺や平良からナゲーラ壕までの負傷者の搬送にも携わります。この時期の浦添は日々一進一退の激戦が繰り広げられており、文字通り最前線に送られた〝初めての学徒隊〟という表現がまさに当てはまるところになります。

4月23日には患者を収容するために仲間分室壕を出た生徒1名が砲弾の破片を受け死亡します。これが瑞泉学徒隊初の生徒の犠牲者となりました。そして翌4月24日には最前線にあった仲間分室壕の生徒はナゲーラ壕と首里高女内の分室壕へ撤退します。

5月中旬には第32軍司令部が置かれていた首里が戦場となりつつあったことから、首里高等女学校内分室の生徒もナゲーラ壕へ一旦撤退します。

その後軍命により5月20日~29日に南部への撤退が出され、生徒たちは歩ける負傷兵を武富へ護送しますが、この際に重症患者には〝処置〟をされたとの記録があります。そして6月1日には米須の石部隊の壕へと到着するも、既に壕内は患者と兵隊であふれかえっている状態だったため、生徒達は伊原の崖下の岩間に入ります。

そして6月7日には伊原の岩間が直撃弾を受け落盤が起こり、学徒1名が戦死します。

南部地区が砲弾の飛び交う戦場の最前線となった6月10日には第一回目の解散命令が下されます。しかし今まで行動を共にしてきた学徒隊達からの不満が相次いだことにより撤回されます。そして6月19日、米須の壕に再び呼び出されて第二回目の解散命令が下されたものの、壕を出るにも砲弾が飛び交って〝出るに出られぬ〟状況に陥り、再び壕内へと戻ってきます。

そして6月23日、米須の壕が米軍の馬乗り攻撃の標的となり、火炎放射器で燻り出されるかのように壕を出るか、そのまま壕に残るかの究極の選択を強いられることになりその結果この馬乗り攻撃によって25名の学徒が戦死し、残った僅かの学徒が米軍の捕虜収容所に収監されることになりました。学徒として動員された61名のうち33名が戦死や自決によって短い命を終えました。戦死者率54.1%、数字の大小で語れるものではないにしろ、半数以上の若き乙女たちが斃れていった史実がここにありました。

沖縄県立首里高等女学校学徒看護隊(戦後名称:瑞泉学徒看護隊)の足跡ですが、首里桃原町の学舎から南風原町新川の石部隊野戦病院壕(通称:ナゲーラ壕)を経て、浦添仲間分室壕と首里高等女学校内分室壕へも学徒看護隊として従軍され、再びナゲーラ壕へと集まった後、南部への撤退路を歩まれています。途中繁多川壕や豊見城武富壕を経てサキタリガマ、第62師団米須壕(フシゾーアブ)で最期を迎えられました。しかし70余年経った現在では、整地や安全のための埋め戻し等が行われており、加えて入壕に対して厳しい条件を付けているところが多く存在します。

沖縄県立首里高等女学校跡地は見つかりました。ナゲーラ壕も場所はとりあえず、識名壕は中へと入ることもできました。しかしその後の繁多川壕は繁多川公園の整地時に入口が埋め戻され、武富壕もマンション建設時に埋め戻しされました。サキタリガマは企業敷地内になり、許可制ではあるものの不可能に近いことがわかり、第62師団米須壕(フシゾーアブ)の個人見学は不可能ということがわかりました。残念ではありますが個人の能力ではここまでが限界のように思えます。

沖縄戦時に従軍を余儀なくされた学徒隊は20ありました。構成された学校は21にものぼり、ふたつの学校で構成されたものが沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校による〝ひめゆり学徒〟になります。本来であれば〝女子学徒隊〟というもの自体兵役方や陸軍の規則によって、戦場動員は男子に限られており女子学徒の動員は法律にはなかったこともあり沖縄県当局は女子学徒隊に抵抗したものの、軍の〝超法規的解釈〟により強制したことに起因します。そして沖縄戦に於ける女子学徒の動員数動員467名、戦死者数378名、実に死亡率81%という数値が出ています。しかしこの数字には疑わしいところもあり、学徒ではなく学校関係者を含む犠牲者を表しているのではないかという説があります。実際に沖縄県が出している〝沖縄戦に動員された21校の学徒隊〟によると、女子学徒隊動員数479名、うち戦死者数188名。となれば39.3%となる訳ですがこの数値の差はどこから出るのでしょうか。約2倍となる戦死者の数、このどちらを信じるのかは〝人によりけり〟ということなのでしょうか。

沖縄戦を数字の上の問題として取り上げられる者などいるわけがないことはわかっていてもこの開きはあまりにも大きな違いだと言って間違いはないでしょう。しかし少ない方のデータで見ても戦死率が高い瑞泉学徒看護隊を追いかけても追いかけきれない壁を感じたように思えてなりません。埋め戻された壕が公開されることはありませんが、もし何らかの理由により立ち入りが制限されている壕が入れるようになったなら、その足跡を求めて訪ね歩きたいとも思います。

沖縄県立首里高等女学校は戦後再興されることもなく、約半世紀の歴史の後に時代の波に消えて行きました。しかし彼女達が学んだ科目は、戦後開校した沖縄県立首里高等学校〝染織デザイン科〟となって現在に至っています。そして戦後瑞泉学徒隊の生き残りとして〝語り部〟をされてきた宮城巳知子(みちこ)さんが昨年平成26(2015)年10月31日に89歳で逝去されました。時の流れは止めることができないことを今更語っても仕方がないものかとも思いますが、どのような形でも残せるものは残して行く…そんな時代に差し掛かっているようにも思えます。

少し中途半端に思えるところもありましたが、これにて〝第十四章あみんちゅ戦争を学ぶ旅~瑞泉(ずゐせん)学徒隊(沖縄県立首里高等女学校)の足跡を訪ねて~〟は終わります。

【訪ね歩いた日】
① 平成27(2015)年6月24日水曜日
② 平成28(2016)年2月29日月曜日
③ 平成28(2016)年4月15日金曜日
④ 平成28(2016)年6月22日水曜日
⑤ 平成28(2016)年6月23日木曜日

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
交通
5.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
5万円 - 10万円
交通手段
高速・路線バス レンタカー JRローカル 自家用車 徒歩 Peach ジェットスター
旅行の手配内容
個別手配

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