2016/01/26 - 2016/02/02
78位(同エリア314件中)
ポポポさん
旅行5日目はアルベロベッロを後にして世界遺産カステル・デル・モンテの観光です。
カステル・デル・モンテは南イタリアをも統治していた神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世が1249年に完成させた城と言われています。
この城は構造の大部分が「8」の数字に関係しているという、謎に満ちた建造物です。さらに何のために造られたのか、どうしてここに建てられたのか、いまだ明らかになっていない謎の建物です。
城と言われていますが、本来城にあるはずの掘や砲座、銃や弓の狭間など防御施設が一切ありません。また兵舎や厩舎などの軍事施設も無いため砦ではありません。
近年ではこの城は本来の城として使用するのでは無く、祝宴などの儀礼のための専用として造られた城ではないかと考えられています。
フリードリッヒ2世はここで寝起きしたことはありませんでした。唯一娘の結婚式とその後の披露宴の宴席に出席するためこの城を一度訪れただけです。
さらなる謎はこの城が徹底して「8」にこだわっていることです。八角形の中庭、八角形のそれぞれの頂点に配置された八角形の8つの塔、地上階と二階の8つの部屋などなど。
此の謎の建物が丘の頂にポツンと建っています。
さあ、謎解きの時がやってきました。いざ入場してこの謎を解き明かせ!
5日目 アルベロベッロ 〜 カスル・デル・モンテ 〜 ローマ
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 家族旅行
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
-
カステル・デル・モンテに到着しました。
本日は快晴、絶好の観光日和です。最初の旅程どおりだったら今日はカゼルタ宮殿の観光だったんです、
あの広い庭園を晴天の下で見る事ができたんだと思うと残念ですが、これも仕方がありません。 -
ゆるやかな上り坂を上って行くと松の間からカステル・デル・モンテが現れました。
カステル・デル・モンテとは「山の城」という意味でプーリア州アンドリアのムルジェ高原の上にそびえています。 -
こちらが正面入り口です。
建物の中に入る前に女性の現地ガイドさんからこの建物について説明がありました。
①何の目的で建てられたのか、いまだにはっきりした事が分かりません。
便宜的に城と呼ばれているが、城としての機能も防御施設等の軍事施設も無く、これでは敵の来週に対して防御も攻撃もできません。
砦だと言われた事があるが同様の理由で砦説は否定されています。
②ほぼ全てが数字の「8」にまつわる建物です。なぜフリードリッヒ2世はこんなにも「8」に拘ったのか? 謎です。
③なぜここに建てられたのか。それも分かっていません。ここは小高い丘で見晴らしは良いものの、周囲には何もありません。ただ何もない場所にポツンと建っているだけです。
その謎を解くためにフリードリッヒ2世とはどんな王様だったのかガイドさんが説明して下さいました。
フリードリッヒ2世は神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝皇帝、ドイツ王、シチリア王、エルサレム王です。
6カ国語を話し、天文学・数学・建築・土木・航海術などの学問に秀でた暗黒の中世と言われた時代には稀有な王様でした。
彼は「早く生まれ過ぎた皇帝」と称されています。これは時代を先取りしたことへの賞賛と、周囲の理解を得られなかった事への憐れみが含まれているそうです。
フリードリッヒ2世は3歳の時に父を亡くし、4歳の時にシチリア王になりますが、同年摂政であった母をも亡くしました。4歳で孤児となった彼は時の教皇インノケンティウス3世の後見を受けることになりました。
当時のシチリアはイスラム文化とビザンチン文化ラテン文化が融合した独特の文化を生み出していました。
このような環境のなかで彼の才能が花を開かせます。教皇は彼のために家庭教師を兼ねた執権団を派遣しますが、4歳の時にはすでにラテン語をマスターして神童ぶりを発揮していたそうです。
彼がシチリアで育った事が6カ国語をマスターすることにも、科学に精通することにも、そしてイスラムに偏見を持たないことにもなったのでした。
成人の後にドイツ諸侯からの要請を受けてドイツ王に選出されて戴冠。十字軍の遠征の実行を見返りとしてローマ教皇より神聖ローマ皇帝を認められ即位しました。
その後息子のハインリヒを共同統治者としてドイツ王の地位に置き、本人はシチリアのパレルモに戻ってシチリアや南イタリアの統治に専念しました。
一方教皇に約束した十字軍の遠征は実行しませんでしたが、ついに教皇から破門を散らつかされたため4万の兵を率いてエルサレムに進軍。
しかしながら進軍の途中疫病がはやり、皇帝自身も罹患したことから兵を引き上げ帰国しました。
しかし、シチリアの勢力拡大を恐れていた教皇はこの時とばかりにシチリアの勢力を押さえるため仮病と決めつけ破門してしまいました。
フリードリヒ2世は破門されたため第6回十字軍を起こし、再びエルサレムに向かいました。
エルサレムを統治していたアイユーブ朝のスルタン、アル・カーミルはアラビア語を話しイスラム文化に理解のあるフリードリヒ2世に興味を抱きます。
2人は書簡をやり取りし学識を交換し合うことで親交を深め、併せてエルサレムの返還交渉を行いました。
その結果無血でエルサレムの返還に成功します。聖墳墓教会はキリスト教徒に返還され、自らはエルサレム王に戴冠します。
フリードリヒ2世はエルサレムにいた時、イスラム教の八角形の美しい神殿を訪れています。一説ではこの神殿にちなんでカステル・デル・モンテは八角形を採用したのではないかと言われています。八角形の謎の建物です。 by ポポポさんデル モンテ城 史跡・遺跡
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正面玄関です。
ここは縦と横が黄金比(1.618対1)に基づき設計されています。
この城は天文学的にも数学的にも正確に黄金比を用いて設計されているそうです。 -
城の壁に付けられた八つの塔もすべて正八角形です。
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8の数字に起因する建物ですが窓はこのように2連窓です。
窓枠の石は激しく痛んでいます。外壁も全体に痛々しく保存が良くありません。
外壁を飾っていた色大理石は全て盗まれ持ち去られたそうです。 -
さて、カステル・デル・モンテが建てられたこの地は、当時キリスト教の聖地であったシャルトルとイスラム教の聖地メッカの直線状にあります。
そしてフリードリヒ2世が無くなった年は1250年ですが、その数字を分解して足すと1+2+5+0=8となり、ますます謎は深まるばかりです。
いやー、本当に不思議、面白い。城の中に入って「8」」にまつわるものを見てみましょう。 -
柱の上には王の象徴ライオンの彫像が飾ってあるんだと思いますが、激しく傷んでいるのでどんな動物なのか分かりません。
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左側は彫像がありません。盗まれたのか、壊れておちたのか。
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ファザードの彫刻もレリーフも何もありません。寒々としたファザードです。
入り口の部屋はチケット売り場と土産物売り場になっていました。 -
地上階に入ってさらに中庭に出てみました。
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中庭から真上を見上げると八角形の空が見えました。
城には屋根が無く、中庭からは空を見上げることができます。ここも八角形。
実は屋根の無いこの大きな吹き抜け部分も謎です。屋根の無い城なんてないそうですよ。
この吹き抜けの庭は何の目的で造ったのでしょうか。皇帝の得意な天文観測のためかな? -
八の壁に対応して地上階、2階とも部屋は八部屋あります。ここも八。
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地上階の一室です。隣の部屋は資料室になっています。
地上階(1階)の建物は痛みがひどく、とても写真を撮る気になりませんでした。
フリードリヒ2世が1250年に亡くなり、ホーエンシュタウフェン朝が滅亡すると、この城は牢獄として使用されました。さらに山賊の住処になったこともあるそうです。
その時代に外壁や内部の装飾品は盗賊によってはぎ取られ、持ち去られてしまいました。
その際に内部が傷つけられたのでしょう。 -
明り取り窓です。
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ここから2階です。
壁には大きな彫像が設置されていた跡がありますが、持ち去られていて影も形もありません。
見ててむなしいし、やりきれません。 -
床には僅かに建築当時のタイルが残っていました。
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天井の構造です。外から光を取り入れてその光で壁に設置された彫像を明るく照らすように造られています。
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天井の天窓です。
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外からの光を取り入れる2連窓。
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部屋の隅には大理石の柱が建築当時のままの姿で残っていました。これはオリジナルです。
盗賊も大理石の柱だけは持ちだせなかったようです。 -
2階の各室の説明。
建物の平面図では部屋が八室、八角形のそれぞれの頂点に八角形の塔が配置されている事が分かります。八つの部屋は皆同じ広さに設計されているそうです。
説明表示板の左隣の大理石の柱はオリジナルです。 -
こちらの大理石の柱は三本でした。
柱頭の葉の彫像はみなそれぞれ違っていました。 -
次の部屋にも大理石の柱は残っていました。ここも三本柱。
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中庭側の窓です。外壁側の窓よりかなり大きいです。
外国人の観光客がいる場所から中庭が眺められるようです。
では行ってみましょう。 -
2階の窓から眺めた中庭です。ここの中庭も八角形でした。この中庭は周囲を高い石壁が取り囲んでいます。
ここにも秘密が隠されています。
ここは春分の日と秋分の日の正午にある現象が起こるんです。
この中庭には石壁の影が(訪問した時は影が中庭まで差し込んでいませんでしたが)差し込んでいますが、その影が春分の日と秋分の日の正午だけ中庭の一辺とだけぴったり重なるそうです。
これは謎というよりも計算しつくされた演出といえるでしょう。
さらに夏至の夜に中庭から夜空を見上げると頭上には「ベガ」が瞬いているそうです。
フリードリヒ2世は天文学にも詳しかったので春分と秋分の日に光の演出を取り入れたのでしょうが、なぜ宗教的建物でも居城でもない建物にこのような光の演出を取り入れたのかは全くの謎です。 -
観光した日、石壁の影は中庭には届いていませんでした。
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光を取り入れる2連窓です。太陽と反対側の部屋は昼間でも暗かったです。
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この部屋にも彫像が置かれていた跡がありました。
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ここも三本柱ですが、柱頭の植物の葉の文様は異なっていました。
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二階の一室にある小部屋。
ここは警備のために城に常駐する兵士のためのシャワー室だそうです。
写真では広さが分かりにくいですが、ここは小部屋でした。 -
ここは分かりにくいですがらせん階段です。
この城のらせん階段は左回りに造られていました。通常城のらせん階段は右手に槍を持つ敵に不利になるように右回りに造られています。
この事からもこの城が本来の城塞として造られてはいなかった事が分かります。 -
二階の部屋は大理石の柱を持ち去られなかったようです。
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中庭側の室内様子です。ここもなにかの大きな彫像が設置されていたようです。
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大理石の柱頭の上には彫像が置かれていたような跡があるんですが、砕かれたのか持ち去られたのかしたんでしょうね。無残です。
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この部屋は他の部屋比べ石壁の状態がいいのですが、天井の端の窪みに多分彫像があり、持ち去られたんだと思います。
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頭部の彫像のアップです。
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同じく頭部の彫像です。
ここでカステル・デル・モンテの観光は終わりました。
実に謎多き城です。この城は諸説がありますが、現在最も有力な説は狩猟後の宴会用として建てられて娯楽用の施設であったというものです。
それにしても謎めいた城ですが、用途も建築の意図も何も分からないからこそ色々な想像力を掻き立てられます。
是非皆さん、この城を訪れてみて下さい。これで今日のミステリツアーは終了し、一路ローマに向かう事にします。 -
カステル・デル・モンテが建っている丘から眺めた景色です。
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私達のツアーバスです。
これからナポリ経由でカッシーノの側を走りローマに向かいます。
ここからナポリとの中間点カンテーラのレストランで遅い昼食を取ります。 -
で、ここはカンテーラのあるレストラン。「ラ・オレッチエッタ」です。
石組で建てられたレストランで、田舎のレストランという印象でした。 -
店内の様子。
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ズンドウ等古い調理用具で飾られていました。
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店内の様子。
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店内の様子。
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第一皿はミネストローネ。これ美味しい。日本人受けする味でした。皆さんにも好評。
飲み物はビールにしました。 -
第二皿は牛肉のトマトソース煮込み。これも美味しかったです。
皿の右端に乗っているのはフレッシュチーズ、私がアルベロベッロの旅行記で紹介した「ブッラータ」です。
プーリア州でしか手にはいらない薄膜の中に濃厚ミルクを閉じ込めたチーズです。
今朝早朝添乗員さんが町歩きツアーに出発する前に買ってこられたそうで、皆に御裾分けして下さったんです。
息子は早朝行ってみたけど店が分からなかったと言っていました。添乗員さんに前の日に買いたいと話をしていたら、一緒に連れて行ってもらえたのに。後の祭りとは此の事です。
それは置いといて、幻のチーズ食べてみましょう。初めて食べるチーズです。どんな味でしょうか?
モッツァレラチーズとは食感が違います。薄膜はプリンプリンしています。その中には確かにミルクが・・・ミルクは零れ少なくなっている。
味は淡白でクセはありません。上品なお味です。これは外の料理を食べる前に食べないと味は分からなくなりそうですね。
この後カッシーノで雑貨屋に寄りローマに行きました。
車中で添乗員さんがカッシーノってご存知ですかと聞いてこられました。
カッシーノと言えば米軍の爆撃機に爆撃され破壊されたモンテカッシーノ修道院そしてモンテカッシーノの戦い。この戦闘で活躍した米軍100歩兵大隊(通称二世部隊)が頭に浮かびました。
添乗員さんもこれらの説明をしたかったようですが、ツアー客の反応が少ないので修道院と2世部隊の活躍について簡潔に説明されていました。今から寄る雑貨店ではこの修道院で造られた石鹸、化粧水、ワインなども売っていると説明されました。
モンテカッシーノ修道院はヴェネディクト会の修道院で、建物は1500年以上もの歴史を誇る歴史的建造物で、岩山の上に築かれていました。
そしてモンテカッシーノは第二次世界大戦のイタリア戦線で最大の激戦地になりました。
防御するドイツ軍はこの修道院がキリスト教世界にとっていかに大切な建造物であるかを知っていましたので、修道院を軍事目的では使用しない事を修道院側に約し、修道院の内部にはドイツ軍部隊を配置せず陣地も構築しませんでした。
ドイツ軍司令官はその旨を連合軍に適宜通知していたにもかかわらず、度重なる戦闘で多大な犠牲を強いられた連合軍司令部は、修道院にドイツ軍が監視所を置いているからだと勝手に思い込み、修道院内にはドイツ軍が一人もいないのに合計229機の爆撃機に積み込んだ1150トンもの高性能爆弾を修道院に投下して徹底的に破壊しました。また地上軍は爆撃にあわせて激しく砲撃を加えたのでした。
この攻撃で犠牲になったのはここに避難していた多数のイタリア民間人と修道士・修道女でした。
これは第二次世界大戦中米軍が行った最大の「愚行」の一つに挙げられています。
この戦いで連合軍は10万人の死傷者を出し、うち5万5千人死亡という大損害を被りました。
この激戦地で一歩も引かず有名を馳せたのが日系2世部隊(100歩兵大隊)でした。のちに442連隊として欧州戦線を転戦し米軍最強の部隊と呼ばれるようになりますが、米軍史上最多の勲章を受けたのがこの日系2世部隊でした。
アメリカの強制収容所や刑務所に収監された父母や兄弟、妻や子の名誉を守るためにどんな困難な戦場でも戦い抜きました。
特に有名なのがドイツ軍に包囲されたテキサス大隊の救出です。救出困難と言われたこの部隊を激戦の末救出することに成功しますが、211人を救出するために216人が戦死、600人以上が重傷を負いました。
添乗員さんはこんな話を詳しくしたかったんでしょうが、私たちの反応が今一だったのか2世部隊のテキサス部隊救出の説明だけでした。
歴史に詳しい添乗員さんでしたのでもっと説明したかったのではないでしょうか。
カッシーノ修道院のことで皆さんに知っておいていただきたい事が一つあります。
この修道院に収蔵されていた名画(ラファエロ、ダ・ビンチ、ティツィアーノ、ティントレット、ブリューゲルの名画)と工芸品、キケロ、セネカなどの原稿や写本、多数の書籍は大変貴重な物でした。これらはドイツ軍の命令でバチカンに移されたので爆撃による焼失を免れました。この賢明な措置により貴重な品々が破壊から免れたことは不幸中の幸いでした。
この話が本題ではないのでこの辺りで終ります。 -
カッシーノに着いたのが夕方でした。トイレ休憩を兼ねた買い物タイムは他の日本人ツアー客、中国人ツアー客で込み合っていました。
どうやらツアー客専門の雑貨店のようです。日本人のスタッフも常駐していました。
そうこうしてようやくローマに到着しました。今夜の宿泊先はホテル ホリディインローマピサーナ。ローマ空港とローマ旧市内の中間に位置するホテルです。
夜に到着したのですぐホテルのレストランで食事をいただきました。
ここのアーティチョークのリゾット最高に美味しかった。美味しすぎて次の料理が何だったか全然覚えていません。
写真も撮っていないし。たぶんお腹が減って写真どころではなかったんだと思います。
写真は室内の様子です。バチカンに行くには便利です。 by ポポポさんザ シーザー ローマ ホテル
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寝室。枕フワフワ、ベッドはフカフカ。
バチカンに行くには便利です。 by ポポポさんザ シーザー ローマ ホテル
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室内の様子。
バチカンに行くには便利です。 by ポポポさんザ シーザー ローマ ホテル
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バチカンに行くには便利です。 by ポポポさん
ザ シーザー ローマ ホテル
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