2015/08/18 - 2015/08/24
166位(同エリア400件中)
ポポポさん
午前中にクラクフを見学した後一路アウシュヴィッツ強制収容所(絶滅収容所)を目指します。
人類の負の遺産であり、今回の旅程で一番心が重いテーマです。希望者はクラクフで自由行動が出来たのですが、ツアー一行30人全員がアウシュビッツの見学、いえ、学習を希望しました。
そして、当日ガイドをして下さった方は唯一の日本人ガイド中谷剛さんでした。いやがうえにも期待が膨らみます。
さて、アウシュヴィッツ収容所は1940年5月SSハインリヒ・ヒムラーの命により、オシフィエンチムにあるドイツ国防軍が接取した元ポーランド軍の兵舎を利用して開所されました。この収容所が後にアウシュヴィッツ第一強制収容所と呼ばれるようになりました。
被収容者は主に男で当初は大半がポーランド人の政治犯でした。後にはユダヤ人や他の民族も送られて来るようになり、女性やソ連軍捕虜が収監された時期もありました。
1941年10月にはアウシュヴィッツ第一強制収容所の収容者が増加したため、アウシュヴィッツ第二強制収容所ビルケナウが建設されました。
なお、収容棟の中にはお亡くなりになった方々の髪の毛、カバン、靴、ブラシ、食器、洋服、メガネ、義手・義足・松葉杖、などがありましたが、これらは亡くなられた方々の遺品です。とてもカメラを向ける気にはなりませんでした。また、監獄・牢も撮りませんでした。
撮ったのは建物の外観等の外、写真パネ等一部内部の物でしたので、その物のみ写真を掲載します。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- ホテル
- 4.5
- グルメ
- 4.5
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 航空会社
- KLMオランダ航空
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行あり)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
-
インフォメーションセンターを後にして入り口の門に向かいます。
入り口まで収容所に沿って歩きます。進行方向右に収容所の台所が見えます(写真)。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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警備本部と収容所管理役の事務室。屋根の上に監視塔があります。
入り口左側にあります。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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有名な入り口門。
「働けば自由になる」と書いてあります。被収容者達はどんな思いでこの門をくぐったのでしょうか。
門をくぐって再度この門から出られた人はごく僅かです。大多数の人はこの中で死を迎えました。
さらにこの標語はユダヤ人達に作らせたといいます。まさに人を愚弄する標語です。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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二重の有刺鉄線が周囲を囲み、脱走を防ぐため高圧の電流が流されていました。
オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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収容所内です。奥に見えるのは監視塔です。
両側のポプラは被収容者が植えたものです。70年経って大きくなりました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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正門から真っ直ぐ収容棟の間を歩いて各棟の展示室に向かいます。左右の収容棟も被収容者が強制労働で造ったものです。
当日は晴天でした。レンガ造りの建物は整然と並び、間隔をおいて植えられたポプラは風になびいて清々しく、有刺鉄線が無ければとても収容所とは思えません。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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展示室です。図はアウシュビッツに送られてきたユダヤ人や外国人がどこから送られてきたか示す図です。北はオスロから南はロードス島まで広範囲に渡ります。
ナチスは1940年から1945年までに少なくとも130万人をアウシュヴッツに送り込みました。その内訳はユダヤ人が110万人、14〜15万人がポーランド人、2万3千人がロマ人(ジプシー)、1万5千人がソ連軍捕虜、2万5千人がその他の人種でした。(政治犯、身体障害者、精神障害者、同性愛者、聖職者など)
うち110万人が死亡しました。(諸説あります。それ以上という説も、それ以下という説も。ビルケナウでは貨車から降ろされるとすぐに選別が始まり、ガス室に送られたので詳しい人数は分かっていないのです。)
死んだ人の90%はユダヤ人でした。そして、死亡者の大多数はガス室で殺害されました。
写真の向かって左で説明されている人が日本人ガイドの中谷さんです。中谷さんは
「欧州でも最先端クラスの技術力を持った国、医学においては世界中から研修に来るほどの国が起こした悲劇です。そして、ヒトラーは独裁者といわれますけれど、民主的に国民から選挙で選ばれた政権によって引き起こされたんだと言う事をよく考えてほしい。現在でも、いつでも起こり得るんだと言う事を考えて頂きたい。」と強調されていました。
中谷さんは終始淡々とした口調で、自分の意見を押しつけるでも無く皆さんに考えていただきたいと言っておられました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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ビルケナウの停車場にユダヤ人を満載した貨車が到着し、人々が貨車から出てきた所の様子です。これからドイツ人の医師によって選別がおこなわれます。
この後有名な写真がありますが皆さんご存知と思いますので写真はとりませんでした。
人の命を救う立場の医者が、ここで命の選別を行いました。つまりガス室に行く人と、強制労働ができるとしてひとまず命を長らえる人、人体実験の検体です。
ガス室送りになった人は強制労働に耐えられない人でした。老人、幼児、年少の子供、障害者等です。まずシャワーを浴びるからとガス室に送られたそうです。
まずこの選別で70〜75%の人がガス室送りになりました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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選別が終わった後の様子です。中央奥貨車の間に略奪した物品が見えます。
この後のコーナーでガス室のジオラマがありました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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収容棟のなかには様々な展示がありました。
刈り取られた大量の髪の毛、これは布や毛布の材料として製品化し販売したそうです。
押収した金や貴金属(押収した物が記録してありました。)、カバン、靴、メガネ、大量の衣服、布、食器類、ブラシ、缶入りのクリーム、義手・義足・松葉杖、特に胸を打ったのは幼児の衣服や人形でした。2,3歳の子供の物でしょうか...胸が詰まりました。この子達は到着したら直ちに選別されてガス室に送られ、短い命を散らしたのです。人間がなせる業とは到底思えません。涙を誘います。
被収容者達の居住状況は床に藁を敷いた部屋、薄い布だけの部屋、狭苦しい3段ベッドの部屋がありました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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死の壁です。主に政治犯が銃殺されました。
右の収容棟は収容所内での監獄です。地階には牢獄があります。コルベ神父が入れられていた牢屋や立ち牢、餓死牢がありました。1階にはゲシュタポの法廷、事務室、処刑用具の展示がありました。
この死の壁では、処刑場の後ろがレンガ塀のため、撃った銃弾が跳ね返ってこないように、銃弾が食い込む工夫がされているそうです。(グレーの部分)
グレーの部分には慰霊のため小石が埋め込まれていました。これはユダヤ人の慰霊の方法だそうです。
処刑された囚人の始末は被収容者が行いました。被収容者の中にはカポと呼ばれたSSに選抜された協力者がいました。
カポはSSから被収容者の管理監督を任されていましたので、収容所内での待遇はいいものでした。被収容者間に処遇の差をつけて被収容者同士で団結させないようにしたと言われています。
さらにSSはドイツ兵が銃殺刑の執行で精神に負担がかかるため、その負担軽減のためにガス室を設けたともいわれています。
「実際ドイツ兵はガス室の天井からチクロンBを放り込むだけで良かったのです。ユダヤ人に直接手を下す必要も無く、死ぬ所を見ることも無く、死体処理をする必要もなかったのです。心が痛む事はありません。ただ決められた通りに処理するだけです。そのうちにそのシステムに慣れてきます。完全に流れ作業として機械的に処理するだけです。悪い事をしているという意識は無かったんです。こんなシステムをSSは作りあげました。ここで皆さん考えて下さい。いつでもどこでもこのような事が起こりえるんです。よく考えてください。」このように中谷さんは私達に警告してくださいました。
そして中谷さんは「収容所長のヘスもSS隊員も兵士達もだれもが、命令に従ってやっただけだと申し立てました。悪かったと言う者は一人もいませんでした。この事を良く考えて下さい」と繰り返し話しておられました。
人を死に追いやる事は別にして、何かこのシステム、あなたの会社で似ている所はありませんか?私はちょっとギョッとしました。私の会社は何でもかんでもマニュアル通りにやれという会社でしたから。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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死の壁に向かって左側の棟です。被収容者達が銃殺の現場を見ないように全ての窓に黒い板が打ちつけられていました。(ここは中谷さん、説明無し)
そっと花束が一つ手向けられていました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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監視塔です。
オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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女性の収容棟です。これらの棟の後ろに広い場所があり、そこでSSは点呼を取りました。もし誰かが欠けていた場合、被収容者達は天候の如何にかかわらずSSがな満足するまで、時には12時間以上も立ち続けなければなりませんでした。
またここには絞首台がありました。被収容者を威嚇するため公開処刑を行いました。最多数の処刑は1943年7月19日に行われた処刑でポーランド人12人が絞首刑に処されました。3人の逃亡を助け、外部と連絡を取っていたと疑われたからです。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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この棟は各国の展示棟です。見学は省略されました。
オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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高圧ボルトの電流が流れた有刺鉄線が収容棟の周りを囲んでいます。
被収容者の中には苦しみから逃れるため、自らこの高圧電流に飛び込んで生涯を終えた人もいたそうです。
やりきれない気持ちで一杯になりました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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左の建物は病院です。監視塔の右奥に元収容所所長ルドルフ・ヘスが絞首刑に処された絞首台があります。またここは収容所のゲシュタポ執務室が置かれた所です。
収容所内の地下抵抗組織への関与、あるいは逃亡の準備を疑われた者は、ここで尋問されました。被収容者の多くが暴行や拷問の結果死亡しました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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左の赤いレンガの収容棟が女性収容棟で二重の有刺鉄線が張られていました。
オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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ガス室と焼却場です。多くのユダヤ人が到着後選別され、数時間以内にここでナチスにより殺害されました。
1943年7月ビルケナウに4基のガス室/焼却場が完成すると、ここでの死体焼却は亡くなりました。
中には焼却炉が2台ありました。元々は3台あったそうです。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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二重の有刺鉄線と整然と並ぶ収容棟です。まさにこれが収容所らしい風景かもしれません。
オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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ナチスの車庫です。出口のインフォメーションセンターを目指して歩いています。
アウシュビッツ収容所の次はビルケナウ収容所の見学ですが、そこまではツアーバスに乗って行きました。
アウシュビッツ収容所から車で10分くらいの距離の所にありました。オシフィエンチム (アウシュヴィッツ第一強制収容所) / アウシュヴィッツ博物館 建造物
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ビルケナウ収容所の中央監視塔(死の門)です。収容所の内側から取りました。
ユダヤ人を満載した貨車はこの門を通って、収容所に入ってきたのです。。
「アンネの日記」のアンネ・フランクと姉のマルゴーもここへ送られてきました。当時アンネは15歳でした。
アンネもマルゴーも選別の結果労働可能と判断され、ガス室行きは免れました。
その後ソ連軍が迫ってきたため、1944年10月アンネとマルゴーはベルゲン・ベルゼン強制収容所に移送されました。この収容所は衛生状態が極めて悪かったため、まずマルゴーがチフスに罹り、次いでアンネもチフスに罹って亡くなりました。
それは戦争が終わる数カ月前のことでした。
もし、ビルケナウにそのまま残っていたなら、アンネもマルゴーも生きていたかもしれません。誠に残念な話です。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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死の門から続く引き込み線。線路はこの先で途切れています。ここが、連れて来られたユダヤ人の終着駅です。多くの方がこの先で選別され、数時間後には人生の終焉を迎えたのです。特に哀れで涙を誘うのは幼い子供達です。これからこの子達はそれぞれに輝かしい未来が待っているでしょうに、その命を一方的に摘み取って行ったんです。激しい怒りを感じました。
ナチスの所業はとても人間がなせる業とは思えません。これを平然と行い、なんら罪悪寒や後ろめたさを感じずに日々の職務として流れ作業のように虐殺が行われるというSSが考え出したこのシステムにゾッとすると伴に嫌悪感が走ります。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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ビルケナウは広大な敷地です。
これは引き込み線の左側の収容棟です。有刺鉄線に囲まれて収容棟が延々と続きます。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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少しアップにしました。
これら左側の収容棟はレンガ作りですが、壁と屋根との間に隙間があり、各棟に暖炉があるとはいえ、冬は相当な寒さだったことが想像できます。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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次に右側の収容棟です。これは収容棟から振り返ってみた中央監視塔(死の門)です。
ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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そして右側の収容棟です。
こちらは木造のバラックです。いく棟か内部の見学が出来るので中谷さんの後に続いて中に入りました。
写真はありませんが、内部には真ん中に通路があって暖炉が設置されています。その両側に3段ベッドがあったそうですが、見学当時は内部の補修のためベッドは取り払われていました。
バラックの名の通り簡素な造りで方々隙間があります。酷寒の地のポーランドです。冬の寒さはいかばかりだったろうかと、想像に難くありません。
トイレだけの収容棟もありました。仕切りはありません。男女の別もありません。朝・夕の一日2回だけ、一斉に使用する事を強制されました。
被収容者は人間として取り扱われていなかったのです。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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監視塔と有刺鉄線です。延々と続きます。
ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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木造バラックの収容棟が続きます。この収容棟群の後ろには暖炉だけの収容棟の跡が無数にありました。
これは周囲の住人が家屋の修理や暖を取るための材料として、はぎ取ったためだそうです。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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収容所の外側から見た中央監視塔(死の門)です。
ここからですとユダヤ人を乗せた貨車がビルケナウの強制収容所に入っていく様子が容易に想像できます。
木造収容所の説明が終わるとガイドの中谷さんとは別れました。残念だったのはナチスが戦争犯罪の証拠隠滅のため爆破したガス室、焼却炉、脱衣所が見れなかった事です。ツアー旅行のため次のスケジュールが詰まっていたのかもしれませんがせっかくここまでやって来て見れなかったのは残念です。
ガイドの中谷さんも十分に説明する時間が取れなくて不完全燃焼だったかもしれません。
「ここは全世界から人々が学習のためやってきます。ポーランドの学生はもちろん、ドイツの学生もやってきます。お隣の中国も韓国もです。まだ日本の人は少ないんです。特に若い人が。是非ここに来て学習していただきたい。」中谷さんは、そうおっしゃっていました。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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秋色の草地に監視塔と有刺鉄線。木造の収容棟が並んでいます。実に寒々とした印象です。でも心に沁みる風景です。
ここに来るとアムステルダムにあるアンネ・フランクの家で見た映像が浮かんできます。収容所が解放された直後に撮られた映像フィルムと思いますが、広い敷地一面にユダヤ人の死体が累々と横たわっています。それをカメラがゆっくりと方向を変えながら撮っていきます。ところどころに生きているユダヤ人(やせ細っています。)がカメラの方へ精気の無い顔を向けています。カメラはそれをアップで撮っていきます。目は眼窩が窪んでいました。。
次のシーンは累々と横たわる死体をブルドーザーで山積みしている場面です。見ていて涙が止まりませんでした。
この場面と収容所がリンクして胸が押しつぶされそうでした。 -
最後に収容所の風景を左に見ながらビルケナウに別れを告げました。
アウシュヴィッツは博物館ですから展示が中心です。順番に沿って淡々と展示を見て行きました。当初予想していた怖い所とかそんな印象は全くありませんでした。
かえって淡々としすぎているのかなと思うくらいです。
ビルケナウは収容所をそのままの状態で見る事が出来ますが、印象はアウシュビッツと同じです。
もっと映像展示のコーナーを増やし視覚に訴える展示をしてもたらいいと思うんですけど。
私個人としては、ここよりはアムステルダムにあるアンネ・フランクの家の方がもっとインパクトがありました。
アンネの日記は学生時代に読みましたが、もっと理解したいと思い帰国後に「アンネの日記完全版」を読み返しました。
ただ、この旅行記のこの部分を書き進めるうちに中谷さんが私達に投げかけられた言葉がだんだん重みを増してきました。そうです。皆さんもこの事を良く考えてみましょう。ビルケナウ (アウシュヴィッツ第二強制収容所) 史跡・遺跡
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ビルケナウを後にして一旦クラクフに帰ります。
左はクラクフ飛行場です。ヨハネ パウロ2世 クラクフ バリツェ国際空港 (KRK) 空港
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今日の夕食はクラクフ旧市街のレストランです。皆レストランに向かって歩いています。クラクフはどこを歩いても綺麗ですね。
クラクフ歴史地区 旧市街・古い町並み
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シュチュバンスキ広場にやって来ました。レストランはこの広場に面していました。広場の一画では何かの金属で作られたオブジェが展示されていました。
シュチェパンスキ広場 広場・公園
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この広場の周囲の建物は素敵ですね。
シュチェパンスキ広場 広場・公園
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夕食のレストランは「モルスキュ・オコ」です。ポーランド料理店ですがどんな料理でしょうか。
モルスキェ オコ 地元の料理
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木材を多様したシックな造りのレストランです。右の人形は何で出来ているんでしょうか?手に持ったほうきのような物はススキでしょうか。
モルスキェ オコ 地元の料理
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う〜ん、何という料理だったかな。この日はツアーの皆さんと話が弾んでましたからね。覚えてないんです。でも料理は美味しかったと思いますよ。
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話が弾んでいるところに生演奏が始まりました。弦楽三重奏?どうもポーランドの民族音楽のようでした。
モルスキェ オコ 地元の料理
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演奏は続いています。
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食事を終えて広場に出ればもう日がだいぶ傾いていました。建物も影が掛っています。この建物もきれいですね。建物の上部のレリーフが素敵でした。
シュチェパンスキ広場 広場・公園
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広場の通りから聖マリア教会が望めました。
シュチェパンスキ広場 広場・公園
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ホテルから見たクラクフの夕焼けです。
クラクフ最終日に自然が見せてくれた名画でした。ノボテル クラクフ シティ ウエスト ホテル
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夕焼けを少しアップにしてみました。
クラクフからアウシュヴィッツ=ビルケナウと色々と物思う一日でした。
これでアウシュビッツ収容所の旅行記を終わります。
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