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19代に亘る深溝松平家の当主の墓所がある瑞雲山本光寺の紫陽花の紹介です。東海地区では名前を知られたあじさい寺の一つです。(ウィキペディア)

2015梅雨、三河の紫陽花:本光寺(3/4):額アジサイ、西洋アジサイ、深溝松平家墓所

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2015/06/10 - 2015/06/10

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旅行記グループ 2015年、紫陽花(上巻)

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

19代に亘る深溝松平家の当主の墓所がある瑞雲山本光寺の紫陽花の紹介です。東海地区では名前を知られたあじさい寺の一つです。(ウィキペディア)

交通手段
JRローカル
  • 先にも紹介したスギゴケ(杉苔)らしい植物です。茎が直立して細い葉が生えますが、その様子がスギのようなのでスギゴケと呼ばれます。コケ類のなかでは、最も育て難い植物とされます。

    先にも紹介したスギゴケ(杉苔)らしい植物です。茎が直立して細い葉が生えますが、その様子がスギのようなのでスギゴケと呼ばれます。コケ類のなかでは、最も育て難い植物とされます。

  • 今回の瑞雲山本光寺の紫陽花見学で、一番多く見かけたアジサイの一つです。ピンク色系統の手毬咲の西洋紫陽花のようです。

    今回の瑞雲山本光寺の紫陽花見学で、一番多く見かけたアジサイの一つです。ピンク色系統の手毬咲の西洋紫陽花のようです。

  • やっと色付き始めた西洋アジサイです。現在は緑が多く、開き始めた花が白っぽい感じです。イメージ的には、薄青ではなく、白色系統の手毬咲のようです。<br />

    やっと色付き始めた西洋アジサイです。現在は緑が多く、開き始めた花が白っぽい感じです。イメージ的には、薄青ではなく、白色系統の手毬咲のようです。

  • 石畳の散策路と、その周りで咲く紫陽花の光景です。左手には白色系統のガクアジサイと、青色系統のガクアジサイ、右手には茜色に染まりそうな手毬咲の西洋紫陽花の光景がありました。

    イチオシ

    石畳の散策路と、その周りで咲く紫陽花の光景です。左手には白色系統のガクアジサイと、青色系統のガクアジサイ、右手には茜色に染まりそうな手毬咲の西洋紫陽花の光景がありました。

  • 梅雨の時期には主役の石彫の蛙さんです。まん丸目玉に、黒目が描かれていました。小さなウサギさんほどの大きさがありました。

    梅雨の時期には主役の石彫の蛙さんです。まん丸目玉に、黒目が描かれていました。小さなウサギさんほどの大きさがありました。

  • ドクダミの花です。ドクダミ科ドクダミ属の多年草で、ドクダメ(毒溜め)、ギョセイソウ(魚腥草)、ジゴクソバ(地獄蕎麦)などの異名を持ちます。 葉を乾燥させて、どくだみ茶として飲まれます。

    ドクダミの花です。ドクダミ科ドクダミ属の多年草で、ドクダメ(毒溜め)、ギョセイソウ(魚腥草)、ジゴクソバ(地獄蕎麦)などの異名を持ちます。 葉を乾燥させて、どくだみ茶として飲まれます。

  • 庭木の手入れが大変そうな本光寺の境内です。この辺りは立ち入りができませんので、散策路から眺めた光景です。薄いピンク色の手毬咲の紫陽花、茜色系統の手毬咲の紫陽花のほか、中央やや左手に咲き終えたシラン(紫蘭)の姿がありました。

    庭木の手入れが大変そうな本光寺の境内です。この辺りは立ち入りができませんので、散策路から眺めた光景です。薄いピンク色の手毬咲の紫陽花、茜色系統の手毬咲の紫陽花のほか、中央やや左手に咲き終えたシラン(紫蘭)の姿がありました。

  • 薄っすらと色付き始めた手毬咲の西洋アジサイです。現在は薄青色ですが、土壌のペーハーなどによっては、劇的に色が変化するかも知れません。

    薄っすらと色付き始めた手毬咲の西洋アジサイです。現在は薄青色ですが、土壌のペーハーなどによっては、劇的に色が変化するかも知れません。

  • 本堂とは別の区画に仕切られていた、『西廟所』を採り閣も石塀の光景です。石塀越しに、やや右手に見える屋根が『肖影堂』、左端に少しだけ見える屋根が『肖影堂門』です。

    本堂とは別の区画に仕切られていた、『西廟所』を採り閣も石塀の光景です。石塀越しに、やや右手に見える屋根が『肖影堂』、左端に少しだけ見える屋根が『肖影堂門』です。

  • 赤色系統の手毬咲の西洋アジサイが咲いていた一角です。かなり色濃くなった赤色ですが、更に濃くなりそうな雰囲気でした。

    イチオシ

    赤色系統の手毬咲の西洋アジサイが咲いていた一角です。かなり色濃くなった赤色ですが、更に濃くなりそうな雰囲気でした。

  • 花穂が一斉に伸びていたギボシ(擬宝珠)です。ユリ科ギボシ属の植物です。擬宝珠とは、橋の欄干などに付けられたネギの頭のように尖った飾りのことです。

    花穂が一斉に伸びていたギボシ(擬宝珠)です。ユリ科ギボシ属の植物です。擬宝珠とは、橋の欄干などに付けられたネギの頭のように尖った飾りのことです。

  • 中心部の花が青色、周辺の飾り花が白色のガクアジサイ(額紫陽花)の光景です。このガクアジサイ(額紫陽花)も境内位でよく見かけた花です。名前が分かりませんでしたから、とりあえず『アオガク(青額)』と呼んでいました。

    中心部の花が青色、周辺の飾り花が白色のガクアジサイ(額紫陽花)の光景です。このガクアジサイ(額紫陽花)も境内位でよく見かけた花です。名前が分かりませんでしたから、とりあえず『アオガク(青額)』と呼んでいました。

  • 中心部の花が青色、周辺の飾り花が白色のガクアジサイ(額紫陽花)、『アオガク(青額)』と仮に呼び名を付けた花のアップ光景です。一斉に咲き揃った満開でした。

    中心部の花が青色、周辺の飾り花が白色のガクアジサイ(額紫陽花)、『アオガク(青額)』と仮に呼び名を付けた花のアップ光景です。一斉に咲き揃った満開でした。

  • 『ウメノコケ(梅の苔)で覆われた梅の木戸、その周りで咲いていた『ガクアジサイ(額紫陽花)』の光景です。ガクアジサイは芯の花が青色、周辺の飾り葉が白色に近い同種のようでした。

    『ウメノコケ(梅の苔)で覆われた梅の木戸、その周りで咲いていた『ガクアジサイ(額紫陽花)』の光景です。ガクアジサイは芯の花が青色、周辺の飾り葉が白色に近い同種のようでした。

  • 『肖影堂』のタイトルがあった説明パネルです。5代当主の松平忠利公(1582〜1632年)の廟堂の紹介です。家康から始まる徳川3代目将軍家光までと親交があったとされます。

    『肖影堂』のタイトルがあった説明パネルです。5代当主の松平忠利公(1582〜1632年)の廟堂の紹介です。家康から始まる徳川3代目将軍家光までと親交があったとされます。

  • 『肖影堂』と『願掛け亀』の案内の立札があった門の光景です。門の中央上部には、『五代忠利公』の名前が記されていました。『肖影堂門』でした。

    『肖影堂』と『願掛け亀』の案内の立札があった門の光景です。門の中央上部には、『五代忠利公』の名前が記されていました。『肖影堂門』でした。

  • 『十一代忠恕石殿門』の光景です。十一代忠恕石殿を取り囲む築地の正面南側に位置します。棟幅は一間で、肖影堂門と同規模です。 表裏に各2本の支柱を置く、切妻造、桟瓦葺です。

    『十一代忠恕石殿門』の光景です。十一代忠恕石殿を取り囲む築地の正面南側に位置します。棟幅は一間で、肖影堂門と同規模です。 表裏に各2本の支柱を置く、切妻造、桟瓦葺です。

  • 『十一代忠恕(ただひろ)公廟:1740〜1792年)』のタイトルがあった説明プレートです。歴代藩主の中では最も苦難に見舞われたと紹介されていました。宝暦12年(1762年)からの宇都宮藩主の時代は天災・人災で藩財政が困窮した123年、安永年(1773年)からの19年間では、天災・地変に見舞われ、寛政4年(1792年)には普賢岳の噴火、『島原大変』にも遭遇しました

    『十一代忠恕(ただひろ)公廟:1740〜1792年)』のタイトルがあった説明プレートです。歴代藩主の中では最も苦難に見舞われたと紹介されていました。宝暦12年(1762年)からの宇都宮藩主の時代は天災・人災で藩財政が困窮した123年、安永年(1773年)からの19年間では、天災・地変に見舞われ、寛政4年(1792年)には普賢岳の噴火、『島原大変』にも遭遇しました

  • 『御先祖堂』のタイトルがあった説明パネルです。『数々の戦いで功を立て、子孫繁栄の礎を築いた、初代〜四代公の墓所』と添書きしてありました。

    『御先祖堂』のタイトルがあった説明パネルです。『数々の戦いで功を立て、子孫繁栄の礎を築いた、初代〜四代公の墓所』と添書きしてありました。

  • 八重咲の白色のガクアジサイ(額紫陽花)の光景です。人気品種の『スミダノハナビ(墨田の花火)』によく似ています。

    イチオシ

    八重咲の白色のガクアジサイ(額紫陽花)の光景です。人気品種の『スミダノハナビ(墨田の花火)』によく似ています。

  • 左が稲荷神社、右が墓地です。この墓地は、幸田市纏めの資料の中には、本光寺の遺跡としては含まれていませんでした。本光寺の近代における檀家の墓地かも知れません。

    左が稲荷神社、右が墓地です。この墓地は、幸田市纏めの資料の中には、本光寺の遺跡としては含まれていませんでした。本光寺の近代における檀家の墓地かも知れません。

  • 『内山稲荷大明神』の赤い幟があった社と鳥居の光景です。稲荷神社の区画は、幸田市纏めの資料の中には、本光寺の遺跡としては含まれていませんでした。

    『内山稲荷大明神』の赤い幟があった社と鳥居の光景です。稲荷神社の区画は、幸田市纏めの資料の中には、本光寺の遺跡としては含まれていませんでした。

  • 幸田市纏めの資料の中には、本光寺の遺跡としては含まれてなく、『墓地』とだけ記された一角の光景です。昭和年代などの新しいお墓のようでした。

    幸田市纏めの資料の中には、本光寺の遺跡としては含まれてなく、『墓地』とだけ記された一角の光景です。昭和年代などの新しいお墓のようでした。

  • 『孝子廟』の光景です。祀られているのは、松平好房公(1649〜1669年)です。初代島原藩主の松平忠房の長男でした。寛文2年(1662年)に叙任したものの、家督を継ぐことなく寛文9年(1669年)に21歳で早世しました。

    『孝子廟』の光景です。祀られているのは、松平好房公(1649〜1669年)です。初代島原藩主の松平忠房の長男でした。寛文2年(1662年)に叙任したものの、家督を継ぐことなく寛文9年(1669年)に21歳で早世しました。

  • 『孝子廟』のアップ光景です。祀られている松平好房公は、昭和2年(1927年)の尋常小学校修身書(初等科3年)巻三に、『行儀』の項目で記載されています。

    『孝子廟』のアップ光景です。祀られている松平好房公は、昭和2年(1927年)の尋常小学校修身書(初等科3年)巻三に、『行儀』の項目で記載されています。

  • 『孝子廟』のタイトルがあった説明パネルです。昭和2年(1927年)の尋常小学校修身書(初等科3年)巻三の第十一に、『行儀』の項目で記載されている内容は、『松平好房は小さい時からかりそめにも、父母の居る方に、足を伸ばしたことはありませんでした。』で始まる四項目です。

    『孝子廟』のタイトルがあった説明パネルです。昭和2年(1927年)の尋常小学校修身書(初等科3年)巻三の第十一に、『行儀』の項目で記載されている内容は、『松平好房は小さい時からかりそめにも、父母の居る方に、足を伸ばしたことはありませんでした。』で始まる四項目です。

  • 『西廟所』の光景です。歴代藩主・当主の慰霊碑や墓所を中心に、その周りには家臣などの墓もあるようでした。右手に見える大きな墓石には、正面に『仙渓院殿・巴水源流・居士』の文字が、側面に『松平勘解由次章』の文字がありました。4代目の松平忠雄を指すようです。<br />

    『西廟所』の光景です。歴代藩主・当主の慰霊碑や墓所を中心に、その周りには家臣などの墓もあるようでした。右手に見える大きな墓石には、正面に『仙渓院殿・巴水源流・居士』の文字が、側面に『松平勘解由次章』の文字がありました。4代目の松平忠雄を指すようです。

  • 後世に纏めて建立されたと推定されている4基の供養塔です。右から順に初代藩主の松平忠定公、2代の好景公、3代の伊忠公と4代の家忠公です。

    後世に纏めて建立されたと推定されている4基の供養塔です。右から順に初代藩主の松平忠定公、2代の好景公、3代の伊忠公と4代の家忠公です。

  • 初代深溝松平藩主の松平忠定公、2代の好景公、3代の伊忠公と4代の家忠公の略歴などを記した説明パネルです。

    初代深溝松平藩主の松平忠定公、2代の好景公、3代の伊忠公と4代の家忠公の略歴などを記した説明パネルです。

  • 中央やや左手に見えるのが、先に紹介した松平家第7代当主の松平忠雄(松平勘解由次章)の墓標、その先に見えるのが、『孝子廟』です。

    中央やや左手に見えるのが、先に紹介した松平家第7代当主の松平忠雄(松平勘解由次章)の墓標、その先に見えるのが、『孝子廟』です。

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2015年、紫陽花(上巻)

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