2015/04/26 - 2015/04/26
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prinprinさん
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お天気にあまり恵まれなかった今回のヨーロッパ。
日本では聞かない“小雨ときどき晴”という天気予報どおり、ほとんど曇りで 小雨が降ったかと思うと いつの間にか晴れてしまう という不安定な天気が続いた。
(メモ : カール4世の息子たちとヤン・フス)
プラハに黄金の時代をもたらしたカール4世が1378年死去すると、息子ヴァーツラフ4世(=ヴェンツェル、1393年ネポムツキーを処刑した王)が王位を継ぎ神聖ローマ皇帝にも選出されたが、ボヘミアは混迷の時代が続いた。
教会や修道院は奢侈な生活を送りながら、封建領主として搾取し、政争に荷担する存在になっており、また3人の教皇が鼎立していた。
(1309?77年:フランス王による教皇のアヴィニョン捕囚。1378?1417年:教会大分裂)
ローマ教皇と対立していた皇帝ヴァーツラフ4世(1393年ネポムツキーを処刑)は、“怠惰王”と評されるほど稚拙なドイツ統治しかできず、1400年皇帝位を追われ、
ボヘミア王として、ボヘミア人(フス派)を優遇、ドイツ人(教皇派)を排除していった。
そんな中、ヤン・フスは英国のウィクリフの著書に影響を受け、マルティン・ルターより100年も前、教会の堕落を批判した。
プラハ大学(現カレル大学)で哲学を修め、40歳で学長に任命される。
1402年説教師に任命され、ベツレヘム教会を拠点にチェコ語で説教を行い、貴族や民衆の信頼と尊敬を集めていく。
1412年贖宥状を批判するとついにフスは破門され、1414年皇帝ジギスムント(ヴァーツラフ4世の異母弟でハンガリー王)の召集したコンスタンツ公会議に召喚され、異端審問にかけられた。
(カール4世は3度妻と死別し、4回結婚した。 嫡男ヴァーツラフ4世は3人目の妻の
一人息子。 ジギスムントは4人目の妻の息子で、ハンガリー女王と結婚してハンガリー
王となる。)
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
8:45 カレル通りを歩いて旧市街広場へ。 この店のカーブに沿って曲がります。
こんな狭い道を王様が戴冠パレードをして、命を狙われなかったの? -
ホテルから徒歩5分で旧市庁舎に到着
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旧市庁舎の左端にある“一分の家”は、ルネッサンス様式のスグラフィット装飾
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8:58 もうすぐ旧市庁舎の天文時計のからくりが動き始める。
天文時計 建造物
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1410年に造られた天動説の時計で、第2次世界大戦末のプラハ蜂起で被害を受け、修復。
年月日、時間、日の出・日の入り、月の出・月の入りを示しているらしいが、針が多くて何のことやら?
右のガイコツが鐘を鳴らして、12使徒が2人ずつ現れます。 最後に鶏が鳴いて、 -
あっという間に終わってしまった。
下はカレンダリウム。パソコンで拡大して見ると、季節ごとの農作業の様子、その内側に星座が見えました。中央は旧市街の紋章。 -
旧市庁舎の塔に上ってみました。
天文時計の左のほうにインフォメーションがあり、そこでチケットを買い、その奥が塔の入り口と旧市庁舎のガイドツアーの入り口です。 -
裏に税関があったので、正式名は“ティーン(税関)の前の聖母マリア教会”。他にも“聖母マリア教会”があったのでしょう。
2本の尖塔はそれぞれ8本の小塔で飾られていて、その間にマリア像(金色の●)が掲げられています。 -
聖ミクラーシュ教会 が工事中! (Kostel sv. Mikulase、英:Church of St. Nicholas)
中は見られるの? その横はユダヤ街を貫くパリ通り。
※マラーストラナ地区にも聖ミクラーシュ教会があります。(Chram sv. Mikulase、英:St. Nicholas Church) -
数分おきに鐘の音が聞こえて来ました。
今日は日曜だから、いろんな教会がミサの時間を知らせているのかも。
手前の建物は、屋根の上まで彫像を飾っている。 プラハ城も見えます。 -
上りはエレベーターで、下りはスロープを歩いて下りました。
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Senatus(貴族院、元老院)の扉。
旧市庁舎のガイドツアーの受付があったので、英語ツアーの時間をメモしましたが、結局行かなかった。 -
旧市街広場に下りて来ました。 今日は日曜日なので、ティーン教会の公開は10:30からです。
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もうすぐ10時なので、市民会館のガイドツアーのチケットを買いに行きました。
旧市街広場と火薬塔を結ぶツェレトナー通り。 -
“黒い聖母の家”の2階の角にある黒い聖母の像。
黒い聖母の家 建造物
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肉眼では見えなかったけど、赤ちゃんを抱いてる。マリア様とキリストって 王冠をかぶるんだっけ?
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17世紀に火薬倉庫として使われた火薬塔は、1475年に造られた城壁の門の一つ。つまり旧市街の端っこ。
早朝行ったカレル橋の塔と同じように、フランス風の屋根を乗せてる。 -
観光用のクラシックカーをあちこちで見かけました。
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予定どおり、3日後の15:30のガイドツアーを買った。その日の夜行寝台で移動するので、チケットを買っておかないと不安。
ガイドツアーのチケット売り場は、正面玄関を入って左の窓口です。市民会館 建造物
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ホテル・パリ。 道路が狭いので全景が撮れません。
ホテル パリ プラハ ホテル
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団体ツアーの人たち
ツェレトナー通り 散歩・街歩き
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旧市街広場に戻ってきました。
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広場の南側(ツェレトゥナー通りの入り口)も かわいい建物が並びます。
真ん中が、馬にまたがったチェコの守護聖人 聖ヴァーツラフ(ヴァーツラフ1世)を描いた“シュトルフの家”。 -
広場の中央にあるヤン・フス像。死を恐れず信念を貫いたヤン・フスはチェコの英雄です。
ヤン フス像 モニュメント・記念碑
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19世紀末パリ通りを建設する際に建てられた、広場北側の建物たち。
ピンクと黄色の建物はプラハ保険局が所有したので、 -
建物の上には、火災保険をイメージした、ケガ人を抱えた消防士(左)と 助けを求める母と子(右)の彫刻が設置されている。 アールヌーボーの混じったバロック様式。
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広場東側、1755〜65年築のゴルツ・キンスキー宮殿は、かつてカフカも通っていたギムナージウム(ドイツ語教育のエリート養成校)だった。
“石の鐘の家”と呼ばれる塔のような建物とつながっていて、ティーン教会との間、建物1階の角に石製の鐘が食い込んでいます。石の鐘の家 建造物
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ロココ様式の華やかさは格別。
国立美術館 (ゴルツ キンスキー宮殿内) 博物館・美術館・ギャラリー
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フス戦争から約200年後、ハプスブルク家の支配に対する“第二次プラハ窓外投擲事件”をきっかけに、カトリック(ハプスブルク)対プロテスタント(反ハプスブルク)の三十年戦争(1618〜48年)が勃発した。
1620年プラハ郊外の白山の戦いでプロテスタント軍が大敗すると、フス派の本拠地だったティーン教会はカトリックの教会に変えられてしまい、怒ったプロテスタント信者が抗議のために、教会の前に建物を建てて入り口をふさいでしまった。ティーン教会 寺院・教会
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今でも、手前の建物(ティーン学校)を通り抜けてティーン教会へ入ります。
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館内が撮影禁止の時は、外観の写真だけじゃ館内が思い出せなくなるので、(↑)絵葉書を1枚買っておきます。
身廊や祭壇は 黒い柱に金細工の 重厚華美な17世紀バロックだけど、ステンドグラスの入ってない縦長の窓なので明るい。
左右の側廊はゴシックのままなので、木肌の彫刻(写真左端)や 壁にはめ込まれたレリーフは温かみを感じます。 -
聖ミクラーシュ教会は、モーツアルトが1791年に亡くなった時、盛大な追悼式が行われた。
聖ミクラーシュ教会 寺院・教会
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教会内も足場が組まれて工事中でした。 ティーン教会より小さな教会でした。 ↑絵葉書です。
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ブランドショップが並ぶパリ通り。
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まだお昼前だというのに、夫がビール1杯とソーセージ1本とハルシュキを買ってきた。
「2千円もしたぞ」 高っか〜い (>_<) -
お店の後ろが公園になっていたので、ベンチに座って食べることができました。
ハルシュキはザワークラウトを混ぜ込んだ暖かいポテトサラダで、とても美味しかったのですが、レシートを見たら約1000円!
夫は店員につがれるまま400gも買ってきたのでした。半分は捨てることに。 -
12時の天文時計が動きだすのを待つ人たち。
(メモ : 異端審問)
ハンガリー王ジギスムント(カール4世の息子、ヴァーツラフ4世の異母弟)は、1396年オスマン帝国との戦いで大敗してキリスト教会の統一が必要と考え、
1410年皇帝に選出されると、教皇権より皇帝の君主権が優勢であることを示す為、
1414年コンスタンツ公会議を提唱して、約40年分裂していたローマ教会を再統一した。(以降、フランス人教皇は選出されていない)
この時フスが火刑に処された事で、ボヘミア人の怒りを招いた。 -
カレル橋近くのホテルに戻るのに、夫は地図も持たずに“違う道を通って帰ろう”と言ってヴァーツラフ広場の方へ歩く。
(メモ : 第一次プラハ窓外投擲事件)
ローマ・カトリックはフスを処刑後も、プラハ市を破門、プラハ大学を弾圧した。フスの説を支持したプラハ市民はカトリック教会の襲撃し、1419年ローマ教会信徒だけの新たな参事会が組織されるとプラハ市庁舎を襲撃して、ドイツ人市長と市参事会員たちを窓から投げ落とした。
ヴァーツラフ4世がこの事件にショックを受けて急逝(心筋梗塞?脳梗塞?)すると、
子が無かったため、異母弟ジギスムント(皇帝兼ハンガリー王)がボヘミア王位も継承する事になった。ボヘミア国民はこれを拒否、皇帝は軍隊を派遣してフス戦争が勃発した。 -
写真を撮っていたら、後でどこを通ったか解かるかもしれないと思いましたが、
(メモ : 1419〜36年フス戦争)
フス戦争は宗教戦争の意味合いだけでなく、封建領主としての教会の支配・重税に対する農民戦争、ドイツ人の支配に対するチェコ人の国民戦争でもあった。
戦火はボヘミア全土に広がり、“十字軍”を称する騎馬軍に対して、ボヘミア人はマスケット銃(火縄銃)と馬車の荷車を改造した戦車で熱狂的に戦い、フス戦争は16年に及んだ。
皇帝ジギスムントは武力で鎮圧できず、フス派の内紛を利用して穏健派と講和を結び、フス派の主張を一部認めて名実ともにボヘミア王になる。 -
やはり、どこを歩いていたのかわかりません。スマホかGPS付カメラにしないとダメかなぁ。
(メモ : ハプスブルク家の支配下へ)
ところが翌1437年、皇帝ジギスムントは男子の後継者を残すことなく死去し、ジギスムントの娘と結婚していたハプスブルク家アルブレヒト2世が継承することとなる。(戴冠しないまま1439年オスマン帝国との戦争中にハンガリーで病死→又従弟フリードリヒ3世に移る。)
こうして、カール4世の2人の息子に跡継ぎが無かったために、ルクセンブルク家によるボヘミア統治は終り、ハプスブルク家に支配される。以降、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国が解体される1806年まで、皇帝位を事実上独占する。 -
王の道に引き返しました。
これ、“クラム・ガラス宮殿”と思いますが、“地球の歩き方2014〜15”の地図は間違っているのでは? カレル橋から旧市街広場へ向かうと、Husovaフソヴァ通りに突き当たった所(王の道上)にあります。
ホテルに上着を置いて、午後はマラー・ストラナ地区へ出かけました。クラム ガラス宮殿 城・宮殿
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