2015/04/26 - 2015/04/27
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prinprinさん
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“ヴァルトシュテイン宮殿”は、マラー・ストラナ広場と地下鉄・トラムのマラストランスカ駅の間にあり、毎日無料で公開されてますが、宮殿の中に入れるのは土・日だけです。
聖ヴィート大聖堂は、日曜は半日公開で混みそうなので、ヴァルトシュテイン宮殿に行くことにしました。
(メモ : 1618〜48年 三十年戦争)
1618年プラハの新教徒の反乱(第2次プラハ窓外投擲事件)をきっかけに、最後で最大の宗教戦争と言われる“三十年戦争”が始まったが、
それは神聖ローマ帝国(ドイツ)とヨーロッパの運命を決定づけた戦争でもあった。
1620年11月プラハ近郊のビーラー・ホラ(白山)の戦いでわずか2時間で大敗し、
翌年6月ボヘミア連合軍主導者27名は旧市街広場で処刑され、ほとんどの貴族や非カトリック系市民は国外に追放されて、 1623年までにほぼ鎮圧された。
しかし新教徒保護を名目に、1625〜29年デンマークが、1630〜35年スウェーデンが領土拡大をねらって参戦し、国際戦争となっていく。
兵士の大部分が傭兵だったため、戦いは決着がつかず、戦争がない時は失業中の傭兵部隊による略奪、暴行、虐殺行為が農村で横行する。
1635〜48年東西からハプスブルク家に挟まれていたカトリック国のフランス(ブルボン家)が、プロテスタント側で参戦する。
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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12:30 スタロムニェストスカー停留所に着いたら、目の前を18番トラムが行ってしまった。
1駅だから歩こう。 -
ルドルフィヌム。 プラハ滞在中にチェコ・フィルのコンサートがなくて残念。
こけら落としを主催した皇太子ルドルフ(フランツ・ヨーゼフ1世とエリーザベトの一人息子、1889年30歳で情死する)にちなんで名付けられ、その時チェコフィルの指揮をしたのはドヴォルザークでした。芸術家の家 (ルドルフィヌム) 現代・近代建築
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マーネス橋から見たカレル橋。
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マーネス橋から見たプラハ城。 カレル橋から見るより大きくて、迫って来るようです。
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マラストランスカーに着いた所にある公園は、花が満開でした。
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ここマラストランスカーから22番に乗れば、プラハ城の上(北側)に着くのですが、左折してヴァルトシュテイン宮殿へ。
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ヴァルトシュテイン宮殿。
サラ・テレナ(庭園のテラス)は、とんでもなく大きくて、天井画まで施されています。
ヴァルトシュテインは、広大な庭を眺めながらこのテラスで食事をするのが好きだったそうですが、何と贅沢な! ベンチが並んでいて、イベント会場になるようです。 -
宮殿の建物は、サラ・テレナの裏側だろうとわかってはいたのですが、入口が解からず行ったり来たり。 英語が通じな〜い。
サラ・テレナの右側から裏の小さな広場に入り、さらに左側のアーチ(↑)を通り抜けた右側、何も表示されていないドアから入ります。 (アーチの中にあるインフォメーションセンターは施錠されていました)ヴァルトシュテイン宮殿 城・宮殿
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メインホール正面には"SANATE(上院、参議院?)" と掲示されていたので、ここが議場?と思ったのですが、議場は別室にあるようでした。 土・日しか見学できないのは、平日は使われているからなんですね。 記者会見とかに使うのかも?
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照明が壁のシャンデリアだけなので、私の腕ではうまく撮れません。
1630年に完成したヴァルトシュテイン宮殿は、彼が亡くなるまでの4年間に、わずか12か月暮らしただけでした。 -
三十年戦争(1618〜48年)の戦国時代、下剋上の世の中でハプスブルク(皇帝)軍総司令官として成り上がった ヴァルトシュテインの邸宅にふさわしく、天井のフレスコ画は“戦いの神マルス”。 漆喰装飾のモチーフも武器だらけ!
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(メモ:ヴァルトシュテイン)
ボヘミアの小地主の家に生まれたヴァルトシュテインは、カトリックに改宗し、イタリア遊学中に裕福な未亡人と結婚、6年後妻の死により莫大な資産を手にした。次に皇帝フェルディナント2世と関係のある貴族の娘と再婚。1618年ボヘミアのプロテスタントがハプスブルクに対して蜂起すると、私兵を率いて皇帝軍に参加した。
1621年に司令官、1625年皇帝軍総司令官に任命され、対デンマーク戦争、対スウェーデン戦争で指揮した。
自分の所領内で農業や産業を育成し、軍需工場を建てて武器を自前で生産して財政基盤を築き、兵士に安定した衣食住を与える等のシステムを作って、“近代軍政の父”と言われている。
しかし占領地に独断で免奪税を課したり、異例の出世をしたことで諸侯から反発を買う。
ライプツィヒ南西のリュッツェンの戦いでスウェーデン王を戦死させたものの、皇帝軍は敗走し、莫大な富と地位を手に入れたヴァレンシュテインは、秘密裏に講和条約を結ぼうとしたことで謀反の疑いをかけられ、1634年皇帝フェルディナント2世の刺客によって暗殺された。 -
神話の廊下
(メモ : 三十年戦争敗戦)
三十年戦争は1648年終結したが、ドイツの農村や産業は徹底的に荒廃していた。
フランスに敗れたドイツ(神聖ローマ帝国)は、英・仏が中央集権化を進めている中、逆にウェストファリア条約によって領邦の分立を確定し、300以上の領邦それぞれが主権国家へと向かったため、神聖ローマ皇帝の位は単なる装飾的な意味しかなくなり事実上終わりを告げた。
その後はハプスブルク家の支配はオーストリアに限定され、オーストリア皇帝として存続する。(スペイン・ハプスブルク朝は1700年に血脈が途絶え、スペイン継承戦争)
オランダ、スイスの独立を正式に承認。 フランスブルボン朝が台頭する。 -
放し飼いにされている孔雀に、餌をあげていました。
幾何学模様に刈り込まれた広大な庭園に、オリンポス神の像(ギリシャ神話をモチーフにした像)が配置されていますが、オリジナルは30年戦争の1648年にスウェーデン軍が持ち帰り、20世紀に制作されたレプリカです。 -
人工の鍾乳石が壁一面に広がって、ちょっと気持ち悪い。
この近くに鳥小屋があって、大〜きな鳥(ワシ?)が何羽も飼われていました。 -
宮殿の裏に出て、カレル橋を通って帰ることにしました。
マラーストラナ広場の方から歩いて来ると、この建物(見学した宮殿)の左端から庭園や宮殿に入れます。 -
トマーシュスカー通りを3分ほどでマラー・ストラナ広場に着きました。
マラーストラナ広場 広場・公園
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カレル橋から見る上流の国民劇場、レギー橋(チェコ軍団橋)、射撃島。
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カレル橋の旧市街側橋塔の片側に彫刻がないのも、30年戦争の時スウェーデン軍の攻撃で破壊されたそうです。
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聖サルヴァトール教会は、カレル橋を渡った正面。 その右側の道がカレル通りです。
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聖サルヴァトール教会
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16:00 クレメンティヌムの入り口は、カレル通りを2分ほど歩き、ホテル・オロスAurus(ウ・ズラテー・ストゥドニ)の手前にあります。
ガイドツアーでしか入れないようで、ちょうど英語のガイドツアーが始まるところだったので参加しました。
日本語のパンフレットをくれました。クレメンティヌム 寺院・教会
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クレメンティヌムの天文塔より旧市街を見る。
天文塔をらせん階段で上がって各階で、天文時計など天体観測の装置・資料を見ました。小さな穴から差し込む日光の傾斜から正午を計測する仕掛けも展示されていて、ここから旗を振って正午を知らせていたそうです。
ストラホフ修道院のような立派なバロック図書館もあり、天文地球儀がたくさん。
クレメンティヌムは、元々1556年にイエズス会によって建てられた修道院で、17世紀にはイエズス会のための大学として使用されるようになり、18世紀になると、皇后であるマリア・テレジアによって大学の図書館として認定され、その後、一般市民のために開放されるようになりました。
そのため、現在もイエズス会が使用していた作品の多くが残されており、所蔵数は2万冊以上。現在も図書館として利用されているそうです。 -
天体運行の法則性を発見し地動説を決定づけたケプラーもプラハで研究をしていたそうです。 “太陽と惑星の間には磁力のような力がある”というケプラーの説は、その後ニュートンの万有引力の法則の発見につながります。
一方この時代、天文学と占星術の境目がまだはっきりしてなく、天文表(惑星の位置推算図)を使って占星術を行っていました。 ケプラーは、占星術に凝っていたヴァルトシュテインに手紙を書いています。
(メモ : ケプラーの生きた時代) オーストリア大公フェルディナント2世(後にボヘミア王になり、30年戦争)が、プロテスタントの聖職者と教師にオーストリア・グラーツから退去する事を命じたため、ケプラーは失職。 翌1599年皇帝ルドルフ2世(錬金術師を保護した王)に招かれプラハで研究したが、1612年ルドルフ2世が死去したためリンツに移った。
30年戦争のビーラー・ホラ(白山)の戦いでは、友人が処刑された。 1621年母が魔女裁判に掛けられたため、故郷で裁判と弁護に奔走し、無罪判決を勝ち取る。 -
ホテルで休憩していたら、どしゃ降りの夕立。
トラムで行こうと思ったら、目の前をトラムが行ってしまう。 1駅だから歩こう。 -
チェコ人の威信をかけて再建したという “国民劇場”を見たいと思ったので、一番安い席を買って入ってみました。 舞台は神殿風、何とも豪華な世界です!
エレベーターが無く4階まで階段で上がると、クロークや案内スタッフもいて、“今日は空いてるから、どこでも座っていいよ”と言ってくれました。国民劇場 劇場・ホール・ショー
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大きなシャンデリアに、天井は軽やかな女神たち。
ロシア皇帝が亡霊におびえて狂気になっていく暗〜いオペラなので、1幕だけ見て出ました。 -
ウ・ルドルフィナ で夕食。 まだ明るいけど、朝早くから歩き回ったので疲れました。
ルドルフィヌム近くのトラム停留所スタロムニェストカーの真ん前にあります。 ガイドブックの料理のページを見せたら、“これはある、これはない”と指さししてくれたので、楽に注文できました。ウ ルドルフィナ 地元の料理
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建物博物館と言われるプラハだから、クラシックで地元感のあるホテルを探しました。
Hotel AURUS は、“U Zlate studny ウ・ズラテ・ストゥドゥニー (黄金の井戸)” という ユネスコの保護下にある建物です。旧市街の真ん中なので車が入れるか心配だったのですが、国民劇場辺りから路地を通って、玄関(建物左側)に横付けできました。
日本語のHPがあって、各部屋をヴァーチャルツアーで見て、部屋を指定して予約でき、チェココルナ現金で払うと、10%割引きしてくれます。 http://www.aurushotel.cz/
私の選んだ roomBは 3階正面(現地表記の2階)の部屋でした。アウラス ホテル
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漆喰装飾は、建物の所有者が疫病から免れたことを感謝して1714年に施された7人の聖人です。
最も高い場所は、バラの花に囲まれ 疫病や地震から守護する聖ロザリア。(手に骸骨)
その左右は、イエズス会の、創設者・聖イグナチオと聖フランシスコ・ザビエル。
金色に輝く聖母子の左右は、聖ヴァーツラフと聖ヤン・ネポムキー。
鋳型をとって1983〜87年に再建されたもので、天井画と枠は吊るされて工事をしています。 -
地元感のあるホテルが好きなので、プラハに古い建物が残っていると知って、天井画の描かれた部屋に泊まろうと思いました。 Hotel Aurus には2室あり、ファミリースイートに2人なので広い! 3泊でシャンパンと花束のプレゼントがあり、 到着時間を知らせていたので、ワインクーラーに入れて用意してありました。 \(^▽^) カンパ?ィ
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立地が良すぎてカレル通りの音が心配だったのですが、二重窓で3階だったので問題ありませんでした。 roomCのほうが広いのですが、roomBのリビングは角部屋で、前が開けているので、街歩きをする人たちを眺めていました。 正面の赤い建物が、プラハ最古のカフェと言われる“金のヘビ”です。
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roomBの浴室はコーナーバスなので、角部分に座って体や髪を洗えて、シャワーの湯は壁にかかって床を濡らさないので、とても良かったです。寝そべらなくても肩まで浸かれる深さがあるし、長さも十分でした。
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窓を開けると、“乙女の彫像”が・・・
予知能力がありプラハを最初に統治したという伝説上の女王リブシェといわれます。 -
中世のルネッサンスの建物を、1905年アールヌーボー様式で建て替えた“U zlateho hrebiku(金の爪)”という建物です。
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Hotel Aurus の建物は、16世紀末ルドルフ2世(錬金術師を保護した王)の時代にはローマ教皇大使スピネッリが住んだことで“赤い椅子”という名前でしたが、18世紀には既に“黄金の井戸(U Zlate studny)”という名でよく知られていました。
それは中世、パブでよく話題にした話で、 建物の物置に井戸があり、黄金の宝が隠されているという噂に惹かれたその館の貧しいメイドが、身を乗り出して井戸を覗くと、井戸の底に金貨の山がきらめいた。メイドは、石にロープを結んで井戸に下りて行ったが、溺死してしまった。館の持ち主が怒って井戸を洗浄すると、意外なことに黄金の宝が見つかった。 という話にちなんでいます。 (ホテルにあった説明書より) -
7:30 今日の朝散歩は、1714年ダマスカスの商人が開いた プラハ初のカフェ“金のヘビ”から左折し、Liliovaリリオヴァ通りを行くことにしました。
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リリオヴァ通りとアネンスカー通りの三叉路。 静かな通りです。
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馬車が出て来そうな扉の上に大きな絵があるのに、古くてよく見えない。
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旅行番組で紹介されていた “CHOCO CAFE”。 ベリー類が入ったホットチョコ、飲みたかったけどまだ開店前。
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豪華な建物も点在します。 リリオヴァ通りとナープルストコヴァ通りの角。
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ベトレムスケー広場。 真ん中の建物3階の窓にあるのは、金色のマリア像です。
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ベツレヘム礼拝堂。 ヤン・フスがチェコ語で説教をしていたという教会ですが、完全に新しい。
大きすぎて全景撮れません。前を歩いている人が小さく見えます。ベツレヘム礼拝堂 寺院・教会
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ベツレヘム礼拝堂の入口。 ギャラリーとカフェがあるようでした。
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ベトレヘムスケー通り(ベツレヘム礼拝堂の前の通り)とフソバ通りの角
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モーツァルトが1787〜91年に住んでいた建物(外壁に彼の顔のレリーフがあるらしい)を探したのですが、 見つからなかったので(帰国してから、もう1つ東側の通りと判明)、
ホテルに帰ろうと振り返ったら、 -
“ぶら下がる男”を発見!
身長220cmもあるこのおじさん、1997年に制作されて、いろいろな所にぶら下がりに行っているそうで、2007年米国ミシガンでは自殺志願者だと思われて通報されたらしい。 -
容貌は、モラビア地方生れの精神分析学者フロイト(1856年当時はオーストリア帝国領)に似ているんだとか。
空でも見ながら歩いてないと、気が付かないかも。 ホスポダ“ウ・ズラテーホ・ティグラ(黄金の虎)”から新市街の方に歩いて、兵士シュヴェイクの看板があるレストランの上に居ます。 -
フソヴァ通りを北に歩いて、カレル通りのここを見つけたので一安心。
カフェの角を右折(東へ)したら旧市街広場、向こうの男柱像(クラムガラス宮殿)の前を左折(西へ)したらカレル橋です。 ま、昼間は人が歩いているので迷うことはありませんが。 -
クラム・ガラス宮殿。
よく似た男像柱をいくつも見ました。これもムーア人(北アフリカのイスラム教徒)かな?クラム ガラス宮殿 城・宮殿
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ホテルの向かいのマニュファクトゥーラ。
さぁ、朝ごはん食べてプラハ城に行こっ!
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