2015/04/27 - 2015/04/28
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prinprinさん
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カンパ島周辺を ちょこっと散歩。
旅行記5に付け加えられなかったので、写真整理の為 UPさせていただきます。
(メモ : ボヘミアの創始者) 図説プラハ Wikipedia他より
ボヘミア王国の伝説上の創始者は、王女リブシェとその夫プシェミスルと言われるが、
実際に歴史に登場するのはボジヴォイ1世であり、一般的にはプシェミスル家の事実上の創始者はボジヴォイ1世(在位:870~895年)とされる。
ボジヴォイ1世と后リュドミラは、ビザンチン帝国から派遣された宣教師キュリロスとメトディオスから洗礼を受け、自らキリスト教(正教会)に改宗した最初の君主だった。
※当時、チェコ語を含むスラヴ系言語は文字が無かったため、ラテン語やギリシャ語を便宜的に当てはめていたが、キュリロスはそれでは文章がぎこちなくなることに気付き、話し言葉通りに表記できるグラゴール文字を創出した。
この文字により、聖書や典礼書が翻訳され、布教がいっきに進む。
やがて、モラヴィア王国(ボヘミア、モラヴィア、スロヴァキア)はカトリック教会に属してラテン文字を使うようになり、正教会派はブルガリアに逃れて布教活動を続けた。その中の一人クレメンスが、グラゴール文字を改良してキリル文字を考案。現在も正教会の国々で使われている。
この時代、プシェミスル家の基盤はまだ盤石とは言えず、国内にはこれを転覆させようと狙う勢力が存在し、国外では西のドイツや東のハンガリーの侵入に備える必要があった為、ボジヴォイ1世は王権強化の精神的支柱と外交上の戦略として、熱心にキリスト教化政策を進めていった。
- 交通手段
- 徒歩
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日本大使館
(メモ : ヴァーツラフ1世)
ボジヴォイ1世退位後、息子スピチフニェフ1世(895?915年)と、その弟ヴラチスラフ1世(915?921年)が王位に就くが短命だった。
ヴラチスラフ1世の戦死後、后ドラミホーラが摂政となり、長男ヴァーツラフ1世(921?929年)が成人して王位を継ぐ。
ヴァーツラフ1世は、宣教師をドイツから招くなどキリスト教化をいっそう進める政策を採り、外交政策としては東フランク王国(神聖ローマ帝国は962年成立)に帰服した。
これによりプシェミスル朝は、周囲の軍事圧力を緩和し、国内支配の強化を進め、ボヘミアは西ヨーロッパ世界の一員となることができた。
※925年、現在の聖ヴィート大聖堂の場所に、最初の教会を建設し、ザクセン公から聖ヴィートの聖遺物(腕の遺骨)を譲り受けて、聖ヴィートを国の守護聖人に据えた。
しかし、ヴァーツラフ1世のキリスト教を基盤とする親ドイツ政策を快く思わない貴族は、弟ボレスラフを立ててクーデターを計画する。 935年ボレスラフは自分の領地に兄を招き、教会の礼拝堂で暗殺して王位(935?972年)に就く。
その後、敬虔なキリスト教徒だったヴァーツラフ1世はチェコの守護聖人として列聖され、人々に語り継がれていく。日本大使館(チェコ) 散歩・街歩き
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デンマーク大使館。 何かの撮影隊のようです。
(メモ : カール4世=カレル1世=カレル4世)
プシェミスル朝は4世紀に渡ってボヘミアを統治したが、1306年ヴァーツラフ3世が暗殺されて家系が途絶えた。
妹エリシュカが、ルクセンブルク家出身の神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世の息子ヨハンと結婚することでボヘミア王国を維持する事ができたが、この2人の長子として生まれたヴァーツラフが、のちの神聖ローマ皇帝カール4世(独語名)となる。
7〜14歳パリで養育され、当時のフランス国王シャルル4世の名をとり、(仏語名シャルルのチェコ語)カレルと改名した。
カレルはボヘミア王国領内のモラヴィア辺境伯となり、1346年 父が英仏百年戦争でフランスを援軍して戦死したためボヘミア王を継ぎ、1355年神聖ローマ皇帝となりカレル4世を名のった。 -
高級ホテル、マンダリン・オリエンタル・プラハ
(メモ : カール4世の偉業)
・クトナー・ホラ銀山の開発。 ・交通網の整備。 ・プラハ城やカレル橋など都市建設。
・教会や修道院を多数建設。 ・貧民救済の為“飢えの壁”建設。
・神聖ローマ帝国内最初のカレル大学を創設、プラハは一大学術都市となる。
・マインツ大司教座に属していたプラハを独立の大司教座に昇格。
※1356年“金印勅書”全31条を発布し、選帝侯7名を定め、多数決で神聖ローマ皇帝を選出すると規定し、帝国が滅亡する1806年まで帝国の最高法規とされた。→選帝侯の裁判・貨幣鋳造・関税徴収などの特権を公認したため、諸侯の持つ領地は、王権の支配を受けない事実上の独立国(領邦)となり、ドイツの統一は19世紀後半まで実現しなかった。マンダリン オリエンタル プラハ ホテル
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鴨肉、ジビエ料理、ウ・モドレー・カフニチュキ
(メモ : カール4世の子供たちとフス戦争)〜プラハ&ブダペストの旅3
http://4travel.jp/travelogue/11014483
・1382年アンナがイングランド王リチャード2世に嫁ぎ、チェコ語訳された聖書を持っていたことが、宗教改革の先駆者ウィクリフ(1384年病死)が晩年、聖書を英訳する動機となる。それを持った牧者たちを地方に派遣してウィクリフの思想が広がり、プラハにもウィクリフの著書が伝わり、フスに影響を与える。
・嫡男ボヘミア王ヴァーツラフ4世(=ヴェンツェル)〜ローマ教皇と関係が悪く、ネポムツキーを処刑した。ドイツよりボヘミアの統治に力を入れ、神聖ローマ皇帝位は1400年に追われる。1419年7月30日 第1次プラハ窓外投てき事件が起き、8月16日ショックで死去。
・ジギスムント〜ハンガリー女王と結婚して、ハンガリー王となる。1410年皇帝即位、1415年フスを処刑する。1419年 第1次プラハ窓外投擲事件が起きて、フス戦争(1419〜36年)になる。異母兄ヴァーツラフ4世に子が無く、ボヘミア王も継承。
Wikipedia−ルクセンブルク家によるボヘミア統治 他ウ モドレー カフニチュキ 地元の料理
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ホテル・アルキミスト・ノスティツォヴァ・パラツェ
(メモ:ハプスブルク家の統治下へ)
フス戦争終結の翌年1437年、皇帝ジギスムント(ハンガリー王、ボヘミア王)が男子を残すことなく死去し、ジギスムントの娘と結婚していたハプスブルク家アルブレヒト2世が継承する。(戴冠しないまま1439年オスマン帝国との戦争中にハンガリーで病死→又従弟フリードリヒ3世に移る)
ルクセンブルク家によるボヘミア統治は終り、ハプスブルク家に支配される。
以降、ハプスブルク家は(カール4世の金印勅書により)、神聖ローマ帝国が解体される1806年まで、皇帝位を事実上独占した。アルキミスト ノスティコヴァ パレス ホテル
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トラムが通る カルメリツカー通り
(メモ : ハプスブルク家マクシミリアン1世、日没なき帝国)
1477年、フリードリヒ3世の息子マクシミリアン1世は、ブルゴーニュ公国の後継者マリア(婚約者)の要請に応じて結婚(=救援)し、フランスと戦って(毛織物の産地で豊かな)フランドル(ネーデリラント)の領土を確保した。
1492年、スペイン(コロンブス)が新大陸アメリカに到達。
1496年、長男フィリップ美公を、スペイン王女フアナと結婚させる。
1506年、フアナが王位を継ぐためスペインへ帰国し、フィリップ美公も同行するが4か月後急死
1515年、フィリップ美公の次男フェルディナント1世をボヘミア・ハンガリーの王女アンナ結婚させる
1516年、フィリップ美公の長男カール5世、スペイン国王に即位。1519年神聖ローマ皇帝即位。
1517年、ルターによる贖宥状批判から、宗教改革が始まる。
1521年、マクシミリアン1世の遺領分割で、兄カール5世の意向によりフェルディナント1世がオーストリアを相続し、ボヘミア・ハンガリー王女アンナと正式結婚。
1526年、ラヨシュ2世が戦死(対オスマン帝国)したため、妻の兄フェルディナント1世がボヘミア・ハンガリー王即位。
1529年、オスマン帝国による第1次ウィーン包囲
1556年、兄カール5世死去により、フェルディナント1世が神聖ローマ皇帝即位。 -
射撃島(左)と、レギー橋
(メモ:不思議に魅せられたルドルフ2世)
ボヘミア王位がハプスブルク家に移って以来、宮廷はウィーンに置かれていたが、
フェルディナント1世の孫ルドルフ2世は国政に関心を示さず、1583年 帝国の首都をプラハに移し、芸術や学芸を愛し、珍しい動植物の収集、天文学や占星術、錬金術、魔術にまでのめり込んだ。
1572年ハンガリー王に就くと新教徒弾圧に乗り出し、反乱が起きると、ハンガリーに信教の自由を容認。
1575年ボヘミア王即位、1576年神聖ローマ皇帝即位。
1583年プラハに遷都。
1608年再びハンガリーで大規模反乱が勃発すると、弟マティアスにハンガリー王位を譲り、
同年マティアスがボヘミア王位を奪おうとした時、ボヘミア貴族が皇帝擁護に就く見返りとしてフス派など完全な宗教の自由を与える。
1611年パッサウ司教軍の攻撃に対処できず人心を失い、弟マティアスがプラハに侵攻してボヘミア王位を奪われ、プラハで幽閉されて死去。 -
カンパ島からカレル橋をパチリ
(メモ : 30年戦争)
1617年ルドルフ2世、マティアス兄弟の従弟で、カトリック強硬派フェルディナント2世がボヘミア王位に就くと、プロテスタントを弾圧した。
1618年プロテスタントの民衆がプラハ王宮を襲った(第2次プラハ窓外投擲事件)ことをきっかけに、プロテスタントのボヘミア貴族は多数のカトリック聖職者を追放。(1618〜1648年 三十年戦争)
1619年フエルディナント2世が神聖ローマ皇帝も兼ねるようになると、議会でプロテスタントの新王を擁立してハプスブルク家に対抗した。
1620年11月8日 白山の戦いで大敗 -
カンパ島
(メモ:ヴァルトシュテイン)〜プラハ&ブダペストの旅4
http://4travel.jp/travelogue/11021978カンパ島 散歩・街歩き
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カンパ島(左)とマラー・ストラナ地区(右)の間を流れる チェルトフカ水路
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ライラックの花
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カンパ島
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カレル橋へ
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