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 世界文化遺産に登録されている古墳公園の紹介です。古墳公園の正式名称は、大陵苑です。およそ12万5千坪の敷地に、23基の古墳が保存されています。<br />

2013春、韓国旅行記26(9/19):4月9日(7):慶州、古墳公園、天馬塚、山茱萸と連翹の花、欅と楓の新緑

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2013/04/08 - 2013/04/10

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旅行記グループ 2013春、韓国旅行記26

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旅人のくまさん

旅人のくまさんさん

 世界文化遺産に登録されている古墳公園の紹介です。古墳公園の正式名称は、大陵苑です。およそ12万5千坪の敷地に、23基の古墳が保存されています。

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  • 古墳公園の中にある、『天馬塚(チョンマチョン)』の入口光景です。古墳が発掘調査された後の出入口です。未盗掘の墳墓からは、1万点以上の副葬品が見つかりました。

    イチオシ

    古墳公園の中にある、『天馬塚(チョンマチョン)』の入口光景です。古墳が発掘調査された後の出入口です。未盗掘の墳墓からは、1万点以上の副葬品が見つかりました。

  • 天馬塚の周りにある陵の光景です。天馬塚の発掘を機会に民家を移転させて、市街地の約12万5400坪の広大な敷地が公園化されました。

    天馬塚の周りにある陵の光景です。天馬塚の発掘を機会に民家を移転させて、市街地の約12万5400坪の広大な敷地が公園化されました。

  • 『大陵苑』と呼ばれる古墳公園の中の光景です。金冠塚、瑞凰塚、金鈴塚、天馬塚、98号双古墳等の命名がされた古墳が集合した区域です。前方に見えるのは、皇南大塚(ファンナムデチョン)です。

    『大陵苑』と呼ばれる古墳公園の中の光景です。金冠塚、瑞凰塚、金鈴塚、天馬塚、98号双古墳等の命名がされた古墳が集合した区域です。前方に見えるのは、皇南大塚(ファンナムデチョン)です。

  • 『大陵苑』の中には、伝・味鄒(ミチュ)王陵もあります。味鄒(ミチュ)王は、新羅の第13代王(在位:262~284年)です。当時の日本は、卑弥呼(生年不明~248年頃)の時代の少し後となります。

    『大陵苑』の中には、伝・味鄒(ミチュ)王陵もあります。味鄒(ミチュ)王は、新羅の第13代王(在位:262~284年)です。当時の日本は、卑弥呼(生年不明~248年頃)の時代の少し後となります。

  • 現在は天馬塚だけが発掘され、内部公開されていますが、当初の計画では皇南大塚が発掘の対象だったとされます。皇南大塚は夫婦塚とされ、外見は全円後円墳のように見えました。この古墳とは違っていたかもしれません。

    現在は天馬塚だけが発掘され、内部公開されていますが、当初の計画では皇南大塚が発掘の対象だったとされます。皇南大塚は夫婦塚とされ、外見は全円後円墳のように見えました。この古墳とは違っていたかもしれません。

  • 『天馬塚』の名前の由来となったのは、天馬塚から出土した障泥(あおり)です。馬の両腹に泥よけとして下げるもので、その障泥は、薄い白樺の皮を何枚も重ね斜め格子状に縫い合わせて、その上に白馬が飛んでいる姿が描かれていました。

    『天馬塚』の名前の由来となったのは、天馬塚から出土した障泥(あおり)です。馬の両腹に泥よけとして下げるもので、その障泥は、薄い白樺の皮を何枚も重ね斜め格子状に縫い合わせて、その上に白馬が飛んでいる姿が描かれていました。

  • 『大陵苑(デヌンウォン)』は、韓国の生徒さん達の歴史学習の場所ともなっていました。新羅の文化を学ぶには、教材に事欠かない慶州の町です。

    『大陵苑(デヌンウォン)』は、韓国の生徒さん達の歴史学習の場所ともなっていました。新羅の文化を学ぶには、教材に事欠かない慶州の町です。

  • 左端には、黄色の花を咲かせた樹木がありましたが、ほとんどの木は、まだ冬木立でした。右手の通路脇の樹はサルスベリ(百日紅)です。ミソハギ科サルスベリ属の落葉中高木です。

    左端には、黄色の花を咲かせた樹木がありましたが、ほとんどの木は、まだ冬木立でした。右手の通路脇の樹はサルスベリ(百日紅)です。ミソハギ科サルスベリ属の落葉中高木です。

  • 先ほど紹介した生徒さん達の姿がまだ見えています。その背後に見えているのは、夫婦塚とも呼ばれる皇南大塚のようです。全円後円墳のようにも見えました。右手の大木は、新緑が始まったケヤキ(欅)のようです。

    先ほど紹介した生徒さん達の姿がまだ見えています。その背後に見えているのは、夫婦塚とも呼ばれる皇南大塚のようです。全円後円墳のようにも見えました。右手の大木は、新緑が始まったケヤキ(欅)のようです。

  • 満開の『サンシュユ(山茱萸)』の黄色の花です。中国と朝鮮半島が原産地とされ、日本へは江戸時代の享保年間に朝鮮経由で漢種の種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになったとされます。

    満開の『サンシュユ(山茱萸)』の黄色の花です。中国と朝鮮半島が原産地とされ、日本へは江戸時代の享保年間に朝鮮経由で漢種の種子が日本に持ち込まれ、薬用植物として栽培されるようになったとされます。

  • 満開の『サンシュユ(山茱萸)』の黄色の花のズームアップ光景です。ミズキ科ミズキ属の落葉小高木です。ハルコガネバナ、アキサンゴ、ヤマグミ等の和名を持ちます。

    満開の『サンシュユ(山茱萸)』の黄色の花のズームアップ光景です。ミズキ科ミズキ属の落葉小高木です。ハルコガネバナ、アキサンゴ、ヤマグミ等の和名を持ちます。

  • ここからは、『大陵苑(デヌンウォン)』の見学を終えて、出口に向かう途中での撮影です。手前は満開が過ぎた桜の木、生垣の黄色の花は、レンギョウ(連翹)です。

    ここからは、『大陵苑(デヌンウォン)』の見学を終えて、出口に向かう途中での撮影です。手前は満開が過ぎた桜の木、生垣の黄色の花は、レンギョウ(連翹)です。

  • ごく小さな古墳のようにも見える光景です。古墳より後に生えたらしい、松などが大きくなっていました。

    ごく小さな古墳のようにも見える光景です。古墳より後に生えたらしい、松などが大きくなっていました。

  • 木々の背後から眺めた、古墳公園の光景です。公園として整備される前には、もっと木々が生い茂っていたかも知れません。

    木々の背後から眺めた、古墳公園の光景です。公園として整備される前には、もっと木々が生い茂っていたかも知れません。

  • 何度か通ったことがあり、記憶に残っている園内の通り道の光景です。左手が公園外周の塀になります。石塀のようです。

    何度か通ったことがあり、記憶に残っている園内の通り道の光景です。左手が公園外周の塀になります。石塀のようです。

  • 本瓦を乗せた、立派な造りの石塀のズームアップ光景です。塀の外にも染井吉野の樹がありました。

    本瓦を乗せた、立派な造りの石塀のズームアップ光景です。塀の外にも染井吉野の樹がありました。

  • 古墳の裾と、その先に見える染井吉野の光景です。5世紀以前の古墳からは、金や銀細工の副葬品は出土していませんが、5世紀に始まり、5世紀末から6世紀にかけてその量は増えています。新羅国の対外情勢に変化があったことを示すものかも知れません。

    古墳の裾と、その先に見える染井吉野の光景です。5世紀以前の古墳からは、金や銀細工の副葬品は出土していませんが、5世紀に始まり、5世紀末から6世紀にかけてその量は増えています。新羅国の対外情勢に変化があったことを示すものかも知れません。

  • 多数の金銀製の装身具が出土したのは、天馬塚、皇南大塚、金冠塚、金鈴塚、瑞凰塚などです。これらは、新羅時代の五世紀代の墓とされます。

    多数の金銀製の装身具が出土したのは、天馬塚、皇南大塚、金冠塚、金鈴塚、瑞凰塚などです。これらは、新羅時代の五世紀代の墓とされます。

  • 古墳公園内で咲いていた、ソメイヨシノ(染井吉野)の光景です。満開は過ぎていましたが、まだ見どころが残っていました。

    古墳公園内で咲いていた、ソメイヨシノ(染井吉野)の光景です。満開は過ぎていましたが、まだ見どころが残っていました。

  • 満開は過ぎてしまった、ソメイヨシノ(染井吉野)の木々のズームアップ光景です。

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    満開は過ぎてしまった、ソメイヨシノ(染井吉野)の木々のズームアップ光景です。

  • 古墳の被葬者は、頭には冠飾りセットを、耳には太環耳飾りを、首から胸にかけては頸胸飾りを、腰には帯を、腿には帯に繋がる垂下飾を、そして足には飾履(しょくり)を身に着けて埋葬されていました。当時の支配者層の権威の象徴だったようです。

    古墳の被葬者は、頭には冠飾りセットを、耳には太環耳飾りを、首から胸にかけては頸胸飾りを、腰には帯を、腿には帯に繋がる垂下飾を、そして足には飾履(しょくり)を身に着けて埋葬されていました。当時の支配者層の権威の象徴だったようです。

  • 松林の中に置かれていた、小型のストーンサークルのように配置された、石群の光景です。休憩用のイス代わりかも知れません。

    松林の中に置かれていた、小型のストーンサークルのように配置された、石群の光景です。休憩用のイス代わりかも知れません。

  • 同じく、小型のストーンサークルのように配置された石群の光景です。腰掛用に配置された石かも知れません。

    同じく、小型のストーンサークルのように配置された石群の光景です。腰掛用に配置された石かも知れません。

  • 赤松でしょうか、自然林がそのまま残されたような、松林の光景です。下草は綺麗に除草されていました。

    赤松でしょうか、自然林がそのまま残されたような、松林の光景です。下草は綺麗に除草されていました。

  • 慶州の歴史遺跡は、種類により、南山(ナムサン)、月城(ウォルソン)、大陵苑(テヌンウォン)、皇龍寺(ファリョンサ)と山城(サンソン)の五地区に分かれています。その内の1つの『大陵苑』の見学でした。歴史遺跡地区内には計52の指定文化財があります。

    慶州の歴史遺跡は、種類により、南山(ナムサン)、月城(ウォルソン)、大陵苑(テヌンウォン)、皇龍寺(ファリョンサ)と山城(サンソン)の五地区に分かれています。その内の1つの『大陵苑』の見学でした。歴史遺跡地区内には計52の指定文化財があります。

  • 通路脇にあった案内標識です。上がミチュワンヌン(味鄒王陵)、下がチョンマチョン(天馬塚)の表示でした。

    通路脇にあった案内標識です。上がミチュワンヌン(味鄒王陵)、下がチョンマチョン(天馬塚)の表示でした。

  • 松林が続く、『大陵苑(デヌンウォン)』の中の通路の光景です。歴史を偲ばせる雰囲気が漂っていました。

    松林が続く、『大陵苑(デヌンウォン)』の中の通路の光景です。歴史を偲ばせる雰囲気が漂っていました。

  • 瑞々しい新緑の光景です。カエデ(楓)の新緑のようでした。その背後には、樹種の違う木の新緑が重なっていました。

    瑞々しい新緑の光景です。カエデ(楓)の新緑のようでした。その背後には、樹種の違う木の新緑が重なっていました。

  • 『大陵苑』の見学を終えて、塀の外から眺めた園内の光景です。右手に見えるのが正面出入口の建物です。

    『大陵苑』の見学を終えて、塀の外から眺めた園内の光景です。右手に見えるのが正面出入口の建物です。

  • 『大陵苑』の扁額がある正面出入口の光景です。大陵苑は、『皇南洞古墳群』と呼ばれる、天馬塚をはじめ、20余基の古墳が整備・管理されています。

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    『大陵苑』の扁額がある正面出入口の光景です。大陵苑は、『皇南洞古墳群』と呼ばれる、天馬塚をはじめ、20余基の古墳が整備・管理されています。

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