2013/10/19 - 2013/10/19
3120位(同エリア7315件中)
滝山氏照さん
JR横須賀線北鎌倉駅より建長寺に至る手前の右側に在する宝亀山・長寿寺(ちょうじゅじ、神奈川県鎌倉市山ノ内)は足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)が建武3年(1336)屋敷跡に創建し、その後尊氏の第4子で初代鎌倉公方となった足利基氏(あしかが・もとうじ、1340~1367)が父の菩提を弔うため七堂伽藍を備えた堂宇を建立したとして伝えらえれたいます。
ご承知の通り鎌倉幕府の滅亡後武士の棟梁となった尊氏は建武3年(1336)征夷大将軍として京都室町に幕府を開く訳ですが、もともと足利氏は足利荘(栃木県足利市)に本拠をおく鎌倉幕府の御家人でした。
足利氏の祖は源義国(みなもと・よしくに、1091~1155)で前九年の役・後三年の役で活躍した八幡太郎義家(よしいえ、1039~1106)の四男で父義家から下野国の足利の地を譲られその地名を姓とします。
義国の孫義兼(よしかね、1154~1199)は頼朝の幕府開設に協力し、北条時政の娘を妻に迎えることで足利氏の発展の基礎固めをし、北条氏の執権政治時代を通じて良好な関係を構築します。
尊氏は嘉元3年(1305)父貞氏、母上杉頼重の娘の子として生まれ、元応元年(1319)に15歳にして治部大輔に任じられその後最後の執権赤橋守時(あかはし・もりとき、1295~1333)の妹を妻とし、北条氏一族として一層の信任を得ます。
元弘元年(1331)後醍醐天皇(ごだいごてんのう、1288~1339)の幕府に対する挙兵発覚、尊氏は幕府方大将として河内笠置へ出兵し乱を治め朝廷に対する軍事力を見せつけます。
隠岐に配流の後醍醐天皇が元弘3年(1333)隠岐を脱出し伯耆に拠点を定めると、尊氏は追討のため軍を率いて上洛するも天皇の説得を受け、ついに恩顧の鎌倉幕府に弓を弾き京都における鎌倉幕府拠点である六波羅探題を攻めて敗退に追い込みます。
同時並行して新田義貞(にった・よしさだ、1301~1338)軍活躍による鎌倉侵入により元弘3年(1333)得宗家北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)ら一族与党は一斉に東勝寺にて自害、頼朝が鎌倉入府以来約150余の鎌倉幕府は滅亡します。
北条氏滅亡後の鎌倉の主役は足利氏となります。確かに鎌倉攻防戦で活躍した新田義貞も一時的に主たる立場にいましたが官位を有しない義貞に対し名門の尊氏の代理人である千寿王(せんじゅおう、1330~1367・尊氏の三男で後の義詮)側に関東武士たちが多く集結したためです。
後醍醐天皇による建武の親政下においても鎌倉の主は足利氏であり続け、尊氏が京都に在住の時は実弟の直義(ただよし、1306~1352)が尊氏の分身として鎌倉にて関東の武士や神社仏閣の掌握に勤めます。
建武2年(1335)北条高時の子時行(ときゆき、生誕不詳~1353)が信濃の諏訪氏に擁立されて挙兵し鎌倉駐在の直義軍を破り鎌倉に入る事件が発生(中先代の乱)、反撃し鎌倉を奪い返すため天皇に征夷大将軍兼総追捕使補任を求めますが発給されず尊氏はそのまま京都を出て鎌倉を取り戻すことに成功します。
鎌倉奪取を機に尊氏は鎌倉に居を構え、一方天皇は帰京するよう命じますが無視したため天皇は尊氏討伐として新田義貞軍に鎌倉へ下向を命じます。
尊氏は鎌倉を離れる際に息子の義詮を残し貞義軍を箱根で迎え撃ち、これを破って逆に西進します。一時期畿内で敗れ九州に逃れますが軍勢を建て直し兵庫湊川で後醍醐天皇方の楠木正成(くすのき・まさしげ、1294~1336)や新田義貞軍に討ち勝ちそののち京都に入り光明天皇(こうみょうてんのう、1322~1380)を擁立して室町幕府を開きます。
やがて尊氏と実弟直義との間で争いが起り(観応の擾乱)、結果直義が失脚という最悪の展開となります。尊氏は幕府の軍事力指揮権を把握し一方能吏型の直義は政務担当をしていた事情があり、直義の後任として鎌倉駐在の義詮を京都に呼び政務をとることになります。
貞和5年(1349)7月に義詮の弟である基氏が鎌倉に下向します。これ以降基氏の子孫が鎌倉公方として東国10国(後に陸奥・出羽を加えた12国)を統括する体制が始まります。
鎌倉府は室町幕府のミニチュア版で具体的には鎌倉公方を首長とし、その下に公方を補佐する関東管領が公方の命令を諸国に伝えるなどの役割がありました。
長寿寺略縁起によると尊氏は延文3年(1358)4月29日、54歳で京都において没し、法名については京都では等持院殿、関東では長寿寺殿と称しています。
そして鎌倉府初代基氏は父尊氏の菩提を弔うため七堂伽藍を備えた堂宇を建立したと伝えています。
2022年10月8日追記
現地にて入手の「宝亀山 長寿禅寺」と題字されたパンフレットには下記のように記載されています。
『 宝亀山 長寿寺略縁起
当寺は臨済宗建長寺塔頭寺院である。足利尊氏が邸跡に1336年(建武3年)創建し諸山第一位の列に定めた。
尊氏は1358年(延文3年)4月29日、54歳で京都において歿す。法名を京都では等持院殿、関東においては長寿寺殿と称す。
尊氏没後、父の菩提を弔う為、第4子関東管領足利基氏によって七堂伽藍を備えた堂宇が建立された。
開山古先印元禅師(初代住職)は1294年(永仁元年)薩摩に生まれ、8歳で円覚寺桃渓禅師のもとに投ず。24歳で中国に渡り天目山中峰国師に参ず。33歳で帰国後、当山の御開山となる。
境内裏山には尊氏の遺髪を埋葬したお墓がある。観音堂は奈良県の古刹忍辱山円成寺より室町時代に建立された多宝塔を大正時代に改造移築したものである。』
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
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長寿寺・山門
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長寿寺特別拝観
偶然にも特別に拝観できるとの案内板が見えました。訪問日は土曜日でしたので運が良かったようです。 -
足利尊氏・坐像
山門奥の正面には本堂が在り、本堂中央にはご本尊の釈迦如来、左手に開山の古先印元坐像、そして右手には足利尊氏坐像が祀られています。 -
長寿寺・境内
日常の手入れが行き届いています。 -
長寿寺・室内
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長寿寺・庭園
書院から庭園を一望、左手には観音堂が建立されています。 -
長寿寺・室内
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長寿寺・小方丈案内
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長寿寺・小方丈畳
お茶会用の炉でしょうか。 -
長寿寺・境内
紅葉の季節では見応えのある景色との事です。 -
長寿寺・境内
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長寿寺・境内
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長寿寺・境内
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長寿寺・庭園
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長寿寺・本堂
寺号は宝亀山長寿禅寺で臨済宗建長寺派となっています。 -
長寿寺・境内
貞享2年(1685)編集の「新編鎌倉誌」によれば本堂の裏側の高台に尊氏の邸宅があったと記されています。 -
長寿寺・書院
観音堂側から書院を見渡します。 -
長寿寺・観音堂
縁起によるとこの観音堂は奈良県の古刹忍辱山円成寺より室町時代に建立された多宝塔を、大正時代に改造移築したものだそうです。 -
足利尊氏墓・案内板
観音堂の裏側に登り階段を進みます。 -
足利尊氏墓・全景
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イチオシ
足利尊氏墓
初代鎌倉公方基氏が父尊氏の遺髪を埋めたとされる五輪塔があります。 -
散歩道
尊氏墓から庭園に降りてゆきます。 -
散歩道
右手には竹林が控えています。 -
長寿寺・庭園
庭園の中央に歩道が通ってゆきます。 -
長寿寺・境内
本堂と庭園が見事に調和しています。 -
長寿寺・境内
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