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JR横須賀線鎌倉駅西口から線路に沿って北進すると扇ケ谷(おうぎがやつ)に入り更に歩くと左手に東光山・英勝寺(えいしょうじ、神奈川県鎌倉市扇ケ谷)が見えます。<br /><br />英勝寺の寺域はかつては戦国時代の武将太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)及び父道真の館跡であり、道灌父子は扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の歴代の家宰として主家政庁に出仕していました。<br /><br />そもそも1333年に北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)とその一族の自害により鎌倉幕府は瓦解、その後の鎌倉は足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)の支配地となり、扇ケ谷一帯は管領職家の上杉氏に与えられます。<br /><br />扇谷上杉氏の政庁は英勝寺前のJR横須賀線踏切を渡り、線路の東側を北上すると右手の屋敷跡で石碑で確認できます。<br /><br />ご存じの通り道灌は扇谷・山内両上杉氏の対立に巻き込まれ、文明18年(1486)に暗殺されます。<br /><br />天正18年(1890)に関東入府の徳川家康は源氏の出自であることを強く認識しており、遠祖の地である鎌倉の復興に努め鶴岡八幡宮を始めとする神社仏閣の再建に尽力します。<br /><br />合わせて広大な関東支配を急速に盤石なものにするため没落した名家の発掘にも力を注ぎます。<br /><br />その中で道灌から五代目の孫である太田重政(おおた・しげまさ、生没不詳)も招かれますが京都滞在を理由に妹のお八が代わって江戸に参上します。<br /><br />このことが奇縁で家康夫人となり、その後の関ヶ原の戦い、大坂冬・夏の戦いにでは家康と共に随身していずれも勝利を納めます。これらの戦いを勝利した家康はお梶(お八から改名)にお勝の名を与えます。<br /><br />慶長12年(1607)お勝は市姫を産みますが4歳で亡くなります。<br /><br />家康は悲しみに沈むお勝の様子を見て25万石藩主とはいえ8歳の息子頼房の養育を命じます。お勝は養母として頼房を育て上げ徳川ご三家の水戸徳川の基礎を築きます。<br /><br />元和2年(1616)家康は死去、お勝は落飾し名を英勝院と改めます。<br /><br />寛永13年(1638)英勝院は先祖を供養するため太田道灌ゆかりの扇ケ谷に寺院を創建、翌年には頼房の娘の小良姫が住職として入寺、寛永15年には第3代将軍家光より300石の寺領が与えられます。<br /><br />寛永19年(1642)8月に英勝院は病により享年65歳で逝去、英勝院の死を悼みこれを機に寺領120石加増され、仏殿だけの境内には祠堂・山門・鐘楼などが建てられ以降英勝寺は水戸徳川家の御寺と称されることになります。<br /><br /><br />2022年10月1日追記<br /><br />当該寺院で入手した「東光山 英勝寺 拝観のしおり」と題するパンフレットには下記の通り説明されています。<br /><br />『 英勝寺の歴史<br /><br /><寺の誕生まで1ー平安・鎌倉時代><br />英勝寺の地は、古くから亀ヶ谷、扇ケ谷などと呼ばれてきました。平安時代、ここには源頼朝の父義朝の屋敷が建っていました。しかし、没後は義朝の霊を祀る亀谷堂に、鎌倉時代の初めには寿福寺に変わりました。<br /><br /><寺の誕生まで2ー室町・戦国時代><br />鎌倉幕府が滅ぶと、鎌倉は足利氏の支配地になり扇ケ谷は補佐役の上杉氏に与えられました。上杉氏の家臣の太田氏も、上杉屋敷の一角に居を構えました。<br /><br />しかし、太田氏は道灌の時、扇谷、山内両上杉氏の対立に巻き込まれ、暗殺され、家は没落してしまいます。文明18年(1486)のことでした。<br /><br /><寺の誕生まで3ー家康の時代><br />太田道灌の死から100年、関東の支配者になった徳川家康は、自分が源氏の血筋であることを理由に、ご先祖の地「鎌倉」の復興に努めました。税を軽くし、鶴岡八幡宮をはじめ多くの神社や寺院の再建を助けたのです。<br /><br />家康は、また没落した関東の名家の救済にも力を入れました。道灌5代の孫重政もまねかれました。が、当時は京都に滞在していたため、妹のお八が代わって江戸城に参上しました。これが家康の夫人になる奇縁となったのです。<br /><br />家康の寵愛を受けたお八は、名をお梶と改め、戦場にまでお共しました。すると、家康軍は連戦連勝、関ヶ原合戦の勝利を祝って、縁起のいい「お勝」の名を賜りました。<br /><br /><寺の誕生まで4ーお勝の方の時代><br />慶長12年(1607)、英勝院は一助に恵まれました。しかし、喜びもつかの間、市姫と名付けられた子は4歳で亡くなってしまいました。成人すれば、伊達政宗の嫡男の忠宗に嫁がせる約束までしていたのですが・・・・。<br /><br />そこで家康は、悲しみに沈むお勝の方に、水戸頼房の養育を命じました。25万石の藩主とはいえ、いまだ8歳の少年、お勝の方は、母となって頼房を育て、さらに徳川御三家の一つ水戸徳川家の基礎も築き上げました。<br /><br /><英勝寺の誕生ー英勝院の時代><br />元和2年(1616)4月、徳川家康逝去。お勝の方は出家し、名を英勝院と改めました。それから20年、還暦に近づいた英勝院は、先祖を供養し、自分の後生を祈るため、寺を開きたいと願いました。<br /><br />願いは許され、寛永13年(1636)11月23日、太田家ゆかりの扇ケ谷に仏殿が完成、翌年には水戸頼房の娘の少良姫が住職として入寺、寛永15年(1638)には、300石に寺領が許されました。みな、英勝院を慕う将軍家光の配慮でした。<br /><br /><その後の英勝寺ー水戸の御寺・尼僧の寺><br />しかし、英勝院が本格的な歩みを始めて7年、英勝院は病に臥すことが多くなりました。将軍も直々に見舞い、回復を祈りましたが、その甲斐もなく、寛永19年(1642)8月23日、逝去されました。享年65歳でした。<br /><br />葬礼を機に寺領は120石加増され、仏殿一つの境内には祠堂や山門、鐘楼などが加えられ、住職が暮らす姫御殿、その他の僧侶、寺侍、医師、料理人たちの下御殿、御長屋、代官所なども整えられました。以来、英勝寺は水戸家の御寺と称えられ、370余年の歴史を重ねてきました。<br /><br />重厚な伽藍に加え、樹木園や花畑、菜園まで備えた寺は、鎌倉では異色の存在でした。寺の行事も、英勝院と水戸家に関する法要の他に、武士の家と同様に初午、雛祭、七夕、月見の宴を催しました。また、裏山では僧侶、奉公人揃って者の花見、わらび採理、由比ヶ浜では松露摘みなどを楽しみました。威厳に満ちた御三家の寺には、雅な空気も流れていたのです。』(以下 略)<br /><br /><br />

相模鎌倉 道灌ゆかりの地を訪ねる・上杉家一門の執事として道真・道灌父子の居館跡に家康側室となった道灌後裔のお勝が晩年に創建した『英勝寺』散歩

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2013/10/19 - 2013/10/19

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR横須賀線鎌倉駅西口から線路に沿って北進すると扇ケ谷(おうぎがやつ)に入り更に歩くと左手に東光山・英勝寺(えいしょうじ、神奈川県鎌倉市扇ケ谷)が見えます。

英勝寺の寺域はかつては戦国時代の武将太田道灌(おおた・どうかん、1432~1486)及び父道真の館跡であり、道灌父子は扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の歴代の家宰として主家政庁に出仕していました。

そもそも1333年に北条高時(ほうじょう・たかとき、1304~1333)とその一族の自害により鎌倉幕府は瓦解、その後の鎌倉は足利尊氏(あしかが・たかうじ、1305~1358)の支配地となり、扇ケ谷一帯は管領職家の上杉氏に与えられます。

扇谷上杉氏の政庁は英勝寺前のJR横須賀線踏切を渡り、線路の東側を北上すると右手の屋敷跡で石碑で確認できます。

ご存じの通り道灌は扇谷・山内両上杉氏の対立に巻き込まれ、文明18年(1486)に暗殺されます。

天正18年(1890)に関東入府の徳川家康は源氏の出自であることを強く認識しており、遠祖の地である鎌倉の復興に努め鶴岡八幡宮を始めとする神社仏閣の再建に尽力します。

合わせて広大な関東支配を急速に盤石なものにするため没落した名家の発掘にも力を注ぎます。

その中で道灌から五代目の孫である太田重政(おおた・しげまさ、生没不詳)も招かれますが京都滞在を理由に妹のお八が代わって江戸に参上します。

このことが奇縁で家康夫人となり、その後の関ヶ原の戦い、大坂冬・夏の戦いにでは家康と共に随身していずれも勝利を納めます。これらの戦いを勝利した家康はお梶(お八から改名)にお勝の名を与えます。

慶長12年(1607)お勝は市姫を産みますが4歳で亡くなります。

家康は悲しみに沈むお勝の様子を見て25万石藩主とはいえ8歳の息子頼房の養育を命じます。お勝は養母として頼房を育て上げ徳川ご三家の水戸徳川の基礎を築きます。

元和2年(1616)家康は死去、お勝は落飾し名を英勝院と改めます。

寛永13年(1638)英勝院は先祖を供養するため太田道灌ゆかりの扇ケ谷に寺院を創建、翌年には頼房の娘の小良姫が住職として入寺、寛永15年には第3代将軍家光より300石の寺領が与えられます。

寛永19年(1642)8月に英勝院は病により享年65歳で逝去、英勝院の死を悼みこれを機に寺領120石加増され、仏殿だけの境内には祠堂・山門・鐘楼などが建てられ以降英勝寺は水戸徳川家の御寺と称されることになります。


2022年10月1日追記

当該寺院で入手した「東光山 英勝寺 拝観のしおり」と題するパンフレットには下記の通り説明されています。

『 英勝寺の歴史

<寺の誕生まで1ー平安・鎌倉時代>
英勝寺の地は、古くから亀ヶ谷、扇ケ谷などと呼ばれてきました。平安時代、ここには源頼朝の父義朝の屋敷が建っていました。しかし、没後は義朝の霊を祀る亀谷堂に、鎌倉時代の初めには寿福寺に変わりました。

<寺の誕生まで2ー室町・戦国時代>
鎌倉幕府が滅ぶと、鎌倉は足利氏の支配地になり扇ケ谷は補佐役の上杉氏に与えられました。上杉氏の家臣の太田氏も、上杉屋敷の一角に居を構えました。

しかし、太田氏は道灌の時、扇谷、山内両上杉氏の対立に巻き込まれ、暗殺され、家は没落してしまいます。文明18年(1486)のことでした。

<寺の誕生まで3ー家康の時代>
太田道灌の死から100年、関東の支配者になった徳川家康は、自分が源氏の血筋であることを理由に、ご先祖の地「鎌倉」の復興に努めました。税を軽くし、鶴岡八幡宮をはじめ多くの神社や寺院の再建を助けたのです。

家康は、また没落した関東の名家の救済にも力を入れました。道灌5代の孫重政もまねかれました。が、当時は京都に滞在していたため、妹のお八が代わって江戸城に参上しました。これが家康の夫人になる奇縁となったのです。

家康の寵愛を受けたお八は、名をお梶と改め、戦場にまでお共しました。すると、家康軍は連戦連勝、関ヶ原合戦の勝利を祝って、縁起のいい「お勝」の名を賜りました。

<寺の誕生まで4ーお勝の方の時代>
慶長12年(1607)、英勝院は一助に恵まれました。しかし、喜びもつかの間、市姫と名付けられた子は4歳で亡くなってしまいました。成人すれば、伊達政宗の嫡男の忠宗に嫁がせる約束までしていたのですが・・・・。

そこで家康は、悲しみに沈むお勝の方に、水戸頼房の養育を命じました。25万石の藩主とはいえ、いまだ8歳の少年、お勝の方は、母となって頼房を育て、さらに徳川御三家の一つ水戸徳川家の基礎も築き上げました。

<英勝寺の誕生ー英勝院の時代>
元和2年(1616)4月、徳川家康逝去。お勝の方は出家し、名を英勝院と改めました。それから20年、還暦に近づいた英勝院は、先祖を供養し、自分の後生を祈るため、寺を開きたいと願いました。

願いは許され、寛永13年(1636)11月23日、太田家ゆかりの扇ケ谷に仏殿が完成、翌年には水戸頼房の娘の少良姫が住職として入寺、寛永15年(1638)には、300石に寺領が許されました。みな、英勝院を慕う将軍家光の配慮でした。

<その後の英勝寺ー水戸の御寺・尼僧の寺>
しかし、英勝院が本格的な歩みを始めて7年、英勝院は病に臥すことが多くなりました。将軍も直々に見舞い、回復を祈りましたが、その甲斐もなく、寛永19年(1642)8月23日、逝去されました。享年65歳でした。

葬礼を機に寺領は120石加増され、仏殿一つの境内には祠堂や山門、鐘楼などが加えられ、住職が暮らす姫御殿、その他の僧侶、寺侍、医師、料理人たちの下御殿、御長屋、代官所なども整えられました。以来、英勝寺は水戸家の御寺と称えられ、370余年の歴史を重ねてきました。

重厚な伽藍に加え、樹木園や花畑、菜園まで備えた寺は、鎌倉では異色の存在でした。寺の行事も、英勝院と水戸家に関する法要の他に、武士の家と同様に初午、雛祭、七夕、月見の宴を催しました。また、裏山では僧侶、奉公人揃って者の花見、わらび採理、由比ヶ浜では松露摘みなどを楽しみました。威厳に満ちた御三家の寺には、雅な空気も流れていたのです。』(以下 略)


交通手段
私鉄 徒歩
  • 英勝寺・総門<br /><br />門前が駐車場となっていますが門が閉ざされて入門できません。

    英勝寺・総門

    門前が駐車場となっていますが門が閉ざされて入門できません。

  • 英勝寺・総門<br /><br />総門の正面は閉ざされており入門できません。右側に小門がありくぐりますと拝観料を払う仕組みとなっています。

    英勝寺・総門

    総門の正面は閉ざされており入門できません。右側に小門がありくぐりますと拝観料を払う仕組みとなっています。

  • 英勝寺・説明板

    英勝寺・説明板

  • 英勝寺・総門<br /><br />境内の内側から総門を捉えます。自分が訪問した日は閉門されていました。

    英勝寺・総門

    境内の内側から総門を捉えます。自分が訪問した日は閉門されていました。

  • 太田道灌邸旧跡の碑

    太田道灌邸旧跡の碑

  • 金毘羅宮

    金毘羅宮

  • 竹林<br /><br />当寺の歴代住職は水戸徳川家の姫君が勤めている尼寺として有名で、竹林は歴代の住職の住まいでありました。<br />

    竹林

    当寺の歴代住職は水戸徳川家の姫君が勤めている尼寺として有名で、竹林は歴代の住職の住まいでありました。

  • 個性的な鐘楼<br /><br />袴腰付鐘楼という個性的な建物です。初代水戸藩主徳川頼房(とくがわ・よりふさ、1603~1661)が英勝寺を開基した英勝院(頼房の養母)の一周忌に建立されたものと言われています。<br />下層の広がりの部分が袴腰と呼称される理由です。鐘楼の梵鐘には林羅山の銘文が刻まれ、寛永20年(1643)の建立といわれています。<br />

    個性的な鐘楼

    袴腰付鐘楼という個性的な建物です。初代水戸藩主徳川頼房(とくがわ・よりふさ、1603~1661)が英勝寺を開基した英勝院(頼房の養母)の一周忌に建立されたものと言われています。
    下層の広がりの部分が袴腰と呼称される理由です。鐘楼の梵鐘には林羅山の銘文が刻まれ、寛永20年(1643)の建立といわれています。

  • 鐘楼と梵鐘の説明板

    鐘楼と梵鐘の説明板

  • 英勝寺・山門<br /><br />当山門は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊、他所に移転されますがその後当寺に戻り改修されました。

    英勝寺・山門

    当山門は大正12年(1923)の関東大震災で倒壊、他所に移転されますがその後当寺に戻り改修されました。

  • 英勝寺・山門近景

    英勝寺・山門近景

  • 英勝寺・仏殿(宝珠殿)<br /><br />寛永13年(1636)に建立された禅宗様式の建物で宝珠殿とも呼ばれています。

    英勝寺・仏殿(宝珠殿)

    寛永13年(1636)に建立された禅宗様式の建物で宝珠殿とも呼ばれています。

  • 英勝寺・仏殿

    英勝寺・仏殿

  • 本尊阿弥陀如来立像<br /><br />三代将軍家光の寄進で作者は運慶とのことです。

    本尊阿弥陀如来立像

    三代将軍家光の寄進で作者は運慶とのことです。

  • 仏殿説明板

    仏殿説明板

  • 英勝寺・境内<br /><br />長期にわたる年月経過の石燈籠が見事に建っています。

    英勝寺・境内

    長期にわたる年月経過の石燈籠が見事に建っています。

  • 英勝寺・境内

    英勝寺・境内

  • 唐門・祠堂案内板

    唐門・祠堂案内板

  • 唐門(祠堂門)<br /><br />当寺開基の英勝院の墓廟である祠堂への入場門となっています。

    唐門(祠堂門)

    当寺開基の英勝院の墓廟である祠堂への入場門となっています。

  • 唐門(祠堂門)説明板

    唐門(祠堂門)説明板

  • 祠堂の建物

    祠堂の建物

  • 祠堂<br /><br />この中に英勝院の位牌が安置されています。水戸藩徳川光圀によって建立されたものです。

    祠堂

    この中に英勝院の位牌が安置されています。水戸藩徳川光圀によって建立されたものです。

  • 英勝寺・山門

    英勝寺・山門

  • 英勝院背後の供養塔

    英勝院背後の供養塔

  • 英勝院背後の供養塔

    英勝院背後の供養塔

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