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JR横須賀線鎌倉駅より徒歩約18分、海蔵寺(かいぞうじ、神奈川県鎌倉市扇が谷)は建長5年(1253)に鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王の命によって幕府評定衆を勤めた藤原仲能(ふじわら・なかよし,生誕不詳~1256)が本願主となって七堂伽藍を建立します。<br /><br />元弘3年(1333)新田義貞軍の鎌倉侵入、それを巨福呂坂で迎え撃つ赤橋守時(あかはし・もりとき、1295~1333)軍との戦いのより幕府は滅亡し海蔵寺もその戦火を受けてことごとく焼け落ちます。<br /><br />建武3年(1336)室町幕府創建、やがて関東を治める体制として幕府の委託を受けた鎌倉府が発足、貞治6年(1367)、初代父の基氏(もとうじ、1340~1367)の死亡を受けて氏満(うじみつ、1359~1398)が2代目公方となります。<br /><br />氏満は正平24年(1369)に元服、幕府3代将軍足利義満(あしかが・よしみつ、1358~1408)の偏諱を受け氏満と名乗ることになります。<br /><br />永和5年(1379)幕府内で管領細川頼之(ほそかわ・よりゆき、1329~1392)と前管領斯波義将(しば・よしゆき、1350~1410)の内部抗争により、斯波派の土岐頼康(とき・よりやす、1318~1388)への討伐令が出され、鎌倉府もこれに応じるため管領上杉憲春(うえすぎ・のりはる、生誕不詳~1379)の弟憲方(のりかた、1335~1394)を大将に500騎の兵力を出すことになります。(康歴の政変)<br /><br />但しこの出兵に乗じて斯波氏と連携して将軍義満を亡き者にし氏満を将軍に迎える野望を実現するためのものでもありました。<br /><br />この画策を知ることとなった氏満は密かに憲春を呼び相談したところ憲春は驚き諌めるも氏満からは了承という話にはならずに終わります。<br /><br />やがて憲春は氏満宛にこの謀反が成功する見込みがないとする手紙を書いて自害することとなります。<br /><br />氏満は憲春の諌死に接し驚き後悔して、将軍になる野望を捨てて「幕府に対して異心はない」と自筆の手紙を将軍義満に差し出すことになります。<br /><br />謝罪の使僧となった古天和尚の口添えもあって将軍義満は納得し、氏満宛の何も問題はないの旨の自筆書状を和尚に持たせ氏満への咎めを求めることはありませんでした。<br /><br />その後明徳3年(1392)鎌倉府は幕府より陸奥・出羽の統治も任されます。その背景は幕府統治機関の奥州管領が伊達氏・結城氏等の統治が不十分であった為と言われています。<br /><br />しかし上記によって氏満の鎌倉府と義満の将軍家との対立が収まったわけではなく次世代以降も公方と将軍家との争いが拡大する構図は不変で絶えずぎくしゃくした状況が継続されます。<br /><br />氏満の晩年、応永元年(1394)公方氏満は関東管領・上杉氏定(1374~1416)に命じてこの扇ケ谷に海蔵寺を再建することになります。<br /><br /><br />現地で入手した冊子によれば下記の通り紹介されています。<br /><br />『 扇谷山 海蔵寺略縁記<br /><br />寺の略史<br /><br />海蔵寺はこと鎌倉の扇谷の北、風光明媚な渓間にたたずむ臨済宗建長寺派の古刹である。もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長5年(1252)宗尊親王の命によって従五位前能州太守藤原仲能が本が本願主となり、七堂伽藍が再建された。しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡のおりに烏有に帰した後、応永元年(1394)4月、鎌倉御所足利氏満の命により上杉氏定が再建したのが、海蔵寺である。氏定は源翁禅師(心昭空外)を開山に招いて菩提寺とした。天正5年(1577)建長寺にに属し今日に至っている。<br /><br />寛政3年(1791)の境内図によると、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭七ケ院の名と旧跡を示している。』(以降は記載略)

相模鎌倉 真言宗の寺跡に宗尊親王の命によって再建、南北朝時代には鎌倉公方氏満が関東管領上杉氏定に命じて再興させた臨済宗建長寺派『海蔵寺』散歩

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2013/10/19 - 2013/10/19

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR横須賀線鎌倉駅より徒歩約18分、海蔵寺(かいぞうじ、神奈川県鎌倉市扇が谷)は建長5年(1253)に鎌倉幕府第6代将軍宗尊親王の命によって幕府評定衆を勤めた藤原仲能(ふじわら・なかよし,生誕不詳~1256)が本願主となって七堂伽藍を建立します。

元弘3年(1333)新田義貞軍の鎌倉侵入、それを巨福呂坂で迎え撃つ赤橋守時(あかはし・もりとき、1295~1333)軍との戦いのより幕府は滅亡し海蔵寺もその戦火を受けてことごとく焼け落ちます。

建武3年(1336)室町幕府創建、やがて関東を治める体制として幕府の委託を受けた鎌倉府が発足、貞治6年(1367)、初代父の基氏(もとうじ、1340~1367)の死亡を受けて氏満(うじみつ、1359~1398)が2代目公方となります。

氏満は正平24年(1369)に元服、幕府3代将軍足利義満(あしかが・よしみつ、1358~1408)の偏諱を受け氏満と名乗ることになります。

永和5年(1379)幕府内で管領細川頼之(ほそかわ・よりゆき、1329~1392)と前管領斯波義将(しば・よしゆき、1350~1410)の内部抗争により、斯波派の土岐頼康(とき・よりやす、1318~1388)への討伐令が出され、鎌倉府もこれに応じるため管領上杉憲春(うえすぎ・のりはる、生誕不詳~1379)の弟憲方(のりかた、1335~1394)を大将に500騎の兵力を出すことになります。(康歴の政変)

但しこの出兵に乗じて斯波氏と連携して将軍義満を亡き者にし氏満を将軍に迎える野望を実現するためのものでもありました。

この画策を知ることとなった氏満は密かに憲春を呼び相談したところ憲春は驚き諌めるも氏満からは了承という話にはならずに終わります。

やがて憲春は氏満宛にこの謀反が成功する見込みがないとする手紙を書いて自害することとなります。

氏満は憲春の諌死に接し驚き後悔して、将軍になる野望を捨てて「幕府に対して異心はない」と自筆の手紙を将軍義満に差し出すことになります。

謝罪の使僧となった古天和尚の口添えもあって将軍義満は納得し、氏満宛の何も問題はないの旨の自筆書状を和尚に持たせ氏満への咎めを求めることはありませんでした。

その後明徳3年(1392)鎌倉府は幕府より陸奥・出羽の統治も任されます。その背景は幕府統治機関の奥州管領が伊達氏・結城氏等の統治が不十分であった為と言われています。

しかし上記によって氏満の鎌倉府と義満の将軍家との対立が収まったわけではなく次世代以降も公方と将軍家との争いが拡大する構図は不変で絶えずぎくしゃくした状況が継続されます。

氏満の晩年、応永元年(1394)公方氏満は関東管領・上杉氏定(1374~1416)に命じてこの扇ケ谷に海蔵寺を再建することになります。


現地で入手した冊子によれば下記の通り紹介されています。

『 扇谷山 海蔵寺略縁記

寺の略史

海蔵寺はこと鎌倉の扇谷の北、風光明媚な渓間にたたずむ臨済宗建長寺派の古刹である。もと真言宗の寺跡であるこの渓に、建長5年(1252)宗尊親王の命によって従五位前能州太守藤原仲能が本が本願主となり、七堂伽藍が再建された。しかし、元弘3年(1333)鎌倉幕府滅亡のおりに烏有に帰した後、応永元年(1394)4月、鎌倉御所足利氏満の命により上杉氏定が再建したのが、海蔵寺である。氏定は源翁禅師(心昭空外)を開山に招いて菩提寺とした。天正5年(1577)建長寺にに属し今日に至っている。

寛政3年(1791)の境内図によると、主な建物の配置は現在の姿とほとんど変わらず、塔頭七ケ院の名と旧跡を示している。』(以降は記載略)

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 海蔵寺・参道<br /><br />中央の階段を上がりますと山門が控えています。

    海蔵寺・参道

    中央の階段を上がりますと山門が控えています。

  • 海蔵寺・説明板

    海蔵寺・説明板

  • 海蔵寺・文学案内板

    海蔵寺・文学案内板

  • 海蔵寺・山門<br /><br />室町期禅宗様式四脚門ですが平成15年(2003)再建されています。

    海蔵寺・山門

    室町期禅宗様式四脚門ですが平成15年(2003)再建されています。

  • 海蔵寺・扁額<br /><br />山門に付されている「扇谷山(せんごくさん)」と刻された扁額が風雪に耐えているようです。

    海蔵寺・扁額

    山門に付されている「扇谷山(せんごくさん)」と刻された扁額が風雪に耐えているようです。

  • 海蔵寺・本堂<br /><br />

    海蔵寺・本堂

  • 海蔵寺・扁額<br /><br />「海蔵寺」という寺号がそのまま刻されています。

    海蔵寺・扁額

    「海蔵寺」という寺号がそのまま刻されています。

  • 海蔵寺・雨宝殿<br /><br />本堂脇にやぐらがあり、朱塗りの鳥居が建てられていますが宇賀神弁財天を祀ったもので雨宝殿と呼ばれています。

    海蔵寺・雨宝殿

    本堂脇にやぐらがあり、朱塗りの鳥居が建てられていますが宇賀神弁財天を祀ったもので雨宝殿と呼ばれています。

  • 海蔵寺・石塔<br /><br />同じくやぐら内には五輪塔・宝篋印塔などの中世期の石塔がひっそりと並んでいます。

    海蔵寺・石塔

    同じくやぐら内には五輪塔・宝篋印塔などの中世期の石塔がひっそりと並んでいます。

  • 海蔵寺・山水庭園<br /><br />手入れが行き届いた庭園が実に見事です。

    海蔵寺・山水庭園

    手入れが行き届いた庭園が実に見事です。

  • 海蔵寺・仏殿<br /><br />薬師堂と呼ばれる仏殿が落ち着いた色彩で建立されています。<br />安永5年(1776)浄智寺から移築され、翌年入仏供養を行っています。

    海蔵寺・仏殿

    薬師堂と呼ばれる仏殿が落ち着いた色彩で建立されています。
    安永5年(1776)浄智寺から移築され、翌年入仏供養を行っています。

  • 海蔵寺・薬師三尊像<br /><br />仏殿内部に鎮座する薬師三尊像が姿を浮き上がらせています。中央には薬師如来坐像、右側には日光菩薩像、左側には月光菩薩像がそれぞれ鎮座しています。

    海蔵寺・薬師三尊像

    仏殿内部に鎮座する薬師三尊像が姿を浮き上がらせています。中央には薬師如来坐像、右側には日光菩薩像、左側には月光菩薩像がそれぞれ鎮座しています。

  • 海蔵寺・鐘楼堂<br /><br />昭和38年建立され、鐘は無乳型とのことです。

    海蔵寺・鐘楼堂

    昭和38年建立され、鐘は無乳型とのことです。

  • 海蔵寺・境内<br /><br />本堂から境内を捉えます。中央正面が山門の内側にあたります。

    海蔵寺・境内

    本堂から境内を捉えます。中央正面が山門の内側にあたります。

  • 海蔵寺・底脱の井(そこぬけのい)<br /><br />鎌倉十井の一つだそうです。<br /><br />

    海蔵寺・底脱の井(そこぬけのい)

    鎌倉十井の一つだそうです。

  • 海蔵寺・底脱の井説明板

    海蔵寺・底脱の井説明板

  • 十六井戸案内板<br /><br />境内の南の隅の岩窟中にある鎌倉時代の井戸です。

    十六井戸案内板

    境内の南の隅の岩窟中にある鎌倉時代の井戸です。

  • 海蔵寺・十六井戸入口

    海蔵寺・十六井戸入口

  • 海蔵寺・十六井戸内部<br /><br />井戸の名は窟底に径70cm、深さ4.50cmくらいのの井16穴がそれぞれ清らかな水を湛えていることに因んでいます。

    海蔵寺・十六井戸内部

    井戸の名は窟底に径70cm、深さ4.50cmくらいのの井16穴がそれぞれ清らかな水を湛えていることに因んでいます。

  • 海蔵寺・境内庭園

    海蔵寺・境内庭園

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