ブロワ旅行記(ブログ) 一覧に戻る
午前中にトゥール市内の観光を済ませ、列車に乗ってブロワへ移動しました。直通の列車は無いのでサン・ピエール・デ・コール駅で乗り換えてローカルのterでブロワ駅で降ります。時間の都合でトゥールで食事が出来なかったのでブロワの駅前でと思っていましたがあまりに小さい田舎の駅でこれといった店はありませんでした。お腹が空いてご機嫌斜めの妻を宥め賺して「ブロワ城」方面に向かいます。妻は「ブロワ城」の前の広場で城には目もくれず、脇にあったレストランに向かうのでここで食事をすることにしました。ほぼ満席でしたが1テーブルだけ空いていたので座ることが出来ました。遅い時間だったのでその後はどんどんお客さんが帰っていきましたが、我々の後のお客は断られていたのでラッキーでした。食事後はマジックの館のアトラクションを見てから「ブロワ城」の見学をしました。こちらも遅い時間だったので幼稚園児の団体以外にあまりお客さんもいませんでした。城館の王家の居室や展示された絵画や彫像を見ていくと、暗殺や幽閉などフランス王家とその周辺の貴族との深い闇のようなものを感じて恐ろしい気分になりました。この翌日からロワール渓谷の8つの古城を巡りましたが、そのどれよりも血なまぐさい歴史の残った「ブロワ城」に先に来ることが出来て良かったと思いました。午前中のトゥール市内の観光も時間が足りませんでしたが、ブロワ市内までも足を延ばせずに、予定の組み方がやはり無理があったと後悔したブロワの観光でした。

晩秋のロワール渓谷古城巡り(2)フランボワイヤン・ゴシックとルネサンス様式の美しい「ブロワ城」の美しさとフランス王家の闇を知る。

13いいね!

2011/10/22 - 2011/11/06

7位(同エリア16件中)

kojikoji

kojikojiさん

午前中にトゥール市内の観光を済ませ、列車に乗ってブロワへ移動しました。直通の列車は無いのでサン・ピエール・デ・コール駅で乗り換えてローカルのterでブロワ駅で降ります。時間の都合でトゥールで食事が出来なかったのでブロワの駅前でと思っていましたがあまりに小さい田舎の駅でこれといった店はありませんでした。お腹が空いてご機嫌斜めの妻を宥め賺して「ブロワ城」方面に向かいます。妻は「ブロワ城」の前の広場で城には目もくれず、脇にあったレストランに向かうのでここで食事をすることにしました。ほぼ満席でしたが1テーブルだけ空いていたので座ることが出来ました。遅い時間だったのでその後はどんどんお客さんが帰っていきましたが、我々の後のお客は断られていたのでラッキーでした。食事後はマジックの館のアトラクションを見てから「ブロワ城」の見学をしました。こちらも遅い時間だったので幼稚園児の団体以外にあまりお客さんもいませんでした。城館の王家の居室や展示された絵画や彫像を見ていくと、暗殺や幽閉などフランス王家とその周辺の貴族との深い闇のようなものを感じて恐ろしい気分になりました。この翌日からロワール渓谷の8つの古城を巡りましたが、そのどれよりも血なまぐさい歴史の残った「ブロワ城」に先に来ることが出来て良かったと思いました。午前中のトゥール市内の観光も時間が足りませんでしたが、ブロワ市内までも足を延ばせずに、予定の組み方がやはり無理があったと後悔したブロワの観光でした。

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
グルメ
5.0
交通
4.5
同行者
カップル・夫婦(シニア)
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
鉄道 高速・路線バス 観光バス 徒歩
航空会社
中国国際航空
旅行の手配内容
個別手配

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  • 早朝のパリを出発してその足でトゥールの市内観光までしたので、お昼を食べたかったのですが、午後一番の列車の切符を買ってあったので駅に向かいます。

    早朝のパリを出発してその足でトゥールの市内観光までしたので、お昼を食べたかったのですが、午後一番の列車の切符を買ってあったので駅に向かいます。

  • ヨーロッパの鉄道の多くは乗車前に切符の打刻(コンポストゥール)が必要です。トゥール駅は内部が改修中で、足場パイプが組まれていました。所変わればで日本の物とクランプ(ジョイント金物)が違うので見ていて面白かったです。日本だったら地震などを考えるともっと強固に組むだろうなと思いました。

    ヨーロッパの鉄道の多くは乗車前に切符の打刻(コンポストゥール)が必要です。トゥール駅は内部が改修中で、足場パイプが組まれていました。所変わればで日本の物とクランプ(ジョイント金物)が違うので見ていて面白かったです。日本だったら地震などを考えるともっと強固に組むだろうなと思いました。

  • サン・ピエール・デ・コール駅行きのシャトル列車で、1駅だけを往復しています。terの列車と同じタイプの車両です。

    サン・ピエール・デ・コール駅行きのシャトル列車で、1駅だけを往復しています。terの列車と同じタイプの車両です。

  • サン・ピエール・デ・コール駅で乗り換えて、ブロア駅に到着しました。パリのモンマルトル駅とナントを結ぶ幹線ルートの駅なのでホームは意外に大きいのですが。

    サン・ピエール・デ・コール駅で乗り換えて、ブロア駅に到着しました。パリのモンマルトル駅とナントを結ぶ幹線ルートの駅なのでホームは意外に大きいのですが。

  • 駅舎は小さな田舎の駅です。駅周辺にはほとんどお店は無く、仕方がないので「ブロワ城」を目指して先に進みます。

    駅舎は小さな田舎の駅です。駅周辺にはほとんどお店は無く、仕方がないので「ブロワ城」を目指して先に進みます。

  • トゥールとブロワは距離的には50キロと近いのですが、列車で移動するには乗り換えもあるので意外に時間がかかります。帰りの列車の時間を確認してからぶらぶら歩き始めます。

    トゥールとブロワは距離的には50キロと近いのですが、列車で移動するには乗り換えもあるので意外に時間がかかります。帰りの列車の時間を確認してからぶらぶら歩き始めます。

  • 駅前通りをまっすぐ進むと大きな高台にあるオーガスティン・ティエリー庭園を右に回り込むと正面に「ブロワ城」が見えてきました。

    駅前通りをまっすぐ進むと大きな高台にあるオーガスティン・ティエリー庭園を右に回り込むと正面に「ブロワ城」が見えてきました。

  • 左手にはLes Forges du Châteauという高級レストランが見えましたので、妻に「ここが良い。」と言われたらどうしようかと思いました。

    左手にはLes Forges du Châteauという高級レストランが見えましたので、妻に「ここが良い。」と言われたらどうしようかと思いました。

  • 下から見上げると巨大な建物で、中世のブロワ城はルイ12世の居城であり、王国の政治的首都でもありました。歴代フランス王の幾人かが住居とし、またジャンヌ・ダルクが1429年にオルレアンからイギリス軍に向けて出発する前に、ランスの大司教から祝福を受けた場所でもあります。

    下から見上げると巨大な建物で、中世のブロワ城はルイ12世の居城であり、王国の政治的首都でもありました。歴代フランス王の幾人かが住居とし、またジャンヌ・ダルクが1429年にオルレアンからイギリス軍に向けて出発する前に、ランスの大司教から祝福を受けた場所でもあります。

  • カタカナのロの字型に囲まれた中庭から見ると優雅な情感といった風情ですが、下から見上げたフランソワ1世翼は城塞の面持ちです。

    カタカナのロの字型に囲まれた中庭から見ると優雅な情感といった風情ですが、下から見上げたフランソワ1世翼は城塞の面持ちです。

  • 1850年に建てられたオーガスティン・ティエリー庭園からはサン・ヴァンサン教会が木立の先に美しい姿を見せています。

    1850年に建てられたオーガスティン・ティエリー庭園からはサン・ヴァンサン教会が木立の先に美しい姿を見せています。

  • 「ブロワ城」の建物を廻り込むと大きな「シャトー広場」がありました。城に隣接した建物にレストランの文字を見つけた妻は真っすぐに進んで行きます。朝から「スープが飲みたい。」と呪文のように唱えていましたが、メニューにスープの文字を見つけたのでこの店に入る事にしました。Le Tribouletという地元料理の店です。入ってみるとほぼ満席でしたが、1テーブルだけ空いていたので座ることが出来ました。素敵なマダムが一人でホールを切り盛りしている小さなお店です。遅い時間だったので我々が注文している脇からお客さんは食事を終えて店を出ていきますが、我々以降に入ってきたお客さんは断っていたのでラッキーでした。

    「ブロワ城」の建物を廻り込むと大きな「シャトー広場」がありました。城に隣接した建物にレストランの文字を見つけた妻は真っすぐに進んで行きます。朝から「スープが飲みたい。」と呪文のように唱えていましたが、メニューにスープの文字を見つけたのでこの店に入る事にしました。Le Tribouletという地元料理の店です。入ってみるとほぼ満席でしたが、1テーブルだけ空いていたので座ることが出来ました。素敵なマダムが一人でホールを切り盛りしている小さなお店です。遅い時間だったので我々が注文している脇からお客さんは食事を終えて店を出ていきますが、我々以降に入ってきたお客さんは断っていたのでラッキーでした。

  • スパークリングウォーターにロワールの白ワインを1本とお昼のランチメニューを注文しました。前菜にメインにデザートまでついて13.5ユーロとパリで朝ご飯を食べるのと同じくらいの値段です。アミューズグールで出てきたカポナータ風の料理を食べただけでこの店の美味しさが分かった気がしました。

    スパークリングウォーターにロワールの白ワインを1本とお昼のランチメニューを注文しました。前菜にメインにデザートまでついて13.5ユーロとパリで朝ご飯を食べるのと同じくらいの値段です。アミューズグールで出てきたカポナータ風の料理を食べただけでこの店の美味しさが分かった気がしました。

  • 妻は野菜たっぷりのスープに大喜びです。このお店はお皿も白で統一されてお洒落です。

    妻は野菜たっぷりのスープに大喜びです。このお店はお皿も白で統一されてお洒落です。

  • こちらは数種類の地元のチーズがタップリ乗ったサラダです。バルサミコのドレッシングが食欲をそそります。野菜も新鮮でおいしかったです。

    こちらは数種類の地元のチーズがタップリ乗ったサラダです。バルサミコのドレッシングが食欲をそそります。野菜も新鮮でおいしかったです。

  • 妻はひたすらスープを飲み続けて会話もありません。いつもなら味見をさせてくれるのですが、全部飲んでしまいました。よっぽどスープに飢えていたみたいです。

    妻はひたすらスープを飲み続けて会話もありません。いつもなら味見をさせてくれるのですが、全部飲んでしまいました。よっぽどスープに飢えていたみたいです。

  • 気が付くと他のお客さんは全員食事を終えて我々だけになってしまいました。

    気が付くと他のお客さんは全員食事を終えて我々だけになってしまいました。

  • 店内のイラストを見て店名のLe Triboulet(トリブレ)の意味が分かりました。ヴィクトル・ユーゴーの戯曲「王は愉しむ」を原作にしたジュゼッペ・ヴェルディの「リゴレット」に登場する道化師の名前です。「リゴレット」はヴェネツィアの「フェニーチェ劇場」で初演されましたが、1995年にヴェネツィアへ行った際には隣接するホテルに泊まったことも思い出しました。そして数か月後の1996年に劇場は放火により全焼してしまいます。

    店内のイラストを見て店名のLe Triboulet(トリブレ)の意味が分かりました。ヴィクトル・ユーゴーの戯曲「王は愉しむ」を原作にしたジュゼッペ・ヴェルディの「リゴレット」に登場する道化師の名前です。「リゴレット」はヴェネツィアの「フェニーチェ劇場」で初演されましたが、1995年にヴェネツィアへ行った際には隣接するホテルに泊まったことも思い出しました。そして数か月後の1996年に劇場は放火により全焼してしまいます。

  • 続いてメイン料理が出てきました。こちらは妻の選んだ牛肉ステーキご飯といったところでしょうか。蕪の素揚げとフリットが添えられています。カレー風味が少し効いたスパイシーな1皿で美味しかったです。

    続いてメイン料理が出てきました。こちらは妻の選んだ牛肉ステーキご飯といったところでしょうか。蕪の素揚げとフリットが添えられています。カレー風味が少し効いたスパイシーな1皿で美味しかったです。

  • スープも大皿だった上に、メインもとても量が多くてちょっと困惑気味のようです。

    スープも大皿だった上に、メインもとても量が多くてちょっと困惑気味のようです。

  • こちらはスズキのソテーでマスタードソースが最高に美味しかったです。付け合わせの魚のツミレ揚げとアーティチョークとカリフラワーも上手く調理されていました。久し振りに美味しいフランス料理を食べた気がしました。

    こちらはスズキのソテーでマスタードソースが最高に美味しかったです。付け合わせの魚のツミレ揚げとアーティチョークとカリフラワーも上手く調理されていました。久し振りに美味しいフランス料理を食べた気がしました。

  • 誰もいなくなった店内の窓の脇にある暖炉の火がたまに爆ぜる音しかしません。

    誰もいなくなった店内の窓の脇にある暖炉の火がたまに爆ぜる音しかしません。

  • 狙っていた自家製のアップルタルトが全部出てしまい洋なしのタルトに変わっていたので、レモンのクレープを焼いてもらいました。クレープを食べるのも久しぶりですが美味しかったです。春の旅で行ったブダペストのグンデルという店のパラチンタ(クレープ)以来です。

    狙っていた自家製のアップルタルトが全部出てしまい洋なしのタルトに変わっていたので、レモンのクレープを焼いてもらいました。クレープを食べるのも久しぶりですが美味しかったです。春の旅で行ったブダペストのグンデルという店のパラチンタ(クレープ)以来です。

  • 妻はシャーベットを選びましたが、別腹でビスケットまで完食していました。

    妻はシャーベットを選びましたが、別腹でビスケットまで完食していました。

  • テーブルの横では道化師がウインクしています。コーヒーをいただいて大満足の昼食でした。ここまでお昼を我慢した甲斐がありました。

    テーブルの横では道化師がウインクしています。コーヒーをいただいて大満足の昼食でした。ここまでお昼を我慢した甲斐がありました。

  • ワインを1本空けて良い気分で店を後にしました。これから「ブロワ城」の見学をしなければなりません。

    ワインを1本空けて良い気分で店を後にしました。これから「ブロワ城」の見学をしなければなりません。

  • レストランはシャトー広場の左側にあたります。広場から見ると城の入り口とは思えない造りになった「ブロワ城」です。

    レストランはシャトー広場の左側にあたります。広場から見ると城の入り口とは思えない造りになった「ブロワ城」です。

  • お城の入り口にはブロワの旧市街を廻る馬車が出発を待っていました。

    お城の入り口にはブロワの旧市街を廻る馬車が出発を待っていました。

  • とっても巨大な馬です。御者のお姉さんが馬の世話をしています。この馬はフランス北西部のノルマンディー、ペルシュ地方が原産のペルシュロンという馬種だと思います。

    とっても巨大な馬です。御者のお姉さんが馬の世話をしています。この馬はフランス北西部のノルマンディー、ペルシュ地方が原産のペルシュロンという馬種だと思います。

  • ペルシュロンの起源は8世紀にフランス原産の馬種にアラブ種など東洋原産の馬が交配され成立したと言われ、体高は約160センチから170センチにもなります。記録では210センチを超えたものもいたそうです。体は大きいですが気は優しくて力持ちの性格だそうです。

    ペルシュロンの起源は8世紀にフランス原産の馬種にアラブ種など東洋原産の馬が交配され成立したと言われ、体高は約160センチから170センチにもなります。記録では210センチを超えたものもいたそうです。体は大きいですが気は優しくて力持ちの性格だそうです。

  • 広場の後ろ側が何やら騒がしいので振り返ると瀟洒な館が大変なことになっています。この建物はブロワで生まれた19世紀の最も有名な魔術師ジャン・ウジェーヌ・ロバート・フーディンに捧げられた魔法の館です。

    広場の後ろ側が何やら騒がしいので振り返ると瀟洒な館が大変なことになっています。この建物はブロワで生まれた19世紀の最も有名な魔術師ジャン・ウジェーヌ・ロバート・フーディンに捧げられた魔法の館です。

  • 窓から何頭もの金色のドラゴンが頭を出して暴れています。

    窓から何頭もの金色のドラゴンが頭を出して暴れています。

  • 窓も柵も壊されて、ドラゴンは雄叫びをあげています。

    窓も柵も壊されて、ドラゴンは雄叫びをあげています。

  • 全部で4頭のドラゴンが館をめちゃめちゃにしています。

    全部で4頭のドラゴンが館をめちゃめちゃにしています。

  • 周りで見ている子供もいろいろで、面白がっている男の子もいますが、立ち竦んでいる女の子もいました。

    周りで見ている子供もいろいろで、面白がっている男の子もいますが、立ち竦んでいる女の子もいました。

  • そして嵐の様な数分が過ぎると館は何事も無かったかのように元通りになりました。窓も柵も自動で元に戻ります。すごい!ここは魔法の館でしたが、中に入らなくてもこれで充分楽しめました。

    そして嵐の様な数分が過ぎると館は何事も無かったかのように元通りになりました。窓も柵も自動で元に戻ります。すごい!ここは魔法の館でしたが、中に入らなくてもこれで充分楽しめました。

  • 魔法の館のアトラクションが終わって城に向かうとちょうど馬車が旧市街に向けて出発する所でした。思いがけずに良いタイミングでいろいろなものが見られました。

    魔法の館のアトラクションが終わって城に向かうとちょうど馬車が旧市街に向けて出発する所でした。思いがけずに良いタイミングでいろいろなものが見られました。

  • 巨大な騎馬に跨ったルイ12世の彫刻が据えられた門を潜って城内に入ります。青い壁面にはフランス王家のユリの紋章「フルール・ド・リス」があしらわれています。レース細工の様な石の彫刻が見事ですが、昔は大理石を粘土のように軟らかくする技術があったのではと思ってしまうほどの精巧さです。

    巨大な騎馬に跨ったルイ12世の彫刻が据えられた門を潜って城内に入ります。青い壁面にはフランス王家のユリの紋章「フルール・ド・リス」があしらわれています。レース細工の様な石の彫刻が見事ですが、昔は大理石を粘土のように軟らかくする技術があったのではと思ってしまうほどの精巧さです。

  • この騎馬像の歩様(ほよう)が気になったので調べてみると、「速歩」の中でも「側対歩」という歩き方のようです。

    この騎馬像の歩様(ほよう)が気になったので調べてみると、「速歩」の中でも「側対歩」という歩き方のようです。

  • 門を潜って中庭に入ると意外なほどにガランとした空間です。周囲を見渡すとそれぞれ建築様式や仕上げが違う事が分かります。建物がその時代時代に増改築されたことが窺えます。最初に門を潜った煉瓦と石を使った部分がルイ12世の時代で、その後フランボワイヤン・ゴシック様式とフランソワ1世の時代のルネッサンス様式が見てとれます。

    門を潜って中庭に入ると意外なほどにガランとした空間です。周囲を見渡すとそれぞれ建築様式や仕上げが違う事が分かります。建物がその時代時代に増改築されたことが窺えます。最初に門を潜った煉瓦と石を使った部分がルイ12世の時代で、その後フランボワイヤン・ゴシック様式とフランソワ1世の時代のルネッサンス様式が見てとれます。

  • この城の建設は13世紀に始まり17世紀に終了しました。「ブロワ城」には13世紀の中世の要塞とルイ11世ゴシック様式の翼、フランソワ1世ルネッサンスの翼とオルレアン公ガストンの翼の4つの建築様式があります。全体で564の部屋と75の階段を持っていますが、頻繁に使用されたのはわずか23室だけだったそうです。

    この城の建設は13世紀に始まり17世紀に終了しました。「ブロワ城」には13世紀の中世の要塞とルイ11世ゴシック様式の翼、フランソワ1世ルネッサンスの翼とオルレアン公ガストンの翼の4つの建築様式があります。全体で564の部屋と75の階段を持っていますが、頻繁に使用されたのはわずか23室だけだったそうです。

  • フランソワ1世ルネッサンスの翼の外観はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂のブラマンテによって建てられたロッジからインスピレーションを受けていると言われます。フランス・ルネサンス期を代表する国王とみなされ、王の治世にフランスの美術および文芸は重要な発展をみることとなり、イタリア美術に傾注したのはサヴォイア公フィリッポ2世の娘ルイーズ・ド・サヴォワが母親だったからでしょうか。

    フランソワ1世ルネッサンスの翼の外観はバチカンのサン・ピエトロ大聖堂のブラマンテによって建てられたロッジからインスピレーションを受けていると言われます。フランス・ルネサンス期を代表する国王とみなされ、王の治世にフランスの美術および文芸は重要な発展をみることとなり、イタリア美術に傾注したのはサヴォイア公フィリッポ2世の娘ルイーズ・ド・サヴォワが母親だったからでしょうか。

  • フランソワ1世の時代の有名な螺旋階段は16世紀の傑作と言われるものです。石で造った会津の「さざえ堂」って感じがします。ディテールを見れば見るほどダ・ヴィンチが関わったのではないかと思ってしまいます。ただ、フランソワ1世翼の現在の外観はルネッサンス時代の王室のアパートの装飾をデザインしたフェリックス・デュバンによる修復によるものです。<br />

    フランソワ1世の時代の有名な螺旋階段は16世紀の傑作と言われるものです。石で造った会津の「さざえ堂」って感じがします。ディテールを見れば見るほどダ・ヴィンチが関わったのではないかと思ってしまいます。ただ、フランソワ1世翼の現在の外観はルネッサンス時代の王室のアパートの装飾をデザインしたフェリックス・デュバンによる修復によるものです。

  • サラマンダーは炎を象徴する精霊として炎の中にいても平気であり炎に耐えるとされ、苦難に立ち向かい信仰を貫き通す寓意となったそうです。燃え盛る勇猛さを意味したり、悪の炎を消し善の炎を燃やす正義の象徴とも考えられていたようです。フランソワ1世は「Nutrisco et Extinguo」我は育み、我は滅ぼすという銘文と共にサラマンダーを自身の紋章としたそうです。

    サラマンダーは炎を象徴する精霊として炎の中にいても平気であり炎に耐えるとされ、苦難に立ち向かい信仰を貫き通す寓意となったそうです。燃え盛る勇猛さを意味したり、悪の炎を消し善の炎を燃やす正義の象徴とも考えられていたようです。フランソワ1世は「Nutrisco et Extinguo」我は育み、我は滅ぼすという銘文と共にサラマンダーを自身の紋章としたそうです。

  • フランス王の紋章フルール・ド・リスをデザインした王冠の左にはフランソワ1世のFをデザインしたアルファベットの文字が見えます。フランソワ1世の正式な名前はFrancis I of Franceで、歴史上初めて国名「フランス」が名に入った王としても知られています。

    フランス王の紋章フルール・ド・リスをデザインした王冠の左にはフランソワ1世のFをデザインしたアルファベットの文字が見えます。フランソワ1世の正式な名前はFrancis I of Franceで、歴史上初めて国名「フランス」が名に入った王としても知られています。

  • かなりの部分が新しくなっているので修復されているのだと感じましたが、あまり汚くなりすぎた物よりは見ていて気持ち良いです。彫刻なども精巧に造り直すことによって技術も後世に伝えられて行くので良いことだと思います。しかし建築当時の人はどうやって螺旋の階段の彫刻を電動工具も使わずに彫る事が出来たのだろうと感心します。ここにもサラマンダーとFの文字が連続しています。

    かなりの部分が新しくなっているので修復されているのだと感じましたが、あまり汚くなりすぎた物よりは見ていて気持ち良いです。彫刻なども精巧に造り直すことによって技術も後世に伝えられて行くので良いことだと思います。しかし建築当時の人はどうやって螺旋の階段の彫刻を電動工具も使わずに彫る事が出来たのだろうと感心します。ここにもサラマンダーとFの文字が連続しています。

  • この城はフランス革命までの130年間放置され、革命後には破壊と略奪により荒れ果てていましたが、軍隊の駐屯地として何とか命を取り留めたという事です。美しく修復された姿は今世紀になってからのものだそうです。見学に来ていた幼稚園児が壊れたゼンマイおもちゃのように走り回っていますが、この後全員が先生に怒られて壁際に体育座りさせられていました。

    この城はフランス革命までの130年間放置され、革命後には破壊と略奪により荒れ果てていましたが、軍隊の駐屯地として何とか命を取り留めたという事です。美しく修復された姿は今世紀になってからのものだそうです。見学に来ていた幼稚園児が壊れたゼンマイおもちゃのように走り回っていますが、この後全員が先生に怒られて壁際に体育座りさせられていました。

  • この「3身分のホール」は1220年以前にティボー6世によって建てられたもので、身分ごとの座席配置を今に伝えています。先の写真のアーチによって空間が仕切られている訳で、司法裁判所としても使われていたそうです。第1身分の聖職者、第2身分の貴族、第3身分の平民という3つの身分の代表者が重要議題を議論した場所です。

    この「3身分のホール」は1220年以前にティボー6世によって建てられたもので、身分ごとの座席配置を今に伝えています。先の写真のアーチによって空間が仕切られている訳で、司法裁判所としても使われていたそうです。第1身分の聖職者、第2身分の貴族、第3身分の平民という3つの身分の代表者が重要議題を議論した場所です。

  • 子供たちが体育座りさせられている間に引率の先生達はここで記念写真を撮っていました。我々も1枚写真を撮りました。本物の玉座ではありませんが一応フランス王の紋章のフルール・ド・リスが織り込まれた布が良い雰囲気です。全く何も触れないよりこういった展示物があった方が楽しいですね。

    子供たちが体育座りさせられている間に引率の先生達はここで記念写真を撮っていました。我々も1枚写真を撮りました。本物の玉座ではありませんが一応フランス王の紋章のフルール・ド・リスが織り込まれた布が良い雰囲気です。全く何も触れないよりこういった展示物があった方が楽しいですね。

  • 妻の気分は「ベルサイユのばら」のオスカルか何かでしょうか。完全になり切った感じです。

    妻の気分は「ベルサイユのばら」のオスカルか何かでしょうか。完全になり切った感じです。

  • 巨大な暖炉でも1枚写真を撮っておきます。スケールになる物が写っていないと大きさが分かりませんので妻に入ってもらいました。この後いろいろな古城で同じような大きさの暖炉を見ましたが、美しさでは「ブロワ城」が1番でした。

    巨大な暖炉でも1枚写真を撮っておきます。スケールになる物が写っていないと大きさが分かりませんので妻に入ってもらいました。この後いろいろな古城で同じような大きさの暖炉を見ましたが、美しさでは「ブロワ城」が1番でした。

  • 大広間から半地下へ階段を降りるとそこは修復されて、差し替えられた彫刻のオリジナルが展示されていました。部屋は元々は厨房だったようです。

    大広間から半地下へ階段を降りるとそこは修復されて、差し替えられた彫刻のオリジナルが展示されていました。部屋は元々は厨房だったようです。

  • ヨーロッパの城や大聖堂や教会などではお馴染みの雨桶の機能をもつ怪物をかたどったガーゴイルが並んでいます。フランス語ではガルグイユと呼ばれ、日本語では樋嘴(ひはし)と呼びます。

    ヨーロッパの城や大聖堂や教会などではお馴染みの雨桶の機能をもつ怪物をかたどったガーゴイルが並んでいます。フランス語ではガルグイユと呼ばれ、日本語では樋嘴(ひはし)と呼びます。

  • ガーゴイルは「喉」を意味するラテン語を由来とする言葉で、雨水を排出する実際的な機能のほかに人々に恐怖心を与えながら悪霊を外へ吐き出す役割と、悪霊の侵入を守る役割を、つまり「魔除け」としての意味があります。

    ガーゴイルは「喉」を意味するラテン語を由来とする言葉で、雨水を排出する実際的な機能のほかに人々に恐怖心を与えながら悪霊を外へ吐き出す役割と、悪霊の侵入を守る役割を、つまり「魔除け」としての意味があります。

  • ガーゴイルの形態には奇怪な動物に加えて奇怪な人間の姿もあります。奇怪な人間は自らの罪を大聖堂の外に吐き出すとともに、人間に堕落への警告を与えていると考えられています。この男が抱えているのは大金の入った袋だと思います。

    ガーゴイルの形態には奇怪な動物に加えて奇怪な人間の姿もあります。奇怪な人間は自らの罪を大聖堂の外に吐き出すとともに、人間に堕落への警告を与えていると考えられています。この男が抱えているのは大金の入った袋だと思います。

  • 普段あまりこの距離間では見られないので嬉しかったです。今までで1番グロテスクでかわいいガ―ゴイルはスペインのトレドだったかリスボンで見たカエルが鯉を抱きかかえて鯉の口が放水口になっていたものです。奇怪な動物のガーゴイルの意味は解明されていないそうです。

    普段あまりこの距離間では見られないので嬉しかったです。今までで1番グロテスクでかわいいガ―ゴイルはスペインのトレドだったかリスボンで見たカエルが鯉を抱きかかえて鯉の口が放水口になっていたものです。奇怪な動物のガーゴイルの意味は解明されていないそうです。

  • 戦争で敵から奪い取った鎧・兜・盾などを戦利品として飾る慣習をトロフィーと呼びますが、ギリシャ語の戦利品を意味する「Tropaion」が語源とされます。このような彫刻はウィーンのシューンブルン宮殿のグロリエッテにもありましたし、赤坂迎賓館の屋根の上にも日本式の甲冑が置かれてあります。

    戦争で敵から奪い取った鎧・兜・盾などを戦利品として飾る慣習をトロフィーと呼びますが、ギリシャ語の戦利品を意味する「Tropaion」が語源とされます。このような彫刻はウィーンのシューンブルン宮殿のグロリエッテにもありましたし、赤坂迎賓館の屋根の上にも日本式の甲冑が置かれてあります。

  • フランソワ1世の螺旋階段の中にも入る事が出来ました。柱が通っている訳では無く階段の1ステップが積み重なっているだけです。別々に彫っていながらレリーフは見事に繋がっています。現在の人間ではここまで空間を掌握できないと思います。フランソワ1世の時代ですから、ダ・ヴィンチが関わったのではないかと思ってしまいます。

    フランソワ1世の螺旋階段の中にも入る事が出来ました。柱が通っている訳では無く階段の1ステップが積み重なっているだけです。別々に彫っていながらレリーフは見事に繋がっています。現在の人間ではここまで空間を掌握できないと思います。フランソワ1世の時代ですから、ダ・ヴィンチが関わったのではないかと思ってしまいます。

  • 城内にはいくつもの暖炉がありましたが、1番豪華だったのがこの暖炉です。過剰な装飾で埋め尽くされた中に紋章も見えます。

    城内にはいくつもの暖炉がありましたが、1番豪華だったのがこの暖炉です。過剰な装飾で埋め尽くされた中に紋章も見えます。

  • 右側はフランソワ1世の王妃であるブルターニュ公クロード・ド・フランスの紋章である白イタチです。なんかハブとマングースみたいな感じで仲が良いようには思えません。<br />

    右側はフランソワ1世の王妃であるブルターニュ公クロード・ド・フランスの紋章である白イタチです。なんかハブとマングースみたいな感じで仲が良いようには思えません。

  • 紋章を掲げる天使たちは王と王妃を讃えているようです。王妃のクロードの結婚生活は、絶え間ない妊娠と夫が作った多くの愛人たちの存在のために心が安まることはなかったそうです。末子マルグリットを生んだ翌年にクロードは死去しますが、のちにフランソワ1世はカール5世の姉エレオノールと再婚します。ブルターニュ公位は長男フランソワ王太子が継承し、その早世後は王太子の地位と共に次男アンリ2世へと受け継がれていきます。

    紋章を掲げる天使たちは王と王妃を讃えているようです。王妃のクロードの結婚生活は、絶え間ない妊娠と夫が作った多くの愛人たちの存在のために心が安まることはなかったそうです。末子マルグリットを生んだ翌年にクロードは死去しますが、のちにフランソワ1世はカール5世の姉エレオノールと再婚します。ブルターニュ公位は長男フランソワ王太子が継承し、その早世後は王太子の地位と共に次男アンリ2世へと受け継がれていきます。

  • いたるところに黄金のサラマンダーがいます。紋章からもここがフランソワ1世棟であると分かります。

    いたるところに黄金のサラマンダーがいます。紋章からもここがフランソワ1世棟であると分かります。

  • このマントルピースも見事ですが、天井の梁の化粧も美しいです。3か所のニッチ(壁龕)部分には何か像が飾られていたのでしょうか? 

    このマントルピースも見事ですが、天井の梁の化粧も美しいです。3か所のニッチ(壁龕)部分には何か像が飾られていたのでしょうか? 

  • 中庭から見上げた城館の外壁も細かい装飾が施されているのが分かります。魔除けのようにサラマンダーの彫刻が並んでいます。

    中庭から見上げた城館の外壁も細かい装飾が施されているのが分かります。魔除けのようにサラマンダーの彫刻が並んでいます。

  • スペインやイギリスを旅していると多くの甲冑を見る事が多かったですが、フランスではあまり見掛けませんでした。現在の人間では着られないような小ささですが、当時の人は着られたのでしょうか。この甲冑も少し小さめでした。プレートアーマーと呼ばれる全身を覆う金属板で構成された鎧は、全身に装甲をすることで人体の防衛力を高めようとしたもので、それに対する武器の発生も促し、この矛と盾の競争は現代まで延々と続いているようです。

    スペインやイギリスを旅していると多くの甲冑を見る事が多かったですが、フランスではあまり見掛けませんでした。現在の人間では着られないような小ささですが、当時の人は着られたのでしょうか。この甲冑も少し小さめでした。プレートアーマーと呼ばれる全身を覆う金属板で構成された鎧は、全身に装甲をすることで人体の防衛力を高めようとしたもので、それに対する武器の発生も促し、この矛と盾の競争は現代まで延々と続いているようです。

  • プレートアーマーの発展は騎馬による敵陣へ切り込む戦法が関わっているそうです。この戦い方では通常の切り合い以外にも側面からの矢や連接棍棒など回り込んでくる武器による攻撃に晒されるため、重量があっても耐久力のある鎧が用いられます。板金加工技術が進んで軽量化が行われた16世紀のマクシミリアン様式では20キロ前後でしたが、それ以前の15世紀ごろのものでは鎖帷子を含め装備重量は30キロから50キロにもなったそうです。

    プレートアーマーの発展は騎馬による敵陣へ切り込む戦法が関わっているそうです。この戦い方では通常の切り合い以外にも側面からの矢や連接棍棒など回り込んでくる武器による攻撃に晒されるため、重量があっても耐久力のある鎧が用いられます。板金加工技術が進んで軽量化が行われた16世紀のマクシミリアン様式では20キロ前後でしたが、それ以前の15世紀ごろのものでは鎖帷子を含め装備重量は30キロから50キロにもなったそうです。

  • サラマンダーの紋章ばかりで埋め尽くされた感じもありますが、デザインが異なっているので見比べていくと面白いです。ここではイニシャルのFの部分が王の紋章のフルール・ド・リスになっていたり。

    サラマンダーの紋章ばかりで埋め尽くされた感じもありますが、デザインが異なっているので見比べていくと面白いです。ここではイニシャルのFの部分が王の紋章のフルール・ド・リスになっていたり。

  • アンリ2世はヴァロワ朝第10代のフランス王でフランソワ1世と王妃クロード・ド・フランス(ルイ12世の王女)の次男に当たります。メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスを王妃としましたが、カトリーヌが嫁ぐ前からの家庭教師であったディアーヌ・ド・ポワチエと長く愛人関係にあり、王妃とは不仲であったといわれます。

    アンリ2世はヴァロワ朝第10代のフランス王でフランソワ1世と王妃クロード・ド・フランス(ルイ12世の王女)の次男に当たります。メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスを王妃としましたが、カトリーヌが嫁ぐ前からの家庭教師であったディアーヌ・ド・ポワチエと長く愛人関係にあり、王妃とは不仲であったといわれます。

  • アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世が結婚することが定められ、その祝宴の一環で行われたモンゴムリ伯との馬上槍試合において、アンリ2世は偶発的に右目を貫かれます。周囲の賢明な努力も空しくアンリ2世はこの傷が原因で2週間ほどの後に亡くなります。

    アンリ2世の娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世が結婚することが定められ、その祝宴の一環で行われたモンゴムリ伯との馬上槍試合において、アンリ2世は偶発的に右目を貫かれます。周囲の賢明な努力も空しくアンリ2世はこの傷が原因で2週間ほどの後に亡くなります。

  • 「クイーンズギャラリー」は床の装飾タイルや天井の化粧梁も見事です。この後2日に渡って見た8つの古城の内装とは全く違ったので、ミニバンツアーとは別にここへ来て良かったと思いました。美しいチェンバロが置かれていますが、この部屋ではカードやチェッカー、チェスなどのゲームも興じられました。 王妃はギリシャ悲劇の演劇を開催し、息子のアンリ3世はコ??メディ・ア・デラルテのコメディアンを招待もしました。 詩人や学者も呼び招き、有名な詩人のピエール・ド・ロンサールはブロワのカッサンドレ・サルビアーティともここで出会います。

    「クイーンズギャラリー」は床の装飾タイルや天井の化粧梁も見事です。この後2日に渡って見た8つの古城の内装とは全く違ったので、ミニバンツアーとは別にここへ来て良かったと思いました。美しいチェンバロが置かれていますが、この部屋ではカードやチェッカー、チェスなどのゲームも興じられました。 王妃はギリシャ悲劇の演劇を開催し、息子のアンリ3世はコ??メディ・ア・デラルテのコメディアンを招待もしました。 詩人や学者も呼び招き、有名な詩人のピエール・ド・ロンサールはブロワのカッサンドレ・サルビアーティともここで出会います。

  • アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスはイタリアのフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの孫)と、マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュの間に生まれ、イタリア名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチです。幼くして両親を失いローマ教皇クレメンス7世とフランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランソワの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚したそうです。メディチ家の莫大な持参金が目的だったとも言われています。

    アンリ2世の王妃カトリーヌ・ド・メディシスはイタリアのフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの孫)と、マドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュの間に生まれ、イタリア名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチです。幼くして両親を失いローマ教皇クレメンス7世とフランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランソワの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後のアンリ2世)と結婚したそうです。メディチ家の莫大な持参金が目的だったとも言われています。

  • フランソワ1世はカトリーヌを知識が深く芸術や科学やあらゆることを理解できる女性と称し、彼女を可愛がったそうですが、肝心なアンリ2世は教育係だった20歳も年上のディアーヌに夢中だったそうです。そして生まれてきた子供は全員ディアーヌに奪われたそうで、アンリ2世の死後ディアーヌは追放され、シュノンソー城に追いやられます。<br />

    フランソワ1世はカトリーヌを知識が深く芸術や科学やあらゆることを理解できる女性と称し、彼女を可愛がったそうですが、肝心なアンリ2世は教育係だった20歳も年上のディアーヌに夢中だったそうです。そして生まれてきた子供は全員ディアーヌに奪われたそうで、アンリ2世の死後ディアーヌは追放され、シュノンソー城に追いやられます。

  • 1589年にカトリーヌ・ド・メディシスはこの部屋で亡くなったと伝えられています。壁は王妃のモノグラムで飾られ、アンリ2世のHと絡み合った2つのCで構成されています。彼女は朝一番に礼拝堂のミサに行き、その後訪問者と対面し、昼の食事が終わると午後は大使や著名なゲストと面会しました。午後の空いた時間には会話や音楽を聴いたり針仕事を行いました。そして夕食の後にコンサートを聴いたりゲームに興じたそうです。

    1589年にカトリーヌ・ド・メディシスはこの部屋で亡くなったと伝えられています。壁は王妃のモノグラムで飾られ、アンリ2世のHと絡み合った2つのCで構成されています。彼女は朝一番に礼拝堂のミサに行き、その後訪問者と対面し、昼の食事が終わると午後は大使や著名なゲストと面会しました。午後の空いた時間には会話や音楽を聴いたり針仕事を行いました。そして夕食の後にコンサートを聴いたりゲームに興じたそうです。

  • その隣には俗に言うカトリーヌ王妃の「秘密の部屋」があります。美しい床のタイルと壁と天井を覆い尽くす木製のパネルが格式の高さを感じさせます。イタリア風の237枚の羽目板にも彫刻が施され金色に塗られています。装飾は180の彫刻が施され、美しく塗装された金色のオークパネルで構成されています。<br />1560年代にファッショナブルなキャビネットは、博物館の先駆けのようなものです。ヨーロッパの王子たちは自然の驚異や芸術品、旅行の記念品やアンティークの宝物など、さまざまな種類のオブジェの展示ケースとしてそれらを使用しました。

    その隣には俗に言うカトリーヌ王妃の「秘密の部屋」があります。美しい床のタイルと壁と天井を覆い尽くす木製のパネルが格式の高さを感じさせます。イタリア風の237枚の羽目板にも彫刻が施され金色に塗られています。装飾は180の彫刻が施され、美しく塗装された金色のオークパネルで構成されています。
    1560年代にファッショナブルなキャビネットは、博物館の先駆けのようなものです。ヨーロッパの王子たちは自然の驚異や芸術品、旅行の記念品やアンティークの宝物など、さまざまな種類のオブジェの展示ケースとしてそれらを使用しました。

  • フランソワ1世の第1王子フランソワ3世・ド・ブルターニュが急死した時と政敵ジャンヌ・ダルブレが急死した際はイタリア人の薬剤師と毒薬を作っているなどと囁かれていたそうです。それは毒殺の本場フィレンツェのメディチ家の出身だったからでしょうか。実際にはご自慢の品々を見せるために設えた陳列台だったようです。

    フランソワ1世の第1王子フランソワ3世・ド・ブルターニュが急死した時と政敵ジャンヌ・ダルブレが急死した際はイタリア人の薬剤師と毒薬を作っているなどと囁かれていたそうです。それは毒殺の本場フィレンツェのメディチ家の出身だったからでしょうか。実際にはご自慢の品々を見せるために設えた陳列台だったようです。

  • 澁澤龍彦の「世界悪女物語」から感じるカトリーヌ・ド・メディシスの悪女的な印象はここにいる限りは感じませんでした。

    澁澤龍彦の「世界悪女物語」から感じるカトリーヌ・ド・メディシスの悪女的な印象はここにいる限りは感じませんでした。

  • カトリーヌ・ド・メディシスには他にもノストラダムスがアンリ2世が剣で突かれて死ぬという予言をしたという話も残っているそうです。これは「ブロワ城の問答」と呼ばれ、その内容はブロワ王朝末期の予言を主軸としつつ、追加的に1999年の人類滅亡に関連する予言詩の解説を行ったものだそうです。王冠の下にはアンリ2世のHと2つのCを組み合わせたモノグラムが読み取れます。

    カトリーヌ・ド・メディシスには他にもノストラダムスがアンリ2世が剣で突かれて死ぬという予言をしたという話も残っているそうです。これは「ブロワ城の問答」と呼ばれ、その内容はブロワ王朝末期の予言を主軸としつつ、追加的に1999年の人類滅亡に関連する予言詩の解説を行ったものだそうです。王冠の下にはアンリ2世のHと2つのCを組み合わせたモノグラムが読み取れます。

  • 「ブロワの大きな壺 ユリシーズ・ベスナード作」<br />19世紀のブロワは陶磁器製造の中心地でした。色の濃いアカンサスの装飾はルネサンスの典型的なモチーフです。

    「ブロワの大きな壺 ユリシーズ・ベスナード作」
    19世紀のブロワは陶磁器製造の中心地でした。色の濃いアカンサスの装飾はルネサンスの典型的なモチーフです。

  • 「伝統的な装飾が施された壺 ユリシーズ・ベスナード作」<br />ギリシャ神話や古代ローマのモチーフが描かれた壺も同じ作家の作品です。

    「伝統的な装飾が施された壺 ユリシーズ・ベスナード作」
    ギリシャ神話や古代ローマのモチーフが描かれた壺も同じ作家の作品です。

  • 「歴史的な装飾が施された花瓶 ユリシーズ・ベスナード作」<br />胴の部分にはモンゴムリ伯との馬上槍試合において、右目を貫かれたアンリ2世の騎馬試合の場面でしょうか。持ち手のギリシャ神話のハルピュイアのような怪物のデザインが面白いです。

    「歴史的な装飾が施された花瓶 ユリシーズ・ベスナード作」
    胴の部分にはモンゴムリ伯との馬上槍試合において、右目を貫かれたアンリ2世の騎馬試合の場面でしょうか。持ち手のギリシャ神話のハルピュイアのような怪物のデザインが面白いです。

  • 「衣装を着たアンリ2世の胸像 ユリシーズ・ベスナード作」<br />この胸像も見事な作品でした。顔の部分は褐色の陶器で、頭部と体の部分には釉薬が施されています。黄色で絵描かれたアカンサスの模様とコバルトの地色の発色が素晴らしく、頭の帽子のグリーンも美しく、一番印象に残った作品でした。

    「衣装を着たアンリ2世の胸像 ユリシーズ・ベスナード作」
    この胸像も見事な作品でした。顔の部分は褐色の陶器で、頭部と体の部分には釉薬が施されています。黄色で絵描かれたアカンサスの模様とコバルトの地色の発色が素晴らしく、頭の帽子のグリーンも美しく、一番印象に残った作品でした。

  • 陶器からも王の威厳を感じる気がします。

    陶器からも王の威厳を感じる気がします。

  • 差・バル輝美の虐殺についてはパリの「グレヴァン蝋人形館」でその場面を見る事がありましたが、その後のことがことが「ブロワ城」で起こっています。アンリ3世はフランス宗教戦争の間パリを離れることを余儀なくされ、ブロア城に滞在していた1576年と1588年に三部会を開きました。王が宿敵であるギーズ公アンリを暗殺したのも三部会の会期中であったそうです。惨殺されたギース公アンリの遺体は、焼かれて灰は川に捨てられました。ギーズ公アンリの暗殺は、ブロワ城で起こった様々な事件の中でも鮮明なものとして知られます。

    差・バル輝美の虐殺についてはパリの「グレヴァン蝋人形館」でその場面を見る事がありましたが、その後のことがことが「ブロワ城」で起こっています。アンリ3世はフランス宗教戦争の間パリを離れることを余儀なくされ、ブロア城に滞在していた1576年と1588年に三部会を開きました。王が宿敵であるギーズ公アンリを暗殺したのも三部会の会期中であったそうです。惨殺されたギース公アンリの遺体は、焼かれて灰は川に捨てられました。ギーズ公アンリの暗殺は、ブロワ城で起こった様々な事件の中でも鮮明なものとして知られます。

  • 一番大きくて綺麗だったサラマンダーの暖炉です。この紋章は口から火を噴くだけでなく体や周りも炎だらけです。王と王の顧問が集まった評議会室は、ギーズ公アンリの暗殺が行われた部屋ともいわれます。

    一番大きくて綺麗だったサラマンダーの暖炉です。この紋章は口から火を噴くだけでなく体や周りも炎だらけです。王と王の顧問が集まった評議会室は、ギーズ公アンリの暗殺が行われた部屋ともいわれます。

  • アンリ3世の寝室は床のタイルもHenriのHがあしらわれています。この印象的な家具はブザンソンに保存された後期ルネッサンスに造られた物の19世紀のレプリカです。その完全なディティールは16世紀後半の家具の装飾を再現し、神話の人物を表す8つのパネルが嵌め込まれてあります。また19世紀末のルネッサンス美術への精神の回帰を感じさせます。

    アンリ3世の寝室は床のタイルもHenriのHがあしらわれています。この印象的な家具はブザンソンに保存された後期ルネッサンスに造られた物の19世紀のレプリカです。その完全なディティールは16世紀後半の家具の装飾を再現し、神話の人物を表す8つのパネルが嵌め込まれてあります。また19世紀末のルネッサンス美術への精神の回帰を感じさせます。

  • 「ギーズ公の暗殺 ポール・デ・ラロッシュ作」<br />ルイ・フィリップ王の息子であるオルレアンのフェルディナンドが委託したこの絵画は1588年にブロワ城でアンリ3世が命じたギーズ公アンリの暗殺を描いています。王はカーテンの後ろで腕を組んで彼の部下に迎えられ、地面に動かずに横たわっているギースの死体を見下ろしています。

    「ギーズ公の暗殺 ポール・デ・ラロッシュ作」
    ルイ・フィリップ王の息子であるオルレアンのフェルディナンドが委託したこの絵画は1588年にブロワ城でアンリ3世が命じたギーズ公アンリの暗殺を描いています。王はカーテンの後ろで腕を組んで彼の部下に迎えられ、地面に動かずに横たわっているギースの死体を見下ろしています。

  • 宗教戦争の平和的解決を願うアンリ3世は、英雄視されるギーズ公アンリと違いカトリック同盟内では評判が悪かったそうです。アンリ3世は彼の野心を察知してパリ入城を禁じますが、逆にパリ市民は国王に対して蜂起したため、アンリ3世は身の危険を感じてシャルトルに逃亡します。カトリック同盟はギーズの元にブロワ城で三部会を招集して王権の制限を議論し始めます。これに対する報復として、アンリ3世は和解すると偽って、ギーズ公爵と弟のギーズ枢機卿を暗殺します。

    宗教戦争の平和的解決を願うアンリ3世は、英雄視されるギーズ公アンリと違いカトリック同盟内では評判が悪かったそうです。アンリ3世は彼の野心を察知してパリ入城を禁じますが、逆にパリ市民は国王に対して蜂起したため、アンリ3世は身の危険を感じてシャルトルに逃亡します。カトリック同盟はギーズの元にブロワ城で三部会を招集して王権の制限を議論し始めます。これに対する報復として、アンリ3世は和解すると偽って、ギーズ公爵と弟のギーズ枢機卿を暗殺します。

  • 8人の刺客がギーズ公爵を殴打し、彼はベッドの足元に倒れ込んだそうです。城の修復を手掛けたフェリックス・デュバンは王室につながる公爵を偲んで部屋を金で装飾したそうです。

    8人の刺客がギーズ公爵を殴打し、彼はベッドの足元に倒れ込んだそうです。城の修復を手掛けたフェリックス・デュバンは王室につながる公爵を偲んで部屋を金で装飾したそうです。

  • 美術館の見学と思いきやフランス王室の闇の部分を覗いてしまったようで、気持ちも重くなってきました。先ほども通った螺旋階段を降りて三部会の大広間へ戻ります。表に出て風に当たったら少しは気持ちが軽くなりました。

    美術館の見学と思いきやフランス王室の闇の部分を覗いてしまったようで、気持ちも重くなってきました。先ほども通った螺旋階段を降りて三部会の大広間へ戻ります。表に出て風に当たったら少しは気持ちが軽くなりました。

  • 最初の部屋三部会の大広間に戻ります。欄間に飾られていた彫刻が素朴だったので写真に残しました。ちょっとシノワズリーな感じがします。

    最初の部屋三部会の大広間に戻ります。欄間に飾られていた彫刻が素朴だったので写真に残しました。ちょっとシノワズリーな感じがします。

  • この城でジャンヌ・ダルクがオルレアンからイギリスに向けて軍を出発させる前にランスの大司教から祝福を受けた場所だと思うと感慨深いものがあります。

    この城でジャンヌ・ダルクがオルレアンからイギリスに向けて軍を出発させる前にランスの大司教から祝福を受けた場所だと思うと感慨深いものがあります。

  • フランソワ1世のサラマンダーからハリネズミの紋章に変わるとそこはルイ12世の館に変わります。しかし針の1本1本まで精巧に彫られていて面白いですが、王冠はどう見ても載らないでしょう。

    フランソワ1世のサラマンダーからハリネズミの紋章に変わるとそこはルイ12世の館に変わります。しかし針の1本1本まで精巧に彫られていて面白いですが、王冠はどう見ても載らないでしょう。

  • マントルピースの紋章の左のLはルイで、右のAはジャンヌ・ド・フランスと離婚後に再婚したアンヌ・ド・ブルターニュのイニシャルでしょう。ルイ12世はブルターニュに対する野心から、時のローマ教皇アレクサンデル6世に頼み込んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらい、シャルル8世の王妃で王太后となっていたブルターニュ女公アンヌと結婚しました。

    マントルピースの紋章の左のLはルイで、右のAはジャンヌ・ド・フランスと離婚後に再婚したアンヌ・ド・ブルターニュのイニシャルでしょう。ルイ12世はブルターニュに対する野心から、時のローマ教皇アレクサンデル6世に頼み込んでジャンヌとの結婚を無効にしてもらい、シャルル8世の王妃で王太后となっていたブルターニュ女公アンヌと結婚しました。

  • フランソワ1世の棟と比べると幾分質素な感じがしますが、充分に豪華な内装です。この建物がギャラリーのようでした。

    フランソワ1世の棟と比べると幾分質素な感じがしますが、充分に豪華な内装です。この建物がギャラリーのようでした。

  • 「エウロペの誘惑 ジャン・カズン作」<br />ゼウス(ユピテル)はフェニキア(現在のレバノン辺り)の王女エウロペに恋をします。そして侍女と共に海辺に遊びにきたエウロペのもとに雄牛に変身して近づきます。エウロペは面白がって雄牛に近づき、大人しい雄牛の角に花を飾ったり撫でたりと楽しんで、背に乗ってみた途端に雄牛は物凄い速さで駆け出して海に飛び込みクレタ島へエウロペを連れ去ってしまいます。島に着くとゼウスは「妻になれば永遠にその名を残すことが出来る。」と言って彼女を口説きます。そして彼女はミノスを初めとする3人の子供を生みクレタの王妃となります。ゼウスの言った通りにエウロペの名は「ヨーロッパ」となって今日まで残っています。落ち着いたテーマと優雅なスタイルが王宮の影響を受けて16世紀のフランスで定着した洗練された芸術の特徴です。 この絵は1940年に爆撃されたブロワの個人の邸宅の暖炉を飾っていました。

    「エウロペの誘惑 ジャン・カズン作」
    ゼウス(ユピテル)はフェニキア(現在のレバノン辺り)の王女エウロペに恋をします。そして侍女と共に海辺に遊びにきたエウロペのもとに雄牛に変身して近づきます。エウロペは面白がって雄牛に近づき、大人しい雄牛の角に花を飾ったり撫でたりと楽しんで、背に乗ってみた途端に雄牛は物凄い速さで駆け出して海に飛び込みクレタ島へエウロペを連れ去ってしまいます。島に着くとゼウスは「妻になれば永遠にその名を残すことが出来る。」と言って彼女を口説きます。そして彼女はミノスを初めとする3人の子供を生みクレタの王妃となります。ゼウスの言った通りにエウロペの名は「ヨーロッパ」となって今日まで残っています。落ち着いたテーマと優雅なスタイルが王宮の影響を受けて16世紀のフランスで定着した洗練された芸術の特徴です。 この絵は1940年に爆撃されたブロワの個人の邸宅の暖炉を飾っていました。

  • 天使が掲げる紋章の左半分は当時のフランスの王家の紋章で、右半分はアンヌの出身のブルターニュの紋章です。モノグラムと含めて意味を考えていくと面白いですね。

    天使が掲げる紋章の左半分は当時のフランスの王家の紋章で、右半分はアンヌの出身のブルターニュの紋章です。モノグラムと含めて意味を考えていくと面白いですね。

  • 「夫を悼むミラノのバレンタイン」<br />カレーを包囲した無怖公ジャン1世の援助要求を拒否したことから、7月に無怖公がパリへ軍勢を率いて接近すると恐れをなしたオルレアン公はムランへ逃亡し、ベリー公が再度調停に動き、無怖公と和睦してパリへ戻ります。裏ではベリー公を味方につけ、無怖公の配下を政府から追い出して自派の配下に入れ替えて宮廷の支持者拡大に努めたために無怖公の怒りを増大させました。そして無怖公の配下の者たちによってパリの街頭で暗殺されてしまいます。その死を嘆くヴァランティーヌ・ヴィスコンティの姿です。<br />

    「夫を悼むミラノのバレンタイン」
    カレーを包囲した無怖公ジャン1世の援助要求を拒否したことから、7月に無怖公がパリへ軍勢を率いて接近すると恐れをなしたオルレアン公はムランへ逃亡し、ベリー公が再度調停に動き、無怖公と和睦してパリへ戻ります。裏ではベリー公を味方につけ、無怖公の配下を政府から追い出して自派の配下に入れ替えて宮廷の支持者拡大に努めたために無怖公の怒りを増大させました。そして無怖公の配下の者たちによってパリの街頭で暗殺されてしまいます。その死を嘆くヴァランティーヌ・ヴィスコンティの姿です。

  • 夫ルイが自身の共通の従弟であるブルゴーニュ公ジャン1世に暗殺された1年後に彼女もブロワで亡くなります。コーデリア教会の墓には「これ以上のものはない、これ以上私には何もない」というモットーがあります。この大きな絵は死を超えた忠実さのテーマを示しています。これはトルバドゥールと呼ばれる教訓を意味する絵画のジャンルです。

    夫ルイが自身の共通の従弟であるブルゴーニュ公ジャン1世に暗殺された1年後に彼女もブロワで亡くなります。コーデリア教会の墓には「これ以上のものはない、これ以上私には何もない」というモットーがあります。この大きな絵は死を超えた忠実さのテーマを示しています。これはトルバドゥールと呼ばれる教訓を意味する絵画のジャンルです。

  • フランソワ1世翼とルイ12世翼の見学を終わって一度表に出ます。ガストン棟を見ていませんが、買ってあった列車の時間が迫っているので省略しました。

    フランソワ1世翼とルイ12世翼の見学を終わって一度表に出ます。ガストン棟を見ていませんが、買ってあった列車の時間が迫っているので省略しました。

  • ラ・フォア塔から旧市街の眺めを見ておきます。「聖ニコラス聖ラウマー教会」の尖塔の先にロワール川が穏やかに流れています。2日後にこの対岸を右手から左の先にある「シャンボール城」に向けて通りました。

    ラ・フォア塔から旧市街の眺めを見ておきます。「聖ニコラス聖ラウマー教会」の尖塔の先にロワール川が穏やかに流れています。2日後にこの対岸を右手から左の先にある「シャンボール城」に向けて通りました。

  • 「聖ニコラス聖ラウマー教会」は創設者の聖ラウマーの名前に由来します。修道院の建設は12世紀に始まり、13世紀の初めに完成しました。教会は中世の巡礼の重要な場所でもありました。ゴシック様式の美しい堂内と祭壇があるようですが、足を延ばしている時間はありません。

    「聖ニコラス聖ラウマー教会」は創設者の聖ラウマーの名前に由来します。修道院の建設は12世紀に始まり、13世紀の初めに完成しました。教会は中世の巡礼の重要な場所でもありました。ゴシック様式の美しい堂内と祭壇があるようですが、足を延ばしている時間はありません。

  • ここでもやはりブロワ市内で1日、トゥール市内で1日は最低でも必要だと感じました。旅行前に予定を組んでいて感じた一抹の不安は現実のものになりました。

    ここでもやはりブロワ市内で1日、トゥール市内で1日は最低でも必要だと感じました。旅行前に予定を組んでいて感じた一抹の不安は現実のものになりました。

  • 駅までの時間は見当がついているので、往路とは違う道で駅に戻りました。

    駅までの時間は見当がついているので、往路とは違う道で駅に戻りました。

  • トゥールとブロワは意外に離れていて、約50キロくらいはあると思います。パリのモンマルトル駅からトゥール駅までが、早割のプレムスで27ユーロに対して小1時間の距離に対して10.1ユーロほどしました。帰りの列車ではアンボワーズ駅などにも停車したので、何となくこの辺りの距離感もつかめました。

    トゥールとブロワは意外に離れていて、約50キロくらいはあると思います。パリのモンマルトル駅からトゥール駅までが、早割のプレムスで27ユーロに対して小1時間の距離に対して10.1ユーロほどしました。帰りの列車ではアンボワーズ駅などにも停車したので、何となくこの辺りの距離感もつかめました。

  • ロワール渓谷の古城を巡るのに列車での移動も考えましたが、駅からは離れた場所ばかりなのと効率が悪いので、ネットで色々調べているうちにトゥール発着のミニバンツアーを見つけて全ての問題は解消されました。半日で2か所の古城を回るツアーを4つ申し込んで、8か所の古城巡りが翌日から始まります。

    ロワール渓谷の古城を巡るのに列車での移動も考えましたが、駅からは離れた場所ばかりなのと効率が悪いので、ネットで色々調べているうちにトゥール発着のミニバンツアーを見つけて全ての問題は解消されました。半日で2か所の古城を回るツアーを4つ申し込んで、8か所の古城巡りが翌日から始まります。

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