2011/10/22 - 2011/11/06
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kojikojiさん
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トゥールを起点とした3日間の古城巡りもここ「シュノンソー城」が最後です。「シャンボール城」から約50キロほどのドライブをして到着しました。ここでも駐車場に車を止めて延々と続くプラタナスの並木を過ぎると、視界が広がり目の前にシェール川に架かった「シュノンソー城」が見えました。妻とロンドンから来られた女性は2人で先に行ってしまいました。この城館は6人の女の館と呼ばれるくらいなので別々に見学しても良いなと思いました。代々女主人が治めた城館は内装も女性的で、今見てきたばかりの「シャンボール城」とは対照的な印象を受けました。更に部屋は美しい生花で飾られており、城巡りのフィナーレを飾るには最高の城館でした。歴史を紐解くと美しいばかりではなく嫉妬と憎悪取り巻く愛憎劇があったのは事実ですが、今はロワール川の支流であるシェール川を流れる水面に美しい姿を映すだけでした。ツアーはトゥールの町に戻ると終わりで、2日間ご一緒だった南仏から来られたおじいさんとお別れを行って、ロンドンからの女性はタクシーでこの日泊まるお屋敷ホテルに向かわれました。この方とはパリに戻った後晩御飯をご一緒させてもらいました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- 中国国際航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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「シャンボール城」を出てから小1時間ミニバンを走らせて「シュノンソー城」に到着しました。駐車場から城館までは黄色く色づいたプラタナス並木の間を歩きます。
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妻は午後から一緒になったロンドンから来られた方と一緒で話が弾んでいます。後で聞くと同じ美術大学の後輩だったそうです。数日後パリで再会してステック&フリットのお店で晩御飯をご一緒させていただきました。
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夏の乾燥したヨーロッパでは感じられないしっとりとした秋のヨーロッパは日本の気候に似ていると感じました。
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並木道が途絶えて広い芝生の空間が見えてきました。背の低い壁に囲まれていますが、入り口を護るようにスフィンクスが一対置かれてありました。
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1798年にナポレオンはエジプト遠征に150名を越える学術調査団を同行し、幅広い分野での調査を行わせました。その貴重な研究の記録はナポレオン失脚後もフランスの国家事業となり、その後のエジプト考古学誕生の発端となり、19世紀初頭の大エジプトブームを引き起こしたことでも知られています。このスフィンクスはその頃の物ではないかと思いました。
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城館へ向かって一直線に向かう道にはきれいな四角推に刈り込まれたトピアリーが並んでいます。それだけ見てもこの城館の主が女性であることを感じさせます。
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最初に建てられた邸宅は1411年に持ち主のジャン・マルクが扇動罪に問われて、国王軍により火をかけられました。彼は1430年代にその場所に城と水車を再建し、多額の負債を返済するため相続者のピエール・マルクはシャルル8世侍従のトマ・ボイエに城を売却しました。ボイエは城をいったん壊し新しい邸宅を建設します。
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トマ・ボイエの妻のカトリーヌ・ブリコネーはフランソワ1世を含むフランスの貴人を2度城に招待しましたが、結局は国庫への債務のためボイエの息子によってフランソワ1世に献上されました。
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フランソワ1世が1547年に亡くなるとアンリ2世は城を愛妾のディアーヌ・ド・ポワチエに贈りました。ディアーヌは城と川沿いの眺めを非常に愛し、彼女はアーチ型の橋を建設し、城を対岸と結びました。そして庭園に花や野菜や果樹なども植えさせました。
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ディアーヌは城主ではあったが所有権は王にあったため、長年の法的策略の結果1555年にようやく城は彼女の資産となります。しかしアンリ2世が1559年に亡くなると、その妻のカトリーヌ・ド・メディシスはディアーヌを城から追い出します。
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城はすでに王室の資産ではなかったので、カトリーヌも「シュノンソー城」を召し上げて終わりというわけにはいかず、「ショーモン城」と無理やり交換させたといわれます。ただ、実際には「ショーモン城」のほうが付属する領地からの収入が多かったそうです。
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シェール川の手前にはシュノンソー城を建てるために壊されたマルク家の城塞の塔の部分だけが残されています。不思議な建物なので気になりましたが城壁の一部と考えると納得できる形ではあります。
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ようやくシェール川と「シュノンソー城」に到着しました。ここでも団体料金で見学することが出来ました。
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入口の扉はフランソワ1世当時の物で、左側にトマ・ポワイエ、右側にカトリーヌ・プリゾネの家紋が彫られています。そして欄間にはフランソワ1世の紋章のサラマンダー、ラテン語の碑文は「神の恵みを受けたフランス王フランソワとフランス王妃クロード」と書かれてあるそうです。クロードは最初の妻ですからディアーヌもカトリーヌもこの扉には手を付けなかったのですね。
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護衛兵の間の暖炉には火が入り、係の方がちょうど丸太を入れるところでした。
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暖炉の紋章はトマ・ポイエの物です。「ルーヴル美術館」のラルカードの間には彼の寄贈したタペストリーが3枚納められています。そのタペストリーにも同じ紋章が織り込まれています。
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入口のホールに飾られたトピアリーの柳の枝には2011年の東日本大震災へのメッセージがたくさん吊られていました。世界各国の方がメッセージを寄せられていて胸が熱くなると同時に、国を挙げて「日本の大地震をお祝いします。」とした隣国への怒りを感じました。
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護衛兵の間から続く礼拝堂に入ります。ステンドグラスは第2次世界大戦の爆撃で破壊されたそうで、戦後になってマックス・アングランによって造られたものです。アングランは旧朝香宮邸の大客室及び大食堂の扉のエッチング・ガラスを手がけた方としても有名です。
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意外に明るい礼拝堂には花がたくさん生けられていました。
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右手のロッジアには最高級のカッラーラ大理石に彫られたミノ・ダ・フィエソーレの聖母子像のレリーフがあります。供えられた白い菊が綺麗でした。
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イタリアの画家イル・サッソフェラート作の「青いヴェールの聖母」の美しい作品がありました。他にもスペインの画家バルトロメ・エステバン・ペレス・ムリーリョの作品もありました。
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次はディアーヌ・ド・ポワティエの部屋です。この部屋も秋の美しい花々で飾られています。
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ディアーヌはアンリ2世からこの城を譲られますが、騎馬試合でアンリ2世が大けがを負いその後亡くなるとカトリーヌ・ド・メディシスに城を追われます。
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暖炉の彫刻はジャン・グージョンの手によるもので、飾られた絵画はソヴァージュによるカトリーヌ・ド・メディシスの肖像画です。グージョンはフランソワ1世から「フォンテーヌブロー宮殿」へ呼ばれ工事を指揮しています。
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暖炉にはアンリ2世のHとカトリーヌ・ド・メディシスのイニシャルのCCが組み合わさったモノグラムになっています。
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同じくHとCCの組み合わせですが、逆転したCがDのように見え、この城を追われたディアーヌのイニシャルのようです。
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天蓋ベットの上の壁際にはラテン語の文字が見えます。「天からの授かりを心から愛する者は、信仰に従いたじろぐことはない。」と書かれています。
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壁のタペストリーは16世紀のフランドル製の物で旧約聖書を題材にしています。それぞれ「力の勝利」と「愛の勝利」という題名があるそうです。「力の勝利」は2頭の獅子が牽く戦車に乗った人物が力の象徴で、ランジェ城にも同じデザインのタペストリーが残っています。
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「力の勝利」は2匹のライオンが引く2輪戦車と周囲には旧約聖書の場面が描かれています。上のへりに沿ってラテン語で「全身で天の恵みを受け止め、ピエタの指示にしりごみしない者」と書かれています。
「慈善の勝利」は2輪戦車と聖書のエピソードに囲まれ、心臓を手に持ち、太陽を指差しています。同じくラテン語で「危機に直面して心臓の強さを示し、死の時にあって罪と罰からの救いという報酬として受け取れる者」と書かれてあります。 -
「聖ベネディクトゥスの生涯」はヤコボ・デ・ポンテ、別名ヤコボ・バッサーノの作品です。グラッパで有名なイタリアのパドヴァ近くのバッサーノ・デル・グラッパ出身の画家です。20年ほど前にヴェネツィアから日帰りで行ったことがありますが、美しい川と屋根付きの橋が印象に残る山あいの町です。
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図書室はシェール川の上に浮いているような部屋で、天井はオーク材の見事な格天井でした。左の絵画はアンドレア・デル・サルトの「聖家族」が掛けられています。
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この部屋にはカトリーヌ・ド・メディシスの仕事机が置かれています。生けられた花はヨーロッパ原産ではなくオーストラリアの物が多いようです。
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窓からはシュール川と左手にディアーヌの庭が美しく眺められます。こんな景色が眺められたら幸せでしょうね。朝やけや夕焼けの景色も美しいことと思われます。
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「ヴィランドリー城」の庭園で葉牡丹を見たのがもう遠い昔のような気がします。ユーカリのような葉の色と合わせた上品なフラワーアレンジメントです。
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何やら表に動く気配を感じたので窓を覗いてみると気球が低い位置を飛んでいくのが見えました。
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緑の書斎と呼ばれる部屋はアンリ2世亡き後にカトリーヌ・ド・メディシスが摂政となり政治を行ったところです。タペストリーは「馬の鈴草様式」と呼ばれるブリュッセルで織られたもので、ゴシック様式とルネサンス様式が混在しています。右の絵画はティントレットの「シバの女王」です。
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ディアーヌの部屋から細い廊下を抜けると広い回廊に出ます。赤いカーネーションと紫のアザミと白いジャスミンが寄せ植えされていました。
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このギャラリーは長さ60メートル、幅6メートルで、床は石灰岩とスレートの市松模様です。ここは壮麗な舞踏会会場でカトリーヌは息子アンリ3世のために宴を設けました。ちょうどシェール川の上に架かる屋根付きの橋の部分です。
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この回廊は第2次世界大戦中にドイツ軍とフランス軍の占領地域の境界に位置していて、城の入り口はドイツ領で対岸がフランス領でした。この回廊を通ってドイツ占領地側からフランス側へレジスタンスはたくさんの人を逃がしたという史実があります。
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今はただゆっくりと流れるシェール川の川面ですが、過去には壮絶な歴史があったようです。
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回廊はシェール川を渡ったあたりで行き止まりになります。足元の下に4連のアーチと川が流れている実感はあまりありません。
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突き当りの壁は積み上げられた切石に彫刻が施されていますが、バロック様式のようなデザインですので、だいぶ時代が下がったものだと思います。
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回廊はシンプルなデザインで床のパターン貼りと木製の化粧梁以外はいくつもの窓が設けられているだけです。ここでは1577年にカトリーヌ・ド・メディシス主催で、彼女の息子アンリ3世を記念する祝宴が開かれた場所でもあります。
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黄葉の季節まで考えて旅行時期を決めたわけではありませんが、ロワール川や支流域も木々が色づいてとても美しい季節でした。
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回廊の見学から城館の見学に戻ります。
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ホールのヴォールト天井のアーチはよく見るとジグザグになっています。中心部の花篭飾りには葉やバラの花や天使の顔やキマイラや豊穣の象徴であるコルヌコピアなどで装飾されています。
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イタリア産の大理石象嵌のテーブルに置かれた花篭が一番印象に残った植栽でした。
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巨大な籐製の籠の中にオレンジのトピアリーが一対と菊の花が植え込まれてあります。
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ホールからフランソワ1世の部屋に入ります。この部屋の暖炉はフランスにおけるルネサンス様式の傑作だそうです。トマ・ポイエの言葉「シュノンソーが完成したならば、私の名前は歴史に残る。」と2枚のプレートに書かれています。3つのニッチにはなんらかの像が置かれていたのでしょう。
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フォンテーヌブロー派の画家ル・プリマティスの「狩りの女神ディアナ」が飾られています。絵の彩度に合わせた生け花にセンスの良さを感じます。ディアーヌは知性的で政治的洞察力に優れており、アンリ2世は多くの公式書類をディアーヌに任せ、2人の名を併せて「HenriDiane」と署名することさえ許しました。アンリ2世の子どもたちはディアーヌの影響下に育ったとされ、アンリ2世の長男フランソワの妃でスコットランド女王のメアリー・ステュアートも彼女の影響を強く受けたといわれます。王がディアーヌに全幅の信頼を置いていたため、王妃のカトリーヌはひどく嫉妬に苦しんだといわれます。アンリはディアーヌにフランスのクラウン・ジュエルを預けたり、彼女のためにアネの城を建てたりするだけでなく、カトリーヌ自身も欲しがっていた王室所有の美しい城、シュノンソー城をディアーヌに与えます。
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この月の女神ディアナはディアーヌ・ド・ポワティエがモデルです。絶世の美人と言われ、アンリ2世は妻のカトリーヌを顧みず十数歳年上の彼女にぞっこんだったわけです。ディアーヌはディアナに由来する名前で、ディアーヌの紋章も3つの三日月を組み合わせたものです。
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1525年のパヴィアの戦いでフランソワ1世が神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍隊の捕虜となった後、フランソワ王太子とアンリの2人の王子は父と引き換えに人質としてスペインに送られました。身代金の到着が遅かったため当時8歳と7歳だった2人の王子は不安定な孤立状態のまま、荒れた城で4年近くを過ごしました。アンリは「Amadis de Gaula」という王の遍歴の物語を読むことに慰めを見い出し、この本から強い印象を得てディアーヌを上流夫人の理想像と感じたのかも知れません。
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このイタリア製のキャビネットはフランソワ2世とメアリー・スチュアートの結婚祝いに贈られたもので、真珠貝の象嵌や象牙の羽ペン画が嵌め込まれた見事な物です。脚部のカリアティード像が少し不気味ではあります。
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アンブローズ・デュボア作の「狩りの女神ディアナ姿のカブリエル・デストレ」です。ガブリエルは21歳でアンリ4世の愛妾となりました。アンリ4世はマルグリット・ド・ヴァロワと正式に結婚していましたが、別居してそれぞれが幾多の愛人を囲っており、アンリとガブリエルは愛し合っていることを人目もはばからず隠そうともしなかったそうです。
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ファン・ローの「三美神」元々はギリシア神話に登場する三美神で、それぞれ魅力と美貌と創造力を司っています。一般的にはヘーシオドスの挙げるカリスのアグライアー、エウプロシュネー、タレイアとされています。またパリスの審判に登場する美しさを競うヘラとアテーナとアプロディテも指すことがあり、権勢と知恵と美貌を象徴します。
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ここではルイ15世が相次いで寵姫とした3人姉妹であるシャトールー夫人とヴァンティミリアン夫人とマイイー夫人がモデルになっているそうです。他にもヴァン・ダイクの自画像やリベラの作品もありますが、この城に関係した女性の肖像画の方が興味が湧きます。
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ルイ14世のサロンに移りました。見事な額に入ったリゴーの描いた肖像画はルイ14世がこの城を訪問した記念に叔父であるヴァンドーム公爵に贈ったものです。肖像と同時にオービュッソンのタペストリーで覆われた家具と、ブール風のコンソールも贈られたといわれます。
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この額は4つの木片を組み合わせただけで造られ、見事な彫刻で覆われた後に金箔が施されています。
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ヴェルサイユ宮殿の肖像画に比べるとだいぶ年を取った印象を受けました。
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ナティエ作の「ロアン公爵夫人」マリー・ド・ロアンは「マドモアゼル・ド・モンバゾン」とも呼ばれ、シュヴルーズ公爵夫人でフランスの17世紀前半における陰謀の中心として活躍した人物です。
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シュヴルーズ公爵夫人の波乱に満ちた生涯は紹介しきれませんが、物語作家にとって好まれるところとなり、アレクサンドル・デュマの「三銃士」や「二十年後」に彼女は登場し、作中では銃士の1人であるアトスと密通し、息子ラウルをもうけています。
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ルイーズ・デュパンの肖像画もナティエの作品で、婚姻関係でジョルジュ・サンドの祖母となった彼女もこの城の城主になっています。彼女はフランス革命の際も革命軍の破壊行為から城を守りました。川を渡るための橋は近隣にはなく、シュノンソー城は商業にも旅行にも必要な場所だったからです。また、村民を喜ばせるためシュノンソーの綴りを「Chenonceaux」から「Chenonceau」に変えたと言われています。
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暖炉にはこれまでの城館でも見てきたフランソワ1世と王妃クロード・ド・フランスの紋章であるサラマンダーと白イタチが金色に輝いています。
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時代は変わりますが肖像画の横にはナポレオン1世の兄であるジョセフ・ボナパルトから購入したルーベンスの「幼いキリストとバプテスマのヨハネ」が飾られています。
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イエスと洗礼者ヨハネの2人を子供の姿で描くのは良く見られるモチーフですが、凄い作品が簡単に手で触れそうな場所にごろごろしています。
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この階段もとても美しいイタリア風のデザインです。踊り場からはシュール川が眺められます。
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登りきったホールにも美しい花が飾られています。このホールはカトリーヌ・ブリソネのホールと呼ばれています。壁を埋め尽くすタペストリーはヴァン・デル・ムーレンの下絵による狩りの場面がモチーフになったものです。
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黄色いスカシユリがびっしり生けられ、ワンポイントで加えられた赤紫の葉がアクセントになっています。
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5人の王妃の居室はカトリーヌ・ド・メディシスの2人の娘と3人の義理の娘を記念して名付けられたそうです。ルイーズ・ド・ローレーヌの部屋から移築された格天井には5人の王妃の紋章が描かれています。
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2人の娘は王妃マルゴ(アンリ4世の妃)とエリザベート・ド・フランス(スペイン王フェリペ2世の妃)、3人の義理の娘はメアリー・スチュアート(フランソワ2世の妃)、エリザベート・ドートリッシュ(シャルル9世の妃、ルイーズ・ド・ロレーヌ(アンリ3世の妃)です。
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大きな天蓋ベットの周りは16世紀のタペストリーが飾られています。題材は「トロイの包囲」と「ヘレナの略奪」、「コロセウムでの競技」と「ダビデ王の戴冠」などが見られます。
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元々は全身像だったのかもしれませんが、胸像となった修道女の彫刻には美しい彩色が施されていました。こんな木彫が売っていたら欲しいなと思いました。
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カトリーヌ・ド・メディシスの居室です。この寝室には16世紀の美しい彫刻が施された家具と、サムソンの生涯を題材にしたフランドルのタペストリーが飾られています。タペストリーの縁はことわざや寓話を象徴する動物で埋められていて、「エビとカキ」とか「器用は策略に優る」などの寓話を示唆しています。
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この部屋の格天井も見事です。中央にはカトリーヌの紋章でしょうか。三角格子の中のマークはキース・ヘリングの描いた天使の姿を思い出させました。
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ベッドの右手にはコレッジョの「愛の教え」が飾られています。この作品は板絵ですが同じ題材がカンバス地に描かれている作品は、ロンドンのナショナルギャラリーに納められています。
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この作品では幻想的な森の中で黄金の翼のついた帽子とサンダルを身につけたメルクリウスがキューピッドに愛について教えているところが描かれています。
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キューピッドに愛を教育するメルクリウスはギリシア神話のヘルメスと同一視され、英語表記ではマーキュリーとされている商業神で、盗人や旅人の守り神として解釈されており、つば広の丸い旅行帽「ペタソス」を頭に被り、空を飛ぶことができる翼の生えた黄金のサンダル「タラリア」を足に履いた姿で表されていますが、神々の伝令の証である杖「ケーリュケイオン」は持っていません。
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そのかたわらにはキューピッドの母であるヴィーナスが付き添って、こちらに悩ましい視線を送っています。
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版画展示室はルネサンス風の軽やかな暖炉が印象的です。シュノンソー城を題材としたエッチングがたくさん並んでいますが、特に興味を惹くものはありませんでした。
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この部屋だけは天井画が設けられ、他の部屋とは違った優雅さがありました。
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詳しい題材は分かりませんが天使が空を舞い、ギリシャ神話の世界の一場面のようです。
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城館に飾られた生け花や植込みはそれぞれ素晴らしいのですが、生け花の素材は限られた種類を上手に使い分けているように感じました。
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この部屋の花は壁の色に合わせて白色の花が飾られていました。
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窓からは図書室より美しく庭園が眺められます。
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先ほど見学した上の階の回廊に向かいます。
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2階の回廊はギャラリーとして使われていました。ギャラリーと言えば胡蝶蘭のイメージですが、ここにも白い蘭の花が寄せ植えされていました。
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対岸側にはフランス王家の紋章とフランソワ1世とカトリーヌのイニシャルがデザインされた暖炉になっていましたが、実際には使えないようです。
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セザール・ド・ヴァンドームの居室です。ヴァンドーム公爵はルイ14世の叔父に当たります。化粧梁の美しい部屋です。ヴァンドーム公爵家はブルボン朝の祖アンリ4世の庶子セザールに始まる系統です。セザールはアンリ4世とその寵姫ガブリエル・デストゥレの間に生まれブルボン家の由緒あるヴァンドーム公爵の爵位を受けました。
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3代目のルイ・ジョゼフはルイ14世時代末期における屈指の軍人で、オランダ戦争とスペイン継承戦争で活躍しました。敗戦の責を負い一時は引退しましたが、復帰した後にスペイン王フェリペ5世(ルイ14世の孫)を助けてオーストリア軍を破りました。フェリペ5世はその功績を称えて彼の遺骸をエスコリアル宮に葬りました。
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ルネッサンス風の暖炉は19世紀になって金色に塗られ、中央にはトマ・ボイエの紋章が描かれています。
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時代時代で主が変わっても城館は大切に整備され、未来に渡って保存されていくのだと感じます。19世紀にはスコットランド人が娘に贈りますが、放蕩の果てに差し押さえられてキューバの大富豪の手に渡たりますが、20世紀になってチョコレート業者のムニエ一族が手に入れて現在に至ります。美しい姿を見ることが出来るのもこの一族のお陰かもしれません。
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西側の窓には17世紀に造られた見事な彫刻のカリアティード像が枠を支えています。
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ガブリエル・デストレの居室です。この女性はアンリ4世の愛妾でセザール・ド・ヴァンドームの母であるガブリエル・デ・デストレの部屋です。梁の見える天井と床と家具はルネッサンス期のものです。天蓋ベッドのそばにかけられた、16世紀のフランドル製タペストリーには「愛のアレゴリー」の題名が付けられています。それ以外の3方の壁には「ルカの月暦図」と呼ばれる珍しいタペストリーが掛っています。
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この部屋の内装に合わせた華やかな色の花が生けられています。後ろの絵は音楽家の守護聖人である聖セシリアです。ローマのトラステヴェレにあるサンタ・チェチーリア教会のステファノ・マデルノ作の彫刻「聖セシリアの殉教」を見に行ったことを思い出します。
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美しい梁とタペストリーで飾られたとても優雅な部屋でした。部屋ごとに使っていた女性を偲べるような気がしました。
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この部屋の生け花も見事で、色とりどりの花のバランスが素晴らしかったです。部屋のインテリアを考えてアレンジしているのだと思いますが、1週間に1度は生け変えなければならないので大変な作業だと思います。ただロワールの古城を巡っていて、この生け花があるだけで城館が生き生きしていることに気づきました。
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最上階の3階へ移動します。
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3階のホールは下の階と違って木製の内装です。19世紀当時の城主であったペルーズ夫人のために修復が行われたそうです。
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階段を上がった正面には美しく描かれた「シュノンソー城」の絵が飾られています。
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子供の頃に油絵教室でこんな城館の絵を描いた記憶があります。中野の哲学堂の近くの幼稚園で油絵を習っていましたが、絵を習っていたことよりも浅間山荘事件をテレビで見ながら絵を描いていたことが記憶に残っています。油絵は物になりませんでしたが、図面を描く仕事で一生喰いぱぐれなかったので、親に感謝しなければなりません。
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ここに置かれた植栽は小さいですが可愛らしかったです。
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ルイーズ・ド・ロレーヌの居室です。彼女は夫であるアンリ3世が修道士ジャック・クレモンに暗殺されると喪に服してこの城に引きこもったそうです。
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1574年にポーランド王に選出されて領国へ向かう途上、アンジュー公アンリは姉クロードの夫ロレーヌ公シャルル3世を訪問しました。その時アンリはシャルルの従妹であるルイーズに魅せられました。アンリが懸想していたコンデ公アンリ1世妃のマリー・ド・クレーヴによく似ていたそうです。
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兄シャルル9世が早世するとアンリはフランスに帰国して王位を継ぎます。そしてマリーを夫と離婚させて自らの妻にしようと考えましたが、マリーも同年に肺の伝染病で死去してしまいます。深い嘆きに打ちひしがれた後でアンリはルイーズと結婚することを決め、母カトリーヌと重臣らに相談して同意を得ます。
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1589年にルイーズは「シュノンソー城」を受け継ぎ、城に滞在中の同年8月2日、アンリは暗殺されてしまいます。ルイーズは喪服を着て広い城内の通路をあてもなくさまよい歩くようになったといわれます。
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部屋の雰囲気を感じさせるのか喪に服したルイーズ・ド・ローレーヌをイメージする白い花が飾られています。当時の喪中の作法に従って白い喪服を着た彼女は白い王妃と呼ばれたそうです。
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この部屋は当時のまま残っていた天井に合わせて復元したそうで、壁の模様は死の悲しみを象徴する銀の涙と未亡人の網紐、茨の冠とルイーズのイニシャルのラムダΛとアンリのエータHを組み合わせたものです。
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その悲しみの1つである茨の冠を被ったキリスト像が置かれていました。
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これで城館の見学がすべて終わりましたと同時に「ブロワ城」からスタートしたロワール渓谷の古城を9つ巡る旅も終わりです。残るは翌日のナントの「ブルターニュ公爵城」だけとなりました。
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見学時間はまだ30分ほどあったので、庭園を見学しようと城館を後にしました。
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庭を眺められるカフェの前を通るとテラス席で妻が先に休んでいました。喉が渇いたのでビールを1本流し込んでいるとすぐに閉店になってしまいました。ここにもオランジェリーがあり、現在は豪華なレストランになっていました。
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急いで庭を見ることにしました。妻は同じツアーの女性と先に戻ってしまいました。ディアーヌの庭園の角までは何とか見に行けました。子供の頃に写真で見て、いつか来たいと思った写真はここからの眺めだったと思います。40年近くたってしまいましたが1つの想いを遂げることが出来ました。
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とりあえず近い方の「ディアーヌの庭」に向かいました。
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庭園の角には瀟洒な田舎家が建っています。スレート葺きの屋根がいい府に気を出しています。
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幾何学的なフランス庭園の中を歩いてみたいですが、そこまでの時間はありません。
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一応庭園の角まで歩いて、シェール川越しの「シュノンソー城」の写真を撮ろうと思いました。
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最後に城館の姿を目に焼き付けておきます。
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先ほど歩いてきた2層に分かれた60メートルのホールのことも思い出してみます。とても川の上に架かった橋の上の内装とは思えない豪華さでした。
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たくさんの女性たちの愛憎もそれぞれの部屋を見ることによって少しは理解できた気がします。
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シェール川の河畔の景色はその当時とあまり変わっていないのではないかと思います。またこの川を挟んで第2次世界大戦中のフランスとドイツが対立していたことも知ることが出来ました。
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現在の美しい姿から戦争中には病院の役目をしていたことも初めて知ることが出来ました。
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残念ながらカトリーヌ・ド・メディシスの庭園迄足を延ばしている暇はなさそうです。
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ここで「シュノンソー城」ともお別れです。
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先に行った妻たちに何とか追いついて「シュノンソー城」の見学を終えてトゥールへと戻ります。
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旅行記グループ 2011 ロワール渓谷とノルマンディーの旅
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