2011/10/22 - 2011/11/06
19位(同エリア70件中)
kojikojiさん
- kojikojiさんTOP
- 旅行記1484冊
- クチコミ1138件
- Q&A回答73件
- 2,683,838アクセス
- フォロワー151人
ロワール渓谷の晩秋と9つの古城巡りを3日間楽しんだ後は更にロワール川を下ってナントへ向かいました。まだ暗い早朝のトゥール駅からterで約2時間くらいの移動です。ナント駅では荷物を預けて身軽になってから市内を散歩しました。今回ナントに来たのは横浜開港150周年で見た巨大なクモのマシーンを造っている集団「ラ・マシーン・ド・リル」の本拠地を見るためでした。それとフランスで一番美しいと言われる3層になったパサージュ・ポムレを見る事です。地球の歩き方にはほとんど情報も無く、その程度の情報でやってきたナントでしたが、フランス人が住んでみたいと思う街で1位になるほどのナントはロワール川を中心に斜面に広がる美しい町でした。最後に「ブルターニュ公爵城」を見学することが出来たので、ロワール渓谷の古城巡りは10か所になりました。夕方にはパリへ戻るTGVを予約してあったので帰るしかありませんでしたが、1泊しても良かったなと後悔しました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.0
- グルメ
- 4.0
- ショッピング
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 30万円 - 50万円
- 交通手段
- 鉄道 高速・路線バス 観光バス 船 徒歩
- 航空会社
- 中国国際航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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トゥールのホテルで午前7時前に朝食をとります。駅は窓の外に見える距離なのでゆっくりできます。昨晩遅い時間に来たクラツーの団体さんは、我々とは別部屋で朝食をとるともすぐに出発とのことでした。モン・サン・ミッシェルを回ってきて、これからパリに向かうとのことでした。「ホテルの朝食が一番美味しいんです。」という言がちょっと悲しかったです。我が家も中国のツアーで利用する旅行会社ですが、結構食事は良いと思っていたのですが。
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トゥール駅からはサン・ピエール・デ・コール駅行のシャトルに乗ってナントへ移動しますが、シャトル列車が運休だとか違う番線の列車に乗ってとかアナウンスがあり、ホームの乗客の間で情報が錯そうします。
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結果15分ほど遅れて出発しましたが、乗り継ぎ時間は過ぎていました。降りた乗客の全員でダッシュすると列車は待っていてくれました。運良く席も取れて前の席のおばさんに念の為にナント行きかどうか確認しました。春の中欧旅行ではウィーンの駅でブダペスト行とミュンヘン行と間違えた苦い思い出があります。
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terの列車はほぼ満席でしたが、乗客はアンジェでほとんどの人が降りてしまいました。アンジェにある「アンジェ城」にはヨハネの黙示録のタペストリーがあるので見たかった城館なのですが、3日間の滞在時間の都合で諦めた所でもあります。
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トゥール駅の北口で荷物を預けて観光に出発しましたが、昨晩ホテルで捨てたロワール渓谷の観光資料コピーの中にナントの資料があったのに気が付きました。地図は頭の中に入っていましたが、ラ・マシーンド・リル以外のパサージュ・ポムレなど他の位置が全く分かりません。
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まあロワール川に向かって歩いていれば何とかなるだろうと西に向かって歩き始めます。
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最初に見えてきたのはこの美しい塔を持つ建物でした。何やら商業施設のようでしたが、中に入っても朝早すぎて店はどこも閉まっていました。
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ナントはフランスでは有名な「LU」のロゴで知られるルフェーヴル・ユーティル社と、「BN」のロゴで知られるビスキュイテリー・ナンテーズ社の発祥の地として知られていますが、リュ・ユニークは「LU」の工場跡地で、現在は展示会やコンサートなどが行われるスペースになっています。
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ルフェーヴル・ユティル社は、「リュ( LU)」の愛称で100年以上親しまれてきたフランスのビスケット・メーカーです。ジャン・ロマン・ルフェーヴルとポリーヌ・イザベル・ユティルの2人が1846年にナントで創業し、2人の名前を組みあわせて社名にしました。
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後に2人は結婚して息子のルイの代からは、ルフェーヴル・ユティルと姓を改めています。広告の力をよく理解していたルイはアルフォンス・ミュシャや現代広告の父と呼ばれるレオネット・カッピエッロなどの第1級のグラフィックデザイナーを起用してLU社のビスケットを宣伝しました。
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1986年にルフェーヴル・ユティル社はダノン社に買収され、さらにダノンがクラフト社に吸収されたために社名はなくなりましたが「LU」ブランドのビスケットは今も販売しています。
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何故ナントがビスケット工場の発祥だったか想像すると、ナントは昔は造船と海運で栄えた町でロワール川を下って大西洋に乗り出す船乗りの町だったという事です。航海中は食事が偏りますので小麦粉と卵と砂糖や塩を使ったビスケットは保存食として有効であったのでしょう。
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中世初期の頃に登場したと言われる「ビスケット」はフランス語のビスキュイ(biscuit)が語源で、「bis」の部分が「2」を表し、「2度焼いた」という意味合いの言葉になります。食品を少しでも長持ちをさせるため、2度焼き上げて作られたことから由来するようです。そのため当時のビスケットは非常に硬く、英国の船員たちは「リバプールの敷き瓦」と呼んでいたそうです。長期保存とおいしさを保つのは非常に難しいのでしょう。
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橋を渡ってラングレ通りに戻るとトラムの線路があったのでこれで安心です。この線路に沿って歩けばロワール河畔に出るからです。
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すぐに「ブルターニュ公爵城」が見えてきました。ロワール渓谷の古城巡りでだいぶ勉強したので、この城がどのような歴史を踏まえて来たかは分かりました。
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1207年当時のブルターニュ公ギィ・ド・トゥアルによって建造され、13世紀から16世紀までブルターニュ公の住居でした。1532年以後はフランス王家のブルターニュでの居城となり現在に至ります。
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ブルターニュ公のフランス王の権力に対して軍事的守りを固めるための要塞であると同時に、ブルターニュ公国の宮廷としての城館として機能しました。
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フランソワ2世の娘でシャルル8世とルイ12世と相次いで結婚してフランス王妃となったアンヌ・ド・ブルターニュが引き継ぎ、城をさらに美しく増改築したそうです。城の見学は夕方の帰り道に時間があったらと言うことにして先を急ぎます。今までは古城巡りがメインの旅でしたが、ナントでは優先順位が下がります。
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ロワイヤル広場に出ましたが、川から緩やかな斜面に旧市街が位置しているのが歩いていると分かります。中央に噴水を配した市民の憩いの場所といった感じがしました。周囲には商店街が広がりナントの経済が活性しているのが感じられます。確かエアバス社の工場も近くにあったと記憶しています。
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建築家マチュラン・クルシーにより計画された噴水はロワール川の支流の寓意的な女性像で囲まれています。エルドル川とセーヴルナンテーズ川とシェール川とロワール川の4人です。水盤の上に載る大理石の戴冠の女性はナントの寓意像です。ブロンズ像はダニエル・デュコムン・デュ・ロクルの作品です。
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右手を挙げて水盤に立つ姿を見ていて何かに似ていると思いましたが、後になって灌仏会(かんぶつえ)の釈迦の誕生を祝う仏教行事だと気が付きました。釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が旧暦4月8日に生誕した伝承に基づいた花祭りとも呼ばれる行事では、甘茶を満たした灌仏桶の中央へ安置した誕生仏像に柄杓で甘茶を掛けて祝います。その灌仏桶の中央に立つ釈迦の像に見えました。「天上天下唯我独尊」と言った姿を思わせます。
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フランス革命の最中に完成したこの広場はルイ16世広場となる予定でしたが、インペリアル広場を経て「ロワイヤル広場」となりました。噴水は後の1865年に追加されています。
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街中の街灯には美しい花が飾られて、こんな町に住んでみたいと感じさせます。
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馬蹄形の「ロワイヤル広場」からフォス通りを下るととてもクラシックなお菓子屋さんを見つけました。ナントで3世代にわたり160年続くショコラティエ「GAUTIER DEBOTTE(ゴーティエ・デボテ)」です。このタイミングでは買い物は出来ないので、帰り道に立ち寄ることにします。
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フォス通りの右側には探してた「パサージュ・ポムレ」がありました。これでナント観光の目的の半分は終わったようなものです。
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「パサージュ・ポムレ」は公証人のルイス・ポムレにちなんで名付けられました。建設は1840年の終わりに始まり1843年7月に完成しました。サントゥイユ通りとフォス通りの間の通路であり、フォス通り側から9.40 メートルの高低差でサントゥイユ通りに繋がっています。
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フォス通り側の入り口の左側にも古いお菓子屋「MAISON LARNICOL(メゾン・ラルニコル)」があります。ここもチョコレートとビスケットを始め、ブルターニュの伝統的なお菓子を売っています。帰り際にこの店に立ち寄るのを忘れてしまったのは失敗でした。
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開発当時この地区は悪名高い治安の悪いエリアで、3年間の建設期間中も地元住民からの敵意や技術的な困難などを乗り越えて開業にこぎつけました。パサージュは66の店舗を誇り成功しますが、7年後には金融的な失敗によりすたれていったそうです。この辺りはパリの数々のパサージュと同じ運命をたどっているようですが、現在のパサージュはそんなことを感じさせない魅力のある商業施設になっています。
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このパサージュの建設にあたり、 ジャン・バティスト・ブロンとイポリット・デュラン・ガセリンの2人の建築家が、新古典主義とルイ・フィリップの時代の折衷主義が融合した建築に仕上げています。
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ここまでは何ら変わらないアーケードにお店が連なっていますが、パリのパサージュにも無い大階段を備えた建物であることが分かってきます。
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下の階にある「フォセギャラリー」はここまで通ってきた通りに通じ、中間レベルの「レニエギャラリー」は北側がサイドギャラリーでピュイダルジャン通りにつながっています。その南側にはクール・ド・ナンテスの通路が現れます。そして最上階には同名の通りに続く「サントゥイユギャラリー」があります。
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中央に緩やかな階段があり、その左右にもショップが軒を連ねています。階段下には大きなインテリアショップがありますが、あとは小さな地元の店のようです。
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階段を横から見ると統一されたガラス張りのファサードの美しさを感じさせます。ショップは3階までですが、ガラス張りの屋根との間には美しく装飾された窓が並び、住宅になっているようでした。
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階段の吹き抜けはとても美しい空間が広がります。ここのパサージュの事はいろいろな洋書で読んで知ってはいましたが、写真を見るのと実際に来るのとでは大違いです。
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階段は非常に緩い段差になっています。推測ですが1800年代の女性の靴やドレスの長さに由来しているのだと思いました。当時の物ではないと思いますが、ナラの無垢材のステップは歩くのに優しいです。蹴上の部分の彫刻の美しいアイアンワークも見逃せません。
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ここに立っていてこの場面を何かの映画で見たことがあると気づきました。この時は思い出せませんでしたが、帰国後しばらくしてから観た「シェルブールの雨傘」でその謎が解けました。
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ノルマンディーの北の外れのシェルブールとブルターニュのナントでは全く関係も無いし、映画のストーリーとも全く関係ないのですが、関係が無いから覚えていたのかもしれません。
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この階段の踊り場に立つカトリーヌ・ドヌーヴの周りをカメラが360度回転するシーンが印象的です。劇中の10秒から15秒くらいこのパサージュが映ります。監督のジャック・ドュミは何故このシーンを入れたのかまったく意味が分かりませんでした。
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監督のジャック・ドゥミはナントの出身で、監督としての長編デビュー作の「ローラ」はナントが舞台となっていることも後になって分かりました。アヌーク・エーメがキュートなキャバレーのダンサーを演じていますが、後にクロード・ルルーシュ監督の「男と女」にも出演してた女優です。2019年には当時の映画スタッフと俳優を使って「男と女 人生最良の日々」という映画が公開されています。
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学生時代から澁澤龍彦の作品を通してのヨーロッパに憧憬があったのですが、澁澤龍彦もカトリーヌ・ドヌーヴが好きだったななんて思い出しました。
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中央の階段の吹き抜けは柱と台座の上に置かれた彫像で飾られています。
中央階段の周りはジャン・ドベイの寓意像が飾られています。ジャン・ドベイはナントを変革した2人の建築家ジャン・バティスト・セイネレイとマチュリン・クルーシーのブロンズ胸像も制作しています。階段を囲むはそれぞれ商業や産業、農業や芸術、娯楽や科学、運輸業を表しています。 -
ジャン・ドベイは昼と夜の2つの子供の像で時計を制作し、最後に南入口のドアの内側にあるピエール・オーダンのブロンズ胸像を制作しています。アーケードのアカンサスの葉の装飾は、レオポルド・エルゴートの作品です。
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3階フロアのテラスからの眺めが一番美しいように思います。ガラスで覆われた空間は風雨から守られているので保存状態は非常に良いです。
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ロッツの模型によって設計された階段の蹴上や手摺やガラスランプなどの金属要素はヴォルツ工房によって制作されています。画家で装飾家のアキレ・レジェは、通路に面して営業している31店舗の店先の装飾を委託されました。 元々は錬鉄製の看板が掲げられていましたが、20世紀の間に徐々にネオンサインに置き換えられたようです。
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妻は建築よりもショップのウインドウの中の方が気になっているようです。この後は少しの時間ですが、お買い物にお付き合いしました。
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この旅ではパリのパサージュを19か所回っているのでここで20か所目です。春の中欧の旅でもいくつものパサージュを巡り、その後もベルギーやオランダやロンドンのパサージュ巡りの旅は続いています。
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数々見た中でもこの「パサージュ・ポムレ」とブダペストの「パリジ・ウドヴァル」はとても印象に残っています。ブダペストのパサージュはパサージュごとホテルに改装されてしまったのでもう見る事は出来ません。
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高低差は9.40メートルですが、階段の長さは40メートルを超え見た目にはもっと高低差があるように思えます。
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ジャン・ドベイの制作した昼と夜の2つの子供の像と時計が吹き抜け空間を見守っているようです。
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階段を登りきったところでフォス通り側を振り返ってみます。
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最上階のサントゥイユギャラリーのフロアの窓の間にあるスパンドレルには地域の有名人を表す8つのメダリオンが見えます。 シャルル・ルイ・デュ・クーディック、ピエール・アベラール、サンテニャンのルイ・ルソー、ピエール・ドゥムスティエ、クリッソンのオリヴィエ5世、キャプテン・デラビル、 フランソワ・ラベレとジャック・カサードの8名です。 残念ながら知っている人物はいませんでした。
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1階のフォスギャラリーと比べるとこの3階のサントゥイユギャラリーのデザインも凝っていて、天井が低い分通りも明るいです。高級感もあるので入っているショップも高級店が多いです。
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ほぼ同じサイズのアーチん組み合わせが美しいです。ショップのファサードのデザインは下の階と同じようです開業した当時は最先端のデザインだったのだと思います。
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出口の左角のお店で妻が動かなくなりました。最初は疲れたのかと思ったのですが、とんでもない店の前で止まっています。
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商品を指さして1人でぶつぶつつぶやいているので、気が付かないふりをして先に進みます。
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サントゥイユ通り側の入り口に抜けました。ファサードの造りはフォス通りとお無いです。
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フロアマップを見ると何階と言う表記はされていないようですが、しかし不思議な形をした建物です。
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下のフォス通りからだと角地に入り口がある訳ではありませんが、上のサントゥイユ通りでは建物の角に入り口があります。
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横には不思議なペンシルビルがありました。アンリ・カルチエ・ブレッソンの写真にこんなビルがあったような気がしました。。おしゃまな女の子がタイミング良く目の前を通り過ぎていきます。
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「パサージュ・ポメリ」の前のサントゥイユ通りを下ってロワール川方面に向かいます。
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ロワール川に向かって下った先の広大な駐車場はプティ・オランデ・マーケットという屋外の巨大な市場になっていました。名前のオランデはチーズを積んだオランダのバージ(貨物船)がこの先の埠頭に停泊していたからだそうです。
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現在は駐車場にトレーラーで運ばれてきた食材が売られています。
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歩いている人の半分くらいがアフリカ系の人だったのがちょっと驚きでした。現在はフランスの植民地だった国々からの移民の方が多いのではないかと思えました。
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ただナントが繁栄した18世紀は三角貿易の影響もあり、そこのは奴隷貿易も含まれていたようです。現在はフランス人が住みたい都市の上位にあがるナントですがそんな過去のある街でもあります。
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トゥールの町ややアンボワーズの町で眺めてきたロワール川も、大きな都市の中を通ると普通の川にしか見えません。このまま大西洋に流れ込むところまで見てみたい気がしますが、河口はナントより30キロほど先になります。
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市場を抜けてイル・ド・ナントという中州の島へはヴィクトル・ショルシェ歩道橋で渡りました。正面のフラットな建物は裁判所でした。
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中州の島から眺める対岸のナントの旧市街はとても美しかったです。ここから大西洋へ船で乗り出して行ったのだと思うと感無量です。ポルトガルのリスボンやポルトをちょっと思い出しました。
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「ラ・マシン・ド・リル」の見学は次の旅行記で紹介します。見学が終わった後はパリへ戻る列車の時間までナントの旧市街の見学を続けます。
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4日間旅してきたロワール川はここでも穏やかな流れですが、深さはトゥールやアンボワーズ辺りと違って、大型船が入れるほどの深さがあるようです。
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帆船のマスト越しの「Notre-Dame de Bon-Port(ノートルダム・ド・ボン・ポール)」のクーポラが美しいです。ローマカトリック教会で1846年に建築家セフルト
とジョセフ・フルーリ・シュナンタイスによって建設されました。 正式名称はサン・ルイ聖堂ですが、この名前で呼ばれることは無いそうです。 -
ベレン号は19世紀の最後のフランスの商船で、ナントのデュビジョン造船所で建造されています。3本マストの美しい帆船で、ナント市が本拠地になっているので年に数回見ることが出来るようです。
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船の全長は50メートルを超え、幅は約9メートル、マストの最上部までは34メートルです。 最大1200 平米の帆を張ることが出来ます。ヨーロッパのリゾートを旅していていろいろなところで帆船に乗りましたが、帆走するときのエンジン音の無いクルーズは最高の気分になれます。この日は何かのイベントで使われているようですが、本物の帆船は港町と絵になる組み合わせです。
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「カンブロンヌ広場」は長さ約180メートル、幅50メートルでピロン通りの東側にある錬鉄製の門を通り、カデニエ通りまで続き西側の門も2つの石造りの歩哨ボックスで囲まれています。 この公園の北側と南側は同じ建物に隣接しています。公園の中央にはナント出身の彫刻家のジャン・ドベイによるピエール・カンブロンヌの像があります。パサージュ・ポムレにもたくさんの作品が並んでいました。作品はアンリ・テオドール・ドリオレットによって設計された台座の上に立っています。
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ビロン通りに出て左に進むと「グラスラン広場」に出ます。グラスラン劇場はグラスラン広場に面して堂々と建つネオクラッシック様式の劇場です。1778年に創設された非常に歴史の古い劇場すが、1796年に一度火事で大部分を焼失します。再建が行われた1811年にはナポレオン1世も訪れたそうです。マチュラン・クルシーによる新古典主義建築の美しい建物です。コリント式列柱の上部にドミニク・モルクネヒトによる8体のミューズが立っています。
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こんな建物の並ぶ広場ですが、通りに置かれていたプレートを見てびっくりしました。グララン劇場と左右の建物を含む6棟の建物と共に半円形のグラスラン広場を構成していますが。
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歩いている人以外は200年間広場の雰囲気は変わっていなさそうです。
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ナントはあまり大きくない町の割にはアンティーク店がたくさんありました。今回の旅ではあまり店を覗く時間が無かったのですが、広場に面したこの店はヴェトナムの少数民族のアクセサリーなどが置いてありました。やはりフランスには今でもインドシナへの憧憬みたいなものがあるのでしょうか。でもサイゴンでも80ドルで買える銀のアクセサリーが1280ユーロは高すぎでしょう。我が家にある5連の物の方が彫りも深いです。
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またパサージュ・ポムレに戻ってきましたが、エルメスには立ち寄らないで済みました。
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アーケードを抜けた朝に見たお店に立ち寄りました。「GAUTIER DEBOTTE(ゴーティエ・デボテ)」の本店は、ウィーンのデメルを思い出させるようなクラシックで素晴らしい内装でした。今回のフランス旅行で見たお店では一番といっても良いでしょう。
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この後まだ10日ほどの旅行期間が残っていたので、日持ちのしないであろうお菓子は買えなかったのが残念です。
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シンプルな味のビスケットとチョコレートキャラメルを幾つかお土産に買い求めました。
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売り場の真ん中に円形のソファがあって休憩できます。お店のお姉さんたちも負けずにクラシックな面持ちでした。
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旅の期間が長いと買いたくても買えないジレンマに出会うことが多々あります。久し振りにそんなことを感じました。
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レジのシステムだけ最先端だったのが印象に残りました。
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オイルサーディンの形をしたチョコレートはたまに見掛けますね。こんな港町だとリアリティがありますね。他にはナント名物と書かれたドロップとか、季節的にも美味しそうなマロングラッセも買いたかったです。
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市内に4店ありますが、フォッセ通りの本店がアール・ヌーヴォー様式の美しい内装でした。
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妻がお腹が空いたと言うので何かを食べることにしましたが、もう3時過ぎなのでレストランは閉まっている時間です。地元の料理も食べたかったですが、時間も無いのでケバブ屋さんに入りました。実は妻がケバブを食べるのはこれが最初でした。
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ケバブの店が数軒並んだ店の中から美味しそうな店を選んで入りました。2つのセットメニューを注文しましたが基本は一緒ですね。トルコを1か月ほど旅した時は2日に1回はその土地の名物のケバブを食べていた気がします。
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「サンドイッチ+フリッツ+ドリンク」セットで6ユーロというお手軽の値段でした。フランスで食べるフライドポテトはどこで食べても美味しいです。ただ、数年後に行ったブリュッセルで食べたフリッツのおいしさは格段に上でした。
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妻の食べたこちらのセットも6ユーロですが美味しかったです。この後妻がトルコを旅するまでにかなりの年数が必要でしたが、近所のトルコ料理屋には何度か行くことが出来ました。
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ロワイヤル広場に戻ると駅までの時間は大体見当がつくので、街中を見学しながら戻ります。サン・ニコラ・デ・ナント教会はサン・ドナティエン・エ・サン・ロガティアン大聖堂とともに市内に2つある大聖堂の1つです。
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教会の起源は11世紀の後半から12世紀の終わりまでの間に小さな教会が建てられたことに始まります。 現在の建物はナントの司教であるフェリックス・フルニエの指導の下で、1844年に最初の石の敷設から始まり、から1869年の建物の祝福まで行われました。
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建物はカトリックの伝統が望むような東西ではなく、南北の軸を向くように建てられ、鐘楼の建設だけで15年間かかりました。教会の建物は地域からの花崗岩とトゥーレーヌからの硬石とトゥファと呼ばれるチョーク質石灰岩で建てられています。
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堂内は訪れる人も少なく、閑散としていました。じっくり見るほどの時間はありませんでしたが、高さ20メートルのステンドグラスの窓と26の像で飾られた祭壇が見事でした。
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50オタージュ広場のトラム道を渡って「ブルターニュ公爵城」に向かいます。
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トゥールでも見掛けた「ハーフティンバー様式」の民家が残っていました。この町ではすでに貴重な建物になっているのかもしれません。
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「サン・クロワ教会」は17世紀にクラシックな様式で建てられ、19世紀に改造された教会で、 この建物は1138年以来教区教会であったブフェイ地区にあります。教区の登録簿には1828年2月8日の日付でジュール・ヴェルヌの出生と洗礼の証明書の転写が残されています。
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現在の教会の実際の建設は17世紀に始まり、身廊は派手なオージバルスタイルで建てられました。サン・クロワ広場を見下ろすファサードは、アンティークな柱とペディメントを備えた古典主義様式で装飾されています。 1663年に建築家テオドール・ナウは派手なスタイルでラッパを吹く寓意的な天使の像を設けました。
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10月も終わりに近づき、パリに戻ったらハロウィンは盛んなのだろうかと思います。ハロウィンと同時にヨーロッパのサマータイムも終わりです。
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教会の脇のエムリ通りは午後の中途半端な時間なので閑散としていましたが、夜になったら賑わいそうな雰囲気でした。
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午前中に歩いた市場でみんなが同じ籠を持っている理由が分かりました。ナントでは共通のデザインなのでしょう。
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「ブルターニュ公爵城」まで戻ってきました。朝は日差しも無く重厚な印象を受けましたが、午後の日差しを浴びて雰囲気も違って見えます。この城は入場無料なのが嬉しいです。これで4日間のロワール渓谷の旅で城を10か所見学したことになります。
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この城は13世紀にブルターニュ公爵によって設立され、ナントの防衛基地とも考えられ、フランソワ2世のもとでブルトン公の主な公邸になりました。フランソワ2世からの公位継承については男性相続人がいたとしても公国が直接王領に渡ることになるという存亡の危機にさらされることになります。フランソワ2世はフランス王国の主張に対抗し、1365年のゲランド条約にもかかわらず、娘アンヌをブルターニュ三部会議会において公国の相続人として認定することにしました。これによってブルターニュ公に対する反対派が増加し、アンヌ・ド・ブルターニュとの結婚を目論んで競争が激しくなり、フランス王の側近たちが不満を覚えるようになります。
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アンヌは後にフランスの2人の王、チャールズ8世とルイ12世との結婚を余儀なくされました。これらの結婚はフランスとブルターニュの結合をもたらしますが、城は公爵の住居としての地位を失い王家の要塞となりました。
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要塞のような外観と濠の印象とは違って、中に入ると美しい城館が姿を現しました。その建物は博物館になっているので駆け足で見学することにします。
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博物館からは城壁の上を周ることが出来るので、こちらも駆け足で見学することにします。
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朝一番で見学したリュ・ユニークも綺麗に見えます。建築家のオーギュスト・ブライセンによる元の建物は、工場が廃止された後に建築家のパトリック・ブイチェーンによって修復されました。トランペットを吹く天使像が浮き彫りにされ、ドーム部分は6つの窓があり、力と名声を象徴するワシの彫刻で飾られています。頂塔部分はパリの万国博覧会に出展された前照灯を真似て金属製の矢を頂いています。
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これまでアール・ヌーヴォー様式の建築をヨーロッパ各地で見てきましたが、ガウディやハンガリーのレヒネル・エデンとも違った不思議なデザインです。近くから眺めるよりも離れた「ブルターニュ公爵城」の城壁から眺めるのが一番きれいだと思います。塔の一部はガラス張りになっているようなので登ってみたい気分になります。
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城壁からは「サン・ピエール・サン・ポール大聖堂」が望めました。あまりの巨大な大きさに驚いたのでちょっと寄ることにしました。
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大聖堂の建築が始まったのは1434年で完成は1891年で、できあがるまで457年もの歳月を要したにもかかわらず、1944年には第2次世界大戦でのドイツの大空襲で大被害を受け、修復を経て現在の姿になっています。457年の年月を経ながらゴシック様式に統一された美しさを感じさせます。
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堂内にはブルターニュ公国最後の大公であるフランソワ2世と、その妃マルグリットの墓があり、これは娘のアンヌ・ド・ブルターニュが両親のために造ったものだそうです。ルネッサンス様式のみごとな装飾が施された白い墓は、アンヌの両親への想いが表れているともいわれていますが、扉には鍵が掛かっていて中に入ることはできませんでした。
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教会は名前の通り十二使徒の2人の聖人である聖ペトロと聖パウロに捧げられています。この2人に捧げられた教会は世界中にありますが、リトアニアのヴィリニュスにあるバロック様式の教会の漆喰細工は素晴らしかったです。
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ちょうど夕日が綺麗に当たっていました。2020年にルワンダ国籍の男性による放火事件が発生し、約400年の歴史を持つパイプオルガンやステンドグラスが全焼するしました。男性はボランティアとしてサンピエール・サンポール大聖堂の管理人をしていました。男性はルワンダから亡命して難民認定を申請中でしたが、これを拒否されていた。
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「ブルターニュ公爵城」に戻って、ナント駅に向かいます。城の濠では中世の剣を持った人たちが剣術の練習をしていました。ブルターニュはまだフランスからの独立を考えているのでしょうか。
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「1870年の戦争記念碑(Monument Aux Morts Guerre 1870)」は普仏戦争で亡くなったロワール・アトランティックの兵士のための記念碑です。
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ジョルジュ・バローのブロンズ像と記念碑の他の4つの像は、チャールズル・ブール、ルイ・バラリス、アンリ・エミール・アロウアルドの4体の兵士の像が取り囲みます。台座は建築家エドゥアール・コロイヤーによって設計されています。
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ルイ16世の記念柱はマレシャル・フォッシュ広場の中心に設置された高さ28メートルの柱で、頭頂部にはフランス王ルイ16世の像が乗っています。
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この像はルイ16世をローマの皇帝の姿で現し、軍隊の士気をする棒と巻物を手に持ち、ドーリス式の柱の上に立っています。駅に戻って荷物をピックアップして飲み物を買っていると列車の時間になりました。あわただしかったナントの旅行も終わりです。
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帰りもプレムスの割引切符でパリに戻ります。途中架線事故でトゥール方面ではなくル・マン経由で戻ることになりました。アンジェで1時間近く停車していたのでパリに戻る時間がかなり遅くなりました。また1週間後にモン・サン・ミッシェルからの帰りにル・マン駅を通ったので、トゥールと一緒に回っても良かったかなと思いました。
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モンパルナス駅に着いたのは予定より2時間ほど遅い午後9時になっていました。この駅にいるのはいつも真っ暗な早朝か夜遅くです。
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3泊4日の旅を終えてモンパルナス駅から歩いてホテルに戻りました。同じ「ヴィラ・モンパルナス」にこの後も1週間ほど滞在します。歳を重ねるうちに体力も落ちているのか、40代で7週間の旅がしんどくなり、50代では3週間の旅も疲れが溜まるようになりました。
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この旅行記へのコメント (2)
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- 大目付さん 2011/12/25 15:46:40
- kojikojiさん、今日は〜
- 綺麗な形と色彩の建物ですね〜!。絵にするなら油彩よりも水彩で描く方が合っている感じがしますね。
〜大目付〜
- kojikojiさん からの返信 2011/12/25 23:33:14
- RE: kojikojiさん、今日は〜
- 大目付さん
そうですね。ナントは大西洋を渡る暖かい海流のせいでロワール川を遡って温暖な気候の町だそうです。朝には川霧も出るようなので街全体が淡く霞んでいるような気がしました。ですので水彩で描くのというお話に妙に納得しました。そこまで写真を細かく見ていただけていると思うと嬉しくなります。ありがとうございます。
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