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 鎌倉市極楽寺1の江ノ電線路に架かる桜橋の向かいに大正15年に鎌倉同人会が立てた「上杉憲方墓」の石碑があり、そこからアパート前の狭い小路を進んだ崖の下の狭い場所が史跡「伝上杉憲方墓」である。狭い小路が史跡の狭さを暗示していたのだ。四畳半の史跡とでもいうべきか。実際には6畳か8畳はあるかも知れないが‥‥。<br /> 史跡看板には、「上杉憲方は憲顕(のりあき)の子である。天授五年(一三七九)美濃の土岐頼康の謀反を討つため出陣したが三島で在陣中、鎌倉御所、足利氏満を輔佐する関東管領に任じられ、鎌倉に帰り山内に住んで山内氏を称した。 応永元年(一三九四)十月、六十歳で亡くなり法名は明月院殿天樹道合という。 墓地には上杉憲方墓と伝えられる尖塔岩製の七層塔の他、凝灰岩製の五層塔一基、五輪塔三基、安山岩製五輪塔多数ある。 七層塔は鎌倉末期の作と推定される。塔身には仏像を刻み基台には粋をめぐらし、格侠挟間を刻んでおり、すぐれたものである。」とある。<br /> 五層塔が上杉憲方墓と思っていたら、看板には七層塔がそれだとある。しかし、七層塔は七重石塔である。しかも、最上部にあるべき九輪がない。地震で落ちてしまっているがそのままになっているのだろう。半年以上経っても文化財のチェックもなされていないのだろう。いかにも鎌倉らしい。少なくても市の文化財課が調査して文化庁に報告すべき事項のように思えるのだが。ここでも鎌倉市文化財課の失点が目に付いた。<br /> 五重石塔、七重石塔や十三重石塔はお寺の境内で良く見かけるが、これが鎌倉時代の墓石であるとは初めてのことで驚いた。しかも、鎌倉末期の作と推定されるそうであるから、憲方が亡くなる応永元年(1394年)よりは60年以上前に作られているのだ。一般的には時代が合わないので上杉憲方墓ではないとするべきであろうが、どうしたことであろうか。鎌倉時代に作られた七重石塔を60年以上も経ってから墓石に転用したとでもいうのであろうか。尤も、上杉憲方墓は明月院に宝篋印塔が残っているが、明月院にある宝篋印塔が上杉憲方墓であることは疑いのないことであろう。<br /> 文化財等データベースには指定基準「七.墳墓及び碑」とあり、詳細解説には「極楽寺門前ノ直路傍ノ畝地ニアリテ高サ九尺五寸ノ多重塔ナリ上杉憲方ノ墓ト傳フ傍ニ同形ノ塔及五輪塔数基アリ」とあり、多重塔とあり、多層塔ではないことが分かる。また、掲載されている写真には七重石塔に九輪部が載っている。やはり、下に落ちているのであろう。 <br />(表紙写真は上杉憲方墓と伝わる七重石塔)

史跡「伝上杉憲方墓」

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2011/10/23 - 2011/10/23

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 鎌倉市極楽寺1の江ノ電線路に架かる桜橋の向かいに大正15年に鎌倉同人会が立てた「上杉憲方墓」の石碑があり、そこからアパート前の狭い小路を進んだ崖の下の狭い場所が史跡「伝上杉憲方墓」である。狭い小路が史跡の狭さを暗示していたのだ。四畳半の史跡とでもいうべきか。実際には6畳か8畳はあるかも知れないが‥‥。
 史跡看板には、「上杉憲方は憲顕(のりあき)の子である。天授五年(一三七九)美濃の土岐頼康の謀反を討つため出陣したが三島で在陣中、鎌倉御所、足利氏満を輔佐する関東管領に任じられ、鎌倉に帰り山内に住んで山内氏を称した。 応永元年(一三九四)十月、六十歳で亡くなり法名は明月院殿天樹道合という。 墓地には上杉憲方墓と伝えられる尖塔岩製の七層塔の他、凝灰岩製の五層塔一基、五輪塔三基、安山岩製五輪塔多数ある。 七層塔は鎌倉末期の作と推定される。塔身には仏像を刻み基台には粋をめぐらし、格侠挟間を刻んでおり、すぐれたものである。」とある。
 五層塔が上杉憲方墓と思っていたら、看板には七層塔がそれだとある。しかし、七層塔は七重石塔である。しかも、最上部にあるべき九輪がない。地震で落ちてしまっているがそのままになっているのだろう。半年以上経っても文化財のチェックもなされていないのだろう。いかにも鎌倉らしい。少なくても市の文化財課が調査して文化庁に報告すべき事項のように思えるのだが。ここでも鎌倉市文化財課の失点が目に付いた。
 五重石塔、七重石塔や十三重石塔はお寺の境内で良く見かけるが、これが鎌倉時代の墓石であるとは初めてのことで驚いた。しかも、鎌倉末期の作と推定されるそうであるから、憲方が亡くなる応永元年(1394年)よりは60年以上前に作られているのだ。一般的には時代が合わないので上杉憲方墓ではないとするべきであろうが、どうしたことであろうか。鎌倉時代に作られた七重石塔を60年以上も経ってから墓石に転用したとでもいうのであろうか。尤も、上杉憲方墓は明月院に宝篋印塔が残っているが、明月院にある宝篋印塔が上杉憲方墓であることは疑いのないことであろう。
 文化財等データベースには指定基準「七.墳墓及び碑」とあり、詳細解説には「極楽寺門前ノ直路傍ノ畝地ニアリテ高サ九尺五寸ノ多重塔ナリ上杉憲方ノ墓ト傳フ傍ニ同形ノ塔及五輪塔数基アリ」とあり、多重塔とあり、多層塔ではないことが分かる。また、掲載されている写真には七重石塔に九輪部が載っている。やはり、下に落ちているのであろう。 
(表紙写真は上杉憲方墓と伝わる七重石塔)

  • 「上杉憲方墓」(大正15年、鎌倉同人会)標石。

    「上杉憲方墓」(大正15年、鎌倉同人会)標石。

  • アパートの前の細い小路を進む。

    アパートの前の細い小路を進む。

  • 石段がある。

    石段がある。

  • 伝上杉憲方墓。細い小路が暗示していたような狭い場所に多層塔や七重石塔や五輪塔が並び、傍らに説明看板が建っている。

    伝上杉憲方墓。細い小路が暗示していたような狭い場所に多層塔や七重石塔や五輪塔が並び、傍らに説明看板が建っている。

  • 「史跡<br />伝上杉憲方墓<br />昭和二年四月八日文部省指定<br />上杉憲方は憲顕(のりあき)の子である。天授五年(一三七九)美濃の土岐頼康の謀反を討つため出陣したが三島で在陣中、鎌倉御所、足利氏満を輔佐する関東管領に任じられ、鎌倉に帰り山内に住んで山内氏を称した。<br />応永元年(一三九四)十月、六十歳で亡くなり法名は明月院殿天樹道合という。<br />墓地には上杉憲方墓と伝えられる尖塔岩製の七層塔の他、凝灰岩製の五層塔一基、五輪塔三基、安山岩製五輪塔多数ある。<br />七層塔は鎌倉末期の作と推定される、塔身には仏像を刻み基台には粋をめぐらし、格侠挟間を刻んでおり、すぐれたものである。<br />昭和四十六年五月十五日<br />神奈川県教育委員会」。

    「史跡
    伝上杉憲方墓
    昭和二年四月八日文部省指定
    上杉憲方は憲顕(のりあき)の子である。天授五年(一三七九)美濃の土岐頼康の謀反を討つため出陣したが三島で在陣中、鎌倉御所、足利氏満を輔佐する関東管領に任じられ、鎌倉に帰り山内に住んで山内氏を称した。
    応永元年(一三九四)十月、六十歳で亡くなり法名は明月院殿天樹道合という。
    墓地には上杉憲方墓と伝えられる尖塔岩製の七層塔の他、凝灰岩製の五層塔一基、五輪塔三基、安山岩製五輪塔多数ある。
    七層塔は鎌倉末期の作と推定される、塔身には仏像を刻み基台には粋をめぐらし、格侠挟間を刻んでおり、すぐれたものである。
    昭和四十六年五月十五日
    神奈川県教育委員会」。

  • 伝上杉憲方墓とされる七重石塔。

    伝上杉憲方墓とされる七重石塔。

  • 落下して3つになった九輪。

    落下して3つになった九輪。

  • 多層塔と伝上杉憲方墓とされる七重石塔。多層塔は七層塔とあるが五層塔にしか見えない。七層塔とあるのは七重石塔のことであろう。1層目下の塔身には仏像が彫られているのは七重石塔であるから、これが上杉憲方墓とされる七層塔で鎌倉末期の作であろう。塔上の九輪は無くなっている。

    多層塔と伝上杉憲方墓とされる七重石塔。多層塔は七層塔とあるが五層塔にしか見えない。七層塔とあるのは七重石塔のことであろう。1層目下の塔身には仏像が彫られているのは七重石塔であるから、これが上杉憲方墓とされる七層塔で鎌倉末期の作であろう。塔上の九輪は無くなっている。

  • 伝上杉憲方墓横の多層塔(5層塔)。憲方の妻の墓とも言われる。こうした多層塔(5層塔)を墓石にしていないのも珍しいだろう。

    伝上杉憲方墓横の多層塔(5層塔)。憲方の妻の墓とも言われる。こうした多層塔(5層塔)を墓石にしていないのも珍しいだろう。

  • 多層塔(5層塔)と伝上杉憲方墓とされる七重石塔。<br />西方寺址の崖裾平場(江ノ電・極楽洞のトンネルがある山裾)には、永和5年(1379年)銘の宝篋印塔が伝上杉憲方逆修塔(西方寺址宝篋印塔)としてあるが、ここ伝上杉憲方墓と伝上杉憲方逆修塔とを取り違えているWebが何と多いことか。驚くほどだ。こうしたことは隣接する場所に順修塔(墓)と逆修塔が建てられていることによるが、両方が公開されているならこうした取り違えは起こらないのではないか?<br />なお、逆修塔とは生前に、自分の死後の冥福のために建てた石塔をいう。

    多層塔(5層塔)と伝上杉憲方墓とされる七重石塔。
    西方寺址の崖裾平場(江ノ電・極楽洞のトンネルがある山裾)には、永和5年(1379年)銘の宝篋印塔が伝上杉憲方逆修塔(西方寺址宝篋印塔)としてあるが、ここ伝上杉憲方墓と伝上杉憲方逆修塔とを取り違えているWebが何と多いことか。驚くほどだ。こうしたことは隣接する場所に順修塔(墓)と逆修塔が建てられていることによるが、両方が公開されているならこうした取り違えは起こらないのではないか?
    なお、逆修塔とは生前に、自分の死後の冥福のために建てた石塔をいう。

  • 多層塔(5層塔)と伝上杉憲方墓とされる七重石塔。

    多層塔(5層塔)と伝上杉憲方墓とされる七重石塔。

  • 多層塔(5層塔)と伝上杉憲方墓とされる七重石塔。

    多層塔(5層塔)と伝上杉憲方墓とされる七重石塔。

  • 3基の五輪塔と1基の石塔。苔むしている。

    3基の五輪塔と1基の石塔。苔むしている。

  • 3基の五輪塔と1基の石塔。

    3基の五輪塔と1基の石塔。

  • 3基の五輪塔。

    3基の五輪塔。

  • 散在している小さな五輪塔。

    散在している小さな五輪塔。

  • 大きな石材。台座か何かだろう。

    大きな石材。台座か何かだろう。

  • 五輪塔。

    五輪塔。

  • 五輪塔が並ぶ。

    五輪塔が並ぶ。

  • 伝上杉憲方逆修塔(西方寺址宝篋印塔(永和5年(1379年)銘))があるという民家。極楽寺坂を鋏んで成就院の向かいになる。西方寺跡近くで3軒から4人に聞いてみたところ、昔この家に住んでいた人が亡くなって、縁者の人が入っているという。実際には大阪に住んでいるために、大抵は留守宅であり、たまに来て別荘のように使っているという。

    伝上杉憲方逆修塔(西方寺址宝篋印塔(永和5年(1379年)銘))があるという民家。極楽寺坂を鋏んで成就院の向かいになる。西方寺跡近くで3軒から4人に聞いてみたところ、昔この家に住んでいた人が亡くなって、縁者の人が入っているという。実際には大阪に住んでいるために、大抵は留守宅であり、たまに来て別荘のように使っているという。

  • 伝上杉憲方逆修塔(西方寺址宝篋印塔(永和5年(1379年)銘))があるという民家。<br />伝上杉憲方墓は(現代でも非常に多くの人たちが間違えているように、昔の人々も同じように、)伝上杉憲方逆修塔と間違えたものであろう。七層塔が鎌倉末期の作であるとすれば、伝上杉憲方墓は鎌倉末期の集団墓と考えるべきである。元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉を攻め、極楽寺坂でも激しい戦いが繰り広げられている。その時の新田側の戦死者の集団墓であろう。七重石塔1基、五層塔1基、大型五輪塔3基、小型五輪塔多数(現在あるのは8〜10基程度か)。

    伝上杉憲方逆修塔(西方寺址宝篋印塔(永和5年(1379年)銘))があるという民家。
    伝上杉憲方墓は(現代でも非常に多くの人たちが間違えているように、昔の人々も同じように、)伝上杉憲方逆修塔と間違えたものであろう。七層塔が鎌倉末期の作であるとすれば、伝上杉憲方墓は鎌倉末期の集団墓と考えるべきである。元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉を攻め、極楽寺坂でも激しい戦いが繰り広げられている。その時の新田側の戦死者の集団墓であろう。七重石塔1基、五層塔1基、大型五輪塔3基、小型五輪塔多数(現在あるのは8〜10基程度か)。

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