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 安政7年3月3日(1860年3月24日)に、水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が桜田門外の変を起こし、大老・井伊直弼を暗殺した。桜田烈士(井伊大老襲撃犯)の一人・広木松之介(水戸藩の脱藩浪士)は鎌倉へ逃げた後、上行寺に匿われていた。水戸藩の尼寺・英勝寺にも参拝したようだ。同志の大半が死んだのを聞き、襲撃と同じ3月3日(文久2年(1862年))に自刃した。広木松之介の墓は上行寺本堂横にある。<br /> 江戸時代から明治にかけて若宮大路沿いで宿場を開いていた大石本陣があった。場所は鎌倉幕府侍所別当を勤めた和田義盛の舘址にあたる。大石家本陣は島津家の墓守をしており、寛永年間から島津家は本陣に泊まりながら、代々の大石家に墓守、掃除を頼んできている。今でも島津忠久の墓や大江広元の墓と毛利季光の墓を掃除しているグループがあり、6、7度訪れたが3度ほど掃除している男の人(たち)を見かけた。<br /> 安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)は、法華堂跡に源頼朝の墓を建てた。この頃になると、外様であった島津家も徳川家との婚姻を通じて親密になってゆく。島津重豪は寛政元年(1789年)に娘を11代将軍・徳川家斉の御台所として将軍家に嫁がせている。<br /> 鶴岡八幡宮は将軍家が社殿を改築してきた。源氏を名乗って征夷大将軍を継いだ徳川家は源氏の棟梁であった源頼朝公の祭祀を主催してきたが、13代将軍・徳川家定によって薩摩島津家に「源頼朝公墓所」の祭祀が譲られている。薩摩島津家も「頼朝公子孫」として「源氏長者」を名乗り、頼朝公を敬ってきている。法華堂跡に源頼朝の墓を建てたことも布石になっているのであろう。この家定の御台所として篤姫が嫁ぐことになる。なお、家定の将軍在位は嘉永6年(1853年)11月23日〜安政5年(1858年)7月6日であるからこの頃のことである。<br /> 今でも源頼朝公墓前祭が毎年月命日にあたる4月13日に、源頼朝公報恩会の主催により、鶴岡八幡宮の神職により執り行われている。島津家御当主も出席するが、このとき以来のことであろう。<br /> 篤姫(後の天璋院)が13代将軍徳川家定の正室として輿入のため、薩摩を発ち大坂、京都を経て江戸に向かったが、その途中に鎌倉の大石本陣に宿泊(嘉永6年(1853年)10月21日の日付)して「銀三枚、金百匹」を本陣にくれたと宿帳に記されている。<br /> 篤姫に従った薩摩藩士はこぞって大蔵山東側にある島津氏の祖である島津忠久の墓を参拝したことであろう。江戸時代には薩摩藩主や薩摩藩士は藩祖・島津忠久の墓を参拝したものだ。篤姫の嫁入り道具の準備をまかされた西郷吉之助(後の隆盛)は同行してはいなかったようだが、翌年に江戸に下向しているから藩祖の墓を墓参したであろう。そうすれば、薩摩と長州の間が島津家と毛利家が出来て以来、ただならぬ関係であることを再確認したはずだ。薩長同盟の大きな流れは実に鎌倉の地に延々と流れていたのだ。<br /> 長州藩家老村田清風は、文政6年(1823年)に鎌倉に来て大江広元の墓と毛利季光(大江広元の四男、長州毛利氏の祖)の墓の整備を行った。そのときに詠んだ俳句が大石本陣に残っており、それを記念して、島津忠久の墓の参道登り口には村田清風句碑『鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 「むかし語り きくきくむしる 尾花哉」』(明治23年(1890年)建立)がある。大江広元の墓の参道登り口ではないのが不思議な感じがする。当時、大石本陣は薩摩本陣と呼ばれてぃたが長州藩も宿泊していたのであろう。薩長は同宿のよしみという感じだろうか。<br /> さらに幕末になった安政5年(1858年)になると、三浦半島の海防の任に着いていた長州藩士が墓を再整備し、参道の石段の上下に大江広元公の石燈籠を建立している。石段の上の向かって左側には毛利季光公の石燈籠が1基だけ建っているが後世に移されたものであろうか?<br /> 幕末には、薩長が頻繁に、源頼朝公墓所と大江広元公、島津忠久公の墓を訪れていたことが窺い知れよう。なお、毛利季光公の墓は鶯ヶ谷(鶴岡八幡宮西の志一稲荷の近く)にあったとされる。<br /> また、吉田松陰は瑞泉寺に逗留していた。瑞泉寺第二十五世住職が松陰の伯父にあたる。ペリー提督が再来航した時に、ここ鎌倉から下田に向かって密航を企てたが失敗した。安政元年(1854年)のことである。<br />(表紙写真は薩長の島津家祖と毛利家祖が並ぶ墓所)

幕末・鎌倉−薩長同盟・明治維新を生み出す小舞台

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2011/09/04 - 2011/09/04

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ドクターキムル

ドクターキムルさん

 安政7年3月3日(1860年3月24日)に、水戸藩、薩摩藩の脱藩浪士が桜田門外の変を起こし、大老・井伊直弼を暗殺した。桜田烈士(井伊大老襲撃犯)の一人・広木松之介(水戸藩の脱藩浪士)は鎌倉へ逃げた後、上行寺に匿われていた。水戸藩の尼寺・英勝寺にも参拝したようだ。同志の大半が死んだのを聞き、襲撃と同じ3月3日(文久2年(1862年))に自刃した。広木松之介の墓は上行寺本堂横にある。
 江戸時代から明治にかけて若宮大路沿いで宿場を開いていた大石本陣があった。場所は鎌倉幕府侍所別当を勤めた和田義盛の舘址にあたる。大石家本陣は島津家の墓守をしており、寛永年間から島津家は本陣に泊まりながら、代々の大石家に墓守、掃除を頼んできている。今でも島津忠久の墓や大江広元の墓と毛利季光の墓を掃除しているグループがあり、6、7度訪れたが3度ほど掃除している男の人(たち)を見かけた。
 安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)は、法華堂跡に源頼朝の墓を建てた。この頃になると、外様であった島津家も徳川家との婚姻を通じて親密になってゆく。島津重豪は寛政元年(1789年)に娘を11代将軍・徳川家斉の御台所として将軍家に嫁がせている。
 鶴岡八幡宮は将軍家が社殿を改築してきた。源氏を名乗って征夷大将軍を継いだ徳川家は源氏の棟梁であった源頼朝公の祭祀を主催してきたが、13代将軍・徳川家定によって薩摩島津家に「源頼朝公墓所」の祭祀が譲られている。薩摩島津家も「頼朝公子孫」として「源氏長者」を名乗り、頼朝公を敬ってきている。法華堂跡に源頼朝の墓を建てたことも布石になっているのであろう。この家定の御台所として篤姫が嫁ぐことになる。なお、家定の将軍在位は嘉永6年(1853年)11月23日〜安政5年(1858年)7月6日であるからこの頃のことである。
 今でも源頼朝公墓前祭が毎年月命日にあたる4月13日に、源頼朝公報恩会の主催により、鶴岡八幡宮の神職により執り行われている。島津家御当主も出席するが、このとき以来のことであろう。
 篤姫(後の天璋院)が13代将軍徳川家定の正室として輿入のため、薩摩を発ち大坂、京都を経て江戸に向かったが、その途中に鎌倉の大石本陣に宿泊(嘉永6年(1853年)10月21日の日付)して「銀三枚、金百匹」を本陣にくれたと宿帳に記されている。
 篤姫に従った薩摩藩士はこぞって大蔵山東側にある島津氏の祖である島津忠久の墓を参拝したことであろう。江戸時代には薩摩藩主や薩摩藩士は藩祖・島津忠久の墓を参拝したものだ。篤姫の嫁入り道具の準備をまかされた西郷吉之助(後の隆盛)は同行してはいなかったようだが、翌年に江戸に下向しているから藩祖の墓を墓参したであろう。そうすれば、薩摩と長州の間が島津家と毛利家が出来て以来、ただならぬ関係であることを再確認したはずだ。薩長同盟の大きな流れは実に鎌倉の地に延々と流れていたのだ。
 長州藩家老村田清風は、文政6年(1823年)に鎌倉に来て大江広元の墓と毛利季光(大江広元の四男、長州毛利氏の祖)の墓の整備を行った。そのときに詠んだ俳句が大石本陣に残っており、それを記念して、島津忠久の墓の参道登り口には村田清風句碑『鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 「むかし語り きくきくむしる 尾花哉」』(明治23年(1890年)建立)がある。大江広元の墓の参道登り口ではないのが不思議な感じがする。当時、大石本陣は薩摩本陣と呼ばれてぃたが長州藩も宿泊していたのであろう。薩長は同宿のよしみという感じだろうか。
 さらに幕末になった安政5年(1858年)になると、三浦半島の海防の任に着いていた長州藩士が墓を再整備し、参道の石段の上下に大江広元公の石燈籠を建立している。石段の上の向かって左側には毛利季光公の石燈籠が1基だけ建っているが後世に移されたものであろうか?
 幕末には、薩長が頻繁に、源頼朝公墓所と大江広元公、島津忠久公の墓を訪れていたことが窺い知れよう。なお、毛利季光公の墓は鶯ヶ谷(鶴岡八幡宮西の志一稲荷の近く)にあったとされる。
 また、吉田松陰は瑞泉寺に逗留していた。瑞泉寺第二十五世住職が松陰の伯父にあたる。ペリー提督が再来航した時に、ここ鎌倉から下田に向かって密航を企てたが失敗した。安政元年(1854年)のことである。
(表紙写真は薩長の島津家祖と毛利家祖が並ぶ墓所)

  • 広木松之介の墓(大正5年(1916年)建立)(上行寺(大町2))。

    広木松之介の墓(大正5年(1916年)建立)(上行寺(大町2))。

  • 水戸藩の尼寺・英勝寺。

    水戸藩の尼寺・英勝寺。

  • 和田義盛の舘址はこのあたりからか。江戸時代には和田義盛の舘址の若宮大路沿いに大石本陣があった。参勤交代の薩摩藩主、藩士ばかりではなく、第13代将軍徳川家定に輿入する篤姫(後の天璋院)も江戸に向かう途中に鎌倉の大石本陣に宿泊(嘉永6年(1853年)10月21日の日付)している。<br />島津家は、篤姫を第13代将軍徳川家定の御台所として嫁がせ、結果、頼朝公墓の祭祀権を手に入れている。

    和田義盛の舘址はこのあたりからか。江戸時代には和田義盛の舘址の若宮大路沿いに大石本陣があった。参勤交代の薩摩藩主、藩士ばかりではなく、第13代将軍徳川家定に輿入する篤姫(後の天璋院)も江戸に向かう途中に鎌倉の大石本陣に宿泊(嘉永6年(1853年)10月21日の日付)している。
    島津家は、篤姫を第13代将軍徳川家定の御台所として嫁がせ、結果、頼朝公墓の祭祀権を手に入れている。

  • 薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)は、安永8年(1779年)に法華堂跡に源頼朝の墓を建て、寛政元年(1789年)に娘を11代将軍・徳川家斉の御台所として将軍家に嫁がせた。

    薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)は、安永8年(1779年)に法華堂跡に源頼朝の墓を建て、寛政元年(1789年)に娘を11代将軍・徳川家斉の御台所として将軍家に嫁がせた。

  • 安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)は、法華堂跡に源頼朝の墓を建て、藩祖・島津忠久の墓を整備した。<br />

    安永8年(1779年)に薩摩藩主の島津重豪(しまづ しげひで)は、法華堂跡に源頼朝の墓を建て、藩祖・島津忠久の墓を整備した。

  • 文政6年(1823年)に、長州藩家老村田清風が鎌倉に来て大江広元の墓と毛利季光(大江広元の四男、長州毛利氏の祖)の墓の整備を行った。<br />なお、この当時、毛利季光公の墓は鶯ヶ谷(鶴岡八幡宮西の志一稲荷の近く)にあった。<br />

    文政6年(1823年)に、長州藩家老村田清風が鎌倉に来て大江広元の墓と毛利季光(大江広元の四男、長州毛利氏の祖)の墓の整備を行った。
    なお、この当時、毛利季光公の墓は鶯ヶ谷(鶴岡八幡宮西の志一稲荷の近く)にあった。

  • 左から毛利季光、大江広元、島津忠久の三公墓が並ぶ。<br />毛利季光公の墓は大正10年(1921年)に鶯ヶ谷(鶴岡八幡宮西の志一稲荷の近く)からこの地に移された。<br />

    左から毛利季光、大江広元、島津忠久の三公墓が並ぶ。
    毛利季光公の墓は大正10年(1921年)に鶯ヶ谷(鶴岡八幡宮西の志一稲荷の近く)からこの地に移された。

  • 幕末の安政5年(1858年)に整備された大江広元の墓参道の石段とその上下の石燈籠。石段上、向かって右に大江広元公の名が刻まれ、向かって左に毛利季光公の名が刻まれている。法華堂山と刻まれてあるから、三公墓がある山は幕末には法華堂山と呼ばれていたのであろう。

    幕末の安政5年(1858年)に整備された大江広元の墓参道の石段とその上下の石燈籠。石段上、向かって右に大江広元公の名が刻まれ、向かって左に毛利季光公の名が刻まれている。法華堂山と刻まれてあるから、三公墓がある山は幕末には法華堂山と呼ばれていたのであろう。

  • 島津忠久の墓参道横にある長州藩家老・村田清風句碑(明治23年(1890年))と石碑(明治10年(1878年)、島津忠義)が並ぶ。

    島津忠久の墓参道横にある長州藩家老・村田清風句碑(明治23年(1890年))と石碑(明治10年(1878年)、島津忠義)が並ぶ。

  • 村田清風句碑「鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 むかし語りきくきくむしる尾花哉」<br />「鎌倉市教育委員会 鎌倉文学館」<br />とあるが、「むかし語り」は字余りだ。<br />また、吉田松陰は村田清風の弟子とも書かれている。

    村田清風句碑「鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 むかし語りきくきくむしる尾花哉」
    「鎌倉市教育委員会 鎌倉文学館」
    とあるが、「むかし語り」は字余りだ。
    また、吉田松陰は村田清風の弟子とも書かれている。

  • 14文字の碑銘は完全には読めないが、碑文の末に「明治10年(1878年)、島津忠義」とある。島津忠義は最後の第12代薩摩藩藩主で、島津氏第29代当主であった。<br />「‥‥源頼朝卿原忠久朝臣墓猷‥」とある。島津家のご先祖(忠久)を顕彰する碑であろう。

    14文字の碑銘は完全には読めないが、碑文の末に「明治10年(1878年)、島津忠義」とある。島津忠義は最後の第12代薩摩藩藩主で、島津氏第29代当主であった。
    「‥‥源頼朝卿原忠久朝臣墓猷‥」とある。島津家のご先祖(忠久)を顕彰する碑であろう。

  • 『鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 「むかし語り きくきくむしる 尾花哉」』。字余り。<br />

    『鎌倉の御事蹟を探り探りて 清風 「むかし語り きくきくむしる 尾花哉」』。字余り。

  • 「松陰吉田先生留跡碑」(瑞泉寺(二階堂))。

    「松陰吉田先生留跡碑」(瑞泉寺(二階堂))。

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