2010/03/03 - 2010/03/03
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中国の風景さん
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後漢末の196年、曹操が献帝を奉じてここに洛陽から都を遷したことで有名。遷都の理由は洛陽が戦乱で荒廃していたのと、この地域が曹操の勢力圏だったからと考えられる。元は「許」県であり(許都)、魏王朝建国後「魏は許をもって益々昌(さか)える」という予言に従って、許昌に改名された。 献帝在位中は一貫して「許」であったため、実は後漢、魏を通じて「許昌」が首都となった事は一度も無い。献帝が廃されて魏が建国されると都は洛陽とされるが、魏の五都の一つとされ、依然として重要な都市であった。 許昌には献帝の皇后伏氏(伏完の娘)の陵墓や後漢末の都市遺跡があり、歴史学上も重要な都市である。
- 旅行の満足度
- 3.0
- 観光
- 3.0
- ホテル
- 3.0
- グルメ
- 3.0
- ショッピング
- 3.0
- 交通
- 3.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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許昌駅前から市内バス(103路)で許昌汽車南站へ行く、10分位、冬の始発は7時30分です。
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このバスは襄城行きで繁城で降ろしてくれるよう運転手に頼んだ。
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繁城へは真直ぐな道をただひたすら進む。
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許昌の街を離れて初の信号機。ここが繁城です。許昌から一時間掛かりました。
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繁城の繁華街。寂しいがこの辺では一番の街並みです。バス停にいたバイタクに交渉、1時間10元でチャーター(包車)する。
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早速バイタクの運転手の案内で文物保護員の巩東平さんの家へ行く。午前9時頃でしたがまだ寝てました。家に入り奥さんにお茶を入れて貰い着替えを待ちました。家の中で説明を受けました。
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各家とも門は顔になるので立派な造りです。隣の家も門を造り直していました。献帝廟の2軒先の家で近くです。
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後漢のラストエンペラー献帝を祀る。中には三絶碑が2基あるのみ。鍵を開けているのが管理人、後がバイタクの運転手。
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曹丕が即位の記念に造らせた「受禅表」と「公卿百官上尊号表」という二つの碑が飾られている。「受禅表」は禅譲を受けた曹丕をたたえる碑。かなり痛んでいて読み取れません。
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「公卿百官上尊号表」は魏の臣下が漢に代わって曹丕が帝事を執るよう請う碑である。二つの碑は「王郎の文」「梁鵠の書」「鐘繇の石刻」で、いずれも当代最高の作品で「三絶碑」と呼ばれる。
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二つの三絶碑の間にある小振りの石碑、なんだか聞き漏らしました。
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管理人によると新しい三絶碑があると言う。献帝廟の後にある廃校と成った小学校の教室内に四基の石碑が置いてあった。本物は博物館で管理して、復刻版を人民に見せて行こうと言うのか?
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大学教授や専門家の監修で2009年に完成、これから設置して行くらしい。現在の最高技術のスキャナーで写し、コンピューターで監修し、彫刻機で精密に刻むと現代の三絶碑が出来る。現代電子技法と書いてある。
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復刻三絶碑の上にはこの上置きが乗せられる。
「重物漢魏禅○碑記」の八文字がある。○の文字は読めません。 -
分かりません。碑文を探し研究します。
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分かりません。碑文を探し研究します。
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「公卿上尊号表」陛下、文徳、武功、臣などの文字が見えるので曹丕を臣下が皇帝に相応しいと褒めた文章ではないか。
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「公卿上尊号奏」か?
黄初元年(220)以後。紀年はないが、曹丕(曹操の第一子)が即位した黄初元年以後の立碑であり、その内容は魏国の将軍や公卿達が曹操の死後、曹丕に帝位へつくことをすすめた上奏文である。書体は漢の八分隷の後継者的位置にあるが、筆勢は感じられず、つくったような波勢のみが目立つ概念的な隷書である。 -
「受禅表」か?
黄初元年(220)以後。この碑も上尊号奏と同時期に建てられたもので、その内容はやはり、曹丕の即位に関することであり、曹丕の徳を称え、曹丕が禅譲(天子が有徳者に位を譲ること)されることの必然性を説いた文章である。書体は八分隷で、上尊号奏と同一人物の手によるものであるという説もあり、非常に酷似している。 -
「受禅表」か?碑文を探し研究します。
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文物保護員の巩東平さんが中国語の分からない私に書いてくれた説明文。これも記念品です。
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文物保護員の巩東平さんの説明で30年前に元首相の田中角栄がこの地に来訪したとの事でした。管理料として100元を寄付させていただきました。喜んでいただけて受禅台も案内してくれました。
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許昌からの直線道路を南に20km、繁城でバスを降り更に500m程前方を右に入ると左に小山が見える。
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曹丕が献帝から帝位を無理やり譲らせた受禅台。
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中腹にある2本の古木。
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受禅台の上は畑になってしまった。何時まで台地が残っているのか?三国遺跡の運命はいかに。
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許昌からの直線道路を南に15km、右に歇馬殿の看板がある所を右に入る、200m程で左にあります。歇馬殿の向い側にあります。
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劉備の参謀で後に魏に仕えた徐庶の母の墓。小さな盛り土で墓の前に石碑が建っている。「蜀書」諸葛亮伝によれば、徐庶の母は208年に曹操により捕らえられたとされる。
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「漢大賢徐母之墓」と書いてある。自分の為に息子が魏に降ったことを嘆いて自殺したと言う「演義」の話に基づいて、民衆によって建てられた墓だとする説もある。 -
許昌からの直線道路を南に15km、右に歇馬殿の看板がある所を右に入る、200m程で右にあります。 -
曹操のもとに身を寄せていたとき、度重なる誘いを断って許昌を出発した関羽が、最初に宿泊した場所として伝えられる。三国時代当時は、もちろん建物などなく、現在の建物は清代になって建造した。
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劉備の奥方と夫人を守り、千里の道を劉備の元へ行くと言う美談。
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曹操から貰った赤兎馬に乗って劉備の元へ行く関羽。
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大将軍関羽は死んだ後、関公、関帝、関廟で商売の神様になった。
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許昌からの直線道路を南に15km、右に歇馬殿の看板がある所を左に入る、東へ真直ぐ入り村の中心(ここで錠を借りる)で左に入り、100mほどを右に入ると石碑がある。
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献帝の皇后の墓、伏完の娘である皇后は諸葛亮と同じ瑯邪国東部県(現在の山東省諸城県)出身。195年(興平二)に皇后に立てられ214年(建安19)に曹操の暗殺を企てた父に連座して捕まり殺された。曹操の死後、この地に厚く葬られたと言う。
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廟の中に伏皇后が祀られている。歇馬殿に集まっていた村人に案内していただきました。鍵も借りていただき廟を開けて貰いました。
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林の中の小路は墓の上へと続く。
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伏皇后墓の上に登り、周りの景色は見渡す限りの畑が広がる。かつては数倍の規模があったといわれる伏皇后の墓。現在はほとんどが農地に変わってしまっている。
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