2010/01/09 - 2010/03/28
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ドクターキムルさん
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稲村ガ崎は、元弘3年(1333年)、新田義貞が鎌倉攻めの際に海中に宝剣を投げ入れ、潮が引いたところを一気に攻め入ったという有名な伝説が残るところである。今では切通しされて道路が開かれ、岬には石碑も多く建てられて整備された公園となっている。やはり、鎌倉を思わせるやぐらも崖には見受けられる。多くの鳶が空を舞い、時には低空飛行もある。弁当を広げたなら細心の注意が必要だ。ここからは、七里ガ浜から江の島に続く海岸線とその背後にそびえる富士山が望め、撮影スポットにもなっている。また、沖には伊豆諸島といった景色が望める。
材木座から見ると、稲村ガ崎の沖に江ノ島、その背後に富士山が並び、春と秋には山頂に夕陽が沈むシチュエーションが美しいが、アクセントを付けてくれるのがこの稲村ガ崎だろう。
(表紙写真は稲村ガ崎新田義貞徒歩伝説地の石碑)
- 交通手段
- JRローカル 私鉄
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十一人塚。稲村ガ崎駅から稲村ガ崎に向かう途中の踏切近くにある。
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「鎌倉市指定史跡 十一人塚」。
元弘3年(1333年)の新田義貞の鎌倉攻めの際に、右翼軍の将・大館宗氏(新田家の分家)の主従11名は稲瀬川のほとりで北条軍の攻撃を受けて全員討ち死にした。戦いの後、義貞は11人の死を悼み、遺髪を葬り十一面観音堂を建立してその霊を弔ったとされる。 -
「十一人塚」石碑(鎌倉町青年団、昭和6年3月)。
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稲村ガ崎新田義貞徒歩伝説地の石碑。稲村ガ崎公園の中心石碑。表面が剥離してきている。
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「明治天皇御製」歌碑。稲村ヶ崎史蹟顕彰会が昭和19年10月に建設。「新田義貞 投け入れし剣の光あらはれて 千尋の海もくかとなりぬる」。
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「稲村崎」石碑(鎌倉町青年会、大正6年3月)。
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「史蹟稲村ヶ崎新田義貞徒渉伝説地」石碑(昭和19年10月、稲村ヶ崎史蹟顕彰会)が稲村ガ崎新田義貞徒歩伝説地の石碑の横に建っている。
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稲村ガ崎の夕暮れ。
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稲村ガ崎の夕暮れ
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「かながわの景勝50選 稲村が崎」石碑。
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ボート遭難の碑の銅像。 明治43年1月、七里ケ浜で逗子開成中学のボートが沈み、乗っていた生徒12名全員が死亡した。
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これを悼んだ哀悼歌で七里ケ浜の哀歌(真白き富士の嶺)として知られている。
「ボート遭難の碑
真白き富士の嶺緑の江ノ島
仰ぎ見るも今は涙
帰らぬ十二の雄々しき魂に
捧げまつる胸と心
ボートは沈みぬ千尋の海原
風も浪も小さき腕に
力もつきはて呼ぶ名は父母
恨みは深し七里が浜辺
円覚寺 朝比奈宗源書」 -
遭難者名簿(1964年5月17日)。
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「真白き富士の嶺」。
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上空を舞う鳶。急降下飛行術は天下一品だが、弁当をさらわれたら元も子もない。
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丘の上に、鎌倉市医師会碑、ローベルト・コッホ碑、解説が並ぶ。
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鎌倉市医師会碑(昭和58年)。
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ローベルト・コッホ碑。
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ローベルト・コッホ碑(解説)。
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崖にはやぐら。
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崖にはやぐら。
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丘からの眺め。江ノ島が見える。
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丘からの眺め。鳶が舞う。
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丘からの眺め。江ノ島が見える。
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江ノ島。
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空を舞う鳶。
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「道路開墾記念之碑」(昭和13年3月)。下部から表面剥離している。掘削された切通しの向こう側に建つ。
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稲村ガ崎(鎌倉側)切通しの断崖絶壁。鳶が群れている。
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稲村ガ崎(鎌倉側)。
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稲村ガ崎(鎌倉側)。
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稲村ガ崎(鎌倉側)。
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稲村ガ崎(鎌倉側)。
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稲村ガ崎(鎌倉側)。
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逗子方面。
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名越方面。煙突は名越切通下の斎場。
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小坪方面。
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材木座方面。青緑の大きな屋根のお寺は光明寺本堂。
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長柄・桜山古墳群がある山。
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材木座・小坪方面。
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道路脇に建つ斉藤養之助氏顕徳碑(昭和30年)。
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鎌倉由比ガ浜方面。
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小坪方面。
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材木座方面。
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材木座方面から見る稲村ガ崎。
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材木座方面から見る稲村ガ崎。
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和賀江島から見る稲村ガ崎。
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