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平和公園

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平和公園 クチコミ・アクセス・周辺情報

長崎市 観光 満足度ランキング 5位

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原爆落下中心地公園北側、小高い丘にある平和公園は、悲惨な戦争を二度と繰り返さないという誓いと、世界平和への願いを込めてつくられた公園です。

ピックアップ クチコミ

  • 満足度の高いクチコミ

    平和公園

    4.0

    有名な平和祈念像があります。見学は無料です。長崎に来たら、一度は訪れたい場所です。毎年、8月9日はこの場所で平和祈念式典が...  続きを読む行われています。高さ9.7mの像の前で、平和について改めて考えてみる人も多いのではないでしょうか。  閉じる

クチコミ・評判 22ページ目

421~440件(全893件中)

  • 広島とは違った雰囲気の平和公園

    • 3.5
    • 旅行時期:2017/11(約8年前)
    • 0

    原爆投下の悲劇があった長崎を代表する観光地の一つ。
    有名な水色の男性像のモデルは現地で見ても分からなかったが、誰でも見た...  続きを読むことのある図である。
    像の周辺も公園内も水に恵まれ明るい印象がある。
    どことなく暗い感じを受ける広島のそれに比べると平和のありがたいみを感じる明るさがある公園である。
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    投稿日:2018/01/24

  • 長崎観光でははずせない

    • 3.5
    • 旅行時期:2017/11(約8年前)
    • 1

    長崎は九州では異色の観光地で、やはり鎖国時も外国との交流があったことがその要因の一つではあるが、もちろん忘れてはならない原...  続きを読む爆投下の地であることもその一つである。
    長崎に観光に行く場合に、そのガイドブックの類を見ると必ず出てくるのがこの平和祈念の像である。
    由来は現地でも分からななかったがインパクトのあるこの像の前では必ず記念撮影が行われるほどの名所である。周囲には水もあり平和のありがたみが感じられるのどかな場所である。
      閉じる

    投稿日:2018/01/24

  • 永遠の平和を

    • 4.0
    • 旅行時期:2017/11(約8年前)
    • 0

    コンチェルトホテル長崎から歩いてすぐ。大変多くの観光客で賑わっていました。殆どが外国人。この公園の意味をどう理解しているの...  続きを読むか全く分からないような振る舞いが目につき、どうなのかなと思いましたが、誰でも自由に振舞えることも平和の証かとも考えたところです。  閉じる

    投稿日:2017/11/21

  • やっと実物が見れました

    • 4.0
    • 旅行時期:2017/10(約8年前)
    • 0

    テレビで何度も見ていましたが
    やはり、本物は圧巻でした。
    入口から噴水をはさんで、まっすぐの道の正面
    遠目越しから、...  続きを読む鳥肌が立ちました。
    360度見て回りました。
    途中、いろんな国から寄贈された銅像あります。
    今の平和に感謝です。
      閉じる

    投稿日:2017/12/20

  • モニュメントばかり

    • 3.0
    • 旅行時期:2017/10(約8年前)
    • 1

    18haもの広さを持つ長崎の平和公園は、原爆落下中心碑を含む原爆遺構が点在します。願い・祈り・学びの3つのゾーンから成り立...  続きを読むっていますが、被爆遺構が多くはなく、やたら恒久平和を願うモニュメントが目につきます。

    気持ちはわからなくもありませんが、集めた被爆遺構にモニュメントでは、なにを根拠に作られたものなのかすごく分かり辛いところがあります。被爆50周年記念事業碑の母子像を原爆落下中心碑にする計画が頓挫したと書かれていましたが当たり前でしょう。モニュメントをして知らせることができるものなのかどうかすらわからないのでしょうか?  閉じる

    投稿日:2017/10/22

  • 長崎平和公園の象徴である平和祈念像。彫刻家の北村西望が五年の月日を費やして作成し、昭和30(1955)年に長崎市に納められ...  続きを読むました。

    垂直に高く掲げた右手は原爆の脅威、水平に伸ばした左手は平和、横にした足は原爆投下直後の長崎市の静けさを立てた足は救った命を表しており、軽く閉じた目は戦争犠牲者の冥福を祈っているものとされています。10m近い高さがあるため、上に挙げた右手には避雷針が取り付けられています。

    この平和祈念像のモデルには当時人気のあった力道山の他格闘技の指導者等の諸説はあるもの都市伝説の域を超えはおらず、作者の北村西望も特定の人物には似ることのないように作ったと表現しています。

    今となっては顔という表現が相応しいのかも知れませんが、建立当時は被爆者に対する法律による救済措置は取られておらず、像そのものの建立費用は募金によって賄われているものの、台座建立に必要とした2,000万円は長崎市が負担しており、その建立費用の使い方に疑問を抱く被爆者も少なからずいたという記録も残っています。

    建立時のことはともかく、この平和祈念像の建立が現在の平和公園に対する少なくない批判の原因になっているように思えてなりません。平和を祈念するモニュメントが乱立している長崎の平和公園。広島の平和記念公園が聖地とされ、特定の宗教やモニュメントを締め出していることと比較すると、その被爆に対する捉え方の違いに戸惑いすら覚えます。爆心地の表示こそ広島はないものの、長崎の立派に見える原爆投下中心碑も、実は取り壊して現在の被爆50周年記念事業碑である『母子像』を建立しようとしていたことには、被爆した事実をどう捉えているのか疑問に思わざるを得ません。

    長崎市民からも被爆からの復興が長崎の『被爆に対する態度』といった意見も出ているのが現実です。被爆遺構を残そうとする広島に対し、それをなくそうとする長崎の両極端の立ち位置に、被爆の事実の伝え方の難しさを改めて感じました。
      閉じる

    投稿日:2017/10/26

  • 昭和20(1945)8月9日午前11時2分、現在の原子爆弾落下中心地上空でプルトニウム型原子爆弾ファットマンが投下され、1...  続きを読む4万人もの人命が失われました。そして昭和24(1949)年8月9日に長崎国際文化都市建設法が交付・施行され、被爆犠牲者の追悼と恒久平和を祈念して、昭和25(1950)年8月1日に長崎市立公園として松山町に国際平和公園が開設されました。

    昭和30(1955)年4月1日には現在の長崎原爆資料館の元となる長崎国際文化会館が完成し、同年8月8日には平和祈念像の除幕式が行われました。

    その後幾多の変遷の後に、昭和58(1983)年に長崎市に『平和公園聖域化検討委員会』が設立され、昭和60(1985)年に平和公園内での花見や飲酒が禁止されます。平成5(1993)年には平和公園再整備計画が出され、原爆資料館として手狭になっていた国際文化会館の建て直し工事も始まります。翌平成6(1994)年から平成9(1997)年にかけて平和公園の再整備工事がなされ、その過程の中で原爆殉難者名奉安所を原爆落下中心碑前に移設し名簿のマイクロフィルム化を実施し、名簿原本は国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館内の追悼空間(原爆死没者名簿棚)に設置することになります。また平成8(1996)年4月には現在の長崎原爆資料館が完成し、現在の平和公園のアウトラインが完成しました。

    平成20(2008)年には平和公園が文化財保護法の規定により登録記念物として登録され、平成23(2011)年~平成25(2013)年には平和公園階段横に『平和の歩道』と呼ばれるエスカレーターが開設され、朝7:00~夜22:00迄利用できるようになり、平和公園参拝者の足となって現在に至っています。

    総面積18.6haの平和公園は3つのゾーンに分けられており、平和祈念像付近の願いのゾーン、原爆落下中心碑付近の祈りのゾーン、そして長崎原爆資料館付近の学びのゾーンから構成されています。

    同じ被爆地として広島と比較すると諸施設の建立の新しさに気づきます。平和公園を構成する3つのゾーンが定められたのは平成になってからのことだということもなにかしっくりいかないことでもありました。慰霊碑というよりも祈念碑と感じるものが多いのは長崎の特徴であり、平和公園の聖地化にしても広島とはだいぶ趣が異なっており、モニュメントが乱立している公園のような印象を受けました。

    広島の場合原爆ドームをはじめとする被爆遺構は、その時その場所にあったまま、景観を損ねないように建立物を規制するバッファーゾーンがしっかり設けられているのに対し、長崎の場合は被爆遺構を敢えて移築し、集めているように思えてなりません。怒りの広島・祈りの長崎と原爆に対する考え方も違うのかも知れませんが、祈りのゾーンに移築された浦上天主堂の被爆遺構はほとんどのアングルから撮影した写真にラブホテルが写り込んでしまうというありさまなのは有名処のひとつでしよう。

    うまく表現ができないのですが、広島は被爆遺構を確認してから平和記念公園を建設したのに対し、長崎ではそれがどこまで行われたのか?正直疑問に思えるところが多々あります。祈りのゾーンには被爆時の地層をガラス越しに見ることができます。これには解釈も要らず大変わかりやすいものであると思います。しかしその反面平和の歩道建設時に発見された『防空壕跡』は、聞き取り調査をした段階でわかりそうなもののように思えてなりません。

    広島では被爆時の地面は『被爆した墓石』付近の不自然に掘り下げられているものに注釈がつけられて初めてわかるものになっています。どちらが良いのかは人それぞれの想いもあり、すぐに答えが出せないようには思えるものの、今現在に於ける被爆遺構をはじめとする往時の建立物の残し方に、後世にどのように伝わるのか一抹の不安を覚えました。  閉じる

    投稿日:2017/10/19

  • 広島とは違います・・・。

    • 3.0
    • 旅行時期:2017/09(約8年前)
    • 14

    広島の原爆の子の像に備えられている折り鶴は、建立者である広島平和をきずく児童・生徒の会の意図も加わり広島市が管理しています...  続きを読む

    同じようなものとして平和祈念像の左右を固めている折り鶴の塔ですが、長崎北ライオンズクラブの15周年記念事業として建立されたものになります。

    建立の意図としては原子爆弾犠牲者の霊を慰めるとともに、二度とこの地球上に原爆の惨禍を招くことがないよう、世界恒久平和を祈って寄せられた折鶴を塔に掲げ、その意を伝えるためとされていますが、あくまでも記念事業として建立されたものであれば、モニュメントでしかありません。平和を願うために収められた千羽鶴であることには違いなくとも、モニュメントに収めることと、慰霊塔に供えることでは全く意味が異なります。また管理者が明記されていないことから、折り鶴の行方も気になります。

    残念ではありますが、広島の原爆の子の像に供えられた千羽鶴は100%リサイクルはがきになっている訳ではないようです。しかしその中の一部とは言え試みとして再利用されていることは事実です。これは広島市が発表していることですが、残念ながら長崎の折り鶴に関しては市を含めどこの施設にも記述がありません。

    慰霊の気持ちを茶化すつもりは毛頭ありませんが、修学旅行等の慣習として千羽鶴を収めているのであれば、やはり行っている学校や施設も知る必要があるのではないのでしょうか?

    義務感で行われるてい形だけの慰霊など誰も望まず、またなにも知らずに気持ちを込めて折り鶴を折った子供達の気持ちを踏みにじることにことになるのではないでしょうか?  閉じる

    投稿日:2017/10/11

  • 長崎平和公園の中心部にある『平和の泉』、平和公園の定番写真がこの泉の噴水の隙間から平和記念像を望むものですが、多客期には学...  続きを読む生団体が群れを成して写真を撮るどころではありません。

    昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、長崎市松山町上空500mの地点で爆発した原子爆弾『ファットマン』の放出した爆風・熱線・放射線によって長崎の市民はバタバタと斃れて行きました。体内まで焼け爛れた被爆者は『水』を求めて呻き、そして亡くなりました。その痛ましい姿で亡くなった被爆犠牲者の霊に水を捧げて冥福を祈り、恒久平和を祈念するために長崎市と核兵器禁止世界平和建設国民会議が全国から集まった浄財を元にしてこの『平和の泉』を昭和44(1969)年に建立しました。

    時間によって刻々と変化する噴水は『平和の鳩の羽ばたき』を形どり、つるの港といわれる『長崎港の鶴』を象徴しているそうです。その噴水の間からは平和記念像が望め、長崎平和記念公園の象徴ともされている風景です。しかしその平和記念像を望む『平和の泉』の『謂れ』が刻まれた碑に目をやる人は少ないようです。

    のどが渇いてたまりませんでした
    水にはあぶらのようなものが
    一面に浮いていました

    どうしても水が欲しくて
    とうとうあぶらの浮いたまま飲みました

    ―あの日のある少女の手記から―


    と刻まれていますが被爆当時9歳の少女のものだそうです。水を飲ませてはいけない…。でも喉が渇いて仕方がない…。でもきれいな水は当然ない…。3つの『ない』の極限の状況に於いて、少女は水を飲むことを選びました…。

    水は何かにつけて『平和』に結び付けられていますが、果たして平和の泉もそうだったのでしょうか…。勿論水が飲めないまま亡くなった被爆者の慰霊の意は汲み取れるものの、なにか他にないものかと思うところがありました。その時のその惨状を表すなにかを…そんな違和感を感じました。  閉じる

    投稿日:2017/10/07

  • 平和公園内に響く鐘の音。

    • 5.0
    • 旅行時期:2017/09(約8年前)
    • 13

    長崎平和公園内に昭和52(1977)年7月20日に建立された『長崎平和の鐘』。天主堂の瓦礫の中から出てきたものだという都市...  続きを読む伝説があるようですが、戦後に作られたものです。『長崎の鐘』というネーミングは、永井隆博士が執筆した随筆の名前であり、出版後作詞サトウハチロー・作曲古関裕而・歌藤山一郎で書き上げられた『歌謡曲』となり、その翌年に松竹で映画化されています。

    この平和公園に建立された『長崎の鐘』は原爆投下後33回忌を迎えるにあたり、動員学徒や女子挺身隊、その他徴用工や一般市民の原爆殉難者の冥福を祈り、あのようなむごい原子爆弾が再びこの地球で炸裂しないためにも、この鐘を鳴らし続けることによって恒久平和の確立を世界の人々に訴えるため建立したものとされています。建立費用は遺族や被爆者の他およそ21,000世帯の拠出金による浄財が集められてそれを元に建立されました。

    長崎県被爆者手帳友の会・長崎県動員学徒犠牲者の会の手によって建立され、鐘の後方には動員学徒・女子挺身隊・徴用工・一般市民の原爆殉難者之碑が合わせて置かれています。慰霊碑とモニュメントを兼ねた要素を持っているため、聖地に置くに相応しいかどうかは何とも言えないところがあるものの、永井博士の遺徳を後世に伝えるべく付けたネーミングであれば、史料価値としては高いものがあると捉えるしかないようにも思いました。  閉じる

    投稿日:2017/10/07

  • 長崎に原爆が投下された時の『想い』を風化させぬよう、被爆後40余年の月日が経った昭和62(1987)年8月1日に『長崎平和...  続きを読むの母子像を建てる会』の手によって建立されました。

    原爆の閃光によって数万もの男女が無数の母と子が灼かれてひき裂かれ息絶えた『史実』が風化し、世界に第二の核戦争へのシグナルが燈る際に、それへの警鐘として建立されたようです。

    『戦地に向かう男達を見送り、女達もまた勝利を祈っていた。しかし戦況は悪化の一途を辿り、広大な大陸やはるかな海では数知れない血が流されて行った。そして沖縄戦を経て広島・長崎へと非道な原子爆弾攻撃に至った』との一文ですが、思想的内容はともかくかなりストレートな内容となっており、大変わかりやすいものとなっており、深く考えるまでもなく理解できるものとなっています。

    原爆投下を生き抜き、苦悩を抱えながら生きている『女性』の気持ちを絵にしたことが多くの人々に理解される『レリーフ』のひとつです。  閉じる

    投稿日:2017/10/06

  • 長崎に於ける被爆50周年記念事業の碑という位置付けで平成9(1997)年に建立されました。子を胸に抱く母の像は、解説を入れ...  続きを読むなくてもその意味がわかるものでしょう。その意図は十分理解できるものの、やはり『被爆50周年記念事業碑』と呼ばれるからには、やはりモニュメントとして捉えることに間違いはありません。

    広島とは違い長崎では平和公園敷地内にも多くのモニュメントが建立されており、あまりにも異なるその背景の違いに戸惑いすら覚えます。ただこの母子像は計画の段階では別の場所に建立されるはずでした。黒御影石が張られている『原爆落下中心地』。ここは紛れもない原爆が投下され炸裂した場所になりますが、現在の碑を撤去して、この像を像を建立する予定だったそうです。しかしこれには市民団体をはじめとした反対運動が起こることとなり、結局それによって計画は頓挫し、現在の場所に『被爆50周年記念事業碑』として建立されました。

    勿論モニュメントであろうが石票であろうが、場所を知らせることができれば目的は達成するのかも知れません。しかし記念するのと祈念するのとでは意味が全く異なるのではないでしょうか?

    原爆投下という史実。それを後世に伝えることにデザインは全く関係がないと思います。粗末な木札一枚に『原爆投下地点』と書かれていれば、それで想いは伝えられるはずだと思えてなりません。立派なものがいつ何時でも必要だというのは明らかに間違っています。モニュメントはあくまで記念碑であり、慰霊碑にとって代わることなど出来る訳ありませんから…。  閉じる

    投稿日:2017/10/06

  • 浦上天主堂遺壁から階段を降りた右手にあります。爆心地公園が整備される折、広島の平和記念公園同様約2mの『盛り土』がなされ、...  続きを読むその下部にある被爆当時の地層には100余りの人骨や石に付着した溶けたガラスの破片や気泡だらけの瓦の他炭化した木片が出土し、今なおその当時の遺物が多く残っているそうです。

    ガラス張りになった『被爆当時の地層』からは、被爆当時の品々である熱によって熔けたガラスや瓦やレンガなどの瓦礫の姿を見ることができます。

    長崎原爆資料館にもその類のものは展示されてはいるものの、やはり集めておかれたものではなく、被爆当時のままを見られる『被爆当時の地層』はリアルさが全く違うように思います。

    原爆投下時に水を求めて多くの被爆者が向かったとされる『下の川』。そして当時はその川面の高さが地面とそう変わらなかった事実。その証拠に同じ高さの『被爆当時の地層』はなにの説明がなくても訪れた者に70余年前にこの地であった凄惨な出来事を伝えてくれていることに疑う余地はありません。  閉じる

    投稿日:2017/10/06

  • 東洋一の壮大さを誇った浦上天主堂ですが、昭和20(1945)年8月9日午前11時2分の原子爆弾の炸裂によって破壊され、僅か...  続きを読むに壁の一部が残るのみとなりました。その後昭和33(1958)年に再建された際に現地に移設されました。壁上に残る石像はザベリオと使徒であり、天主堂の遺構として非常にわかりやすいものとなっています。しかし原爆の発した膨大なエネルギーを受けた遺構の痛み具合はたいへんおおきなものであり、加えて風雨に晒されることを含めた経年劣化が進むことにより安全性の問題が出てきたために内部及び表面の補強が行われ、現在に至っています。

    補強工事を行うことは、遺構を残す上では必要不可欠なものであることは理解できますが、やはり同じく原爆による被害を被った広島の原爆ドームでは、世界遺産の登録上積極的な修復作業が行われていないことと比較すると、その扱いの違いに戸惑いを覚えることがあります。怒りの広島と祈りの長崎というように、被爆遺構の取り扱いに関する考え方にも違いがあるのかも知れません。

    世界遺産に登録するだけが被爆遺構の保存ではありませんが、バッファーゾーンを設けることにより、景観対策をしている広島に対し、ほとんどのアングルから撮影した写真に『ラブホテル』が写り込んでしまうことは『悲しい現実』として捉えるしかないのでしょうか?  閉じる

    投稿日:2017/10/05

  • 長崎平和公園に黒御影石で作られた石柱がありました。原爆落下中心地、昭和20(1945)年8月9日11:02米軍爆撃機B-2...  続きを読む9ボックスカーによって投下されたプルトニウム型原子爆弾ファットマンが上空約500mの地点で爆発し、付近一帯は一瞬にして壊滅しました。

    同年末までの被爆犠牲者数15万人の命を奪い、戦国時代に始まり鎖国の時代も南蛮貿易で栄えてきた長崎の街が一瞬にして廃墟と化しました。

    確かに地形と投下地点の位置関係で広島とは違って街全体がなくなった訳ではありませんが、広島のウラン型原子爆弾の1.5倍の破壊力があったとされる長崎のプルトニウム型原子爆弾。その破壊力は今なおその爪痕を残す被爆史跡の姿を見ても明らかです。

    元々はこの地には投下地点を示す木標が建立されていたそうですが、昭和43(1968)年に現在の黒御影石を貼り付けたものになりました。被爆50周年記念事業碑として建立された園内にある母子像を中心地碑を撤去して建立するという計画があったそうですが、猛烈な反対運動が行われたために計画は頓挫し、翌年に現在地に母子像は建立されました。

    この計画を立案した際にどの様な考えのもとで発案されたのか、正直言って首を傾げたくなります。15万人もの命を奪った原爆の投下地点をモニュメントで表すこと・・・。それで良いのでしょうか?慰霊と追悼、そして恒久的な核兵器使用に対する警鐘を示すものとして、モニュメントがその役目を本当に果たせるのかどうかは素人目にも明らかです。

    広島の爆心地は『場所』を掲示板によって伝えているに過ぎません。それを長崎ではモニュメント化しなければならない必要性等ある訳はありませんから。  閉じる

    投稿日:2017/10/05

  • 長崎でもっとも訪ねるべき場所

    • 4.0
    • 旅行時期:2017/08(約8年前)
    • 0

    長崎でもっとも訪ねるべき場所です。30年ぶり位に訪れました。外国人観光客も大勢いらしていました。モニュメントの右手は天を指...  続きを読むし原爆を表し、水平の左手は世界平和を表しています。平和の泉には水を求めた少女の句碑があり、心が痛みます。平和が続くことを祈ってやみません。  閉じる

    投稿日:2017/09/04

  • 行くべき

    • 4.0
    • 旅行時期:2017/08(約8年前)
    • 0

    長崎に行ったのなら一度は行くべきスポットだと思います。
    噴水と階段の花きれいで、戦争の恐ろしさを伝える場所というよりは、...  続きを読む平和への願いを伝える場所です。
    外国人の観光客がとても多く、関心が高いことに驚きました。  閉じる

    投稿日:2017/08/29

  • 青銅色の鐘

    • 3.5
    • 旅行時期:2017/07(約8年前)
    • 36

    平和公園のエレベーターがある正面入口から平和祈念像の方へ向かう途中に、この青銅色の鐘がありました。長崎の原爆受難者の冥福を...  続きを読む祈るため、遺族や被爆者の拠出により、原爆投下から33回忌にあたる1977年に建立されたものだそうです。どうやら観光客らが気軽に鳴らすことが出来ないようです。



      閉じる

    投稿日:2017/07/05

  • 穏やかな顔でした

    • 3.0
    • 旅行時期:2017/05(約9年前)
    • 0

    像は思ったより小さかったです。有名で像の形は知っていましたが顔がどんなのか初めて見ました。仏様みたいな柔和な顔でした。天を...  続きを読む仰いでいる手は原爆を地面に平行な手は平和を表しているそうです。原爆資料館や爆心地が近くにあると思っていたら少し離れていました。
      閉じる

    投稿日:2017/06/06

  • 平和公園内記念像

    • 3.5
    • 旅行時期:2017/05(約9年前)
    • 1

    平和公園の中にあります。エスカレーターと噴水を通り広い公園の敷地内に平和祈念像があります。公園内は静かで穏やかな雰囲気です...  続きを読む。天気が良かったので原爆資料館を観た後祈念像近くのベンチでのんびりしましたが、散歩する人や犬の散歩する人も多く和やかな場所です。  閉じる

    投稿日:2017/05/28

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基本情報(地図・住所・アクセス)

施設名
平和公園
住所
  • 長崎県長崎市松山町
電話番号
095-829-1164
アクセス
長崎駅 路面電車 15分 (赤迫行)
松山町下車 徒歩 3分
その他
バリアフリー設備: 障がい者用P○
バリアフリー設備: 車椅子対応EV○
バリアフリー設備: 車椅子対応スロープ○
バリアフリー設備: 車椅子対応トイレ○
バリアフリー設備: 盲導犬の受け入れ○
バリアフリー設備: オストメイト○
バリアフリー設備: オムツ交換台○
【規模】面積:17.9ha
公式ページ
詳細情報
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 公園・植物園

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

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