『高野山奥の院』は、和歌山県北東部の「高野三山」と称される標高が1000メートル以上の「摩尼山(まにさん)」と「楊柳山(よ...
続きを読むうりゆうさん)」、標高が900メートル以上の「転軸山(てんじくさん)」を含む8つの峰々で囲まれた地形が蓮の花が開いたような形状から「八葉の峰」と呼ばれる標高が800メートルから850メートル程度の高地となる山林エリアに広がる山上盆地の和歌山県伊都郡高野町に位置し、「真言宗」の開祖である「空海」上人(諡号:弘法大師)が61歳となった835年(承和2年)に「真言宗密教」の悟りを得るための修行として入定(にゅうじょう)した神聖な「弘法大師御廟」がある場所です。
また「空海」上人が入定してから1200年以上におよぶ現在も「空海」上人が肉身をこの世にとどめ深い禅定に入られていると伝えられている「高野山」における「入定信仰」の中心的な聖地であり「弘法大師御廟」に通じる参道には20万基を超える戦国武将をはじめ各時代の著名人の方のほか有名企業の慰霊碑・供養塔が立ち並んでいます。
ちなみに「高野山」は、平安時代・初期の僧である「空海」上人が804年(延暦23年)に第16次「遣唐使」の留学僧として唐(当時の中国王朝)に渡り、学んだ「密教」の教えを基盤に大成した「真言密教」における修禅の道場を開山するにふさわしいとして朝廷に願い出た場所であり、816年(弘仁7年)に第52代「嵯峨天皇」より賜り、山号を「高野山」と号する現在の「高野山真言宗」の総本山「金剛峯寺(こんごうぶじ)」が開創されています。
そのほか平安時代・中期の「金剛峯寺建立修行縁起」によると「空海」上人が留学先の唐から帰国する直前に”伽藍建立の地を示し給え”と念じて持っていた三鈷(密教の修法で用いる仏具)を投げると現在の「金剛峯寺・壇上伽藍」壇上の地となる場所に落ちたとされ、帰国後に「空海」上人が修禅の道場としてふさわしい場所を探していた際に黒と白の二匹の犬を連れていた猟師(狩場明神)と出会いその犬たちに導かれて険しい山中に入ると古くから山の主とされる丹生都比売大神と出会い「空海」上人に協力することが伝えられ、さらに奥に進むと忽然と幽邃な大地が出現し唐から帰国する直前に投げた三鈷が木に架かっているのを発見したことによりこの地に開山することを決意したされています。
「入定信仰」については、921年(延喜21年)に山号を「八幡山」と号する現在の京都市南区に位置する「東寺真言宗」の総本山「教王護国寺(東寺)」の長者であった「観賢」上人の上奏により第60代「醍醐天皇」から「空海」上人に「弘法大師」の諡号が贈られ、そのことを「観賢」上人が「空海」上人に報告するため「空海」上人が入定してから86年後となる廟窟に入ると髪を伸ばして生きているかのように禅定している「空海」上人の姿があったことが伝えられることにより、「空海」上人が『高野山奥の院』で”生き続け世の中の平和と人々の幸福を願っている”とされる「入定信仰」が生まれています。
『高野山奥の院』の正式な参拝ルートは、「大渡橋(通称:一の橋)」から参道(約2キロメートル)に入り途中の「手水橋(通称:中の橋)」を渡り参道最後の橋となる「御廟橋」から「弘法大師御廟」の霊域とされる撮影禁止エリアとなっています。
今回は、和歌山市在住の方の案内で平日の午後に「高野山」に立ち寄り時間の都合上「中の橋 駐車場」から有名企業の供養塔などがあるエリアを通り途中から参道に合流するルートで参拝しましたが、「中の橋 駐車場」は無料で収容台数も多く道路の向かい側に『高野山奥の院』参道出入口があり自動車を利用して『高野山奥の院』を参拝するのにとても便利です。
『高野山奥の院』参道に連なる樹齢数百年の杉木立の中に歴史上の戦国武将や大名などの慰霊碑・供養塔を見ながら「弘法大師御廟」に向って歩いていると徐々に現代社会から離れて時空を遡っているような不思議な感覚を覚え参拝することで心が洗われたような清々しい気分となりました。
機会があれば、『高野山奥の院』の正式な参拝ルートより時間を気にせずに参道の慰霊碑・供養塔をゆっくり見て廻りながら参拝をしてみたいと思います・・・
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投稿日:2022/06/12