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寛永寺

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寛永寺 クチコミ・アクセス・周辺情報

上野・御徒町 観光 満足度ランキング 14位

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江戸城の鬼門鎮護の目的で寛永二年(1625)天海大僧正により創建されました。徳川歴代将軍の祈祷寺と菩提寺を兼ね、全盛期は上野公園のほとんどが寺域で、30余の堂塔伽藍と36の子院を誇っていました。現本堂は、明治12年(1879)天海僧正ゆかりの埼玉県川越喜多院から本地堂を移築したものです。本尊は薬師如来です。清水観音堂、輪王寺門跡、御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門等重要文化財に指定されています。山号は東叡山。

ピックアップ クチコミ

  • 満足度の高いクチコミ

    寛永寺は36の子院からなり、その総本堂が「根本中堂」でした。

    4.5

    「寛永寺」は天台宗の「別格大本山」のお寺で、正式名称は「東叡山寛永寺」です。ちなみに、「東叡山」は「東の比叡山」の意味で、...  続きを読む平安時代に桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖「伝教大師最澄上人」が開いた「比叡山延暦寺」が、京都御所の鬼門に建立されたことにならったものです。また、「寛永寺」は創建時の元号を使っています。かつては元号を冠するには朝廷の許可が必要でした。延暦7年(788年)創建の「延暦寺」を皮切りに、京都の「仁和寺」や鎌倉の「建仁寺」と「建長寺」など、勅許を得た「元号寺」は数えるほどしか残っていません。それでは、ここで「寛永寺」の歴史と概要を紐解いてみると、寛永2年(1625年)に、江戸城の鬼門(東北)にあたる「上野の山」に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、「徳川家康」、「徳川秀忠」、「徳川家光」の3代にわたる将軍から深く信奉され、幕府の指南役として活躍した「慈眼大師天海大僧正」によって建立されました。その総本堂にあたる「根本中堂」は、元禄11年 (1698年)に現在の上野公園内「大噴水」(竹の台噴水)に建立されました。その後、第4代将軍「川家綱」の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。以後は5代将軍「徳川綱吉」、8代将軍「徳川吉宗」、10代将軍「徳川家治」、11代将軍「徳川家斉」、13代将軍「徳川家定」の豪華な霊廟が、次々と造営されました。幕末、最後の15代将軍「徳川慶喜」は、鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、「寛永寺」で謹慎生活を送りました。江戸城の無血開城までの2カ月間を過ごした「葵の間」には、今でも愛用の品などが残されている。「徳川慶喜」は神道式の葬儀を望んだため、谷中霊園内の寛永寺墓地にある一橋家墓所の隣で永眠しています。そして、東叡山主を皇室(「輪王寺宮」)から迎えたことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。慶応4年年(1868)、「上野戦争」の際に焼失してしまいた。その後、明治12年 (1879年)に「川越喜多院」の本地堂を山内子院の「大慈院」(現在の「寛永寺」)の地に移築し、再建したのが現在の「根本中堂」になります。御本尊は、「伝教大師最澄上人」がみずから彫ったと言われる「薬師瑠璃光如来像」(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしています。また、「東叡山寛永寺」は、かつては、「清水観音堂」、「不忍池辯天堂」、「 五重塔」、「開山堂」、「大仏殿」など36もの子院などを有する大寺院でした。「寛永寺」の境内は「上野公園」の土地を中心に30万5000坪に及び幕府から与えられた寺領は小藩の大名に匹敵する1万5000石を誇りました。 「本堂」内も見学することができます。しかし、秘仏のため「薬師瑠璃光如来像」は拝観することはできませんでしたが、その代わり、堂内には御本尊さんの他に、「日光・月光菩薩像」や「十二神将像や四天王像」など迫力ある仏像が安置され見ごたえ十分でした。パワーをもらったうえに、無料なので得した気分でした。 本堂から出て上を眺めると「瓦」には「寛永寺」の文字が施され、「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。また、門にも「三つ葉葵」が装飾されていました。上野公園から少し歩きますが、途中にも歴史的建造物やモニュメントもありますので、必見の場所です。「根本中堂」の見どころ等の情報は下に箇条書きにしてありますので、合わせてご覧ください。 01_【「寛永寺」の一口メモ】 ⑴ 所在地 〒110-0007 東京都台東区上野公園14  ⑵ 問い合わせ 寛永寺 電話:03-3821-1259 ⑶ 開門時間 9:00〜17:00 ⑷ 本堂の拝観時間 10:00〜16:00 02_【「寛永寺」へのアクセス】 ⑴ 電車を利用した場合 ① JR「上野駅」公園口から徒歩13分1km ② 京成電鉄「京成上野駅」池の端出口から徒歩18分1.4km ③ 東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」から徒歩18分1.4km ④ JR「鶯谷駅」北口から徒歩8分650m ⑵ 台東区循環バス「東西めぐりん」を利用した場合 ① [台東区役所] ⇒[永寿総合病院行]≪東西めぐりん≫「寛永寺バス停」下車から徒歩すぐ 03_【「寛永寺根本中堂」の見どころ】 ⑴ 「本堂」(根本中堂) 天台宗の寺院では、比叡山にならって「本堂」を「根本中堂」と呼ぶことがあります。「寛永寺」の「根本中堂」は、以前は上野公園の噴水広場にありましたが、幕末の上野戦争で焼失し、明治時代に現在の場所に再建されました。そして、国の登録有形文化財に指定されている「本堂」(根本中堂)には、国指定重要文化財の「薬師瑠璃光如来像」が安置されており、「寛永寺」の秘仏となっています。「本堂」(根本中堂)の「木鼻」には、「獏」と「獅子」そして「蟇股」には「鶴」が彫刻されていました。また、「瓦」には「寛永寺」の文字が刻まれていました。「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。それもそのはず、「寛永寺」は徳川家の菩提寺なので、徳川家の「家紋」を「寺紋」として使っているからです。 ⑵ 「鐘楼」 「鐘楼」は天和元年(1681年)に建立され、「高さ」が177.2cm、鐘の「口径」は91.8cmの「銅鐘」です。この「鐘楼」は歴史があり、徳川幕府4代将軍「徳川家綱」の1周忌に奉献されたものだそうです。この「鐘」は、もともと「徳川家霊廟」の「鐘楼」に吊るされていましたが、明治時代に「寛永寺根本中堂」に移設されました。そして、「「寛永寺」の除夜の鐘は、境内にある「鐘楼」と、旧境内である上野公園内に残る「時鐘堂」の両方で撞かれます。ちなみに、上野公園にある「上野大仏」の近くある「時鐘堂」は、大晦日以外もいまでも毎日3回時を告げている時の鐘です。 ⑶ 「了翁禅師堂」 「寛永寺根本中堂」の境内には「了翁禅師堂」という「お堂」があります。「了翁禅師」は、江戸時代前期の僧侶で秋田県出身です。貧しい農家に生まれ、11歳の若さで出家し、修行をしながらたくさんの書物を集めていたそうです。そして、諸国を巡るうちに霊薬の処方を夢に見たことから、不忍池付近の薬屋で「錦袋円(きんたいえん)」と命名した薬を売ります。その利益で「了翁禅師」は、難民救済や「不忍池」に経堂を建てて文庫を創設し、さらには「寛永寺」の境内に「勧学寮」と「文庫」を建立しました。何とこれが日本で最初に一般公開された「図書館」と言われています。 ⑷ 二つの大きな「鬼瓦」 「寛永寺根本中堂」の境内には、大きな「鬼瓦」が二つありました。どうやらこの「鬼瓦」は、もともと「寛永寺」の「旧本坊表門」と「根本中堂」の鬼瓦据えられていたものらしいです。特に、向かって右側にある「鬼瓦」は、現在「黒門」と通称される国の指定重要文化財である「寛永寺旧本坊表門」に据えられていたものです。「旧本坊表門」は、寛永元年(1624年)に「天海大僧正」により建てられたもので、歴代の「輪王寺宮」が住んだ場所の門として知られていました。昭和12年(1937年)に、現在の「東京国立博物館」の地から「両大師堂」の隣に移築されています。 ① 「旧本坊表門」の「鬼瓦」 ② 「根本中堂」の鬼瓦 ⑸ 「銅燈籠」 大きな「銅燈籠」が2基ありますが、残念ながら。記銘が見当たりません。元はどこにあったのか所在は不明です。 ⑹ 「石燈籠」 大きな「銅燈籠」ばかりでなく、「社務所」の前には大きな「石燈籠」が1基のみあります。この「石燈籠」は南部重直盛岡藩主が奉献したものです。「石燈籠」には、「奉献石燈籠両基 武州東叡山 大猷院殿尊前 慶安四年辛卯歳十二月廿日 従五位下南部山城守源重直」と刻まれていました。 ⑺ 「水盤」 「水盤」は元禄11年銘がきされています。コケが薄らと外側を覆い歴史を感じます。 ⑻ 「慈海僧正墓」(都旧跡) 「慈海僧正墓」は「寛永寺根本中堂」に向かって右側にあります。「了翁禅師堂」に比べると、「学頭」の割には小さく、質素なものです。「慈海僧正」は、「寛永寺一山」を統括する「東叡山凌雲院」の4代目の学頭でした。「慈海僧正」は、「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻などの著作があります。聖観世音菩薩像である墓石は、当初「凌雲院」境内墓地にありましたが、東京文化会館の建設のため「寛永寺」に移築されました。 ⑼「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟」 「慈海僧正墓」の隣には、「墓」と「尾形乾山」を讃える「顕彰碑の写し」があります。「尾形乾山」は江戸時代を代表する画家であった「尾形光琳」の弟で、絵師や陶芸家として活躍した人物です。入谷に開いた入谷窯の作品は「入谷乾山」として高く評価されています。光琳を敬慕する江戸時代後期の絵師の「酒井抱一」の手によって探り当てられ、この「乾山深省蹟」顕彰碑が建てられたといわれています。 ⑽ 「上野戦争碑記」 ひときわ大きく、誰の眼にもとまるのが「上野戦争碑記」です。幕末の明治維新のとき、現在の上野公園の一帯では、幕臣たちが結成した「彰義隊」と「明治政府軍」との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる「阿部弘蔵」が、「上野戦争」の経緯を記したものです。寛永寺はこの上野戦争で被災し、明治時代初期に敷地の大部分は上野公園となりました。 ⑾ 「虫塚」 「虫塚」は、伊勢長島藩主であった増山雪斎が写生に使った昆虫の慰霊のために建てた碑です。「増山雪斎」は、江戸の文人「大田南畝」や大坂の豪商「木村兼葭堂」など広く文人墨客と交流を持ち、写実的な画法で多くの花鳥画を描きました。中でも虫類写生図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」は、指定有形文化財として指定されています。その昆虫も碑を建ててもらえるとは幸せですよね。   閉じる

クチコミ・評判 11ページ目

201~220件(全323件中)

  • 上野の有名な寛永寺

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/05(約10年前)
    • 0

    上野の有名な寛永寺、東京都台東区上野桜木一丁目にある天台宗関東総本山の寺院であり、かの徳川将軍家の祈祷所・菩提寺でもあり、...  続きを読む徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っているそうです。開基(創立者)は 徳川家光だそうです。幕末の最後の江戸の戦いはここでした。  閉じる

    投稿日:2016/06/12

  • 大きい!

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/05(約10年前)
    • 0

    旧本坊表門にあった 鬼瓦。まずこの旧本坊表門というのがここから結構な距離があります、当時の寛永寺の敷地の広さを感じます。
    ...  続きを読む移築 修繕を経て こちらに在る鬼瓦は 実に大きく 迫力があります。ほんまに鬼瓦です。この大きなからも当時の門の大きさが想像できます。  閉じる

    投稿日:2016/06/05

  • 良い話が聞けました。

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/05(約10年前)
    • 0

    上野公園方面から行きましたが、奥まった所にあり少し分かり難かった。ちょうどお経をあげているところでした。お経の後このお寺に...  続きを読むゆかりのある 徳川家のお話が色々となされました。歴史が大嫌いだったので、全てが初めて聞く事のようで興味深かった。住職の言葉もざっくばらんで分かりやすい。
    特別参拝というものがあるようで、参加者はこの後本殿内の見学等もできる。機会があれば参加したいものですね。  閉じる

    投稿日:2016/06/05

  • 徳川家が祀られている寛永寺をみに行ってきました。上野公園一帯が寛永寺の跡ということですが、上野公園の北側一帯に、関連するお...  続きを読む寺が点在していました。観光地ではないからと言われればその通りですが、見て回るにはとてもわかりづらかったです。入口がどこかと探し回ったところ、線路近くの寛永寺開山堂両大師の門があり、ここの本堂を拝観しました。  閉じる

    投稿日:2016/05/04

  • 気づかれずに通り過ぎてしまいそうな重文

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/05(約10年前)
    • 0

    寛永寺の敷地の一画、JRの線路に一番近いところに、重要文化財のこの表門がありました。寛永寺を拝観して、上野駅に向かって歩い...  続きを読むていたところ、塀の向こう側に隠れるようにある大きな古い門があり、それがこの門でした。2mほどの塀の隙間から見えました。  閉じる

    投稿日:2016/05/04

  • 建築観覧

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 0

    上野公園の西郷さんの銅像を過ぎてスグにあるお寺です。朱塗りが目立つ建築物なので外国人観光客の観覧者が多い感じですね。徳川家...  続きを読む光の葬儀以降、その庇護を受けて繁栄したお寺のようで、その造りはなかなか立派です。桜とよく合っていました。  閉じる

    投稿日:2016/05/16

  • 上野桜木

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/04(約10年前)
    • 0

    どこの駅からも若干距離があり
    また上野や谷根千の観光地から向かうと
    少し奥まった所にある印象のため
    参拝客が多くなく...  続きを読む、大きなお寺にしてはかなり静かに感じます。

    以前は上野恩賜公園や谷中墓地も、
    周辺一帯は全て寛永寺の寺域だったそうで
    現在の寛永寺にも上野の街中にも
    その名残を見る事が出来ます。

    何度か行っていますが、先日四月の初旬に行ったら
    桜がとても綺麗でした。
    ちなみに寛永寺がある街の町名は「上野桜木」です。  閉じる

    投稿日:2016/04/14

  • 江戸時代は、今の上野公園一帯(約36万坪))が寛永寺の境内で、数多くの伽藍と塔頭があったようだ。上野戦争(1868年)でそ...  続きを読むの多くが消失し、現在は移築再建されたような形で寛永寺の建物が点在しているため、正直地図を片手に広い敷地内を歩き回らなければいけないのが寛永寺の特徴だ。一区画の境内に収まる伽藍構造とはイメージが違う。私も最初はどれが寛永寺?って思ったが、全てを総称して寛永寺なのだ。寛永寺の公式HPをみても分かりにくいが、地図をみるとイメージが湧きます→ http://www.kaneiji.jp/stroll/

    寛永寺(天台宗)は、寛永二年(1625年)に、徳川の命をうけ天海僧正が開山。東の比叡山として東叡山が山号になっている。徳川家は江戸城の鬼門に寛永寺(天台宗)を、裏鬼門に増上寺(浄土宗)を意図して配置したようです。両寺は徳川家の菩提寺でもあり、当時の2大勢力ということになる。

    そんな寛永寺一帯は、四季折々の美しさを楽しめるし、敷地内には上野動物園や美術館や博物館もあるため、寺巡りばかりでなく過ごせる。ただ、神社仏閣巡りや御朱印集めが趣味な方には、寛永寺の以外にも上野東照宮(超オススメ!)や五條天神社、花園稲荷などもあり、この一帯で御朱印が10個近くも集まるので、それもまた楽しい(*^^*)
      閉じる

    投稿日:2016/10/26

  • 鉄砲の弾痕が残っています

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/02(約10年前)
    • 0

    国立科学博物館と道路を挟んだ所に建つ大きな黒い門です。
    かつて寛永寺の本坊は、今の東京国立博物館がある場所にあったそうで...  続きを読むすが、慶応4年にこの界隈を舞台に繰り広げられた戊辰戦争により焼失してしまい、焼け残った表門だけがここに移築されているそうです。
    門には鉄砲の弾痕が残っています。   閉じる

    投稿日:2016/02/14

  • 学徳をもって知られ大僧正の墓石 とのことです

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

     寛永寺根本中堂に向かって右手のいろいろの墓碑などの中に、この 慈海僧正墓 があるのに気が付いた。
     横に立ててある説明...  続きを読む板を見ると
     慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山凌雲院の住職をされた方です。
     凌雲院の住職は、寛永寺の山号である東叡山一山を統轄、代表する学頭に就任することが慣例になっていた。
     この学頭は、門主・輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者であり、宮や一山の学問上の師でもあった。
     とのことで、実質 最も偉い方 と言えるのでは と思った。
     70歳で没した後、大僧正の位が贈られ、墓は凌雲院内にあったが、昭和33年東京文化会館建設のため、ここ寛永寺に移った。
     とのことです。
     寛永寺訪問の際は他の墓碑などとともに、ご覧になったら如何でしょう。  閉じる

    投稿日:2016/02/20

  • 鬼面と三つ葉葵紋が付いた大きな鬼瓦です

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

     寛永寺旧本坊表門は、現在輪王寺 (両大師) 境内に移築されています。
     平成22年からの解体修理の際、東側にあった 「...  続きを読む阿」 形は耐用年数を過ぎていたため作り替えられ、ここに展示されています。
     高さ 113cm、横幅 118cm とのことです。
     一方、当時の寛永寺根本中堂は今はなく、三つ葉葵紋付きのこの大きな鬼瓦なのに、ここに展示されるまで、良く保存されていたものだ と感心します。
     高さ 248cm、横幅 325cm とのことです。
     展示されている場所は、根本中堂に向かって右手で、他に墓碑などがいろいろあるところです。
     寛永寺訪問の際、ご覧になったら如何でしょう  閉じる

    投稿日:2016/02/20

  • 顕彰碑と座像があります

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

     上野恩賜公園内を探索の際寛永寺に立ち寄ったところ、根本中堂に向かって右手に塔碑などがいろいろあるのに気付いた。
     説明...  続きを読む板などによると
     了翁禅師は、江戸時代前期の黄檗宗の僧です。
     諸国を巡るうち、霊薬の処方を夢に見て (他の説もあり)、「錦袋円」 と命名し薬屋を営み、短い間に大儲けした。
     その利益で難民を救済したり、寛永寺境内に勧学寮 (学問所) と大蔵経を所蔵する経蔵を建てたりした。
     この碑は、了翁禅師の業績を刻んだ顕彰碑で、坐像とともに生前に作られた。
     とのことです。
     寛永寺訪問の際は他の墓碑などとともに、ご覧になったら如何でしょう。  閉じる

    投稿日:2016/02/20

  • 寛永寺境内にある墓碑などの一つです

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

     上野恩賜公園内を探索の際寛永寺に立ち寄ったところ、根本中堂に向かって右手に墓碑などがいろいろあるのに気付いた。
     その...  続きを読む中の一つがこの墓碑と蹟で、脇に立ててある説明板を見ているうちに興味が湧いてきた。
     この説明板などによると
     尾形乾山は、著名な画家の兄・光琳とともに琳派を発展させ、深省など多くの別号を有した。
     特に作陶は有名で、これらの他にも書や茶を好んだ。
     乾山は81歳で没し、善養寺に葬られた。
     現在、墓碑と顕彰碑の 「乾山深省蹟」 は、明治時代上野駅拡張のため西巣鴨に移転した善養寺内にあり、東京都指定旧跡になっている。
     ところで、ここ寛永寺境内にこの墓碑と顕彰碑の二つがあるのは、移転の際一時境内にあったことを惜しむ有志により、昭和7年に復元建立された。
     とこのとです。
     寛永寺訪問の際は他の墓碑などとともに、ご覧になったら如何でしょう。  閉じる

    投稿日:2016/02/20

  • 今は静かなところとなっています

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

     いろいろ見聞きすると、最盛期の寛永寺の広さは、今の上野恩賜公園の倍位で、竹の台噴水のところに根本中堂 (本堂) があった...  続きを読む とのことです。
     今も五重塔や清水観音堂などは残っているが、根本中堂のところには、説明板が立ててあるだけです。
     現在の寛永寺は、上野恩賜公園の北端と言って良いところに、非常に狭いが復興されています。
     今は訪ねる人も少なく、静かなところとなってはいるが、境内などには、当時を偲ばせる碑や墓などが多々あります。
     上野恩賜公園に行かれた折は、足を伸ばし此方も訪ねられたら如何でしょう。  閉じる

    投稿日:2016/02/18

  • 今は輪王寺 (両大師) 境内に移築されています

    • 4.5
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

     かつての寛永寺本坊表門は、今は輪王寺 (両大師) 境内に移築されています。
     当初は、現在の東京国立博物館のところに寛...  続きを読む永寺本坊があり、その表門として今の正門のところに建っていた とのことです。
     現在、保存修理後間がないので、真っ黒な立派な建物です。
     黒門とも言われ、国指定の重要文化財だけのことはある と思います。
     なお、輪王寺 (両大師) の前 (南西側) の道路近くに建っているので、道路からも見ることが出来ます。  閉じる

    投稿日:2016/02/16

  • 寛永寺境内にあります

    • 3.5
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

    鶯谷駅から徒歩5分の寛永寺にあります。本堂向って右手にあります。了翁禅師(1630~1707)は江戸時代前期の黄檗宗の僧で...  続きを読むす。幼い頃から仏門に入り、後に隠元禅師に師事します。諸国を巡るうち霊薬の処分を夢に見て「錦袋円」と命名し、不忍池付近に薬屋を俗甥に営ませます。その利益で難民救済や寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行いました。  閉じる

    投稿日:2016/02/04

  • 墓は善養寺にあります

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

    江戸時代の著名な画家・尾形光琳の弟で、絵画、陶芸、お茶、書道に精通していた乾山の墓碑および深省蹟が、かつて寛永寺内にあった...  続きを読むことを記憶にとどめるために、寛永寺に造られています。かつてあった深省蹟と墓は、現在西巣鴨にある善養寺に移転しています。  閉じる

    投稿日:2016/02/01

  • 寛永寺境内に建っています

    • 3.5
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

    墓石中央には聖観世音菩薩像が彫られています。その隣にある説明板によると、慈海僧正は目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜...  続きを読む多院を経て、東叡山凌雲院の学頭に就任した方だそうです。学頭は寛永寺全体を統轄し、代表する人物であるとともに、学問上の師となる人物がなったそうです。  閉じる

    投稿日:2016/02/01

  • 大きな鬼瓦です

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

    寛永寺根本中堂に向かって右側に、二つの大きな鬼瓦が並んで展示されています。右側の鬼瓦は、現在輪王殿入口に建つ寛永寺旧本坊表...  続きを読む門に据られていたもので、左側のものは、寛永寺根本中堂の屋根にあったものだそうです。左側の鬼瓦の方が大きいですが、右側の鬼瓦の方が古いものだそうです。  閉じる

    投稿日:2016/02/01

  • かつての寛永寺本坊表門です

    • 4.0
    • 旅行時期:2016/01(約10年前)
    • 0

    江戸時代に造られ、現在まで残っている寛永寺本坊の表門です。かつて本坊は今の東京国立博物館内にありました。しかし上野戦争で本...  続きを読む坊は焼失、表門のみが残りました。現在は国の重要文化財として寛永寺輪王殿入口にしっかりと構えています。  閉じる

    投稿日:2016/02/01

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基本情報(地図・住所・アクセス)

施設名
寛永寺
住所
  • 東京都台東区上野桜木1丁目14-11
電話番号
03-3821-4440
アクセス
鴬谷駅から徒歩で10分
その他
創建年代: 1624年~1644年
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 寺・神社・教会

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

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