1. ホーム
  2. 国内旅行
  3. 関東地方
  4. 東京
  5. 上野・御徒町
  6. 上野・御徒町 観光
  7. 寛永寺
上野・御徒町×
旅行ガイド
観光
グルメ
ショッピング
交通
ホテル
旅行記
Q&A

寛永寺

寺・神社・教会

寛永寺 クチコミ・アクセス・周辺情報

上野・御徒町 観光 満足度ランキング 15位

クリップを編集する

ラベルを選ぶ

  • ラベルはまだありません

公開設定

江戸城の鬼門鎮護の目的で寛永二年(1625)天海大僧正により創建されました。徳川歴代将軍の祈祷寺と菩提寺を兼ね、全盛期は上野公園のほとんどが寺域で、30余の堂塔伽藍と36の子院を誇っていました。現本堂は、明治12年(1879)天海僧正ゆかりの埼玉県川越喜多院から本地堂を移築したものです。本尊は薬師如来です。清水観音堂、輪王寺門跡、御本坊表門、徳川将軍霊廟勅額門等重要文化財に指定されています。山号は東叡山。

ピックアップ クチコミ

  • 満足度の高いクチコミ

    寛永寺は36の子院からなり、その総本堂が「根本中堂」でした。

    4.5

    「寛永寺」は天台宗の「別格大本山」のお寺で、正式名称は「東叡山寛永寺」です。ちなみに、「東叡山」は「東の比叡山」の意味で、...  続きを読む平安時代に桓武天皇の帰依を受けた天台宗の宗祖「伝教大師最澄上人」が開いた「比叡山延暦寺」が、京都御所の鬼門に建立されたことにならったものです。また、「寛永寺」は創建時の元号を使っています。かつては元号を冠するには朝廷の許可が必要でした。延暦7年(788年)創建の「延暦寺」を皮切りに、京都の「仁和寺」や鎌倉の「建仁寺」と「建長寺」など、勅許を得た「元号寺」は数えるほどしか残っていません。それでは、ここで「寛永寺」の歴史と概要を紐解いてみると、寛永2年(1625年)に、江戸城の鬼門(東北)にあたる「上野の山」に徳川幕府の安泰と万民の平安を祈願するため、「徳川家康」、「徳川秀忠」、「徳川家光」の3代にわたる将軍から深く信奉され、幕府の指南役として活躍した「慈眼大師天海大僧正」によって建立されました。その総本堂にあたる「根本中堂」は、元禄11年 (1698年)に現在の上野公園内「大噴水」(竹の台噴水)に建立されました。その後、第4代将軍「川家綱」の霊廟が造営され、将軍家の菩提寺も兼ねるようになりました。以後は5代将軍「徳川綱吉」、8代将軍「徳川吉宗」、10代将軍「徳川家治」、11代将軍「徳川家斉」、13代将軍「徳川家定」の豪華な霊廟が、次々と造営されました。幕末、最後の15代将軍「徳川慶喜」は、鳥羽・伏見の戦いで敗れた後、「寛永寺」で謹慎生活を送りました。江戸城の無血開城までの2カ月間を過ごした「葵の間」には、今でも愛用の品などが残されている。「徳川慶喜」は神道式の葬儀を望んだため、谷中霊園内の寛永寺墓地にある一橋家墓所の隣で永眠しています。そして、東叡山主を皇室(「輪王寺宮」)から迎えたことで、江戸時代には格式と規模において我が国随一の大寺院となりました。慶応4年年(1868)、「上野戦争」の際に焼失してしまいた。その後、明治12年 (1879年)に「川越喜多院」の本地堂を山内子院の「大慈院」(現在の「寛永寺」)の地に移築し、再建したのが現在の「根本中堂」になります。御本尊は、「伝教大師最澄上人」がみずから彫ったと言われる「薬師瑠璃光如来像」(国指定重要文化財)を秘仏としてお祀りしています。また、「東叡山寛永寺」は、かつては、「清水観音堂」、「不忍池辯天堂」、「 五重塔」、「開山堂」、「大仏殿」など36もの子院などを有する大寺院でした。「寛永寺」の境内は「上野公園」の土地を中心に30万5000坪に及び幕府から与えられた寺領は小藩の大名に匹敵する1万5000石を誇りました。 「本堂」内も見学することができます。しかし、秘仏のため「薬師瑠璃光如来像」は拝観することはできませんでしたが、その代わり、堂内には御本尊さんの他に、「日光・月光菩薩像」や「十二神将像や四天王像」など迫力ある仏像が安置され見ごたえ十分でした。パワーをもらったうえに、無料なので得した気分でした。 本堂から出て上を眺めると「瓦」には「寛永寺」の文字が施され、「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。また、門にも「三つ葉葵」が装飾されていました。上野公園から少し歩きますが、途中にも歴史的建造物やモニュメントもありますので、必見の場所です。「根本中堂」の見どころ等の情報は下に箇条書きにしてありますので、合わせてご覧ください。 01_【「寛永寺」の一口メモ】 ⑴ 所在地 〒110-0007 東京都台東区上野公園14  ⑵ 問い合わせ 寛永寺 電話:03-3821-1259 ⑶ 開門時間 9:00〜17:00 ⑷ 本堂の拝観時間 10:00〜16:00 02_【「寛永寺」へのアクセス】 ⑴ 電車を利用した場合 ① JR「上野駅」公園口から徒歩13分1km ② 京成電鉄「京成上野駅」池の端出口から徒歩18分1.4km ③ 東京メトロ銀座線・日比谷線「上野駅」から徒歩18分1.4km ④ JR「鶯谷駅」北口から徒歩8分650m ⑵ 台東区循環バス「東西めぐりん」を利用した場合 ① [台東区役所] ⇒[永寿総合病院行]≪東西めぐりん≫「寛永寺バス停」下車から徒歩すぐ 03_【「寛永寺根本中堂」の見どころ】 ⑴ 「本堂」(根本中堂) 天台宗の寺院では、比叡山にならって「本堂」を「根本中堂」と呼ぶことがあります。「寛永寺」の「根本中堂」は、以前は上野公園の噴水広場にありましたが、幕末の上野戦争で焼失し、明治時代に現在の場所に再建されました。そして、国の登録有形文化財に指定されている「本堂」(根本中堂)には、国指定重要文化財の「薬師瑠璃光如来像」が安置されており、「寛永寺」の秘仏となっています。「本堂」(根本中堂)の「木鼻」には、「獏」と「獅子」そして「蟇股」には「鶴」が彫刻されていました。また、「瓦」には「寛永寺」の文字が刻まれていました。「棟」には金色の「三つ葉葵」が装飾されていました。それもそのはず、「寛永寺」は徳川家の菩提寺なので、徳川家の「家紋」を「寺紋」として使っているからです。 ⑵ 「鐘楼」 「鐘楼」は天和元年(1681年)に建立され、「高さ」が177.2cm、鐘の「口径」は91.8cmの「銅鐘」です。この「鐘楼」は歴史があり、徳川幕府4代将軍「徳川家綱」の1周忌に奉献されたものだそうです。この「鐘」は、もともと「徳川家霊廟」の「鐘楼」に吊るされていましたが、明治時代に「寛永寺根本中堂」に移設されました。そして、「「寛永寺」の除夜の鐘は、境内にある「鐘楼」と、旧境内である上野公園内に残る「時鐘堂」の両方で撞かれます。ちなみに、上野公園にある「上野大仏」の近くある「時鐘堂」は、大晦日以外もいまでも毎日3回時を告げている時の鐘です。 ⑶ 「了翁禅師堂」 「寛永寺根本中堂」の境内には「了翁禅師堂」という「お堂」があります。「了翁禅師」は、江戸時代前期の僧侶で秋田県出身です。貧しい農家に生まれ、11歳の若さで出家し、修行をしながらたくさんの書物を集めていたそうです。そして、諸国を巡るうちに霊薬の処方を夢に見たことから、不忍池付近の薬屋で「錦袋円(きんたいえん)」と命名した薬を売ります。その利益で「了翁禅師」は、難民救済や「不忍池」に経堂を建てて文庫を創設し、さらには「寛永寺」の境内に「勧学寮」と「文庫」を建立しました。何とこれが日本で最初に一般公開された「図書館」と言われています。 ⑷ 二つの大きな「鬼瓦」 「寛永寺根本中堂」の境内には、大きな「鬼瓦」が二つありました。どうやらこの「鬼瓦」は、もともと「寛永寺」の「旧本坊表門」と「根本中堂」の鬼瓦据えられていたものらしいです。特に、向かって右側にある「鬼瓦」は、現在「黒門」と通称される国の指定重要文化財である「寛永寺旧本坊表門」に据えられていたものです。「旧本坊表門」は、寛永元年(1624年)に「天海大僧正」により建てられたもので、歴代の「輪王寺宮」が住んだ場所の門として知られていました。昭和12年(1937年)に、現在の「東京国立博物館」の地から「両大師堂」の隣に移築されています。 ① 「旧本坊表門」の「鬼瓦」 ② 「根本中堂」の鬼瓦 ⑸ 「銅燈籠」 大きな「銅燈籠」が2基ありますが、残念ながら。記銘が見当たりません。元はどこにあったのか所在は不明です。 ⑹ 「石燈籠」 大きな「銅燈籠」ばかりでなく、「社務所」の前には大きな「石燈籠」が1基のみあります。この「石燈籠」は南部重直盛岡藩主が奉献したものです。「石燈籠」には、「奉献石燈籠両基 武州東叡山 大猷院殿尊前 慶安四年辛卯歳十二月廿日 従五位下南部山城守源重直」と刻まれていました。 ⑺ 「水盤」 「水盤」は元禄11年銘がきされています。コケが薄らと外側を覆い歴史を感じます。 ⑻ 「慈海僧正墓」(都旧跡) 「慈海僧正墓」は「寛永寺根本中堂」に向かって右側にあります。「了翁禅師堂」に比べると、「学頭」の割には小さく、質素なものです。「慈海僧正」は、「寛永寺一山」を統括する「東叡山凌雲院」の4代目の学頭でした。「慈海僧正」は、「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」三十巻などの著作があります。聖観世音菩薩像である墓石は、当初「凌雲院」境内墓地にありましたが、東京文化会館の建設のため「寛永寺」に移築されました。 ⑼「尾形乾山墓碑・乾山深省蹟」 「慈海僧正墓」の隣には、「墓」と「尾形乾山」を讃える「顕彰碑の写し」があります。「尾形乾山」は江戸時代を代表する画家であった「尾形光琳」の弟で、絵師や陶芸家として活躍した人物です。入谷に開いた入谷窯の作品は「入谷乾山」として高く評価されています。光琳を敬慕する江戸時代後期の絵師の「酒井抱一」の手によって探り当てられ、この「乾山深省蹟」顕彰碑が建てられたといわれています。 ⑽ 「上野戦争碑記」 ひときわ大きく、誰の眼にもとまるのが「上野戦争碑記」です。幕末の明治維新のとき、現在の上野公園の一帯では、幕臣たちが結成した「彰義隊」と「明治政府軍」との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる「阿部弘蔵」が、「上野戦争」の経緯を記したものです。寛永寺はこの上野戦争で被災し、明治時代初期に敷地の大部分は上野公園となりました。 ⑾ 「虫塚」 「虫塚」は、伊勢長島藩主であった増山雪斎が写生に使った昆虫の慰霊のために建てた碑です。「増山雪斎」は、江戸の文人「大田南畝」や大坂の豪商「木村兼葭堂」など広く文人墨客と交流を持ち、写実的な画法で多くの花鳥画を描きました。中でも虫類写生図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」は、指定有形文化財として指定されています。その昆虫も碑を建ててもらえるとは幸せですよね。   閉じる

クチコミ・評判 10ページ目

181~200件(全323件中)

  • 古そうだけど復元なんだ

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/12(約9年前)
    • 0

    寛永寺の片隅にある尾形乾山墓碑と乾山深省蹟。興味がないと見逃してしまいそう。解説版によると墓碑と蹟は古そうに見えるけど、昭...  続きを読む和7年に復元されたもの。もともとの墓碑などは巣鴨の善養寺に移動されたんですね。寛永寺のこの墓碑は復元されたものかもしれないけど、良い感じに苔むしてます。  閉じる

    投稿日:2018/12/30

  • 貴重な鬼瓦をマジかで見れる

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/12(約9年前)
    • 0

    寛永寺旧本坊表門の東側屋根にあった「阿」形が耐用年数が過ぎたために、境内のすみで展示されています。目線の高さに鬼瓦を置いて...  続きを読むいるので、貴重な鬼瓦をまじかで見ることができます。鬼瓦のとなりには、葵の御紋をかたどった超巨大な鬼瓦がおいてある。これの用途がイマイチわからなかった。  閉じる

    投稿日:2018/12/30

  • ちょっと寂しい感じ

    • 3.5
    • 旅行時期:2016/12(約9年前)
    • 0

    幕末史めぐりで訪問しました。寛永寺と言えば徳川慶喜が謹慎していた場所で有名ですが、現在の寛永寺は参道などなく、上野公園とも...  続きを読む離れているので、寛永寺そのもの目当てでなければあんまり来ないかも。なので、参拝者もほとんどいなくて境内はガラーン、寂しい感じのお寺になっていました。

    その反面、通の人が来やすい場所でもあるのかな?  閉じる

    投稿日:2018/12/30

  • 非常に敬われているようです。

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/11(約9年前)
    • 0

    寛永寺にある石碑で、了翁は僧門に入り、諸国を巡錫している途中に夢の中で一種の筆法を修得し、これを錦袋円と名付け、上野不忍池...  続きを読むの池畔に店舗を営みましたが、そこで得た私財を江戸大火の際に罹災民の救済に投じたという大変徳の高い方のようです。
    屋根までつけらていることから、大変敬われていることがわかり、ありがたい石碑です。  閉じる

    投稿日:2017/07/24

  • 入谷乾山

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/11(約9年前)
    • 0

    尾形乾山とは、琳派の創始者として著名な画家の尾形光琳の弟にあたります。
    京都で生まれ、画業のほかにも書ら茶などにも精通し...  続きを読むており、特に作陶は有名で入谷乾山と呼ばれるほどです。
    この寛永寺にあるのはお墓か墓碑のみなのかよくわかりませんが、歴史がありそうな碑です。  閉じる

    投稿日:2017/07/24

  • 寛永寺の境内のお墓

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/11(約9年前)
    • 0

    慈海僧正とは寛永寺の門主で、輪王寺宮の名代を勤める東叡山凌雲院の学頭の4代目になります。
    このお墓は、最初は凌雲院境内墓...  続きを読む地にありましたが、昭和33年にこの寛永寺に移築されたものです。
    寛永寺の片隅にひっそりとあるのが印象的です。  閉じる

    投稿日:2017/07/24

  • 大きな鬼瓦

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/11(約9年前)
    • 0

    寛永寺に置いてあるこの鬼瓦は、黒門の名で親しまれている寛永寺旧本坊表門に据えられていたものになります。
    とにかく大きな鬼...  続きを読む瓦なので、見ていて、圧巻です。
    寛永寺の境内にはこのような遺物がたくさん展示されていて、野外博物館のようです。  閉じる

    投稿日:2017/07/24

  • 風格がある門

    • 3.5
    • 旅行時期:2016/11(約9年前)
    • 0

    大きな門で正面から入れず、裏から入りました。屋根が大きいので急勾配の角度がかっこよく一番最初に目に留まりました。門から先は...  続きを読む駐車場になっているので門のみの景観は良いですが、その先はあまり風情がありませんでした。  閉じる

    投稿日:2016/11/22

  • 立派な寺

    • 3.0
    • 旅行時期:2016/11(約9年前)
    • 0

    上野公園の美術館や博物館を通りすぎたらありました。大きな墓地もあります。徳川家にゆかりがあるだけはあり、全盛期には敷地も...  続きを読む今よりも巨大で権力もあったようです。ご本尊にお祈りし、御朱印もいただけました。寺の裏の墓地の近くには篤姫ゆかりの史跡もありました。
      閉じる

    投稿日:2016/11/17

  • 離れて点在

    • 3.5
    • 旅行時期:2016/11(約9年前)
    • 0

    根本中堂、旧本坊表門等かなり離れて点在していて、今回は江戸時代寛永年間建立の清水観音堂に行きました。赤い建物が目を引き、多...  続きを読むくの外国人がいました。テラスのような場所の前にある、月の松は盆栽を大きくしたような感じで見事でした。  閉じる

    投稿日:2016/11/15

  • 寛永寺の南西側に、寛永寺坂及び寛永寺陸橋があります。鶯谷駅に通じています。
    上野の山の一帯は、元来、寛永寺の境内でした。...  続きを読む
    そのため、鶯谷から上野の山に登る際の坂を寛永寺坂と呼んでいました。
    現在は、JR鶯谷駅から言問い通りとして登っている部分に、寛永寺坂という名称が残っています。
    また、京浜東北線等の鉄道が敷かれた際にできた陸橋にも、寛永寺陸橋との名称がつけられています。
    京成電鉄の駅が設置された折にも、寛永寺坂駅と名づけられました。
    現在の寛永寺坂は、寛永寺陸橋を渡ると、急な昇り坂になっています。
    寛永寺の付近までは、寛永寺坂としての急な坂が続いています。
    寛永寺の威光が多くの場面に行き届いていて、寛永寺坂とともに、寛永寺の名前がそこかしこに残っています。
    寛永寺坂の名称に、歴史の変転を見ることができます。
    地名こそ歴史の生き証人と感じた寛永寺巡りでした。  閉じる

    投稿日:2016/12/29

  • 上野駅から東京芸大方面に進み東京国立博物館の先の交差点を右折し黒田記念館、国際子ども図書館を進み左折した先に寛永寺がありま...  続きを読むす。歩いて20分ぐらい掛かります。寛永寺は天海僧正と将軍の結びつきで開山した寛永寺も、往年の栄華は亡くなったようです。
    栄枯盛衰の象徴のような変遷です。歴史の悲哀を感じさせます。本堂で放映されてますビデオ映像を観ることをお奨めします。  閉じる

    投稿日:2016/11/27

  • 寛永寺は、天海僧正の開山により、寛永年間に創設されたため寛永寺の名称となりました。
    寛永寺は、天台宗関東総本山の寺院で、...  続きを読む山号は東叡山、院号が円頓院、寺号が寛永寺です。
    京の都の鬼門を守る比叡山に対して、東の比叡山という意味で山号を東叡山とされました。
    徳川家の本来の菩提寺は、中世から続く増上寺ですが、徳川家により新たに建立された寛永寺は、徳川家の祈祷寺で、菩提寺ではありませんでした。
    3代将軍家光の遺言により、葬儀は寛永寺により行われ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となりました。
    その後、皇族が歴代住職を務め、日光山や比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇りましたが、上野戦争で主要伽藍を焼失してしまいました。
    明治維新により、寛永寺の敷地は、没収され、公園や博物館の敷地になり、寛永寺は東に移されました。
    現在の本堂は、川越の喜多院本地堂を移築したものです。
    天海僧正と将軍の結びつきで開山した寛永寺も、往年の栄華は亡くなったようです。
    栄枯盛衰の象徴のような変遷です。歴史の悲哀を感じさせます。
    上野公園や周辺の寺院巡りの際には、是非とも歴史の勉強をされることをお勧めします。  閉じる

    投稿日:2016/11/25

  • 上野戦争の際、上野の寛永寺全体は焼失しましたが、旧本坊表門のみ戦火を免れました。
    上野に国立博物館の前身の帝国博物館が開...  続きを読む館すると、旧寛永寺本坊表門は、正門として使われていましたが、関東大震災後、帝国博物館の本館を改築するのにともない、南側の現在地に移建しました。
    江戸時代、現在の上野公園には、寛永寺の堂塔伽藍が、整然と配置されていました。
    現在の噴水池周辺に根本中堂、その東側に本坊があり、南側に本坊の表門がありました。門の構造は、切妻造り本瓦葺の薬医門です。
    旧本坊表門の門扉には、上野戦争時の弾痕が残されていて、当時の戦闘の激しさがうかがわれます。
    寛永寺旧本坊表門は、徳川幕府300年の長い歴史をともにした寛永寺の旧本坊の表門だけあり、重厚な感じがして、歴史を感じさせるものがあります。
    表門の奥には、輪王殿があり、広大な前庭と相まって整然とした趣があります。
    上野公園の東南にあって、真に格式の高い表門を思わせる風格があります。
    ぜひとも、一見に値する神聖な場所としてお勧めします。  閉じる

    投稿日:2016/11/24

  • 徳川家のお墓

    • 5.0
    • 旅行時期:2016/08(約10年前)
    • 3

    徳川の墓所を見学してきました。般若心境唱えたり、お坊さんのお話し聞いたり、興味深く見学できました。
    上野の歴史も教えてい...  続きを読むただいて、いつも行っている上野にも、まだまた知らないことがあると感じました。
    墓所の見学は、ホームページから申込書をダウンロードしてFAXで申し込みできます。  閉じる

    投稿日:2017/07/27

  • 重厚感の有る黒門

    • 3.5
    • 旅行時期:2016/08(約10年前)
    • 0

    黒門は寛永寺本坊の表門として現在の国立博物館正門の場所に建てられて、幾たびもの火災や戊申戦争での戦火、関東大震災など多くの...  続きを読む災害を免れて来た門です。修復工事も行われ当時の重厚感たっぷりの門が蘇りました。輪王殿の方から廻ると近くに行けますが、戊申戦争時の弾痕を見る事が出来ます。  閉じる

    投稿日:2016/08/29

  • 寛永寺境内の片隅にありました

    • 2.5
    • 旅行時期:2016/06(約10年前)
    • 0

    寛永寺の境内、本堂に向かって右手の一画にありました。
    かつての寛永寺旧本坊表門(国指定重要文化財)、別名「黒門」に使われ...  続きを読むていた鬼瓦だそうですが、地面の上に置かれていて何となく粗末に扱われている印象を受けました。
    旧本坊表門は寛永寺の開山である天海大僧正が寛永初年に建てたそうで、東京国立博物館の並びにあるので、ぜひご覧ください。   閉じる

    投稿日:2016/06/24

  • 了翁道覚という僧侶の碑です

    • 2.5
    • 旅行時期:2016/06(約10年前)
    • 0

    寛永寺の境内、本堂に向かって右手の一画に建っていました。
    了翁道覚という僧侶の碑です。
    諸国を巡礼している途中で、霊薬...  続きを読むの製法を夢に見て、この妙薬を「錦袋円」と名付けて上野不忍池の畔で販売、多くの傷病者を救ったそうです。
    また、この薬で得た私財を江戸大火の際に罹災民の救済に投じたり、勧学寮という学問所を建立して教育にも尽力したそうです。   閉じる

    投稿日:2016/06/24

  • 偉いお坊さんのお墓です

    • 2.5
    • 旅行時期:2016/06(約10年前)
    • 0

    寛永寺の境内、本堂に向かって右手の一画に建っていました。
    慈海僧正は寛永寺の門主・輪王寺宮の名代を勤める東叡山凌雲院の学...  続きを読む頭の4代目だったそうで、東叡山護国院、目黒不動、比叡山西塔宝園院、川越の喜多院を経て東叡山凌雲院の住職となった偉いお坊さんらしいです。
    それにしては簡素なお墓でした。
      閉じる

    投稿日:2016/06/24

  • 尾形光琳の弟さんです

    • 2.5
    • 旅行時期:2016/06(約10年前)
    • 0

    寛永寺の境内、本堂に向かって右手の一画に建っていました。
    尾形乾山とは、琳派の創始者であるかの有名な尾形光琳の弟さんだそ...  続きを読むうですが、それにしては質素なお墓でした。。
    江戸時代に入谷に窯を開いたこと、亡くなってからは下谷のお寺に葬られたこと、などなどのご縁により昭和7年にこちらに墓碑が建立されたそうですが、ちょっとがっかりです。  閉じる

    投稿日:2016/06/24

181件目~200件目を表示(全323件中)

  1. 1
  2. 8
  3. 9
  4. 10
  5. 11
  6. 12
  7. 17
クチコミを投稿する

投稿写真

写真をもっと見る(634枚)

基本情報(地図・住所・アクセス)

施設名
寛永寺
住所
  • 東京都台東区上野桜木1丁目14-11
電話番号
03-3821-4440
アクセス
鴬谷駅から徒歩で10分
その他
創建年代: 1624年~1644年
カテゴリ
  1. 観光・遊ぶ
  2. 寺・神社・教会

※施設情報については、時間の経過による変化などにより、必ずしも正確でない情報が当サイトに掲載されている可能性があります。

このスポットに関するQ&A(0件)

寛永寺について質問してみよう!

上野・御徒町に行ったことがあるトラベラーのみなさんに、いっせいに質問できます。

  • ろたみこさん

    ろたみこさん

  • Lily-junjunさん

    Lily-junjunさん

  • 1500さん

    1500さん

  • ひめのすけ台湾さん

    ひめのすけ台湾さん

  • みーたいむーformひかのすけさん

    みーたいむーformひかのすけさん

  • morkaさん

    morkaさん

  • …他

このスポットで旅の計画を作ってみませんか?

行きたいスポットを追加して、しおりのように自分だけの「旅の計画」が作れます。
クリップ したスポットから、まとめて登録も!

周辺スポット

周辺のおすすめホテル

上野・御徒町 ホテルランキングを見る

東京 ホテルランキングを見る

PAGE TOP