2014/10/26 - 2014/10/26
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entetsuさん
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今回も通勤途中、電車内で吊広告を見ていたら、「国立歴史民俗博物館」で「文字がつなぐ−古代の日本列島と朝鮮半島−」という企画展の告知を発見。
「国立歴史民俗博物館」?
知らないなぁ。
韓国では似たような名前のところには行ったけども・・・。
上野や皇居近辺にあるとばっかり思っていましたが、調べるとなんと千葉県佐倉市にあるらしい。
この所ウォーキングばかりで少々脚に来てるので、久しぶりに車で行ってみようか。
ということで、千葉県佐倉市へと出かけてみました。
ところで、私の通勤電車は京急なのですが、何故千葉県の博物館が吊広告にあったのか?
後にして思えば、あれは京成線からの乗入れ車両だったのですね。
京急〜都営浅草〜京成or北総の相互乗り入れやってます。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- グルメ
- 4.0
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
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イチオシ
自宅を車で出て、約1時間15分ほどで到着です。
道路は大変空いていました。
広い駐車場があって、駐車料金は無料です。国立歴史民俗博物館 美術館・博物館
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さて、「国立歴史民俗博物館」 。
日本の考古学、歴史、民俗について総合的に研究・展示する博物館で、通称、「歴博」(れきはく)または(れきぱく)。開館は、1981年とのことです。
千葉県佐倉市の「佐倉城趾」の一角にありますが、何故ここにあるのかは解らず仕舞いでした。国立歴史民俗博物館 美術館・博物館
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イチオシ
企画展は、博物館HPによると、「日本約220点、韓国約80点 日本初公開作品も含む約300件の資料と書を一堂に公開!古代文字で読み解く両国の交流の歴史」とあります。
料金は、一般830円。
期間は10月15日(水)〜12月14日(日)です。
常設展示(総合展示)も観ることができます。
なお、常設展示だけ観たい場合は、入館料一般420円です。 -
それでは常設の総合展示を順に観ていく事とします。
展示場は第1〜6まで、時代別に別れています。
なお、「常設展示室では個人的な利用目的に限り撮影が可能ですが、フラッシュや三脚等の使用はできません。なお、一部撮影禁止の場所がありますのでご注意ください(現地に表示あり)。企画展示室は撮影禁止です。」とのこと。
第1展示室は、「原始と古代」。
日本文明の黎明期から、平城京の律令国家までです。
写真は、縄文中期の土器です。 -
船(模型品)。
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土偶ですね。
祭礼で使用されていたと考えられています。
実は、佐倉市にある「吉見台遺跡」から、600個以上の土偶が出土していて、このような経緯から、「この地に歴史民族博物館を」という動きが出たのかもしれません。 -
人骨。
正常な歯を意図的に抜いた跡が見られ、呪術的なものではないかと考えられているそうです。 -
イチオシ
市川市姥山貝塚の住宅復元模型。
「姥山貝塚」は、縄文時代の集落の存在を示す日本最初の遺跡の発見で、縄文時代の竪穴式住居跡が完全な形で発掘されたばかりではなく、計143体の人骨が発掘されており、当時の集落の構成や埋葬に関する貴重な遺跡です。 -
弥生時代に入り、稲作が始まります。
田畑をたがやす鋤(すき)や鍬(くわ)、鉄器類も登場します。 -
高床式倉庫です。
1世紀頃の倉庫で、稲の穂を摘んで収穫し、蓄えたと考えられています。 -
古墳時代に入ります。
3世紀から7世紀にかけて作られ、王とそれにつかえた豪族たちの墓です。
これは、前方後円墳(箸墓(はしはか)古墳の墳丘模型(3世紀))の模型。
箸墓古墳は、奈良県桜井市にあって、邪馬台国の女王卑弥呼の墓と目され、最初の王墓とされています。 -
副葬品と考えられる。銅鏡。
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古墳時代中期の副葬品には、馬具・甲冑・刀などの軍事的なものが多くなっていきます。
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土師器が畿内で作られ、各地に普及し、後期には人物埴輪が登場します。
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鉄の剣などの鉄製品も出土しました。
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石製の棺。
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平城京の正門「羅城門」の復元模型。
8世紀初め、奈良に中国の都を模した都城「平城京」が作られます。 -
銅鏡ですが、細工や模様が複雑になってきました。
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沖ノ島は、玄界灘に浮かぶ東西1.5キロ、南北1キロほどの小さな孤島ですが、福岡の宗像大社の沖津宮(おきつのみや)があり、古代から「神の島」として人びとの信仰を集め、4世紀後半から10世紀にかけて、大がかりな神まつりが行われていました。
遺跡からは、多くの祭祀に使用されたと思われる遺物が出土し、その豪華さから判断すると。地方の一豪族というよりは、中央(朝廷)が、朝鮮半島との航海の安全を祈る国家的な性格であったと考えられています。 -
第2展示室は、「中世」。
平安時代から安土桃山時代までです。
平安時代には、それまでの唐風文化に代わって日本的特色をもったいわゆる国風文化(王朝文化)が花開きます。
王朝貴族の服装。
衣冠束帯と女房装束が正装でした。 -
平仮名や片仮名の仮名文字が創出され、漢文によらずに、自由に日本語の文章を記すことができるようになったのもこの時期です。
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この時代には「活字」が登場し、それまでの「書き写す」ことしかなかった時代に比べ、文化の大衆化が一気に加速するきっかけとなります。
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「活字」は、高麗から青銅製のものが伝来したのが始まりとされています。
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時代は、鎌倉〜室町〜安土桃山と移っていきます。
焼き物も、質の高い磁器が登場します。 -
「洛中洛外図屏風」。
16世紀の都と都に暮らす庶民の様子が伺えます。
中世後期は、底辺の民衆が歴史の表舞台にはなばなしく登場した時代です。民衆のエネルギーが開花し、農業や手工業技術はめざましく発展し、今日につながる多くの芸能も生まれていきます。 -
鉄砲伝来。
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F・ザビエル他の宣教師達により、キリスト教も伝来します。
宣教師がもたらした西洋文化は、日本人の生活と文化に大きな足跡を残しました。 -
戦いの方法が変化し、軍団編成や兵農分離が促進され、やがて統一政権(豊臣、徳川)が強力な中央集権国家を作りあげました。
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秀吉の朱印状。
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朱印船の模型。
16世紀末から17世紀初頭にかけて、日本の支配者の朱印状(海外渡航許可証)を得て海外交易を行った船。 -
イチオシ
第3展示室は、「近世」。
16世紀末〜19世紀半ばで、ほぼ徳川家が支配した江戸時代と重なります。
錦絵(浮世絵)が流行します。
錦絵には、風景、歌舞伎などの役者絵、庶民の生活などが描かれ、当時の風俗を伺うことができます。 -
将軍や大名などが政治・経済を集中させるために計画的につくった城下町と、商品流通の発展によって成長した在方町は、共通する社会のしくみや文化を持ち、文化は栄えます。
これは、今でいう観光地図。
庶民が、お伊勢参りなどで旅行し始めます。 -
伊能忠敬の地図。
初めて実測によって作られた地図です。 -
農業生産力が向上し、人びとの生活が豊かになると、交通路の整備、道中記や道中絵図の出版とあいまって、庶民はいっそう旅へと誘われるようになります。
道標です。 -
伊勢街道の旅籠(はたご)「角屋」の復元模型。
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文化が発展したのは都市だけに留まらず、「村」でも村芝居などの娯楽が広まります。
一方、養蚕などの技術が高まります。 -
蚕の品種改良がなされていった様子。
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そして、幕末になりペリー「黒船」が浦賀に来航します。
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ここまで観てきましたが、展示物は物凄い量でした。
残念ながら展示物はレプリカ類が大半なのですが、改めて時代を追ってお勉強できました。
特に、ここの博物館は「民俗」ですので、信長や秀吉、家康が出てくるわけでなく、庶民の生活や文化に軸足があって、それはそれで面白い。
一休みして、第4展示室に入ります。 -
第4展示室。
「列島の民俗文化」のテーマのもと、列島において人びとの生活のなかから生まれ、幾多の変遷を経ながら伝えられてきた民俗文化が展示されています。
特集で、「中国・四国地方の荒神信仰−いざなぎ流・比婆荒神神楽−」開催中でした。 -
白川郷・五箇山の合掌造り集落。
岐阜県白川村の「白川郷」富山県南砺市の「五箇山」にある合掌造りの集落群の紹介です。
1995年12月9日にユネスコの世界文化遺産に登録され、日本では6件目の世界遺産となりました。
去年11月、「五箇山」には行きましたが、今年も行く予定にしています。
白川郷まで足を延ばしたいとも考えていますが・・・。
よろしければご覧ください。
http://4travel.jp/travelogue/10828039 -
信仰と魔よけでしょうか。
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広く「民俗」といえば、ダルマ信仰とまねき猫もー。
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大阪のビリケンさん。
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「比婆荒神神楽の面」。
中国・四国地方には、娯楽性を強めた歌舞・芝居としての神楽が盛んである一方、農耕や杣・鍛冶・大工などの生業と関わった信仰の要素が濃厚な神楽が山村に伝承されています。 -
第5展示室は、「近代」です。
19世紀後半の近代の出発から 1920年代までです。
文明開化〜産業革命で、東京の人口は300万人を突破します。
震災や、資本主義経済がもたらした消費生活と大衆の娯楽が展示されています。
オルガンですね。 -
明治23年製、山葉(やまば)オルガン。
ヤマハ株式会社の前身です。
オルガンの普及で、唱歌は学校教育に定着します。 -
「浅草の街並復元模型」。
実物大です。 -
大正時代の娯楽の王様は活動写真と呼ばれた無声映画でした。
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映画関係の雑誌。
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第6展示室、「現代」に入ります。
「戦争と平和」・「戦後の生活革命」
の2つのテーマで展示が進みます。
日本は徐々に戦争に向かっていきます。 -
入営祝いの幟。
親類・知人が贈ったもので、見送りの際に各家庭の前や駅などに立てられたものです。 -
軍隊での日課です。
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太平洋戦争は、広島・長崎への原子爆弾投下という最悪の代償を払って終結に向かいます。
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太平洋戦争は日本の敗戦により終結し、戦後復興が進みつつある中、1950年6月25日朝鮮戦争が起こります。
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朝鮮戦争は、日本には特需を生み、戦後復興が進みます。
日本は、高度経済成長時代を迎えますが、「水俣病」などの手痛い代償を払います。 -
「日本住宅公団団地」の実物大再現。
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1962(昭和37)年に建設された、赤羽台団地が実物大で再現されていました。
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ダイニングキッチン。
確かに会社の社宅もこんな感じでした。
家内と2人で大笑いでした。 -
うんうん、洗濯機ね(笑)。
脱水機能やもちろん乾燥機能などなかったから、ぐるぐると絞ったんですよね(笑)。 -
東京オリンピック。
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ゴジラ!
という感じで、太古から現代まで観てきました。
なんと、2時間半かかりました。 -
企画展示「文字がつなぐ−古代の日本列島と朝鮮半島−」です。
ここからは撮影NGでした。
『展示は、朝鮮半島における文字文化の芽生えから、日本列島への本格的な文字の伝来までをたどります。
古代の朝鮮半島から日本列島へ、文字文化が受け入れられ、それが形づくられていく過程、さらには文字文化を媒介とした両地域の交流の歴史をテーマとした展示を開催し、最新の古代文字研究の成果を広くご紹介したいと思います。』
(HPより)
https://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/index.html -
残念ながら企画展は、私にはやや難解でした。
朝鮮半島と日本列島での漢字文化が、どのように繋がっていたのかが上手く理解できなかった〜。
それぞれ、同じ時期(あるいは、朝鮮半島が少し早く)に漢字が木や石、紙に記されるようになるのですが、それがどう交流したのか・・・。
研究途上なのかもしれません。
文句言ってみても仕方がないので、館内のレストランで食事です(笑)。レストランさくら グルメ・レストラン
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私のは、古代カレー(820円)。
案外スパイシーでした。
古代米は、まぁ普通でしたが。 -
家内は、古代ハヤシ(820円)。
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「国立歴史民俗博物館」は、「佐倉城址」の一角にあります。
駐車場は無料ですので、車を置いたままにして、園内と一部市内を散策します。日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
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佐倉城の本丸跡のある佐倉城址は、建物は残っていませんが、土塁、空堀など城の面影を残し、整備された美しい公園になっています。
日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
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近世(安土桃山時代と江戸時代)の平地の城には水堀がありますが、中世の城の堀はほとんどが空堀なんだそうです。
また、近世であっても、山城の堀は空堀であることが多いのだとか。
水堀を持つ有名な城と言えば、なんといっても大阪城です。
慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では、外堀の埋め立て(城割)が和睦の重要な条件のひとつとなり、このことから転じて、本来の目的を達成するために周囲に根回しをするなどの準備をすることを、「外堀を埋める」と言うようになりました。
(「そんなこと、知っとるわい」というフォートラベラーの皆様の声・・・笑)
佐倉城の築城は、天文年間(1530〜1550年頃)といわれるため、空堀だったと思われます。日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
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佐倉城のあった佐倉城址公園には、明治7年(1874)に日本最初の軍隊歩兵第二連隊(明治42年からは歩兵第五七連隊)の駐屯地が置かれました。
佐倉城址は、江戸時代は大名城として、近代は軍用地としてその役割を担っていたという訳です。日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
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連隊のトイレの遺構だそうです。
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ここに、椎木門と呼ばれる門があったようですね。
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イチオシ
佐倉城は、戦国時代の天文年間に築城が開始されたと伝わりますが、完成したのは、1610年(慶長15年)に、徳川家康の命を受けた土井利勝によってであります。
佐倉藩は、江戸時代には江戸の東を守る要衝の地であり、徳川一族・譜代大名が入封する重要な藩でした。
江戸時代前半は、老中・大老となる幕閣の中心人物が入封し、罷免、致仕、失脚のたびに藩主の入れ替わりが激しい藩で、12回もお家変わりがありました。土井利勝も老中・大老として権勢を振るったとされます。
写真の銅像は「堀田正睦」で、幕末の頃の藩主で老中を努めました。
堀田正睦は蘭学を奨励し、医師佐藤泰然を招いて佐倉城下の本町に順天堂を開かせ、学問を奨励します。
ペリー来航以降、外国事務取扱の老中となり、ハリスとの日米修好通商条約締結などで、奔走しますが、井伊直弼の大老就任で、老中を罷免され、蟄居したとされます。日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
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タウンゼント・ハリス像。
堀田正睦の交渉相手方です。
アメリカ総領事で、日米修好通商条約を調印したことで知られています。 -
「三逕亭(茶室 さんけいてい)」。
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佐倉市公式HPによると、こちらは、京都大徳寺の塔頭、孤蓬庵の茶室・忘筌(重要文化財)を模したもので、昭和58年に東京港区の乃木神社から移築されたそうです。
日曜・祝日には一般向けの茶席も開かれています。
一服、お菓子付で400円だそうです。 -
整備された公園は美しく、正に森林浴です。
公園内をウォーキングしているご婦人もいました。
なんとなく佐倉市という街のイメージが湧いてきました。
こんな感じでしょうか。
①市内には、旧石器時代から平安時代に至る遺跡が多く残り、各時代の文化を知る貴重な遺産となっている。
②江戸時代には、佐倉城は江戸の東方を固める諸大名の城となり、土井氏以後九家二十代にわたり藩主が交代しますが、土井利勝以降、老中などを多数輩出した藩であったこと。
中でも、幕末の藩主堀田正睦は、佐倉順天堂、成徳書院(佐倉高等学校の前身)をつくるなど、医学、英学、蘭学などの学問に力を注ぐ一方、日米修好通商条約の調印に奔走する。
③明治のはじめから、佐倉城址は佐倉連隊の兵営地となり、城門や櫓、多くの侍屋敷は壊され、兵舎などの施設が作られ、佐倉の町は城下町から軍都へと変貌を遂げたこと。
④昭和40年代に入ると、大型団地の造成が進み、住宅地としての性格が強まり、首都圏のベッドタウンとして鉄道や東関東自動車道(佐倉インターチェンジ)など交通体系も急速に整備されます。
1981年3月には「国立歴史民俗博物館」が佐倉城址に開館し「活力ある文化都市」をめざす佐倉市の新しいシンボルとして内外から注目されている。日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
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城址公園散策を終えて、少しだけ市内を歩いてみます。
実は、佐倉はもっともっと奥の深い街。
2012年7月5日放送の、日本テレビ「秘密のケンミンSHOW」では、「西の長崎、東の佐倉」という言葉を紹介していました。
長崎に行って、「西の長崎、東の○○」と言われても長崎市民は「?」ですが、佐倉に行くと、ほぼ100%の市民が「西の長崎、東の佐倉!」と言うらしい。
江戸時代末期に佐倉藩主「堀田正睦」が蘭学を奨励し、蘭学や蘭医学が盛んな土地となったことに因み、西の長崎・・・、となったそうです。
さらに、ミスタープロ野球「長島茂雄」は、千葉県立佐倉高等学校(長島在学時は佐倉一高)卒業です。
また、女子マラソン・駅伝の指導者「小出義雄」は、佐倉市出身で元佐倉高校教諭・陸上部監督。有森裕子や高橋尚子などの五輪メダリストを育てます。
現在は、佐倉アスリート倶楽部代表取締役。
高橋尚子さんがオリンピックで金メダルを取ったのを記念して、金メダルジョギングロードというのがあるそうです。
市内には、「DIC川村記念美術館」もあります。
そういえば、「DIC川村記念美術館」近くの「麻倉ゴルフ倶楽部」造成時、縄文・古墳時代の宮内芋戸遺跡が存在し、前方後円墳を含めた古墳が11墳確認されていて、コースレイアウト実施に際し、「遺跡調査を綿密に行い、法規を遵守し、戦略的にも景観的にもこれらの古墳群を保存する方針とした」なんて話も聞いたことがありました。
などなどー。 -
国立歴史民俗博物館「くらしの植物苑」。
生活文化を支えてきた植物を系統的に植栽し、その理解をより深めることを目的としている植物園だそうです。 -
佐倉の奥深さの一例として、現在の順天堂大学に繋がる「順天堂」があります。
佐倉藩主堀田正睦は、天保14年(1843年)江戸から佐倉に「佐藤 泰然」を招きます。佐藤は、病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設します。これが、現在の順天堂大学の基礎となります。
で、ここは、「済生堂浜野病院」跡です。
済生堂病院は、佐倉藩出身の軍医で後に国会議員になった、浜野昇が開設したものですが、浜野昇は順天堂を開いた佐藤尚中(佐藤泰然の養嗣子、佐倉藩医、順天堂第二代堂主)に師事して医学を学びました。
市内には、「佐倉順天堂記念館」という施設もありますが、ちょっと今日は回りきる事が出来そうにないです・・・。 -
「麻賀多神社」に来ました。
麻賀多神社 寺・神社・教会
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「麻賀多神社」は、旧佐倉藩の総鎮守で、古くから「まかたさま」とこの地方の人々に親しまれ、崇敬されてきたお社なんだとか。
実は、「麻賀多神社」という神社は、ここをはじめとして、佐倉市内に11社・隣接する酒々井町2社・成田市2社・富里市2社・八千代市1社あるそうです。
全国的には、他の地方には見られない、珍しい名前の神社で、印旛沼の東側から南にかけての地域にのみ存在する神社だそうです。 -
以下神社HPより抜粋。
「千葉県は古来、麻の産地であり「総国・ふさのくに」の総は麻を表しております。その中にある印旛地方は下総国成立以前は印旛国であり、朝廷より国造(くにのみやつこ)が派遣されておりました。その国造が代々祀ってきたのが当社であり、「麻の国で多氏が賀す神の社」と訓読みすることが出来ます。鎮座地の「佐倉 」という地名も「麻の倉」が転じてと言われており、佐倉地方が古代物流の中心的地位を占めていたことが判ります。〜以下略」 -
徳川時代には、佐倉城の城主からは手厚い保護を受けます。
現在の社殿は天保14年「堀田正睦」公が新たに建て替えたもので、平成15年に氏子一同の奉賛により大修営が行われ、厳かに正遷座祭が斎行されました。
明治維新以降、佐倉城趾に陸軍連隊が配置され、県内各地から入隊した兵士が武運長久を祈願しました。 -
樹齢800年以上の大銀杏がありました。
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イチオシ
凛々しく、厳かなご神木です。
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麻賀多神社のすぐ前では「佐倉市菊花大会」準備中でした。
11月1日からだそうで、入場不可でした。 -
しばらく歩き、武家屋敷通りにやってきました。
佐倉城から程近く、昔は通りの左右全てが武家屋敷であったと考えられます。
佐倉に数多く残る武家屋敷のうち5棟がこの通り沿いに集まっていて、うち、3棟は公開されています。
通り沿いには、児玉源太郎の旧宅跡もありました。
建物は残されていません。
児玉 源太郎は、長州・徳山藩士の出身で、陸軍大臣、台湾総督を歴任。
陸軍大将で、日露戦争時総参謀長を務めた英雄です。
児玉は、佐倉連隊長を務めた記録があるそうです。
なお、司馬遼太郎は、日露戦争の英雄とされる「乃木希典」を無能呼ばわりし、旅順攻囲戦においては、日本軍が203高地を攻略したのは児玉が旅順に到着した4日後であり、これを、児玉の功績によってわずか4日間で攻略されたと記しています。
事実は、わかりませんが・・・。 -
それでは、武家屋敷を見学してみます。
武家屋敷(旧河原家住宅 旧但馬家住宅 旧武居家住宅) 名所・史跡
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まず、「旧河原家住宅」です。
旧河原家住宅 名所・史跡
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3つの屋敷共通券で、一般210円です。
パンフレットを貰って、さぁ、見学というタイミングで、
「ボランティアの観光ガイドさんが居ますが、説明お聞きになりますか?」
「へぇー、お願いしまーす(笑)」。武家屋敷(旧河原家住宅 旧但馬家住宅 旧武居家住宅) 名所・史跡
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ガイドさん、武家屋敷見学のポイントを教えてくれました。
何かというと、これはパンフレットのあるページですが、「天保の御制」によって、「石高」で建坪、門、玄関、畳などが厳しく決まっていたんだそうです。
河原家は300石、但馬家は150石、武居家は90石扶持だったそうですので、違いに注目です。 -
まず、旧河原家住宅です。
ガイドさんの説明によると、 河原家は300石の武将で、300石というのは今でいえば会社の「部長クラス」とのこと。
こちらが玄関で、 「白い壁や障子ふすま、雨戸などが見え、畳には「へり」がついていますね。玄関の幅は、2間あります。後で、他の2軒を回りますので、ようく覚えていて下さい」とのこと。
見えている部屋は、客まで要人を迎えるための部屋で、普段は使用していない部屋だそうです。
また、この玄関から出入りするのは客人だけで、この屋敷の主人でさえも、ここからは出入りしなかったのだそうです。旧河原家住宅 名所・史跡
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ガイドさん。
さすがに詳しい。 -
「勝手と土間」です。
今はこの家で誰も生活はしていませんが、この竈では毎日薪をくべているのだそうです。 -
その訳はこれです。
天井ですが、煤けています。
この煤と煙こそが藁葺き屋根には必須で、煤には防虫効果があって屋根の侵蝕を防止するのだそうです。 -
ぐるりと回って見学しています。
ここは、「男部屋」と呼ばれる部屋。
4畳半ほどの板の間ですが、男性だけが使った部屋だそうです。 -
庭にあったのは、お茶の木。
当時の武家は、「食用」になるものを植えていたそうです。
庭には、お茶以外にも枇杷、柿などの木が植えられていました。
もちろん、江戸時代の木ではないでしょうが、当時の風俗を知ることが出来ました。
お茶の花、初めて見ました。 -
「風呂」。
今のように、下から沸かすことは出来ず、お湯をこの中に入れて使ったようです。
当時は、今の様に毎日入浴しなかったし、少量のお湯で体を拭いたり洗ったりした程度だったと考えられているそうです。 -
「トイレ」=厠です。
溜まった糞尿は、畑で使ったり、販売したりしていたそうです。
汲み取り式で、今でいうところの究極のリサイクル(笑)。 -
納戸の間。
ここで家人が生活をしていました。 -
「次の間」。
一家の主人の部屋。
使えたのは、主人だけだったそうです。 -
「客間」。
先ほど、玄関から見えていた部屋。
客人が来たときだけ使った部屋だそうです。 -
廊下があります。
廊下の突き当りが、厠。 -
客間を横から見ています。
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イチオシ
武家屋敷といっても大名屋敷ではないので、質素です。
正しくは、「侍屋敷」というらしい。 -
ここにある3軒の武家屋敷の元々あった場所を説明しています。
旧河原家と旧武居家住宅は別の場所からここに移してきて、旧但馬家住宅は元々ここにあったものだそうです。 -
「旧但馬家住宅」です。
ここは、元150石の武士の屋敷。旧但馬家住宅 名所・史跡
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元々ここにあった屋敷ですので、庭の造りなどが当時のままだそうです。
一番の違いは、「壁」。
漆喰の白壁ではなく、土壁です。 -
井戸もありました。
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わかりいにくいですが、さっきの河原家と異なり、全体に地味です。
なお、ここは室内に上がって観賞する事が可能です。 -
イチオシ
「カムロちゃん」。
これ、佐倉・城下町400年記念事業のイメージキャラクターで、「カムロちゃん」。
市の広報紙では、2010 年から4コマ漫画を連載中だそうです。
コンセプトは「ゆるキャラ以上、萌えキャラ未満」・・・(笑)!? -
直接関係ないけど、飾りだそうです。
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隣の「旧武居家住宅」に向かいます。
旧武居家住宅 名所・史跡
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「旧武居家住宅」は、90石の武士の屋敷。
壁が土壁であること以外、見た目はそれほど変わりませんが・・・。旧武居家住宅 名所・史跡
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決定的な違いが2点。
①障子が無い! -
②畳に「へり」がない!
もっというと、玄関のこの部屋3畳敷きです。
河原家は5畳でした。
佐倉市観光、なかなか楽しめました。
といっても極々一部。
国立歴史民俗博物館で、時間を食いすぎました。
もっとゆっくり再訪したいものですね。
車を停めたまんまにしてる、国立歴史民俗博物館の駐車場に戻ることとします。 -
途中、こんなのがありました。
サムライの古径(こみち)「ひよどり坂」 -
イチオシ
江戸時代とほとんど変わらない、竹林に囲まれた古径です。
緩やかに曲がる坂道には、四ツ目垣、御簾垣、鉄砲垣などが効率的に配され、今にも侍が出てきそうな雰囲気です。
さっきの武家屋敷ともども、映画などのロケでも使われるそうです。 -
市立体育館の横にあったのは、佐倉藩の藩校であった「成徳書院」跡の碑。
現在の県立佐倉高等学校に繋がります。 -
田んぼの脇ですが、追手門跡。
風が出てきて、カムロちゃん、半分になっちゃってます(笑)。 -
佐倉城址公園に戻ってきました。
これは、「姥が池」です。
以上、突然千葉県佐倉市に来てみました。
残念ながら、博物館と市内散策は時間的には苦しかった・・・。
川村美術館もあるし、今度もう1回、ゆっくり来たい街でした。
お付き合いくださり、有難うございました。日本百名城佐倉城(佐倉城址公園) 公園・植物園
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赤坂
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東京国立博物館に日韓の国宝がやって来た「ほほえみの御仏-二つの半跏思惟像-」展を鑑賞しました!
2016/07/02~
浅草・上野・東京スカイツリー
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六本木の「国立新美術館」でルノワール展を鑑賞。その後は、赤坂に回って「やさい村大地」でサムギョプサル!!
2016/07/15~
六本木
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「日銀本店」見学して来ました!
2017/01/10~
日本橋
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国立新美術館開館10周年「草間彌生 わが永遠の魂」展に行って来ました!
2017/02/26~
六本木
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「上野の森美術館」で開催中の「フェルメール展」に行ってきました。
2018/10/08~
上野・御徒町
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新装なった虎の門病院へ通院のあと、文部科学省の情報ひろばを見学!
2019/07/05~
三田・田町・芝浦
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京橋の「榮一」焼き鳥丼ランチと、千駄ヶ谷の「オリンピックミュージアム」観賞。
2021/12/09~
信濃町・千駄ヶ谷
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「崎陽軒横浜工場」の見学と、川崎の昼飲みの聖地「丸大ホール本店」。
2023/02/14~
港北・長津田・青葉
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森永製菓の「MORIUM&鶴見工場」見学してきました!
2023/02/27~
鶴見
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「キリンビール横浜工場」、コロナ禍以来久々に見学してきました。
2023/03/30~
鶴見
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