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臼井城は、臼井常康が永久2年(1114)に、臼井の地に居館を置いたのが始まりです。臼井氏は、千葉一族の中で最も初期に分れた一族で、下総権介平常兼の子常康が、印旛郡臼井郷の開発のために同地に入り、地名を取って臼井六郎と称したといいます。臼井常康により光勝寺が創建されています。延元3年(1338)に、足利尊氏より臼井郷を本領安堵された、臼井興胤が臼井城を現在の地に築城します。宝治合戦以来失っていた勢力を回復し、城の周囲に砦を築き、支城を配し、円応寺や臼井八幡社、天満宮を創建しており、臼井興胤は、臼井家中興の祖と呼ばれています。<br /><br />文明10年(1478)12月、長尾景春の乱に応じて上杉氏と対立した千葉孝胤を討つため、太田道灌・千葉自胤(武蔵千葉氏)らは、下総国府台城に布陣し、12月10日に千葉孝胤・臼井俊胤軍と境根原で激戦となります。この合戦で敗北した千葉孝胤・臼井俊胤軍は臼井城に籠城、文明11年(1479)1月、太田道灌、弟・太田持資、弟・太田資忠の軍が臼井城を攻めます。太田道灌は臼井城が容易に落城しないのを見て、千葉自胤に庁南城、丸ケ谷城、海上城などを攻めさせ開城させ、揺さぶりをかけていった。太田道灌軍は7月15日、ようやく臼井城を落城させたが、太田図書資忠ほか50余名が戦死しました。千葉自胤は臼井城に城代を置いたが、まもなく千葉孝胤が奪還しています。<br /><br />小弓城の足利義明が勢力を増すと、千葉氏・原氏ら一族は古河公方として、小弓公方と対峙したが、臼井城主の臼井景胤は小弓公方に味方します。天文7年(1538)の第1次国府台合戦で足利義明が戦死すると、千葉氏・原氏に屈服し帰参しました。弘治3年(1557)年、臼井景胤の死にあたり、遺言により臼井久胤の後見として、生実城主・原胤清の子、原胤貞が臼井城に入り、実質原氏の支配下に入り、北条氏の下総における拠点となっていきます。永禄4年(1561)、臼井久胤のとき、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主・正木大膳に攻められ一旦落城し、臼井久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出します。永禄7年(1564)には、千葉氏の家老職である原胤貞が奪還しています。<br /><br />永禄9年(1566)3月、北条氏打倒を目差し関東に出陣した、上杉謙信と里見義堯・義弘父子らが、原胤貞が守る臼井城を攻めます。臼井城には千葉胤富らの援軍も立て籠もり、3月20日には、「実城堀一重」の落城寸前まで追い込まれていきます。しかし、北条氏の援軍である松田秀郷らの後方撹乱作戦により、臼井城の城兵は奮戦し、上杉軍を撃退します。上杉軍の死者は300人以上、死傷者は数千人とも言われます。この後、上杉謙信から常陸・上野・下野の諸侯が離れていき、上杉謙信による関東平定は遠ざかります。元亀元年(1570)に、原氏の本拠地・生実城が里見勢により落城し、以降、臼井城が原氏の本拠地となります。原氏により、星神社や宗徳寺が創建されています。<br /><br />天正18年(1590)の豊臣秀吉による、小田原北条討伐戦で、北条氏政・氏直に従い小田原城に籠城した、千葉重胤・原胤栄は敗れ滅亡します。臼井城には、徳川譜代の酒井家次が三万石で入封するも、文禄2年(1593)に城内より出火し、焼失したまま、再建されることはなく、酒井家次の移封に伴って、慶長9年(1604)に廃城となり、約500年の歴史を閉じました。<br /><br />臼井城は、佐倉市西部の印旛沼を東下に見下ろす、標高25mほどの台地上に広がっていました。その台地上の南東突端部に?郭を置き、その西側に?郭を配置し、さらにその外側の西と南・北側に?郭である外郭部が広がっています。外郭部のさらに外側には、砦が配置され、北に洲崎砦、西北に仲台砦、西南に田久里砦、南に稲荷台砦と王子台砦、南東に宿内砦がありました。この砦を含めると、臼井城は、東西約1,100m、南北約1,650mと、台地の全体に及んでいることが判ります。また台地周辺には、防御の固めとして、北に印旛沼を挟んで岩戸城と師戸城、西に先崎城や小竹城、志津城などの支城があり、下総地方の中世城郭の中でも、千葉城や本佐倉城と並んで、大規模な城であったことは、臼井が下総における水運・陸運の交通の要衝であり、戦略上重要な地点であったことを物語っています。<br /><br />臼井城の主郭部分(?郭と?郭)は、平成6年に「臼井城跡」として、佐倉市指定史跡に登録され、公園として整備保存されています。主郭部分の遺構としては、曲輪跡や空堀、土塁、土橋、虎口、急崖などが残っています。砦跡の遺構としては、宿内砦の曲輪跡や土塁、虎口、急崖などが残っています。この他の砦は、宅地化の波の中で消滅してしまいました。また、支城跡の遺構としては、師戸城が残るのみです。師戸城は、県立印旛沼公園として整備されており、本丸跡や二の丸跡、空堀、土塁、急崖などが保存されています。<br /><br />2012/10/08 第1版<br />2012/12/23 第2版<br />2014/01/05 第3版<br />2020/08/15 第4版

佐倉市散策(35)・・太田道灌、上杉謙信も攻めた臼井城を訪ねます。

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2020/08/15 - 2020/08/15

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YAMAJI

YAMAJIさん

臼井城は、臼井常康が永久2年(1114)に、臼井の地に居館を置いたのが始まりです。臼井氏は、千葉一族の中で最も初期に分れた一族で、下総権介平常兼の子常康が、印旛郡臼井郷の開発のために同地に入り、地名を取って臼井六郎と称したといいます。臼井常康により光勝寺が創建されています。延元3年(1338)に、足利尊氏より臼井郷を本領安堵された、臼井興胤が臼井城を現在の地に築城します。宝治合戦以来失っていた勢力を回復し、城の周囲に砦を築き、支城を配し、円応寺や臼井八幡社、天満宮を創建しており、臼井興胤は、臼井家中興の祖と呼ばれています。

文明10年(1478)12月、長尾景春の乱に応じて上杉氏と対立した千葉孝胤を討つため、太田道灌・千葉自胤(武蔵千葉氏)らは、下総国府台城に布陣し、12月10日に千葉孝胤・臼井俊胤軍と境根原で激戦となります。この合戦で敗北した千葉孝胤・臼井俊胤軍は臼井城に籠城、文明11年(1479)1月、太田道灌、弟・太田持資、弟・太田資忠の軍が臼井城を攻めます。太田道灌は臼井城が容易に落城しないのを見て、千葉自胤に庁南城、丸ケ谷城、海上城などを攻めさせ開城させ、揺さぶりをかけていった。太田道灌軍は7月15日、ようやく臼井城を落城させたが、太田図書資忠ほか50余名が戦死しました。千葉自胤は臼井城に城代を置いたが、まもなく千葉孝胤が奪還しています。

小弓城の足利義明が勢力を増すと、千葉氏・原氏ら一族は古河公方として、小弓公方と対峙したが、臼井城主の臼井景胤は小弓公方に味方します。天文7年(1538)の第1次国府台合戦で足利義明が戦死すると、千葉氏・原氏に屈服し帰参しました。弘治3年(1557)年、臼井景胤の死にあたり、遺言により臼井久胤の後見として、生実城主・原胤清の子、原胤貞が臼井城に入り、実質原氏の支配下に入り、北条氏の下総における拠点となっていきます。永禄4年(1561)、臼井久胤のとき、上杉謙信の小田原攻めに呼応した里見勢の上総大多喜城主・正木大膳に攻められ一旦落城し、臼井久胤は結城城の結城晴朝を頼って脱出します。永禄7年(1564)には、千葉氏の家老職である原胤貞が奪還しています。

永禄9年(1566)3月、北条氏打倒を目差し関東に出陣した、上杉謙信と里見義堯・義弘父子らが、原胤貞が守る臼井城を攻めます。臼井城には千葉胤富らの援軍も立て籠もり、3月20日には、「実城堀一重」の落城寸前まで追い込まれていきます。しかし、北条氏の援軍である松田秀郷らの後方撹乱作戦により、臼井城の城兵は奮戦し、上杉軍を撃退します。上杉軍の死者は300人以上、死傷者は数千人とも言われます。この後、上杉謙信から常陸・上野・下野の諸侯が離れていき、上杉謙信による関東平定は遠ざかります。元亀元年(1570)に、原氏の本拠地・生実城が里見勢により落城し、以降、臼井城が原氏の本拠地となります。原氏により、星神社や宗徳寺が創建されています。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による、小田原北条討伐戦で、北条氏政・氏直に従い小田原城に籠城した、千葉重胤・原胤栄は敗れ滅亡します。臼井城には、徳川譜代の酒井家次が三万石で入封するも、文禄2年(1593)に城内より出火し、焼失したまま、再建されることはなく、酒井家次の移封に伴って、慶長9年(1604)に廃城となり、約500年の歴史を閉じました。

臼井城は、佐倉市西部の印旛沼を東下に見下ろす、標高25mほどの台地上に広がっていました。その台地上の南東突端部に?郭を置き、その西側に?郭を配置し、さらにその外側の西と南・北側に?郭である外郭部が広がっています。外郭部のさらに外側には、砦が配置され、北に洲崎砦、西北に仲台砦、西南に田久里砦、南に稲荷台砦と王子台砦、南東に宿内砦がありました。この砦を含めると、臼井城は、東西約1,100m、南北約1,650mと、台地の全体に及んでいることが判ります。また台地周辺には、防御の固めとして、北に印旛沼を挟んで岩戸城と師戸城、西に先崎城や小竹城、志津城などの支城があり、下総地方の中世城郭の中でも、千葉城や本佐倉城と並んで、大規模な城であったことは、臼井が下総における水運・陸運の交通の要衝であり、戦略上重要な地点であったことを物語っています。

臼井城の主郭部分(?郭と?郭)は、平成6年に「臼井城跡」として、佐倉市指定史跡に登録され、公園として整備保存されています。主郭部分の遺構としては、曲輪跡や空堀、土塁、土橋、虎口、急崖などが残っています。砦跡の遺構としては、宿内砦の曲輪跡や土塁、虎口、急崖などが残っています。この他の砦は、宅地化の波の中で消滅してしまいました。また、支城跡の遺構としては、師戸城が残るのみです。師戸城は、県立印旛沼公園として整備されており、本丸跡や二の丸跡、空堀、土塁、急崖などが保存されています。

2012/10/08 第1版
2012/12/23 第2版
2014/01/05 第3版
2020/08/15 第4版

  • 臼井城の惣構です。<br />主郭と外郭、そしてその外側に砦が6ケ所、支城が5ケ所と、大規模な構えであったことが判ります。千葉宗家の本佐倉城に負けない大きさです。本佐倉城での戦闘はほとんど記録されていません、それに比べて臼井城では、下総の命運を分ける多くの戦いが行われています。

    臼井城の惣構です。
    主郭と外郭、そしてその外側に砦が6ケ所、支城が5ケ所と、大規模な構えであったことが判ります。千葉宗家の本佐倉城に負けない大きさです。本佐倉城での戦闘はほとんど記録されていません、それに比べて臼井城では、下総の命運を分ける多くの戦いが行われています。

  • 臼井城縄張図です。<br />?郭(本丸)の東側と南側は、20mを超える急崖に囲まれています。北側は崖を利用して腰曲輪を配置し、西側に?郭(二の丸)への虎口と空堀があります。?郭(二の丸)は、全体に深い空堀に囲まれています。その外側に、?郭(三の丸)である外郭(武士団の屋敷)が続いており、さらにその外側に砦が配置されていました。臼井城の縄張りは、印旛沼と手繰川に囲まれた台地全体に広がっていたことが判ります。

    臼井城縄張図です。
    ?郭(本丸)の東側と南側は、20mを超える急崖に囲まれています。北側は崖を利用して腰曲輪を配置し、西側に?郭(二の丸)への虎口と空堀があります。?郭(二の丸)は、全体に深い空堀に囲まれています。その外側に、?郭(三の丸)である外郭(武士団の屋敷)が続いており、さらにその外側に砦が配置されていました。臼井城の縄張りは、印旛沼と手繰川に囲まれた台地全体に広がっていたことが判ります。

  • 安政2年(1855年)に発行された、「利根川図志」に臼井城が紹介されています。

    安政2年(1855年)に発行された、「利根川図志」に臼井城が紹介されています。

  • 京成臼井駅北口から散策スタートです。

    京成臼井駅北口から散策スタートです。

  • 駅前交差点を直進し、すぐのT字路を右に曲がります。

    駅前交差点を直進し、すぐのT字路を右に曲がります。

  • 宿内砦(宿内公園)ヘの上り坂を進みます。

    宿内砦(宿内公園)ヘの上り坂を進みます。

  • 台地の頂上に、宿内砦(宿内公園)入口の案内柱が見えてきます。

    台地の頂上に、宿内砦(宿内公園)入口の案内柱が見えてきます。

  • 宿内砦の虎口です。<br />公園入口を奥に進むと、虎口が2ケ所見られ、両脇に高く土塁が盛られています。宿内砦の虎口は、砦の南西側に位置しています。虎口側だけが台地に繋がっており、あと三方は急崖に囲まれています。

    宿内砦の虎口です。
    公園入口を奥に進むと、虎口が2ケ所見られ、両脇に高く土塁が盛られています。宿内砦の虎口は、砦の南西側に位置しています。虎口側だけが台地に繋がっており、あと三方は急崖に囲まれています。

  • 虎口側の宿内砦跡は、雑木林になっています。

    虎口側の宿内砦跡は、雑木林になっています。

  • 一段高い(約1m)奥の宿内砦跡は、芝生の広場です。

    一段高い(約1m)奥の宿内砦跡は、芝生の広場です。

  • 宿内砦の南西側に残る土塁跡です。

    宿内砦の南西側に残る土塁跡です。

  • 宿内砦を囲む東側の崖です。

    宿内砦を囲む東側の崖です。

  • 宿内砦入口に戻り、稲荷台上の交差点を自販機裏方向へ直進して行きます。

    宿内砦入口に戻り、稲荷台上の交差点を自販機裏方向へ直進して行きます。

  • 稲荷神社下の坂を通過します。<br />参道の階段を上ると臼井稲荷神社があり、樹齢300年のケヤキの大樹が見られます。また、雷電が相撲を取った跡が雷電公園として整備されています。

    稲荷神社下の坂を通過します。
    参道の階段を上ると臼井稲荷神社があり、樹齢300年のケヤキの大樹が見られます。また、雷電が相撲を取った跡が雷電公園として整備されています。

  • 国道296号線を横断します。

    国道296号線を横断します。

  • 新坂を臼井台へ上っていきます。

    新坂を臼井台へ上っていきます。

  • 上り切るとすぐ臼井台青年館の看板のある交差点に出ます。

    上り切るとすぐ臼井台青年館の看板のある交差点に出ます。

  • 交差点を左折し大手通りを大手門方向へ向います。<br />臼井城の主郭と大手門を、結んでいたメイン通りが大手通りです。車の交差も難しい狭い通りです。

    交差点を左折し大手通りを大手門方向へ向います。
    臼井城の主郭と大手門を、結んでいたメイン通りが大手通りです。車の交差も難しい狭い通りです。

  • 熊野神社が臼井台青年館の敷地にあります。

    熊野神社が臼井台青年館の敷地にあります。

  • 南臼井台団地を通過して臼井台交差点へ、ここが大手門跡です。

    南臼井台団地を通過して臼井台交差点へ、ここが大手門跡です。

  • 大手通りを戻って、臼井台青年館の看板のあった交差点を、直進して臼井城の主郭方向へ進みます。大手通りは約800mあり、臼井城内を南北に貫いていました。

    大手通りを戻って、臼井台青年館の看板のあった交差点を、直進して臼井城の主郭方向へ進みます。大手通りは約800mあり、臼井城内を南北に貫いていました。

  • 星神社(臼井妙見社)です。<br />妙見とは、北斗七星を神格化したもので、鎮護国家・除災壽福の菩薩で、千葉氏一族の家紋「月星」「日月」「九曜」は、妙見に由来した星神社の社紋です。原氏の時代(1500年代)に、創建されたと言われています。

    星神社(臼井妙見社)です。
    妙見とは、北斗七星を神格化したもので、鎮護国家・除災壽福の菩薩で、千葉氏一族の家紋「月星」「日月」「九曜」は、妙見に由来した星神社の社紋です。原氏の時代(1500年代)に、創建されたと言われています。

  • ?郭(三の丸)である外郭部です。<br />武士団の屋敷があった所で、主郭の西・南・北側の広い地域に広がっていました。

    ?郭(三の丸)である外郭部です。
    武士団の屋敷があった所で、主郭の西・南・北側の広い地域に広がっていました。

  • 太田図書の墓です。<br />1478年千葉孝胤は、上杉氏の重臣太田道灌に破れ、臼井俊胤の守る臼井城に撤退、翌年道灌の弟・太田図書助資忠は千葉自胤(武蔵千葉氏)と臼井城を攻撃、太田図書助他50余名が戦死しました。臼井城の一角?郭(三の丸)跡に、墓が残っています。 <br /><br />

    太田図書の墓です。
    1478年千葉孝胤は、上杉氏の重臣太田道灌に破れ、臼井俊胤の守る臼井城に撤退、翌年道灌の弟・太田図書助資忠は千葉自胤(武蔵千葉氏)と臼井城を攻撃、太田図書助他50余名が戦死しました。臼井城の一角?郭(三の丸)跡に、墓が残っています。

  • 天満宮です。<br />臼井興胤の時代(1300年代)に創建されています。太田図書の墓のすぐ北側にあります。

    天満宮です。
    臼井興胤の時代(1300年代)に創建されています。太田図書の墓のすぐ北側にあります。

  • ?郭(三の丸)と?郭(二の丸)を隔てる空堀です。<br />?郭を取り巻いて空堀が造られており、深さもあり幅も広く、堅固な守りが伺えます。

    ?郭(三の丸)と?郭(二の丸)を隔てる空堀です。
    ?郭を取り巻いて空堀が造られており、深さもあり幅も広く、堅固な守りが伺えます。

  • ?郭(二の丸)への土橋です。<br />現在は舗装された車道になっており、左手に深い空堀、右手に深い谷津が食い込んでいます。<br />

    ?郭(二の丸)への土橋です。
    現在は舗装された車道になっており、左手に深い空堀、右手に深い谷津が食い込んでいます。

  • 古峯神社が、土橋の先の右、土塁(櫓台)上にあります。

    古峯神社が、土橋の先の右、土塁(櫓台)上にあります。

  • 臼井城跡の石柱です。<br />土橋を渡ってすぐ左が?郭(二の丸)の虎口です。

    臼井城跡の石柱です。
    土橋を渡ってすぐ左が?郭(二の丸)の虎口です。

  • 臼井城の解説板です。<br />臼井城は、平安時代末期から鎌倉時代始め頃に(1100年代)、千葉氏の一族の臼井常康が居館を構えたのが始まりです。臼井氏中興の祖・興胤の代に(1300年代)、本格的な築城が行われました。原氏の時代(1500年代)には、主郭(?郭・?郭)と外郭(?郭)、王子台・稲荷台・田久里・宿内・仲台・洲崎の6砦を構え、外周に岩戸・師戸・先崎・小竹・志津の5支城を置き、鬼門に社寺を配し砦を兼ね、その間を舟運や間道をもって連絡するという、要塞堅固な平山城となりました。いくたの戦いの後、1604年約500年におよぶ下総統治の拠点であった臼井城は、廃城となりました。

    臼井城の解説板です。
    臼井城は、平安時代末期から鎌倉時代始め頃に(1100年代)、千葉氏の一族の臼井常康が居館を構えたのが始まりです。臼井氏中興の祖・興胤の代に(1300年代)、本格的な築城が行われました。原氏の時代(1500年代)には、主郭(?郭・?郭)と外郭(?郭)、王子台・稲荷台・田久里・宿内・仲台・洲崎の6砦を構え、外周に岩戸・師戸・先崎・小竹・志津の5支城を置き、鬼門に社寺を配し砦を兼ね、その間を舟運や間道をもって連絡するという、要塞堅固な平山城となりました。いくたの戦いの後、1604年約500年におよぶ下総統治の拠点であった臼井城は、廃城となりました。

  • ?郭(二の丸)の虎口です。<br />臼井城跡公園の南口になっています。

    ?郭(二の丸)の虎口です。
    臼井城跡公園の南口になっています。

  • ?郭(二の丸)です。<br />広大な芝生の広場になっています。大規模な戦闘の際には、ここに武士団が集結したのでしょうか。

    ?郭(二の丸)です。
    広大な芝生の広場になっています。大規模な戦闘の際には、ここに武士団が集結したのでしょうか。

  • ?郭(二の丸)にあるトイレです。<br />近隣住民のお散歩コースでもあり、綺麗なトイレは有り難いものです。

    ?郭(二の丸)にあるトイレです。
    近隣住民のお散歩コースでもあり、綺麗なトイレは有り難いものです。

  • ?郭(二の丸)の休憩所です。<br />お弁当を広げる家族ずれも多く見かけます。

    ?郭(二の丸)の休憩所です。
    お弁当を広げる家族ずれも多く見かけます。

  • ?郭(二の丸)の土塁です。<br />空堀の周囲を取り巻くように、低い土塁が見られます。この上に塀を廻らせ、守りを固めていたのでしょう。

    ?郭(二の丸)の土塁です。
    空堀の周囲を取り巻くように、低い土塁が見られます。この上に塀を廻らせ、守りを固めていたのでしょう。

  • ?郭(二の丸)と?郭(本丸)を隔てる空堀です。<br />かなり浅い空堀ですが、埋められているようです。

    ?郭(二の丸)と?郭(本丸)を隔てる空堀です。
    かなり浅い空堀ですが、埋められているようです。

  • ?郭(本丸)への土橋です。<br />1566年3月20日に上杉謙信は、臼井城を「実城堀一重」まで攻め込みます。この土橋が最後の激戦の場だったのでしょう。現在は5mほどの幅がありましが、当時は2mほどだと思います。

    ?郭(本丸)への土橋です。
    1566年3月20日に上杉謙信は、臼井城を「実城堀一重」まで攻め込みます。この土橋が最後の激戦の場だったのでしょう。現在は5mほどの幅がありましが、当時は2mほどだと思います。

  • 安政5年(1858年)に発行された、「成田名所図会」に上杉謙信の臼井城攻めが紹介されています。

    安政5年(1858年)に発行された、「成田名所図会」に上杉謙信の臼井城攻めが紹介されています。

  • 土橋下の駐車場です。

    土橋下の駐車場です。

  • ?郭(本丸)の虎口です。<br />細い土橋を渡っても強固な城門が守っています。城門の両側には3mを超す土塁が立ちはだかりました。<br />

    ?郭(本丸)の虎口です。
    細い土橋を渡っても強固な城門が守っています。城門の両側には3mを超す土塁が立ちはだかりました。

  • 虎口の左土塁です。

    虎口の左土塁です。

  • 虎口の右土塁です。

    虎口の右土塁です。

  • ?郭(本丸)です。<br />台地の南東部に、印旛沼に突き出だして造られました。まさに天然の要塞です。

    ?郭(本丸)です。
    台地の南東部に、印旛沼に突き出だして造られました。まさに天然の要塞です。

  • ?郭(本丸)の南側です。<br />芝生の広場が広がります。写真正面が急崖になっています。

    ?郭(本丸)の南側です。
    芝生の広場が広がります。写真正面が急崖になっています。

  • ?郭(本丸)の休憩所です。

    ?郭(本丸)の休憩所です。

  • ?郭(本丸)南側の土塁です。<br />低い土塁が崖に沿って見られます。この土塁の上にも塀が造られていたのでしょう。

    ?郭(本丸)南側の土塁です。
    低い土塁が崖に沿って見られます。この土塁の上にも塀が造られていたのでしょう。

  • ?郭(本丸)南側の急崖です。<br />高さ20m以上の急崖は壮観で、良く整備されていました。

    ?郭(本丸)南側の急崖です。
    高さ20m以上の急崖は壮観で、良く整備されていました。

  • ?郭(本丸)の東側です。<br />臼井城の一番奥に位置します。本丸御殿があったところでしょうか。<br />

    ?郭(本丸)の東側です。
    臼井城の一番奥に位置します。本丸御殿があったところでしょうか。

  • ?郭(本丸)東側の突出し部です。<br />ここも20m以上の急崖になっています。かっては印旛沼が臼井城のすぐ近くまで迫り、最大の要害であったとともに、支城網を繋ぎ防衛のネットワークを形成していました。

    ?郭(本丸)東側の突出し部です。
    ここも20m以上の急崖になっています。かっては印旛沼が臼井城のすぐ近くまで迫り、最大の要害であったとともに、支城網を繋ぎ防衛のネットワークを形成していました。

  • 度重なる干拓で後退した、印旛沼が良く見渡せます。

    度重なる干拓で後退した、印旛沼が良く見渡せます。

  • ?郭(本丸)の祠です。<br />調べてみると古峯神社のようです。古峯神社には、大和武尊(ヤマトタケル)が祀られており、防火の神として信仰されていました。

    ?郭(本丸)の祠です。
    調べてみると古峯神社のようです。古峯神社には、大和武尊(ヤマトタケル)が祀られており、防火の神として信仰されていました。

  • ?郭(本丸)の西側です。<br />周囲が雑木林で昼でも暗いです。西側に?郭(二の丸)があり、かなり高い土塁が造られています。

    ?郭(本丸)の西側です。
    周囲が雑木林で昼でも暗いです。西側に?郭(二の丸)があり、かなり高い土塁が造られています。

  • ?郭(本丸)西側の土塁です。<br />高い土塁と塀、深い空堀が、最後の防衛線でした。<br />

    ?郭(本丸)西側の土塁です。
    高い土塁と塀、深い空堀が、最後の防衛線でした。

  • ?郭(本丸)北側の搦め手への虎口です。

    ?郭(本丸)北側の搦め手への虎口です。

  • 搦め手虎口の石垣です。<br />近世のものですが、小規模な石垣遺構が残っています。

    搦め手虎口の石垣です。
    近世のものですが、小規模な石垣遺構が残っています。

  • ?郭(本丸)北側の曲輪です。

    ?郭(本丸)北側の曲輪です。

  • ?郭(本丸)北側の腰曲輪群です。<br />折り重なるように続く腰曲輪は見事です。

    ?郭(本丸)北側の腰曲輪群です。
    折り重なるように続く腰曲輪は見事です。

  • 台地下へ繋がる搦め手です。<br />印旛沼は北斜面のすぐ下まで迫り、「江間」という地名が示すように、船着き場がありました。この搦め手は、緊急時の非常口であり、籠城時の糧道であり、支城との交通路であり、千葉氏の本拠地である本佐倉城との連絡路であり、印旛沼水運の交易の重要な要衝でもありました。

    台地下へ繋がる搦め手です。
    印旛沼は北斜面のすぐ下まで迫り、「江間」という地名が示すように、船着き場がありました。この搦め手は、緊急時の非常口であり、籠城時の糧道であり、支城との交通路であり、千葉氏の本拠地である本佐倉城との連絡路であり、印旛沼水運の交易の重要な要衝でもありました。

  • 下りていくと、臼井城址公園の東口となっています。

    下りていくと、臼井城址公園の東口となっています。

  • 円応寺の参道です。<br />円応寺は、かって船着き場があった「江間」に建っています。<br /><br />

    円応寺の参道です。
    円応寺は、かって船着き場があった「江間」に建っています。

  • 円応寺の本堂です。<br />竹若丸(後の臼井興胤)を助けた鎌倉建長寺の僧・仏国禅師及び仏真禅師の高恩に報いるため、興胤が1388年創建した臨済宗のお寺です。臼井氏の菩提寺で、1593年臼井城とともに焼失後、再建されました。

    円応寺の本堂です。
    竹若丸(後の臼井興胤)を助けた鎌倉建長寺の僧・仏国禅師及び仏真禅師の高恩に報いるため、興胤が1388年創建した臨済宗のお寺です。臼井氏の菩提寺で、1593年臼井城とともに焼失後、再建されました。

  • 臼井城の「御城印」です。<br />佐倉ふるさと広場売店「仏蘭花」で、1枚300円で購入しました。<br /><br />

    臼井城の「御城印」です。
    佐倉ふるさと広場売店「仏蘭花」で、1枚300円で購入しました。

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