2026/07/09 - 2026/07/24
221位(同エリア221件中)
ほいみさん
今回、このマニアック?なツアーを選んだのは、スピティやラダックの荒野?を10日走ったゴールがレーであることが理由のひとつだった。
バックパッカー時代?の1982年にレーに行ったことは、秘境感と「なんて優しい人たち」の思い出となっていた。再訪したいと思いながら、40数年が過ぎてしまっていた。
表紙写真は、当時レーの郊外では当たり前に見られた風景
- 旅行の満足度
- 4.5
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ピンクの線が今回のレーまでのコース。
赤線が1982年の、ラホールからレーまでのコース。
オレンジ線はこの長旅の中で、フンザからラホールまでのコース。
スリナガルで3泊したが、フンザからレーまで移動の毎日で9泊10日掛かった。
インドとパキスタンは中が悪いから?ラホールとアムリトサルの間にある「ワガ国境」しか開いてなかった・・・今っもそうらしい。 -
こんなことでも無いと、1982年当時の写真をアップするチャンスは無いだろうから、どさくさでこんな旅日記を思い付いた。
世界遺産バドシャヒモスクには、だ~れも居なかった。 -
何故かこんな写真が残ってった…香水屋さんかな?
当時は日記を小まめに書いていたので、この日記をアップするために読み返してる・・・これが面白い。
ラホール駅からワガ行きの列車に乗るのだが、なんとか外国人から金をだまし取ろうという奴らがぞろぞろついて来て、ワガ行きの駅はここじゃない、とかバスの方が早いとか、インドルピー買わないか、ソニー持ってないか、ニコン持ってないか? ビザ持ってるか
いざ駅に入ったら、外国人は檻?みたいなところに集められて、なんかほっとした、とか書いてあった。 -
ワガ行のチケットを買ったら、何故かファーストクラスで、やたら広いコンパートメントにカリブの国の新婚さんと一緒になった。
新郎?の横にあるのが私のリュック。当時は外側にポケットがあると危ない、とか言われていて、寸胴の重たいキャンバス地の50リットルのリュックを担いでいた。
その日の夜、アムリトサルに到着。 -
翌朝、ゴールデンテンプルだけ行った。
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当時は写真撮って・・・ってよく頼まれた。
もちろんフィルムカメラだから、結果を見せて上げられないが、撮って上げるだけでとっても喜ばれた。 -
この写真の赤ん坊だって、今はもう45歳くらい?
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昼過ぎのバスでジャンムーに向かった。
当時のインドの宿って、ベッドはあるけど寝具は無いのが普通。
インド人は体育で使うマットみたいな寝具を持ち歩くので、バスも列車も不要な混雑。
我々は小さな寝袋を持っているので、インド人に「それ欲しい欲しい」って言われる。 -
今で言えば十分な貧乏旅だったが、水の都スリナガールでは名物のハウスボートに3泊した。ボートの後部からタナゴみたいな魚が幾らでも釣れたが、釣れ過ぎてもつまらない。
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こんなちっちゃい子供が「有料で」ダル湖を巡ってくれる・・・児童労働?
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スリナガルはインドの人気避暑地だった。
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日記によると、自転車を借りて、8時間でダル湖を一周した・・・とあったが、そんに元気だったのか?
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山の上から見たダル湖。無数のハウスボートが並んでいるが、ほとんどは地元民が住んでる家。
レーを目指していたわけだが、当時の日本では田舎に住んでたことも有ってガイドブックの類が見つからなかったものの、どうやって知ったのか「スリナガルからバスで行く」という情報は得ていた。
実はこの旅の帰りに成田空港で「地球の歩き方 インド編」っていうのを発見した。っていうか、当時は「地球の歩き方」がカバーしていた地域は少なくて、1980年に南米を旅した時も「南米編」は無かった。
もちろんネットも無いから、辺境の地は「とりあえず現地に行って考える」だった。欧米人の多くはロンリープラネットを持ってた。 -
ハウスボートのオヤジに「レーにいきたいけど・・・」と相談したら、バスのことを教えてくれた。途中カルギルというところで1泊して、翌日暗くなる前にはレーに着くという話だった。
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そのバスは当時のインドでは当たり前だったのだが、今で言えば小さなボンネットバスで、座席は木製のベンチで2人・3人掛けの5人並びでヘッドレストも無い。窮屈の極致! しかもみんな荷物が多い! これでラダックの山道を走るのだ。
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朝8時にスリナガルを出発して、宿泊地のカルギルに着いたのは21時30分。乗車客全員がボロボロの大部屋で雑魚寝・・・蛇口は一個、トイレはその辺。でも直ぐに爆睡。
翌日は朝5時に出発。
途中5000mとか言われるゾジラ・フォテュラ(ラ、は峠)を超ゆっくり通過。動けなくなったクルマが渋滞を招いている。 -
レーには何時に着くの? と聞いても誰も知らない。暗くなる前に着く・・・と言う言葉を信じよう。
ここでランチ・・・チャパティとカレーみたいなものしかない。スリナガルを出てから食べ物は毎回これ。ミネラルウォーターなんて無いから、出された水を飲むしか無いぞ。 -
そして、16時30分、ついにレーに着いた!
バスから降りたら客引きがいたので、連れて行かれるままにホテルへ。
標高は3800mくらいらしいが、十分に高所順応が出来たので何でもなかった。 -
翌日はレーの街を散歩。
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レーの街は5分も歩けば農村風になって・・・
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こんな風景が当たり前だった。
これは中心の柱に、ヤギ・ロバ・牛・馬を順番に繋いで、同心円状にぐるぐる回る。刈り取って脱穀した麦など穂を、柔らかく踏み潰してから保存飼料にすると聞いた。最近では見なくなったが、ネパールの田舎でもよく見掛けた風景だ。 -
ホテルの周辺だったかな。
電気は18時から22時まで、街中にある大きなディーゼル発電機が回って、薄暗い電球が点いた。今みたいに充電の必要が無いし、不便は感じなかった。この時代パキスタンやネパールの田舎は、そもそも電気が無いところもあった。 -
レーには5泊した。
レー周辺を観光?するつもりだったが、当時は公共交通機関はごく少なく、ちょっと遠くに行ったらその日には戻って来れない・・・みたいな。
これはティクセのゴンパと思われるが、どうやって行ったんだろ。ヒッチハイクは当たり前というか、レーの人々にも重要な交通機関だったが、そもそもクルマが少ない。もちろん有料だから今で言うシェアタクシー?というわけにはいかない。 私も何回かヒッチしたが、何故か全部無料だった。 -
人々は超素朴で、何処に行っても子供たちに囲まれる。
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日帰りの予定でも、写真の様に寝袋は必ず持った。
その日のうちに戻れなくなったら、お寺に泊めて貰おう・・・と本気で思ってた。 -
ここが何処だったか分からなくなってしまったが、
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がんばって、かなり遠くのゴンパまで行ったような。
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確か、この頃、NHK「未来への遺産」の取材があったとかの噂もあったけど、どうだったんだろ。
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今でもあるのかな? 当時のレーには小さな映画館があって、大人気。多分、電気が来てる時間に上映したんだろうね。で、野次馬根性で行ってみたら、大混雑。当時は根性?なんてものも持ち合わせていたので、がんばってチケットを買って見たさ。
そしたら教室みたいなところの白い壁に、インド映画が写るだけだった。そこであった、若い夫婦に家に遊びに来ないか・・・と誘われた。誘われたら断ったことがない(今でも)私は、翌日の夕飯を頂きに彼らの家に行ったさ。 -
そしたら、6畳ひと間、トイレは外、炊事用具は部屋の片隅に小さな石油コンロがひとつ。写真は作ってくれたトゥクパ。
お土産も持って来なかったので困ってしまったよ。
10年位前に中国共産党の弾圧を受けて、この地に逃れて来たということだった。
住所は聞いておいたので、帰国後、写真や小物を送ったけど、届いたとは思えない・・・当時はそんなところだった。 -
5泊したゲストハウス。日記には1泊10ルピー、250円とあった。もちろんトイレや洗面は共同。当時のあの辺りの旅はこんな感じで、交通費以外は適当にやっても1日10ドルは掛からなかった。
日記の走り書きによると、1US$は約10ルピー 1US$は240円くらいだった様な。当時、日本のアルバイトの時給は500円前後だった。
現在は1US$100ルピーくらいかな。
どう計算したらいいのか分からないけど、今同じ様な旅をしても1日100$掛かるかも・・・何倍も快適だけど。 -
ゲストハウスの屋上。
レーの街のど真ん中!
今回、このゲストハウスの存在を地元ガイドに尋ねたが「まったく知らない」とのことだった。 -
標高が富士山山頂並みのレーに5泊したのは、この後ネパールに行って標高5500mのカラパタールに登るつもりだったので、高所順応の意味もあった。楽しい高所順応となった。
写真はカラパタール、この頃は荷物は全部自分で担いで、簡単な地図を頼りにヒマラヤを5週間に渡って歩いた。 -
でね、今回、昔を思い出しながら何枚かの写真を撮った。
この写真と同じ場所が -
ここだ…奥の山の形で分かるね。右上にそびえていたお城(ゾン)は周辺の建物が高くなってしまったので良く見えない。
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更に歩くと、昔の面影はまったくない
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前にもアップしたが・・・
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これがティクセゴンパ。
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今はこんな感じで、周辺は開発されたけど、いい感じで残ってると思う。
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レーのお城の上の高台から撮った。
中央奥に飛行場が見えるかな?
当時から、小さなレーの街には似合わない立派な飛行場があった。
軍事基地なんだけどね。
飛行場のちょっと向こうにスピトックゴンパがあって、高所順応を兼ねて、レーから往復20㎞以上を歩いた。 -
今はその飛行場まで隙間なく建物で埋まっている。
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レーの旧市街からお城を見る。ゲストハウスの屋上からかなぁ?
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現在の市内から撮ったが、意外と変化は少ないが、クルマだらけ。
でね、レーからデリーまでバスで行けるんじゃないの? って思ってたら、だれに聞いても当時は「そんなの絶対無理!」 「スリナガルまでバスで戻るのが安全確実」いやいや、あのバスにはもう乗りたくないぞ。
「飛行機って手もあるよ・・・」 そりゃ飛行場があるからそんなことは知ってるが、当時のバックパッカーは「飛行機に使ったら負け」みたいなところがあって、陸路万歳だったんだよね。ましてや国内線に乗ったら恥ずかしいで!
とか言いながら「で、何時の便なら乗れるの?」
数日先まで満席だけど、キャンセル待ちしてれば早い者順で乗れるよ。
そしたら、翌日の便に空きが出て、急きょデリーに飛んだ・・・ラダックの旅の最後はあっけなかった。
デリーからは陸路でカトマンズに(2日間)向かうつもりだったが、飛行機マジックを知ってしまい、何の恥じらい?もなくデリーカトマンズ往復を買ってしまった。
ということで75%は、ジジィの自慢話?昔ばなし?に終始したが、こんな古い写真をアップ出来ることはなかなか無いので、許して貰おう。フィルム時代の写真て、どんどん無くなっちゃうんだよね。もっと面白い写真があったんだけどなぁ。
しつこく最後に、砂曼荼羅の片づけ動画。
https://youtu.be/TlHSA3cHbBM -
砂曼荼羅は、その名の通り、曼荼羅を着色した砂で描き上げるのだが、こんな立派なのだと10人で2週間以上掛かると聞く。
コルゾックのは小さかったが3-4人で10日間かかったそうだ。お祭りが終わると、これをササっと廃棄する。どんなに美しいものでも永遠ではないという「無常」の教えを表しているそうだ。
しかも観客も居ないところで、ゴミでも捨てる様に片付けてしまう。
この時はホント偶然に現場に居合わせた。地元の方も誰も居なかった。
むか~しNHKで放送していたのを見て感動したのだが、まさか本物を目の前にするとは思ってもいなかった。
お祭りの間、本堂に飾られていたのだが、混雑していてゆっくりは見られなかったのに、最後の朝に「人生のはかなさ」を見てしまった・・・そうか~すべてははかないんだ。
いやいや、そんなことはないと思ぞ。
妙に長くなってしまった、スピティ&ラダックの旅日記はこれで終了・・・あ~楽になるなぁ、ボケない様に(ボケを遅らせるために)何かしなくっちゃ。
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