2026/09/03 - 2026/09/03
13068位(同エリア28178件中)
kojikojiさん
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この旅行記スケジュールを元に
ソウルには大きく4つの韓屋を見ることのできるエリアがあるようです。今年になっての韓国の旅では「全州韓屋村」と「文義文化財団地」で韓国の伝統家屋の美しさに触れたこともあり、どこかを見学したいと思っていました。宿泊する明洞の「ミリオレホテルソウル明洞」をベースに考えた場合に一番近いのが「南山韓屋村」でした。一番有名な「北村韓屋村」は「景福宮」と「昌徳宮」の間にある代表的な韓屋密集地で、今も多くの韓屋が残っていますが特別管理地域の案内も出ているため、見学時は住民への配慮が必要とのことです。「益善洞韓屋村」も中心部でアクセスしやすく、北村よりもこぢんまりした路地の雰囲気が魅力なようで最近人気のエリアのようです。「恩平韓屋村」も魅力的ですが、今回は一番近い所にして次回以降の旅で訪れようと思います。当初はこの日の午前中に訪問するつもりでしたが、道路を渡れずに山の中に迷い込んでしまい、結局「韓国の家」で昼食をとった後の炎天下での見学になりました。そんな時間帯でもあったので見学する人の姿も少なく、じっくりと見学が出来て良かったと思います。「南山韓屋村」が所在する筆洞地域は、李氏朝鮮時代には小川の流れと眺望のために壁は設けない構造の泉雨閣と呼ばれる建物があり、夏には避暑をかねた行楽地として名が知られていたようです。また伝説の青鶴がたわむれていたといわれることから青鶴洞とも呼ばれていました。青鶴洞は神仙が住むところといわれるほど景観が美しく、漢陽と呼ばれていた当時のソウルで最も景色がよい三清洞、仁旺洞、双渓洞、白雲洞とともに漢陽5洞に数えられた場所でした。首都防衛司令部の敷地になっていたこの地に昔の情趣をよみがえらせ、市民のために沢を造り水を流すこととし、東屋を建てて木を植えて、伝統庭園を作り上げました。現在は大きく5軒の伝統家屋が移築されて往時の姿を見せてくれていました。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 観光
- 4.5
- ホテル
- 4.0
- グルメ
- 4.5
- 交通
- 4.5
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 一人あたり費用
- 10万円 - 15万円
- 交通手段
- 観光バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
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隣接する「韓国の家」でお昼を食べ終えると午後2時になってしまいました。この日の予定は変更してこの「南山韓屋村」だけを見学して一番行きたかった「国立博物館」は次回の見学にすることにします。
南山コル韓屋村 史跡・遺跡
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「南山ゴル韓屋村」とハングルで書かれています。門はありますが「南山公園」の敷地の中にある感じで敷地の境界は曖昧に思えます。月曜日が休みで火曜と水曜の午前中と木曜と金曜と日曜日の午後は日本語ガイドによるツアーもあるようです。
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藁葺きや茅葺きの家は一般にチョガチプと呼ばれ、昔は平民の住まいとして広く見られました。済州島へ行った際にもこのような茅葺屋根の平屋の家が密集する「城邑民俗村」を見学しました。ここには農機具が展示され、ジゲと呼ばれる古い背負子は韓国の歴史ドラマでよく見掛けるものです。
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「青鶴池」は伝説の青鶴がたわむれていたといわれることに由来しています。青鶴洞は神仙が住むところといわれるほど景観が美しく、漢陽と呼ばれていた当時のソウルで最も景色がよい三清洞、仁旺洞、双渓洞、白雲洞とともに漢陽5洞に数えられた場所でした。
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青空に緑濃い松の枝ぶりがとてもきれいでした。日本の待つとはまた違った枝ぶりは園芸職人の違いでもないようです。
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池の脇に建つ「泉雨閣」は朝鮮時代の南山一帯にあった楼閣名で、「南山韓屋村」の整備時に復元されました。南山の谷に渓谷があり、避暑地として親しまれた歴史を伝える名前です。
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少し高い位置になるので景色もよく風もよく通るようで、何人かの市民の方が休憩していました。
泉雨閣 史跡・遺跡
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「むくり」は屋根の線が中ほどでふっくらと上に持ち上がる曲線のことです。反対に軒先が鋭く跳ね上がる見え方は「反り」として説明されます。韓国の伝統建築の特に韓屋の瓦屋根では直線ではなく、棟や軒の線にゆるい曲線をつくるのが大きな特徴です。
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高台にそびえる「伝統工芸館」に入ると冷房が効いていて涼しいので妻はここで休むことにしました。ということで1人で足早に見学することになりました。
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一列に並んだ柱の上に1つの大きな屋根を載せた門の基本構造は韓国では一般的に「一柱門(イルチュムン)」と呼ばれます。主に寺院の入り口などに多く見られる建築形式ですが、ここでは中に案内板を組み込んだモダンなアレンジになっています。これが「韓屋(ハノク)」と呼ばれる伝統家屋の敷地に入るための門として、左右の壁(または行廊と呼ばれる使用人の部屋)と同じ高さの屋根で一続きに繋がっている場合は、「平大門(ピョンデムン)」と呼ばれます。
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「都片手・李承業の家屋」
李承業 (イ・スンオプ) は19世紀に「景福宮」を改築した際の棟梁で、建物は中区三角洞から移築されたものです。 -
伝統的な韓屋(ハノク)や宮殿、寺院などの敷地で見られる門にはいくつか種類があり、この門には以下のような特徴があります。
「一角門(イルカンムン)」
一般的に左右の塀(石垣)の間に1つの通路(1間)だけを設けた小規模な門の総称です。主に邸宅の母屋へと続く中庭の入り口や庭園への移動経路となる「協門(小門)」として設置されます。五衛将 金春栄家屋 文化・芸術・歴史
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「四柱門(サジュムン)」
門を支える柱の構造に注目した名称です。中央にある2本の主柱の前後どちらかに倒壊を防ぐための短い補助柱(控え柱)が2本立てられており、計4本の柱で1つの屋根を支えていることからこう呼ばれます。扉を開け放したときでも圧迫感がなく、門枠がまるで「額縁」のように向こう側の美しい庭園や景色を切り取る効果を持っています。 -
都片手という役職は朝鮮時代の建築工事を担当していた職人のことを指す言葉で、1867年に「景福宮」の再建工事に参加した三角洞(サムガクドン)都片手の李承業(イ・スンオプ)の家屋は1860年頃に建てられました。
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元々この家は清渓川(チョンゲチョン)付近の三角洞(サムガクトン)にありましたが、その後1889年に慶州(キョンジュ)の李氏家門に売却され、4代に渡って使用された後 に1939年に火災によって建物の一部が焼失しました。1970年からは朝興銀行がこの家を買い取って、歴史資料の展示室として使っていましたが、1998年に「南山韓屋村」が造られた際に家屋の保存のために現在の場所に移されました。
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物置の中には李朝時代に造られたであろう家具が納められていました。
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韓国の伝統的な台所(プオク)は床暖房である「オンドル」の仕組みと一体化しているという非常にユニークな構造を持っています。中央に見える黒い鉄釜(ガマソッ)が据えられた竈の「焚き口(アグンイ)」は隣にある主に主婦の部屋であるアンバンの床下へと繋がっています。この台所で食事を作るために薪を燃やすとその時に出る熱気や煙がそのまま部屋の床下の坑道(煙道)を通り、部屋全体を温める仕組み(オンドル)になっています。料理と暖房を同時に行う生活の知恵です。
熱気や煙がスムーズに床下に流れ込むように、伝統的な台所(プオク)は居室よりも一段低い土間に作られています。 -
装飾的な格子戸(ムンサル)がとても美しいです。上下の鴨居や額縁部分には漢詩の句「魚鳥相忘物外遊」などが掲げられています。この句は朝鮮王朝時代の文人である李稙(い・しょく)の漢詩(律詩)の「頸聯(けいれん)」に登場する一節が基になっています。伝統的な様式に基づき、通常はこの句ともう1つの句が左右で対をなす「対句(ついく)」として構成されます。
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韓国の障子はチャンジ と呼ばれ、一見すると日本の障子とよく似ていますが、その構造や使われ方は文化的背景に面白い違いがあります。日本の障子は部屋の内側から桟がきれいに見えるように紙は外側(部屋の裏側)に貼るのが一般的です。しかし韓屋では韓紙(ハンジ)を部屋の内側に貼り、木の格子は外側(部屋の外)に向けて見せる作りが基本です。これは外から見たときにも家を美しく飾るという、韓国伝統の美意識からきています。
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日本の障子は細長く整然とした四角形が多いですが、韓屋の障子や窓(建具)は非常にデザインが豊かです。
「萬字文(マンジャモン)」は「卍」の形を組み合わせたおめでたい意味を持つ格子で、「亜字文(アジャモン)は「亜」の漢字をベースにした幾何学模様などがあります。 -
柱聯(ちゅうれん)とは東アジアの伝統建築において、建物の外柱に左右一対で掛けられる細長い木製の札(板)のことです。そこに漢詩やめでたい言葉(聯句)を刻み、建物を美しく装飾するとともに、住む人の思想や建物の風情を表現する役割を持っています。
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「柱聯」は基本的に門や建物の正面にある「右の柱」と「左の柱」で対(ペア)になっています。右側の柱に掛けられた詩(上聯)から読み始め、左側の柱(下聯)へと続くのが基本のルールです。これを「対聯(たいれん)」とも呼びます。
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この家屋ではちょうど伝統家屋に工芸作品を展示したエキシビジョンが開催されていました。
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日本家屋の「縁側」に相当する部分は 「マル」 と呼ばれる大変重要な板の間の空間です。韓国の伝統家屋は冬の寒さをしのぐ床暖房「オンドル」が有名ですが、それと対をなす夏の暑さをしのぐための構造が「マル(板の間)」です。風が通り抜けるように床が高く作られており、日本の縁側と同様に涼をとる空間として機能します。「マル」の多くは壁やガラス窓で完全に仕切られておらず、庭(外)に対して開かれた「中でありながら外でもある」あいまいな空間です。近所の人と気軽に腰掛けておしゃべりを楽しんだり、作業をしたりする社交の場でもありました。
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物置の観音開きの扉は分厚い松材が使われています。内側から閂(かんぬき)が掛けられるようになっており、防犯対策にも万全のようです。韓国では赤松や金剛松のような松が建築材として高く評価されています。
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ここにも「景福宮」で見たような立派なレンガ造りの煙突がありました。先程の台所で「焚き口(アグンイ)」で発生した温かい煙は床下を通ってこの煙突から排出されるわけです。
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三清洞(サムチョンドン)五衛将の金春永(キム・チュンヨン)の家屋は1890年頃に建てられました。「五衛将」とは朝鮮時代の中央軍事組織である五衛の軍を率いていた将軍のことを指します。元々この家は、鍾路区(チョンノ)三清洞(サムチョンドン) に建てられ、金春永(キム・チュンヨン)の孫の代まで使用されていました。
その後、1987年にお手洗いの設置をはじめとする増築過程で問題が発生し、家屋の保存のために1998年に現在のナムサン・ハノンマウル(南山韓屋村)に移された。 -
「一角門(イルカンムン)」
一般的に左右の塀(石垣)の間に1つの通路(1間)だけを設けた小規模な門の総称です。主に邸宅の母屋へと続く中庭の入り口や庭園への移動経路となる「協門(小門)」として設置されます。五衛将 金春栄家屋 文化・芸術・歴史
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「韓屋」は最広義には朝鮮半島に建てられる建造物のすべて、より一般的には住宅建築を意味する言葉ですが、特に瓦葺きの中流以上の住宅をこう呼ぶことが多いようです。
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気候が寒冷な北部や比較的温暖な南部と朝鮮半島内でも家屋の建築様式は地域差があるほか、李氏朝鮮以前の伝統社会では社会階層・身分によって家屋の広さや使用できる建築材料が厳格に区分されていました。
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各部屋に置かれたのは李朝家具と呼ばれるジャンルのもので、独特の素朴な温かみと力強い木目、そして特徴的な真鍮や鉄の金具使いが魅力です。緑とピンクの布団が載っている長方形の箱型の家具は「バンダジ」と呼ばれる衣類や書類、貴重品などを収納するチェストです。前面の上半分だけが手前にパタンと開閉する構造になっており、これが名前の由来(「半分閉じる櫃」)です。油で仕上げられた重厚な木材に丸い意匠や蝶などの形をした鉄・真鍮製の飾り金具が打ち付けられ、大変頑丈なためにこのように上に布団を畳んで置く台としてもよく使われました。
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李朝時代の両班の書斎は儒教の精神に基づき「質素で高潔、無駄のない美しさ」が重んじられました。引き戸に漢詩や古典の言葉(李白の詩など)が手彫りされているのは、所有者の学識や教養の高さを表す文人文物の象徴です。中国の豪華な装飾家具に比べて部材が細く、空間(余白)を多く残した「四方棚(サバンタク)」のデザインを踏襲しています。飾るものを主役にするための引き算の美学が息づいています。格子状の台座は朝鮮半島の伝統的な暖房システムであるオンドル(床暖房)の熱や湿気から、大切な書物や調度品を守るための李朝家具ならではの知恵です。床から浮かせることで通気性を確保しています。
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中流階級の主屋と舎廊棟は四梁家か五梁家の規模で築かれることが多く、上流住宅の場合は五梁家から七梁家となります。屋根の形状は切妻屋根、入母屋屋根などを建物の用途によって使い分けられます。
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敷地内での建屋や構造物の配置は儒教的価値観の影響が強く、建物の周囲は牆垣で囲まれて大門が置かれます。上流住宅の場合は大門の脇には回廊状の建物である行廊棟(ヘンランチェ)が置かれ、倉庫ないし下人の生活の場として用いられます。
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韓国の伝統的な韓屋の扉の多くは現代のように引くタイプではなく、外や内へ「押し開ける」構造になっています。文字の意味は「必ず来る、ついにやって来る」で、韓国語の「オ)」という発音と響きが「扉を押して入ってください」、あるいは「押して入れば良いことが必ずやって来る」という、訪れる観光客に向けたユーモアと歓迎の意味を込めて、あえてこの扉の目立つ位置に貼られています。
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左側の「バンダジ」より少し高さが低いものを25年前に踏十里の古美術ビルで買い求めたことがあります。欅の厚い無垢材で出来ており、当時12,000円という安さでした。
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妻はニレ材の化粧金具の美しい「パンダジ」を買い、9,000円郵便代で家に送りました。12,000円に同じくらいの総量を払うのが納得いかずに、宿泊していたホテルまで車で運んでもらい、機内預け入れ荷物で持ち帰りましたが、重たくて死ぬかと思いました。
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壁に備え付けられた韓国伝統の壁入れ収納「ピョッジャン」の小扉です。日本の「天袋」や「地袋」と用途や見た目が非常によく似ており、朝鮮時代の上流階級の屋敷や部屋で生活用品や布団、貴重品などをしまっておくために使われていました。扉に直接梅や蘭といった高雅な四君子など植物の絵が情緒豊かに描かれているのが韓国の伝統建築らしく美しい意匠です。
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敷地内部にはオンドル房が2つ以上とマルから構成される主屋棟(アンチェ)、主人の日常の場である舎廊棟(サランチェ)が置かれます。
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主屋棟は主室でありオンドルが設置される内房(アンバン)とその補助空間である上房(ウッパン)、内房に隣接する台所に加え、マルともう1つのオンドル房である越房(コンノンバン)から構成されます。
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夫人は行廊棟の内房で主人は舎廊棟のオンドル房である舎廊房(サランバン)で日常生活を送りました。この家のマル(台所)は前の家よりも使いやすそうです。
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台所の脇には当時の家具や生活雑貨などが並べられています。
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韓国の伝統家屋のシンプルな美しさが少しは分かってきたような気がします。民藝運動の中心人物である柳宗悦らは、無名の職人が作る日用品にこそ「用の美」が宿ると考え、「民藝(民衆的工芸)」として高く評価しました。そこでは派手な装飾よりも、素朴さ・丈夫さ・使いやすさといった実用性と美しさの調和が重んじられました。
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世界各地を旅する中でも「民藝」の視点から漆器や陶器を買い集めていたら自宅の部屋が大変なことになってしまいました。特に実家に置いてあったものは母が亡くなると共に家に持ち帰らなければなりませんでした。次回のソウルではそんな視点で再び踏十里や仁寺洞を歩いてもみたいです。
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屋敷の奥にはキムチやコチュジャン、醤油、テンジャン(味噌)などを発酵と熟成させるための甕器(オンギ)がチャンドクデ(醤蓋台)に並んでいます。
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ようやく2つ目の屋敷の見学が終わりました。残りはまだ3つ残っていますが、妻が待っているので急がなければなりません。
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赤と青の2色で彩られた提灯は韓国の伝統的なランタンで、青紗チョロン(チョンサチョロン)と呼ばれます。青色は「陰(いん)」を表し、女性や大地、静けさを象徴します。赤色は「陽(よう)」を表し、男性や天、情熱を象徴します。この2色が合わさることで「宇宙万物の調和」「対極にあるものの結合やバランス」を意味しています。
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寛勲洞(クァンフンドン)の閔(ミン)氏家屋は元々は鍾路区寛勲洞の現在の「耕仁美術館」の場所に建っていました。以前は、「駙馬都尉朴泳孝家屋」と呼ばれていましたが、朝鮮末期の官僚であり、日本による植民地時代に韓一銀行の頭取などを務めた閔泳徽(ミン・ヨンフィ)の一家が暮らしていたことが確認されたため、2010年に現在の名称に変わりました。
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元は母屋(アンチェ)と繋がった中門屋(チュンムンガンチェ)しか残っていませんでしたが、1998年に「南山韓屋村」を造る際に現在の場所に移され、母屋(コンノンバン)を復元し、主人の居間(ナランチェ)と離れ(ピョルダンチェ)を新しく建てました。
寛勲洞 閔氏家屋 建造物
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家屋の基礎部分は基壇という石を積み上げた構造を持ちます。基壇の高さは社会階層によって異なり、班家では地面から30センチメートル程度の高さまで築き上げられ、柱の礎石は基壇の上に据えられます。礎石は自然石であり、柱の加担を削って礎石の上面に合わせますが、これをクレンイ法と呼びます。
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床は、土間、マル(板の間)、オンドル床(石床)の三種があり、家屋の柱や梁は木製であり、柱と柱、柱と梁は桁でつなぎます。桁の数は建屋の規模を意味し、桁が2個の建屋は棟木も含めて三梁家、桁が3個の場合は四梁家と呼びます。
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奥に見える白く細やかな格子窓は韓屋(ハノク)特有の伝統的な建具で、一般的に「チャンホ(窓戸)」と呼ばれます。伝統的には格子の内側に「チャンホジ(窓戸紙)」という上質な韓国の伝統和紙(韓紙/ハンジ)が貼られます。この和紙は非常に機能的で、外からの強い直射日光を遮り、障子のように部屋全体へ柔らかく均一な光を届ける役割を持っています。また、適度に湿度を調節し通気性も良いため韓国の厳しい寒暖差の中でも室内を快適に保つための先人の知恵が詰まっています。
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上の写真で床に置かれたのは韓国の伝統的な木製のくり抜き鉢の「ハムジ」で、大型で脚が付いた「ハムジバク」と呼ばれる生活調度品です。丸太や厚い木材を内側へ向けて丸またはは楕円形にくり抜いて作られており、朝鮮時代から一般家庭や貴族の家屋で幅広く使われていました。 主に伝統的な餅(トック)の生地をこねたり、大量のキムチやナムルを和えたりするための大きな調理器具として台所の近くに置かれていました。
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広々とした板の間(大青マル/テチョンマル)や美しく開放的な梁の構造からは、当時の両班(ヤンバン)など、上流階級の屋敷特有の格式高さが伝わってきます。
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日本の畳敷きの家屋とはまた違った美しさを感じます。
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床がオンドルだとしても部屋の中川はずいぶんと寒かったのではないかと感じます。ただ9月上旬の炎天下では板の間の上に寝転がったら気持ちよさそうです。
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司馬遼太郎が京都の産経新聞の記者だった頃の文化部デスクになって始めた連載企画「美の脇役」は、昭和33年から週1ペースで足かけ4年続きました。その中で唯一司馬遼太郎が執筆しているのが27篇の「二条陣屋の防音障子」で、母が育った祖父の家でもあります。美しい障子を見るとそのことを思い出します。
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外廊下は吹きっさらしなので冬はさぞ寒かったのではないかと思います。考えたら昭和30年代の子供の頃は冬は寒いのが当たり前でした。夏は長く伸びた庇が直射日光を遮り、通り抜ける風が心地よいです。
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こんな炎天下に見学する人の姿もほとんど無いので写真は撮りやすいです。
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家は変われど「バンダジ」の上に布団が乗るのは共通のようです。
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朝鮮時代には仏教が政治的に弾圧され、寺院の代わりに郷校や文廟、書院といった儒教建築が盛んに建てられました。儒教思想および儒教建築は住宅建築の空間構成にも影響を与えているようです。
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朝鮮における儒教の影響は政治の原理、社会秩序、家族倫理、教育制度の4つに特に強く表れました。とくに李氏朝鮮では儒教、とくに朱子学が国家の基本理念となり、社会全体を方向づけました。
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朝鮮王朝は王が徳によって治めるという儒教的な政治観を重視しました。官僚登用でも儒学の知識が重んじられ、国家運営の中心に儒者が置かれました。こうして儒教は王朝の正統性を支える考え方になりました。儒教は秩序や学問を支える一方で、身分固定や党争の激化にもつながり、朝鮮王朝では儒教主義の徹底が、両班中心の政治や派閥争いを強めた面は韓国ドラマを観ればよく分かります。
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儒教の礼や道徳は親子関係や祖先祭祀、男女の役割、身分秩序に強く影響しました。とくに家父長的な家族観や祖先を重んじる慣習は朝鮮社会の基本的な生活規範として広まりました。
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朝鮮時代の伝統的な婚礼や移動に使われた「四人轎(サイングョ)」と呼ばれた4人で担ぐ伝統的な輿です。主に朝鮮時代に婚礼の際に新郎や新婦を運ぶために使われました。
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儒教の婚礼では結婚は個人同士の恋愛よりも家系の継承と祖先祭祀を担う家の維持に重きが置かれました。そのため結婚は本人だけの問題ではなく、両家の秩序と責任に関わるものと見なされました。
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祭基洞(チェギドン)海豊府院君(ヘプンブウォングン)尹沢栄( ユン・テギョン )斎室は、元々は東大門に位置していましたが、1998年に保存のために南山韓屋村に移されました。1907年に尹沢栄(ユン・テギョン)の娘、純貞孝(スンジョンヒョ)皇后が「昌徳宮」に入った時に建てたものと推定されます。
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斎室とは先祖に対して祭祀を執り行うための建物、または祠堂の近くに建てる建物をいいます。この家を建てた海豊府院君の尹沢栄は大韓帝国の純宗の舅(しゅうと)だった人で、朝鮮最後の府院君として様々な官職を務め、1904年には経済研究会の総裁も務めました。
祭基洞 海豊府院君 尹澤栄斎室 建造物
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敷地内での建屋や構造物の配置は儒教的価値観の影響が強く、建物の周囲は牆垣で囲まれて大門が置かれます。上流住宅の場合は大門の脇には回廊状の建物である行廊棟(ヘンランチェ)が置かれ、倉庫ないし下人の生活の場として用いられます。
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敷地内部にはオンドル房2つ以上とマルから構成される主屋棟(アンチェ)、主人の日常の場である舎廊棟(サランチェ)が置かれます。
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主屋棟は主室でありオンドルが設置される内房(アンバン)とその補助空間である上房(ウッパン)、内房に隣接する台所に加え、板の間のマルともう1つのオンドル房である越房(コンノンバン)から構成されます。夫人は行廊棟の内房で、主人は舎廊棟のオンドル房である舎廊房(サランバン)で日常生活を送ります。
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この屋敷の障子も個人の家とは思えない美しさを感じます。
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李氏朝鮮時代の寝具はベッドなどではなく床の上で使う寝具が中心です。これは朝鮮半島のオンドルという床暖房と強く結びついていました。床を温める住まい方のために布団を床に敷いて寝て、昼はたたんで片づける使い方が基本でした。
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屋敷の奥には一段高くなったところにさらに基壇を築き、斎室が設けられています。
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斎室は朝鮮時代の儒教文化の中で祭祀の前に身を整える場、また祖先をまつる施設に付属する建物を指します。王室レベルでは宗廟にも斎宮や斎室にあたる空間があり、民間では墓所や宗家の近くに建てられる例が多く見られます。
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昨日見学した「宗廟」の民間版という印象を受けました。内部には韓国の伝統的な法事(チェサ)に用いられる祭壇(チャレサン)が飾られています。祭壇には故人や先祖を供養するための果物、菓子、真鍮製の器や急須に入った酒などが伝統的な作法に従って綺麗に並べられています。
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「位牌」は死者の名前を書いて魂に代わるという象徴性を持つもので、「教義(号)」は祭司や葬儀の際に死んだ人の位牌である神主を祀る用途に使用します。
祭祀の際には香炉と香合などを備えます。 -
建具の上部の冠木までは平行に構成されていますが、大きな軒先を支えるために垂木が反り繰り返り、美しい瓦屋根の形を形成しています。廊下や通常の床面(マル)からさらに一段高く作られた板張りの空間は、「楼マル(ヌマル )」 と呼ばれます。この空間は主に「休息・もてなし・学問」の場として使われていました。
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家屋における女性の生活空間(居間・寝室)である「アンバン(内房 / 内室)」です。家を切り盛りする女主人が日中を過ごし、夜は布団を敷いて寝室として使用しました。華やかな花鳥図の屏風(ピョンプン)や手前にある座布団(ポニョ)と脇息(キョクシ)は女性の空間らしく優雅で華やかな雰囲気を演出しています。
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衣服や布団、貴重品を保管する木製の美しい箪笥が置かれ、家庭内の財産や家事を管理する中心地で、親戚の女性や来客を迎え、お茶を飲みながら談笑する場所でもありました。
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韓屋の骨組みは柱・梁・桁・垂木、基本となる骨格にはすべて木材が使われています。日本の伝統家屋同様に木と木を連結する際に釘などは一切使われず、木材にホゾ組みで接合されています。マル(板の間)は松の木で仕上げられることが多いです。朝鮮半島では木材を豊富に手に入れることが難しく、板の長さや幅などを工夫し少しでも美しく見せたいという発想から生まれた朝鮮張りという、はしごのような貼り方で床を仕上げています。
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9月になっても暑さは続き、百日紅の花がまだ満開でした。
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玉仁洞家屋は1998年に「南山韓屋村」を造成する際に1913年建築の「鐘路区玉仁洞家屋」を手本にして建てられました。この家屋は北東向きの尾根に建てられた家屋の配置を参考にしており、家屋の構造は「ロ」の字形に整えられ、中央に中庭のある形で設計されました。
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隣接する祭基洞海豊府院君尹沢栄斎室から直接アクセスできる門を潜って移動します。
玉仁洞 尹氏家屋 建造物
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脇から入ったのでいきなりオンドルのためのレンガの煙突が現れました。これまでと形状が違うのでピザ窯のようにも見えてしまいます。
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マル(台所)の入り口の扉も杉の無垢材の観音開きの扉と閂が見えます。
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この屋敷の台所が一番使い勝手が良さそうに見えました。土間を見ると父方の大叔母の家を思い出します。大きな農家で表から裏木戸まで数百メートルはあったと思います。父に裏庭の竹やぶの竹で竹馬を作ってもらったり、土間に置いた臼と杵で草餅を作ったりした思い出が蘇ります。
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子供の頃の記憶ではもっと薄暗かったですが、韓屋はかなり明るくなるような設計がされていると感じます。谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」に感じるような日本文化が育ててきた暗がりや陰影の美しさを日本で感じることは少なくなりました。
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台所の土間から見た板の間はとても美しい空間です。
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側板や背板を極力なくし、細い柱と棚板だけで構成されたオープンな飾り棚を「四方棚(サバンタクジャ / タクジャ)」と呼びます。視線が奥に抜けるため、大型の家具でありながら空間に圧迫感を与えません。儒教精神の「無駄を削ぎ落とす」という美学が反映されているように思えます。
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さらに脇の門を出てみることにします。
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ここがこの屋敷の表玄関なのだということが分かります。参考にした建物が尾根に建てられていたことがよく分かります。建物の奥側は崖の上にせり出したように見えます。
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表門から正式ルートで屋敷の中を見学していきます。
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この建物では何かしらのワークショップが催されていて、座敷の中では若い人で賑わっていました。
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再現された家屋なので屋根を構成する丸太の垂木なども木材の木肌が美しいです。ただ、納められている家具などは古いものなので歴史を感じさせます。
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先ほど見た台所を反対側から眺めています。
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「陰影礼賛」では日本建築は強い光を室内にそのまま入れず、深い庇の下に空間を引き込むつくりだと述べています。
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外の光は障子や紙を通して直接の光線ではなく、ぼんやりした柔らかい明暗の移り変わりを日本的空間の魅力として見ています。
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今回はじっくり韓屋の建築を見学しましたが、日本人よりも観光の人の方がその美しさをよく知っているのではないかと思えました。
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建物と建物の間の空間も美しい借景のようになっています。
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開いている部屋で少し昼寝でもさせてもらいたいほど今回のツアーでは疲れ果てていました。特に早朝や夜間に出掛けたりもしていないのですが歳をとったと感じます。
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入り隅の丸太の垂木の納まりが気になってしまいます。
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少し離れた場所に「南山国学堂」がありますが、ホール自体は地下にあるのでこれまでの伝統的な韓屋にしか見えません。一度伝統舞踊や音楽は観てみたいと思っていますがまた次回の楽しみにします。
ソウル 南山国楽堂 劇場・ホール・ショー
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「伝統工芸館」まで妻を迎えに行き、2人とも疲れたのでこのままホテルに戻ることにします。
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2026/09/03~
ソウル
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(11)明洞の夜は明洞ナンタ劇場で「NANTA」を観て、オダリチプで美...
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ソウル
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(1)今年4回目の韓国旅行はチェジュ航空に乗って釜山からソウルを目指す...
2026/08/31~
釜山
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(2)2度目の慶州では前回行けなかった瞻星台と鶏林と半月城を見学し、慶...
2026/08/31~
慶州
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(3)大邱郊外の高霊池山洞古墳群の大伽倻王陵展示館を見学し、山頂の池山...
2026/09/01~
大邱
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(4)高霊池山洞古墳群の大伽倻博物館を見学して伽倻国の歴史を学ぶ。
2026/09/01~
大邱
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(5)陜川で山菜ビビンバを食べて長年の夢だった海印寺を参拝するも参道の...
2026/09/01~
その他の都市
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(6)水原華城を見学してカルビも食べられずにソウルに入り北岳八角亭を目...
2026/09/02~
水原
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(7)25年振りのソウルは宗廟の参拝からスタートする。
2026/09/02~
ソウル
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(8)炎天下の中で李氏朝鮮の正宮として使用された景福宮を見学し、朝鮮時...
2026/09/02~
ソウル
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(9)4日目のソウルはフリータイムで、明洞でのショッピングとコリアハウ...
2026/09/03~
ソウル
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(10)韓国で問う料理の昼食の後は南山ゴル韓屋村で伝統家屋について学ぶ...
2026/09/03~
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(11)明洞の夜は明洞ナンタ劇場で「NANTA」を観て、オダリチプで美...
2026/09/03~
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トラピックス まるごと韓国大縦断5日間(12)明洞のポスン会館でスンデとクッパでマッコリを空けて仁川空港から...
2026/09/04~
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