1982/08/13 - 1982/08/16
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jijidarumaさん
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【Bodenseeボーデン湖】という名は、カロリング王家の館ボードマンに由来していると云う。
Bodenseeボーデン湖は英語でLake Constance、仏語はLac de Constanceと称し、つまりコンスタンツ湖であるが、ドイツ文学的には【Schwäbisches Meerシュヴァーベンの海】とも云われている。
ドイツ最大のボーデン湖の面積539万平方キロ、周囲263km、最大水深252m、湖にはアルプス山系などから合計236本の河川が流れ込む。
その中で一番大きい川は父なるライン川だ。
ボーデン湖はライン川の水量調整湖として重要な役割を果たし、ドイツ、オーストリア、スイス3国の国境線となっている。ライン川は湖の東南端で、湖の中にデルタを今も築き続けながら、湖に流れ込み、西北端のKonstanzコンスタンツで西に向い、Unterseeウンターゼーを通り、Stein am Rhein シュタイン・アム・ラインで再び、Hochrhein高ライン川を形成し、Baselバーゼルに流れていく。
ボーデン湖の周辺一帯は温暖気候なので、果物とワインのためのブドウ栽培に適している。
また、ボーデン湖の沿岸はいたる所に歴史のある街がたくさんあり、そこでは中世建築が多く見られる。夏には無数の白やカラフルなヨットが浮かぶボーデン湖にはアルプス山脈のパノラマを前にして、人々を魅了する南欧風な雰囲気が満ちみちている。
Wasserburg am Bodenseeのヴァッサ―ブルク観光局で頂いたパンフレットの表紙には次の言葉が書かれている。
【休暇に海が必要ですか?!】とある。
何もかも揃った保養地・ボーデン湖で過ごす事ができれば、なにもわざわざ、海に出かける必要など無いと言いたげに・・・。
ボーデン湖周辺は誠に“海”を必要としない。この広い湖の周辺には、太陽とワインとそして、素晴らしい景色がある。
写真:広大なボーデン湖の絵葉書とリンダウの湖畔ホテルの冊子とMap
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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【Villa Tannhofヴィラ・タンホフ 】
8990Lindau-Schachen、Oeschländerweg 24
(Schachen=einem Stadtteil von Lindau, Insel am Bodenseeシャッヘンはボーデン湖の島、リンダウの一地区・・・凡そ2kmの距離にある)
ヴィラは新ルネサンス様式の参階建て、レンガ造りで石材の装飾入り、出窓塔と切妻の突出部付き、Leonhard Bürgerレオナルト・ビュルガーによる建設(1885~1887年)。尚、ヴィラのParktor門は同時期 に建てられたものである。
現在はリンダウ市の歴史的建築物のリストにVilla Tannhofヴィラ・タンホフとして表示されていている。上記はそのコメントを引用した。
私共が宿泊した、1982年の頃は、洒落た Strandhotel Tannhof湖畔ホテル タンホフ として知られていた。(後述)
写真:Strandhotel Tannhof 、 Lindau am Bodenseeリンダウの湖畔ホテルの冊子とMap -
Lindauリンダウは、バイエルン州シュヴァーベン行政管区に属する都市で、人口は約2万4千人の小都市である。
古来、Lindauリンダウと称されてきたが、この意は「湖の中の Lindeリンデ(ぼだい樹)の茂る島」だそうで、ドイツ人が好みそうな名前だ。
ボーデン湖には2000平方m以上の島が10個あるそうで、その代表的なものが最大のInsel Reichenauライヒェナウ島、二番手にInsel Lindauリンダウ島であり、Insel Mainauマイナウ島は三番手である。それぞれの島はすべて訪れた。
スイス、オーストリア国境に面する広大なボーデン湖に浮かぶInselインゼル(島)として、鉄道も島まで橋沿いに乗り入れるほどである。
観光産業が発展し、多くの観光客を集め、<Deutsche Alpenstraßeドイツ・アルペン街道>(リンダウから南東端ベルヒテスガーデンまで、オーストリアとの国境をなすアルプス山脈の麓を湖と丘陵を縫うように通る総延長450kmの街道)の起点となる町だ。
この街道も走ってみると、なかなか面白い。
近隣の都市は、Lindauリンダウの街中を抜けて西に5kmを走るとWasserburgヴァッサーブルク(Schlosshotel Wasserburg古城ホテル ヴァッサーブルグ城
が半島にあり、2007年4月に訪れた)、約20km北西にFriedrichshafenフリードリヒスハーフェン、40km北西にKonstanzコンスタンツ、30km南西にスイスのSankt Gallenザンクトガレンが位置している。
写真:1982.08.13.Bodensee Lindau・・・ボーデン湖の絵葉書、フレスコ画の美しいリンダウの市庁舎(1400年代)、市郷土博物館市立博物館(リンダウ) 博物館・美術館・ギャラリー
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【セピア色した思い出:ドイツ人に「シュヴァーベンの海」と呼ばれるボーデン湖、リンダウの湖畔ホテル タンホフに3泊して夏の旅の最期を楽しんだ。】
この詩的な、或いは洒落て【Schwäbisches Meerシュヴァーベンの海】とも呼ばれている。
「シュヴァーベンの海」とドイツ人たちが書くのもその昔、帝政期ローマの政治家、歴史家であったCornelius Tacitusコルネリウス・タキトゥス(西暦55年頃~120年頃:主たる作品は年代記、ゲルマニア、同時代史)が、ボーデン湖についてタキトゥスが『ゲルマニア』で使用したと云われている。
いろいろと調べてみると、古い時代だけに、大学者でも誤解したようである。ラテン語でMare Suebicumとは古代ヨーロッパの民族であるSuebenスエビ族の海を意味し、当時のバルト海であったと云う。
スエビ族は元々、バルト海南部を根拠地、故郷としていた。その為、ローマ帝国ではバルト海南東海域がスエビの海(Mare Suebicum)と呼ばれた。紀元前からGermaniaゲルマニア(ゲルマン人の地)に住み、ローマ領やガリア(現在のフランス)の地へ侵略を繰り返していた。ローマでは民族移動時代の前ではゲルマニアに住む民族のうち最強の民族として知られていた。帝政期に入ってからもたびたび侵略し、スエビ族らの攻撃を防ぐため、ローマ帝国はローマ帝国の国境線リーメスを建設することとなったと云う。
そうした時代的背景があったが、「シュヴァーベンの海」の呼び名は、近代以前からの多くのドイツ人著述家や詩人たちが使ってきたもので、特定の一人の「命名者」がいるわけではないらしい。
つまり、古代ローマ人がバルト海の一部を「Mare Suebicumスエビの海」と呼んでいたことを、近世以降のドイツの著述家が誤ってボーデン湖に当てはめた、という説が一般的だそうだ。
ともあれ、作家たちがかつてのHerzogtum Schwabenシュヴァーベン公国の中央にある最大のボーデン湖を海に見立て、シュヴァーベンの海としてしまったのも、面白いし、これも是としたい気持ちがある。
参考写真:19.10.2020._Flug_mit_dem_Zeppelin_über_Lindauツェッペリン飛行船から見下ろした、ボーデン湖で二番手に大きなリンダウ島 -
参考写真:Insel Lindau De_Merian_Sueviae_um1650リンダウ島1650年頃、メリアンの作
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リンダウは13世紀、神聖ローマ皇帝のRudolf von Habsburgルドルフ1世によって、帝国自由都市の地位を認められた。
そして、中世よりボーデン湖を舞台とした物流の拠点として栄えていった。
17世紀、三十年戦争でスウェーデン軍が町に迫るが、略奪は免れたと云う。
19世紀初頭よりオーストリア帝国からバイエルン王国の支配下に入った。
写真:1982.08.13.Bodensee Lindau・・・夕暮れのリンダウの町を散策。左上に有名なリンダウ灯台とライオン像、右上はベコニア、サルビア、日日草が咲く道を歩く。左下は湖畔ホテルの庭でブランコに乗って喜ぶ次女、湖畔ホテルとMap -
【Strandhotel Tannhof湖畔ホテル タンホフ】
8990Lindau-Schachen、Oeschländerweg 24
8月13日から16日まで3泊4日を過ごした。
この旅も湖畔ホテルを拠点にして、Liechensteinリヒテンシュタイン公国、スイスのLuzernルツェルン、Zürichチューリッヒまで足を延ばした。
写真:1982.08.13.Bodensee Lindau広大なボーデン湖の絵葉書とリンダウの湖畔ホテルの冊子とMap
Der Bodensee: Sommerfeeling zwischen Deutschland, Österreich und der Schweiz | ARD Reisen
https://www.youtube.com/watch?v=-HZB3dam9gg -
湖畔ホテル タンホフはその名の通り、ボーデン湖に面した広大な敷地(庭園)19000㎡の中に、新ルネサンス様式の参階建て、レンガ造りで石材の装飾入り、出窓塔と切妻の突出部付きの洒落た本館・レストランがあり、そこから30m離れた位置に宿泊棟が建っていた。
冊子によれば、100年前にSchlösschen小城があった場所に湖畔ホテルが建てられたとある。
写真:Strandhotel Tannhofの冊子(本館) -
イチオシ
レストランで夕食(何を食べたのか、記録がない!)を終えて、入り口の階段で写真を撮る。
もう午後9時半だが、夏場はまだ明るい。
写真:1982.08.13.Bodensee Strandhotel Tannhof(本館とレストラン) -
写真:Strandhotel Tannhofの冊子(本館)・・・マナーハウスのような本館で、ここに入る際はきちんとした格好をした。
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写真:Strandhotel Tannhofの冊子(レストラン)
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写真:Strandhotel Tannhofの冊子・・・・湖水に向かって、広い芝生の庭があり、のんびり滞在を楽しめたが、当時は若く、行動的であったから、朝から晩まで車を走らせていた。
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このホテルは宿泊棟が4階建て、階層毎前後の部屋と屋根裏部屋を加えて、40部屋ぐらいであったろう。
6X12mのプールも併設されていた。
写真:Strandhotel Tannhof の冊子(宿泊棟)・・・さすがに本館とは違う。 -
1974年2月、ゲーテ語学校にいた時、初めてFürstentum Liechtensteinリヒテンシュタイン公国の首都Vaduzファドゥーツに出かけた。
東西10km、南北24kmの小さな国、山間にある人口3万人ほどの小さな公国、税金も軍隊もない国は切手で有名だった。
1982年の8月14日にもボーデン湖から長躯して、ヒテンシュタイン公国とスイスのルツェルン、チューリッヒなどを訪れた。
1970年代に訪れた場所を大きくなった娘たちと再訪したのだ。
小高い丘の上に建つヒテンシュタイン公国の城、城内にはもちろん入ることはできないが、近くまで行って写真は撮れる。
写真:1982.08.14.Liechenstein (上左右、右下)& Luzern(左下)ファドゥーツ城 城・宮殿
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ドイツで生まれて初めての自動車免許(1974年12月)を取り、第一回目の駐在中にヨーロッパをオペル車で凡そ4年半の間、10万kmを走りました。
翌年の夏、家族をオペルに乗せて南ドイツ、スイス、リヒテンシュタイン、オーストリアを巡った。思えば、ナビなしの時代、地図と観光本だけで周遊した。
30代、若かったからできたのだろう。
写真:リヒテンシュタイン城:左は1974年2月23日の私、中央と右の写真は1975年8月14日家族と再訪した時 -
当時、私共は31歳、娘たちは5歳と3歳でした。
赴任して、家族を連れて最初に行きたかったのはロマンチック街道であり、更に東に走りバイエルンの州都ミュンヘン、私が学んだゲーテ・ドイツ語学校のあったキームゼー湖畔のプリーンでした。
その後、オーストリアに入りザルツブルク、チロルのインスブルックを訪ね、いったんドイツの新白鳥城を見て、リヒテンシュタイン公国、スイスのチューリッヒ、ルツェルン、人気の高い山ユングフラウヨッホに登山列車で登り、氷河を見て、首都ベルン等の地を巡った盛りだくさんの旅でした。
写真:1975年8月夏の休暇旅行・南ドイツ~スイス・・・新白鳥城、リヒテンシュタイン城など・・・電気釜を持参し、おにぎりを食べた旅でもあった。 -
スイス・ルツェルン(人口7万人)はスイスでもその景観の美しいことで知られ、街中の散策も楽しい。また、ロイス川に架かる、屋根付きの木造橋・Kapellbrückeカペル橋は実に絵になりました。水鳥に娘たちはパンをちぎってあげています。
天気も良く、この日は皆、陽に焼けました。
カペル橋前は観光客でいっぱい、日本人観光客も多かった。
次女は手まわしオルガン弾きの小父さんに小銭をあげに行き、写真も一枚。
写真:1982.08.14.Luzern カペル橋にてカペル橋 現代・近代建築
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【1975年8月9日~8月19日 10泊11日 夏の休暇Urlaub旅行
ロマンチック街道から南独、オーストリア、スイス巡り】
もう51年昔の事だ。
Zürichチューリッヒから、=>A4 Zugツークを経由し、=>A4・2 ルツェルン傍のBrunnenブルンネンを訪れた。
この町は宿が取りやすかっただけで、泊まったのだが・・・。
⑧1975年8月16日(土) 晴れ ;210km
ブルンネン=>A2 Luzernルツェルン
<ルツェルン観光>
(9:30~14:00)
スイスの中央に位置するルツェルンは美しい湖畔に中世からの建物が並ぶ古都、昔も今もスイスを代表する水の都・観光地である。人口は75千人。
見るべきものは中世の市城壁Museggmauerムーゼック城壁、
1792年のフランス革命の時に、ルイ16世を守って果てたスイス傭兵の記念碑“瀕死のライオン像”、
屋根付きの木橋・カペル橋(1333年)と17世紀という110枚の歴史画、旧市街に残る見事な「フレスコ画」・壁画の建物、
初めて見たGletschergarten氷河公園・氷河臼など。
とりわけ、魅力的なのはReuss (Fluss)ロイス川に架かるKapellbrückeカペル橋(全長204.70 mで、欧州最古の木造橋と云われ、実に絵になりました。
ゼラニウムの花などが橋の欄干、旧市街の噴水、フレスコ画に彩られた建物を飾り、夏のルツェルンは美しかったです。
橋に隣接して、8角形をした、レンガ造りの高さ43mのWasserturm水の塔がある。この塔はかつて監獄や拷問部屋として使用されていたそうだ。
その後、屋根付きの木橋・カペル橋が1993年に、*火事で焼けおちた事がありました。あの時、110枚の歴史画も失ったかと思うと残念なことです。
(*Wikiによれば、橋の大部分と、ほとんどの絵は焼失してしまったが、すぐに再建された。)
・・・・・
写真:1975.08.15.Lutzernルツェルン・Kapellbrückeカペル橋、テルの像、瀕死のライオン像・・・・1975年の写真の方が1982年の写真よりもきれいに色合いで残った。 -
写真:1982.08.14.Luzern・Kapellbrückeカペル橋=> Zürichseeチューリッヒ湖・・・たまたま、チューリッヒで昔の舟遊びを見た。二艘の船が登場し、其々の船から男性が一人立ち上がり、長い竹竿のようなもので、相手を突き落とそうとし出した。お祭りの競技なのだろう。
リマト クルーズ (リマト川~チューリッヒ湖) 体験・アクティビティ
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写真:1975.08.15.Zürichチューリッヒ訪問:湖と大聖堂
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写真:1975.08.15.Zürichチューリッヒ訪問:遊覧船、湖と大噴水
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写真:1975年8月夏の休暇旅行・南ドイツ~スイス・・・上左右はマイエンフェルトのハイジの泉と草原、小さな素朴な村(人口は2500人)だが、この村はアニメ『アルプスの少女ハイジ』でよく知られている。下左右はチューリッヒの大噴水、ムーゼック城壁など
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8月15日の朝は本館のテラスで朝食をしたのか、朝食後にテラスで庭、湖の景観を楽しんだのか?多分後者だろう。
この日はコンスタンツの町の散策、マイナウ島の花々の見物である。
写真:1982.08.15.Bodensee Strandhotel Tannhof湖畔ホテル タンホフにて -
写真:Strandhotel Tannhof Lindau am BodenseeのMap
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参考写真:Strandhotel Tannhof_Lindau_Bad_Schachen_1987年当時に撮影された写真を見つけた。
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この日は船でリンダウ島からコンスタンツの町に行き、さらにマイナウ島に渡った。マイナウ島の花々の見物である。
その後、またボーデン湖を横切り、コンスタンスからメアーブルクに船で渡った。
写真:1982.08.15.Bodensee Strandhotel Tannhof=>Kostanz=>Insel Mainau -
マイナウ島はドイツ南西バーデン・ヴュルテンベルク州のボーデン湖の島(コンスタンツのユーバーリンガー湖の南岸)である。
現在はコンスタンツの15の区(行政区画)の1つとなっている。
マイナウ島の平均は、海抜395mから425mの間の高さにあり、その最高峰はGroßherzog-Friedrich Terrace大公フリードリヒテラスである。
この島は北から南までの長さが610m、西から東までの幅が1,050mとかで、島の周囲は約3kmと云うからそれほど大きな島といえないが、面積45ヘクタールということで、ボーデン湖の中では第三番手に大きいのだ。
参考写真:Insel Mainau Aus_dem_Zeppelin_fotografiertマイナウ島をツェッペリン飛行船から見下ろした。 -
島の歴史はDeutschordenドイツ騎士団時代に建てられたバロック様式の建物から始まった。
大公フリードリヒ一世のひ孫で島の主であるGraf Lennart Bernadotteレンナルト・ベルナドッテ伯爵(1909年~2004年)が、荒れ果てた地を花と樹木のパラダイスに造り変え、一般に公開した。
彼の死後、一族がこの島を管理している。
参考写真:Insel Mainau Deutschordenschlossマイナウ島にあったドイツ騎士団の城 -
イチオシ
ボーデン湖の主要な観光名所の1つであり、湖の景色を望む公園がある。
お花畑のように四季折々に多様な花を楽しむことができるため、「花の島」という名前で有名になった。島内は温暖な気候で、メタセコイアやバナナの木、多くの種類のヤシの木などのエキゾチックな木が存在する。
この亜熱帯の植生に加えて、中央ヨーロッパの木々も生息している。
マイナウ島の温室では、南米・中央アメリカ、アフリカ、アジアの熱帯地域から来た最大120種類の蝶とその亜種が生息している。
写真:1982.08.15.Bodensee Insel Mainauマイナウ島ボーデン湖の中では第三番手に大きいマイナウ島は、バーデン大公一族が創った美しい花々の島だ。 by jijidarumaさんマイナウ島 自然・景勝地
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島内は思っていた以上に観光客が訪れていた。花好きなドイツ人たちには好評なのだろう。
こちらの写真にも噴水とバラ園(右上)が香りも良く美しく、さらに大きなうさぎさん(左上)、美しいクジャク(左下)、そして見事な水鳥(右下)の花壇に飾られた花々、当時のドイツであまり見かけなかったから感心したものだ。
写真:1982.08.15.Bodensee Insel Mainau マイナウ島の花々 -
<Pfahlbaumuseum Unteruhldingenウンターウルディンゲンの杭上の家博物館>
1982年当時はFreilichtmuseum deutscher Verzeit in Unteruhldingen
ウンターウルディンゲンのドイツ野外博物館と呼ばれていた。
初めてみた<杭上の家々>はとても面白かった。
ウンターウルディンゲンのPfahlbau杭上の家博物館(1922年開館)は、ボーデン湖沿いにあるArchäologie考古学の野外博物館で、ウンターウルディンゲンのボーデン湖地区(バーデン・ヴュルテンベルク州)に博物館の建物も併設されている。
ここではSteinzeit石器時代や Bronzezeit青銅器時代(紀元前1100年頃)の杭上の村の考古学的な出土品や復元建物を展示している。
現在、23棟のPfahlbau杭上の家があり、博物館には科学的な研究機関も付属していて、年間で最大30万人の来館者があり、ヨーロッパでも最大級で最も訪問者の多い野外博物館の一つと云われている。
この博物館には、野外博物館のほかに、いわゆる旧博物館と新博物館の二つの建物があり、旧博物館では、歴史的な展示スペースとして、アルプス周辺の世界遺産である杭上住居に関する展示として、ボーデン湖の杭上住居からの1000点以上のオリジナルの出土品が展示されている。
https://de.wikipedia.org/wiki/Pfahlbaumuseum_Unteruhldingen
Uhldingen-Mühlhofenウルディンゲン・ミュールホーフェンは、バーデン・ヴュルテンベルク州、ボーデン湖地区にある町です。
この人口8千人の町は国によって認められたリゾート地でもある。
写真:1982.08.15.Insel Mainauマイナウ島(右上)、KonstanzコンスタンツのKonzilgebäude宗教和議の館 (左上)、杭上の家野外博物館(下の左右)和議の館 史跡・遺跡
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参考写真:Das_Pfahlbaumuseum_Unteruhldingen,_Bodensee,_aus_dem_Zeppelin_fotografiert._05ツェッペリン飛行船から見下ろした杭上の家野外博物館。
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Konstanzコンスタンツは、バーデン・ヴュルテンベルク州の都市の一つ。ボーデン湖に面する。コンスタンツ公会議(1414年から1418年にかけて神聖ローマ帝国内のコンスタンツ司教領で開催されたカトリック教会の公会議)で知られる。
メーアスブルクはボーデン湖畔最大の街「コンスタンツ」から遊覧船で訪れると7km、所要時間は30分、気分の良い船上の旅だ。
写真:2007.04.27.Meersburgメーアスブルクから見るボーデン湖の景観。旧城 城・宮殿
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写真:2007.04.27.Meersburgメーアスブルクから見るボーデン湖の景観。
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因みに、参考に書くと、広大なボーデン湖なので、洪水が発生するとは思っていなかったが、Hochwasser Bodenseeボーデン湖の大洪水はしばしば起こっていた。
その最大のものは高さ6.36m(7. Juli 1817年)に及ぶ大洪水の記録で、いまだにそれを超える大洪水はないと云う。
参考写真:Bodensee_Wasserburg_Alpenhochwasser_2005年に起こったアルプス大洪水では、リンダウからも近いヴァッサ―ブルクの町は港湾が流木などで埋め尽くされてしまった。 -
古くからの城下町Meersburgメーアスブルク(海の城の意)である。
メーアスブルクの町はボーデン湖の西北端に位置して、コンスタンツはその対岸にある。この町はボーデン湖の岸から丘に向かって広がる狭い斜面に、Unterstadt下町とOberstadt上町とで形成されている。
上町のマルクト広場を中心に木組み建築の建物(この町がドイツ木組み建築街道南ルートの終着点になる)が、中世からの歴史的面影を残している。
メーアスブルクの名の由来となったAltes Schloss旧城をまず見に行く事にした。
ボーデン湖を見下ろす高台には、7世紀にメロヴィング王朝のダンゴベルト1世によって築城された旧城がドイツ最古の完全な形で保存されている。
古城の姿や下町、上町の旧市街は海のようなボーデン湖側から見ても、丘側のドロステの館から見ても、たいへん趣むきがあって美しい。
夕食は湖畔ホテルに戻らず、メーアスブルクの街中でとった。
楽団も入ったレストランはにぎやかで楽しい。
写真:1982.08.15.Meersburgメーアスブルク訪問と夕食、
08.16. 湖畔ホテル タンホフの門前で写真を撮り、出発した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
私の記憶の中にある、一日走行最長距離は1982年8月16日にボーデン湖畔のLindauリンダウからDüsseldorfデュッセルドルフまでの567kmです。
この時も1975年8月の旅に似て、ロマンチック街道とアルペン街道、ボーデン湖、リヒテンシュタイン公国、オーストリア、スイスと走り、凡そ2400kmの距離を走りました。
娘たちの成長に合わせて、1975年、1982年と似た旅をした。それで、ドイツの記憶が良く残ったせいか、二人の娘たちも新婚旅行はドイツに行っている。
(2026年07月30日Wiki・HP参考、訳、編集追記)
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