1983/05/21 - 1983/05/21
3位(同エリア17件中)
jijidarumaさん
- jijidarumaさんTOP
- 旅行記575冊
- クチコミ659件
- Q&A回答107件
- 1,010,360アクセス
- フォロワー107人
【皇帝ナポレオンが、英蘭普連合軍に敗れた屈辱の地Schlacht bei Waterlooワーテルローの古戦場を訪ねた。】
1983年の春を迎え、1983年5月21日~23日、Pfingstenフィングステン(聖霊降臨祭)の休みにベルギーとオランダに小旅行した。
ベルギー・フランドル地方を中心にオランダの南部を一寸かすめて走る旅である。
2泊3日の行程は、DüsseldorfデュッセルドルフからAachenアーヘン、ベルギーのLiegeリエージュを経由し、Bruxellesブリュッセル(ブリュッセル公園、Waterlooワーテルロー古戦場、市旧市街観光)、Maarkedalマールケダル(Hotel Schamrockに1泊)、Gentゲント(フランドル伯の城、運河、旧市街観光)、Bruggeブルージュ(運河、旧市街観光)、Antwerpenアントワープ(ステーン城=海洋博物館)、
オランダのMaastrichtマーストリヒト(城塞都市)、Valkenburgファルケンブルク(城址と洞窟、Hotel Princess Julianaホテル ユリアナ王女に1泊)、そしてデュッセルドルフに戻った。
行程は凡そ900km(83,269km=>84,162km)を走った事になる。
写真は1983.05.21.ベルギーの古戦場ワーテルロー:右上から時計回りにブリュッセル公園、ワーテルロー古戦場のライオンの丘に登る、ライオンの像、ライオンの丘をバックに、ライオンの丘からパノラマ館を見下す。
- 旅行の満足度
- 5.0
-
第一日の行程(297km):
Düsseldorfデュッセルドルフ=>76km、Aachenアーヘン=>59km、ベルギーのLiegeリエージュ=>94km、Bruxellesブリュッセル(ブリュッセル公園、Waterlooワーテルロー古戦場、市旧市街観光)=>68km、Maarkedalマールケダル(Hostellerie Shamrock オステルリー・シャムロックに1泊)。
写真は1983年の春を迎え、ベルギー・フランドルの小旅行 -
1983年5月21日、デュッセルドルフを早朝の6時20分に出発し、雨も上がって、ベルギーのブリュッセル公園経由、Waterlooワーテルローには8時30分に到着した。
9時半の開園を待って、車内で軽食を食べて待った。
この旅で最初の目的地、英雄・フランスの皇帝ナポレオンが、英国・和蘭陀王国・普魯西(プロシア=プロイセン王国)王国の連合軍、つまり英蘭普連合軍に敗れた屈辱の地ワーテルローの古戦場である。
意外にも、駐在二度目に漸く訪れたことになる。
ヨーロッパの歴史に欠かせないナポレオン時代の最後を飾る「(独語)Schlacht bei Waterlooワーテルローの戦い」と呼ばれている古戦場だ。
写真はベルギーのブリュッセル公園(ブラバント公の狩猟場)を見て、Waterlooワーテルロー古戦場に向かう。デュッセルドルフ空港 (DUS) 空港
-
イチオシ
写真はベルギーのブリュッセル公園(ブラバント公の狩猟場)・・・1830年、オラントとベルギー独立戦争の戦いが此処であったそうだ。
-
イチオシ
<La Butte du Lionライオンの丘>
Ronte du Lion 1815, 1420 Braine-l'Alleud
Walloon Brabantブラバン・ワロン州、ワーテルロー(現人口3万人)南南東5kmのMont Saint Jeanモン・サン・ジャンには、戦いの記念碑、通称「ワーテルロー・ライオン」があり、このライオン像は敵であったフランスを向いている。
記念碑のある人工の丘は1823~1826年の3年をかけて完工した。
「Butte du Lionライオンの丘」と呼ばれ、階段で登ることができ、ベルギーの観光名所となっている。
写真はベルギーの古戦場ワーテルロー:右上から時計回りにブリュッセル公園、ワーテルロー古戦場のライオンの丘に登る、ライオンの像、ライオンの丘をバックに、ライオンの丘からパノラマ館を見下す。皇帝ナポレオンの屈辱の地ワーテルローの古戦場を訪ねたら、ライオン像の丘に登るべし。 by jijidarumaさんライオン像の丘/パノラマ館 モニュメント・記念碑
-
ライオンの像は、28トンもの重さがあり、メッヘレンの彫刻家ヴァン・ヘールが製作し、リエージュのコックリルが鋳造した砲身を鋳つぶして作られたライオンの像で、丘の高さは45mくらい、急傾斜の226段の階段を上がった頂上に、*オラニエ王子の名誉の負傷を記念して作られた。
これは敗走したナポレオン軍が遺棄した野砲を鋳つぶして作ったものだ。
*オラニエ公ウィレム(Willem Frederik George Lodewijkウィレム・フレデリック・ヘオルヘ・ローデウェイク)は、後に第2代オランダ国王(在位:1840年~1849年)、及びルクセンブルク大公)に即位した。
イギリス軍に加わり第1軍団を指揮し、**Bataille des Quatre Brasカトル・ブラの戦い、ワーテルローの戦いに参戦し、負傷した。
**1815年6月16日、カトル・ブラの交差点の近くで「カトル・ブラの戦い」 が ナポレオン・ボナパルト から左翼を任された ネイ元帥 と ウェリントン公 の間で行われた。ウェリントン率いるイギリス・オランダ連合軍が、ミシェル・ネイ率いるフランス軍を撃退した。
ナポレオン最後の戦いとなったワーテルローの戦いの前哨戦のひとつである。
写真はベルギーの古戦場ワーテルローのLa Butte du Lionライオンの丘:絵葉書 -
参考写真は古戦場ワーテルロー:Waterloo-Butte-du-Lion-view Braine-l'Alleudライオンの丘をフランドルの平原(草原)の先に臨む。
-
ワーテルローの戦いにおける双方の兵力、戦後の死傷者等の数値(概略)は以下の通りだと云う。
ワーテルローの戦いは1815年6月18日の1日で決着したが、如何に大きな戦いであったかが分かる。
<両軍の兵力対比>
フランス帝国軍:
総兵力73,000人(歩兵50,000人、騎兵15,000人 銃・砲兵8,000人、野砲252門)
英蘭普連合軍:
総兵力120,000人(歩兵91,000人、騎兵21,000人 銃・砲兵8,000人、野砲282門:英蘭連合156門、プロイセン126門)
(ウェリントン公爵旗下の連合軍:英、蘭、ハノーファー王国など68,000人と、ブリュッヘル元帥旗下のプロイセン軍50,000人:後のドイツ帝国軍)
<戦後の両軍死傷者等の数対比>
フランス帝国軍:
死傷者25,000人、捕虜8,000人、脱走者15,000人、遺棄された野砲220門、
英蘭普連合軍:
死傷者24,000人(ウェリントン公爵旗下の連合軍死者3,500人、傷者10,200人、行方不明者3,300人 合計17,000人。ブリュッヘル元帥旗下のプロイセン軍死者1,200人、傷者4,400人、行方不明者1,400人 合計7,000人)
尚、両軍の乗馬7,000頭が死んでいる。
参考写真は古戦場ワーテルロー:古戦場の慰霊碑など -
写真は古戦場ワーテルロー:ライオンの丘(226段)に登る。
-
写真は古戦場ワーテルロー:3年をかけたと云う、ライオンの丘に登る。下を見ると実に急な階段だ。
-
ライオン像は戦場に捨て置かれたフランス軍の野砲を鋳つぶして造ったと云う。
長さ4.5m、
高さ4.45m、
重さ28トン、
基礎の土台の高さは6mだそうだ。
ライオンの像の足で野砲の球を抑えているのだとか。
この像は急傾斜の226段の階段を上った頂上(高さは45mくらい)に在って、因縁の敵国フランス(首都パリ)をにらんでいる。
写真はライオン像の絵葉書 -
参考写真は古戦場Waterloo-Butte-du-Lionワーテルローのライオンの丘:ライオンの丘から古戦場を望む。
-
写真は古戦場ワーテルローのライオンの丘をバックに下から撮った。雨上がりで少々上がモヤッテいた。
-
写真は古戦場ワーテルローのライオンの丘:登り賃は4人分DM3.25でした。
-
イチオシ
写真はベルギーの古戦場ワーテルロー、ライオンの丘、ブッラッセルの3枚の絵葉書と、右下に1830年ベルギーがオランダから独立した記念塔(46mの塔上にベルギー初代国王Léopold I レオポルド1世の像があり、搭の下前面に無名戦士の墓がある)。
-
写真はベルギーの古戦場ワーテルローの絵葉書(ナポレオン、ライオンの丘など)
-
<Panorama de la Batailleパノラマ館>
Ronte du Lion 315, Waterloo
1915年に建設された、丘の手前には「パノラマ館」という展示施設があります。
長さ35m、高さ15m。
参考写真は古戦場ワーテルローのライオンの丘とパノラマ館:Panorama_de_la_bataille_de_Waterlooワーテルロー パノラマ館 博物館・美術館・ギャラリー
-
参考写真は古戦場ワーテルローのパノラマ館
-
【Schlacht bei Waterlooワーテルロー(La Belle Alliance ラ・ベル・アリアンス)の戦いとは】
1815年6月18日、ベルギー(当時ネーデルラント連合王国領)のワーテルロー近郊においてイギリス・オランダをはじめとする同盟軍およびプロイセン軍と、フランス皇帝ナポレオン1世( Napoléon Bonaparteナポレオン・ボナパルト)率いるフランス軍(大陸軍=グランダルメ)との間で行われた一連の戦闘を指す名称である。
フランス軍が敗北し、ナポレオンにとって最後の戦いとなった。
「ラ・ベル・アリアンスの戦い」(独: Schlacht bei Belle-Alliance)、若しくは「モン・サン・ジャンの戦い」(独: Schlacht bei Mont Saint Jean)とも云う。
参考写真は古戦場ワーテルロー:1815年北西ヨーロッパの列強諸国の位置図 -
1815年にエルバ島から帰還し、皇帝の座に返り咲いたナポレオンは、第七次対仏大同盟の態勢が整う前にこれを撃破することを企図した。
フランス国境北東部付近に位置していた Arthur Wellesley, 1st Duke of Wellington初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー麾下の英蘭同盟軍とGebhard Leberecht von Blücherゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル元帥(攻撃的な性格からMarschall Vorwärts前進元帥と渾名される)のプロイセン軍を打倒すべく、ナポレオン自ら12万の兵力を率いて出陣した。
両勢力は1815年6月16日から3日間に渡り交戦し、ナポレオンは前哨戦となるリニーの戦いでブリュッヘルのプロイセン軍(Preußenプロイセンは漢字で「普魯西(プロシア)」と書く)に勝利したものの、6月18日の戦いで大敗し潰走を余儀なくされる。
連合軍はこれを追撃してフランスに侵攻し、ルイ18世を復位させた。退位したナポレオンはイギリスに降伏して Saint Helena セント・ヘレナ島に流され、1821年にこの地で死去した。
参考写真はWaterloo_battlefield古戦場ワーテルローの展開図 -
ナポレオンの敗因は、一軍を委ねたEmmanuel de Grouchyエマニュエル・ド・グルーシー元帥との連携に失敗したうえ、天候の都合で攻撃開始を遅らせたことが裏目に出て敵勢力の結集を許してしまったことが挙げられる。
なお、実際に主戦場となったのは現在のベルギー国内のラ・ベル・アリアンスで、ブリュッセルからおよそ13km南東にあり、ワーテルローの町からは1.6kmほど離れている。この古戦場には「ライオンの丘」と呼ばれる巨大な記念碑がそびえ立っている。
・・・・・
参考写真は古戦場ワーテルローの列強諸国の展開図 -
【ワーテルローの戦い(概略)】
フランス革命の混乱を経てフランス皇帝となったナポレオン・ボナパルト (フランス語: Napoléon Bonaparte )はヨーロッパ全土を手中に収めるほどの権勢を誇った。しかし、スペイン遠征やロシア遠征による敗北により諸外国の反撃を受け、退位を迫られたナポレオンは地中海の小島・Elbaエルバ島に流された。
だが、復活した国王Louis XVIII ルイ18世(復古王政期のブルボン朝) に不満を持つフランス国民はナポレオンを待望していた。機が熟したとみたナポレオンはわずかな手勢とともにエルバ島を脱出し、パリに戻って1815年3月に復位した。
これに反発するヨーロッパ各国との戦いを強いられたナポレオンは敵軍の各個撃破を目指してベルギーに侵攻、プロイセン軍との戦いでは一定の勝利を収めたが、その勝利は不徹底でありプロイセン軍の退却を許してしまった。
そこでナポレオンは追撃部隊を分派するとともに、スペイン戦線以来の仇敵であるDuke of Wellingtonウェリントン公爵・将軍が率いるイギリス=オランダ同盟軍との決戦を目指し、ワーテルローに布陣した。
参考写真は古戦場ワーテルロー:ナポレオンが本営を置いたLa-Belle-Allianceラ・ベル・アリアンス(1880年代撮影)。 -
1815年6月18日未明、前日から断続的に続く雨が止んだが、野営を強いられた両軍の兵士の疲労も大きかった。また、ワーテルローの村落を囲む田園地帯や道路は一面が泥で覆われ、ぬかるんだ地面は大砲の移動を困難にさせた。
イギリス=オランダ同盟軍はウェリントンの作戦に従って配置され、点在する農場は城塞としてフランス軍の攻勢を受け止める役割が期待された。
一方、ナポレオンは砲車の移動のため地面のぬかるみが乾くまでの間攻撃を延期した。この間、敗走したと思われていたプロイセン軍40,000は、ウェリントンを助けるため強行軍でワーテルローに向かっていた。
正午前、ナポレオンは陽動攻撃のため、同盟軍左翼のウーグモン城館への攻撃を開始した。しかし、同盟軍により頑強に補強されたウーグモンは守備兵の数倍に達するフランス軍を釘付けとし、その攻撃に耐え抜いた。
正午を過ぎたころ、ナポレオンは遠方にプロイセン軍の姿を発見した。
プロイセン軍の到来までにウェリントンとの戦闘を決着させることを迫られたナポレオンは敵戦線中央から左翼への総攻撃を決意した。
参考写真は古戦場ワーテルロー:1815.06.16.前哨戦であったBattle_of_Lignyリニ―の戦い(Theodore Jungテオドール・ユング画) -
13時半に16,000の歩兵により開始された攻撃は、防御に徹した同盟軍の反撃により1時間ほどで頓挫したが、反撃に出たスコットランド騎兵がフランス軍に殲滅されるなど、戦いは予断を許さなかった。
全体として戦闘が膠着する中、ナポレオンの腹心であるネイ将軍は手勢の騎兵による突発的な突撃を開始した。これに呼応する形でフランス軍騎兵の大部分、1万騎が同盟軍に対し突撃したが、歩兵の援護を伴わないこの攻撃はウェリントンが巧妙に組ませた20個の対騎兵用の方陣(ほうじん:四角形の陣形)により阻まれ、大損害を被った。
2時間余りの間、フランス軍騎兵は12回の騎兵突撃を敢行したと云う。
史上に名高いネイの騎兵突撃が繰り返される頃、フランス戦線の最右翼ではプロイセン軍の先鋒がプランスノア村に到達し、これを阻止すべくナポレオンが援軍として送り込んだ部隊が必死に戦線を支えた。
18時、不利な二正面での戦いを強いられつつあるナポレオンは、一刻も早くウェリントンとの戦いに決着をつけるため、戦線中央部のラ・エイ・サント農場への攻撃をネイに命じた。激戦の結果、ラ・エイ・サントはフランス軍が奪取し、これを絶好の機会と見たナポレオンは切り札である皇帝近衛部隊のほとんどを投入し、同盟軍戦線中央部への総攻撃を開始した。
参考写真は古戦場ワーテルロー:Battle_of_Waterloo_1815『ワーテルローの戦い』William SadlerⅡウィリアム・サドラー2世画 -
19時に開始されたフランス軍の総攻撃は、丘の反対側で伏せていた同盟軍兵士による一斉射撃による激しい反撃にあい、苦戦を強いられた。
ちょうどこのころプロイセン軍の本隊が戦線に到来し、反撃の好機と見たウェリントンは全軍の突撃を命じた。
一方フランス軍は皇帝の近衛兵部隊の敗北がたちまち伝播し、全軍が恐慌状態となり戦線は崩壊することとなった。
ナポレオンは戦場から逃され、ワーテルローの戦いは1日で決着した。
6月21日にナポレオンはパリに帰還。その後、ナポレオンは再度の退位を迫られ、6月22日には議会の決議により皇帝を退位した。
イギリス軍により大西洋の孤島Saint Helena セント・ヘレナ島(イギリス領)に流され、1821年5月5日、51歳で同地で亡くなった。
(ナポレオン百日天下)
******************************
参考写真は古戦場ワーテルロー:Belgium_Duke_of_Wellington_-back_right -
参考写真は古戦場ワーテルロー:La_bataille_de_Waterlooワーテルローの戦い。 Clément-Auguste Andrieux画、1852年。
-
参考写真は古戦場ワーテルロー:Field Marshals Blücher and Wellington meeting close to La Belle Allianceブリュッヘル元帥とウェリントン公爵のラ・ベル・アリアンスでの会見.
<The Battle of Waterloo: Napoleon's Decisive Defeat>
https://youtu.be/RsLpS4atvLc -
毎年6月実際の各国軍が参加して、「ナポレオン最後の戦い」再現イベントが行われて、世界中から観光客が訪れる。
参考写真は古戦場ワーテルロー:「ナポレオン最後の戦い」2011年の再現イベントで見る仏軍・胸甲騎兵のシーン。 -
<Michel Neyミシェル・ネイ仏元帥(1769年~1815年)>
ネイ元帥はフランス革命戦争およびナポレオン戦争期に活躍したフランスの軍人で、その生涯は戦いと共に在った。
1769年1月10日、当時フランス領であったザール地方ザールルイ(現ドイツ)にて七年戦争に従軍し、ロスバッハの戦いに参加した元兵士の樽職人ピエール・ネイの次男として生まれる。
1787年に王国軍のユサール連隊に一兵卒として入隊し、フランス革命の混乱の中で頭角を現していく。様々な戦いに参戦し、功績をあげた。
2年後の1799年3月には若くして師団長に昇進した。
1804年5月19日、ナポレオンから元帥号を与えられた18人の1人となった。
1805年、大陸軍の第6軍団を率い、プロイセン戦役、イベリア半島戦役などで、フランス大陸軍随一の勇将との名をあげ、ロシア戦役での奮戦からモスクワ大公の称号を与えられた。
皇帝ナポレオン・ボナパルトの側近の一人で、彼をして「le Brave des Braves(勇者の中の勇者)」と言わしめたと云う。
ナポレオン自身に次いでフランス軍将兵に人気のあった指揮官で、不屈の闘志と人間離れした勇気で名高い国民的英雄だった。人となりは実直で努力家、同僚の多くと違って世俗的欲求にも恬淡としており、気前もよく部下達を物心両面で援助する事を惜しまなかった。
今でもフランス、ドイツで人気が高い軍人として知られている。
ナポレオン百日天下はワーテルローの戦いで終わり、敗戦後、8月3日にネイ元帥は身柄を拘束された。再び権力の座に戻ったルイ18世の政府によって反逆罪に問われ、1815年12月6日に銃殺刑(46歳)に処せられた。
参考写真はMarshal Michel Neyミシェル・ネイ仏元帥, duc d'Elchingen エルヒンゲン公爵, prince de la Moskovaモスクワ大公 -
写真はMarshall_Ney_at_retreat_in_Russiaロシア遠征退却時に陣頭指揮を執るネイ(1857年Adolphe Yvonアドルフ・イヴォン画)
-
参考写真は古戦場ワーテルロー:Belgium_Marshal_Neyワーテルローにおけるネイ仏元帥の突撃(1912年Louis- Dumoulinルイ・デュムーラン画・パノラマ館)
-
参考写真はWappen・Kreisstadt-Saarlouisザールルイの紋章:
1683年、ルイ14世は建設中の要塞都市を訪れ、紋章を授けた。
紋章には王冠の下に朝日と、3つのアヤメ(アイリス)の花が描かれている。
そして、この町のモットーであるDissipat Atque Fovet(太陽は雲と大地の熱を四散させる)がその上に書かれている。
これほどの関係であったが、仏革命当時はルイの名をつけることを嫌った革命政府がSarre-Libreサール・リーブルと改名させたと云う事もあった。
1810年には元に戻っている。 -
<Saarlouisザールルイ>
9日目となるSaarlouisザールルイの町はフランスの名高い太陽王ルイ 14世によって建設されたFestungstadt要塞都市である。人口38,000人。
町の名前を“ザール川のルイ”と称しているだけに、ブルボン王家の家紋のアヤメ(アイリス)の花が目立つ町だ。
本日は石造りの建造物、要塞などを見てまわる予定にしている。
かつて1697年にはロレーヌ地方の大部分がフランスの支配をのがれ再独立をした時も、ザールルイは周辺の町と共にフランスの”飛び地領”として残った事もある、
あるいはナチス政権下の1936年~45年の間、Saarlauternザールラウテルンと、ドイツ語的に改名していたこともある。
ザールルイは第一次、第二次大戦後、いずれもフランスの治下から、ザール地方の諸都市同様に住民投票でドイツに帰属することになった。
こうした歴史経緯があるにもかかわらず、この町は“ザール川のルイ”であり、“ルイ14世の町”であった事を誇りにしているようだ。
参考写真は1693年に描かれたFestung Saarlouis ザールルイ要塞 -
ここはBierstrasseビール街、つまり飲み屋街だ。
この通りにMichel Neyミシェル・ネイ仏元帥の生家があった。
きれいなレストランの入口の上の壁に、その旨を記した銅板があった。
写真はザールルイの旧市街:ネイ元帥の生家・・・現在はイタリア料理レストラン -
<SaarlouisザールルイはFestungstadt要塞都市>
1679年にロレーヌ地方がフランスに帰属し、ルイ14世はザール川右岸の防御を固めるために要塞を設けることを命じた。
ルイ14世が1680~86年にかけて、当時の著名な要塞建築家ヴォーバンに造らせた星型(1866年の函館の五稜郭も似た星型)にかたどった要塞は有名である。
後にプロイセンにより丸天井に作り変えられ、装甲防弾室が作られたと云う。
参考写真は2010.10.26.ザールルイの要塞公園:Vauban-Inselヴォーバン島とミシェル・ネイ元帥記念碑 -
35haの広い要塞公園はザール川の水を引き込んだ水濠に囲まれていて、時には洪水の備えにもなっていると云われる。
<Vaubanヴォーバンと要塞>
星形要塞(伊fortezza、 仏Fort、Citadelle、独 Festung 、Zitadelle)は火砲に対応するため15世紀半ば以降のイタリアで発生した築城方式。あるいはイタリア式築城術、稜堡式城郭、ヴォーバン様式という名で分類される。
最終的に考案したヴォーバン式星型要塞は死角が無い星型で、攻め寄せる敵に十字砲火を浴びせ、防御力を高めた。
ルイ14世に仕えた軍人で築城の名手と云われたSebastien Le Prestre, Seigneur de Vaubanセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバン(1633~1707年)が築いた稜堡式要塞など、要塞や都市の城壁を対象とするものであり、ブザンソンをはじめとするフランスの12ヶ箇所(以下参照)に残るものがまとめて世界遺産に登録された。
それらは防衛上の必要性から、いずれもフランスの国境に沿って、円を描くように存在する。
『黒い森とアルザス・シュヴァーベン地方の旅⑮紀元前2000年の頃に既に城塞があったと云う小さな村ブルクハイムを再訪した。』の章後半部分で2008年に世界遺産になった“Fortifications de Vaubanヴォーバンの防衛施設群”について書いていますので、興味があればご参照ください。
https://4travel.jp/travelogue/11084088
写真はザールルイの要塞公園:Vauban-Inselヴォーバン島・兵隊の像 -
写真は1983年5月21日Bruxellesブリュッセル:旧市街観光とブリュッセル公園(ブラバント公の狩猟場)
-
【シャクナゲの並木が花盛りだったベルギーのマナーハウスHostellerie Shamrock オステルリー・シャムロックに宿泊した。】
BE‐9680Maarkedalマールケダル 、Ommegangstraat 148
Tel:055-215529
チェックイン 14時、チェクアウト 11時
3S・全5室という1928年にオープンされたプチホテルだ。
第一日目に宿泊するホテルをルレ・エ・シャトー加盟ホテルの冊子から英国風マナーハウスを見つけた。
Hostellerie Schamrockオステルリー・シャムロックと称するマナーハウスはGentゲントが州都であるOost-Vlaanderen東フランダース州にある。
写真は1983年5月21日~22日ベルギー:Hostellerie Shamrock オステルリー・シャムロックの様子
尚、現在住所で検索すると、名前が変わっていた。
<Louise-Marie Manor & Gardens>
Louise-Marie
Ommegangstraat 148
9681 Ronse -
ベルギー・フランドル地方の西部には隣り合ってOost-Vlaanderen東フランダース州とWest-Vlaanderen西フランダース州という東西のフランダース州があるのだが、オステルリー・シャムロックはゲントの南18Km 、Maarkedalマールケダル市の中心地から4 kmの片田舎にあった。
コルトレイク・ウェフェルヘム国際空港まで、車で約45分の立地だと云う。
写真はHostellerie Schamrockオステルリー・シャムロック① ・・・私共の洒落た部屋(左下の写真の2階左手)と子供たちの部屋(2階白い壁の所)、2階中央の部屋は朝食の間で、その下が暖炉のあるメインレストラン -
造園家Jacques Wirtzジャック ・ウィルツ設計の素晴らしい、優雅な庭園に囲まれた英国風のマナーハウスである。
暖炉に面したレストランでよく分からぬフランス語のメニューに苦労したものの、美味しいフランス料理を味わえた。
尚、当時はよく知らなかったが、1976 年から2002 年までの間、ミシュランの1星付きレストランであったようだ。
写真はHostellerie Schamrockオステルリー・シャムロック② ・・・可愛らしい館、シャクナゲの並木道、夕食(左)と朝食(右) -
この館には石楠花シャクナゲの見事な並木道があり、私共の2階の部屋傍には驚くようなシャクナゲの大木(写真右下)があった。
写真はオステルリー・シャムロック(正面奥)のシャクナゲの並木と大木写真はHostellerie Schamrockオステルリー・シャムロック③・・・石楠花シャクナゲの見事な並木道
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(2025年08月10日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
旅行記グループ
セピア色の思い出1
-
前の旅行記
セピア色の思い出:思いたってメルヘン街道(カッセル=>ハーメルン)を一日巡り(700km)した。
1982/07/11~
カッセル
-
次の旅行記
セピア色の思い出:1983年夏の休暇・ガルダ湖畔のシルミオーネ・スカラ城、ローマ人の別荘跡を訪れた。
1983/08/02~
シルミオーネ
-
セピア色の思い出:思いたってメルヘン街道(カッセル=>ハーメルン)を一日巡り(700km)した。
1982/07/11~
カッセル
-
セピア色の思い出:皇帝ナポレオンが、英蘭普連合軍に敗れた屈辱の地ワーテルローの古戦場を訪ねた。
1983/05/21~
ワーテルロー
-
セピア色の思い出:1983年夏の休暇・ガルダ湖畔のシルミオーネ・スカラ城、ローマ人の別荘跡を訪れた。
1983/08/02~
シルミオーネ
-
カーニバル休日:モーゼル小旅行からの帰途、世界で名だたる宝石の町イーダー・オーバーシュタインを訪れた。
1984/03/05~
イーダー・オーバーシュタイン
-
セピア色の思い出:オーストリアのグロースグロックナー山岳道路を走り、パステルツェ氷河を歩く。
1984/07/30~
グロースグロックナー周辺
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
この旅行で行ったスポット
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ セピア色の思い出1
0
40