1982/07/11 - 1982/07/11
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jijidarumaさん
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【Deutsche Märchenstraßeドイツのメルヘン街道といえば、Grimms Märchenグリム童話である。】
ドイツに親しみがわくのもメルヘン街道と称したFerienstraßeフェ―リエンシュトラーセ(休暇街道)いわゆる観光街道があり、街道を彩るグリム童話の数々があるからだろう。
最近、よく知られるようになった“Rapunzelラプンツェル (髪長姫)”の話のモデルともなったと云われるTrendelburgトレンデルブルク村(人口4.8千人)には、旧市街の中心にBurghotel Trendelburgブルクホテル トレンデルブルク城(古城ホテル)がある。
また、近くのHofgeismarホーフガイスマー(人口14.4千人)という町の北東に Schloss Sababurgシュロス ザバブルク(古城ホテル)がある。
ここは別名Dornröschenschlossドルンレッシェンシュロス(いばら姫の城)という伝説(眠れる森の美女)が残る。
さらに、ハン・ミュンデン(人口23.4千人)の町にはDoktor Eisenbart鉄髭博士、ボーデンヴェルダー(人口4.7千人)村にBaron Münchhausenほら吹き男爵の生家と伝説の馬の銅像(胴が二つになった騎馬像)、 ハーメルン(人口58.2千人)市にはRattenfänger von Hamelnハーメルンのラッテンフェンガー(ネズミ捕り男=ハーメルンの笛吹き男)など、メルヘンの代表的な話が残っている。
だから、メルヘン街道はいつ来ても面白い。
1982年7月の日曜日に、一日で700kmのドライブ旅行(KasselカッセルからHamelnハーメルンまでのメルヘン街道)をして、各地を訪れた。
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:時計周りに上部はカッセルのグリム兄弟博物館、下部はハン・ミュンデンのマルクト広場と鉄髭博士。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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ドイツには観光用に
エリカ街道(シュターデ或いはプレーンより、リューベック経由ハノーファーまで)、
ゲーテ街道(フランクフルト=>ライプツィヒ)、
古城街道(マンハイム=>プラハ)、
ロマンチック街道(ヴュルツブルグ=>ホーエンシュヴァンガウ)、
ファンタスティック街道(メーアブルグ=>バーデンバーデン)、
アルペン街道(リンダウ=>ベルヒステスガーデン)、
メルヘン街道の7街道が有名である。
いずれも、田舎道を走り、名所・旧跡のある小さな町々をつなぐ素晴らしい街道で、ドイツらしい、楽しく、魅力的な旅が出来る。
今回訪れた“Deutsche Märchenstraßeドイツ・メルヘン街道”は、本来フランクフルトの近郊ハーナウから、グリム童話の世界を目にしながら、ブレーメンに至る、600kmの街道(本来の街道はHanauハーナウ・・・グリム兄弟の生誕地・・・からスタートし、北のBremenブレーメンを終点として走る)を称している。
元々、この2つの町を結ぶ街道が古くからあったわけではなく、途中の70以上の町々がこの街道に参加し、断片的な道路を結び合わせ観光街道として整備したもので、1975年に組織された。
この街道は“Deutsche Fachwerk Straßeドイツ木組みの家街道”とも、重なり合っていて、街道を行く町や村には様々な木組みの家並みを楽しめる旅なので、ドイツ人や観光客にも人気の高い街道である。
思うに、小さな子供たちとゆっくり、記憶に残る旅をしたいなら、まずはメルヘン街道を訪れるのが良いだろう。
参考写真は1982.07.11.Deutsche Märchenstraßeメルヘン街道一日巡り:パンフレット表紙 -
参考写真は1982.07.11.Deutsche Märchenstraßeメルヘン街道一日巡り:パンフレット裏表紙・・・上は左から赤ずきんちゃん、ホレ小母さん、ラプンツエルなどメルヘンの登場人物たち、左下にはRattenfänger von Hamelnハーメルンのネズミ捕り男(笛吹き男)が見える。
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以下は私の記憶にあるメルヘン街道の旅から、
197XX?.メルヘン街道、(時期は調査中)
1977.05.28.~29.メルヘン街道、
2005.04.26.~28.メルヘン街道、
2013.10.16.メルヘン街道、
2019.09.28.メルヘン街道、
のアルバムの写真が残っている。
娘達のグリム童話好きは日本から持参した童話集を読んだことにある。
そして、私共は伝説・民話好きに加えて、古城好き、古城ホテル好きでもあって、メルヘン街道にある、古城ホテル ザバブルク城と古城ホテル トレンデルブルク城をしばしば訪れたようだ。
参考写真はメルヘン街道の全体図・・・街道沿いに様々な童話の登場人物の町や村がある。 -
1982年は2度目のドイツ駐在の初年度で、この7月で大きな案件が何とか目途が立ち、日曜日だったが、久しぶりの息抜きにとドライブを計画した。
娘達の希望を聞いてみると、メルヘン街道が良いと言うので、メルヘン街道の中途であるKasselカッセル(本来の街道はHanauハーナウ・・・グリム兄弟の生誕地・・・からスタートし、北のBremenブレーメンを終点として走るのだが)を目指し、Hamelnハーメルンまでの道を辿った。
もちろん、古城好き、古城ホテル好きもあって、古城ホテル ザバブルク城と古城ホテル トレンデルブルク城を再訪する事としていた。
この日、 デュッセルドルフの自宅を午前8時に出発し、
=>E63 237km カッセル10時着~11時発=>B3 ハン・ミュンデン 12時発=>B80 ザバブルク城=>B80 トレンデルブルク城 =>B64 ボーデンヴェルダー 16時30分~40分 =>B83 ハーメルン 仕掛け時計(17時半、最後の分を見て)や旧市街を見て、17時50分発 =>E63 232km デュッセルドルフ 20時半着。
総走行距離は700kmでした。
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:行程表 -
Land Hessenヘッセン州北部のKasselカッセルには10時に到着した。
11時まで凡そ1時間をグリム兄弟の博物館を主に見た。
<Kasselカッセル>
カッセルは今はヘッセン州の北部の大学都市で、①フランクフルト・アム・マイン、②ヴィースバーデン(州都)に次ぐヘッセン州第3位の都市(人口201千人)である。
カッセルは歴史上、1277年から1866年まで旧ドイツの領邦国家Landgrafschaft Hessen-Kasselヘッセン・カッセル方伯(後にLandgrafschaft Hessen-Darmstadtヘッセン・ダルムシュタット方伯)の首都であったことがある。
カッセルはニーダーザクセン州との州境にも近いヘッセン州北部のいわゆる「カッセル盆地」に位置する。
フルダ川の両岸に広がるカッセルは世界遺産の噴水ショー(Wasserspieleヴァッサーシュピール)や1955年から 4、5年ごとに開催される芸術祭Documentaドクメンタ(現代美術展)で知られている。
このためカッセルは1999年3月から「Documenta-Stadtドクメンタ・シュタット」と公式に称している。
参考写真はKasselカッセルのの銅版画(Merianメリアン1655年作) -
【Brüder Grimm-Museum Kasselグリム兄弟博物館(カッセル)】
グリム兄弟博物館は1959年にカッセル市とグリム兄弟財団によって設立された。
この博物館はヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムの兄弟の生涯、作品、活動に関するコレクション、資料、学術研究を収蔵していた。
博物館は、1714年にヘッセン・カッセル方伯カールのための天文台として Paul du Ry によって建設されたPalais Bellevueベレヴュー宮殿内にあった。
グリム童話の誕生は1812年である。
ところが、ベレヴュー宮は2009年以降改修のために閉鎖され、新しい建物のためのグリム・コレクションの新しいコンセプト作りが求められていた。
参考写真はKasselカッセル:*Brüder Grimmグリム兄弟
*グリム兄弟はこの地方にある民話を収集して「グリム童話」として出版したことで有名である。もちろん、学者としてドイツ語文法の研究も手がけ、後のドイツ語辞典を作る先駆けとして活躍したことでも良く知られている。
兄のJacob Ludwig Carl/Karl Grimmヤーコプ・グリム(1785年~1863年)はドイツの言語学者、文学者、法学者。文芸学者。
弟のWilhelm Carl Grimmヴィルヘルム・グリム(1786年~1859年)ドイツの言語学者・文芸学者、並びに童話・伝承の収集者。 -
Das Haus an der ?Schönen Aussicht Nr. 2“・・・
<Brüder Grimm-Museum Kasselグリム兄弟博物館>
D-34117 Kassel 、Schöne Aussicht 2
Palais BellevueまたはSchloss Bellevueベルビュー宮殿はカッセルの中心部近く、フルデ川の西側にある。
ベルビュー宮殿は1714年にヘッセン・カッセル方伯カール1世のために建てられました。当初、この建物は天文台として使用され、後に宮殿として利用された。
2009年に構造上の理由で閉鎖されるまで、この建物にはグリム兄弟の博物館が入っていた。
現在は市内の「GRIMMWELT グリムヴェルト(グリムワールド)」という博物館に移転している。
参考写真はカッセル旧市街のヘッセン方伯のPalais Bellevueベレヴュー宮殿 ・・・2009年までグリム博物館が入っていたベレヴュー宮殿の姿。グリム兄弟博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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カッセルはグリム兄弟が30年以上の長きにわたって暮らし、グリム童話の枠組みができあがった場所である。
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:カッセルのグリム博物館前で -
グリム兄弟はこの地でグリム童話の元となる伝説・民話を収集し、1812年にグリム童話の第一巻となる『Kinder- und Hausmärchen子どもと家庭のメルヒェン集』を刊行した。
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:カッセルのグリム博物館内で展示品を拝見。 -
1982年に訪れたカッセル故、以下は後に知ったものだ。
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2005年には、ユネスコの世界記憶遺産として登録された。
かつてヘッセン・カッセル方伯のベレヴュー宮殿内にあったグリム博物館は、展示品が増えて手狭になり、代わって2015年にカッセル市庁舎の近くに「GRIMMWELT グリムヴェルト(グリムワールド)」という博物館が建てられた。
グリムヴェルト/GRIMMWELT)は童話収集家で言語学者のグリム兄弟の偉業と作品を紹介・展示した博物館である。
<GRIMMWELT グリムヴェルト(グリムワールド)>
所在地 :
D-34117 Kassel 、Weinbergstraße 21
グリム兄弟の直筆の手紙や多数のグリム童話の初版本、映画やサウンド、マルチメディアアプリケーション、インスタレーションなどが展示されている。
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参考写真はカッセルのGrimmweltグリムヴェルトの建物(新しいグリム兄弟博物館)グリム ヴェルト カッセル 博物館・美術館・ギャラリー
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参考写真はカッセルのGrimmweltグリムヴェルト(新しいグリム兄弟博物館):館内のグリム童話の展示本。
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イチオシ
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:時計周りに上部はカッセルのグリム兄弟博物館、下部はハン・ミュンデンのマルクト広場と鉄髭博士の像。
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<Hann. Muendenハン・ミュンデン>
Hann. Muendenハン・ミュンデン(人口23.4千人)の町には、17世紀の伝説的な、愉快な医師Doktor Eisenbartドクトル・アイゼンバルト(鉄髭博士)の伝説が残り、旧市街は見事な木組みの家並みが続く。
小さな田舎町はフルダ川とヴェラ川とが合流し、ヴェーザー川となり、いわゆる3つの川が流れ、周囲を森に囲まれ、旧市街は700以上と言われる木組みの家々の街並みでうまり、赤屋根の町並が織り成す美しさは格別だ。
アレクサンダー・フォン・フンボルトが世界で最も美しい町のひとつと称え、また、ドイツの「牧歌的な美しい町」コンクールで1位に選ばれたこともある。
マルクト広場はさほど広くないが5、6階建ての木組みの家が両側に並び、その奥に市庁舎がある。
マルクト広場に面して現存する市庁舎は14世紀の庁舎を1616年に改築したもので、3連の切妻屋根を持ち、中央と右側の建物には美しい装飾扉がある。
写真はメルヘン街道:ハン・ミュンデンのマルクト広場にて・・・40年以上前の田舎町では日本人観光客もが珍しいようで、右端の男性がじっと見ていた。マルクト広場 (ハン ミュンデン) 広場・公園
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旧市街の中心のマルクト広場にはヴェーザー・ルネサンス様式の市庁舎(鉄ひげ博士の仕掛け時計Glockenspielグロッケンシュピールが1日3回演奏される)、聖ブラジウス教会、今は博物館になっているWelfenschlossヴェルフェン城等がある。
写真はハン・ミュンデン:Doktor_Eisenbart_Glockenspiel歯を抜くアイゼンバルト(鉄髭博士)の仕掛け時計とその風刺劇を見ている。市庁舎 (ハン ミュンデン) 建造物
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写真はハン・ミュンデン:Doktor_Eisenbart_Glockenspiel歯を抜くアイゼンバルト(鉄髭博士)の仕掛け時計とその風刺劇を見ている。
<ヴェーザー・ルネサンス様式>
ヴェーザー・ルネサンスは、ドイツ中部のヴェーザー川周辺に見られる北方ルネサンス建築様式の一種で、この地域の町や都市でよく保存されている。 -
市庁舎では写真の様な鉄ひげ博士(歯抜き手術)のGlockenspiel仕掛け時計が1日3回演奏される。
12時、15時、17時から仕掛け時計があり、「私はドクター・アイゼンバルト」のメロディーが流れると窓が開き、模擬の窓から大きな義歯用のハサミを持った博士、左側の窓から助手に抑えられた患者が出てきて博士の後に道化師がアクロバットの演技をする。
また、夏の土曜日13:30から市庁舎のホール(以前はマルクト広場で)で鉄ひげ博士の講義という野外劇が催される。
参考写真はハン・ミュンデン:Doktor_Eisenbart_Glockenspiel歯を抜くアイゼンバルト(鉄髭博士)の仕掛け時計。 -
旧市街を一つの線で貫くような、木組みの家々の街並みであるランゲ通りを行くと、Dr.Eisenbartアイゼンバルト(鉄ひげ)博士という実在の医者の家や、其の名を付けた薬局もあり、大きな注射器を持った博士の看板が面白い。
写真は1982年7月11日メルヘン街道:ハン・ミュンデンの旧市街は木組み建築の家並みでいっぱいだ。 -
イチオシ
写真はメルヘン街道:1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:左上から時計回りに、ハン・ミュンデンの Mühlenbrücke水車小屋の橋・・・ Wesersteinヴェーザーシュタイン(ヴェーザーの碑:ヴェラ、フルダ、ヴェーザー・三つの川の合流点である)、旧市街のマルクト広場と市庁舎、夏には鉄髭博士(藪医者)の野外劇も催される、旧市街は木組み建築の家並み。
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ランゲ(長い)通りにある鉄ひげ博士の家、中央に博士の像が見える。
写真はハン・ミュンデン:鉄ひげ博士の家:Lange Str. 79
Doktor_Eisenbart鉄髭博士の家の博士像とドイツ語文字・・・(右の像の下の文字にIn diesen Hause wirkte und starb Doktor Eisenbartアイゼンバルト(鉄ひげ)博士はこの家で働き、死んだ。そしてEr war anders als sein Ruf.とある。つまり彼はアイゼンバルト(鉄ひげ)博士として、世間に流布された評判とは違っていた・・・と追記されている)鉄ひげ博士の家 (ドクター アイゼンバールト死去の家) 建造物
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彼は上述の如く、世評では藪医者の代名詞となっているが、実際は意欲的な、真面目な医者であったそうだ。夏には博士(藪医者)の野外劇も催される。
*鉄ひげ博士と称されたJohann Andreas Eisenbartヨハン・アンドレアス・アイゼンバルト(1663~1727年)は17世紀のドイツの医者である。
ドイツの各地をサーカス巡業のような方法で治療旅行し、自家製の薬を売り歩いた。
バイエルン州東部のオーバープファルツ地区、Oberviechtachオーベルフィーヒタッハ(現Schwandorfシュヴァンドルフ郡)の出身である。祖父も父親も床屋医師で、アイゼンバルトは目の手術や骨折の治療を得意とした。義理の兄弟からも医学の知識を得た。
アイゼンバルト博士と呼ばれたが、もちろん博士号を得ていたわけではなかった。アイゼンバルトは通常120人にも及ぶ芸人や道化師、楽隊と共にドイツの各地を旅した。多くの見物客を集め、楽隊が音楽を奏で、コーラスがアイゼンバルトを称える歌を歌う中で治療を行った。専ら自家製の薬を製造し、大規模に販売したと伝えられている。
尚、1800年頃、"Ich bin der Doktor Eisenbarth(Eisenbart)わたしが、ドクター・アイゼンバルト" という歌がドイツで流行した。
歌詞(一部抜粋)は以下である。
?Ich bin der Doktor Eisenbarth,
widewidewitt, bum bum
Kurir die Leut nach meiner Art,
widewidewitt, bum bum
Kann machen, dass die Blinden gehn,
Und dass die Lahmen wieder sehn.
Gloria, Viktoria, widewidewitt juchheirassa!
Gloria, Viktoria, widewidewitt, bum bum.
https://www.youtube.com/watch?v=nOp334i0OPE
邦書では原田恒雄氏のビールの文化史に関するエッセー、『金のジョッキに、銀の泡』で以下のような詞で紹介されている。
「わたしが、ドクター・アイゼンバルト。 パッカパパー・・・!
わたしはわたしの流儀で病気をなおす。めくらも目明きにしてみせる。
いざりもたちまちたちあがる。 ブカブカドンドン・・・!
(以下略)」(Wiki)。
参考写真はハン・ミュンデン:DBP_1977_953_Doktor_Johann_Andreas_Eisenbartドクトル・ヨハン・アイゼンバルト(鉄髭博士)鉄髭博士のドイツの記念切手(没後250年) -
古い手持ちのパンフレットの一つにメルヘン街道・グリム兄弟の小冊子がある。
写真はDeutsche Märchenstraßeメルヘン街道・グリム兄弟のパンフレット:ブレーメン(ブレーメンの音楽隊)、バート・オェインハウゼン(ヘンゼルとグレーテル)、ハーメルン(ねずみ捕りの男)、ハン・ミュンデン(鉄髭博士)、ゲッティンゲン(ガチョウ姫リーゼル)、フュルステンベルク(ドイツ7大名窯の一つ、“F”に王冠の商標を付けたフュルステンベルク陶磁器)。 -
写真はDeutsche Märchenstraßeメルヘン街道・グリム兄弟のパンフレット:グリム兄弟の足跡・・・ハーナウ、シュタイナウ、アルスフェルト、マールブルク、カッセル、ザバブルク、トレンデルブルク。
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ハン・ミュンデンの見物を終え、12時に発ち、国道B80で距離12kmのザバブルク城に向かった。
・・・・・
ドイツの各地には、Teutoburger Waldトイトブルグの森、Thüringer Waldテューリンゲンの森、Reinhardswaldラインハルトの森といった、森林地帯があって、今は原生林の自然保護地域になっているケースも多い。
古代のゲルマンの民が森と共に生きた民族と言われ、広大な森の周縁に居住し、森に狩りに出かけ、獲物を取り、茸などを採取して生活してきた。
敵がくれば、森に隠れてやり過ごし、森を盾にして戦ったという。ゲルマン民族にとっては“森”は全てであったと思われる。
トレンデルブルク城やザバブルク城はReinhardswaldラインハルトの森の中にある。グリム童話の赤頭巾ちゃんの話が生まれたラインハルトの森は、広大で緑濃い森である。童話のように、当時は狼がたくさん出没した事だろう。
現代のドイツ人も、時間があれば、森に散歩に出かけて行く。これはゲルマンの頃からの民族性があらわれていると云えるのでしょう。
・・・・・
Schloss Sababurgシュロス ザバブルク(古城ホテル)はドイツ原始林の一つとされている、Reinhardswaldラインハルトの森にあり、標高約315mの玄武岩の岩山の上にある山城でした。
合併自治体のHofgeismarホーフガイスマー(人口14.4千人)という町の北東に Schloss Sababurgシュロス ザバブルク(古城ホテル)がある。
ここには別名Dornröschenschlossドルンレッシェンシュロス(いばら姫の城)という伝説(眠れる森の美女)が残る。
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:ザバブルク城の入口にあった古城の模型と。ホテル ドルンレッシェンシュロス サバブルク (いばら姫の城) ホテル
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巨人族ザバの木像が門番の如く、悲しげな顔を向けて道端に立っている。
ザバブルク城は別名「100年の眠りから覚めた“眠れる森の美女”」であり、Dornröschenschlossドルンレッシェンシュロス(いばら姫の城)と呼ばれている。
この城は13世紀にマインツ司教が支配地域の前哨基地として建てた。
1429年ヘッセン公国の所有となり、狩猟の館となるも、19世紀始め、公国の崩壊と共にうちすてられ、文字通り眠れる古城として長い間忘れられた存在になっていた。
第二次大戦後、ホテル・レストランに改造され、周囲には広大な自然動物園(1571年の創設)も設けられている。
以前に比べると、整備が行き届き、城内の廃墟跡では、夏季になると、コンサートや、いばら姫の野外劇が催されると云う。
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:古城ホテル ザバブルク城のホテル棟前で・・・アイスを食べている娘達。 -
≪伝説:いばら姫(眠れる森の美女)の古城≫
あるところに子どもを欲しがっている国王夫妻がいた。
ようやく女の子を授かり、祝宴に一人を除き国中の12人の魔法使いが呼ばれた(13は不吉な数字であったためと見られる、またメインディッシュのため賓客に供する金の皿が12枚しかなかった為とも云われているが)。
魔法使いは一人ずつ、魔法を用いた贈り物をする。宴の途中に、一人だけ呼ばれなかった13人目の魔法使いが現れ、11人目の魔法使いが贈り物をした直後に“王女は紡錘が刺さって死ぬ”という呪いをかける。
まだ魔法をかけていなかった12人目の魔法使いが、これを修正し「王女は紡錘(ぼうすい:糸を紡ぐための道具)が刺さり百年間眠りにつく」という呪いに変える。
呪いを取り消さなかったのは修正以外不可能だったためである。
王女を心配した王は、国中の紡ぎ車を燃やさせてしまう。
王女は順調に育っていくが、15歳の時に一人で城の中を歩いていて、城の塔の一番上で老婆が紡いでいた紡錘で手を刺し、眠りに落ちる。
呪いは城中に波及し、そのうちに茨(いばら)が繁茂して誰も入れなくなった。
侵入を試みた者もいたが、鉄条網のように絡み合った茨に阻まれ、入ったはいいが、突破出来ずに皆落命した。
100年後、近くの国の王子が噂を聞きつけ、城を訪れる。
王女は目を覚まし、2人はその日のうちに結婚、幸せな生活を送った。
(Wik)
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写真は中ががらんどうのザバブルク城の建物。 -
イチオシ
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:左上から時計回りに、古城ホテル ザバブルク城のホテル棟前でアイスを食べる娘達、ザバブルク城の模型前で、中ががらんどうのザバブルク城の建物、トレンデルブルク城のテラスでお茶を。
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【Die Sababurgザバブルグ城(Dornröschenschlossドルンレッシェンシュロス(いばら姫の城)】
D-34369 Hofgeismar (Sababurg) 、im Reinhardswald
3星・全18室。
古城ホテルは18部屋と少なく、人気も高いので、シーズンでは予約が難しいと聞いている。このホテルには今まで宿泊した事は無い。
参考写真は古城ホテルSababurgザバブルク城訪問・・・今は休館(確か2018年)してしまったが、営業していた当時のザバブルク城の様子で、中央下の平屋がレストランだった。 -
その後、定年退職後の旅で2005.04.26.~28.に訪れ、2013.10.16.にも訪れているが、2018年末に理由は不明だが営業停止になった。
2019.09.28.その後が気にかかり、また訪れた。写真はその時のものだ。
写真は2019.09.28.メルヘン街道:ザバブルク城訪問・・・外部は改装されて雰囲気のある古城の姿(中はがらんどうだが)を見せている。 -
先に進む。ザバブルク城から国道B80をTrendelburgトレンデルブルク城へ、凡そ10㎞と近い。
国道の先の丘陵地帯に茶色の高い塔が見えてくる。
あれが名高い“ラプンツェルの塔”だ。
メルヘン街道といえば、グリム童話であり、“Rapunzelラプンツェル” (髪長姫)の話のモデルともなったと云われるTrendelburgトレンデルブルク城がある。
1907年発行のグリム童話では『魔女に閉じ込められたラプンツェルが塔から長い髪を垂れ下げ、王子に助けてもらった。』という話が載っていて、トレンデルブルクの塔は其のモデルに使われたそうだ。
人口4.8千人という小さな木組みの家の並ぶトレンデルブルク村の中心に、Burghotel Trendelburg古城ホテル トレンデルブルクはある。
写真は古城ホテルBurghotel Trendelburgトレンデルブルク城の様子・・・古い絵葉書を撮ったものだが、増築・改装があったのだろう、城郭の様子は変わっている。ホテル ブルク トレンデルブルク ホテル
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最近、よく知られるようになった“Rapunzelラプンツェル (髪長姫)”の話のモデルともなったと云われるTrendelburgトレンデルブルク村(人口4.8千人)には、旧市街の中心にBurghotel Trendelburgブルクホテル トレンデルブルク城(古城ホテル)がある。
参考写真は古城ホテルBurghotel Trendelburgトレンデルブルク城の様子・・・村の高台に立つ古城は良い感じだ。 -
古城前の駐車場に車をおき、橋を渡る。左手にラプンツェルの塔が立ち、ラプンツェルの長い髪を模したロープが下がっていた。以前はここまでやっていなかった記憶だが、ディズニー映画の影響もあるのだろう。
写真は2019.09.28.メルヘン街道:トレンデルブルク城訪問・・・ラプンツエルの塔から下がるロープはかつては無く、最近用意されたのだろう。 -
【Rapunzelラプンツェル”(髪長姫)】
あるところに夫婦がいた。長年子供がなかった2人だが、ある時やっと子供を授かる。
妊娠した妻は隣に住むゴーテルという魔女の庭のラプンツェル(妊婦が食べるのによいとされる野菜)を食べたくてたまらなくなる。
食が細ってやつれた妻に「ラプンツェルが食べられなければ死んでしまう」と懇願された夫は、妻と生まれる子のために魔女の敷地に忍び込むとラプンツェルを摘み取りにかかるが、魔女に見つかってしまう。
しかし夫から事情を聞いた魔女は、好きなだけラプンツェルを摘んでもいいが、子供が生まれたら自分に渡せと言う。
やがて妻が生んだ女の子は、即座に魔女に連れて行かれる。
ラプンツェルと名付けられた娘は、森の中に築かれた入り口のない高い塔(昔、城が攻撃された際に最後の緊急避難塔として高い所に出入り口を設けていた。そうした塔は各地に見られる)に閉じ込められる。
魔女はラプンツェルの見事な長い金髪をはしご代わりに、高い塔にある窓から出入りしていた。
そんなある日、森の中を歩いていた王子が美しい歌声に引かれ、塔の中に閉じこめられたラプンツェルを発見し、魔女と同じ方法を使って塔に登る。
魔女に隠れて夜ごと王子を部屋に招き入れて愛し合い、ラプンツェルは妊娠する。
その事実を知って、激怒した魔女はラプンツェルの髪を切り落とし、荒野へと放逐してしまう。
一方、何も知らずラプンツェルを訪ねてきた王子は、待ち受けていた魔女から罵られる中で全ての顛末を知って絶望し、塔から身を投げて失明する。
7年後、盲目のまま森をさまよっていた王子は、男女の双子と暮らしているラプンツェルとめぐり遭う。うれし泣きするラプンツェルの涙が王子の目に落ち、王子は視力を回復する。
王子はラプンツェルと子供たちを伴って国に帰り、皆で幸せに暮らしたそうだ。(Wiki)
・・・・・
写真はグリム童話:Rapunzelラプンツエルの切手(DDR東独の発行した切手) -
【Burghotel Trendelburg古城ホテル トレンデルブルク城】
D-34388 Trendelburg 、 Steinweg.1
TEL:49(0)5675-9090、FAX:-9362
http://www.burg-hotel-trendelburg.com/de/
4星・全22室。この城は1303年コンラッド3世伯爵が建てたのが始まりと云われている。大火災や戦乱に巻き込まれ、城は2度も炎上したものの、その都度修復され、その後も幾多の変遷をへて、1948年この城主の末裔によって、6ベットのみのホテルが開業される。
今は中世の雰囲気をもつ古城ホテルとして、メルヘン街道の目玉になっていて、世界中からやって来る観光客の人気も高い。
私の記憶では1970年代と1982年のこの旅で二度、テラス・レストランで、お茶とケーキを楽しんだだけで、泊まった事は無い。
尚、その後の旅で、2005年4月28日に1泊した。
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:トレンデルブルク城のテラスでお茶を頂く。 -
参考写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:Bodenwerder_mit_Kloster_Kemnade_(Merian)1658年作、蛇行するヴェーザー川畔に発展したボーデンヴェルダーを描いたマテウス・メーリアンの銅版画
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トレンデルブルク城からB64沿いに流れるWeserヴェーザー川沿いに50kmを走る。蛇行するヴェーザー川の畔にボーデンヴェルダー(人口5.6千人)の村がある。
ボーデンヴェルダー村に、世にほら吹き男爵と謳われたBaron Münchhausennミュンヒハウゼン男爵の生家と、ほら吹き話の一つ、馬の銅像(胴が二つになった騎馬像)が水を流して立っていた。
ここには実在の人物であるBaron Münchhausenミュンヒハウゼン男爵(所謂、ほら吹き男爵)の生家や郷土博物館がある。
写真はBodenwerderボーデンヴェルダー:実在の人物であるBaron Münchhausenミュンヒハウゼン男爵(所謂、ほら吹き男爵)の郷土博物館で。ミュンヒハウゼン博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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<『ほら吹き男爵の冒険』の主人公ミュンヒハウゼン男爵カール・フリードリヒ・ヒエロニュムスKarl Friedrich Hieronymus Freiherr von Münchhausen>
ミュンヒハウゼン男爵といえば、通例、『ほら吹き男爵の冒険』の主人公をさすが、架空の人物ではない。
『ほら吹き男爵の冒険』の原型は、18世紀のドイツの貴族ミュンヒハウゼン男爵カール・フリードリヒ・ヒエロニュムスが自身の冒険談として周囲に語ったほら話である。
こちらはカール・フリードリヒ・ヒエロニュムス・ミュンヒハウゼン男爵の残された肖像画である。
参考写真はボーデンヴェルダー:Freiherr von Münchhausenミュンヒハウゼン男爵の肖像画 -
史実:
Karl Friedrich Hieronymus Freiherr von Muenchhausenミュンヒハウゼン男爵カール・フリードリヒ・ヒエロニュムス(1720年5月11日~1797年2月22日)は、18世紀のドイツの貴族である。
現在のニーダーザクセン州のヴェーザー川沿いにハーメルンから22km上流に走ると、メルヘン街道の町Bodenwerderボーデンヴェルダーがある。この町のミュンヒハウゼン家の第5子として生まれる。
カール・ミュンヒハウゼンは15歳のとき、ブラウンシュヴァイク公家に小姓として出仕した。
ロシアに移っていたブラウンシュヴァイク公子Anton Ulrichアントン・ウルリヒは死亡した小姓の補充を実家に求めたので、1737年、ミュンヒハウゼンはアントン・ウルリヒに仕えるためロシアに渡るが、1739年にアントン・ウルリヒの元を去り、バイロン公爵夫人の求めに応じてロシア軍騎兵少尉に任官した。
アントン・ウルリヒは1739年にアンナ・レオポルドヴナと結婚し、大元帥に就任する。
1740年、アンナは息子のイヴァン6世を擁して摂政に就任する。この政変の余波で、ミュンヒハウゼンは中尉に昇進した。
Rigaリガに駐屯していたが、1740年および1741年の対オスマン帝国戦には参加している。
1741年12月、政変によりイヴァン6世が廃され、アントン・ウルリヒはアンナとともに幽閉された。
ミュンヒハウゼンはその2年前にアントン・ウルリヒの元を去っていたため、追及から免れた。
1744年、ラトビアのLivoniaリヴォニア近郊の町Pernigelペルニエルで判事の娘Jacobine von Duntenヤコビン・フォン・デュンテンと結婚する。
1750年には大尉に昇進する。
休暇を取り、妻を伴ってボーデンヴェルダーに帰省した。
しかし母が死に、また2人の兄弟が戦死して、ヒエロニュムスがミュンヒハウゼン家を継ぐことになったため、ロシアに戻ることはなかった。
1754年、ロシア軍から除籍されるが、ボーデンヴェルダーでの妻との生活はその死まで40年に渡り幸せの時を過ごした。
ボーデンヴェルダーでのミュンヒハウゼンは機知に富んだ話術で広く評判を集めたが、同時に実務的な面については誠実な人物とも評されていた。
妻に先立たれた後、1794年に再婚したが、不和から離婚に至っている。
1797年に没した。子供はない。
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参考写真はBodenwerderボーデンヴェルダー:Rathaus_von_Bodenwerder,_Geburtshaus_vom_Baron_von_Münchhausen_Schloss Münchhausen
ミュンヒハウゼン男爵の生家(かつてのミュンヒハウゼン城)。現在は市役所として用いられている。 -
ミュンヒハウゼン男爵、ドレによる挿絵 ミュンヒハウゼンの物語がはじめてまとまった形で出版されたのは1781年のベルリンでのことだが、著者は不明である。
19世紀、ミュンヒハウゼン男爵の物語は数多くの作家たちによって加筆され、さまざまな言語に翻訳された。その結果として物語には100以上のバリエーションが存在する。
ミュンヒハウゼン男爵の物語のうち、ミュンヒハウゼン自身が語ったものがどれくらいあるのかは明らかでない。
ただし、エピソードの大多数はミュンヒハウゼンが生まれる前から数世紀にわたり流布してきた民話がもととなっていることが判明している。
ミュンヒハウゼン男爵の物語の一つはボーデンヴェルダーの博物館近くに、写真の様な銅像がある。
胴が二つになった騎馬像:
トルコとの戦いでは城門に騎馬が挟まれて、体が真っ二つに分かれてしまっていたのでした。馬がいくら水を飲んでも、そのまま後ろにあふれてしまうのだ。
参考写真はミュンヒハウゼン博物館傍にあるBodenwerder-Münchhausen-Denkmalミュンヒハウゼン男爵の記念碑 -
写真はBaron_von_Münchhausenミュンヒハウゼン男爵(所謂、ほら吹き男爵)の生誕250周年記念切手・・・胴が二つになった騎馬像
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イチオシ
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:左上から時計回りに、ボーデンヴェルダーの胴が二つになった騎馬像、郷土博物館、それからハーメルンの結婚式の家、旧市街。
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Weserヴェーザー川沿いにあるボーデンヴェルダーから、B83で北上すると22kmでハーメルンに至る。この日の小旅行はこの町が最後になる。
ハーメルン(人口58.2千人)市は旧市街の木組みの家並みや、伝説のRattenfänger von Hamelnハーメルンのラッテンフェンガー(ネズミ捕り男=ハーメルンの笛吹き男)など、メルヘンの代表的な話が残っている。
ネズミ捕り男(笛吹き男)は町を代表する伝説の男として有名で、街中にはその姿の人形、銅像が見られ、寸劇、仕掛け時計などを見ることができる。
中でも Hochzeitshaus結婚式の家(結婚式場、結婚の登記を行う場所)に備えてある「仕掛け時計(ネズミ捕りの男(笛吹き男))」が、娘達も見たくて、17時半の最後の分を期待して見に行った。
写真は1982.07.11.メルヘン街道一日巡り:ハーメルンの旧市街は木組みの家並みが美しい。 -
写真は1982.07.11.メルヘン街道一日巡り(絵葉書集)・・・右上から時計回りにトレンデルブルク城、後の3枚はハーメルンの旧市街やネズミ捕り男(笛吹き男)など。
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<Glockenspiel am Hochzeitshaus結婚式の家で見られる仕掛け時計(ネズミ捕りの男(笛吹き男))>
ハーメルンの「結婚式の家」の仕掛け時計では、毎日3回一日3回(13:05、15:35、17:35)ネズミ捕り男(笛吹き男)と子供たちの人形が現れる。
1610~17年に結婚式場として造られた典型的なヴェーザー・ルネサンス様式の建物で、建物の西側には仕掛け時計がある。
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:ハーメルンの結婚式の家で見られる仕掛け時計・・・最初にネズミ捕り男(笛吹き男)が出て来る。結婚式の家 建造物
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<ハーメルンのネズミ捕り男(笛吹き男)>
ハーメルンのネズミ捕り男(笛吹き男)の話はよく知られていて、娘達も興味津々で眺めていた。
この話はハーメルンの市民が町中に大繁殖したネズミに困り果てて、ネズミ退治を得意としたネズミ捕り男(笛吹き男)に依頼したそうだ。
ネズミ退治が成功すると、依頼した市民達は約束した報酬をネズミ捕り男(笛吹き男)に支払いませんでした。
怒ったネズミ捕り男(笛吹き男)はネズミを退治した笛を吹きながら、町中の子供たちを何処かへ連れて行ってしまったと云う。
(どこに消えたのか?諸説があって、結論に至っていない)
<Rattenfänger-Festspieleネズミ捕り男の野外劇>
https://youtu.be/gQ_3G6jVD5Y
*11. Mai bis 14. September 2025、毎日曜日の正午、約30分。
写真は1982年7月11日メルヘン街道一日巡り:ハーメルンの結婚式の家で見られる仕掛け時計・・・子供たちの人形が現れて、消えていく。 -
イチオシ
仕掛け時計は最後の分だったから、見物人は私共一家が見ているぐらいでした。
観終わって、17時50分にハーメルンを出発し、=>E63 232km デュッセルドルフに向かった。
帰宅したのは20時半。
12時間のドライブ旅行は、さすがに疲れた一日になった。
写真は1982.07.11.メルヘン街道一日巡り:5左上から時計回りでハーメルンの結婚式の家で見られる仕掛け時計、グリム童話のパンフレットの一頁、ハーメルン 仕掛け時計を17時半、最後の分を見て、17時50分発にデュッセルドルフに向かった。その前に一瞬のシャワー雨できれいになった車と一緒に撮った。
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(2025年10月08日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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この旅行記へのコメント (4)
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- cookieさん 2025/10/12 10:23:27
- ドイツのセピア色
- jijidarumaさん
おはようございまーーす
いつもいつも コメントありがとうございます。
ドイツに滞在なさっていたのですね。
写真を見ると娘さん! 今や 台湾に駐在なさってる方なんでしょうかね??
ドイツ語大学で 学びましたが あまりにも文法が難しくて いつも教授に叱られてました。
両親とも連れて ドイツ旅行 そして 仕事でドイツに行っても 全く使えず
笑
あの頃に もっと 勉強して グリム童話も もっと 理解してればと
ハーメルンの「結婚式の家」の仕掛け時計知らなかったです。
知っていれば よかったと 大体 行き当たりばったりの旅行が 多いのと
今みたいにネットで 調べれず ガイドブックしかなったしね。
地図で レンタルカーで ヨーロッパ回っていた時代が 今じゃ 信じれないですわ~
それでは またまた セピア色の旅行 楽しみにしておりまーーす
cookie
- jijidarumaさん からの返信 2025/10/13 02:28:44
- RE: ドイツのセピア色:メルヘン街道とグリム童話
- cookieさん、
今晩は。
コメントありがとうございます。
1970年代(30代)と、1980年代(40代)に家族と2度駐在しました。
若かったから、何でも見てやるスタイルで、よく走りました。
長女は婿の海外赴任で台北、後にソウルに駐在しています。
孫娘2人とも台北生まれで、生まれると同時に私共はお手伝いに
台北に15日間、次は30日間と同居して世話をしました、その二人が
もう大学生で、上は台北に、下はソウルを訪ねています。
思えば懐かしい時代。
私のドイツ語は他でも書いていますが、大学時代はドイツ駐在など
思った事も無く、教養科目のドイツ語の成績は可、可で何とか単位を
取りました。英語も含めて、語学は苦手にしていました。
ドイツに駐在して初めて、その事を大いに反省したものでした。
今のように、観光情報をサッと調べられなかったから、結構ドイツ語の
情報を辞書持参で読むしかなくて、その分ドイツ語に親しんだようです。
ドイツで自動車免許を取得して、同僚から祝いにもらったAralAutoの
観光本(650頁、1974年版)は今も見ることが多いのですが、ボロボロ
に年期が入ったものになりました。
おっしゃるように、地図を見て車で周った当時は我ながら、すごかった
と思います。
定年退職後の旅はレンタカーもナビ付きですから、道を覚えませんね。
それではまた。
jijidaruma
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- Rolleiguyさん 2025/10/09 13:52:31
- メルヘン街道ガイドブック
- jijidarumaさん、こんにちは。
メルヘン街道はとても魅力的ですね。私が行ったことがあるのは僅かですが、北ドイツは南とはやはり趣が違いますね。ハンブルクに何度か出張で行った時に、レンタカーで
幾つかの町を巡りましたが、そのうちゆっくり見たいものだと思っているうちに歳を取り、実現可能性が薄くなって来ました。それにしても、jijidarumaさんの記録は、このままガイドブックになり、通り一遍の市販ガイドブックとはレベルが違いますね。
これをこの場限りにしておくのはもったいないなといつも思っています。
プライバシーに関わる部分を削れば記録として長く価値を保つだろうと思います。
紙ベースでは制約があって難しいかもしれませんが、他の旅行記とともにデータで提供出来れば、多くの旅行好きやドイツの歴史好きに歓迎されると思います。
老後のひと踏ん張りで頑張ってみては如何でしょうか。
DDRの切手は楽しいですね。あの時代にあの国でもこのような愛すべきものが世に出ていたのですね。ステレオタイプの思い込みだと見える世界を狭くしてしまいますね。
まだまだいろいろ出て来そうなのでとても楽しみです。
楽しく頑張ってください。
Rolleiguy
- jijidarumaさん からの返信 2025/10/09 23:59:26
- Re: メルヘン街道ガイドブック
- Rolleiguyさん、
今晩は。
メルヘン街道の魅力にご賛同頂き有り難うございました。
ドイツ最後の旅が2019年秋で、もう6年経ってしまいましたが、この時も、メルヘン街道を走りましたね。
歳をとってからも、面白い街道で、いろんな出会いがあるので、旅行記の種になります。
1982年の旅は後からアルバムを見ると、デジカメの無い時代で、写真が少なくて、ちょっと寂しいですが、ドイツ観光の広報大使たるべく、記述や伝説にも気を配ってみました。ドイツに興味を持って、4Traでもお読み頂く人が多いと嬉しいですね。
<老後のひと踏ん張り>でガイドブックとのお勧め、畏れ多いですよ。
先日、私共の中学時代の恩師(後に女子短大の教授)に「宝石の町イーダー・オーバーシュタイン」の旅を38頁に纏めて写しをお送りしたら、95歳になる、お茶の水女子大出の恩師は宝石好きもあって、熟読して頂き、旅の内容についてもいろいろと感想を述べてくださいました。
宝石は勿論、古城ホテルSchloss Föhrenシュロスフェーレンで伯爵夫人に接遇されている様子に興味を持たれて、つまり、立派な銀器でお茶のサービスを受けた時や、ゲストハウスでの朝食の時に、食卓に置かれた燭台にローソクの灯がともされている様子が大変素晴らしいとおっしゃっていました。
ドイツの旅で体験する、お客様を歓迎する意味の蝋燭の灯に慣れてしまった私共ですが、恩師はドイツ文化の良さとして、感じ取られたようです。
こんな形で、ドイツ文化を発信している次第です。
それではまた。コメントありがとうございました。
jijidaruma
P/S:DDR(かつての東独)の切手、なかなか良いですね。
ある種の文化の発信ですが、あの国が違って見えます。
切手は今はやりませんが、駐在中は主に記念切手を中心に
切手収集もしました。
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