1984/03/05 - 1984/03/05
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【1984.03.05.カーニバル休日:モーゼル小旅行からの帰途、世界で名だたる宝石の町イーダー・オーバーシュタインを訪れた。】
(小旅行の行程)
Koblenzコブレンツ=>B49 53km (Alken アルケン) =>B49・53 66km Zell ツェル/ Mosel・ Hotel Schloss Zell古城ホテル ツェル城(1泊)=>Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン=>B41(Bad Sobernheimバート・ゾーベルンハイム)=>B41(Bad Münster am Stein・Ebernburgバート・ミュンスター・アム・シュタイン=エーベルンブルク城)=>B49 59km Bad Kreuznachバート・クロイツナッハ
Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタインの町はフランクフルトから南西に約130km、トリアーから約60kmの距離にある。
写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:時計回りに、右上からイーダー地区の宝石博物館の絵葉書、オーバーシュタイン地区の岩山にSchloss Obersteinシュロス オーバーシュタイン(オーバーシュタイン城)をバックに、Felsenkirche(フェルゼンキルシェ)岩壁教会とマルクト広場の家並み。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- 家族旅行
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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<ドイツの鉱山>で検索(Tripadvisor)すると、71の鉱山名(鉄、銀、銅、錫、岩塩、化石といったものだが)が羅列される。
詳細を一々見ていないが鉱山の場合、多種の貴金属が含まれているのだろう。
参考写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:Idar-Oberstein1654年の絵・・・左に Schloss Obersteinオーバーシュタイン城、右にブルク ボッセルシュタイン城址岩盤教会 寺院・教会
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世界で名だたる宝石の町と呼ばれるIdar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン(海抜 300 m)、は人口3万人弱、Hunsrückフンスリュック山脈に囲まれた、緑豊かな小さな町である。
オーバーシュタインを意訳すれば、「石の上の町」となり、15世紀半ば、この町で「Achatメノウ鉱山」が発見されたことに意味を発する。
この鉱山発見を機に、町には宝石研磨技術が発展したと云う。
1870年に採掘が中止されてからも、世界中から原石の研磨をするために宝石の集積地として知られている。
参考写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:Idar-Oberstein1875年の絵・・・左に オーバーシュタイン城、右にボッセルシュタイン城址 -
【Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタインを訪ねた】
この町には過去に何度か訪れた。
その一つはカーニバル休日である1984年3月4日(日)~5日(月)にモーゼル川畔からイーダー・オーバーシュタインに1泊の小旅行に出かけた時だ。
Gondorfゴンドルフ、Alkenアルケン、Cochemコッヘム、Marienburgマリエンブルク僧院跡に登り、Neumagenノイマ―ゲン、Bernkastelベルンカステル、そしてZellツェルに戻った。
この日は古城ホテルSchloss Zellツェル城に泊り、翌日に Hunsrückフンスリュック山地を横切り、ドイツの美しいフンスリュック山脈に囲まれたイーダー・オーバーシュタインを訪れたのだ。
参考写真は1984.03.05.Deutsche Edelsteinstrasse ドイツ宝石街道のMap -
尚、小学生であった次女が石(宝石?)好きで、日本人学校の郊外学習で一度この地を訪れていた。その記憶も新しい内にと、今回、ナーエ地方の豊かな天然の宝を見る為に出かけたのだった。
まだ残雪の残ったオーバーシュタイン城とボッセルシュタイン城址に登り、イーダー地区にあるEdelsteinminen Steinkaulenbergシュタインカウレンベルク宝石鉱山(観光用だが冬季中はお休み中だったが)や、ドイツ宝石博物館も訪ねた。
岩山の谷合に開けた町は宝石加工で有名なのだ。
3月5日(月)Rosenmontagバラの月曜日は、春の到来を祝うカーニバルの日でイーダー・オーバーシュタインの街中は仮装した人達が繰り出していました。
私共が住んでいたデュッセルドルフ市内も今日は休み、赤ちゃんから老人まで思い思いに仮装して街へ出かけ、祭りを楽しんでいたことでしょう。
写真はイーダー・オーバーシュタイン観光のメモ -
イチオシ
この古い町にはやはり伝説が残る。
【 Die Sage vom Brudermord伝説:兄弟殺し 】
11世紀の頃、現在のFelsenkirche(フェルゼンキルシェ)岩壁教会の上にあったBurg Bosselsteinブルク ボッセルシュタイン城内で二人の兄弟は仲良く過ごしていた。
所がある時、兄Wyrichビリッヒが弟のEmichエミッヒをブルク ボッセルシュタイン城の窓から、投げ落として殺した。
兄弟は二人ともクーゼル傍のリヒテンベルク家の令嬢Bertaベルタ(Burg Lichtenberg bei Kuselリヒテンベルク城(クゼル町) )を愛してしまったのだが、ベルタはエミッヒを選んだので、これに兄ビリッヒが嫉妬したのである。
その出来事があった後、ビリッヒは弟殺しを悔いて、罪滅ぼしに岩壁の窪みに教会を自らの手で建てた。そのビリッヒの仕事が完成した時、不思議なことに岩壁の窪みから、泉が流れ出たと伝えられている。
(伝説の泉は今も健在で、水が流れ出ているそうだ。
伝説に絡んだ実際の話はWyrich II. ビリッヒ二世をシュタイン家一族
のある人間が暗殺したものだ・・・と伝えられている)
写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:時計回りに、右上からイーダー地区の宝石博物館と宝石取引所の絵葉書、オーバーシュタイン地区の岩山にSchloss Obersteinシュロス オーバーシュタイン(オーバーシュタイン城)をバックに、Felsenkirche(フェルゼンキルシェ)岩壁教会とマルクト広場の家並み。 -
さすがに宝石関係の見所が多い。
*イーダー地区にあるEdelsteinminen Steinkaulenbergシュタインカウレンベルク宝石鉱山、
*Diamant-und Edelsteinboerseダイヤモンド・宝石取引所と併設されtDeutsches Edelsteinmuseumドイツ宝石博物館、
*宝石研磨工房が置かれたWeiherschleifeヴァイアーシュライフェ(水車小屋・・・昔は水車の力を利用して、宝石を研磨していた)、
*オーバーシュタイン地区のマルクト広場にあるMuseum Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン博物館(現在の名前はDeutsches Mineralienmuseumドイツ鉱物博物館)、
*Edelstein-Erlebniswelt宝石体験ランド、
写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:田舎町だが、イーダー地区には絵葉書の様な高層ビルが建っている。これは宝石博物館を併設するダイヤモンドや宝石の取引所のようだ。 -
イチオシ
写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:時計回りに、右上からSchloss Obersteinシュロス オーバーシュタイン(オーバーシュタイン城:1320年築城)をバックに、イーダーにあるEdelsteinminen Steinkaulenbergシュタインカウレンベルク宝石鉱山の採掘場跡(見学は通常できるが、冬季は閉まっている)で、Ruine der Burg Bosselsteinブルク ボッセルシュタイン城址(11世紀の頃築城され、1600年頃には無住となった)を望む。
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写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:Schloss Obersteinシュロス オーバーシュタイン(オーバーシュタイン城)をバックに。
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イチオシ
写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:時計回りに、左上から残雪もあったイーダーにあるEdelsteinminen Steinkaulenbergシュタインカウレンベルク宝石鉱山の採掘場跡(日本人学校の郊外学習で次女は一度訪れていた)で、イーダー地区の宝石取引所・博物館内と博物館前で娘達を撮った。
ドイツ宝石博物館 博物館・美術館・ギャラリー
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写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:鉱山や宝石類の絵葉書
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1984年3月5日(月)の小旅行では、イーダー・オーバーシュタインのイーダー地区を主に見てから、Bad Kreuznachバート・クロイツナッハに立寄って、デュッセルドルフに帰った。 -
写真はBad Kreuznach バート・クロイツナッハ観光:時計回りに、右上から国道B41沿いに見つけたNaheweinstrasseナーエワイン街道の看板、Faust-Hausファウストの家(後述)、Alte Nahebrückeアルテ・ナーエ橋、ファウストの家をバックに。
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<Faust-Hausファウストの家1507年>
ゲオルク・ファウスト(Johann Georg Faust 1480?~ 1540年?)が住んだ家だと云う。
Doktor Faustusファウスト博士は16世紀の占星術師、錬金術師として有名で、民衆本Historia von D.Johann『実伝ファウスト博士』(1585年 主人公はヨハネス(ヨハン)・ファウスト(Johann Faust))がベストセラーになった。
彼は悪魔メフィストフェレスと契約し、悪魔の力を借り、様々な不思議を行ったとされる。ゲーテの戯曲『Faustファウスト』のモデルでもある。
参考写真はバート・クロイツナッハ観光:Joannes Faustusハネス・ファウストの自画像 -
写真はバート・クロイツナッハ観光:時計回りに、右上からAlte Nahebrückeアルテ・ナーエ橋の橋上の家(眼鏡橋の背面から)、ナーエ川と中州、イーダー・オーバーシュタインの宝石研磨工房が置かれたWeiherschleifeヴァイアーシュライフェ(水車小屋)の絵葉書、ナーエ橋の橋上の家(眼鏡橋の正面中州側から)。
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<Pauluskircheパウル教会>
パウル教会は新市街と旧市街の中間、ナーエ川の小島の一角に立っている。町の中心でもある、この辺りが一番良い景観があって、落ち着いた良い所だ。
1311~1332年にJohanns II., Graf von Sponheimスポーンハイムのヨハン2世伯爵により、当初は礼拝堂として建設された。
三十年戦争中の1620年以来、この地はアンブロジオ・スピノラ将軍(上述)指揮下のスペイン軍の基地として強化され、教会も反宗教改革の度を強めた。
1688年、フランス軍が隣接したカウツェンブルク城を焼き払った。更に1689年には教会も焼けおちた。その後、町の人々の力で再建されている。
第二次大戦では、1945年3月17日、ナチス国防軍がナーエ橋の爆破を行ったことで、周辺の建物、教会の屋根なども大きな被害が出た。
1952~54年にかけて、教会はまた再建されている。
尚、トリアー生まれで、「資本論」を著したKarl-Marxカール・マルクスは1843年に妻Jennyジェニーと、パウル教会で結婚している。
写真はバート・クロイツナッハ観光:旧市街を流れるナーエ川と中州、Pauluskircheパウル教会の塔が見える。 -
参考写真はバート・クロイツナッハ観光:Alte Nahebrückeアルテ・ナーエ橋(めがね橋)の橋上の家(背面から)・1900年の絵
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写真はバート・クロイツナッハ観光:Alte Nahebrückeアルテ・ナーエ橋(めがね橋)をバックに
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2010年の秋、ドイツ感傷旅行も9回目になるが、初めて回遊したザールラント州から戻る時に、折角だからと、モーゼル川から、イーダー・オーバーシュタイン、バート・クロイツナッハのルートをとってフランクフルト空港に向かった。
【秋の旅はドイツの南西部・Rheinland-Pfalzラインラント・プファルツ州 &Saarland ザールラント州を巡る旅である。】
期間:2010年10月18日(月)~11月01日(月)15日間の旅
10月28日(木)~30日(土) (2泊)⑪⑫
<Das Forsthaus Schloss Föhren :古城ホテル・シュロスフェーレン>
D-54343 Föhren (Trier) 、Hofstrasse 27
全4部屋、及びDie Ferienwohnung2部屋
Hirschzimmer(鹿の間・2階)(朝食のみ);現金払い Euro119X2=238
宮殿(かつて水城だったと云う)を取り巻く建物の一部をGaestehausゲストハウス用に使用していて、Das Forsthausフォルストハウス(かつての山林監督の官舎の意味)と称していた。
オーナーの*伯爵夫人に案内された部屋はフォルストハウスの2階で、3つの部屋があった。
「ご予約された部屋はこちらのHirschzimmer(鹿の間)ですが、もしお好みに合わなければ、他の部屋に替えていただいて結構ですよ」と言われる。
*1445年以来600年近くの間、トリアー選帝侯の係累であり、神聖ローマ帝国・Kesselstattケッセルシュタット伯爵家一族は、ここシュロスフェーレン宮殿に代々居住し、古城ホテルなどの事業経営者は、いまだに Gräfinグレーフィン(伯爵夫人)と称する。たいへん不思議な感じがしたものです。
伯爵夫人は50代と思われる、活動的で、とても気さくな、親切な方でした。
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参考写真はイーダー・オーバーシュタイン観光:Idar-Obersteinのメノウ鉱山発見から500年を記念した切手:Edelsteinregion(宝石生産地)1997発行。 -
参考写真は2010.10.イーダー・オーバーシュタインMap:この時は主にObersteinオーバーシュタイン地区が主になった。
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10月30日(土)153km 、曇り、時に晴れ間 、暖かな一日15.5℃
伯爵夫人に分かれの挨拶をして、Schloss Föhrenシュロスフェーレンを10:15に出発した。今日はこの旅では長い距離を走る。
「Deutsche Edelsteinstrasseドイツ宝石街道」を行くのだが、さっきも伯爵夫人に「大きな宝石を買ってもらいなさい!」と、家内は声を掛けられていた。
Schweichシュバイヒから、アウトバーンA1に入り、36km先のNonnweilerノンバイラーでA62に入り、Birkenfeldビルケンフェルトでアウトバーンから国道B41になる。Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタインまでは38km。
車の渋滞もなく、新しいアウトバーンは山間を走るが、楽な道であった。
上の町Idarイーダーから、下の町Obersteinオーバーシュタインにぐるぐる道を回って降りると、旧市街傍のパークハウスがあった。
写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:旧市街の中心 -
<Deutsche Edelsteinstrasseドイツ宝石街道>
モーゼル川の南、フンスリュック・ナーエ地方は中級山地の地域である。
ここに長さ48kmのドイツ宝石街道が走っている。
その中心はイーダー・オーバーシュタインの町で、イーダー地区にドイツ宝石博物館と、オーバーシュタイン地区に町のシンボル!観光の目玉である、小さなFelsenkirche(フェルゼンキルシェ)岩窟教会・・・岩壁の中に埋め込まれたように見える・・・の下方にもドイツ鉱物博物館(以前は宝石博物館)がある。
近代的な研磨所があり、宝石研磨の歴史はこの地方で鉱物が豊かに発掘されたことに始まる。
宝石街道の入口にあたる、Fischbachフィッシュバッハの銅鉱山にも宝物が展示されている。
Edelsteinminen Steinkaulenbergシュタインカウレンベルクの宝石鉱山では輝く石を試掘することができ、ここはおそらくヨーロッパ最大のメノウ鉱山と言われている。見学坑道ではメノウだけでなく、水晶やアメジスト、曇水晶、方解石やそのほかの鉱石を見ることができる。
Kempfeldケンプフェルトの“宝石庭園” では高カラットの石が見ることができる。100以上の原石が柱台の上に展示され、触ってみることもできるそうだ。
絵のように美しい木組みの家並み、Herrsteinヘルシュタインの町は宝石箱のようです。
イーダー・オーバーシュタイン周辺の町やこの地の宝石・アクセサリー業界をイベントなどで代表を務める、ドイツ宝石街道の“宝石の女王”も2年ごとに選ばれている。
写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:Ruine der Burg Bosselsteinブルク ボッセルシュタイン城址(11世紀の頃築城)と白壁の岩壁教会をマルクト広場から見上げて。 -
写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:右上にボッセルシュタイン城址、左上にオーバーシュタイン城が見える。
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イチオシ
マルクト広場には少年の像が宝石を掲げていた。
さすがに町には宝石関係の見所が多い(前述したものとダブるが)。
*イーダーにあるEdelsteinminen Steinkaulenbergシュタインカウレンベルク宝石鉱山、
*宝石研磨工房が置かれたWeiherschleifeヴァイアーシュライフェ(水車小屋)、*ドイツ宝石博物館Deutsches Edelsteinmuseum、
*オーバーシュタインのマルクト広場にあるMuseum Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン博物館(現Deutsches Mineralienmuseumドイツ鉱物博物館)、
*Edelstein-Erlebniswelt宝石体験ランド、
*Diamant-und Edelsteinboerseダイヤモンド・宝石取引所などがある。
写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:写真の岩山上にボッセルシュタイン城址、中央に伝説の残るフェルゼン(岩壁)教会、下は木組みの家並みのマルクト広場。 -
<Deutsches Mineralienmuseumドイツ鉱物博物館>
以前のMuseum Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン博物館は現在の名前はDeutsches Mineralienmuseumドイツ鉱物博物館に変わっていた。
研磨作業所がある博物館にはすごい展示品ばかりで、以前に来た時よりもずっと出展物が多いように思えた。
メノウだけでなく、水晶やアメジスト、曇水晶、方解石など、名も分からない宝石が、原石や加工品として所狭しと並んでいた。王家の王冠、有名人を飾った見事な宝石も・・・宝石好きには確かに楽しい所だ。入館料Euro9.4。
尚、トリアーの専門大学の宝石・宝飾専科にはイーダー・オーバーシュタイン分校がある。
http://www.museum-idar-oberstein.de/ (11:35~13:10)
写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:ドイツ鉱物博物館正面 -
写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:ドイツ鉱物博物館の展示
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写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:ドイツ鉱物博物館の展示
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写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:ドイツ鉱物博物館の展示
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写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:ドイツ鉱物博物館の展示
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写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:ドイツ鉱物博物館にあったオーバーシュタイン城の模型。
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写真は2010.10.30.イーダー・オーバーシュタイン観光:ドイツ鉱物博物館の展示
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2010年10月30日(土)、曇り、時に晴れ間 、暖かな一日15.5℃。
モーゼル川畔から、この日は宝石街道、ナーエワイン街道を153km走って、バート・クロイツナッハにやってきた。 -
<Die Naheナーエ川>
ライン川がラインガウ地域で東から西へと流れた後、上ラインと中ラインの境である529.1km地点で、Naheナーエ川はライン川に合流する。
つまり、ライン川の支流にあたる。
ナーエ川はHunsrueckフンスリュック地方の西南の外れ、ザールラント州の Nohfeldenノーフェルデン近くを水源として、フンスリュック地方と神聖ローマ帝国選帝候領・ライン川西部を丁度二つに分離するように流れて行く。
“ドイツ宝石街道”の中心地であるIdar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン、Kirnキルン、Bad Kreuznachバード・クロイツナッハを経由し、Bingenビンゲンでライン川に合流する。
その間の距離は125km、面積4,065平方キロの広範な山並みを流れ下る。
ビンゲンはナーエ川(ナーエワインの産地)とライン川の合流点に出来た町で、ワインの集散地として栄えた。このナーエ川には支流のGlanグラン川(90km)、Alsenzアルゼンツ川(50km)がある。
<Naheweinstrasseナーエワイン街道>
ナーエ地域はラインヘッセンとモーゼルの両地域に東と西から挟まれた小さい地域で、ナーエ川とその支流のグラン川、アルゼンツ川流域に広がっている。
その流域は「Naheweinstrasseナーエワイン街道」と呼ばれている。
その街道沿いの町や村はナーエワインの産地としても有名である。
栽培面積は凡そ4,500haの広さになる。
鉱山地帯でそれぞれの土質が異なるため、とても変化に富んだ多種多様なワインが生まれる。
その為、かつてこの地域が「ドイツワインの試飲小屋」とも呼ばれたこともあるが、今はドイツを代表するトップワイナリーもあり、年々評価が高くなっている地域である。
写真は2010.10.30.モーゼル川=>Idar-Obersteinイーダー・オーバーシュタイン=>Bad Kreuznach バート・クロイツナッハ=>ライン川:ルートマップ -
<Alte Nahebrückeアルテ・ナーエ橋(めがね橋)>
町の支配者・Graf SimonⅡジモン2世伯がナーエ川両岸の居住地を結ぶ為に、ナーエ川に腕を伸ばすようにして、1300年に木造の橋を造った事が最初である。
Alte Nahebrückeアルテ・ナーエ橋(めがね橋)の上には、絵の様に可愛い橋上の家(Brückenhäuser ブリュッケンホイザー)が4つ建っている。
橋は長さ135m、幅9mのものであり、橋桁が遠目には3つの眼鏡のように見えることから眼鏡橋と云われる。真中の家はワイン・レストランでしたが、倒産したようで、中がガランドウでした。
参考写真はバート・クロイツナッハ:めがね橋上の家並み -
ドイツの石橋の中で、ナーエ橋のように橋上の家をもつのはErfurtエアフルトのKrämerbrückeクレーマー橋や、EsslingenエスリンゲンのNeckarbrückeネッカー橋が挙げられる。いずれも2001年、2009年に訪れた事がある。
参考写真はバート・クロイツナッハ観光:めがね橋上の家並み(背面から) -
【Bad Kreuznach バート・クロイツナッハ】
ちょっと迷ったので駅近くのアラル給油所に入り、ホテルへの道を聞いた。若い子だったが説明は正確でした。ついでに二度目の給油を行った。
ホテルには15:30と早い到着になった。
2010年10月30日(土)1泊:
<Kauzenburg mit Landhotel :古城ホテル・カウツェンブルク(梟の城)
のホテル棟>
3星、45室。 317号室(2階) Euro110
LandhotelランドホテルはKauzenburgカウツェンブルク宮殿にある庭園の端に位置している。予想外にホテルとレストランの二つは独立した建物で、ホテルは裏手の住宅街の上に位置し、レストランはナーエ橋(めがね橋)、Pauluskircheパウル教会、旧市街を眼下に見る場所にあって、相互の距離は徒歩8分もあった。
てっきりレストランのある所がホテルでもあると思っていたが、違っていた。
30分で荷物を整理した後、歩いて市内観光に出かけた。
ホテル一帯は草原で、バート・クロイツナッハの屋根と称しているだけに、旧市街や遠くの丘の稜線も遠望できる。
紅葉の森の先にはブドウ畑も見えた。
写真は2010.10.30.バート・クロイツナッハ観光:めがね橋上の家並み(背面から) -
旧市街にあるナーエ橋(めがね橋)が観光のメインで、写真左手にPauluskircheパウル教会が建っていた。
1945年3月17日、ナチス国防軍がナーエ橋の爆破を行ったが、戦後、町では議論百出の会議を経て、1956年、コンクリート製のBogenbrückeアーチ型の橋を完成させている。
写真は2010.10.30.バート・クロイツナッハ観光:めがね橋上の家並み(背面から) -
<Kauzenburgカウツェンブルク(梟)城の歴史>
Graf Gottfried III. von Sponheimスポーンハイムのゴッドフリード3世伯 によって1206 ~1230年に築城され、その居城となった。
その後は各地の騎士たちの領地争いで、しばしば、この地の支配者が変わった。
1620年にスペインのMarquis de los Balbases・ Ambrosio Spinolaロス・バルバセス侯爵アンブロジオ・スピノラ(1569~1630年)が町と城を獲得し、1632年まで、城の強化を行っている。
(スピノラは17世紀前半のスペインを代表する名将。イタリアのジェノバ貴族出身で当時の宗主国スペインの傭兵になった。1618年に三十年戦争が始まると、スピノラはスペイン軍を率いてプファルツに侵入し、華々しい戦果を上げている。
攻城戦の名人と謳われ、ヨーロッパ中にその名を轟かせた。特に1624年から1625年にかけてスペイン軍が当時のオランダで最も難攻不落を誇った、ブレダの町を包囲した戦いで、ブレダ攻城戦を指揮し、これを開城せしめ、世にその名を知られた。
この時の開城シーンを描いたベラスケス作の『ブレダの開城』は有名である)
1632年から、スウエーデン王がこの城を取得したが、1635年、皇帝軍が引き継いでいる。
1648年、三十年戦争の終結と共に城はバーデン・プファルツ伯のものになり、強固な要塞化が進められた。
1688年、ルイ14世のフランス軍が城を焼き払った。
焼失後、長い間そのままに放置されていた城址は1803年、Recumレクムの領主のものになり、1881年まで居住していた。
その後も所有者が転々とし、1970年からワイン商Elmar Pierothがこの地を取得し、実に奇抜な、新しいレストラン棟を建てた。現在はKauzenburg Gaststaetten GmbHという経営体が、レストラン、ホテル事業を行っている。
写真は2010.10.30.バート・クロイツナッハ:カウツェンブルク(梟の城)のレストランから見る美しい景観、左にPauluskircheパウル教会の塔が見える。 -
<Kauzenburgカウツェンブルク(梟の城):レストラン棟>
梟の城のレストラン棟はバート・クロイツナッハの高台にあり、旧市街を眼下に見え、それは実に美しい。
17時、明るさの残る旧市街(左下にパウル教会の塔)や丘陵のブドウ畑の稜線が誠に美しいのだ。
カウツェンブルク(梟の城)のレストランから、ドイツ最後の夕食に相応しい景観を見る事が出来た。
クロイツナッハの旧市街に下りて、見上げたカウツェンブルク(梟の城)のレストラン棟は実に奇妙な形をしている。
Zinne(銃眼付き胸壁)レストランが空間に少し出ているように見える。
写真は2010.10.30.バート・クロイツナッハ:Kauzenburgフクロウの城(レストラン棟)を見上げて -
<夕食;Zinne(銃眼付き胸壁)レストランにて>
17:10~18:50 Euro53(6,768円)
飲み物:ビールとワイン
Bitburger Pils von Fass 0.3Lx2 Euro4.6 、
2007年Silvaner trocken 0.2L・Staats Weingut Bad Kreuznach Euro3.6 、
2008年Weissburgunder classic 0.2L・Euro3.6 。
この旅最後の料理は次のようなもの。
*スープ:Rinderkraftbrühe mit Markklößchen骨髄餃子入りコンソメスープ Euro4.8
*サラダ:Kleiner Salatteller mit Kräutern und Sprossenハーブ、もやし入りの小サイズサラダ Euro4.2
写真は2010.10.30.バート・クロイツナッハ:カウツェンブルク(梟の城)で夕食 -
メイン:Winzergeschnetzeltes(Schwein und Pute)mit Speck und Trauben im Reisrand豚と七面鳥肉、ベーコン、葡萄入りのヴィンツアースライス
Euro14.8
写真は2010.10.30.バート・クロイツナッハ:カウツェンブルク(梟の城)で夕食 -
メイン:“Kauzenburg”-Schwein Schnitzel mit Champignonrahmsauce 、Pommes Frites und Salatteller
梟の城ご自慢の料理:豚のカツレツ、マッシュルームソース、フライドポテト、サラダ添え Euro14.2
写真は2010.10.30.バート・クロイツナッハ:カウツェンブルク(梟の城)で夕食 -
私はスープと、メインに梟の城ご自慢の料理を注文し、家内はサラダとメイン料理にヴィンツアースライスを注文した。
メイン料理のソースは好物のビーフストロガノフのソースのようで、大変美味しかった。
写真は2010.10.30.バート・クロイツナッハ:カウツェンブルク(梟の城)で夕食
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
バート・クロイツナッハからフランクフルト空港は近い。
(2025年09月20日Wiki・HP参考、訳・編集追記)
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イーダー・オーバーシュタイン
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セピア色の思い出:オーストリアのグロースグロックナー山岳道路を走り、パステルツェ氷河を歩く。
1984/07/30~
グロースグロックナー周辺
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