2026/02/05 - 2026/02/14
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しにあの旅人さん
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宮内庁の言う文武天皇陵はこの近くにありますが、多くの学者はこの中尾山古墳が真陵であると言っております。
この前日飛鳥は年に数度しかない大雪でした。文武陵にも雪が残っておりました。
慶雲4(707)年6月15日 (文武)天皇が崩御された。
冬10月3日正五位上の土師宿禰馬手(はじ・すくね・うまて)が陵(みささぎ)を造る司に任じられた。
11月12日 遺体はその日、飛鳥の岡で火葬にした。
11月20日 遺骨を桧隈安古山稜(ひのくま・あこの・みささぎ)に葬り申し上げた。
(以上現代語訳続日本紀上P90より)
参考書については、「六国史の旅 天武チルドレン1」をご覧下さい。
引用に際し僭越ながら敬称を略させていただきます。
投稿日:2026/02/23
- 旅行の満足度
- 5.0
- 同行者
- カップル・夫婦(シニア)
- 交通手段
- レンタカー 新幹線 JRローカル
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
今回はこの土師馬手の物語です。時はさかのぼります。
馬手が日本書紀に初めて登場するのは、天武元年(672年)6月24日です。東国での挙兵を決意した大海人皇子が吉野を脱出して、兎田(うだ)の安騎(あき)に着いたとき、
★このとき屯田司(みたのつかさ)の舎人(とねり)土師連馬手は、天皇の従者の食事をたてまつった。★
(P246)
この時以降、馬手は大海人皇と菟野皇女を護衛する11人の吉野脱出メンバー、吉野イレブンに加わりました。天武チルドレンの一人です。
このあたりは、
「六国史の旅 天武チルドレン1 文祢麻呂(ふみの・ねまろ)」
https://4travel.jp/travelogue/11696567
をごらんください。 -
一書に曰く、
再びの阿紀神社です。
この神社は、私たち二人が大好きな神社なのです。 -
もう、かりんはありませんでした。
代わりに、梅か蝋梅が、かすかに香っておりました。 -
前回と同じ静かな、清らかなたたずまいでした。
前回と同じに、境内に人影はなく。
ただ今回は、閉じている社務所の窓際に、
御朱印は、裏の××様宅に預けてあります。ご希望の方はどうぞ。
と、道順が書いてありました。
思えば、前回もお参りさせていただいたのに、社務所は閉まっていて、御朱印をいただいておりません。
そこで、伺いました。 -
神社の前の道にも、ずっと、葉牡丹の鉢が並べてあったのですが、こちらのお宅にも、玄関までの道にずっと、そして玄関の中にも、葉牡丹が美しく飾られておりました。
普通のお宅で、神主さんのご自宅というわけでもないようです。
張り紙にも、××様宅と書いてありましたし。
たぶん、氏子さんではあるのでしょうが。 -
でも、出ていらした中年の男性に、神社の御手洗い川の流れの清らかさ、その傍らに備えてあった手拭きの清潔さなど、お手入れの細やかさに感動したと、申し上げますと、喜んでくださいました。
御朱印だけをいただけば、用事はすんだのですけれど、最近のby夫婦は、
知らない人にも話しかけてしまいます。
年取って、ずうずうしくなったのでしょうかね。
でも、ここで、お話しできて、楽しかったです。
ここは、元伊勢だというので、倭媛のお守りがありましたので、孫娘にいただきました。
いつの日か、彼女に、倭媛さんが何者かわかるといいなと思っております。 -
朝まだ8時です。
前回は手拭きの白さが目に鮮やかでしたが、今朝は今からのようです。 -
2日後26日朝迹太川のほとりで、馬手は近江から大分君恵尺に守られた大来皇女、大津皇子に会いました。その大来皇女が伊勢に斎宮として行く前、泊瀬斎宮で潔斎をしたことになっています。その禊の場はこんな感じだったと、私は思いました。
-
お参りして神社を後にしました。
By妻 -
兎田の安騎は、現在の奈良県宇陀市、阿紀神社の近くと言われております。
後年人麻呂の歌で有名なかぎろひの丘かもしれません。
馬手については生年、出身氏族など詳しいことはわかりません。舎人ですから、行儀見習兼将来の引き立てを目的に、大海人皇子に仕えた地方豪族の若い子弟でしょう。
「屯田司」です。皇子の私領の経営を任された、舎人としてはベテランかもしれません。30歳くらいとしましょう。
「土師」ですから、出身氏族は古墳などの土木工事の専門家集団でありました。その後の馬手の仕事ぶりをみても、これは間違いない。
大海人皇子・菟野皇女は一人息子草壁皇子を伴っておりました。662年生まれですから、このときまだ10歳です。
「おじちゃん、もっと食べたい」とか、草壁くんがお代わりをねだった、かもしれない。
過酷な吉野脱出行で馬手は、大海人皇子ら親子3人を護衛しました。
これが4人の運命的な出会いとなりました。 -
一書に曰く、
かぎろひの丘は、のどやかにのびやかに静かでした。
ここで、薬狩りをしたとか、若者たちが、群れ集ってさんざめいていたとか、夢のまた夢。
市のトラックが一台止まって、枯草や枝を集めていました。 -
黒い跡が、他にもありましたから、ここで燃やすのでしょう。
例え火が上がったとしても、だれ一人駆けつけてくるとは思えない、人っ子一人いない静けさでした。
このトラックの人は、中年の男性でした。
地元を離れないで働ける人は、どのくらいいるのだろう。
農家と兼業かなア。なんて、余計なことでしたね。
By妻 -
天武持統陵、草壁の皇子陵の造成には馬手の名はありません。
次に馬手の名が現れるのは、文武2年(698年)。
★
正月3日 新羅の使いの一吉飡金弼徳(いっきつ・さんきん・ひつとく)らが調物(みつぎもの)を献上した。(中略)
直広参(正五位下相当)土師宿禰馬手を遣わし、新羅の貢物を大内山の陵(天武天皇陵)にお供えさせた。
★
(上P17)
供えさせたのは文武天皇です。文武は草壁皇子の子で、その時まだ15歳でした。祖母持統太上天皇は存命です。その指示だったでしょう。 -
文武3年(699年)に天智天皇陵の修復に参加しました。
★10月20日 直広参(正五位下相当)の土師宿禰馬手を山科山稜に遣わし、それぞれ作業を分担して、山稜を修造させた。★
天智天皇陵はなぜか天武さんに比べて人気がありません。
山科というほかに観光名所がないところにあるからでしょう。
冷酷非道な天皇というイメージがあるので、敬遠する方が多いのかも。 -
この天智天皇陵の拝所のスタイルは江戸末期に出来上がったもので、だいたいどこでも同じようなものです。
どの天皇陵も昔は木立なんかもっと少なくて、桜が植えられていたり、頂上にお宮があったりして、個性があったようです。近在のお百姓さんがボランティアで草刈りするなど出入りも自由だったみたい。そのかわり一部が削られて、畑に耕されたケースもありました。
いずれにしても重機で削って真っ平ということはありませんでした。 -
専用の駐車場はなくて、交番の隣の有料パーキングに車をおいて歩きました。
-
駐車場の前の小道が参道だと思って進みましたが、行き止まりの私道でした。
-
でも奥に入口があって、本物の参道に移れました。
-
私たちみたいなそそっかしい観光客はいるみたい。
-
参道入口は立派な砂利道で、橋の手前まで管理用の車は入れますが、一般車はだめ。
-
ということです。
-
石畳の奥が拝所です。
-
天武持統陵と違って、観光名所というより、大きなお墓という感じです。
-
八角墳で7世紀末築造。被葬者も天智天皇で間違いないそうです。
-
高さ8mくらいのものらしい。それほど巨大なものではないみたい。木立に覆われてどんな形かわかりません。
馬手が修造したときと同じかも、わかりません。
30分ほどいましたが、参拝者はほかに2名。 -
一書に曰く、
いつもは、飛行機、車での旅行なのですが、今回初めて、新幹線を使っての旅でした。
新幹線って、何年ぶりだろうとか、はしゃいでいるうちに、京都について、乗り換えて奈良。
奈良って、近いのですねえ。
という最初の目的地が、じゃーん、天智天皇陵でございます。
天武、持統天皇陵は、もう、銀座のライオン像前よりもくわしい。
飛鳥に行ったら、あの前通らないことないですもんね。
でも、天智天皇さんには、失礼しておりました。
飛鳥じゃないし。
ひとり京都山科だし。
山科って、大石内蔵助。
こっちのほうが有名かも?
でもでも。我が家は、大石は、今回はパス。
あ、言い忘れていました。奈良からはレンタカーです。
街中にある御陵で、きれいに手入れしてありました。緑あふれて、市民の憩いの場?ってわけにもいかないだろうけれど、散歩にいいんじゃないでしょうか。
天智さんて、そんなに人に愛されるタイプだったっけ?
それに、なんでこの天皇さんだけ山科?
持統天皇のお母さんも姉さんも息子も飛鳥に御陵があるのにね。
天智さんは、娘に愛されていなかったのかしらね。
By妻 -
再び天武持統陵です。
文武2年(702年)持統太上天皇が崩御しました。
本人は葬儀は簡単にせよと遺詔しましたが、文武朝挙げての大イベントになりました。責任者は二品の穂積親王。天武天皇の第五皇子です。8世紀前半の朝廷の大物。
翌3年冬10月9日
★四品の志紀親王を御竈を造る長官に(中略)正五位下の土師宿禰馬手をその副(すけ)に任じた。★
(P62)
持統天皇は火葬された最初の天皇です。竈は火葬用の装置らしい。
馬手は葬儀技術者として火葬の技術にも通じていたことになります。
皇族が古墳の作り方や火葬に詳しいはずがない。馬手がすべてを取り仕切ったのでありましょう。
★
12月17日 この日飛鳥の岡で火葬にした。
12月26日 大内山陵(天武天皇陵)に、太上天皇を合葬申し上げた。
★
(P63-64)
文武天皇の死
▲▲▲▲▲▲
慶運4年(707年)6月15日文武天皇崩御。683年生まれですから、まだ25歳です。もともと体が弱かったみたい。
(P90)
冬10月3日、馬手は陵を造る司に任じられました。 -
2月8日、前日の雪が残っておりました。
-
山稜の周囲も雪。
-
近くの駐車場にも車はほとんどなく、山稜の近くには私たちだけ。
-
「史跡 中尾山古墳」と石碑がありますが、横の説明版には文武天皇陵である可能性は書いてありませんでした。近くの栗原塚穴古墳が文武天皇陵と宮内庁に治定されているので、こういうことになるのでしょう。
2021年7月にもこの古墳に来ているのですが、その時は案内板に、
★(略)江戸時代には中尾塚・中尾石塚」ともよばれ、南側に隣接する高松塚古墳とともに文武天皇の「檜隈安古岡上陵(ひのくまの・あこの・おかのえの・みささぎ)ではないかと注目を集めてきました。★
その後新しい発見があったのかもしれませんが、現在でも文武真陵とする説は有力だそうです。 -
現地案内板にあった発掘当時の石室写真です。10個の巨石で作られているそうです。
2011年の案内板には、
★幅及び奥行き約90cmを測ります。石槨側面は非常に丁寧に磨かれており、全面に水銀朱が塗布されています。床石は片麻状石英閃緑岩が使用されており、床面の中央部は60cm四方、深さ1cmの範囲が凹状に削り込まれています。この区画には火葬骨を収めた蔵骨器を安置するための台が設置されていたものと考えられます。★
続日本紀には
★11月12日 (天皇の)遺体はその日飛鳥の岡で火葬にした。★
とありますので、ぴったり符合します。 -
周囲を回ってみました。
公式にはどなたの奥津城かは存じ申し上げませんが、清逸なお墓でありました。
続日本紀文武4年(707年)
★11月20日 (文武天皇の)遺骨を檜隈安古山陵に葬り申し上げた。★
この日馬手は、大海人皇子、菟野皇女、草壁の皇子との吉野脱出行という、自分の青春の思い出もまた山稜に封じたのでありましょう
兎田の安騎で草壁皇子に食事を差し上げたとき、その子を自分が葬ることになるとは、思いもしなかった。 -
はるかなり壬申の乱
▲▲▲▲▲▲▲▲▲
4年後、
元明天皇和銅4年(711年)
2月26日
★従四位下の土師宿禰馬手が卒した。★
(P119)
676年村国連雄依(むらくにの・むらじ。おより)卒。天武チルドレンの一人で、琵琶湖南の壬申の乱主戦場の総司令官でした。
675年大分君恵尺(おおいたの・きみ・えさか)卒。近江軍を敵中突破、大来皇女大津皇子を近江から脱出させ、大海人皇子に合流させました。
ともに享年40歳前でしょう。
雄依、恵尺2人は壬申の乱の最大の功臣ではあります。死んだときには天武天皇から長い、心のこもった詔が下されました。
六国史の旅 天武チルドレン2 村国男依・上、近江を駆ける
https://4travel.jp/travelogue/11705308
六国史の旅 天武チルドレン4 恵尺・上:飛鳥、井手、鹿深、朝明郡
https://4travel.jp/travelogue/11773600
しかし馬手も吉野脱出後ただちに東国に駆け、東国の豪族に大海人皇子の出兵命令を伝えました。
日本書紀天武天皇上、
元年(672年)5月26日
★また稚桜部部臣五百瀬(わかさくらべの・おみ・いおせ)・土師連馬手を遣わして、東山道の軍兵のことに当たらせた。★
(P248)
東山道というと、信濃、甲斐、北関東の上野下野、当時最強の騎馬軍団です。
命令が来たところですぐに派兵できるものではありません。馬手はそれ以前から密使として東国を訪れ、大海人皇子の戦略を伝え、準備させていたのです。
雄依は戦場では、分散した近江軍に常に全軍で立ち向かい、各個撃破しました。損害を恐れない果敢な作戦でした。東国から援軍がくることを確信していたのであります。
隠れた馬手の功績です。
馬手はたぶん70歳近い。この時代では長生きしました。
しかし元明天皇からなんの言葉もかけられておりません。せめて持統さんが存命ならば、と思います。
壬申の乱から39年がたちました。
天武チルドレンの功績を覚えている人はもはやおりません。
すでに戦後ではなかったのです。 -
一書に曰く、
歴史の中の人々は、ヒーロー、ヒロインばかりではなかった。
ヒーローが亡くなったら、その遺骸を抱える人がいた。その衣服を替える人がいた。嘆く人がいて、なだめる人いた。
我々と同じ、普通の人がいたのですよね。
そして、御陵の造営をした人物がいたのです。
土師というからには、埴輪も造った一族なのでしょう。
神聖な特殊技術だと認められていたのでしょうか。
こんなに何代もの天皇に仕えたのですから。
きっと、高度な知識と、統率力をもっている人だったのでしょう。
なのに、政治上に出てこないところが、現代のエンジニアにそっくりで、だからこそ、浮き沈みなく生き抜いたのではないでしょうか。
現代でも、土師氏って名前聞きますものね。
雄依や恵尺とはちがい、地味な技術者でした。
壬申の乱以降、誠実に自分の仕事をこなしたのでありましょう。
その名が高らかに語られることはありませんでした。
飛鳥のプロジェクトXの技術者の一生でありました。
By妻
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